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2016-04-27

剥離と乖離

表現で剥離と使うと乖離と言い間違えたと指摘され誤用と扱われる。

しか乖離という表現一般的だと知った後でも、どうも剥離の方がしっくりくる時がある。

乖離淡々距離が離れていったイメージ

剥離は無惨にベリベリ剥がれ堕ちていったイメージで、そんなイメージから剥離を選びたいような気がしてきたりする。


(追記)

上記の文章を書く前に調べたら知恵袋で似たようなことを質問してる人がいてそこでも大体一般常識から~という論調ボコボコにされていた。

トラバ概念物理的かの違いは分かりやすく納得がいったが、ブコメは大体一般的から~とかい物言いばかりで、そういう話をしているのではないのになと思った。

選手の延々と永遠も、自分はやっぱり延々派だけど所詮ツイッターだし本当に「永遠」と言いたかった可能性もあるなと思うし、それが悪かというと悪ではないよなと思う。

彼の場合普段から色々と突っ込まれやす発言が多かったから強く言われてしまうんだろうなと思う。


常識とか一般的という考え方も危ういものだ。

そもそも言葉というものは元来変化していく前提の下にあるものだ。歴史がそれを証明してもいる。

文化言葉はいつでも発展途上にあるもので、だからといって古いものが悪いわけでもないが新しいものが悪いわけでもない。

古いものもかつては新しかったものだし、似ている意味の諺や慣用句がいくつがあるものもあったりする。

延々と永遠みたいなのも意味は容易に想像がつくし結果大半がほぼ同じ意味だととることができるだろうから片方が100点でもう片方を0点とするまでの差はないだろと思う。

正式で厳格な論文とかならともかく呟きや日記程度で堅苦しい言葉の使い方や使い分けを強要するのはつまらないなと思う。

(そもそも論文とかの方が一般的に分かりにくい表現文章になっていたりもするが)

果物普通包丁で切っている人に対して果物を切るとき果物ナイフしか使っちゃダメだというようなものだ。

文章を書いた者があえてその言葉表現を選んだ意図意味想像するのも一つの価値となるはずだ。


知り合いの英語教師から聞いた話だが、正しい日本語言葉の使い方だなんだとうるさく文科省指定したりするのは日本くらいで、

海外では野放しなので、日本が教える外国語と実際現地で一般的に使われる外国語に大きな差が生まれしまっているとか。

そんな中でも漢字語句の読み方というのは語句表現比喩用法よりも明確に正しいか間違ってるかが分かりやすく決めやすものだと思う。

しか現実には明らかな読み間違いですら常識化されて、それが一般的になってしまった例がいくつもある。

それに比べると表現語句用法というのは厳格でなくてもよく、個々の好みや裁量が広めに許されるべきだろうと思うが…。

ブコメでも文学的表現であればしっくりくる方を使えばいいというコメントがあったが、表現の話なんだからそういうことを言いたかった。


あとキャラクターシナリオの剥離の記事は書いてないし読んでもいないが、その場合にも意図によっては剥離使うのもありかと思う。

剥離はくっついてたものが離れるという意味というコメントもあったが、だからこそそっちが合うように思える時があるって話をしていた。

まあトラバ概念物理の話が本当なら乖離が正しいと思うが、既に結構よくある誤用例らしいし後に使用許可される範囲が広がっていくのかもしれない。

自分の言いたかった内容と大半のブコメ民の理解乖離していたので長々と追記を加えることになってしまった。

2016-04-24

http://anond.hatelabo.jp/20160423184004

面接テクニックとかじゃないけど、趣味を尋ねられたときにそれが余暇の過ごし方とかいうどうでもいいことを訊いてるんじゃなくて、

時間を割いてどんなものを得ようとしているか、実際に得ているものは何かを訊いているのではないかという思考に至るくらいの想像力必要なんじゃないのかと思った。

本を読んだら内容を考察したり書評を書いたりして残してる?

自分思考価値観はどう変化したか具体的な本を挙げて言える?

それとも文学的とまではいわなくても、書や表現に関して何か体系的なところに興味があるの?

本を読んで得た知識で何か作り出したりアウトプット出してるの?

実は本を読んで終わりなんじゃないの?

上のエントリみても全然そういうことに対する言及ないよね。

読書はたくさんしているのかもしれないけど、その割に言いたいことをまとめて、ちゃんと伝える方法を得られていないのでは?

本当に「趣味読書であることが鼻で笑われる原因なの?

2016-03-21

歴史的仮名遣いが苦手になったのは、どうも歴史的仮名遣いを使ってインターネット書き込みしている人たちの思想自分と相容れないから、ということがわかった気がする。

この「思想」は国語的というか文学的ものに限らず全般的もの

2016-03-10

陰茎を最も直接的に言い表すには

逆向きの発想はよくある気がする

陰茎の上手な言い回しは見かけるが直接的あからさまな表現はどんなのか

ポルノ的や文学的描写真逆をいきたい

男性ちんこ ちんちんちんちん ペニス 逸物 男性自身

どれもしっくりこない

性器シンプルに表すのがよさそう

2016-03-08

http://anond.hatelabo.jp/20160308155248

うん。そうだな。

だが、売れてウケまくってる、『ワンピース』と、図書館の隅でマッタク読まれない有名文学。どっちが高尚だ?

中身が高尚でもウケないんだなー今の時代

独りよがりもクソも、俺は有名文学的なダケなんだよ。

2016-02-28

研究に向いてない学生には全力で就職活動をさせたほうがいいと思うよマジで

今年の卒論修論が一段落した.そこで思うのあるが,研究室学生をみていると,学部修士博士を問わず研究(者)に向いているかってのは,かなり簡単に判断できるよな.研究者として就職できるかってなるとまたコネなど色々な要素が関連してくるので一概にいえないのだが,たとえば「こいつにファースト(筆頭)で論文を書かせて査読を通せそうか」あるいはそういう人間に成長しそうかってのはけっこう早い段階で分かる.

論文の元となる調査実験のものには失敗がつきものなので,卒論修論研究が頑張った割にいいものにならないってのは,運の要素もある.しかしそこはおいといて,「そこそこ意味のある調査結果が得られた場合に,通るんじゃないかと期待を持てる論文を書けるかどうか」は,レポートプレゼン資料論文を書き上げる際の態度みたいなもので,かなり判断できるのだ.

 

その態度というのは,昔から言われている平凡な真実なのでわざわざ言うほどのことでもないんだが,結局のところ研究目的,つまり「何を明らかにしたいのか」をしっかり考えているかということに尽きる.要は「問い」がしっかりしているかどうかということだ.

俺が学生を見るとき注視しているのは,振り返ってみると,

 

  • 先行研究を調べた上で立てている「問い」であるかどうか.まだ調べてない段階であっても,調べようという意識があるかどうか.
  • そいつの心のなかで,その「問い」が切実なものであるか.つまり本当に心の底から「知りたい」「明らかにしたい」と思って言っているかどうか.

 

の2点な気がする.「問い」が明確に定義されているかどうかってのも大事なのだが,それは結局,先行研究を掘っていく中ではっきりしてくるものだと(少なくとも俺が関わっている分野では)言えるので,上記2点をみていればだいたい学生資質は分かる.まぁ,見ていればっていうか,自然に見えてくるものなので,特に頑張って見極めようとしているわけでもないんだが.これらは,「目をみれば分かる」というと文学的すぎるがそれに近いものがあって,ちょっとした会話やメールの文面なんかにも如実に現れてくる.

 

 

それで最近思ったのは,上記2つの態度は,指導してもあまり変わらないんじゃないかということだ(もちろん人は変わることがあるので,見切りを付けるのが早過ぎるのも問題だが,多くの人がイメージするよりも早い段階で,簡単に見抜けるもんですよということをいいたい).

先行研究で既に明らかにされていることは何で,いま自分が取り組もうとしているテーマは先行研究から文脈上にどう位置づけられるのかが「気になる」かどうかというのは,かなり「性格」に左右される問題なんじゃないかという実感がある.真面目な学生であれば,調べろと言えば調べるのだが,言われなくても調べるorまだ調べて無いけどこれから調べなきゃという意識自分で持っている学生と,そうでない学生の間には,大きな壁がある.

また,「問い」が切実であるかどうかというのも,結局は「本当のところどうなのかが気になって仕方がない.だから考える」「人がまだ考えていないことを俺が考えて明らかにしてやりたい」という,ほっといても調査考察が加速していくような「性格」を持っているかどうかで,ほとんど決まる.

 

勉強が好きで,「研究者」という存在になることそのものへの願望が強い学生であったり,非常に優秀で要領の良い学生であったりしても,上記2つの性格」を本当に持ちあわせていない奴はけっこういる.そういう奴には,民間企業や,役所事務官技官を問わず)への就職を勧めることにしている.

たとえば,とても「知的」でしっかり教科書などを読んでいて,「研究」という活動に憧れを抱いているんだけど,自分の頭で考えたことが何か素晴らしいものであるとの思い込みが強く,他人研究を参照する努力を怠ってしまう奴がいる.少し調べると,自分ときの思いつきなんていかにショボイものであるかとか,すでに30年前から議論されているのだというようなことがすぐにわかるのに,それをやらない.

また,めちゃめちゃ頭がよくて努力を惜しまないのだが,何か本質的なことを「明らかにしたい」という願望を強く持っていない奴がいる.そういう奴は,たとえば大手コンサル会社などに就職すると,極めて有能なビジネスマンになっていたりするのであるが,研究職には全く向いていないのだ.

 

たとえば東大学部から大学院に来た学生は,地方国立やそこらへんの私大出身学生よりも優秀なことが多いのであるが,上記1と2を持ちあわせない東大生は,結局のところ研究者としては,それらを持ち合わせる他大出身者にかなわないのだ.東大生京大生は,不向きな道に勘違いして進んでも,脳のスペックである程度まで押し切ってしまうことも多いのだが,どこかで壁に当たるというか,研究に飽きてしまうようなことも多いように思う.(しかしなんだかんだで,旧帝大出身者のほうが,上記1と2を持ち合わせる学生が多いような印象はある.頭がいいけど研究者として使い物にならない学生は,上位私大に多いかな.)

※注記しておくと,オボ何とかさんみたいなのはそれ以前・以外の問題を色々抱えていそうなので,あまり興味がない.

 

 

それで,他の大学研究室教官に言いたくなることがよくあるのは,研究者としての見込みの無いやつに,研究者としての自分のやり方みたいなものについてくることを過度に期待するのはやめたほうがいいでしょということだ.学生本人がどんだけ優秀であっても,どんだけ「研究者」にあこがれていても,向いてない奴には全力で「民間就職」へ向けて頑張らせるべきだ.大学大学院研究の場であり,研究者としての姿をみせるのが仕事だと思っている教授准教授は多いのだが,研究に向いてる学生なんてそう多くはないのだから卒論修論適当にすませておいて,就職活動をがんばるようにと早い段階で言ってやったほうがいいのだ.

あと,研究者としての見込みがないことを見極められずに,うちの研究室学生を送り込んでくる他大の先生方にも困るときがある.まぁこっちは研究室としての学生受け入れの枠はけっこうあるから,最低限の水準をみたしていれば進学はさせるし,途中で化ける奴がいないとは言わないけど,どっちみち民間就職したほうが活躍できる人材には,手前の段階でそのアドバイスをしてやったほうがいいのではないか.

 

まあ,研究に向いてなくても,修士で2年間研究に取り組んだという経験が,企業に入ってからとても役にたったというような話はよく聞くので,そういうのを無くすべきとまで思っているわけではない.こっちは研究が本職だから研究に向いてないやつに指導をして,とりあえず学位をとって卒業するためだけの論文添削をしたりするのもダルいのではあるが,そうやって民間就職組の人生の糧になるようなものを与えてやるのも,大学人としての義務の一つだとは思っている.てか,そういう義務意識のない,研究世界に閉じ込もっているような先生に限って,学生の向き不向きの見分けが付かずに「無駄な進学」や「無駄ゼミ出席」を量産してるんじゃないかという気もするが,どうなんだろうね.俺はどっちかというと,「ゼミなんか出なくていいから企業説明会にでも行ってろ,単位学位ギリギリもらえる程度に仕上げるための指導はちゃんとしてやるからな」ぐらいの意識なのだが.

 

そういえば学部3年から就職活動をするのが,勉学をおろそかにしているとかいって問題化していたと思うが,それもそんなに大問題なんだろうか.たしか大学人としては,学生には,たくさんの論文教科書を読み,データとにらめっこしながらああだこうだ悩むような学生生活を送って欲しいという思いはあるものの,結局のところ研究に向いていない学生にとっては,「そこそこ以上の待遇会社就職できるかどうか」のほうが人生上のインパクトはるかに大きいのだから,もうそっち優先でいいんじゃないのかと思う.

最近進んできたように,企業が一致して就活期間を短縮すれば,同程度に就活を優先していても勉学に割ける時間は多くなるだろうが,「最初にどこに就職するか」はかなり大きく人生を左右すると思うので,就職について考える期間が長いほうがむしろいいという気がしなくもない.

というか,周りでも「就活優先でいいんじゃない?」派の人が多いので,新聞などで早期の就活問題だと書いてあっても,そもそもそんなの問題化してたっけ?という疑問はあるのだが.

だいたい,研究職についている先生方の中にも,学部自体は遊び呆けていて院に進学する間際でなんとなく勉強し,その後なんとなく大学に残り続けているって人はけっこういるぞ.そしてそういう人が,割と尊敬に値する研究業績を挙げていたりもするのだ.そういう先生方は,本質的研究に向いていたか宿命のようなものに沿って研究者として生き残っているのであって,「就活より勉学を優先したから生き残っている」というようなことは全くない.「この人が他人講義に真面目に出席して聴いてる姿なんて想像できない」って人だってけっこういるしな.

2016-02-07

愛だの恋だの性愛だの語る前になぜプラトンを読まないのか

田中美知太郎先生が凄すぎて、よくあんな原文からあそこまで文学的に読み応えのあるレベルまで持っていったという話に尽きるのだが。

今、はてブ増田でされている程度の話はすでに行われているというのを踏まえてほしいんだよな。何かさも現代コンテキストからと言わんばかりのサブカルっぷりだけど。

たいして変わってないっつーの。

2016-01-30

障碍者が健常者じゃない感覚を持つ、っていう理解

『27年間の疑問がようやくとけた(http://anond.hatelabo.jp/20160127233938)』

中二扱いってなったんだけど。

この感覚って本当に理解されないんだろうか。

  

自分医者なので、色々な障害病気を見てきた。

たとえば、「ありえないくらい関節が柔らかくなる」病気がある。

彼らは普通の人じゃありえないくらいユビや関節が曲がる。

そういう風な体だと、歩き方やもののつかみ方も、すべて普通の人と違う「オリジナル」になる。

  

これは別にこの病気に限ったことじゃなく、様々な病気で、色々な適応を見せる。

たとえば、COPDって病気でもいい。自然と彼らは口をすぼめて呼吸をすることを覚える。

普通感覚では口をすぼめて呼吸するなんて感覚にならないし、そんな人周りにいないだろう。

でも、彼らは呼吸が苦しいので、そういう風にやりはじめる。

そして、口をすぼめた生活をしてると、それに適応した感覚を持ち始める。

  

まれた時から場合

これもまた、それぞれの障害にあった形の感覚を取り入れる。

目の見えない人は耳が良かったりみたいな。

  

俺も場合も、他人と違う感覚に生まれてきた。だから違和感の正体は、まだ病気定義されていない部分での障害なんだろう。

結論つけたし、そういう風な医学的な解釈は様々な病気スタンダードになっている。

  

俺は、スカトロ理解できないし、ホモ理解できないが。それらを当たり前に理解して生まれつき持ってる人は、普通の人に無い感覚を持って思考生活普通の人と違う部分も多くなるだろうし。

そういうもので興奮する『普通でない感覚の源泉』を探ったりということもあるだろう。

これは普通理解できるはずだ。

  

こういう物凄く論理的な考えかたして導いたが。

増田的には、中二扱いなんだな。

  

逆に、ビックリする。文学的思弁とかって、こういう風な論理的オリジナリティとかが源泉なのに。

こういう俺の考えのオリジナリティを認めずに、中二とか、特別扱いされたいだけだろ、みたいなステレオタイプに落とし込もうとするのって、どういう現実理解してるんだろ?

いったい、何を勉強してきたら、そういう考えになるんだろうか。不思議

  

でも、こういう『一般感覚ではそういう風に思う人が多いんだな』ってのを知れるのもネットのいい部分ではある。

2016-01-28

女の与える幸せってリア充ノリすぎる

女が恋愛結婚だで与えてくれるらしい幸せとかって、リア充ノリすぎねーか?

昔の小説とか読むと、もっと文学的で地味な感じじゃねーかな。

短歌の返答とかは昔すぎるとしても、宗教的なノリとか、連理の枝とか、ある程度ノリとしては文学的だったように思う。

  

でさ。現在女が与えるらしい恋愛幸せとかって、ノリがリア充すぎる。

そういうリア充ノリ的な幸せを楽しめる男ってどれくらいいるんだろう。

男の感じる楽しさとかって、どっちかっつーと、アーキテクチャー的な。キモオタ電車撮ったり、ゲーム攻略したりみたいなノリじゃん。8割がたの男の楽しみってそうじゃねーかな。

だけど、ドキュンみたいな頭足りない奴はそういう楽しみできないからリアル充ノリでOKなのは分かる。

イケメンスクールカーストとかイケメン枠として女が流れてくるからリア充ノリ楽しめなくても女抱けるから別にリア充ノリは女が勝手脳内補完するんだろう。

でも、8割方の普通の男は、リア充ノリクッソつまらないと思うんだけど。

  

草食系ってそういうリア充ノリの恋愛に魅力感じない感じじゃねーのか?

2016-01-10

とりあえずパイドン饗宴読んでみろって

田中美知太郎先生がご自身文学的才能で意訳しまくった、パイドン読んでみって。青春時代のそれや、ちゃんと考えるそれの一部、そして愛とは何かがわかるからさ。

2015-11-19

http://anond.hatelabo.jp/20151119145752

「なぜ最初から文庫本で出さないのか? 」を書いた増田です。

質問の件に触れる前に前回の補足と今回の質問関係する部分をお話ししたいと思います。話が長くなって申し訳ないです。くどかったら飛ばして下さい。

ものには何でも「値ごろ感」とでも言うべきものがあり、それはその値段の歴史でおおざっぱに決まっているようです。原価や需給のバランスというのは経済学的には価格決定の要素として解説されるのですが、マクロにはともかくミクロ日常レベルではそこまでビビッドは要因にはなりません(人間の目は店頭で需給バランス可視化して見えるというわけではないですからね)。書籍で言えば文庫本って500円から1000円弱くらいだよなあ。ハードカバーって2000円から3000円くらい? そういう肌感覚です。もちろんこれは永遠不変のものではなく、値上げしたり値下げしたりがおこなわれ、受け入れられ日常化する繰り返しです。いまから10年ほど前、おそらく文庫本平均価格は50円ほど安かったと思いますし、僕たちが子どもの頃(というとばらつきがありますが)週刊少年ジャンプは200円を切っていました。

前回はなした「ハードカバー3000円ほどで売り出して、後に廉価版で700円ほどの文庫で出し直す」というのも、この値ごろ感が関係した結果です。最初から3000円の文庫でだし、部数が伸びるに従って値段を下げることは(少なくとも法制上や原理上)不可能ではありませんが、みなさんの「値ごろ感」が邪魔をして、3000円の文庫は購入してもらえないのです。なかには「いいや俺は本棚圧縮のために喜んで金を払うね」という方もいらっしゃいますが、それは少数派です。

さて、値ごろ感の話ですが「ハードカバーって2000円から3000円くらい」の本は売れます。多くは売れません。しかし少なくとも、その規格の本が現在でも毎月出る程度には、世間に受容されているわけです。「この大きさの商品に2000円から3000円くらいは払うよ」というのが一定読者層から理解を得られていると考えられます。それは文庫も同じです。文庫サイズで500円から1000円弱(じりじり値上がりしています)は世間に「まあ、そんな値段のアイテムだろう」と思われているわけです。パッケージと値段のセットはセットであって、たとえば「ハードカバー文庫の間の大きさで、値段も真ん中くらい」とか自由に決めてもなかなか浸透しません。書棚のサイズ問題や整理の問題もありますし、なにしろ値ごろ感は皆さんの内部の常識ですからそれを固定化するのに時間コストがかかります

角川ホラー文庫とかあとハヤカワとかの、

基本文庫で時々単行本ソフトカバーとかのレーベルってどういう戦略なんですかね?

さてやっとこの話が出来るのですが、「B6程度のソフトカバーで1000円~1500円程度の小説を売る」というのは、最近発明」されて「根付いた」新しい値ごろ感なのです。

いやいや昔からあったよ、という指摘もあるとは思いますが、いまほど安定できたのはごく最近のことだと思います。(さらに以前はカッパノベルスなどのノベルス判型があった地位なのですが、仮想戦記没落のあたりで徐々に廃れて行ってしまいましたね)

この新しい値ごろ感は、Web小説などをきっかけに広まったように思います(ここは私見です。きちんと統計などを蒐集すれば別の経緯かもしれません)。

新しい値ごろ感の発見というのは、そのまま、新しい読者層の発見でもあります。いってみれば「文庫しか買ってくれないと思っていたライトノベルユーザーが、少し大きめの判型であれば1200円だしてくれるのだ!」というエウレカでした。はっきりとした統計データなどはもっていませんが、現場の肌触り的な感覚で言えば、a)初期ラノベを読んでいた読者の皆さんが年齢を重ね可処分所得が増えた結果、1200円程度のレーベルでも購入してくれるようになった。b)すべての国内大衆小説が多かれ少なかれラノベの影響を受ける中で、文庫判型ではないライトノベル(の隣接したなにか)が要請された――などの実感を持っています

日常的に書店に行く皆さんであれば判ると思うのですが、ここ数年の間に書店ではB6判型ソフトカバーライトノベル的な書籍がふえていませんか? Web小説が主流ですがそれ以外の参入や、ボカロ小説と呼ばれるものや、自動文学的もの推理小説ライトノベルのハイブリットのようなものも見られると思います。それはこの「新しい値ごろ感」=「新しい判型と価格バランスポイント」が皆さんに受け入れられ、希望があると出版社判断たからです。もちろんそれが全面的に善だとはいいません。まだ固まっていない規格でぼったくってやれ、というような出版社レーベルがあるかもしれませんし、読者的には「文庫で良かったのに」と思われるかもしれません。

はいえ、新しいチャレンジなど10して1つか2つ成功すれば万歳ですから、この「B6ソフトカバーで1000円~1500円」というチャレンジは、最近出版業界では(かなり)成功した部類だと言えます

2015-11-14

最近ラノベ女の子女の子として書かなくなってる。きっと童貞が書いてるに違いない

いつもの

お馴染みのあのアニメを見てるんだけど、このアニメ見てるとテンプレラノベっぽさっていかにアホの子を出すかなんだろうな…と大真面目に思えてきた。昔から自分のことをかわいい理解した上で色気を振りまいてくる娼婦のような女子高生キャラはいたんだけど、最近テンプレラノベはそれよりも…ある時期までは「(自分かわいい・お色気を期待されている理解してる)娼婦のような女子高生」が出てくるラノベが増えていると思うんだが、最近はそれをさらに突き抜けて「男子中学生の恥ずかしさを詰め込んだようなアホの女の子を入れる(むしろ彼女達こそラノベらしさ)」になってない?



例えば、西尾維新(というよりも、この場合物語めだか)がラノベかどうかを議論する上で、ヒロイン娼婦っぽさとか設定の中ニっぽさに着目するならラノベよりもクサいからラノベカテゴライズしてもいい。でも、ある時期からハーレムラノベに出てくるアホの子はほぼ出てないから今の基準だと。僕が西尾維新が苦手(少なくとも、あんまり文学的だという評価をしたくない)なのはめだかボックス代表されるような「読んだだけでお腹いっぱいになるような中二」なんだ。ある時期までラノベには多かれ少なかれそういう雰囲気を入れるものだったが、最近のは形骸的に中ニという作品が増えた? 落第騎士で学んだことはアホの子萌えキャラにすると許されるというかいじりがいがあるという「可愛い子は正義」「オタク本質的にはフェミニスト女の子びいき)」ということだと思うの…。個人的感想から異論は認めるし、僕自身おかしな事言ってる自覚はある。落第騎士見てると頭悪くなりそーだけど、逆に言うとテンプレラノベ書いている人がなんでそんなことをするかを考えながら見てると「あー読者的にはこうだから、こうなってるのか」と感じることがしばしばある。頭悪そーなことには変わらないけど、自分が好きな作品ガチで語る作品はウケへんもん…


主人公唐変木すぎてセクハラにも相手から好意にも気づかないというラノベ主人公の設定って要約すると(というよりも、女性身もふたもないツッコミをするとするなら)「ガキ」なんだろうね。それも悪い意味ではなく、煩わしい性欲がない代わりに性を隔てるデリカシーもないという両方の意味で。すご~く変な言い方かも知れないけど、落第騎士ってホモアニメだと思ったほうが(登場人物全員男子で、男子校的な場所にいると思ったほうが)ぶっちゃけしっくり来ると思うんだよなぁ…。ちゃんと女の子らしい視点とか、キャラを持ってる人がいないし、女性目線入れると簡単に崩壊しそうな意味で…。女の子女の子として書く必要がなくなってると考えるとテンプレラノベって童貞でも…いや、むしろ童貞の方が書きやすい?男がかっこいい男を主人公とかすぐ死ぬキャラとして配置して、男子的な幼さは女の子に埋め込んでしまえばいい。あーそう考えると、女の子っぽさが何かとか考える必要ないわ。

ハーレムラノベドンドンヒロインの影が薄くなって、主人公が他の女の子には親身になって行くという現象学術的に言い表すと「クーリッジ効果ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF…)」と言っていいと思うの。浮気本能。新しい女の子は別腹!!


萌え豚フェミニスト ※半分はネタだけど、もう半分はジブリ社屋のトイレ女性のモノのほうが広い理由を尋ねられた時に「それは宮さんがフェミニストからです」と鈴木さん(だったかな?)が答えたのを元ネタにしてる



姫さんなんか言動の(斜め上な)色ボケっぷりを外して評価すれば、刑事モノとかアクション劇の“バディ枠”ですわね… 負けず嫌いが過ぎて時々逆噴射する熱血・正義漢だと思えばいいと。「男子中学生の小っ恥ずかしさを女の子に詰め込んでかわいいかわいいという系統キャラ代表格は柏崎星奈だと思う」的なことを1,2週間前ぐらいにいったらヴァーミリオンが肉っぽくなり始めてきた…。予想どおりっつうかなんつうか


禁書からずっと続いてる、ラノベ世界に都合よく湧いてくる悪役のヤンキーってなんなんだろう?悪く言うつもりかどうか以前にあいつらの存在自体が謎。本来フィクションの中で出てきたヤンキーって主人公一味よりは現実味を帯びたキャラクターのはずなのに、なぜかヤンキーの方が現実味がないキャラクターに感じて萎えるんだよなぁ…。アレなんでだろう?数日に一度は、近所でヤンキーらしき人見てるから「いない」とはおもってないんだけどなぁ。異能力使いよりも非実在性をヤンキー見出ししまうのはなんでだろうか?NPC的な割に人間味を見いだせないラノベに出てくるヤンキーほど謎なキャラクターも珍しい。舞台装置といえばそれまでなんだけど、もっとうまくやれないのかが謎。いや、下手だと感じるライトノベルしか出てきてないからヤンキーが出てきちゃう時点で下手くそラノベなんだけどぱにぽにとかパンストみたいにヤンキー楽屋裏で出演陣と楽しく盛り上がってないと整合性が取れないぐらいの舞台装置っぷりに困惑する現象を何と名付ければいい?

2015-09-07

最近塾講師始めたんだけど

いまさらだけど、受験勉強ってあん意味ないよな

東大京大数学とか、なんの役にたつんだよって思う


数学

実際、大学数学科に進んだやつの話聞いても、受験数学なんて分からんとか言ってる

大学でやるのは解析学とか線形代数とかそんなとこだろ

頭の体操はいいかもしれないが、大学でいらんもの社会ではなおさら必要ないと思う

新課程では行列無くなったらしいし、ますます何がしたいのか分からん


理科

はっきり言っていい加減すぎる

用語とか実際の現場では言わないだろって表現が多い

例えば、伝令RNAとか。メッセンジャーRNAだろ。伝令とか聞いたことない

電子軌道なんか簡潔にしてあって分かりやすいけど、実際は電子挙動高校化学で習うものとは違うわけだし

簡潔に表現したものを突き詰めて覚えなくても、大学でちゃんと覚えりゃいい


社会

一般教養としてある程度は必要だが、何年に何があったかとかどうでもいい

だいたいでいいだろ、そんなもの


国語

現代文文章の読解力を深めるためには必要だが、古文漢文って意味あんのか?


英語

色々ディスったが、英語はやっといた方がいいぞ

文法も必要

「文法教育無意味、話すのに正確な文法なんて必要ない」、なんて話もよく聞くが、デタラメ英語がどれだけネイティブイラつかせるか

文学的表現も時には必要だ。簡単な小説くらい、読めるようにしといた方がいい

単語熟語は覚えておいて損はないし、今じゃ使わないような古臭い表現もうっかり使って笑われたら、それはそれでユーモアで返せばいい

TOEICとかも単語は偏ってるし、あまりこった文法とかでないし、純粋英語勉強できるのは高校時代だけだと思う


意味ないとか言いながら、意味あるものもあるんだが、東大レベルまでやる必要性を感じない(英語以外)

やりたきゃ大学行って、その専門を突き詰めればいい

高校の簡潔に表した勉強を、アホみたいにやっても仕方ないし

関関同立MARCHくらいまでやっとけば、高校勉強なんて十分じゃないか?

東大生も、遊びたい盛りの高校時代をやりたくもない勉強に費やしたという努力と忍耐力は評価できるけどな

2015-08-30

http://anond.hatelabo.jp/20150829231502

エロゲの有名作品をいくつかやってみたけど、純文学前衛的な現代文学クロスオーバー自覚的に試みているような作品存在しないと思う。

文学的に頑張ってるエロゲ作品って海外ハードSFハイファンタジー、日本ミステリ新本格特に京極夏彦とか)等を美少女とのセックスや俺TUEE!系の中二病設定などの砂糖菓子コーティングした劣化コピーという印象だった。

しろ当時、文学に対して真面目でストイックオタクエロゲの作り手やユーザーを見下す傾向にあったと思う(故・伊藤計畫とか)エロゲイラストビジュアル方面にしてもハイエンド系に影響を受けた世代hukeなんかは自身ブログで「エロゲから絶対に影響を受けない」と拒絶の意思を表明していた。

そう言った事実から意識の高いオタクハイエンドブームを支持し、エロゲブームは絵が理解できない低リテラシーヌルオタク達のなんちゃって選民思想表明で正解だと思う。

ただKeyAirとかは文学的にポンコツで稚拙過ぎて逆にアンチ文学としてものすごい凄みを持ってしまった作品のような気がする(映画で言うと塚本晋也の初期作品のような)。

大多数は無垢で純粋美少女死ぬ単純明快な感動ポルノプロットで泣きながらオナニーするような豚野郎だったと思うけれど、ヒロインの名台詞永遠はあるよ」を始めとする要所要所の演出により稚拙いたる絵グラフィックを映し出すパソコンモニタの向こう側に永遠見出ししまナイーブ性格で高リテラシーオタクである沙村広明西E田がいたのも事実だ。

ただこれはヌルオタですらない俺の独断偏見なので。

もっとエロゲオタク事情に詳しいKanose大先生あたりに余裕ぶっこいてないでさっさと当時のムーブメントの詳しい解説反論をして欲しいですね。

http://anond.hatelabo.jp/20150829231502

エロゲが当時最先端だったかどうかは個人的には判断つきませんが、テキスト文学的とかそういう意味で目新しいことをやってる作品には出会った記憶はないかなぁ。

その媒体しかできない表現をするという意味においては、ゲーム特有の「ゲームオーバーになれば繰り返しプレイする」という特性から映画小説ではやりにくいであろう「繰り返しプレイすることで、プレイヤー視点で積み上がる記憶」というのを利用した作品は数多くあるので、そういうことを捉えて最先端と言っている方がいるのではないかと予想してみる(とくに10年前らへんはそういうのが流行ったように思う)

この手法開祖的なものはおそらく「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO(1996)」らへんになってくるのかな(1997-2007位が守備範囲なので間違ってるかも)

葉鍵や型月が槍玉に上がりそうな話題時代だけど、実際のところ売り上げと最先端だったかどうかとは関係ないと思うので。

Leafに関しては「痕(1996)」なんかで上記のゲーム特有プレイヤー視点による演出をやってるので、そういう意味では新しかったのだけれど(でもそれってそれ以前に弟切草(1992)があるしなぁ)

その他にエロゲ特有の目新しい手法というと、あと記憶にあるのはLiarsoftのForest(2006)くらいのものかなぁ。

これはエロゲ特有フォーマットである下部ウィンドウに表示される文章と、それに合わせて実際に再生される音声を異なるものにする事で、ある人物が実際にしゃべっている事と内心考えている事を同時に表現するというような手法だったり、ウィンドウ幅を意識して単語の途中で改行がかからないようにするといった手法だったり、エロゲフォーマットを最大限使った表現を試みたものかと。

エロゲ(ビジュアルノベル)の枠というのは特殊フォーマットで、映像文章と音が存在していて、しかしながら字幕映画とも小説とも異なる(字幕映画にはない地の文があり、小説にない絵と音がある)という事を最大限に活かそうという、表現手法発明への挑戦みたいな事じゃないかと。(あまり文章上手くないので僕の説明だといまいち伝わらないかも/だれかこの辺綺麗に説明できる人おらんか・・・)

一部では評価されたものの、それがメインストリームであったわけでもないし、また、エロゲ支持層がこのへんの作品を取り上げて「エロゲオタク最先端だった!」と言ってるわけでも無いと思うので、本論にはそぐわない話になってしまたかも。

テキストエクストリーム試みたというよりは、エロゲ界隈のクリエイターの先鋭はエロゲフォーマット自体研究していたように思う。

欲してる内容と違ってたらゴメンとしか言いようがない(トラバミスるし)

2015-08-26

読まず嫌いではない。

ある種のサブカル漫画小説が嫌いだ。

増田から名前言っちゃうけど、浅野いにおとか田口ランディが嫌いだ。

前少し読んであまり近寄りたくないなって思ってたけど、完全に嫌いになった。

主人公に浅はかな悪口を吐かせたり、やんちゃさせつつ、主人公もっと深い闇を抱えてるらしきことを示唆したりしてさ。

誰かを殺す夢を見たりとか、実際に誰かに暴力をふるったり殺しちゃったりとか。気持ち悪い宗教がでてきたりとか。誰かと誰かがセックスしてるのを見ちゃったりとか。アブノーマルセックスしたりとか。そういうのを生々しく描写してさ。

こんなクズみたいな僕を愛してくれる人と一緒に罪を背負って生きていく、みたいな。

主人公もそれなりに悪いけど世界もっと悪い。でもそんな世界からこそ美しい、みたいな。

ほんっっと生理的に受け付けない。

人間臭さ」の度が過ぎてる。吐くほどの悪臭って感じだ。澱んでるし、酔ってる感じがする。

というか現実世界、こんなに酷いかな?見方が歪んでるんじゃないですか?

暴力とかセックスとか世の中のタブーとか、その他何か汚い物とかを、いい感じの思想と一緒に混ぜて作品にすれば文学的になると思ってる感がある。

実際はセンセーショナルインパクトのある題材じゃなきゃ何も語れないんじゃないかな?なんて思っちゃうよね。

どこがいいのか理解したくていくつか作品読んだけど、作風が一緒だし。

もう勧められても読まない。終わり。

2015-08-04

http://anond.hatelabo.jp/20150804002329

棄てられた冷蔵庫って昭和ロマン臭あるし個人的には悪くないと思うよ。

それがダンジョン名なんでしょ?ふつうはつけないよね。

奇抜性狙ってるのかもしれないけど、そういうダンジョン(つめたそーな)だって仄めかしてるし、じゅうぶん文学的だと思うよ?

(やったことないけど)

2015-08-03

ワイルドアームズより文学的ダンジョン名ってあるの?

記憶遺跡

散歩する庭園

風の海のエピタ

カ・ディンギル

雷音の檻

棄てられたリフリジレイター

絶対幸運

トラペゾヘドロン

背塔螺旋

いつか朽ちゆくモノ

錯綜する迷図

仄昏き根の路

彷徨えるセレステ

天地を分つミムクリルゥ

遥かに掲げし決意の塔

廃棄ブリッジXdXS


オサレ感あるよな

2015-07-03

http://anond.hatelabo.jp/20150703110132

やばい。これは本当に泣ける。

蹲り地面ばかりを見ている視野自身の影ばかり見つめ遥かな理想はもう空想の域を超えた願望と化して墜落し勝手絶望している様が、話しかけてくる人物が男性であることと無骨な語り口調で伺える。

事情を飲み込んだ男性の説明が自身立場および経験から協調同和にて語るのもその人物の背景説明につながる導線となる先に悲しみが予想され切なさを誘う。

人が生命として活動する基本を関係同意にしようと要望する下りから世界が急転する。

女の子自分の影の中の世界ばかりみて勝手絶望し触れもしない外界に絶望していたのが、こんどは勝手他人容姿絶望し始める。

女の子自身の生きている意味は何なのか、目的は何なのか、女の子という存在はその存在たらしめる世界において何なのかという問い、存在自体への回答をすべて投げ捨てて意味のないものとする瞬間。

まさに自殺のもの

否定文を作成するたびに存在意味理由が失われていくその様。

選択肢作成する要因が自分ではないという自殺

自分でなにも選べないという自殺

自己殺害するという殺人行為も起こせないという状態。

完全に自殺していた、という状況。

他人にさそわれて、他人の主導で選択肢作成誘導されるままについていくことが自殺回避になるという幻想を打ち砕くもの

人が人の姿でありあるがままを問うたら、発生した初めての選択。

初めての自己価値。初めての世界観

女の子は断るという選択肢を得て、自分の足で自分選択肢をもつことができたという段階への移行。

本当に世の美を救い成り立たせ希望をもたせているのは世にある不細工であるということ、目に映る像とは影があるからこそ認識できるということ、夜のない世界地獄だということ。

光と影が表裏一体などという単語は知りえていてもそれを理と理解するにはほど遠い難解なたとえをさらりと体現する。

そして全体として、視野狭窄にあった自意識過剰女の子は、世界を見て世界を知り世界にむかって自己存在を選択するということで立証していくことになる。

けれども、それは自分は着せ替え人形お人形さんのようなものヒロインプリンセスになるだろうという幻惑に囚われたまま、世界存在認識乖離していくがままとなる様子もうかがえる。

世界の美であるもの、かわいくあるもの理想郷へと不細工により追い立てられ、他人に指図されるしか選択肢を持ち合わせていないものほど自分意思があると強調し反発をするという比喩がたったこれだけの中に凝縮されている。


たったこれだけの文字で文学的価値のある表現はそうあるものではない。

2015-06-27

僕の彼女露出狂

彼女はいつも遠まわしにツイッターに書く。

「はあ、またゲームばかり」

ウイニングイレブンプレイしながら合間に携帯ツイッターを覗いた僕の手は止まった。またこれか。

彼女は言いたいことを直接言わない。なぜか遠まわしにツイッターを経由して言うのだ。

ゲームばかりで私に構ってくれない、どうして?そう言いたいのだろう。けれども、直接は言ってこない。

「いつも返事が遅いのは私のことなんてどうでもいいから?」

そんな言葉彼女ツイッター投稿される。

こういった発言の一番卑怯なところは、どうにも返答しようがないという点だ。

「返事が遅くてごめんね。やっぱ会議中とか携帯見れないからね」

と返答すれば済む話だが、それも変な話なのだ彼女ツイッター発言に返信したり、あるいは直接返答をしてはいけないのだ。

この種の彼女発言は、あくまで僕が見ていない、見れていない、という前提で成り立っているのだ。見ているのは知っている。けれどもその建前なのだ。僕に言ってるんじゃない、中空に言ってる体裁に近い。それに返答するのはおかしい話、そんな暗黙の了解が成り立っている。

別に返答したところで彼女拒否するわけではないだろう。ただ、自分の満足する返答でなかった場合、「そういうつもりではなかった」という逃げ道を準備しているのだ。

「ごめんね、仕事から

そう言えば、彼女

「うん、わかってるよ、仕事から仕方ないよね」

とでも理解ある彼女演出するだろう。「いつも返事が遅いのは私のことなんてどうでもいいから?」なんて発言は、別に構って欲しがりの面倒な彼女みたいな発言ではない、別のものに向けた発言だという顔をするだろう。

仕事から仕方ねえだろ!ふざけんな!」

ありえないが、烈火の如く怒ったらだどうだろう。決定的に破綻するまで怒ったとしたら、彼女も開き直って。

別にあなたに向けた発言ではない」

というだろう。大道芸を見るとき自然形成される人垣。その少し離れた場所にできる人垣的な距離感立ち位置でいくつもの逃げ道を用意しているのだ。なんにせよ彼女発言卑怯だ。

それに、矛盾しているかもしれないが、本質的にはこれらの発言は僕に向けているわけではないのだ。

「はあ、今日ドタキャンです。仕事から仕方ないけどね。夜景が見えるレストランはおあずけ」

あのときは本当に申し訳ないことをした。でも、この彼女ツイッターからは様々な物が見え隠れしている。

まず、彼女ツイッターで「彼氏がいる」とは宣言していない。どうやらわざわざそんな宣言をするのは恥ずかしいようだ。けれども、周囲にはそうアピールしたいようで、こういった思わせぶりな発言が多い。

この発言だって、まず彼氏存在彼女の231人いるフォロワーに仄めかす意図が介在している。

そしてその彼氏仕事が忙しいほどのエリートである可能性を匂わせ、夜景が見えるレストランデートする充実っぷりを香り立たせ、それでも仕方ないと納得する理解ある慎ましい一途な彼女としての立場アピールするのだ。

僕はこういった彼女ツイートを「露出狂ツイート」と呼んでいる。とにかくアピールしたくて仕方がないのだ。とにかく231人に勘ぐって欲しいのだ。彼女のことは好きだが、これら露出狂ツイートにはイライラして仕方がない。

一度そう思ってしまうと、彼女ツイート全てが露出狂ツイートに思えてくる。

今日は帰りに図書館に寄って帰ろう」

文学的可憐少女であるアピールしている。実際には何も借りてない、本も読まない。村上春樹だって1/3くらいよんで本棚に投げっぱなしだ。

雑貨屋さんで見つけた小さなウサギの置物。癒されるー!」

さなものが好きなカワイイアピール。そんな小物の癒しマッチするオシャレな部屋アピール。実際には散らかっていることが多い。鏡の後ろに落としたツケマが見つからないくらい乱雑なことも。

今日カフェハナちゃん女子トーク!もりあがったー!」

仲の良い女友達もいるアピール。同性にもちゃんと好かれているアピール。実際には別の友達にはハナちゃんの悪口を言っている。

今日ママから手紙着てた。懐かしくて涙出ちゃったよ。実家にもずいぶん帰ってないなあ」

親思いアピール。そんな郵便物は届いてない。親との仲もそんなに良くない。

最近ストーカーに狙われて困ってます。怖いよ。警察とかに相談したほうがいいのかな」

ストーカーに狙われるほどモテるいい女アピール

「怖いよう、どうしよう」

か弱き女アピール。怪しいやつはブロックすれば済む話、そう言ってるのにアピールは止まらない。

「うん、マサトに相談したら変な人はブロックしたほうがいいっていわれた。怖いもんね。マサトありがとー」

頼れる彼氏、的確なアドバイス、こんなにも周りに恵まれてるんです、私。

もう彼女は完全に露出狂だ。

ネット上の理想自分現実とのギャップ無視し、極度に理想の部分をアピールする。それは普段はトレンチコートを着てて、すれ違いざまにババッとやる露出狂とそんなに変わらない。

けれども彼女気持ちも分かるんだ。インターネットSNSをやる目的なんて、アピールしかない。アピールしてなんぼだろ。偽りの理想自分アピールするだけだ。直接的にやると下品から遠まわしにやる。それだけだよ。

から僕もツイッターで遠まわしにアピールする。

大丈夫かなあ。心配だな。ストーカーとかまじ心配仕事が忙しくてなかなか会えないけど、なんとか時間作って会えるようにしないとね」

そうツイートする。彼女に向けて、僕のフォロワーに向けて。僕だって露出狂だ。

でもきっと、彼女には届かないんだろうな。仕方ないからツイッターアカウントログアウトして、また今日彼女ツイートを見に行くんだ。今日はどんな露出をしてるのだろうかと。

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