はてなキーワード: 文学的とは
『“文学少女”』シリーズは、本が大好きすぎて食べてしまうと自称する遠子先輩が、身の周りで起こった事件に文学的な妄想で挑んでいくミステリ作品である。彼女は事件を解決するにあたって、当然のように文学作品を引用する。何故なら、彼女の周囲で発生する事件は、常に文学作品をなぞらえたものだからである。真相を自供する黒幕は、文学作品の登場人物に同一化した自分の心情を滔々と語る。もちろん、その現場には文学的知識に欠けた間抜け野郎は一人もいない。
それらを読んで私は思ったものだ。
何やこの世界、と。
読書は数ある趣味の中でも至高のものであり、そうでない人間は野蛮だという雰囲気に。
本が好きだと嘯きながら、その読み方や語り口は色恋沙汰に目がないゴシップ好きの中年女性と大差ない俗物の文学少女に。
感想を他者とは共有しづらい「味覚」を媒介に垂れ流し、萌え豚よりも動物的に本を消費する文学少女の姿に。
それらの中に、本読みの無自覚な自己肯定と高慢さが透け見えるようで、反吐が出そうだった。
『“文学少女”』シリーズはかように本好きの自己肯定の願望を充足させるために特化された作品シリーズである。シリーズを通して、読書は無条件で肯定され称揚されるものという思想が通底しており、それが現在進行形で本を読む者の自己愛を満たしてやまない構造となっている。
また、私は野村美月の書く恋愛描写も嫌いである。彼女の作品には、「押しの強い男が受動的な女を連れだし幸せにしてくれる」という形式が、手を変え品を変え現れている。デビュー作である『赤城山卓球場に歌声は響く』から始まる『卓球場』シリーズでは主人公の女子大生視点から、友情や友人婚約者へのドキドキ感を描いている。続く『フォーマイダーリン!』では男を振り向かせるために自分を磨いて待つ少女が描かれている。野球では女教師が不良生徒に迫られ、『BadDaddy』シリーズでは男くささとは無縁の父親が、父性と庇護欲を全開でヒロインたる娘を愛してかかる。『“文学少女”』シリーズでは群像劇の色合いを強くし、そこらじゅうでメンヘラモドキが男に救われるのを待っている。
初期作品群ではシンプルな形で流れていた、強い男を待つという構造が、筆力の向上と合わさってより巧妙かつ露骨な形で物語のメインの骨組みとして現れるようになるため、順を追って読んでいくと徐々に苛立ちが強くなっていく。ミステリなりハーレムものなりに変奏してるものの、そこに繰り返し描かれているのはド直球のシンデレラ願望である。源氏物語をベースにした『ヒカル』シリーズでは、さらに一人の男性キャラクターを魅力的な女性キャラクターが取り巻くハーレムものの構造が重ねることで、その訴求力をさらに高いものにしている。
本を読んでいるだけで褒められる子供時代はとうに過ぎ、世間は本を読む人間には意外と素っ気ない。
待てど暮らせど王子様は迎えに来ない【ルビ:Some day my prince won't come】。
我々は自己肯定を切り崩し、現実を生きながら、せめて虚構に夢を見る。
野村美月は、そんな世界に生きる我々が抱く「こうだったらいいな」に巧みにアプローチし得る作家である。彼女の選び出す場面は陳腐でありながらセンシティブで、多くの人の心を捕えて離さない。私は彼女の作品を読む間、間違いなく赤城山で友の手を取り、帚木の咲く地で亡き思い人を見た。作中人物の情動は素朴でありながら率直であり、揺さぶられてしまう。ぱっとしない女の子への感情移入をフックにひっかけられ、気が付いたら魔法にかけられている。好きでもない白球を追って胸を高鳴らせている。
こんなにも嫌いなのに、こんなにも満たされたくないのに、彼女の作品は私を捕えて離さない。
『“文学少女”』シリーズは、本が大好きすぎて食べてしまうと自称する遠子先輩が、身の周りで起こった事件に文学的な妄想で挑んでいくミステリ作品である。彼女は事件を解決するにあたって、当然のように文学作品を引用する。何故なら、彼女の周囲で発生する事件は、常に文学作品をなぞらえたものだからである。真相を自供する黒幕は、文学作品の登場人物に同一化した自分の心情を滔々と語る。もちろん、その現場には文学的知識に欠けた間抜け野郎は一人もいない。
それらを読んで私は思ったものだ。
何やこの世界、と。
読書は数ある趣味の中でも至高のものであり、そうでない人間は野蛮だという雰囲気に。
本が好きだと嘯きながら、その読み方や語り口は色恋沙汰に目がないゴシップ好きの中年女性と大差ない俗物の文学少女に。
感想を他者とは共有しづらい「味覚」を媒介に垂れ流し、萌え豚よりも動物的に本を消費する文学少女の姿に。
それらの中に、本読みの無自覚な自己肯定と高慢さが透け見えるようで、反吐が出そうだった。
『“文学少女”』シリーズはかように本好きの自己肯定の願望を充足させるために特化された作品シリーズである。シリーズを通して、読書は無条件で肯定され称揚されるものという思想が通底しており、それが現在進行形で本を読む者の自己愛を満たしてやまない構造となっている。
また、私は野村美月の書く恋愛描写も嫌いである。彼女の作品には、「押しの強い男が受動的な女を連れだし幸せにしてくれる」という形式が、手を変え品を変え現れている。デビュー作である『赤城山卓球場に歌声は響く』から始まる『卓球場』シリーズでは主人公の女子大生視点から、友情や友人婚約者へのドキドキ感を描いている。続く『フォーマイダーリン!』では男を振り向かせるために自分を磨いて待つ少女が描かれている。野球では女教師が不良生徒に迫られ、『BadDaddy』シリーズでは男くささとは無縁の父親が、父性と庇護欲を全開でヒロインたる娘を愛してかかる。『“文学少女”』シリーズでは群像劇の色合いを強くし、そこらじゅうでメンヘラモドキが男に救われるのを待っている。
初期作品群ではシンプルな形で流れていた、強い男を待つという構造が、筆力の向上と合わさってより巧妙かつ露骨な形で物語のメインの骨組みとして現れるようになるため、順を追って読んでいくと徐々に苛立ちが強くなっていく。ミステリなりハーレムものなりに変奏してるものの、そこに繰り返し描かれているのはド直球のシンデレラ願望である。源氏物語をベースにした『ヒカル』シリーズでは、さらに一人の男性キャラクターを魅力的な女性キャラクターが取り巻くハーレムものの構造が重ねることで、その訴求力をさらに高いものにしている。
本を読んでいるだけで褒められる子供時代はとうに過ぎ、世間は本を読む人間には意外と素っ気ない。
待てど暮らせど王子様は迎えに来ない【ルビ:Some day my prince won't come】。
我々は自己肯定を切り崩し、現実を生きながら、せめて虚構に夢を見る。
野村美月は、そんな世界に生きる我々が抱く「こうだったらいいな」に巧みにアプローチし得る作家である。彼女の選び出す場面は陳腐でありながらセンシティブで、多くの人の心を捕えて離さない。私は彼女の作品を読む間、間違いなく赤城山で友の手を取り、帚木の咲く地で亡き思い人を見た。作中人物の情動は素朴でありながら率直であり、揺さぶられてしまう。ぱっとしない女の子への感情移入をフックにひっかけられ、気が付いたら魔法にかけられている。好きでもない白球を追って胸を高鳴らせている。
こんなにも嫌いなのに、こんなにも満たされたくないのに、彼女の作品は私を捕えて離さない。
テクスチュアル・ハラスメントでキーワード検索すると一番上に出てくるこの記事
http://www.flet.keio.ac.jp/~pcres/gender/reviews/textual.html
「慶應義塾大学文学部の巽研究会公式ホームページ メCafe Panic Americanaモ」のブックレビューページらしいんだけど。
そんなテクスチュアル・ハラスメント裁判なんて言われても知らんよという人のためにざっと説明すると、評論家兼翻訳家兼野村総研研究員である山形浩生氏が97年に出版された『オルタカルチャー 日本語版』の中で
そもそも小谷真理が巽孝之のペンネームなのは周知で、ペンネームなら少しは書き方を変えればよさそうなもんだが、そのセンスのなさといい (名前が似ているとか年代が同じとか、くだらない偶然の一致を深読みしようとして何も出てこないとか)、引用まみれで人を煙に巻こうとする文の下手さといい、まったく同じなのが情けないんだが、まあこれはこの種の現実から遊離した似非アカデミズムに共通した傾向ではある。
このレビューの序盤が文学的な皮肉?諧謔?で、山形氏の記事は名誉毀損であるっていう理屈は、私にはさっぱり判らない。
裁判で勝って名誉毀損に対する賠償金を受け取った相手に対して、さらに公式ページを使ってちょっかい出すのはかなりお行儀が良くないと思うんだけど。
大学院入るまで英語すげー苦手だった。というか、今も話すことはほとんどできない。でも読むのは結構抵抗なくすらすらできるようになった。
なんでかって論文読むから。最初は苦行だった。でも内容が興味あることだし、読むものはたくさんあった。たくさん読んだら結構読み方がわかってきた。
やっぱり日常的に読むようにするといいんだろうね。でもまだ物語みたいな文学的なのは読めないし、会話はぜんぜんできない。触れる機会が少ないから。
小さいうちから日常的に英語に触れさせることで英語は得意になると思う。
ただ、試験問題にすると楽しんで読む気持ちが失せるからダメじゃないかなあ、とも思う。
試験が好きな変態はいいかもしれないけど…。楽しむにしても文章を読むことより、試験問題を効率よく攻略する方に意識が集中しそうだ。
っていうか、こんなエントリ書くならもう少しブクマ稼いでからやればいいのに。
この人、発言小町の釣りから増田の釣りに過渡できなかった感じ強いな。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20140408134649
この人もコマッチャ式釣りメソッドを増田に最適化した感じだけど、
増田はどちらかというと冗長さを愛する人たちだと思うんだよな。
無駄の無い釣りはそれはそれで様式美なんだけど、様式美だけでは爆釣はむずかしい。
文学的(?)で奇麗な長文を書ける人ってさぞ頭がよくて、奇麗なコードをかけて優秀なソフトウェアエンジニアだと思っていたけど
先日退職したエンジニアは、奇麗な文章は書けるがコミュニケーション能力とプログラミングスキルと自習スキルのない35歳定年のおっさんだった。
そのおっさんは自称ブロガーで、「ぼくはブロガーだからブロガーバックを使っているよ(キリッ」という感じで、メディアに踊らされていたように見えた。
何はともあれ、そのおっさんは二ヶ月前に自主退職していった。自分を含めたエンジニアから評判がすこぶる悪く給与を下げらて生活が苦しくなった(おっさん曰く)からだ。
転職先の内定を獲得した退職間際に、「ぼくは退職する時にヘッドハンティングに2件ほどあったんだけど、入りたい会社に入れたよ。」みたいな感じに言ってて拾う神はいるんだなと感心した。
自分は若いしエンジニアの人と全然知り合っていないけど、長文書けてプログラミングもできる人はいると思うけど例外もいるんだなということがわかった。
文学的・・・とは思わなかったが、「少女とギャングと青い夜」は面白かったよ。
30歳ちょい過ぎの俺にはあの、学校に立て籠もって、警察たくさんってところは、
野島伸司の「未成年」を思わせて、なかなかグッと来るものがあった。
ブックマークの人も、詳しいなら教えてくれると助かるが。
ドバトの「少女とギャングと青い夜」とかは良かったけどあんまり多くない。
でも少ないことを卑下して他をけなさず、ストーリー重視のエロ漫画をどんどん有難がろうぜ。
前は、エロゲーっていうのは「オナニー気持ちいい、資格とかに訴えるしセックスで欲望満たせるし!」みたいな感じだった。エロが第一だろうって。
だが一方で、『cross†channel』みたいな文学的なエロゲーも面白いなあくらいには思っていた。
しかし、萌え系のエロゲーはハッキリ言ってよくわからなかった。正直な話、ヒロインが頭悪いって思った。絵本の絵でエロをやられても抜けないじゃん。くらいに思っていた。
つーか、萌えたいなら、ギャルゲーやれっておもった。アマガミでもやってれば?まあまあ面白いよね。でも小説とかのほうがはるかに面白いけどw くらいに思った。
が、が、が、しかし、、、、。何本かやってみて、ようやくわかった。
「リアルじゃ絶対ない恋愛」これだったんだ。文学ではこんなくだらない凡人の欲望なんか満たしてくれない。
アマガミレベルだと、きっちりしすぎて、なんつーか、社会性っつーの?まじめすぎるんだな。
もっと、完全に萌え豚に媚うった100%のブドウ糖みたいな、完全に知能指数0で楽しめる完全に原始的に萌えブタだけな感覚で浸れる空間。
これなんだよ。
絵本みたいな感じっていうのは逆に言えば、原始レベルで享受できるってこと。幼稚園生が紙芝居を楽しむノリで楽しめる。
しかも、エロゲーは結構時間かかるのがいい。「20時間付き合っていちゃいちゃした女の子とセックスしてるんだぜ?」っていうのは、スゲエリアリティになる。本当にこんなかわいい子と付き合ってるんだぜ!って脳みそが勘違いする。
これなんだな。
思えば、俺がエロに走った最初の動機は、エロ漫画で文学的なものが好きだったから。
現在のエロ漫画って、もう完全にエロだけってのが多いんだけど。
ちょっと前はゴージャス宝田、もう少し前は小林少年丸、もう少し前は栗田勇午、もう少し前のエロ漫画はかなり文学じみていた。
そういう感じの変質的なエロ漫画なり猟奇的なエロ漫画。 現在ではハッチとか、グロだけど実装石とか、個人の凌辱絵とか。
そういうのだったのに。
今ではどーも、如月群馬とか、そういうのになってしまった。エロ同人ではかなりいい感じのもあるけど。少ない。
そういう古流エロを呼び覚ましてくれるのが、萌えエロゲーだった。
ラノベも、最近は本当に軽くなってしまった。スレイヤーズあたりのころは、SFとか精神的なダークなものをちゃんとやっていた。今は本当に軽い。設定一発だけじゃないか。
私は原作の漫画は読んでいませんが、アニメは毎週兄と一緒に楽しく見ていたのでその感想を書いてみます。ネットでこころない大人たちによって叩かれすぎだと思うのです。すくなくとも私の周りでは大人気ですし、時代についていけないセンスのない大人たちが若者文化を叩くのを見ると私はとても悲しい気持ちになります(いつの時代もそうだったのでしょうか)。
私はこの作品に触れて、作品内容が類似しているかどうかはともかくとして、アルベール・カミュ『ペスト』、ジーン・ウルフ『新しい太陽の書』、スティーヴ・エリクソン『Xのアーチ』、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、安部公房『飢餓同盟』、大江健三郎『万延元年のフットボール』などを思い出しました。『進撃の巨人』はこれらの小説のどれにも劣らない深みと非常に高いクオリティを持った稀有な少年漫画なのだと思います。その作風はアニメを見る限りたしかに単純で素朴で荒削りですが、作者の諫山創先生は、世間にあふれる自意識と自尊心だけは一人前の凡庸な作家たちが血も滲むような努力をしたところで一生得ることのできない文学的センスというものを無自覚のうちに獲得していらっしゃるようにわたしには思えます。
壁の向こうには海があって、海には宝とも言える塩がたくさんあるとエレンとアルミンが目を輝かせて会話するシーンがあったと思います(アルミンかわいい!)。壁の外に真の楽園を夢見ながらも、壁の外の脅威=巨人によって偽りの楽園である壁の内側にとどまるしかない人類。そして偽りの楽園は日々縮小傾向にあり、もはや人類は楽園という夢想を捨て現実に立ち向かう必要に迫られています。もし外からの脅威によって人類の生活圏が縮小しないのなら、人類はこのまま壁の内に閉じこもったまま、一種の自己欺瞞によって自らを制御し動かしながら、秩序を維持することに一生を捧げていたでしょう。そうした変化のない永遠の倦怠ともいえる世界では、いずれ歴史が失われ、始まりも終わりもない空白の永続状態だけが文字通り無意味に残る、いや、それは記録されないので残るというよりは虚空に漂うことになるでしょう。しかし『進撃の巨人』の世界では人類は変化を迫られました。そしてその変化を迫ってきたのは、脅威=巨人なのですが、その巨人とは人類自身だったというわけです。
現状を打破せよ変化せよという声なき声、暗号を発しているのが巨人ですから、巨人とは人類の無意識の飢餓感、欲望のメタファーだと思います。そして人類は自らの欲望の代理人である巨人と戦わなくてはなりません。これは自己矛盾をはらみます。人類はみずから欲望をいだき(巨人を生産)、みずから欲望を抑圧し(巨人を駆逐)、みずから破滅します。いつしか人類の欲望は敵となっています。それは生への意志を否定するものです。みずからの欲望が真の楽園への道を閉ざし、日々縮小する偽りの楽園において鬱屈とした毎日をゾンビのように送るしかなくなっているのです。原始においては槍で戦うしかなかった人類が、科学技術が進歩したことによって、核兵器や生物兵器などのとんでもない力を生み出すようになってしまいました。長い歴史にわたる真理の探求と知識への欲望が私たち人類の生活を豊かにし明るい未来へと導いてくれるはずでしたが、洗練された人類は新たなそれまでとは比較にならない圧倒的に暗愚で野蛮な状態に陥ってしまったのです。巨人に性器がないのは必然で、それは人類の欲望なき欲望だからです。欠如によってしか私たちは未来を示すことができなくなってしまったのです。
そんな行き詰まった世界で人類はどうやって生きていったらいいのでしょうか。巨人を完全に駆逐したとき人類は絶滅するでしょう。これは勝利なき戦いです。かならず負ける戦いです。私たちに突きつけられたこの運命に私たちはどう立ち向かうべきでしょうか。友情によって? 愛によって? 暴力によって? 狂気によって?
現代社会ではみなそれぞれが不安をかかえて生きています。それは生存の不安です。自分の不安に無自覚でいることはもはや許されません。人類の足場はもろくも崩れ去ってしまい、そうしたなかで人類は原始への回帰、裸で樹上生活をしていたころに戻ろうと、立体機動装置で最後のあがきをこころみるのです。これだけの技術力がありながらどうして他の兵器を作らなかったんだという批判がありますが、腰部から射出されるアンカーが射精のメタファーだということを考えればそれが無意味な批判であるということがわかります(そもそも巨人の完全駆逐は目的ではありません。巨人を完全に駆逐したとき人類は絶滅するからです)。人類はアンカーを射出しなければならなかったのです。それが人類の見た最後の夢だからです。かつて液状で運動性に優れていた精液はこの時代においては外的要因によって働きかけられないと動かない冷たい鉄になってしまいました。それでも人類は去勢不安を打ち破るために重い腰を上げてさびついたアンカーを射出しつづけなければなりません。それはまさしく不条理な悪夢ですが、しかしこれこそ現代の私たちがおかれている状況というわけです。
現代は論理的な未来予測というものをつねに逸脱し飛躍し暴走して、私たちの手の届かないところに行ってしまいます。私たちは世界から疎外され置き去りにされ、存在理由をはぎとられてしまっています。人類は人類自身と向き合い戦わなくてはなりません。しかしその戦いには勝利というものがありません。滅亡へのゆるやかな推移があるだけです。
私は『進撃の巨人』は現代社会へ警鐘を鳴らしているのだと思います。私たちは自分の巨人とどう向き合うべきでしょうか。私たちは当然のように幸福を追求しますが、その幸福とはいったいなんなのでしょう。希望なき時代の希望とは? 光なき時代の光とは? 私たちは絶対者、神を殺し、あるひとはそれを人類の勝利だと誇りさえしますが、依然として私たちには難問が残っているのです。
こんなニュースがありました。「進撃の巨人 : 最新巻が初の初版200万部突破 1巻の50倍超、「ワンピ」に続く快挙」(http://mantan-web.jp/2013/12/07/20131206dog00m200072000c.html) やはり時代に求められているので売れているのだと思います。批判している大人のひとたちは自分の愚かさをよく考えてみてください。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38819
↑これな、けっこう冷静に良くまとまってて良いんだが、
そもそもコレを読む前の話があるってのを、
定時退社日だったんで居酒屋で同僚と和気藹々と話してて隣の席のOLにドン引きされたんでメモっとくな
「世界」とか「グローバルスタンダード」って言うときは、白人社会のことな。
たとえば、軍事費で世界を描くなら、中国やサウジアラビア、インドってのは絶対に外せない。
でも「世界的にチャイルドポルノは取り締まりの対象で」って言ってるときは、間違いなく白人世界の話な。
政治的に正しい言葉遣いをするのであれば、国際連合が採択した議定書、
まあ、児童ポルノに関する国連議定書に書いてる内容が、世界的な話って事だな。
小学生とか中学生とか、幼稚園児とかだけを指してるわけじゃねえ。
国連で決まった国際条約ってそこそこ重めの約束には、児童ってのは18歳以下ってなってる。
そりゃまあ、組織的な援助交際とかノンビリ対応してたら相当怒られるっつうの。
児童ポルノって、親玉たる児童の権利に関する条約のオプションなので、
ポイントは、児童の保護じゃなくて、児童の持っている権利を守ること。これは結構違う。
なもんで、フツーに考えたら弱い児童が人身売買されないようにしましょう、
法律で守って児童の権利が侵害されないようにしましょうってことだあな。
ほいで、その児童の権利を守るには、そもそもの児童ポルノってのを叩いて潰せばよいと。
失礼、妙齢の女性であっても性的に搾取されることはやはりフツーの権利侵害なわけだし、こっちはこっちで別問題として対応されてる。
例えば文学的な表現で言えば、我が国では春をひさぐことは禁止されてる。
といったように、性的なものってのは、簡単に人身売買に結びつくので、そーとーにデリケートな話題なわけだ。
んで、本人が選択的にその道を選ぶと言うことが無い(大人が教え導くべき立ち位置の)児童に関しては、
問答無用で、生産配布普及に輸入、輸出提供販売を叩いて潰そうというのが、国連的な方針。
さっきの児童ポルノ、実在する高校一年生のヌード撮影した写真とかの話な。
こりゃ「16歳の児童」の権利を侵害しているから、叩いて潰そうって話がある。
潰せば被害者居なくなる。
こっちも「16歳の児童をヌード撮影した写真」ではあるんだが、
全ての段階で商品としての流通を叩くための話な。
これも被害者が居るんだが、一歩遠い話になる。
商品にならなくなれば、商品を作り出すヤツが居なくなるので、
ヌードを撮るヤツが居なくなる、という話。
判りにくいが、これが絡んでくる。
ついてきてっか?
リアル女子高生モノAVとか、グローバルスタンダード的にはドンアウトって聞いてビビったか?
んで、児童ポルノのさっきの話のうち、ふたつめの流通叩いて潰す話な、アレ簡単に変質するんだわ。
つまり、実在する児童ポルノがあるから、児童ポルノが無くならないって話に。
わかりにくいか。
児童ポルノに触れる→顧客が増える→児童ポルノがさらに供給される
児童ポルノの存在そのものが、顧客の増加に手を貸してるって話な。
これなー、微妙に理解できなくもないんだよな。
みな生まれながらにして性犯罪者とそうでないものに別れているってのは信じたくない。
つまり、悪いモノに触れるから、その人が悪くなる、って宗教観はかなり根深い。
ただ「自分の中の知らない自分が開発されて、Mな気質が花開いていく!」とかならまあ、
……やっぱりわかりにくいな。
続々と法廷で出てるのは、漫画ってのは非実在のキャラクターであって、
そりゃつまり漫画家の頭の中の妄想の産物だから、デッサンならいざ知らずキャラクターは取り締まれねえよ、って話。
これは、反論が容易だ。
被害者が居るから取り締まるんだって言う、ひとつめの話の明確な反論になるから。
だから、流通も取り締まる必要がないし、販売所持も勿論オッケーと。
ここが、明確じゃない。
さっきの、「悪いモノに触れるから、その人が悪くなる」ってところに触れずに、実在児童ポルノは運用されてる。
明確に被害者が居るからだ。というか、「児童であれば自ら選び取ることが出来ないから、自動的に被害者」な。
んじゃ、非実在ならどうか。
こりゃ被害者が居ない。んで、「悪いモノに触れるから、その人が悪くなる」ってところがクローズアップされる。
でもなー、法廷は宗教観では動かないけど、結局政府は民衆のモノで、感情は強く宗教に影響を受ける。
児童には手を出すな。
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参考:The United Nations Optional Protocol on the Rights of the Child requires states to outlaw the "producing, distributing, disseminating, importing, exporting, offering, selling or possessing for the above purposes" of child pornography.
改善するとか悪化するとかいうのを(一階)微分の正負に喩えてしまうのも本当は微妙なのだがまだこっちは普通の人も使いそうな文学的比喩として読めなくもない。
が、二階微分とか収束とか、それはもはや数学じゃないか。例えば速度と加速度のような関係を想定してるだろ? 定量的な議論にしかなりようがないだろ。
1から2への変化は2から3への変化と等しく3から5への変化の半分である、という議論に意味がないなら、そもそも微分とか意味ないわけだが、例えば順位の推移なんかはこれが当てはまらないから微分しても意味がないって話(尺度水準云々はこういうことです)。
社会の変化が加速減速しているというような比喩表現は確かにあるけどさ、それは社会の変化を空間上の運動としてとらえた詩的表現、それこそ実に文芸的なものであって、そこにガチの数学概念の二階微分とか収束とか持ち込むのは無理だ。