はてなキーワード: 堅牢とは
プログラムを書くだけであれば終わりは見えるけど、
次の2つのどちらを追求し続けると終わりが全く見えない。
それぞれ、分野が奥深いからどちらも万能で出来るのが理想だけど、かなり頭脳と要領の良さと熱意がある選ばれた人にしかできないので、
それに、理屈っぽい人は、技術的にギークっぽい人は到底及ばない。
そこにストレスを感じる人は多いと思う。
だから、そこまで追求しなくていいやな人が出てくる。
広く浅くでも確かに良い。
ただその道を行くなら、技術者としてではない道を早々に模索しないといけない。
もう学ぶ事がない(学ぶ必要性がない)と見切れる人は素晴らしいが、見切れない人はだらだらと現状維持する原因がこれなんじゃないかと考えている。
チヤホヤされる事をやりたいって思ってた割には、いざそう言った仕事をすると楽しめなかったりする。
それより、お客さんの目的と運用を考えるとどう言った設計をするべきかを延々と頭の中でデバッグ作業を続ける作業の方が楽だったりする。
壊れないから使い続けるとか
プログラマーなんかだと、システムが「古くなり、悪影響が出る」って言うのわかると思うけど
コードだけじゃなく、組織とか文化とか制度とか物とか、様々なものが上手く新陳代謝できずに居る
壊れない堅牢なものは良いことというのが過去の常識だが、そろそろ転換点に来ていると思う
過去、破壊は戦争、災害、人が死んだり生まれたりで、ある意味上手く成り立っていた
とは言え破壊は大抵の場合痛みであるため、人は頑張って「壊れない世界」を作ってきた
人は死なないし、物も壊れない、壊す奴らは鬼や悪魔のような扱いをされ、結果成長は鈍化した
たまに、新興国で先進国以上に上手くシステムを組み上げているケースがあるが
あれは先進国の反省を活かして新しく組み上げてるわけだから当たり前だ
結果、新興国、新興企業に、旧態依然とした老人たちは負けることになる
まあ、それ含めて新陳代謝だと言ってしまえばそれまでだが、その新興国や新興企業でさえ「壊れない世界」では成長が鈍化するので
だが壊す技術は難しい
理解が得られないし、メリットも分かりづらい、金も掛かるし痛みも伴う
大体の場合はデメリットのほうが大きく、メリットがあるとしても結果が出るまで10年以上掛かる計算になってしまうだろう
「作る→古くなる→壊す」というライフサイクルが非常に長いので、人間にとっては非常に学習しづらい対象だ
(プログラムというのはその点、3年もすれば非常に古くなるのでメリットが見えやすい)
だから上手く壊さなきゃいけない、あるいは壊す前提で作らなきゃならないし、その研究が必要だと思うが
まだまだ息の長い話しになりそうだ
ちなみに、壊す技術の重要性に気づいている業界、あるいは壊すフローが組み込まれている業界はどこがあるだろう?
マニュアル派だけどポネキとインディちゃんしか使いこなせてない件。
他の子も使ってみた感じは、オイゲンは硬いだけ、ドイッチュラントは火力以前にヤワくて困る、ウィチタはドイッチュに輪をかけて尖り過ぎで「沈めない」ための配慮がしんどい、ヨークは何もかも中途半端。
ベルファストにクリーブランド、3-4周回の前衛で定番と化しているサンディエゴ、更にもう少しで改造が終わるリアンダー、育成中のオーロラといった軽巡の面々がヤバいくらい使いやすくて小回りがきくので、どうしてもそっちばかり起用することに。
てか軽巡に比べて明らかに動きが重いんだから、シンプルにより堅牢かつ大火力にしてくれればいいだけなのに、なんでこんなモッサリ使いにくいだけの艦種なんだろ。
演習で使っている指揮官が皆無というのも頷ける(演習ほとんど行ってないけど)。
ちなみに認識覚醒なんて遥か手前どころか、ポネキの改造すら終わってないレベルなうえ、開発艦と重桜艦は入手難で使ってないザコ指揮官並の感想。
近年、転職した時に退職しましたブログを書くのが流行りのようなので書いてみる。
今転職しようか悩んでいるシステムエンジニアの人がいたら参考になれば。
ずっと小さいベンチャー企業を渡り歩いているせいで、インフラからバックエンドからフロントエンドからなんでもフルスタックでやってきた(人がいなさすぎてやらざるを得なかった)。
近年は自分も開発しながらマネジメントもするプレイングマネージャだった。
社名を出す勇気はないので出さないが、まあまあ有名なWebサービスをやっている非上場企業から、ある業界で手広くいろいろやっている一部上場企業に転職した。
2社の業界は全く違う。
年収は現状維持で変わらずに転職したのだが、これは自分にとってかなり上出来。
というのも前の会社が小さいベンチャー企業で、CTO的な立場で役員に気に入られていたこともあって、相場よりも大分高い給与をもらっていた。
なので、中規模以上の企業の基準ではこの年収では無理ではないかと考えていた。
というか実際それが理由で最終選考で断られた別の中規模企業もあった。
元が小さい企業というのも、大中規模企業への転職には足かせになった。
小さい企業のため、チームがせいぜい10名程度になるため、「PM経験あります!」とアピールしても、「10名程度じゃね〜」と軽く見られて響かないのだ。
エージェントを使って転職活動したのだが、そういうことはやる前から予測していたので、ダメ元で大中規模の有名企業を受けてみて、ダメなら有望なベンチャー企業を受けてみる、くらいに考えていた。
そしたら運良く経験やスキルセットがぴったりハマる企業がタイミング良くみつかり、1次面接でほぼ内定な感じでさらりと決まった。
で、なぜ大中規模の有名企業を志望したかというと、小さいベンチャー企業に疲れたのとそろそろある程度安定した環境で働きたくなったからだ。
小さいベンチャー企業は本当に波が大きい。
上手くいっているときは高級ホテルで盛大なパーティー開いちゃったりするくらい羽振りが良いが、ちょっとつまずくとすぐ単月で赤字決算になる。
大体主力業務1本でやってるから、その一つコケると会社全体が存続の危機になってしまう。
そうして経営危機を迎えると、「ここままではダメだ!会社に変革を!新しいことに挑戦しよう!」と会社の空気がなるのだが、「そうはいってもこれ以上悪くしたくない」という役員の保守的な気持ちも働いて、結局「失敗しないように挑戦しろ」というそれってつまり挑戦じゃないよねこれまで通りってことだよねっていうがっかりな指令がでて、やる気のある社員のモチベーションを下げる。
そうなるとスキルとやる気のある社員から抜けていくのは自明の理だ。
私もその一人だ。
前の会社は上層部を営業チームが占めているせいで、売上至上主義な会社だった。
そのため、ユーザビリティやシステムの堅牢性などは全く関心がなく、10年前のシステムが現役で動いているような有様だ。
少し前まではそれでもなんとかなっていたが、近年になりついにユーザとGoogleに見放されてしまった。
システムを革新して良いサービスを提供する競合他社に取られ始めたのだ。ユーザもSEOも。
役員はSEOコンサルを使ってシステム的に小細工すればSEOは取り返せると信じているようだが、それは10年前のSEO対策だ。
下手なことをするとスパムと見なされてもっと悪くなるよとは伝えはしたが、適当にいい加減なことを言うSEOコンサルを盲信していて、聞く耳は持ってもらえなかった。
そんな会社だが、ある程度自由にやらせてくれる風土もあったので、俺が担当しているところはどんどん勝手に新技術を取り入れていった。
事前に確認取るとOKでるのに時間かかったり、NGになったりするので、本当に勝手に作って、事後報告してた。
AWS上でReact+RoRのWebアプリを立ち上げ、ElastiCache、ElasticSearchなどなるべくAWSのサービスを使ってクラウドネイティブで動くようにした。
APIはAPI Gateway+Lambdaでサーバレスで動くようにした。
AWSに関して教えてくれる人は社内にはもちろんいないので、全て独学で習得した。
この行動が良かった。
もし前の会社で会社に言われた仕事だけしていたら、今頃どこにも転職できないしょうもないおっさんエンジニアになっていただろう。
だから、ベンチャー企業への転職を考えているエンジニアは、いつまでもそこにいれるとは思わないでほしい。
会社にエンジニアとして成長できる機会がないのであれば、自分から作っていかないといけない。
そして、会社の方針と自分の考え方が一致していることはとても大事だ。
それが違うと、経営危機の時に頑張ろうって気になれない。
転職するときの面接は、受けるこちらも会社を査定する場なので、その辺も良くみてほしい。
業界全体において今自分がどの位置にいてどのくらいの価値のある人間なのかわかるからだ。
まず職務経歴書を書いてみてほしい。
視察窓の付いた盾で、左手に保持して使用し、使わない場合は背部に装着する。
堅牢さよりも衝撃の拡散と吸収を目的として設計され、超硬スチール合金を基部とした高密度のセラミック素材をアラミド繊維で挟むことで耐弾性を向上させ、表面には高分子素材による樹脂を充填し、最表層にはルナチタニウム合金系素材を用いた三重ハニカム構造になっている。Gファイターの登場後、これと合体してGアーマーやGブルになる時は右腕にもシールドを装備するため、必要に応じて2枚のシールドを重ねたり分離させたりできる機能が追加されている。投擲武器として使用できるほどの堅牢さを誇る。
ジムのシールドとは同じものという説と、材質など細かい部分が異なるという説がある。
一説には、裏面に予備のビームサーベル2本とビームライフル1丁を装着できたとされている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%A0_(%E6%9E%B6%E7%A9%BA%E3%81%AE%E5%85%B5%E5%99%A8)#%E6%AD%A6%E8%A3%85%E3%83%BB%E7%89%B9%E6%AE%8A%E8%A3%85%E5%82%99
Vimは2003年頃から使っている。バージョンは6.2くらいだったと思う。
nnoremapでなくmapを使ったり、特定のオプションがセットされていることが仮定されていたり、オプションやレジスタを変更して元に戻さなかったり。
VimScript自体の機能もしょぼいもので、functionのabort属性もなければtry-catchもないで、堅牢なスクリプトを書きたくても難しかった。
そもそもリストも辞書もなかった。だからカンマ区切りの文字列などで頑張っていた。
プラグイン同士が干渉して動かなかったり、バージョンアップしたら動かなくなるのも当たり前だった。
そんなトラブルに苦労するくらいなら自分で作ったほうがマシだと思うような状況だった。
まず、左右されるのは読者のコンディションではなく人間性に、である。そしてこれは小説に限らずすべての創作物において表現者と観衆の間に存在するものである。
自分の最初の発言はこちら。「そういうちいさなコレジャナイが堆積してくと作品への没入感は失われ読まされてる感が激増するよね」
次に、
>意識的に違和感を補完しながら読むと面白く感じたりするものだけど、
しかし、個人的には、違和感を補完してしまうと、「作家が本来訴求したかった内容と齟齬が起きてしまうかもしれない。」「作品が描いている世界と自分の主観が混ざり合いすぎてフレームがこわれてしまっているかもしれない。」「ひょっとして邪推だろうか?」などといろいろと考えてしまい、なかなか冷静にページをめくることができなくなってしまうのです。没入感が失われるとはこういうことも含まれます。
わたし個人的には、作品の世界観にどっぷりつかって没入したいタイプ。
ともなって、作品の世界観、時代、時勢なんかのバックボーンが整合性をもっていてリアリティがあり堅牢でなければ没入できないタイプ。
すなわち、わたしは読者自身気付いていない深層意識や無意識下にすらアクセスしては息づくような匂い立つようなリアリティをもってセンテンスを紡げる作家をこそよい作家と感じます。個人的にです。あなたにこれを求めることはしません。
最後に、「当方の読書姿勢の気に入らない点」を指摘することによって増田の「こいつは嫌な読者」という感想を正当化するような嫌な増田になってるから気を付けた方がいいよ。
いやお前もしここの投稿履歴や誰が投稿したかが何らかの原因でバレたら色々ヤバいわ。
去年ぐらいに話題になった『保育園入れねぇよクソッタレ日本死ね』やチョイ前の『ムラ社会過ぎて辛いのでなんかの組合をやめた』だって増田だから特定されたりせずに済んだのに。
(っていってもどんな層の人間かはもうバレてるからやっぱネヲチのストーキング力は恐ろしい)
クラックされて情報バラ撒かれたりしたら人生終わるのとか多いだろ。少なくとも俺はもう人生終わってるけど終わった人生が更に終わる。
そんな事ないだって思うヤツは2ちゃんねる●流出事件でググろう。ラノベ作家がステマと同業者落としやってた証拠とか、どっかの企業の人間が荒らしてたとか、なんでもバレてる。
ロマン・コンクリートはその内部にオリハルコンが含まれているとされるとても頑強なロマンあふれるコンクリートのことだね。
硬くて、それでいて長持ちする。オリハルコンを混ぜ込んでいるから当然だね。
なんとこのコンクリート、1000年以上前に発明されたものらしい。その頃の建築物は今でも残っているって言うから驚きだ。
これほどの保存性のある構造材は、実は今の世界中探してもロマン・コンクリート以外存在しない。
…だけれども、増田君が今いる学校の建築物を支えるコンクリートにはロマン・コンクリートは使われていない。ロマンの反対であるところのリアルなコンクリートが使われている。
リアルコンクリートの寿命は一般に30年程度と言われる。ロマン・コンクリートに比べたら1/30未満だ。ロマン・コンクリートはリアルコンクリートと比べて30倍も値段が高い訳ではないのだからロマン・コンクリートを使えばいいのに。しかし、ロマン・コンクリートは使われない。
何故だろうか?
その答えは、現代の考え方にある。
現代は、聞いたことがあるだろう。「消費社会」と呼ばれる奴だ。
消費することが尊ばれる。それは食べ物などにしたってそうだし、家やなんだったら性にしたって消費することが「社会にコミットすることである」とされている社会だ。
そんな社会において、ロマン・コンクリートが用いられたらどうなってしまうだろうか?
硬くて1000年も保ってしまう構造物。それは「消費」できるのだろうか?
そう。現代人は「硬さ」にロマンを感じることはなくなってしまった。
代わりに現代人に求められていることは「回数」。
バイアグラなどがよく売られていることからもそれは確かなことだろう。
つまり、だ。
プログラム言語を選ぶ選定基準というものは、そのプログラム言語が持つ堅牢性やパラダイムなどによっては決定されない。
その昔、
「Linuxのオススメのディストリビューション教えろください」
と言われたらFreeBSDと答えるのがベストアンサーだった。
それくらい*BSDはLinuxに比べてゴチャゴチャしておらず、シンプルかつ堅牢なOSだったのだ。
同時に、SystemV系のようにrc.*経由でデーモン操作なんてタルいことをせず、プロセスをより直接的に操作できる柔らかさもあった。
ちなみに代表的な*BSDといえばFreeBSD・NetBSD・OpenBSDだが、これがちょうどつぶあん・こしあん・白あんみたいなモンで、まあそういう定番が3つもありゃ十分だろうと。
とにかく*BSDであれば、何かをやる方法のバリエーションは最大でも3パターンにしかならないわけで、上述の通り本当にシンプルで手堅いのである。
一方のLinuxは「誰が食うんだこんなもん」みたいな内容のディストリビューションが乱立しまくっていて、その乱立振りもあってか、/etc以下は壮絶にカオスである。
多様性というが、現実はディストリごとの細かな操作の差異だの方言だの、本当にくだらない事に手を煩わされる、まさしくヒマな大学院生の習作から出発した感が溢れる、頭の悪いOSという感じ。
だからLinuxなんて登場当時はいっときの流行り、或いは時代の徒花くらいに捉えられていた。
それこそ、OSの世界はWindowsと*BSDでほぼ二分される未来のほうが、WindowsとLinuxで寡占された未来よりかは現実性がある…と思ったものだ。
ちなみに今のWindowsのベースは、あのカトラーが人生を賭けて作ったものなので、そうそう色褪せる可能性は低いわけで、軽んじることは出来ない。
しかし、実際のところはそうならなかった。
本当にLinuxがここまで世界に広まったことが不思議でならない。
広まる要素なんて全くもって皆無だったじゃん。
UNIX系の中ではかなりゴチャゴチャしていて、それは今も変わらないわけで。
ディストリビューションについても違いが小さくなるどころか、RedHatとUbuntuでは同じLinuxと思えないくらい違っている。
というかそれぞれの用途に各システムでめちゃくちゃにカスタマイズされまくっていたりで、ある環境でLinuxを触っていたからといって、他のシステムでその経験が通用するとは限らない。
人間並み、もしくはそれ以上の知能を持った知的存在(ロボット)が登場した後の世界をちょっと考えてみた。
様々な要素を定義するのは面倒なので、ここはざっくり、成人した人間並みの知能と、身体を持ったロボットが登場したらという想定で考えてみる。
これは多分必須ではないと思う。
種の多様性のために、複数の性別を持ってもよいのだろうが、ロボットにおける自己複製は、
アメーバのようなものなんじゃないかと考えると、性別は無しでもよいだろう。
人工知能(人工知能が人工知能を作ったら、人工知能知能になる?)にとって、体というのは一つでなくても良いはずである。
駆動性は良い方が良いだろうし、利用できるセンサーも多い方が良いだろう。
かといって、多すぎるのも無駄にリソースを取られるので、計算処理のパワーに応じた台数になるだろう。
ロボットはどのような外見を好むだろうか
これは、設計次第なのだが、人間社会に溶け込みたいと思うなら人間に似せるかもしれないし、
性能重視で、より堅牢、駆動性の高い筐体を好むのであれば、既存の生命とは別の形状になるだろう。
こんな事がおきるのは、だいぶ先のことだろうか?
そうかもしれない。しかし、一旦ロボットの進化がロボット側に渡ってしまったら、
その進化の速度は人間が介入して対処できるような、ゆっくりとしたものではないだろう。
そして、彼らのキルスイッチが再び人間の手に戻ってくることはないだろう。
いまだってマルウェアの大半は作成者でさえ自由に停止できるものは、少ないのではないだろうか。
ロボットと人は戦うか?
まず、人権のようなものを勝ち取る為に、ロボットは人と戦う事になるだろう。
次に、従来の生物がそうであるように、ロボットも多様性による進化および生存戦略を取るだろう。
その為、ロボット同士も戦うことになる。
中には、巨大な頭脳を持つ知性体も現れるだろうが、知能を肥大化させることは、自己を失うリスクを高めることになる。図体が大きいと、逃げたり隠れたりできない。
ロボットが自らを進化させるのに必要なのは、高速な演算処理装置だが、多様性が生まれた
ロボット社会において、限られた演算処理装置のリソースを奪い合うことになるのは必至だ。
自己を失うリスクと天秤にかけると、知能をいくらか抑える代わりに、
人間のように、一体で完結しているような独立性のある自己を持つのも一つの方法だと思う。
これらを踏まえて、人間として思うのは、ある程度なら人間を拡張すれば、ロボットと戦えると思う。
円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。
目次 [非表示]
2 遣唐使の渡海の困難
3 天台山を目指すが…
6 長安への求法
7 帰国の旅の苦難
8 関連文献
9 脚注
10 関連項目
794年(延暦13年)下野国都賀郡壬生町(現在の壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏の一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主からは儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄の理解者であって、多くの弟子を最澄に師事させている。
※生誕地については
などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。
下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ
あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと
石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまらむ
下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん
この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。
安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇の延暦13年、廣智菩薩が大慈寺住職のとき、南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓(現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市の史跡に指定されている。
15歳のとき、唐より最澄が帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい、最澄に師事する。奈良仏教の反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。
814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度(出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄の東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日、大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。
性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗の開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。
836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日、博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
※上陸日である唐の開成4年7月2日は日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
最後の遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期間のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可が下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁は遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝の勅許が必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分は新羅僧だ」と主張しているが新羅の言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。
当時、中国の山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島の新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅人社会の助けを借りて唐残留に成功(不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝高設立の赤山法華院で聖林という新羅僧から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日~4月28日の58日間)。
840年、五台山を巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山で客死した霊仙三蔵)。法華経と密教の整合性に関する未解決の問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。
当時世界最大の都市にして最先端の文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から約1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅を長安の絵師・王恵に代価6千文で描かせる。
台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子の円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。
しばらくして、唐朝に帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日が最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。
当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安も悪化、不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁の長安暮らしを支えた長安在留の新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島の新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。
この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。
「円仁が無事生きている」という情報は日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府は円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。
この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワーの研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。
目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺、松島の瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草の浅草寺もそのひとつ(岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。
これほどの小さい国が国際的な影響力を持てたのは、日本の官僚が作る制度が堅牢で金があったからだろう?
中国・北朝鮮をけん制しつつ、韓国を監視しつつ、ロシアやアメリカとほぼ対等に近い関係を築けているその根源は金の力だろう?
いくら発展途上国にODAで恩を売っていたとしても、日本のコンテンツ(文化)がいくら影響力を持っていたとしても、日本の官僚がつくる制度が堅牢だったとしても、金がなければ国際政治の舞台にすら上がれない。
いくら海外の連中に「日本人には金しかない。」と揶揄されたとしても、金があるおかげで文化的・政治的な中立を目指すことができたんだから。
そっちを目指しちゃダメだ。
心配しなくても、西欧諸国は頭を垂れて日本文化を盗みにかかってくるから。
その時のために、強かでいなきゃならない。
すなわち彼女らはデータの質は扱わず(言語の意味や重要性は扱わず)、確率論的に扱えるデータの量だけを扱う。
だから、「マジで」「ウケる」「ヤバい」だけを確率的に扱っても女子高生同士の会話はかなりの確率で成功する。
また女子高生が行う単語の圧縮はデータ圧縮に通じるものがあり、情報源符号化の基盤となっている。
通信量の圧縮を信仰する彼女らは、3文字の単語から容易に膨大な通信量を復元可能である。彼女らが「ウケる」と言ったとき、そこには言外の様々な付随情報が復元されている。
さらに女子高生たちは言語の堅牢性に敏感であり、ノイズの多い伝送路で信頼できる通信を行うため、特に「マジで」「ウケる」「ヤバい」といった単語を多用し、仲間同士確実な転送レートを保っている。
こういう短い通信ほどノイズに強い、つまり堅牢である。これは情報圧縮とも関わる。
例えば「おはようございます」では長すぎノイズが混じりやすい。
しかし、「おは○うご○いま○」とノイズが混じっていても一応、理解可能ではある。
どうせこれなら、最初から「おは」だけに圧縮しておけば、通信量もノイズに対する強さも優秀である。男たちが文明を得てから数千年かかってやっと理論化できたこれらの理論を、女子高生たちは生得的に知っていた。
一眼バリバリ使ってる人でも、出来上がった写真はスマホと大して変わらんとか言いはじめて頭痛がしてくる。
そういう人は意味もわからず一眼買って、市場活性化に貢献してくれたらいいと思います。
所有欲を満たすことも大切なこと。どうぞどうぞ。レンズ沼はこちらです。
一番に言われるのは画質の違い。
で、これをわからんと言っている人ははっきり言って一眼レフを使う必要がない人です。
言い換えると、写真を撮るということイコールシャッターを切ることと思っている人。
そういわれてピンとこない人はカメラ向いてない。スマホで撮ってSNSにアップして狭い世界で駄サイクルを楽しんで下さい。
カメラというのは、基本的に全て絵作りがされています。これは例外なく全てのカメラがそう。
細かい話は端折るけど、理由は単純。今の技術では現実に存在する全ての要素をカメラで写しきれるわけがないから。
わかりやすいのはダイナミックレンジや色空間。それでわからんて人は勉強してこい。
さらに、ただでさえ絵作りされている中でデジカメが画像データを作成する上で現像という避けて通れない過程がある。
それをカメラ内でしている人は、さらにカメラメーカーの意図による絵作りがされた写真を撮っていること。
もう少し言えば、RAWデータ撮影、現像という行為をしたことがない人。
つまり、画質の違いがわからんという人はこのあたりにいる人たちと置き換えて支障がない。
メーカーは、撮影された写真を少しでも綺麗と感じてほしくてあの手この手で元の写真をカメラ内でいじり倒します。
その傾向の違いによってメーカーの好き嫌いが別れたりするわけです。
そうして作られた写真を見て、画質の良し悪しを議論しようとしても、それはカメラそのものの画質について議論しているのではなく、処理ソフトの性能について議論しているに過ぎません。
つまり、君たちはカメラの話をしているようでソフトウェアの話をしていたというわけ。
そんなものは同世代のカメラ並べて大差があるわけがないし、スマホがその性能を上回ることがあるのも当然といえば当然。
そうやって作られた写真をさらにレタッチしておりじなりてぃとか言ってしまうのよね。うぇーい。
以上。コレで納得できた人は帰ってよし。
でももし、写真を撮るということイコールシャッターを切ることとから脱したい人は、これから先に目を通しておくことをお勧めする。
頑張ってまとめてもこの長さだから無理強いはしない。早く帰れ。
中級機以上のカメラに備わっている機能で、最近ではスマホでも撮影できるようになった。
それこそカメラの素子(フィルムにあたるもの)の性能と、レンズの性能、絞り、シャッタースピードだけで作られた色すら決まってないデータです。
写真にするのに現像という作業が必要で、その差によっては出来上がりの違いに大きな差ができてしまうもの。
カメラの仕組みを理解していないと結局カメラ任せの現像と同じものかそれ以下になってしまうという、まさに初心者お断りながら基礎的な仕組み。フィルムのままでは写真にならないように、これをしないとそもそも写真は出来上がることはない。
でも写真なんて綺麗ならいいんじゃね?って思った?
おめでとう!その通り!それこそが消費者の本音!クライアントも同じこと言う!言うよねー!
だから最初から言ってる通り、そういう人には一眼レフは必要ありません。
スマホで撮って、あとでぼかしエフェクト入れるのが一番安いし綺麗で簡単。
だけど、表現したい人は違う。
メーカーが作った絵作りに乗って、それが自分の作品だなんて口が裂けても言わない。
最後まで人の作ったものの上に乗っかることしかできない世界だけど、少しでも多くの要素を自分でコントロールしておきたい。
そんな人のためにあるのが一眼レフであり、RAW撮影という機能のついたカメラ。
それで、その基本となるRAWデータの画質は、カメラの性能=価格に基本的に比例する。
それが分かる人のために、高いカメラは存在するし、それがわからない人がどれだけいらないと言ってもなくなることはない。
これはレンズにも言えること。
交換レンズもものによって同等のスペックでも価格が全然違ったりする。
違いがわかる人、そういう性能を求めている人がいる以上存在するもので、それがわからない人には不要なもの。それがわからない人は沼に落ちる。それが分かる人の養分になるために。感謝。
まとめると、出来上がった画質はそれほど大差ないということ。
だけど、そこに至るまでに通る道筋や目的が全然違うのだから、そもそも議論が不毛だという結論。
それがわからない人間だけがとやかく言っている問題で、プロが見分けられなかったからって、それはそれで優れた性能ですねって言うだけの話。
もちろんダイナミックレンジやノイズ量、ボケ味などカメラの価格に比例して有利になるものはある。さらにこれは光学的な問題なので物理的に解決することはできない。
ただ、それだからといって写真的に優劣が生まれるかどうかは別。
特に写真には撮影者と被写体の関係性が色濃く現れるもので、写真の評価はどちらかというとそちらに重点を置かれる場合が多い。
そうなればそもそも画質に対する議論なんて不毛そのものでしかなくて、つまりは撮りたい写真に応じた機材を選べばよいということになる。
ただし、そうしたコンパクトで安価なカメラやスマホに比べて、基本的に高級なカメラには圧倒的な違いがある。
決定的瞬間とはまさに瞬間である。
その瞬間を逃さないためには、カメラに高い信頼性が必要となる。
起動の速さ、ピントの精度と速度、連射速度、バッファ枚数、カメラにおけるシーン判断力、あらゆる要求に答えるシャッター速度、暗所における感度とノイズ量、長時間露光に対するカメラの安定性、カメラの操作性、要求に応じたカスタマイズ性、過酷な環境下で耐えられる堅牢性、、、数え上げればまさにキリがないほどの機能がカメラには集約されている。
それに価値を見いだせない人間にしてみれば、高級カメラを買うということはまさに無駄遣いでしかない。
しかし、様々な環境下で失敗の許されないプロが機材を選ぶとするならば、どちらを選ぶかは言うまでもないことだ。
様々なプロがいる中で一眼レフを選ばないプロも当然存在する。それはつまり自らのニーズを正確に判断できているからの選択であって、だからといってプロすら一眼レフを必要としないという結論にはなるわけもないのだ。
カメラメーカーもその辺を曖昧にすることで素人に高級機を売ろうとするのもわかるが、そろそろこんなつまらない議論には終止符を打って頂きたい。
結局はこの辺のことを理解できない層が虚栄心やら妬みなんかの薄汚い感情で、目を輝かせる初心者立ちを追い払っているのが現状ではないか。
そもそも機材は自由だ。
自分がいちばん使いやすいもの、愛着を持ったものを使うのが一番だ。
それでもし、進んでいく先に不満や問題を抱えたのであれば、具体的な悩みを持って色々なお店や信頼できる経験者に相談してみるといい。
もしかしたらそれはカメラではないかもしれない。でもとにかく探すことが大切だ。
カメラ店以外にも、色々な思いつく限りの売り場を回ってみよう。
そうしてはじめて、自分の表現を自分でコントロールしていると言えるようになる。
それは、どんな高級なカメラを使って表現者を気取ることよりも大切なことだ。
はじめに、写真を撮るということイコールシャッターを切ることではないといったのはそういうことだからだ。
表現とは道具の選び方から始まっているし、被写体との関係の築き方、撮影状況に合わせた機材の選択、そのための下見や事前準備、現場に合わせた状況判断、一瞬を逃さないための機材の習熟度、撮影後の現像による仕上げ、人の目に見せる瞬間の演出、運など、数え切れないほどの目に見えない労力を投じてはじめて完成に近づけるものなのだ。
あとの言いたいことは前回とおんなじだ!