はてなキーワード: ポリティカルコレクトとは
コロナウイルスに対する欧米各国のポリティカルコレクトムーブを見るに、手放しな欧米賛美もやりづらくなってきたと感じる。
結局、そこんところに大衆が理解できるようなまともな答えを出したアート関係者はいないからな
アートの最先端は歴史的に見ても、常に大衆には理解が得られなかった
まあアート界隈のポリティカルコレクトと言っても良いが、
そもそも、なんで最先端アートを公金で保護してあげないといけないの?
というと誰も答えられない
ついでに、確かにピカソとかゴッホとか発表当時は大衆に理解されなかった芸術家はいっぱいいるけど、
その陰には、当時も今も箸にも棒にもかからないかからない3流アーティストが山のようにいるわけだが、
そういう人にはお金出してあげなきゃならんのなんで?という問題にも答えられない
色々考えた結果、面白ければ良いという結論が出た。俺が電車でうんこを漏らせば、皆笑うだろう。それはうんこ漏らし民への差別であり、同時に笑う側からすると差別ではない。差別とは被差別者のみに定義しうるものである。しかし、お気持ちヤクザと言葉があるように、被差別者を名乗り、笑っているだけの人を差別判定する集団が少なからずいる。差別されたと思うかは個人の感情であるから、俺には偽被差別者と本物の区別はつかない。アメリカのLGBT団体が突如淫夢を糾弾し始めたらなす術もない。傷ついている人がいる事は証明出来ても、傷ついている人不在の証明は不可能だからだ。淫夢文化に傷つくホモはいるか?傷つく人間が1人でも居れば差別と言えるのか?ネットのお遊びはそのたった1人の誰かにポリティカルコレクトでなくてはいけないのか?
誰に答えを出せよう?
俺には差別が何かはわからない。しかし、いつしかうんこを漏らしたとき、周りに笑われる事を甘んじて受け入れようと思う。
会ったことのあるLGBTの人がそこそこの大学の人とそこそこの大企業の人だけだったからバイアスは掛かってるかも。
「仲良くして欲しいという訳ではない」ということに対してだけど、どちらかというとそれは受け入れる側が困ることで、仕事をする上ではある程度仲良くないとコミュニケーション面での齟齬が発生する可能性が高くなるから、キモくて金の無いおっさん問題に雇用問題が含まれてる限りはそこは重要だと思う。
キモくて金の無いおっさん問題なのは多分キモいことだって前に述べたけど、容姿のキモさは別に問題じゃないと思うんだよね。
そもそも、自分も元カノにお前ぐらいのブサイクは中々いないって言われるぐらいのブサイクだけど社会でなんとかやってけてるし。
年齢に関しても実力がある人だったら普通に中途で入ってくるし、容姿のキモさも年齢もそこまで差別対象になってないと思うんだよね。
キモくて金の無いおっさんの雇用問題っていうのはやっぱり単にコミュニケーション能力に難があることから生じる問題なんじゃないのかなぁ。
だからキモくて金の無いおっさんをポリティカルコレクトレスによって年齢と容姿で差別しないことにしても、雇用問題が解決するとはどうも思えないんだよなぁ。
答えになっているかどうか微妙ですが・・・誤字脱字で書き散らしですみません。
40代後半のゲイです。一意見として読んで頂けたら嬉しいです。
「ラーメンズ」が好きです。アメリカドラマの「クローザー」が好きです。
単発の2016年物を当時見て、2018年物をアマゾンでさっき見ました。
日本のドラマはほぼ見たことがありません。テレビ自体も実は30年近くほぼ見ませんでした。
アメリカのドラマがクオリティが高いのとマイノリティに対する態勢が違うのでやはり
日本に漫画があるようにアメリカのドラマの裾野の広さはすごいです。
ジョークセンス、マイノリティに対する姿勢、作品のクリエイティブ度、それらのバランス。
2016年版では薄かったマイノリティに対する配慮はすごく感じました。
大多数がそーだよな。そーなるよな。と納得できるリアルさ。
おっさんずラブのレビューでも男性の絶賛レビューに枕詞のようにつく、
これがリアルな状況なんです。自分が同性愛者だと思われては困ると言う事。
それが、同性愛者の人を傷つけていると気が付いたと、コメントされています。
余談ですが、
同性愛に対する嫌悪感の一部分は、近親者同士の恋愛の嫌悪感に近いと思っています。
いけない事と言う感覚。
しかしこの感覚は実は曖昧だと思います。国や地域や宗教によって、ずいぶん変わります。
実際に血縁者でも事実を知らなければ、恋愛に落ちることもあるでしょう。
社会的な原因での嫌悪感は存在すると思います。もちろん、それで全て説明はできません。
例えば、なぜ私個人が女性との性的関係に嫌悪感を感じてしまうか?など。
ただ映像で異性愛者同士の性的なシーンを見ても嫌悪感は感じないんです。
これは本当にすごいことです。時代ですね。
多くのゲイがBLに対して思う「性的指向は変化しない」と言う思い。
しかし性的指向も100%変化しないものではないし、かつ恋愛と性的指向の関係も完全ではないです。
ずっと一緒にいたい=結婚したい!って話なら性的指向だけで決定するものでもないでしょうし。
ただこの問題はちょっと複雑なんです。性的マイノリティの辛さの原因の一つは、
当事者は、
時代とともに変わりますし、結果、失敗(自己否定)に終わる考察もあります。
色々な経験をして性的マイノリティ―と言う特徴が自分の全てではないと思った時期
当事者が今、どのような考え方なのかによって作品に対する評価も相当変わるでしょう。
この番組の当事者のメリットとデメリットで考えると、断然メリットが上回っていると思います。
ハッピーエンドで終わったこと。春田と牧がゴールだったことは大きいと思います。
あり得ない!っていう評価は、フィクションにたいしてナンセンス。
視聴者が、制作者の誘導に納得した作りで、かつ、ゴールが異性愛者同士じゃなかったのは感動しました。
箇条書きに他に気になったところをあげます。
(ジョークとしては品がない、まぁ結果的に想像も及ばない破壊神にやられてしまうわけですが)
黒沢部長の盗撮とパワハラとセクハラ(面白さとトレードオフですかねぇこの作品の掴みの肝ですから)
黒沢部長の恋がコメディリリーフ過ぎた・・・可愛そうな終わり方だったです。
でも、もっとコメディとして突き抜けてほしかったし・・・(笑)
武川正宗のトイレの視線(ちよっと偏見がきついですね、犯罪ですから・・・)
ロリでと言うセリフ(ロリの定義も含めて小児性愛者の問題は難しいです。)
上記の問題点もアメリカのドラマであれば、もっと突き抜けたジョークになりますし、
ポリティカルコレクトをしっかり守りつつ、フォローもちゃんとします。時勢に合わせてですけど。
それでも、おっさんずラブは、今までの日本のゲイ関係のドラマと比べて突き抜けたと思います。
偶然もあると思ってます。でも、ゲイを一つの設定として使い、純愛を描いた。
約40年前の漫画作品で竹宮恵子さん作の「風と木の詩」があります。
「つながりへの希求、他者による自己肯定の欲求」が少女漫画の「根底のテーマ」
拒否される愛としての少年愛は、「それ」を見つめることを可能とした。
究極のつながりとは何か?という純粋な関係性のみを問題視しえた。とおっしゃっています。
「おっさんずラブ」とゆうモダンホラー風の喜劇の中で使われました。大成功だと思います。(笑)
BL、やおい、少年愛、長く受け継がれ蓄積した少女漫画の資産。
それによって受け取り側が大きく変わったこと。
制作者側がどれほど意識したかは確かに微妙です。細かい設定では矛盾や無理解もあります。
ゲイの話とかじゃなく純愛なんです!(ゲイはマイナス要素だけど、いい話という理論)
だけではなく、
NHKの「弟の夫」は素晴らしい作品でした。感動して死ぬほど泣きました。
でも、異性愛者にとっては?と考えると、おっさんずラブは、エンターテイメントとして秀逸。
がゆえにゲイ要素のある作品が大勢の人に評価される。大事な事だと思います。橋渡しとして。
脚本家の素晴らしいセンス、それを映像化できる俳優を含めた優秀なスタッフ。
1つだけ。作中の音楽が好みではありませんでした。
テーマ曲の2曲は良かったんです。それ以外が一貫性がないと言うか・・・
当初、小児性愛者に関する記述に思慮が足らずいい加減な書き方をしてしまいました。
「小児性愛者関連はちょっと・・・」はあまりに言葉足らずでした。すみません。
読んで頂いてありがとうございます。
東京医科大学が女子に一律減点を課して意図的に男子学生を採っていたことが分かったわけだが、それはポリティカルコレクトだとか試験の平等性だとかを抜きにすれば大変理にかなっていると言わざるを得ない。「現役・浪人・再受験」ではやはり現役が受かりやすいだろうし、「地元出身・他県出身」ではやはり地元民が優遇されることはもはや医学部受験生の多くは既知である。ならば「男女」について差があったとしても然もありなんといったところである。
なぜそうした性差が生まれるかといえば、いくつか増田内記事でも既に言及されていたが、やはり出産妊娠育児に対して女性は男性に比して重要なポジションを担うからだろう。卵巣や子宮のない男性は子供をどうやったって産めないのだから。そして出産妊娠育児については大きな負担がかかるため一定期間仕事から離れる必要がある。
しかし医者として最も体力のある20代後半から30代前半で女医の大半に抜けられてしまい、更に育児があるので時短勤務で夜間当直は少なめで頼むとなれば、医療現場が成り立たなくなるのは明らかである。女医の割合が少なかった昔はそれでもなんとか成り立ったかもしれないが、女医の割合が年々高まっている中ではそうはいかない。
現場からみたまともに働ける「医師」の総数が減った場合、その影響を受けるのはまず「まともに働いている医師」であるが、その次は患者である。「まともに働いている医師」が馬車馬の如く働き、無理にでも代償しているうちはいいが、いずれ二進も三進もいかなくなる時が来る。脳出血や心筋梗塞が起きてますけど手術できる人は今手が空いてないのであっちへと別の病院へ送られたり、予約がいっぱいなのであなたの手術が出来るのは1年後ですと言われる未来もありうるかもしれない。頭ごなしに男女差別だと声を荒げる方はそうした状況を全く考えていないし反射的にミサンドリーを唱えているだけである。
医療の現場で人が足りないことが原因で自分や自分の親族が死にかけても文句を言わないし諦めがつくという人のみ男女差別だと主張するべきなのだ。
しかしこうした状況を根本から打開するため医学科増員について提案がなされたこともあった。残念ながらそれは結局開業医が牛耳る日本医師会により立ち消えになった。大学病院やら市中病院であくせく働かざるを得ない勤務医を救う施策は、最前線を退きすっかり肥え太った開業医によって潰されたのだ。
医学部増員できない中で、現在の医療レベルをなんとか保っていくためには、永く(より長期に)長く(昼夜問わず何時間でも)働ける医師を採るしかないという結論にたどり着いたのは仕方がないことである。
今時女性差別なんて中世か、というコメントも見かけたが、一周回って考えた末、中世のように見える施策に帰着したというのが正しい。そもそも縄文時代女性が獣を狩ることはなく、家のことを執り行っていた、それは差別ではなく男女分業という形だったはずだ。それが近世に近づくにつれてそうした外での仕事が獣狩りからデスクワークの形態へ成り代わったことで女性は社会に進出できた。しかし仕事内容は変わったものの生殖器や筋骨格器の性差は変わることはなく、性差として埋まらない溝は確かにある。女性の、私も男性と同等に働きたいという気持ちについて私も同じ女性であるから分かるけれども、生まれ持った肉体構造を超えた役割を果たすことは出来ないのだと思う。
そんな中で長時間労働オンコールプロフェッショナル技能が求められる医師といういわばマンモス狩りに近い職種に女性が進むことは、古来からの歴史を無視した行為に近い。人は歴史に学ぶべきだ。なぜ女性が狩猟を行わなかったか今一度考えてみる必要がある。今回の件は古来より存在する性差に対して生まれたばかりのポリティカルコレクトネスが生み出した矛盾の象徴のようにも思える。
これは医師に限らず数々の職種について言えることである。女性の働き方改革が実際には多くの男性の協力があって成り立つことであり、女性差別という性差をふまえない女性側からの一方な主張は、男性から同意を得られないだろう。働き方改革についての理想は「男女分業」の仕組みを整えていくことだと思う。
確かに東京医科大学のことで泣いた女性は多くいるかもしれない。しかし数々の採用・登用の決定については必ず選考という過程があり、東京医科大学からしたら女性より男性が欲しかった、ただそれだけのことだったと思う。それにその分医療の水準を保ちより多くの患者を救うという大義は果たされたのかもしれない。功利主義の観点から見ればこの選択は間違ってるとは言えないのでないか。よって今回東京医科大学の女子一律減点について、私は一概に非を唱えることができないと思う。
東京医科大学は間違えた。男子学生を意図的に多く採る、それ自体は正しい。女子一律減点が間違いだった。試験科目を2科目に絞ればよかったのだ。数学と理科、更に数学に傾斜をかける。女性は言語機能が発達している、男性は空間把握能力が発達している。これは脳の構造にも性差があるからだ。それを利用することで男子を多く抽出することができたというのに、東京医科大学は間違えたと言わざるを得ない。
ゴールデンカムイはフェミニズムやアイヌ民族の文化と歴史にも性的マイノリティにも配慮された上でなお読み応えのあるすばらしい作品だという評価は「差別解消なんて持ち込んだら物語は堅苦しく不思議で窮屈なところになる」と嘯く層への強力な反証なのでめっちゃムカつくんやろな。— くたびれはてこ (@kutabirehateko) 2018年4月11日
フェミニストの方が、ゴールデンカムイ無理って言ってますけどそれは……
http://d.hatena.ne.jp/nanamino/20160404/1459764221
で、試し読みしてみたのですが。えーー、ごめんなさい、無理です。とてつもなく気持ち悪いです。
主人公が成人男性(どう少なく見積もっても二十歳は越えている。下手するともっとずっと上)で、ヒロインは12~3歳って……。
しかもこのヒロイン、顔立ちは大人っぽい感じの美少女なのでまだマシなんですが身長が低い。めっちゃ低い。主人公の腰の辺りくらいしかないんじゃないってくらいに小さい。小さすぎて7歳くらいに見える。
それでもこの二人でそういう関係になるとは限らないし…!と思いWikipediaを読んでみたらヒロインの祖母がヒロインを主人公の嫁にしたがってるとか、主人公に思いを寄せるセクシーな占い師にヒロインが嫉妬するとかの情報が出てきてやっぱ無理だと思いました。ヒロインの主人公への想いはあくまで憧れであって、同年代の少年キャラに本当の恋をしてそっちと上手くいくという展開がこの先あるのならば評価は変わるのですが、そうでないならばどうにも無理です、受け付けません。主人公には梅子という想い人がいるらしいのでそっちとくっついてくれないかなあとも思うのですが、梅子の存在は「主人公にその気はないけどロリに片想いされてやれやれだぜ」という設定にするための舞台装置に過ぎないのかな、やっぱり。Wikipediaを見る限りではヒロインと同世代の少年のメインキャラはいないようですし。
20歳過ぎのの男性と12歳の少女が出てる時点でアウト! 同年代の少年と恋をしない女はアウト! この人同性愛とか絶対駄目っていいだしそうなやつだ!
銀魂なんかも主人公が二十代後半(推定)の成人男性でヒロインが14歳の少女なんですが、ロリコン的な気持ち悪さはないんですよね(最近は別の意味での気持ち悪さは出てきましたが)。それは多分、十代の少年キャラがちゃんとメインにいるからだと思います。真っ当な作品はヒロインを主人公と歳の離れた少女にしても、ヒロインと同年代の少年キャラもちゃんと出すんですよね。主人公は一歩引いた所にいる大人であって、遥かに年下のヒロインと『対等』になったりはしない。
ゴールデンカムイは気持ち悪いけどセクハラ発言たくさん出てくる「銀魂」はセーフ。だって私が気持ち悪いと思わないんもん! だってよw
まあ実際、当時のアイヌ民族では歳の差婚が当たり前だったのかもしれませんが。でもやっぱり気持ち悪いです。アイヌ民族にしろ在日コリアンにしろ同性愛者にしろ、ある点で被差別者だからと言って別の差別をしないという訳ではないし、また差別しても許される訳ではないと思う。ロリコンがアイヌ民族の文化だというのなら、そんな民族滅んでよし、滅ぶべき。インドのカースト制と同じだ。民族差別を問題視する側が女性差別には鈍感、って非常によくある話過ぎて本当に嫌になる。だから私はたとえ「アイヌ民族を正しく描いた作品」であっても、このようなロリコン漫画を肯定的に受け止める気には到底ありません。
当時のアイヌ民族では年の差婚が当たり前だったかもしれなくても気持ち悪いんだってさ。
「ロリコンがアイヌ民族の文化だというのなら、そんな民族滅んでよし、滅ぶべき。」だってさ。
おう、withnewsに憤ってたみなさん。少数民族差別やLGBT差別に厳しいみなさん。同じ仲間のフェミニストがこんなこと言ってるけど放置しておいていいの?
差別主義者は絶対許さない。みんなで囲んで叩いてもいいんでしょ? 女だったらアイヌに対する差別発言してもいいの?
まあねー…青年漫画にはこの手の、成人男性主人公と少女キャラで恋愛やそれを明らかに意図した作品は珍しくないんだと思いますよ。よくある話、よくある話。
そういう作品の多くに対しては、心の底できめえとは思いながらも娯楽作品にいちいち目くじら立ててもしょうがないかとスルーできるのですが。
ゴールデンカムイが気持ち悪いのは変にポリティカルコレクトな作品として持ち上げられているからです。
本当だったらこの人もスルーできてたはずなのにフェミニストの方々が「ポリティカルコレクトな作品として持ち上げ」るせいで気持ち悪くなっちゃったんだってさ。かわいそうかわいそう。
単なる娯楽作なだけならいちいち怒ってません。偏りまくりなロリコン作品を『正しいもの』として持ち上げる世の流れが気持ち悪い。
「明るく、おもしろいアイヌを描く」手段が、12、3歳の少女を成人男性主人公とどうこうさせる事なのか。もっと他の手法はなかったんですか。
フェミニストのみなさん、同じお仲間のフェミニストの方にここまで言われてますけど?あなたこの作品褒めまくってたんだからなにか言ったら?
ヒロインが少女なら、主人公も少年じゃいけなかったんですかね…。病気の母親の治療費を稼ぐために大金が欲しい少年とか、両親を亡くして幼い弟妹を養うために金を稼ぐ少年とか、そっちの方が少女キャラと『相棒』になるには自然だと思うんですが。少年と少女で描くアイヌの物語だったらなあ…そっちなら進撃の巨人みたいに一般受けして大ヒットしそうなのに勿体ない。(少女ヒロインと大人の主人公なら、グイン・サーガみたいに主人公と別に少年キャラを出して主人公は二人を守る保護者ポジションでも良かった。少年と少女を守るかっこいい兄貴分ポジションの主人公なら、好きになれそうなタイプのキャラなのにな…残念です)
青年漫画だから主人公が大人じゃなきゃいけないというのなら、そしてヒロインとの間に色恋沙汰を入れるなら、ヒロインも普通に成人女性でいいじゃないですか。「少女」だとしても、せめて十代後半ならまだ受け入れられた。ヒロインの年齢はせめて16歳前後じゃいけなかったんですかね……。12、3歳はちょっと、いくら何でも、おええぇ(しかもその年齢より更に小さく見える)。色々な事件の影響もあって、最近とみに成人男性と少女の組み合わせが苦手になっています。
どういう意図があって、スタイル抜群の美女に高露出させて車の周りにうろつかせとくのか、というのは、自分はあの仕事に必然性や必要性を感じていなかったので推測でしかないが、
「車がより速く走るのが嬉しい人々=スタイル抜群の美女を白昼堂々と眺め回せるのが幸せだと考える人々」とみなされて、その人々へのおもてなしなのだろう、と考えていた。
悪く言えば田舎のヤンキー的というか即物的というか、欲望ダダ漏れ的な下品さ。いやまぁ個人的な憶測にしても申し訳ない。すみません勝手なことを言って。
格闘技のラウンドガールも同様だと思っていますすみません。でも今でこそ変わったけどプロレス会場ってホント「そういうのが好きそうな男」しかいない場所だったし、ボクシングなんかもアレだ。
そういえば、子供の頃、深夜にやっていたF1中継でチーム紹介なんかでド派手なねーちゃんが映るたびに
「F1レーサーって死ぬかもしれん仕事やし性欲強いタイプが多いんかな」と思っていた。私はレースクイーンをドライバーへの接待要員だと考えていたらしい。
実際はF1レーサーって王子属性な人も多いしセレブスポーツらしいすね。知らんけど。王子だからこそいい女をはべらかすのかも。知らんけど。
レースクイーン的な仕事は失くしましょう、と発表することで、美女を堂々と眺め回せることに喜びを感じるタイプの車好きが辟易とする可能性と、
それ以外の人々へのイメージアップならびにポリティカルコレクトに狂信的な層を鎮静化できる可能性、のどちらを取るかで、後者を取る方がお得感が高い、という判断だったのでは、と思う。
美女を眺め回せなくなったからモータースポーツはもう見ないぞ、と言うのなら、彼らはモータースポーツの客ではなかろうから、その辺はキャバクラなりなんなりが、需給とも吸収すればいい。
個人的には、ブコメのいくつかに見られたサッカー型=サッカー好きの子供と一緒に入場、が良い案のように思った。
もしくはpepper君あたりを置いておくのが正解かもしれない。性がないから安心。あと万が一が起きても生命が失われることはない、pepperくんが1台壊れるだけだし。切ない…。
しかし、サッカーはいろんな国でやってるだけあるな。女子競技化も早かったし。FIFAにつきまとうブラックなマニーの噂はあるわけだが、それでもなかなかのオープンさ。
「モータースポーツの振興」ということなら、サッカー型が理にかなっていると思う(が、現実ではモータースポーツは"王子様"の職業なので偽善的に見えてしまうかもしれないが)
自動車文化の発信、ということなら、「主にスタイル抜群の美女を眺め回したいような属性の人たちのための文化」になる可能性、というリスクと共に生きることになる、かもしれない。
自動車市場の発展のために、ということなら、昨今のコンシューマー向けの自動車の傾向を見ても、ドライバーが女性であるという目線が欠かせなくなりつつあるわけで、
レースクイーン要らなくね?というのは、割と合理的判断かなという気もする。
そういえば、アメスポってチアリーディングがおまけで付いてくる印象があるが、あれも将来どうなるんだろうという感じもするな。
スクールカースト的なアレこそ、F1におけるレースクイーンよりもある種の邪悪性を感じないこともないのだが、
結果的に、チアリーディング単体ですっかりスポーツ化している現在を見ると、アメリカ合衆国って何だかんだで面白い国だなと思う。どこまでもフラットであることを志向する。良いか悪いかは別として。
レースクイーン的なものは、従属的な立場からスタートしてどれだけ単体文化性を獲得できるか、ということでいうと、やっぱりちょっと厳しいかもね。
あと女性のF1ドライバーっていないのかね。ラリードライバーだと「このごろ増えてるんかなぁ」ぐらいには目につくようになった気もするが。
全面的に賛成も反対もできないし、極めてデリケートな話題でもある(求められるポリティカルコレクトぢからが俺には足りない)ので一切コメントもブックマークもしない。
あえて言えば中途半端なスタンスを表明することで「足を引っ張るんじゃない」みたいなよくわからない逆恨みを買いたくないということだ。
素朴な感想を述べただけで誰かの敵愾心を煽ることになる場合が世の中にはある。
さて、今回の話の本筋からはずれるけど、大雑把にひとつ教訓として学べることは、「君が被害者であるということが、君が加害者であるということを免責するわけではない」といったところだろうか。
まあ加害者という表現は異論のあるところかもしれない。もう少しそっちよりの立場で言えば、「嫌われ者はいざというとき損をする。なにせ嫌われているので」となるだろうか。
俺はあんまり感情的にどうっていうあれもないので、かの人が被害者兼加害者だろうが、嫌われ者の被害者だろうがどっちでもいいんだけど、要は、いざという時のために、素行にはそこそこ気をつけようということだ(ダジャレ)。
ポリティカルコレクトな表現は、肥満と薄毛でしょうかね。
典型的なのはヤンキーである。ヤンキーは仲間うちの秩序やルールを過剰に尊重し、社会の規範に背を向ける。
自分たちで価値があるとなったもの(たいていは東京など他から与えられるもの)には盲信する。
ヤンキー的な価値癌が支配的な街は、そこの地元のヤンキー以外には面白くもなんともない。
したがって東京でもヤンキーが支配的な足立区とか立川以西とかは田舎であると思う。
もっとも独善的であっても、評価する当人が自分よりも上位にあると感じている存在は田舎とは感じない。たとえば京都みたいに。
地方創成の難しいのは、独善的な地元の人たちが、自分たちが支配できる田舎を維持してほしいと言っていること。それでは地元以外の賛同は集まらない。
北海道のニセコみたいに、白人デベロッパーがかなり自由に事業展開しているところは、私にとっては田舎と感じない。(リゾートという概念もあるな)
一方で将来(もしかしたら現在でも?)中国系企業が支配的な街ができたとしたら、私は魅力を感じないだろう。
私はポリティカルコレクトな人間ではないので、きらいなものはきらいだし、目に入るところにはできてほしくない。
2016年の漢字は「反」かなって思った話
この世界の片隅にを見た
たいへんいい映画だと感じたが、正直アニメに関する知識がないのでその点ではなにも言えるものではないのだが
ここまで趣味のようなものが全開な戦争ものを、とくに邦画で見たことがなかったので、正直にいうと興奮してしまった。
どこかのブログでも書かれていたが、押しつけがましくないのである。
はっきり言って邦画で戦争を扱うとすぐ「戦争はよくない」とかいう人物が出てくる(女子供に言わせればなお良し)
辛気臭くてしょうもなくて、いっちゃなんだが北朝鮮のプロパガンダレベルな定型句だ(そもそもそういうのをセリフで言わす?って話だったりするけど)
思ったのはこれはいつだったかの老人ホームの話に似ているなと思った
老人ホームで老人がやらされているのは、手をつないで童謡をうたったり、お手玉をしたりと、まるで幼稚園のようなことをするんだと。
似てるんだよね。こうすればいいんでしょ。はいはい。っていう公式に当てはめた作業のような仕事っぷりが邦画の戦争映画と
だれのためなのさそれ。入居している老人のためじゃないんだよね。老人ホーム側の都合なんだよね。
どっかの老人ホームではそういうの改善して、麻雀とか取り入れて大人気らしいんだけど、やっぱそういうことだよなっておもった
NHKなんかほんとファッション反省みたいなくっだらない戦争ドキュメンタリー作っててしょうもないんだよね
ヒストリーチャンネルだったか、ディスカバリーチャンネルだったかで
銃の世界とかでずっと第二次大戦の銃について流す番組やってて、こういうことだよなって思った
べつに銃について知りたいわけじゃないんだけど、たまたまその時銃についてだったんだけど
だけど、こういうのNHKでやったらどうなるよ。そらもうすごいことになるだろうねw
NHKって障がい者の番組やったりして攻めてるってことになってるみたいだけど、戦争にかんしては全然だよね。北朝鮮レベル
好戦的か反戦的かのちがいなだけ。反戦的だったら知的だとか思ってそうなところがまさに北朝鮮な感じ
歌番組だったら紅白歌合戦みたいなね。あれまさに老人ホームメソッドだよねw
おててつないでみたいな、若者代表のアイドルが介護するように、老人演歌歌手となんかするお遊戯的番組
当たりさわりのない番組、あの感じまじで北朝鮮感あるよね、みんな不自然な笑顔だし
そんなことがアメリカでトランプが登場したときに日本でどう語られたかといえば、ポリティカルコレクトネスだよ
なるほどっておもったね
こうすればいいという公式がポリティカルコレクトネスなのよね
日本の戦争映画も老人ホームも紅白も、みんなが納得するよしなにな最適解なわけで、そういった公式に対する反発がいくつも起こっているわけで
たまたまアメリカで起こったから関心高く語られてるけど、こんなことはいくつもあるよなって思う
この世界の片隅には、べつにトランプと一緒にするのは失礼な話だけど、でもようやく出てきたって感じだよね
そうだいいぞ!やってやれ!戦争映画はこうすればいいとか思ってるやつらにみせてやれ!みたいな感じはあったね
この世界の片隅にをほめるやつは、ほかの映画腐すからウザいとかいう書き込みをみたからこの辺にしとくよ
でもね、そのくらいこの界隈のこうすればいいんでしょ、はい私いい子でしょ?みたいな糞な感じあったから
ようやく出てきたな~って思ったね
ブコメにて指摘
ごめん!
乳首のない人への配慮に欠ける法律はポリティカルコレクトではないからNG
http://anond.hatelabo.jp/20160805000418
私の意見を要約すると。
・シン・ゴジラって3・11の震災と福島第一原発事故の政府対応に重ねてるよね。
・シン・ゴジラではイケメンエリート官僚や科学者がでてきてかっこよく科学的?に処理したけど
・つまりシンゴジラって福島第一原発事故処理に成功した日本政府のIFものだよね。
・これは「第二次大戦で米軍に勝利する日本軍」を書いちゃう、こっ恥ずかしい仮想戦記の類の何かだよね。
・しかもシンゴジラでは自衛隊がゴジラに冷却材(凝固剤)のホースを突っ込むために特攻して全滅しちゃうんだ。
・でも実際の福島第一原発事故では、よくも悪くも戦後民主主義で人命第一の日本政府はそんな事はさせなかったよね。
退避を繰り返し非正規労働者を大量に投入してゆっくりと泥臭く処理したね。
(状況が進捗しないし、かっこわるいね。でも現実はそういうものだよね。
そんなものを描いちゃったら政治的意思表示が必要なんじゃないの?
格好いいから描いたですまされないんじゃないの?
というところです。
「僕達の楽しいエンタメ作品であるシンゴジラ(虚構)」を(現実)フクイチに重ねるのはやめて下さい!!派
上記はつまり「こども(庵野)がウルトラマンごっこ、ゴジラごっこで遊んでるだけ」
なのに政治的意味合いを見出したり回答求めるのはヤメてよ!っていうことなんだろう。
エヴァなんかは「沖縄決戦」パクってごっこ遊びしてもなんでもいいけど。
震災から5年しかたってない2016年に、フクイチを取り扱って子供のふりして許されるわけがない。
逃げまわるつもりかもしれないが、なんらかの政治的意思表明が必要でしょう。
(はどうでもいいです)
シンゴジラでは泥沼感や絶望感や虚脱感がなかった。これを指摘するのは飽きるけどエリートばかりだった。
「軽トラから載せられた日雇い労働者がゴジラに特攻させられる描写」があったらば強烈な皮肉にはなっただろうなと思う。
これにはフクイチという重いテーマを扱ったのに、リアリティに寄せることがなかったことへの苛立ちがある。
とくにラスト。
次期大統領候補云々について、いちゃいちゃしながら喋ってる」
『ボロボロの感じで虚脱状態で「延々続く収束作業を無言で見守る」』みたいなエンドなら伝わったかもしれない。
もしくは、どこかのブコメに「あのまま核攻撃されて東京まるごと吹き飛ばされればよかったのに。」
ってのがあったけど、そうなったらホント庵野信者になったかもしれない。
だがしっくりくる。途中まではフクイチに寄せたが、最後はアニメ演出で完結させる。
「虚構でした!」「この映画はフィクションです。実在の人物や団体などとは一切関係ありません」
というオチで締める。
なんだろうかこれは。結構毎回やってるような感じがする。夢オチに限りなく近い何かみたいな。
これは「息の長い芸人・TVのコメディアン」のテクニックとか処世術とでもいうのかな。
ここ2日、創作者ってほんと大変だなと思った。
現実を切り取ってそれを虚構化して、針の穴を通すようにすりぬけて、
「ポリティカルコレクト」から上手く逃げ切る。
最後の感想はやっぱり「シンゴジラはいい、素晴らしい、シンゴジラはいいけど、でもね…。」
に戻るんだな。
ちょっと頭を整理したらまた見よう。