はてなキーワード: 鑑みるとは
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/crowclaw109/n/ndaff1d3528c4
上のブクマ見てたら
horaix 誹謗中傷なら勝てるって主張は俺も一定程度合意するけど、仁藤の思想信条の異なる相手への挑発・侮蔑的な言動(例の自殺対策ビジネスとかな)を鑑みると「危険の引き受けの法理」が適用される可能性もあると思う
ってコメントがあって、「危険引き受けの法理」を知らなかったんでググったら
http://www.mklo.org/archives/960
トップにこのページが出てきて、内容が理解できて「なるほど」って思ってたら署名が「弁護士 神原 元」になってて死ぬほど笑った
生活保護者や市役所の職員を恫喝して紙の新聞紙を売るビジネスはオワコン。このままでは日共は衰退する一方だ。
他方、仁藤さんの貧困ビジネスは年々倍々ゲームで業績を伸ばしている。このままだと仁藤商店が赤旗を凌駕する日は近い。
共産系の内ゲバ体質を鑑みるに、仁藤商店は既存の日共の執行部との対立に至る可能性が高い。
そうなると、日共の現執行部が負けるのはほぼ間違いないだろう。資金面で仁藤商店に負けているのだから勝ち目はない。
不破さん、志位さん、小池さんは仁藤商店派に粛清されるだろう。10年以内に粛清される。
志位さんは、ひまそらさんと手を結んで仁藤商店を叩き潰したほうがいい。いますぐに。
卒後20年超、放射線科ストレートで患者に挿管だの心肺蘇生だのやったことありません。卒後しばらくしてBLS研修を受けたことはあるけど。
造影剤でごくまれにアナフィラキシー起こすので検査室の片隅(操作卓のそば)にアドレナリンとかポララミンとか入った救急カートは置いてあるけど、幸いなことに今までそれを使う機会はなかった。
さすがにアナフィラキシー初期対応でアドレナリン筋注、ぐらいは知識として知っている。でも同世代で知らない・やったことないって医師いると思うな。検診とかで食ってるような人。
なのでこの事件については起こりうるだろうな、とは思っている。アドレナリン静注しようとしたとこ、事患者家族に"『アナフィラキシーには対応したことはありません』。"とか説明したらしい
元増田です。
元自の方が反応してくれてうれしいです。
うまく言語化できなくて元記事にはちゃんと書けなかったんですが、私も同じように思います。
つまり「自衛隊内での風通し」をできる限り良くすることが挙げられるんじゃないかと思う。
同じ人をずーっと一つの場所に固定させないのがいいのかなと思いますが
特性上難しいのかなぁと。ほかの部隊と人事交流させるとか可能だと思いますか。
たまに人の出入りはあったけど、新隊員以外で人がはいってくることってめったになかったように思います。
問題起こして飛ばされるとかはあったけれど。
なんにせよ、直接的な被害もさることながら、他ならぬ自衛官の仕事に直接触れることでそれに憧れ、ずっと自衛官でやっていこうと志高く入隊したはずが、クソ野郎どもに幻滅させられて道半ばでの退職になってしまったというのは、本当に辛いことだと思う。
↑の元増田。
一回長々と書いたんだけど、なんか言い訳臭くなったので書き直す。
そのインタビューとかコメントを個別に見ないとなんとも言えないところ。
とはいえ確かに、やべえ奴がいないわけではない。ていうか今思い返してみると、俺の観測範囲でもたくさんいた。
でもそれが民間(「自衛隊の外」という意味で使われている言葉)と比べて有意な差があるかというと、あまりそういう感じはしない。日本のどこにでもいるやべえ奴が、普通に自衛隊にもいるという印象。
で、やべえ奴らの吹き溜まりがあの中隊だったんじゃないかというのが、件のニュースを追った「今の」俺の感想になる。
正直防衛省に限らず、官僚の隠蔽体質と内外からの訴えをなかなか認めない頑なさは今に始まった話ではないので、自衛隊が自身でやるべきこととしては、ああいう吐き気を催すような吹き溜まりを作らないようにすること、つまり「自衛隊内での風通し」をできる限り良くすることが挙げられるんじゃないかと思う。
やべえ奴らの流入は、たぶん社会情勢と組織の性質を鑑みるに防ぎようがない。
被害者の方は1等陸士で辞めている。恐らく入隊の仕方としては自衛官候補生じゃないかと思われる。任期制自衛官とも呼ばれていて、任期満了であれば士長で辞めるはずだ。任期満了はメリットがそれなりにあり、目前にありながら手放したことになる。恐らくそれも損害賠償の対象になるだろう。
なんにせよ、直接的な被害もさることながら、他ならぬ自衛官の仕事に直接触れることでそれに憧れ、ずっと自衛官でやっていこうと志高く入隊したはずが、クソ野郎どもに幻滅させられて道半ばでの退職になってしまったというのは、本当に辛いことだと思う。
自衛隊でなくてもどんな犯罪でもそうだけど、被害が出た時点でもう取り返しはつかない。
防犯ブザーみたいな、手っ取り早く一定の犯罪を未然に防ぐ仕組みがあれば良いんだけど。
心配はもっともだ。俺はやべえ奴のうち上官と呼べる奴が大隊長と2曹にいたけど、まああんま関わらねえしいざとなったらiPhoneで録音でもして週刊誌に持ってきゃいいやとか思ってた。
でもそれは生存バイアスで、立場的に弱い人が被害に遭ってからじゃ遅いんだよな。
俺から言えるのは、所詮どいつもこいつも人間なんで、自衛官だろうが政治家だろうが評論家だろうが作家だろうが医者だろうが宣教師だろうが先生だろうが警察官だろうがやべえ奴はいる。だから、どこに身を置くにしても自衛の手段を持っておいて損はない。
もちろんこれは、被害者を悪く言ってるわけじゃない。
安全神話を標榜していた新幹線がその実、工事中に大量の殉職者を出しているように、人の在るところに理想はない。けれども、それでも理想を追求しようとする人たちがいる。
その一助になればと思ってる。
なんかすげえ共感性羞恥呼び起こしそうな文章になった。マジレスしようとするとどうしてもこうなっちゃうんだよ。
恥を忍んで投稿する。
スラドは削除できなかったんじゃなかったっけ?
廃れたけど
やっぱり似たようなこと考えてる人がいるんだな
ちょっと巡回してみた感想は、「2ちゃんねるの雰囲気をオマージュにした過渡期のフォーラム掲示板」というイメージ
以下、FAQより
タレコむ記事の内容が既存の特定の記事とものすごく似通っている場合(たとえば、スラドで言及されたときから状況が変わったなど)は、単にそのことをほのめかすだけでなく、その言及している記事へのリンクについても書き込んでおいてください。
修正するときのルールをユーザー側が覚えておく必要がある点も、やっぱり過渡期という感じがする
スレをsageてる時に新参者がsageないでレスすると住民に怒られる、みたいに議論の本筋と関係ないところでユーザー同士が衝突するのは避けたい
元記事での俺の書き方も悪かったんだけど、まず、ここでの「議論」は何も政治に関するものだけに限らない
というのと、俺が欲しいのはそもそも議論すること自体が目的のプラットフォームなので、「ただ議論することだけが目的化する」のは俺的には全く問題がない
何かしらの結論を出すこと?(違ったら教えて)
でもそれが目的になるのはたぶん、議論の参加者たち、あるいは議論のテーマの当事者たちにごく限られた時間しか与えられていないからだ
元記事で要件を出したプラットフォームを前提にして言うと、俺にとって議論の目的とは「考え続けること」だと思う
「党派性に依存する連中」も、それを誰かが敵とみなすのなら、今急いで結論を出そうと煽るのではなく、相手の主張をじっくり読んで向き合えばいい
忙しいとか文章が上手く書けないとか、何らかの理由で自分ではその連中の考えを改めさせられないと感じたのなら、極論、変に突っかかるよりは他の誰かや後世に託して、本人は無視を決め込めばいい
そういう意味で、
と書いたし、そういうプラットフォームが欲しい
前段については、俺が元記事で挙げたようなサービスでは満足な議論ができないというコンセンサスが必要かも
「Twitterなんかで発言しても動画や画像投稿してもお互い時間の無駄ですよ、議論がしたいならこっちで、ほぼ確実に残るテキスト(と情報源)のみでどうぞ」みたいな空気を作りたい
あと俺としては、「以前の発言は間違ってました、ごめんなさい」が簡単にできるという(ただしその間違っていた発言と修正の履歴は残る)点をウリにしたい
当たり前だけど人間はしばしば間違う
現代のメディアや議論の場は、間違いを指摘されて、それが間違いであると本人が感じたら素直に謝れるような仕組みになっていない
俺も文字での議論もさることながら対面での議論では殊更よく間違うので、日本の国会中継なんか共感性羞恥で見ていられない
でもそれをできるように、そして記録として誰でも見られるように残しておきたい
議論がいつまでも収束しないのは、上述した通り、別にそれでも良いんじゃないのと思う
重要なのは議論をした彼らや、それを目の当たりにした人達がその流れを見てどう考えるか、考え続けるかだと思う
1行目については、そうかもしれない
「議論なんかじゃ何も解決しない」と思っている人ほど、見て考えて、ときに参加して欲しいとは思う
2行目については、そういう人達は(「共感を得られるかどうか」が本人の直接的な生死に関わる問題になる場合を除いて)議論の場からは淘汰されて欲しい
3行目については、自分の書き込みとAIの回答が全て公開されるとかであれば、上手く作れば良いサービスになると思う
頑張って
人間に反論されると間違いを認められないのが人間なので、AI が議論の論理判断(善悪判断はしない)をしてそれを表示するサポート機能が必要。
なるほど
矛盾を投稿できないようにするんではなく、下書きの際にそれ矛盾じゃない?とサジェストする機能はありかもしれない
俺がやるとしたら将来実装になるかな
当増田の引用しなかった部分は既に要件として元記事に書いているので割愛
しっきーて人が作ったのか
https://blog.skky.jp/archive/category/Webgeki
見てる感じ、議論というより論戦かな
時間制限を設けてるあたり論破前提の人がレート上げそうで、ちょっと俺とは思想が違うな
でも、
今のネットって、内容パクってもPV集まればいいとドヤ顔するメディア関係の人がいるくらい、PVとフォロワー数が正義の世界で、「対話する」とか「検証」みたいなものってあんまり成り立たないんですよね。
で、ネット上で人気や数値を集めようとする類いの行為って、(よっぽど上手くやらない限りは、)バカのままでいるかメンヘラになるかしかない種類のものじゃないですか。
もちろん、それが好きな人のほうが数はずっと多いのだけど、そうじゃない場所があったっていいじゃないか、ってことです。「言いっ放し」にならない空気が働く場所をウェブ上にちょっとでも担保できればな、というのがウェブゲキの目標です。
過ちを認めさせたいというのが謎
ただ、発言者本人が過ちを素直に認められないと、そこで議論が止まってしまうか、「なんで過ちを認めないの?」という方向に捻じ曲がってしまう
簡単に修正できる and 修正を要求できるプラットフォームを作ることで議論を促すことができるのでは、と思ってるけど、厳しいか?
あと、評価経済って言葉自体知らなかったけど、↓で書かれてるようなこと?
https://canary.lounge.dmm.com/17241/
であれば、俺は
と思っているので、この人とは思想が全く違う
ただ、元記事の要件で作られたプラットフォームが、発言者に間接的な経済的利益をもたらすことは無いとは言えない
増田みたいに匿名で長文OKってプラットフォームなかなか無いので、これにアカウント名が表示されるだけでも大分違うんじゃないかな?とは思うんだよな。
俺個人のWeb関連の技術力を鑑みると確かにそういったものを作るのが現実的で、実際だいぶ前に考えたことがある
その時はユーザー認証を実装するのが面倒でやめたんだけど、今は各PaaSで色々あるしね
誰か詳しい人がコメントしてくれて知見を与えてくれるし、
こういう前向きなコメントは見てるこっちまでなんか嬉しくなる
こんな人が増えるとすごく良い
sds-page ブロックチェーン使って発言をNFT化すれば履歴も残って改竄が難しくなる。発言にもガス代が必要で熟考の余地が生まれる
これに近いことは俺も考えてた
上述したように、後世に議論の跡を残すことも重要なことだと思う
ただ、おそらくNFT単体では本人証明ができないので、要件として足りない
NFTと運営側が持ってるユーザー情報のセキュアな紐付けがかなり実装めんどくさそう(個人の感想です)
「発言にガス代が必要」というのは、発言者にガス代を負担させるということ?
そうでないのであれば教えてほしい
ちなみに知ってるかもしれないけど、イーサリアムの考案者Vitalik Buterinは、ごく平たく言えば本人証明のための「譲渡のできない」トークン、SBT(SoulBound Tokens)というものを提唱している
以下その論文
Decentralized Society: Finding Web3’s Soul
1ページ目の概要読むだけで彼の言いたいことは大体掴めると思う
これかな↓
(Knockout.js使ってるのか、珍しいな。どうでも良いことだけど)
これはこれで行政の在り方としてはかなり良い感じだけど、
といった点で個人的には惜しい
元記事には書いてなかったことを補足すると、「good」「bad」ボタンは「ボタンを押した人が『なぜ』その発言をgood or badと思ったか」という情報が抜け落ちて、その投票結果を見た人にとって議論のノイズになりうると考えている
中々眠れずにそんなことを考えていました。
前提として過去に戻る際、今の記憶は引き継がれないこととします。
つまり、自分の意思決定は全く同じ状況化にある場合、毎回同じ結果になるのではないか?ということを考えていたわけです。
=====
中学時代にプログラマに憧れ、高校は情報系の商業高校を選択しました。
そのために中3から塾に通い猛勉強をしてなんとか入学できました。
高校時代は非常に怠惰で、自主勉強はせずゲームばかりをする日々でした。
ですが、情報系の授業は非常に大好きで部活もその手の部活を選択していたこともあり5教科はギリギリ赤点を逃れるレベル、情報系の教科は毎回90点台という塩梅でした。
当時の自分は強くプログラマになりたいと思っていたわけではありませんでした。
ですがなんとなくPCをいじるのが好きだったのでPCを一日中触っている職業がいいと思っていました。
また、フリーソフトをインストールしてPCをカスタマイズするのが好きで、そういった小さいソフトを開発できるようになりたいという思いもありました。
明確な理由があるためこの選択は何度やってもおそらく変わらなかっただろうと思います。
それは親も同じでした。
中学3年生、春の三者面談で父と自分が担任の教師に「笑っている場合ではありません、この学力では志望校は無理です」と怒られた覚えがあります。
父も自分も非常に楽観的な人間でした。が、流石にまずいと思い強制的に勉強ができる塾に通うことにしたのです。
面倒だから行きたくないという気持ちはありましたが、ここまで切羽詰まっては自分を強制する他ないなという気持ちが強かったのを覚えています。
そのため、この時の自分の選択も何度やっても変わらないでしょう。
問題はこれです。
自分は当初、怠惰ゆえの結果で場合によっても勉強する可能性もあったのではないか?と考えていました。
しかし、思いを馳せてみれば当時の自分は「5教科などプログラマになる自分には不要の長物」と考えていた故に「勉強しない」選択肢を選んでいたのです。
上辺だけ見ればただの怠惰でしたが心根には「ゲームなどの娯楽よりも価値のないもの、故に勉強は不要」という思いがあったのではないかと考えたわけです。
もちろん当時の自分の理性は「そんなことはない」と分かっていましたが、今までの少ない経験則や自分の重視している物事、それから娯楽の誘惑などを総合的に鑑みるに勉強しない選択をしたのでしょう。
そうなってしまうとこれも何度やってもきっと変わらないでしょう。
それどころか今でもなお自分は自主勉強ができない人間のままなわけですからこれは確証を持って言えます。
最後にこの進学先ですが、ここはほぼ選択肢はありませんでした。
自分は高校時代にいくつかの資格と大会の受賞経験があり、一応勉強さえすればそれなりの大学に入学するチャンスはありました。
これは「興味のない科目に対して勉強するかどうか」と同じ帰結でしょう。
自分の考え方をトレースするとこの選択肢も変化はなかっただろうと思います。
題名でもう結論は出ていますが、結論として多少の誤差はあるかもしれないが「過去に戻ってやり直しても今の自分と大差ないんじゃないか?」というのが自分の結論でした。
この思考の中で発見したのは「"怠惰"というものは存在せず、複数の選択肢のうち自分の考え方や経験が結果的に"怠惰"の選択肢を選んでしまうのだ」ということです。
また、この「考え方や経験」というのは幼少期の経験が強く影響しているのではないかと思います。(遺伝もあるかもですがデータが自分しかないので遺伝の影響度合いは分からないです)
つまり、幼少期の経験が人間の一生に大きく影響するんでしょうね。
そう考えると、結局人間というものは幼少期の影響がバタフライエフェクトのように広がり、成功や失敗を生み出しているのだろうなと思うんです。
もしそうなら、人がなにか罪を犯した場合、それは本当にその人だけの罪なのかな?などと変なことをぼんやり考えてしまいました。
仕事の合間に見に来たら色々言及いただいて驚きました。ありがとうございます。
さて、いくつか言及いただいている「記憶を引き継がないなら同じでしょ?」という話ですが自分の考えを追記しておきます。
自分は人間の行動にはランダム性のある部分があると考えています。
例えば「歩く」動作一つにしても呼吸の間隔や足の動く速度はつど変化が起きるのではないかと思うのです。
そう考えた場合に「時を戻す」ではなく「再度人生をやり直す」場合に上記のように同じ動きはできるのか?と考えたわけです。人生の再演算と言ってもいいと思います。
その場合、同じ「歩く」動作でも違いが起きるのではないかなと考えています。
そうなると思考にもランダム性があるんじゃないか?と思ったりしました。
そういう曖昧な考えがあってじゃあ実際にどうなんだろうな?と具体的に掘り下げていった結果がこうなったというわけです。
...しかしながら、そう思うと親というものは本当に偉大だなと思う一方で子供を育てる難しさは果てしないものがあるなと考えさせられました。自分は結婚の予定すらありませんが・・・。
上と下が1:2ぐらいの人数比になってきた。
ホワイトカラーをしているのは能力がある老人と現場を追われた老人だ。
社の主力を扱うにもかかわらず、
青白いずれの業務についても人数が足りておらず、
真面目にこなすと仕事量が多すぎて残業が出ることがわかっている。
青については、24時間稼働であるため、業務引継ぎを行っていくことで、
残業は出ないが、仕事の密度が高く、現場監督者は休憩を取れない日もあるほどだ。
そのような現状であるにもかかわらず、残業が出ていないから本部は人員増加をしない。
現場監督者たちが毎日1時間程度サビ残していることを意図的に無視している。
白の仕事はここ数年で増えてきているが、
長は白の扱いの悪さを感じてか、直接青に仕事を振ることも多い。
白の出来の悪い方はネットサーフィン、居眠りが常態化している。
白の一番きついやつは上記に加えて性格が悪く、ベテランが他部署から来たがらない理由になっているように感じられるが、本人にその自覚がまったくない。
青の現状を鑑みると、白は自分たちの仕事を残業してでもこなすべきだが、そうはならない。
そんな現状に能力がある若手中堅からは、主力を扱っているのに待遇が悪いとか、辞めるかどうかの話だとかが話題に上がるようになってきている。
実際に有望だった若手が退職したこともあったが、何が原因か白や本部はわかっていないか、
もしくは分かっていても自分たちに都合が悪いから目をそらしているかだ。
前者なら無知で、校舎なら自分たちさえ逃げられればいいという意図が見え透いていて反吐が出る。
青いといわれるかもしれないが、将来を担うのはいつだって若い世代だ。
自分たちの子に近い世代の彼らに、負債を負わせ続けていいというのか。
若い有望な芽を老人たちのわがまま・傲慢・無知でつぶさないでくれ。
(乱文になって申し訳ない)
図書館の存在意義が薄れてきているのは本当によく分かるんだけど、司書資格という能力を持った人を雇うのに今の手取り9万(だっけ?)という待遇はやっぱり見合ってなあと思う。
司書資格取得のハードルは低いけど、大学に通ったり講座に通ったりする金銭・時間的コストを鑑みると、もう少し待遇が良くてもいいと思うな。
就労条件に「司書資格」を付けている以上、資格を持った人を雇いたいけど正規雇用させる余裕はないですっていうのは虫が良い話だと思う。
署名の金額とまでは行かずとも、一人の労働者を雇う雇用主としてもう少し待遇を改善する努力はするべきじゃないかなあ。
本当に不要ならもう非正規雇用枠なんて無くして、知識の無い一般人のパートタイマーと少数の正規雇用だけで回していったほうが良い。それが出来ない理由がある以上は、今のやりがい搾取みたいな状況はどうにかすべきなんじゃ…って思ってる。
そうですね、あなたの負担があったのは間違いないことです。その会合で負荷がかかったのはあなたですから。あなたが理不尽を感じるのは非常にまっとうな感覚だと思います。
しかしそれとは別に、あなたの配偶者があなたとお相手の「そりの合わなさ」をどれだけ「予見可能であったか」という部分は、それはご自身の尺度で考えな方がよさそうです。また仮に予見できなかったとして、結果として悪い方向にいったことを謝罪すべきと考えるかどうか、というところもご自身の尺度から離れた方がよいでしょう。これについてあなたの配偶者が「理不尽」を感じることを「理不尽」と感じるのはいけません。
ここが非常に難しいところですね、なぜなら私たちには「感情」があるから。つなげてはならない部分をつなげてしまいがちなのですが、この線引きは(難しいですが)大事です。「あの道に行かなければ事故は起きなかったのに」と誰もが思うものですが、それを予見できるかというと人により違うのです。
あなたはちゃんと人の話を聞く人だし、「正しいこと」ということをきちんと考えたい人なのだと感じています。なので、このあたりの「線引き」によりご夫婦が不仲になるようなことは避けてほしいなと思うものです。
もしあなたが配偶者に対して(これまでも)「鈍感だな」と感じる部分があったとしたら、それはあくまで考えの違いに過ぎないのかもしれません。角度が異なるだけで、「理不尽」を感じることは同様にありますし、その「理不尽な思い」がおかしなものである、と考えてしまうとそれこそドツボにはまってしまいますので、角度の違いである、と考えるのがよいでしょう。逆に、配偶者の方にも自分の「理不尽の感じ方」を継続して説明してくことは大事かもしれません。(継続してもうまくいかないことはありますが、それはもう相性次第、というところでしょう。)(おそらくあなたからお聞きする配偶者の人物像を鑑みるに、真剣に話せば聞く・議論できるタイプなのではないでしょうか。私が聞く限りは、「角度」は違くても「相性」はよさそうだな、と感じています。)
例の事件において民主主義の根幹を否定するというコメントが散見されたが、1週間経ってもその含意を理解できなかった
バカと言われたらそれまでなのだが、わからないものはわからないのだからしょうがない
日本の法治主義としての根幹が成り立たなくなるという言葉であれば正しいが、それは政治家でなくても殺人行為の容認は法治主義国家としての前提を失うので部分的に真だといえる
さて昨今の報道内容を鑑みるに、日本の民主主義を支える選挙システムは新興宗教とそのネットワークビジネスによって大きく影響を受けていることがわかった
我々が教科書で学んだ民主主義とは異なるネットワークビジネスの延長としての民主主義を「民主主義」と呼ぶのであれば、
ここ最近、SNSやネットニュース上では「親ガチャ」「毒親」という言葉が流行しているが、自分はどうもこれらの言葉が好きにはなれないでいる。
いや、正確には「言葉自体」が嫌いなのではなく、「その言葉を使うことを無条件に肯定する人間や風潮」が嫌いなのであろう。
その嫌悪感は、「親の言うことは無条件に正しい」「産んでくれたことに感謝しろ」「みんな大変なんだ、自己責任だ」といった無根拠な精神論、根性論によるものではないということは、初めに強調しておきたい。
どうも、インターネット上ではこれらの言葉に反感を抱く者は、上記のような精神論を振りかざしていると、誤解により、若しくは意図的にレッテルを貼られ、
「無理解な大人である」とカテゴライズされることを免れないようだが、せめてもの抵抗として、ここにその旨を記しておこう。
さて、私が「毒親」「親ガチャ」を不快に思う理由は、主に以下の3点にまとめられる。
この3点について、それぞれ考えを述べていきたい。
(精神的、身体的、性的)虐待をしている、経済的に困窮している、近所とトラブルを起こす、アルコール中毒者である、自身の進路や恋愛への過干渉、単に性格が合わない等々、
しかしながら、その言葉の意味の含有する領域があまりに広いことにより、非情にカジュアルな意味合い
(具体的には、自分の意見を聞き入れてくれないといった、思春期にはありふれたような悩み)でも使うことができてしまう。
この言葉の使用者の目線で言えば、自らの具体的な悩みを抽象的で使用しやすい概念を指す言葉に置き換えているので、
当然自らの状況が「毒親」「親ガチャ」に該当するのであると確信を持てている状態となる。一方で、この言葉を見る者からは、
「毒親」「親ガチャ」といった抽象的な概念を指す言葉から、発言者の具体的な悩みを推し量ることは難しい。
こういった「発信者」と「受信者」の理解に隔たりが生まれることは、良い状況を生まない。
発信者は深刻なSOSのつもりであっても、受信者は「カジュアルな意味合いで使っている者との区別がつかず、無条件に肯定し難い」のである。
この問題は、単なる親との不和を指す言葉として「毒親」「親ガチャ」を使う話者が増えれば増えるほど、深刻化していくだろう。
では、そういった発信者と受信者のすれ違いを解消するには、どのような方法を用いればよいのか。
私は単に、それぞれの問題に相応しい言葉を使うべきだと考える。
虐待は虐待、貧困は貧困、我儘は我儘なのであって、それ以上でも以下でもない。
果たして、「親から虐待を受けているから早く家を出ていきたい」「貧困のツケを子供に払わせるような親を恨んでいる」といった趣旨の発言に対して、
冒頭のような「親は悪くない/自己責任だ」と心無い言葉を浴びせる者が、そう多くいるだろうか。
たとえ同じ悩みについて語っていたのであっても、「毒親」「親ガチャ」と表現するより、遥かに受信者にはその深刻さが伝わるだろう。
「毒親」「親ガチャ」の言葉の定義の曖昧さに起因するカジュアルな響きは、「万引き」「いじめ」といった言葉において指摘されているような、問題の矮小化という欠点を抱えている。
(いじめや万引きは、その加害者や責任者が使うことによる問題の矮小化を指摘されているので、正確にはやや性質が異なることは承知しているが、毒親、親ガチャは被害者自らがそれに類似した矮小化を招いていると言える。)
自分の悩み、心の叫びを誰かに聞いてほしいのであれば、より正確に、相手にそれが伝わる言葉を用いることも一つの工夫であろう。
「毒親」「親ガチャ」といったサーチに引っ掛かりやすい、目につきやすい言葉を用いて形容することで、より多くの人の目に触れる可能性は高まるというメリットも確かに存在する。
よってその言葉自体を使うことを非推奨するわけではないが、用いる場合も自らの具体的な悩みを併記する方が、真剣に捉えてくれる人は多いはずだ。
これは、「毒親」「親ガチャ」を使用する側の問題ではなく、「受信者」の、更に言えば「大人」の責任の問題だ。
「毒親」「親ガチャ」を使うことは何も悪くない、どんどん使うべきだ、批判者は恵まれているだけだ、こういった無条件な肯定は、同世代の共感からくるものとは限らない。
自分が虐待などに苦しんだ、などの経験を持つ「善意の」大人からも多く寄せられている。
しかし私には、どうも「嫌ならやめよう、逃げよう」論と同様に、自らが責任を持たなくて済むのを良いことに、軽々しく注目を浴びたいだけの者や、
「毒親」「親ガチャ」といった言葉の存在を社会問題に繋げたい者といった、「悪意ある」大人が多分に含まれているように思えてならない。
(思えてならない、というのは正確ではないかもしれない。実際にそういった趣旨の発信を観測したことや、発信者のbioおよび過去の発信を観察した結果などから鑑みるに、上記の大人が一定以上の確率で紛れ込んでいるのが事実だ。)
1で述べた通り、「毒親」「親ガチャ」は曖昧な言葉で、本来は「虐待」「貧困」などといった深刻な問題から、単に思春期特有の不和なども含まれている。
そこに新たな社会問題が生まれたのではなく、「元々そこにあった問題が別の呼称をされている」に過ぎない。
もし社会的な問題が新たに生じているのだとすれば、青少年がSNSを使用する機会が増えたことにより、そういった「無責任な大人や唆したい大人」の意見へ触れる機会も、必然的に増えてしまったことこそが問題だ。
(無論、SNSの繋がりによって救われる人も多い。SNSそのものが青少年に悪影響である、と主張するつもりは全くない)
本来であれば、後から思い返して「自分が若かったな」で済む話を、周囲や社会へ責任を転嫁するような、拗らせてしまった人が量産されることは、自分は望ましくないと考える。
(「じゃあ『悪い大人』の狙いを嘯くお前の狙いは何なのだ」と聞かれたら、自分の幸福を守るためです。単に拗らせた他責性の強い人が社会に出てこられると迷惑なので。
ついでにその人自身も拗らせない方が幸せだとは思っていますし、正確な言葉でSOSを求める人が増えた方が、社会全体の利益に繋がるとも考えていますが。)
これも言葉を使う若者というより、それに付随する議論で生じる「悪い大人」の話に近い。
冒頭で述べた通り、「毒親」「親ガチャ」へ不快感を示す人は、その論の内容について考慮されることなく、「無理解な大人」のレッテルを貼られることが多い。
加えて言うと、「あなたは恵まれた家庭環境(親ガチャ当たり)だから恵まれない人の気持ちはわからない」というレッテル貼りを、非常によく見かける。
この論は全く筋が通っておらず、安易に社会の分断を加速させる、極めて悪質極まりないものであると私は考える。
何故ならば、「毒親」「親ガチャ」否定派の家庭環境についてはどう頑張っても想像の域を出ることはなく、属人的な論法でありながら「人」の部分を故意に都合よく歪めているからだ。
このやり口には一欠片ほどの正当性もない。
「毒親」「親ガチャ」という言葉へ好意的な者の家庭環境が、批判的な者よりも劣悪だったという根拠は何一つない。そもそも家庭環境そのものに対する評価が極めて多様なベクトルからなされるものであり、単なる比較がしづらい。
更に言うならば、「『毒親』『親ガチャ』批判派には人の気持ちがわからない」論者は、この点を最大限悪意的に利用し(または思慮深くないためか)、他者の家庭環境をジャッジしている。
親ガチャ批判派「自分も貧乏だったけど…」→虐待されてないだけマシ
親ガチャ批判派「自分も虐待されていたけど…」→裕福なだけマシ
といった具合である。彼らは相手によってゴールポストをずらすことで、自分たちが相手よりも恵まれていないことを強調する。繰り返すが、そこに根拠は何一つないのである。
先ほど、家庭環境については想像の域を出ない、と記したが、珍しくこの点についてある程度確度がある情報が世に出ているにも関わらず、誤った「ジャッジ」がなされた例もある。
昨年、某男性アイドルが「親ガチャ」という言葉に難色を示した件について、多くのネットユーザーが「お前は恵まれていただけだ」「アイドルになれる時点で親ガチャ当たり」
しかし、当該アイドルは幼少時に父親から身体的虐待を受けていた事実をカミングアウトしており、ニュースにもなっている。
虐待を行い、我が子に恐怖を植え付ける父親を、どういった基準で判断すれば「親ガチャ当たり」なのだろうか。全くもって理解に苦しむ。
「毒親」「親ガチャ」といった言葉を無条件に肯定する者の中には、勝手な想像で同情し、勝手な想像で批判する、
真の意味で他者の心に寄り添うだけの器量を持たない人間が多くいるということが、あの一件だけでも証明されたと言っていいだろう。
家庭環境について想像の域を出ないことは、「毒親」「親ガチャ」を使う人に対しての批判にも当てはまる。だから私は、「毒親、親ガチャは甘え」と、使用者そのものを批判するつもりはないのである。
ただ、「その言葉が多用され、繰り返し無条件な肯定をされると、社会は少し良くない方向に進む」と考え、非推奨しているに過ぎない。
・最後に
以上、3点にまとめて私の意見を述べてきた。
おそらく、「こうやって書くお前自身親ガチャ当たりなんだろ」と、全く内容を理解しているとは思えないコメントや反応も来るかもしれない。(そもそも誰にも反応されないかもしれない)
属人的な話をしたところで正当性が担保されるとは考えていないため、私自身については語る必要はないと思っているが、やや長めの文章を読めない人のために、家庭環境のうち、あまりよろしくなかったと感じている点を一応書くことにする。
私の両親は治療を要するレベルのアルコール中毒者で、父は酒を飲むと理不尽に怒るため、家の中で遭遇しないようにしていました。
母は酒を飲むと暴力へのハードルが著しく下がる方だったので、対処に苦労しました。今の関係性は身バレを少しでも防ぎたいので書かないことにします。
今回の文章を通して、それぞれの立場の人に伝えたかったことを簡単にまとめて、締めくくりたいと思う。
然るべきところ(学校や児童相談所)へ相談しましょう。インターネットで愚痴をこぼすことで発散するのも、それはそれでいいと思いますが、
本当に困っているなら、より正確な表現を用いた方が、真剣に聞いてくれる人は多いはずです。あと、悪意ある大人の、わかりやすいけど破綻しているような話には気を付けましょう。
その不快感の理由を言語化しないと、単なる無理解な大人と映ります。
深刻な悩みを抱えているかもしれない人へ、心無い言葉を浴びせるのは絶対にやめましょう。
本当に心配なら、言葉に不快感を示す人を煽ったり、無条件な肯定をするのでなく、
相談を呼びかける、貧困解決や、虐待防止運動をするNPOなどへの寄付をする(又は呼びかける)など、もっと当事者たちのためになることがあると思います。