はてなキーワード: 謝罪文とは
わたしは原文を読まずに拡散されている過激なテキストだけ見て怒り狂ってます、許せないんです、って正直に言えばいいじゃん。
「記事の内容につきましては、発売前の原稿確認ができなかったこともあり、事実と異なる内容も多く記載されておりますが、」と答えている点、
ロキノンとクイックジャパンの記事中で言ってることが食い違っている点
(ロキノンでは「自分のアイディア」と言っているが、クイックジャパンでは先輩がやっていて「ヤバい」と語ってるし、ウンコ食わせる描写はどこにも出てこない)
を考えると、ロキノンの編集サイドが過激さを演出するためにネタ的に盛っている可能性だって否定できないよね?なんでここを都合よくスルーするんだよ。
もし仮にウンコ食わせた事実があるのなら、いじめを詳細に語っているクイックジャパンでそのエピソードが語られていないはおかしいのだけど?
少なくとも、クイックジャパンを読んだ限りにおいては、小山田が障害者にウンコ食わせてオナニーさせてその上でバックドロップはしていない。
怒り狂う前に、事実なのかを本人たちに徹底的に追求するべきだろ。
荻上チキ・Session | TBSラジオ | 2021/07/19/月 15:30-17:50 https://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20210719160547
(荻上チキ氏)
この小山田圭吾氏が過去に行っていた、いじめに関する露悪的なまぁ、発信。
1回のインタビューでぽろっと答えたということではなくて、複数回のインタビューで詳細にそのいじめの中身を語って、しかも悪びれる様子がないというような様子というのは、Web上でも20年以上前からたびたび話題とはなっていたわけです。
そうしたようなことがずっと棚上げされたまま、今回オリンピック、パラリンピックで楽曲提供をするという風になった際に、この名前がでてきたことに対して、これは明らかにちょっとミスマッチだろうというような非難がさらに盛り上がり、また今回の報道などによってその出来事、そういった発言を過去にしていたということを初めて知ったという方も多くいると思うんですよね。
90年代の音楽などに触れている人などにとっては、コーネリアス・小山田圭吾氏というのはとてもあの馴染みのあるミュージシャンだと思うんですけれども、でも日本全体でどれだけの認知度かというと、そこはちょっと分からないところがあるので、むしろ今回の件で小山田氏を初めて知った人にしてみれば、オリンピックなどで楽曲提供しようとしていたけれども過去にとんでもない犯罪的な差別を行っていた人物だったっていう情報だけ与えられると、当然ながらそんな人物不適格でしょ、となるのはこれまた当然ということになりますよね。
この件っていうのは、過去にじゃあ行っていたいじめ加害が発覚した場合に、その人の仕事までキャンセルする必要があるのか?というような問題として理解される向きも一部あるんですけど、その問題とこの問題は別だと思うんですよね。
今回のは、過去のいじめ加害というのが何かのきっかけで「発覚」した事案、ではないんです。
そうではなくて、小山田圭吾氏が繰り返し過去のインタビューの中で攻撃的、露悪的な仕方でいじめの手法というものを赤裸々に語っていた、それを読んだ人たちに対して当然不快感を与えるかもしれないけれども、それを一つのエンターテイメントとして味わって欲しい、読んで欲しいという感覚、文脈で内容を提供しているということになるわけですよね。
そうすると、いじめとか差別というものを軽視するような発信というものを、アーティストになってから行っていた問題ということが、ここに関わってくるわけです。
過去のいじめ加害という点でいうと、国立教育政策研究所のデータなどだと、小学校から中学校の間にいじめ加害を行っていない児童というのは1割程度しかいないんですよね。
やはり誰かしら、何かしらのタイミングで、誰かに否定的なあだ名を呼びかけたりとか、誰かを無視したりとか、誰かを叩いたりとか、そうしたようなことを一定期間行うということはしてしまうところがある。
ただそれが持続的にどこまで行うのか、何年間も行い続けるのか、ずっと行うポジションにいるのかということで見ると、どんどん数が絞られていって、継続的な加害者になっていくという人はその中でもまた一部になっていくっていう状況があるわけですね。
ところがこの小山田氏の様々な発言というものは、そのいじめの文脈というものを超えた、性暴力でもあるし、障害者差別でもあるし、いろんな問題を含んでいるわけです。
インタビューの中でも紹介されている加害行為というのは(先程「たまむすび」の中でも少し紹介されたりしていましたけれども)たとえば人前でマスターベーションすることを強要するとか、あるいは女子達が見ている中でわざと服を脱がして人前を歩かせるであるとか、あるいはぐるぐる巻きにしてバックドロップをしたり、あるいはまた大便を食べさせたりとか、そうしたようなことを繰り返していたんだということを言ってるわけです。
他にも様々なダウン症の児童などに対する侮蔑的な発言というものを仲間内で繰り返していたことなど、いろいろなことを自ら発信されてるんですけど、インタビューの中だと(笑)とかそうしたような文言を用いて、非常に露悪的な仕方で発信されていたということになるわけですね。
こういったような事態というものは、このインタビューを読んだ人たちに対しては大変なストレスを与えることには当然なるわけですね。
なぜこれがストレスなのか、ということも改めて振り返っておきたいと思うんですけど、僕がたまに紹介している概念で「公正世界信念」という概念があります。「公正世界仮説」と呼ばれることもあります。
これはどういうことかというと、「この社会というのは、正しいことをすれば報われるんだ」というような考え方、これが公正世界信念ですね。「この世界は公正にできていて、人々が適切に振る舞えば、世界はそれに応えてくれる」という一つの信念というのがあって、多くの人たちはこれを内面化しているんですね。
内面化するからこそ「努力は報われる、だから頑張ろう」というようにモチベーションを維持することができる、動機づけを保つことが出来るわけです。
逆に言えば「正しくないことをすれば懲罰を受けるよ」というような考え方でもあるので、これがまた社会から逸脱をするのではなくて適応しようというモチベーションに繋がるところがあるんですね。
良くも悪くもこういった信念を持っているという人はとても多いんだけれども、ただこういった信念が揺らぐような悪いニュースというのがしばしば飛び交ってくるわけですね。
そうすると「あれ?今起きた事件って公正世界信念を揺るがしてしまうじゃないか」誰かが例えばいじめられていた、誰かが性暴力を受けた、そうしたような、バッドニュースが入ってきた時に、人はとっても不安感を抱くわけです。
その不安感は、要は「もしかしたら自分も努力しても報われないこともあるかもしれないし、気をつけていても被害に遭うかもしれない」っていうこと、ってなるとすごいストレスなんですよね。
その時に取られがちな手段が二つありまして、そのうちの一つというのが「被害者非難」被害者が悪いというんですね。
どういうことかというと「これは公正世界信念が揺らいだのではない、世界は変わらず公正だ、と。だけれどもあの被害者に落ち度があったから、あの被害者は適切に努力してなかったからそうした目に遭ったんだ、つまり過去に正しくない事をしていたからその懲罰として被害にあっただけなんですよ」っていうふうに矮小化をする。
こういったような仕方で、貧困当事者を叩いたり、被災した方を叩いたり、性暴力の被害にあったことを叩いたりということで、むしろ弱者を叩くっていう方向で解消しようとしてしまうのも、公正世界信念のもたらす現象なんですね。
でも、同じく公正世界信念が揺らぎそうになった時に起きがちな方略のもう一つが「加害者に対するバッシング」加害者に対する過剰な懲罰や"悪魔化"ということになるわけです。
要は加害者に対して因果応報というものをもたらしたい、因果応報をもたらすことによって、このモヤモヤした感覚をなんとか治めたい、って感じるものなんですね。
この感覚そのものはとても重要ではあるんだけれども、場合によっては「加害者がまだ謝ってないじゃないか、加害者はきっともっと碌でもない奴だ」っていうことで、悪魔のような存在として描かれるようなことがあって、そうなるとどう対処してもこの信念が回復されないっていうことになってしまうわけです。加害者がどれだけ謝罪をしても、なかなか対処が困難だということにもなりうるわけですね。
一般的にこうした公正世界信念というものは、人々にとても重要な動機づけを与えるし、社会に適応しようという努力を与えるものではあるけども、しばしばそれがコントロール不能な攻撃に向かうような側面というのも当然あるわけです。
ただ、こうしたような「被害者非難」とか「加害者非難」が全部悪いのかというと、そう単純に語れないというところもあるんですね。
「加害者非難」などに通じることによって、一定の抑止効果とかいうのを社会に拡散したいという人もいるでしょう。いろんな動機がそこにあるわけなんです。
今回の件についてはどうなのかというと、明らかにやっぱり小山田氏が発言していたことが明らかになったら、大変多くの人達も不愉快に思うし、また非常にこの世界を不公正だという絶望感を味わうことになる。だから何かしらな仕方で公正さを回復したいと思う。ここまではもう多くの人たちの望むところだと思うんです。
ではその回復の手段がどうすればいいのかというと、今回のようなケースって、回復の手段がほとんど難しいんですね。
例えばすでに被害を受けていた当事者はいて、その人はその後いろんな後遺症とか様々なものを味わって生きてきたかもしれない、それを例えば今更謝罪したからといって回復できるとは限らない、つまり、加害者が被害者に謝罪をすればそれで治まるような案件ではどうも無さそうということも分かっている。
一方で社会に対して、多くのこの不公正があったことについて、あるいは不公正があるということをアーティストとして発信したことについて謝罪すればそれで治まるのかというと、なかなか治まらないでしょう。
少なくともパラスポーツとかオリンピックなどのテーマソングを書くという役割は適任ではないということは言えると思うんですね。
一方で別に小山田圭吾氏に今後ミュージシャンとして二度と活動をするな、みたいなことを言ってるわけではない。
そこはあの今後どういう風にやって行くのか、今後小山田氏の振る舞いとか応答責任を通じて、多くの人たちが「なるほど、まあそう言うんだったら」という風に安全感覚を取り戻せるかどうかにかかっています。
だから今回のペライチで出した謝罪文で多くの人達が納得できるというわけでは当然無いわけなので、今後の様々な発信において、その問題にどう取り組んでいくのか、どう向き合っていくのか、その姿勢を見せ続けることによって、人々の「加害者避難」でも「被害者非難」でもない、ある種の「修復的公正」と言うんですけど、公正感覚が修正されていくというか、取り戻されている感覚というものを、ひとりの発信者としてもたらすことができるかどうか、それが小山田氏に問われてるポイントのひとつになるわけなんですよね。
で、これはとても難しいことではあるんだけれども、アーティストとしていじめ加害の手法などについて露悪的に語って、それが障害者差別などをさらに助長して、なおかつ多くのいじめ被害者に対しても二次加害をインタビューを通じて行った、という点について、同じアーティストとしてどういう風にその後自分で責任を取るのかということはこれからも出てくると思うんです。
だから今回テーマソングを作るか作らないか、これは作らない方がいいと思います。そしてその仕事を降りた方がいいでしょう。
ただその後二度と活動するなという話ではなくて、それに対して活動者としてどういう風に向き合っていくのかということを多くの人たちが見ていきますよ、ということに応答責任というのが出てくるということになるわけですね。
これ、見ている側もやってはいけないのは、「防衛的帰属」という言葉があるんですけど、何かの問題をどこに帰属させるか、どこに責任の所在をおくかっていうのが、その人達の考える倫理観とか道徳観とは別に、その人の考える将来の損得で左右されるところがあるんです。
例えば今回小山田氏を擁護してる人がいるんですね。たとえば「そんな過去の話」とか「その当時はいじめを露悪的に語るのが当然だったんだ」みたいな仕方で擁護する人たちがいる。
それを見ると、結構典型的な「防衛的帰属」だなって思うわけです。
どういうことかというと「彼が悪いことになると、自分も悪いことにさせられてしまう可能性がある。だから『彼が悪くない』っていう風に言うことによって、自分が叩かれるリスクを下げたい」。つまり自分を防衛するために、責任の所在を「彼ではない」「ここではない」「そこではない」というふうに位置づけたがるということなんですね。
そういうふうに、どこに責任を帰属させるのかっていうようなこと自体が、人々にとって損得を左右されるような問題になってるわけです。
だからネット上などでも、実はその、小山田氏のあり方というものを擁護する声というのも、まちまちあって、しばしばあって、そうしたかたちを見ると、たぶんその自分の振る舞いとか、自分のメディアの振る舞いとか、90年代の表現とかいうものまで堀り返されると問題だなっていう風に思われると色々発表がしにくくなるとか、そうしたようなことが場合によっては関わってくる可能性もあるわけですね。
そういうような「防衛的帰属」を繰り返していると、結局、今回どうすればいいのかっていう議論が前に進まないことになるんですよ。
そうして「自分が叩かれたくないから、この人は擁護しとこう」みたいな損得勘定で議論されてしまうと、結局、「被害感情にはどうすればいいの?」とか「こういったものを再発しないためにはどうすればいいの?」っていう議論が出てこないことになるんですね
ちょっと遠回りした言い方になりましたけれども、今回インタビューによって多くの人たちが非常に不公平な世界だっていう感覚を突きつけられた、それに対してなんとか回復したいっていう強烈な動機に突き動かされているという状況がある。
それをやったのは何かの暴露とかではなくてミュージシャン本人のインタビューの中での発言だったから、ミュージシャン本人として今後の発信などでどう応答するのかということは当然問われてくるだろうと。
それが行われてない現段階においては、このオリパラのテーマソングを受けるというのは不適格だことに当然判断されることにはなるだろう、と思うわけですね。
ではその後どうするのか。
これ一朝一夕に本人が反省しましたって言って何とかする話ではないでしょうし、反省云々ということするためには基礎知識とかいろんなことが必要になりますよね。
どう誤っていたのかを言語化できないと、応答はできないということになるので、今回の本人のメッセージ云々でおそらくなかなか納得しがたいようなところがある中で、どうそれに向き合っていくのかということが問われていくのかな、という風には思います。
80年代90年代当時というのは、特にいじめ対策というものは今より脆弱でした。今は随分といじめ対策で、科学的に何が必要なのかということもわかってきました。
今回、多くのメディアがこのいじめ問題を取り扱うのであれば、いじめ対策として今どういった知見がより重要で、よりどういった教育こそが必要なのか、という話も、いろんな現場に広げてきてほしいなと思います。
オリンピック組織委員の誰かが「今辞任させる必要ある?謝罪文だけで十分じゃない?」みたいな事を言ってたようだが、組織委員会はこの人物を公表すべきでは?
確かにこのタイミング!?って感じではあるものの、政府と戦える発言力を持つ人物っぽいし、これがもし教育に関わってる人物だと余計マズイだろ
自分は小山田氏の音楽についてはフリッパーズギターの頃から聴いているファンだ。
ファンとはいえ音楽を聴いているだけで、彼の人間性などはあまり知らないし
もしくは以前炎上した時に見かけたかもしれないが記憶には残ってなかった。
今回の件に関して明らかな人選ミスだと思うが、辞任するのはスケジュール的に難しいだろうからクレジットから名前を消すなどの対応になるのかと思っていた。
結果的に辞任するということになったが、本人が決めたことなので特に感想はない。
彼が行ったとされる行為は醜悪なもので、許されることではないと自分も思う。
彼の謝罪文にも許しを乞うことは書いてなかったので、読んだ人が許さなければならない理由もない。
ただ今回の件でキツかったのは、小山田氏に対する暴言を多く見てしまったことだ。
自分のツイッターでフォローしている、顔も知っているような人たちが
彼に対して敬称もつけずに批判とも暴言ともとれるような、建設的な意見には見えないものを多くみてしまった。
人の尊厳を踏み躙った過去があり、それに対して謝罪をしてこなかった人間であるというのは事実だが
であれば彼の尊厳を踏み躙った人たちの尊厳もまた同様に踏み躙ってもいいのだろうか?
自分も今まで気づかないうちに同じようなことをしていたのかもしれないと気づいて、とても怖くなった。
私はコーネリアスこと小山田圭吾の熱狂的なファンだ。中学生の時、たまたまフリッパーズギターの「シングルス」を手に取ってから、それからずっと小山田圭吾が好きだ。彼の曲も、佇まいも、ファッションも、生き様も、ずっと尊敬し、参考にしてきた。ツアーも幾度となく参加した。好きすぎてメールアドレスにもしていたし、待ち受けも「POINT」のアー写だった。
もちろん今回の大炎上の元ネタになっているQJも知っている。というか、15年以上前に件の記事を知って、本当にこんなこと書いてるのか?とあちこちの古本屋を巡って手に入れた。現物は実家の棚にある。
そんな彼が東京オリンピックという"失敗が約束された"イベントの音楽を担当すると聴いた時は心躍った。ようやくオリンピックを(一部だけでも)肯定することが出来る!見るという動機が出来る!と、とても嬉しく思った。
彼のイジメについての記事は2chの古くからコピペとしても存在していた。彼のスレッドが立つたびに連投され、また、いじめについてのスレッドが立つたびに書き込まれていた。誰の執念かは知らないが、そんな書き込みが広がるにつれ、「ウンコーネリアス」と呼ばれていたことも知っている。熱心なアンチの賜物。しかし、そんな揶揄など、まだ可愛いものだった。
東京オリンピックの「失敗」を心のどこかで願う人々が、政治家や運営者ではなく、彼を次のターゲットにした。そして、火がついた。
このオリンピックをどうにかして失敗させたい人、イジメに対してどうしても許せない感情を持つ人、コーネリアスのアンチ、運営に女がいないと叫ぶフェミニスト、菅政権反対派、反自民、自分が参加予定のイベントが潰された人達、自称人権派の方々、話題に乗っかりたいだけのご意見発信人、ガヤツイッタラー、ストレス発散したいだけの暇人などなど、SNSの標的が彼になった。色々な理由を付け、「イジメ反対」という大義名分を掲げると、1番叩きやすいのが小山田圭吾だった。
私は、ネット上で燃え盛っていく炎を見て「なぜ?」と思った。なぜ彼が40年も前に行ったイジメでこんなに叩かれなければならないのか。贖罪をしてない、謝ってない、気分が悪い、嫌な気持ちになった、という意見も散見された。いやいや一体何様のつもりなんだ?と。知る必要もない情報を得て勝手に嫌な気分になる。嫌な気分になったらその当人を匿名で叩く。いじめられた当人でもなく、その場にいたわけでもなく、30年前に雑誌に語った40年前のいじめの話をぶり返され、人格を否定され、そして作品をも否定される。
叩いてる人達がやっていることは彼が過去個人に行ったイジメ以上のリンチだ。
謝罪文を載せると「辞任しろ」の嵐。謝っても許されないSNSのリンチ。「イジメ反対」という大義名分を盾にしていとも簡単に行われるハラスメントの数々。海外メディアへのチクリ。
日本中の人々が叩いてる相手は、ただ1人の日本人だよ。ただ1人のアーティストだ。正論や論破は1番簡単な暴力だと誰も気付かず、いや、気付いてないフリをして自分の意見を通すために叩き続けた。正義感という名の拳で何万という人達が1人の男を殴り続けた。
そして先ほど、小山田圭吾がオリンピックの音楽担当を辞任した。
良かったね。
もう誰も正直に生きることの出来ない世の中が、オリンピックの後に待っているよ
ペライチの謝罪文により、反省している、これまでに貢献がある、(更迭しても作り直す時間がない)、などなど、様々な理由をつけて続投させるのと
「彼の行為はオリパラにふさわしくない、作り直す時間は無いので音楽なしで行う」と表明すること
後者であれば日本はイジメという名の犯罪行為を絶対に認めない安心安全な国を目指すという強烈なメッセージを世界に放つことになると思うが
https://twitter.com/kiyohara3_5_114
今でも薬物依存症に苦しみながら、自分の弱さを認めてそれを詳らかに開示しながら乗り越えようとしている。
彼は5年間この苦しみと向き合ってきたし、今後も向き合う覚悟が見て取れた。
今五輪開会式の作曲担当の方が過去にいじめを行い、その上武勇伝のように語ったとして炎上している。
これについて叩いている意見をよく見るが、いい加減許してはどうだろうか?
「いじめは良くない」という意見は完全な正論であるし私も同意見である。
が、その正論という武器で人を攻撃するのは「いじめ」と何も違わない。
もう許すべきである。
「ごめん」
された側がどう思うかは重要ではない。
少なくともいじめをした人間、そして第三者からは終わってしまうのだ。
そんなモノ絶対に許せない。
やっても精々が少し怒られるくらい。
罪の意識なんてものも全く無いし、被害者が自殺したとしても実刑までいくのは非常に稀だ。
そんな犯罪者を一生許すべきではない。
ニュースを見てからずっと、過去にいじめを受けた経験のある私はこの2つの感情が渦巻いている。
私は善良な人間でいたいと常日頃から考えているし、他の人間を叩くような事もしたくない。
ずっと悩んでいたが、被害者の方が何か表明するまではこれ以上何も言わないでおこうと思う。
結局のところ作曲担当を許す権利も、許さない権利も全て被害者の方にあるのだ。
私は同じいじめを受けた人間として、その権利までは奪いたくない。
願わくば。
許さないと言ってほしい。
各局の報道傾向を知るためにまとめました。バッシング・クレーム等への利用は望んでいません。
本日18:55頃辞任の報道がありました。以下はそれぞれ辞任決定前の番組についてです。辞任後は全社で報道されました(2021/07/20改題)
7月15日深夜1時 開会式音楽スタッフ発表 その後SNS等で炎上
7月16日18時 Twitter上でコーネリアス(小山田圭吾)謝罪。組織委続投の意。
7月19日19時 辞任発表
パナソニック製ブルーレイレコーダーのシーン一覧機能で7月19日の放送を確認。
10秒足らずのニュースでも見出しが作られているので精度は高いはずですが、見逃し等間違いあったらご指摘ください。
「スッキリ」での報道を確認しました。見出し作成の精度にムラがあることがわかったので、時間がとれしだい目視での確認を行います。
ブコメでのご指摘ありがとうございます。
特にめざまし8はEXITが出演していて、とても見応えがあった。
・NHK「おはよう日本」 開会式リハーサル映像のみ、5時~8時代報道なし(確認済)
・日本テレビ系列「ZIP!」「スッキリ」 「スッキリ」内、開会式関連のニュースとして報道ありました。申し訳ないです。
あさチャン内で開会式リハーサル映像。ただしTBS系列は前日の「サンデー・ジャポン」「アッコにおまかせ!」で取り上げている。
個人的にNHKで報道なしは残念です。ブコメにて土日に報道があった可能性があるということなので、NHKについては15日・16日分も確認したいと思います。
EXITは当初よりネット炎上批判側としての発信が目立っていたので、本人のいる場で批判されている理由をしっかり解説・報道したことを評価したいです。
永島優美アナ、小山田圭吾いじめ問題に「楽しげに自慢げに話している所に、ものすごくショックを受けた」
https://news.yahoo.co.jp/articles/02170eb2d16fb14b5dc73b5399391bf8928351f4
橋下徹氏、小山田圭吾いじめ問題で「この楽曲を世界に発信したら、日本の恥」
https://hochi.news/articles/20210719-OHT1T51031.html
EXIT兼近 小山田圭吾擁護者への〝人格攻撃〟に警鐘「いじめの一種になるんじゃないか」
https://news.yahoo.co.jp/articles/5961da0210de9e251d6308f9a948308c8a04bf61
EXITりんたろー。 小山田圭吾いじめ問題に実体験もとに語る「全然比じゃないけど想像を絶するもの」
https://news.yahoo.co.jp/articles/007c71581e58df71f2233109aecb33eda51605f5
谷原章介、小山田圭吾のいじめ謝罪文に「本来ならこの話が来た時点で謝罪をしておくべきだった」
https://news.yahoo.co.jp/articles/73d52fdf6a254df3e63197a3197a85872a26ac26
小山田某の謝罪文とやらを受け入れられない理由は(自分の中では)明らかで、それは彼が現在の罪を認めていないからだ。
彼本人も彼を擁護する者たちの言い分も一貫して「現在の彼は正しい倫理観を持ち過去を十分反省している」というものだが、要するにそこが納得できない。
いじめ被害者の未来(=つまり現在)を破壊した事を本当に後悔し、責任を感じているなら、言葉では何の取り返しもつかない事はすぐに解るはずだ。
"過去の私は未熟で~" と過去過去というが、今の自分はどうなんだ。
責任を感じるといいつつ言葉の謝罪によってその責任を反故にしようとしている自分は?
あまつさえ "長らく罪悪感を感じてきた" などと半ば被害者面じゃないか。
パラリンピックに関わることに決めた経緯にしても、まるで炎上前から自分の罪に向き合ってきたかのような書きぶり。"愚かな自己保身でスルーし続けた" にもかかわらず。
いじめ被害者の過去に埋められた地雷を撤去しないまま現在に至っている事、その地雷は過去だけでなく現在も、未来も破壊しうる事に対して "責任を感じる" などという言葉で何が救われるというのか?
"自らの言葉で経緯の説明や謝罪をしてこなかった"事を保身だと言う割には謝罪だけして経緯の説明をしないのはなぜか?
結局彼が現在の自分に認めている罪は「自己保身」「ファンへの不誠実」だけで、しかも自己保身については舌の根も乾かない謝罪文の上ですでに保身に走っているようにしか見えない。
何度読んで納得できない事だらけで、この謝罪をもって禊、なんて到底受け入れる気にはなれなかった。
なんj メゾット(本人殴るより周囲を殴った方がダメージが入るので殴る)
+
+
あと、海外のフォーラムでも『彼の子どもや孫も同じ目にあうべきだ(そうすれば痛みを理解できるようになるのでは?)』って投稿があったよ
だけど、『無関係な人を同じ目に合わせろだなんてあなたはどうかしてる』と総叩きだったよ
無関係な家族にTwitterでアタックしてるのは粛々と通報すればいい
餃子事件の時も粛々と通報したけど嫌がらせ行為をしていた泡沫アカウントは通報したらちゃんと停止になったぞ
anond:20210718203127 anond:20210718213123 anond:20210718234942 anond:20210719022257
だからどうするってわけじゃないけど。
渋谷系の終焉期に高円寺とか中央線由来のエログロ文化と謎の融合を始めた時期があって、その流れでQJとかの悪趣味を売りにする媒体が出てきた
。
フリッパーズ解体後に迷走する中で小山田がデス渋谷系とか言い出した時は本当に嫌で、NHKホールでツノつけて棺桶から出てきたあたりで一度見切りをつけた。
例のインタビューはそういうプロモーションの一環だったから、キャラ立てのために露悪的な発言をしてるんだと受け取ってた。
フカシだといいけど本当かもしれない、どっちにしてもこういうこと公言して許されると思ってんなら調子乗りすぎだろ…ぐらいの温度感だった。
媒体に苦情を言うとかそういう発想はなかった。やるべきだったんだろうか。
でも今みたいに「不快感→すぐSNSに投稿」みたいな文化はなかったし、嫌なことがあっても、友達と「なにあれ最悪」と言い合って終わりにする以外の対応なんてしたことなかった。
その頃まで一応ファンだった人間として、甘やかしていたと言われてしまうのか、どうしたらよかったのか、と毎日グズグズ悩んでる。
あの時なんかしたらこんなことにならなかったのかな。
例えば苦情の投書をすれば、謝罪文が載るとかして、後年の騒がれ方を少しは和らげられたかもしれない。
具体的に悪いことしたわけじゃないから反省はしようがないけど、後悔はしてる。
こうなることを少しでも止められるところにいたのにって。
ただやったことの落とし前は本人にしかつけられないから、小山田さんには具体的に何か考えてほしい。学校に問い合わせれば連絡先ぐらいわかるだろう。
この文を書いたことに意図はない。批判はされるべきだし謝罪文出したのも「怒られたから謝ります」レベルで褒められた話じゃないし、今からでもクレジットから名前を削るぐらいはされるべきだろう、みんなの言う通り。
少なくともロッキング・オン・ジャパンはねつ造だとは表明してないな
山崎氏の謝罪文(https://rockinon.com/blog/yamazaki/199668)は以下の通り
▼ロッキング・オン・ジャパン94年1月号小山田圭吾インタビュー記事に関して
小山田圭吾氏が東京オリンピック・パラリンピックのクリエイティブチームの一員に選出されたことを受け、94年1月号のロッキング・オン・ジャパンに掲載されたインタビューで氏が話された中学時代のいじめエピソードが各方面で引用、議論されています。
その時のインタビュアーは私であり編集長も担当しておりました。そこでのインタビュアーとしての姿勢、それを掲載した編集長としての判断、その全ては、いじめという問題に対しての倫理観や真摯さに欠ける間違った行為であると思います。
27年前の記事ですが、それはいつまでも読まれ続けるものであり、掲載責任者としての責任は、これからも問われ続け、それを引き受け続けなければならないものと考えています。
傷つけてしまった被害者の方およびご家族の皆様、記事を目にされて不快な思いをされた方々に深くお詫び申し上げます。
犯した過ちを今一度深く反省し、二度とこうした間違った判断を繰り返すことなく、健全なメディア活動を目指し努力して参ります。
そもそも、誇張ねつ造であっても障害者を恐喝し虐待した記事を平気で載せたままにしていたのだから
『障がい者スポーツ大会であるパラリンピックは辞退する』って因果応報とか持ち出す前に当たり前のことだから
まぁ氏を採用し続けた連中も悪い、同罪
俺も元増田の感覚に近い。ついでに言うと、この増田に対する返答として「いじめると将来こういう目に遭うというモデルとして、社会的制裁は抑止力になる」っていうのはスジが悪いと思う。
だって、どこのガキが「自分は将来オリンピック・パラリンピックの作曲者になるかもしれないから、こいつ(同級生)をいじめるのは止めておこう」なんて考えるんだよ?
そんな大ごとの話じゃねえだろ、って言われるかもしれないけど、いじめの本質って想像力の欠陥の問題だと思うんだわ。
相手が今どれぐらい傷ついてるか、それを今後何十年にわたって引きずることになるのか、たとえ被害者本人には自覚がないとしても、周囲の人がどれだけ悲しむか、そういうことに関する想像力が欠けてるからいじめができるんであって、「社会的制裁になるから~」って主張はそういう能力がないはずの相手(好意的に見れば未発達)に対してそれを期待する点で、矛盾してると思う。
もっと言ったら、元増田がそこまで想定してたかはわからないけど、今回の話っていじめに対する批判として結成された論陣が、徐々に属性が違うだけのあたらしいいじめとして再生産されつつある、ってことだと思うんだわ。
一応ことわっておくけど、批判するな、って言ってるんじゃないよ。俺もはらわた煮えくり返る内容だと思うよ。当事者や家族だったら殺意だって抱くと思う。
でも、これは俺の主観だけど、批判と暴力の境界って限りなくあいまいだし、社会的な問題に関する議論でそこの区分が可能だとしたら、批判する側が落としどころをはじめから明示して、その見解で批判サイドが統一されてる場合だけじゃないのか? だって、「許されたかったらどうしたらいいかはテメエで考えな」ってクレーマーだし、「同じ批判側のあいつは謝罪で良いって言ったけど、俺はそれで許すつもりはねえ」って、責められてる側からしたら意味わかんなくねえ?
少なくとも、俺なら意味わかんねえ。厳密に言ったら、日常生活の中ではいくらでもある話だけど、国際的なイベントの規模で責めてる側の要求が統一されない、個々の優先順位もわからないまま提示されるんじゃ、かなりどうしようもねえ。それとも、このどうしようもなさも罰の一環だろうか? たぶんそれは違うよな?
じゃあ、現実的に批判の要望がまとまるか、って言ったらまとまんねえよな。被害者の中にもトーンの違いはあるし、周縁から論戦に加わってる人もいるし、そりゃほぼ無理だろう。
でも、これは極論かもしんないけど、それをまとめるのが個人に大きな責任を問うことの条件なんじゃないか? それが統一されてることを、はじめて社会的制裁を科すって言うんじゃないだろうか。
なんで被害者の側、正義の側がそんなことしなくちゃいけねえんだよ、って言ったら、それは正当な批判と暴力を区別するためだと思うんだわ。俺はね。
直接の被害者もいじめの経験者も外野も自分の意見を言ってて、それは言論の権利ではあるだろうけど等しくフラットで(言ってる側は自分の発言がもっとも重きをおかれるべきなんて思ってないかもしれないが、言われてる側にその区別がどうやってつく?)、言われた側だって苦悩するだろう。クリアな要求に対してどう反応するか、どう贖罪を表すか悩ませるのはまっとうだけど、そもそも何を求めてるのかを悩ませるのはまっとうじゃねえと思う。俺はね。
ちなみに俺は当該の謝罪文でいいんじゃないの、と思ったよ。五輪に参画する時点の本人の加害者としての自覚がぼかされてるように読めるあたりと、今回の職務を自分がどうしたいのかよくわかんないところは気に入らなかったけどね。
でも少なくとも、俺はあれでいい。一方で、直接被害に遭われた方々があれじゃ駄目だ、こうして欲しい、って言うなら、それがもちろん一番いいよ。
いまの混沌とした論陣の形成が自然だとしたら、それをまとめろってのはものすごく不自然な作業で、俺も自分で最低だと思うよ。だって、「誰の(どの)要望が一番正当か、当事者も周囲も有象無象も加わってまず議論して、それが決まってから持ってこい。できるわけねえけどな」って言ってるのと同じなんだから。こんな卑怯な話ないよ。
でも、俺はそれが正義に求められることだと思うし、いまの批判全体の雰囲気は、個々は別として、すげえ不気味だと思う。いまのこれが社会的制裁のモデルとはとても思えないわ。
そのような行為をして
そのような発言をして
ということを社会共通の理解にすること、かなあ。俺の認識としては。
過去に障害者に暴行、性犯罪を犯しても(いじめなんてレベルじゃないよね)
能力とコネさえあればなんの咎めを受ける必要もなく謝罪の必要もなく
障害者の祭典であるバラリンビックに対して責任のある役職についても良い
というのが関係者の認識らしいので。それが社会のスタンダードであってほしくない。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
---|---|---|---|---|
00 | 97 | 15114 | 155.8 | 61 |
01 | 91 | 9734 | 107.0 | 45 |
02 | 45 | 4322 | 96.0 | 58 |
03 | 9 | 2293 | 254.8 | 54 |
04 | 24 | 2373 | 98.9 | 38 |
05 | 22 | 2538 | 115.4 | 47.5 |
06 | 48 | 5837 | 121.6 | 56 |
07 | 92 | 8394 | 91.2 | 47 |
08 | 103 | 7768 | 75.4 | 34 |
09 | 94 | 14518 | 154.4 | 31 |
10 | 165 | 14376 | 87.1 | 34 |
11 | 152 | 15513 | 102.1 | 37.5 |
12 | 189 | 15071 | 79.7 | 45 |
13 | 211 | 20838 | 98.8 | 42 |
14 | 148 | 16162 | 109.2 | 54 |
15 | 225 | 18373 | 81.7 | 43 |
16 | 176 | 20124 | 114.3 | 43 |
17 | 195 | 16300 | 83.6 | 46 |
18 | 281 | 26128 | 93.0 | 50 |
19 | 263 | 24265 | 92.3 | 36 |
20 | 234 | 22544 | 96.3 | 39 |
21 | 196 | 27444 | 140.0 | 48 |
22 | 199 | 21479 | 107.9 | 52 |
23 | 162 | 17024 | 105.1 | 35 |
1日 | 3421 | 348532 | 101.9 | 43 |
クソカル(11), バックドロップ(16), 音楽監督(4), 10カ月(4), リスペリドン(3), 戦闘美少女(3), 金田淳子(5), デザインあ(9), 小山田(79), ブーレーズ(5), Cornelius(3), クイックジャパン(3), 実相(3), サブカル(33), カースト(18), いじめっ子(17), いじめる(16), 90年代(21), いじめ(135), ショタ(13), イジメ(31), ウンコ(30), 許す(33), アーティスト(23), 謝っ(16), 謝罪(40), 小(25), パクリ(10), オリンピック(80), 音楽(50), 五輪(38), 加害者(29), 障害者(35), 当事者(25), 反省(30)
■なぜSF作家は新型コロナを想像できなかったのか? /20210717000606(34), ■坂本龍一が許されるんだから小山田圭吾も許せ /20210717040231(28), ■[東京五輪] 小山田圭吾の代わりは誰がいい? /20210717162602(28), ■重症者数は増えていないから問題ない派の欺瞞 /20210717164711(20), ■なりって言葉さ /20210717000442(18), ■34歳童貞子供部屋おじさんが女性に縁が無さすぎて母親から怒られた件 /20210717133234(18), ■anond:20210716223902 /20210717080715(17), ■何でLGBTを自称する腐女子はあんなに多いんだろうか /20210717142751(16), ■あの謝罪文でちょっと楽になれた /20210716223902(15), ■小山田圭吾の音楽と人格は切り離して考えようという欺瞞 /20210717013634(15), ■俺(リア充既婚者)の休日生活がこれ 弱者男性達はどうすんの? /20210717095313(14), ■小山田圭吾を「謝ったから」と許す者は強姦魔も許さなければならない /20210717144651(14), ■二次創作やってるオタクだけどコミケもうやるな /20210715203113(14), ■めがねっ子好きのみなさんに一言。 /20210715113857(12), ■ /20210717172602(11), ■自分を馬鹿にした奴なんて特定してアレしたい気持ちくらいあるだろう /20210717183402(10), ■ゲリラ豪雨って言うのやめろ /20210716172951(10), ■anond:20210717013634 /20210717120744(9), ■弱い者いじめした者がスキを見せたらとことん叩くべき /20210716210918(9), ■ /20210716005343(8), ■2020東京オリンピックの記憶が始まってもないのに多すぎる /20210715205330(8), ■いじめの謝罪方法 /20210717071331(8), ■なんなんだ /20210717181742(8), ■日本共産党支持者は外交をどう考えているんだろうか /20210717123625(8)
まあそうだよな。あんなきちんとした謝罪の文章を用意できるようになったのも、自分はいじめられず誰にも邪魔されずにスキルを高めていって社会的に成功した結果だしな。
あれは他人に書かせた謝罪文とも言われているので、ぜひとも記者会見を開いてゴーストライターに頼れない状況でクズ人間の本質を見せてほしい。
ここ最近になって「いじめは犯罪行為」 という当然の認識は広く共有されるようになったが、
どうも万引きやスリなどの窃盗や器物損壊、 或いは不良同士の喧嘩のような「若気の至り」とされやすい類の犯罪と同一視されているような印象を受ける。
見当違いもいいところだ。 いじめと同一視されるべきは性犯罪である。
長期にわたるいじめは、 被害者のメンタルに大きなダメージを与え、 その後の人生に多大な悪影響を及ぼす。
多くの被害者は対人恐怖症となり、 社会生活に支障をきたすし、 運良く社会復帰した被害者もささいな切っ掛けでフラッシュバックを起こし苦しんでいる。
メンタルを不可逆的に破壊するという点において、いじめと性犯罪には多数の共通点がある。小山田圭吾は実質的に「強姦に等しい罪」を犯した人物なのだ。
さて、仮に小山田が雑誌のインタビューで「高校時代に障害を持った女子生徒を強姦した」と自慢げに告白し、
その後今回の様な謝罪文が公開されたとして、 それを読んだあなたは小山田を許せるだろうか?
許せるのならばそれでいい。 それ以上私からは何も言う事はない。
過去に性犯罪を犯した小山田が出した謝罪文は許せない、 と感じた人は深く考えてほしい。
なぜ、メンタルに深い傷を負わせるいじめは許せるのに、 同じようにメンタルを破壊する性犯罪は許せないのか。
「いじめでメンタルに負う傷なんて大したことない」とたかをくくっているのか。
同じように「性犯罪でメンタルに負う傷なんて大したことない」と言われたらどう思うのか。
両者に差をつけようとするのであれば、 深く考えてみてほしい。
考えようよ
どんなにきれいな謝罪文を乗せようとそれが消えてなくなることはない
法的に罪を償うことも出来ない
じゃあ、何が出来るかと言うと被害者と同じ傷を背負って生きていくことだと思う
そこで提案なんだが、加害者が嫌いな相手に食糞させられバックドロップを毎日してもらうというのはどうだろうか?
毎日そんなことさせられると大人でも気が滅入るし生きていくのがつらくなるだろう
どう考えてもあの謝罪文を書いた人間とあのインタビューに答えた人間は別人なんだよな。
年月の問題じゃなく、あんなおぞましい鬼畜の所業を嬉々として語れる人間が、あんな美しい謝罪文を書けるようになるには、よほど人生観が変わる奇跡を経験するしかない。
もしもそれがあるとすれば、「音楽家デビュー」のタイミング以外にありえないだろうが、どちらの時期もデビュー済みなのだからこの説は却下される。
つまり、少なくともどちらかが嘘なんだよな。(両方嘘かもしれないが。)
現時点では「あの謝罪文は嘘だ」と言うことも、「あのインタビューは嘘だ」と言うことも出来ないけど、とりあえず、あの謝罪文はかつてネットの誰かがNHKに抗議した時のNHKからの回答と矛盾はしない。
ほんとにそうかなあ。
日本でも他のアジア諸国でもだけど求められているのは反省を可視化するための手続きだと思うよ。
精神の部分に異常にこだわるのは悪目立ちする活動家みたいな人だけ。
パラに関わるわけではないとわかって落ち着く人もいる。
実際に精神の部分は関係ないよね。反省の手続きが行われたかどうか。
元増田の「許す」についてだけど。
手続きとしての禊が済んだと見做すとか武士の情けとして温情をかけるとか「許す」とは関係のない受容がいくつもあるので、社会的には形式が重視されているんだと思うよ。
当然その形式を逆手に取る人は出てくるわけだけど、そこを追求しすぎても社会的な利益がないという判断をするのが一般的な考え方だよ。これは形式的なものを受容することで、社会が罪を共有したとか内面化したとかというスタンスだろう。
ただし、直接の被害者は別。直接の被害者が心の中を整理する過程は社会とは距離ができるのが当たり前。
被害者に過剰に感情移入する人は、社会に対する形式的手続きを受容する性質がない。想像上の被害感情に基づいているのだから、追求することを延々と止められない。
加害者が被害者に対してする手続きと社会に対しての手続きは別のもの。