2021-09-20

コムドットに対する違和感

コムドットについて詳しくなくとも、SNS拡散される彼らの活動を目にする機会は多い。彼らはそのように有名になってきたのだから、彼らのファンでない私のような人間が彼らに言及することも、ごく自然なことだと言える。

彼ら、というかリーダーヤマト氏の炎上に対する声明を読んだ。

少し調べれば、多くの人がその文章に対し強い違和感を抱いていることがわかる。今暇なので、この違和感を明文化してみようと思う。

まず、コンビニ、近隣住民への騒音での迷惑等についての謝罪がある。これはそうだろう。コロナ禍でなくても絶対にやめてほしい。赤ちゃんが寝付いたばかりかもしれないし。

ここでは明確に謝罪対象にしていないが、彼らは当然マスクをしていない。感染症予防のため、飲食店等を除き、複数人マスクなしで密になることは避けるべきという『ルール』がある。

コムドットはこれまでも何度か炎上しているようだ。YouTuber飲み会をはじめとするそれらは、『ルール』に違反たか炎上した。

ではここで、この『ルール』について踏み込んで考えてみよう。

ここでの『ルール』とは、法律ではないものの、社会全体の利益のために守るべきこと、とでも言い換えられるだろうか。現在におけるマスク着用はまさにそれだろう。

私が彼らの炎上やそれにまつわる弁明について調べ強く感じたのは、彼らは本当にこの、マスク着用『ルール』の必要性理解しているのだろうかという疑問である

マスク着用ルールは、判子は斜めに押すとか、乾杯の際はグラスを下にすべきとかそういうクソくだらない仕草ではなく、疫病の蔓延を防ぐためという目的を持ち、また明確に効果が判っているものであるマスクは本当に不便だが、私たち自分ウイルスの運び屋にならないよう、大切な人、あるいはそうでない人を守り、この疫病を根絶させるため、マスクをして、密を避け、ときには帰省結婚式我慢して過ごす。

自分他人を守るための『ルール』を履き違え、大きな問題となった、NAMIMONOGATARIというHIPHOPフェスについて、知る人は多いだろう。HIPHOPカウンターカルチャーの側面は認めているものの、それは体制的な抑圧であったり、不条理命令であったりに対するカウンターである

おそらく参加者にとって、マスク着用、密の禁止禁酒もしくは減酒というルールは、「根拠のない、上から不条理命令」程度の認識だったのだろう。だから破っていい。

コムドトメバー根底に、同じような気持ちを認めるからこそ、ファン不安すら覚えているのではないか

コムドットのファンには良識的な人が多いと感じる。悪いことをしたことは認めつつも、応援姿勢を示し続けることは簡単なことではない。

からこそ彼らは不安を抱くのではないか自分応援している人たちが、バカではないと信じているかである

コムドットと『ルール』は意外と根深関係性を持つ。彼らが盗撮を嫌い、直接ファンに苦言を呈する動画アップロードしたことは有名らしい。

盗撮はもちろんルール違反であるが、ただちに法律違反ではない。そんなことを言い出したら、彼らの撮影中映り込む人々は、彼らを訴えていいことになる。

では何をもって悪意のある盗撮とみなすのか、その線引きが難しいからこそ、『ルール』によって彼らは自分たちの、また、ファンは彼らの盗撮を許さない。

マスクおよび密を避けるというルールと、この盗撮に関するルール正当性については述べるまでもないが、彼らは前者のルールをたびたび軽んじ、それどころか、タバコは外で吸うが(条例違反)、他人タバコポイ捨てを厳しく指摘するなど、矛盾が多く見られる。

これは大きな違和感であるし、彼らもその矛盾否定はしないだろう。だから謝罪文は早々にその姿を変える。

ヤマト氏による謝罪文は、いかに多くの誹謗中傷が寄せられ、その恐怖が如何程であるかを切々と述べている。情に訴えている。

さらには過去に行きすぎたネット上の誹謗中傷により自ら命を絶った有名人をもちだし、覚えていないのかと訴える。

ここにも大きな違和感がある。明文化するのは難しいかもしれないが、やってみよう。

まずここでの有名人はまず間違いなく木村花氏のことであろう。彼女の痛ましいニュース私たち否が応でも画面の向こうに人がいることを思い知らせた。もちろんそれを私たちに教えるためだけに彼女は亡くなったわけではない。

まず第一に、このタイミングで彼らが自らその話を持ち出すことに対する違和感である

任意の誰かが社会通念上誤ったことをしたとき、「そんなに叱ったら死ぬよ!」などと言われたら、私たちはどうしたらいいのだろう?

死とは、そんなに簡単に持ち出していい概念なのだろうか?

次に、木村花さんを持ち出すことへの違和感である

死は究極的に個人的ものだ。100人いれば100通りの死に方があるだろう。もしそれが自死であれば、その理由は本当に個人的ものだ。

彼らはあえて木村花さんという個人名を出さないことで、これに関するそしりから逃れようとしているのかもしれないが、個人名を出せないということは、それは配慮ではない。後ろめたさがそこにあるということである

木村花さんは、何もしていない。本当に何もしていないが、マスメディアにより悪意のある人間に仕立て上げられ、自分意見を述べることもできず、頼れる人もおらず、また前例もないため、亡くなるほど追い詰められていたことに気づく人もおらず、孤独に死を選んだ。彼らとは土台から違う。それを指摘されたくないから、個人名を出さなかったのは、卑怯とすら思う。

自分たちの引き起こし不祥事に、無関係の故人を持ちだし、自分の死を匂わせることで、批判から逃れようとする姿勢ダサい。彼らの肩で風を切るイメージとあまりに相反する態度に、違和感を覚えるのである

もちろん誹謗中傷ルール違反ですらなく法律違反だし、絶対に行ってはいけない。密になるよりマスクしないより騒音を起こすより、明確に悪いことである。そういう人に対し、彼らは私刑に出る必要もない。法的にアプローチすることができる。皮肉なことにこれは、あきらかに木村花さんの事件あっての効果である

正直なところ、そんなに批判の矢面に立つのが嫌なのであれば、大きな芸能事務所に入ればいい。大きなところであれば文春スキャンダルを揉み消すこともできるし、こういった際矢面にたちタレントを守ってくれる。

しかし彼らは自由でいることを選んだ。事務所のものになり、金銭的、肉体的な縛りを受けるより、自由活動していくことを選び、彼らのそんな姿勢がウケているのである

自由は必ず痛みを伴う。これは、自由な者は痛みを覚えるべきということではない。痛みを受けることと自由であることは、ほとんど同じ意味であるということだ。

総合的に一貫性がない、悪い意味で、あらゆる立場のいいとこ取りをしてやろうという彼らの甘えを私たちは感じ取っており、彼らと彼らのファン大事にする『筋を通す』ことができていないことに、失望を抱かれているというのが、現状への分析である

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