はてなキーワード: 講師とは
開成高校のようなド派手で過激な高校でやっていたことは出来ないから東京にあるものはあるように見せているだけでやるつもりはない、むしろやったら地方創生に支障が出るから絶対にやらない
従って
開成高校から東京高等検察庁に行って被害に遭った検察官に対する対策は佐藤は何も考えていないし、佐藤が特に何のコメントもしないのは、最高検察庁、東京高検、
文化的、学術的なことは一切やるつもりがないから、何らの対策も講じない。 東京大学法学部の教授で鍛えてあった先生が主導する、東京大学理系数学のエキスパート講師に活躍させる
といったことはまず考えない。大体、 東大理系数学のエキスパート講師がいるのかどうか不明である
昔から鍛えてある鍛えてあるといいながらなんでもかんでも自分に都合のいいことだけ。何かと言えば最後には安倍晋三という抽象的な名前が出てきて真犯人の名前は挙げない
俺が就職した15年前は、
その教育についてこれない新人はいらないみたいな雰囲気だった。
中学生の時の英語の先生が生理的に無理で苦手意識があったため全くできないのだが、ふと思い立って勉強しなおすことにした
いろんなyoutuberがおすすめしておりジュンク堂もプッシュしていた本「中学英語をもう一度ひとつひとつわかりやすく」を買った。
本当にわかりやすく丁寧で「そういうことだったか」と改めて理解できるので本当におすすめ。
で、これで1年過ごすかなと思ってたが3日で読み切ってしまった。案外このレベルはいけそうである。
というわけで本題。
とても真っ当に勉強しようとNHKのラジオ語学講座をいろいろ聞いてみることにした。洋画洋ドラが英語で見たいのだ。
これはサンシャイン池崎がすごくうるさい。
でもおそらく番組としては一番面白いので小学生は楽しいと思う。サンシャイン池崎も好感度が高い。嫌いではない。イェーイ
サンシャイン池崎を通過したのでとても真面目に聞こえる。
しかし4月の新シーズン1回目。主要キャラクターの名前を聞き取れという問題が「グレイ・リドリー」なのは意地悪すぎる。ケンとかバービーでは駄目だったんだろうか?あとグレイやばそうな雰囲気出してる。中2病かもしれない。
中学英語で引っかかってる人はここから始めるのがいいと思う。レベル1は中1最初の授業から英語避けてきました!って感じだったので。
シャドーイングとオーバーラッピングを促してくれるのでラジオを聞いているだけで自然と英語学習になる。
こちらの設定はボストンが舞台だがレベル1と比較すると普通。出てくるメンツもまともそう。レベル1のストーリーとかストレンジャーシングス始まりそうだったけど、レベル2はホームドラマ感。
単語を4つ解説する短い番組。正直聞かなくても単語帳勉強するほうがいいかなと思ったけど日本人MCが桜田ひより。「明日、ママがいない」を見てたのでずっと応援してるし和む。和み枠。
短い番組で英語のストーリーを聞くだけ。難しい文法を使っていないのはわかるが日本語訳などはついていないので初学者には厳しい内容。今のところ普通のストーリーすぎてレベル1が懐かしくなった
無理!
無理!なんだけどニュースは海外表現も学べるし内容もリアルタイムで各国で共有されるので勉強にいいらしい。こないだ話題になってた「やさしく読める英語ニュース」のサイトをまず見てみようと思う
玄人向け
オールイングリッシュの授業だが、これがとてもいい。出てくる英語は難しくはないし、講師もゆっくり喋ってくれる。あと英語勉強中の学生「モエノ」がすごく可愛い。とてもかわいい。正直顔も知らないしパプリカのメンバーと言われてもピンとこないが、声や照れ方や受け答えのすべてが可愛い。耳が溶ける。講師陣も「あらかわいい」みたいな反応しているし、多分朝ドラヒロインになると思う。顔知らんけど。これは聞く。可愛い枠。お前らも聞けよ勿体無い。
王道中の王道。で結局これがいいのはわかった。ロリコンだと思われたら困るので、大西泰斗先生と結婚するつもりでこちらを重点的に勉強したいと思います。
もう受験生でもない自分が高校レベルの参考書や問題集をいつまでも解いたりするべきなのか分かりません。
解いたりするべきだと思う以下の持論を持っているのですが、この持論が正しいかどうか全く確信が持てません。
以下から持論です。
まず、高校で習うことを理解していなければ、大学以降のより専門的なことが理解できないことがあるというのは確かだと思います。
だから私を含めそういう専門的なことを理解したい人は、高校レベルのことの穴を埋めるべきだと思います。
それをせずに大学レベルのことの学習に手を付けても理解できることがある可能性はありますが、その理解したという感じに錯覚の場合が混ざるおそれがでてくると思います。
つまり理解してないのに知った気になる、いわば「何がわからないかわからない」状態に陥る可能性が出てくると思うのです。
そのうえで、そのような大学レベルのことを理解していないと理解できない、より高度な理論を学ぼうとすると、今度はわからないという自覚はあるが「なんでわからないのかわからない」という状態に陥ることになります。
つまりその高度な理論を理解するのに必要なそれに比べれば相対的に基礎的な理論や概念は複数あることも当然考えられ、そのどれを理解してないのかがわからない、特定できない、ということが考えられるわけです。
理解しなければならないこととしては当然高校レベルの部分に穴がある可能性もあるでしょう。
しかし学ぼうとするものを見ても、その理論等の全容を見て、具体的にどんな知識が必要か余すことなく把握することは意外に難しいでしょう。
単に用語の意味を知らないといったことなら、その用語をネット検索で、その用語を使っている理論のなかでもっとも基礎的なものが何かということを目星をつけて、そこから学ぶという方法がとれるでしょう。
しかし学術的文章が理解できない原因は必ずしも「単にこの言葉がわからないから」というような、わかりやすい輪郭を持ったものに由来しているとは限らないと思うわけです。
大学レベルの参考書(学術書)や論文を書く人は受験競争を経験した人なわけですが、受験勉強で得た「考え方のひな型」のようなものが、少なからずその後の思考やそれに基づく文章に影響を与えていると私は考えます。
それはもはや自覚的に認識できるものではない、無意識下にある思考の体系であるわけです。
その「枠組み」を共有していない人にとっては、より言葉を尽くさないとわからないことでも「既知の事項として」という感覚すら持たずに、その部分の言語化をせずに文章を書いている部分があると思います。
特に幾何学が絡む記述は、センス=ひな型・枠組みを持つ著者自身には空気のように当たり前のことであるために記述がシンプルになってる説明に対して、枠組みの無い人にはなんでそうなるのということがまるでわからないということが起こり得ます。
それは著者すれば「なんかこいつすごく察しが悪いな」としか思えないほど逆に理解しがたいことです。
これは大学と高校の話ではなく高校とそれ以下の話なのでたとえが悪いかもしれませんが、たとえば高校物理である部分の角度と別の部分の角度が同じという事実から式を導出することにおいて、なぜ角度が同じといえるかということの説明まではされてないみたいなことがあります。
これは、角度のことについてなら、中学受験の算数の難問を数多く解いてきたりその答に対する解説を見た経験が、まさに有機的に思考の枠組みとして血肉化した書き手自身には、条件反射的に当たり前のように角度が同じだと認識できるが、そうでない人には説明がないとわからない、という枠組みの有無による断絶ともいうべきことが生じているのだと考えられます。
しかし書き手にはすべての読者のレベルに対応することは不可能ですし、そもそも「枠組み」がある当人には1+1=2のレベルで当たり前のようにしか思えない角度の同じさを説明しようという発想すら起こらないから、こうしたことが起こると思うわけです。
そしてこの枠組みは「枠組みが足りてないから理解できないのではないか」という必要性の認識に応じて選択的に必要十分なものを特定して身に着けられる、という性質のものでないわけです。
上記は高校とそれ以下のレベルでの話ですが、大学とそれ以下のレベルという場合でも同じ構造的問題を共有していると思います。
因数分解や極限値を求めるための式変形の定石や、その他証明問題などに対して定石と呼べるような解法から定石ではない解法まで、その問題をこなしてきた人たちにとってはその経験が枠組み化しています。
なのでその人たち自身が見てきた高校レベルの参考書では途中過程として式変形など書かれていたものが、当人が研究者になって書く大学レベルの本ではその本人の主観的に自明性が強すぎてその途中過程を書くような発想すら存在しないわけです。
ですから、大学レベルの本を理解するには、およそ考えられるかぎりのあらゆる高校レベル以下の問題を解いて理解することを片っ端から行いその経験を積んで枠組みとする必要があると思うのです。
でなければ結局「何がわからないかわからない」「なんでわからないかわからない」という状況に陥ると思うわけです。
予備校講師の数学のアドバイスで「数3は数1Aと数2Bの知識がなければ理解できないというが、だからといって数1A・数2Bを完璧してから数3に取り掛かる必要はない。完璧は難しいのだから同時並行でよい」という趣旨のことを書いていたのを見たことがありますが、まずこれは受験勉強に関してのアドバイスであるということに注意するべきだと思います。
つまり点を取るためなら、完璧でない理解でも、ふわっとした理解でもパターンとそれへのあてはめとして、問題は解けてしまうということは十分考えられるからです。人口無能、あるいは中国語の部屋のようなものかもしれません。
一方で学問として理解するということにおいては、厳密に完璧に理解していなければ、ただの知ったかで、それは全く理解してないのと同じ価値しかないのではと思うわけです。まさに論理として理解しているのではなく「受験で点が取れる感覚」でパターン認識としてわかった気になっているだけだと思うからです。
また、大学以降のより専門的なことが理解できれば、高校で習うことはすべて理解できる、というわけでもないと思います。
先ほどの高校物理の例にあるように、高校レベルのことが当たり前になってる人が書いた大学レベルの文章には、高校レベルのことは書いてないことがあるわけです。
そして、どの大学レベルの理論を学ぼうとするかによっては、自分の持つ枠組みで十分にその理論が理解できるということはありえます。ありとあらゆる高校レベルの枠組みを網羅している必要はないわけです。
なので、大学レベルのことは理解してるが、その大学レベルの文章に高校レベルのことは書いてないかもしれないので、その後大学レベルのことにしか触れなかった場合、高校レベルだけど初見だと解けない問題が死ぬまで解けないままであるということが起こり得ると思うわけです。
たかが高校レベルだから、初歩的なんだから受験生じゃなくなっても真面目にとりくむほどではないと思うかもしれません。
しかしそのように単なる初歩的なこととされるかは、意義深いこととされるかは、時代次第の相対的なことではないでしょうか。
2000年以上前ならピタゴラスの定理を理解することも十分意義深いことだったでしょう。
時代が進むことによって、より高度な定理や理論が発見され、既存の定理はそれを理解するためのより初歩的なことと規定し直されるというだけです。
このような文脈での主語はあくまで「人類」です。言い換えれば、人類のうち誰かひとりでも知っていたり理解していたりするようなことを全て知っているような、仮想的な知性にとっての意味付けだと言えると思います。なかば無意識的にこのような仮想的な知性と自分を主語のうえで同化させてこのような「初歩的/意義深い」という価値判断をくだしているにすぎないのではないでしょうか。
あるいは「文明」を擬人化して主語においているとも言えるかもしれません。「文明」にとって、容易に理解できる初歩的なことかどうかということです。
一方実際に世界を経験する主体の単位は「個人」であり、わたしであり、あなたです。
ある時代にとって意義深いけれど今は初歩的なことを理解してない個人がいるならば、人類や文明が主語である場合、それが最先端の知識=未知であるか、または既知となって間もないか、で意義深いかどうかの価値が規定されていたのですから、個人を主語にした場合も同様に考えればよいのではないでしょうか。
つまりその個人が理解してないのなら、それはその個人にとって意義深いことなのだと思うのです。
大学レベルとか高校レベルとか関係なく、「自分が知らないという意味で意義深い」解ける問題を増やしていくことは、この世界や現象に対する理解の解像度をあげると思うのです。
だから大学レベルのことには書いてない高校レベルの問題の解法も赤本や難関大を意図した参考書には無数にあるので、それを解き続けることには、それを飛ばして大学のことを学び始めることを通じては経験できない意義深さがあると思うのです。
まとめれば、高校レベルのことが足りないために大学レベルのことが理解できないこともあれば、大学レベルのことでは身に着けられない高校レベルのこともあるので、結局この世の中をよりよく理解する手段として高校レベルのことも大学レベルのことも等しく有効なら、まずは高校レベルのことを完璧にしなければならないのではないか、と思うわけです。
ここまでが持論の全容です。ですが世の中の成果をあげている科学者の全てがこのようなことをしているとは到底思えないので、自分の考えが合っているなどという確信は全く持てないわけです。
なので、ぜひ、反論できるところがあったら教えてください。
選択肢がなかった?自分がお勉強をさぼって都内の大学に行けなかっただけ。
地域格差がある?20年前の2,000年代前半なら学習塾も増えていた。地方都市というレベルではあるが自分が住んでいた広島にも90年代ですらそれなりに塾はあった。
小5の時に夏季講習で通った塾の講師からは成績を見た後私立中学受験していいんじゃないかとも言われたし教師からも勉強について褒められ進学の話はあったが、増田はどうなんだ?
実のところ上澄みから見たら大したことがないレベルの自分ですら教師からは光るものがあったら教師は進学を勧めてくる。
今は過疎地で仕事をしているが、40年以上前は中学校卒業も当たり前な地域性ながら優秀な子は都会の学校へ出させようと教師が親に頭を下げに来るなんてことはざらにあったそうだ。
昔の自分が周りを認めさせるくらい能力を磨けていれば説き伏せることはできるがそれをしなかったのは増田自身だ。
あと編集者という仕事についての解像度も足りていない。同人誌発行は大変な作業だが仕事としての出版業務からしたらお遊戯みたいなもの。
たまたま求人覗いて募集面接あるから受けてみよで通るような業界ではない。
新卒ですら市内では1番頭がいいレベルの元神童がしのぎを削って入る枠で、中途採用にしたってそういう神童の中の勝者が応募するような枠。
そんな枠にお散歩気分で仕事に対する解像度が低い志望者が来たら困るだろうし、地方出身で血をにじむ努力をしたかと思われる採用担当からしたら増田の言動は侮辱としか見えないだろう。
増田の立場からしたらレスバしなくてよかったよ。絶対完膚なきまでに叩き潰されていた。
PCのリースなら許可いらない。けど古物商は取っといて損しない
https://kyoninka-support.net/43/
子供向けについて
案外、エクセルのショートカットを壁に貼って覚えましょうねみたいなのもウケるかも?
最近だと情報の授業で基礎=低レイヤのことも学ばせるみたいな話がある。勉強し直さなきゃ
大人向けについて
PythonとJavaScriptでいいだろ
既に動く環境を貸出PCに作っちゃって、講師の助けいらなくなったら貸出料だけもらって…みたいにしちゃえば解決すると思った
最近はスマホ持ってるけどPC無いみたいな人も多いしいけると考えてる(個人で細々やる分には)
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自分の中の知識を外の人に伝えて、知識の希少価値を下げ、自身を希薄化させたいのかもしれない
身内に不幸があった2日後に泣きながら講師労働をした経験があり、自分に向いていると感じている
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あとで考えとく
YouTube、タイトルで釣って中身が意外とすっからかんなの多すぎるよ
長々と話してるけど、まとめると三文字みたいな内容が多すぎる
その点、ギター弾いてみた、ドラム叩いてみた、みたいな内容は十分濃いし、
タブ譜とかなくても、コピーするためにありがたい、フレットとか手元ちゃんと映してくれれば
ぶっちゃけ、ギター講師が長々解説したり、だべってるだけの動画観るぐらいなら、
弾いてみた、叩いてみた、歌ってみた、じっと観てる方が勉強になる
DAWの使い方とかも、無駄がなかったり、簡潔なのは役に立つんだけど、
ダラダラ長いだけのは当然として、洋画のエンドスクロールみたいに異常に高速なのもつらい
まあ、ネタでもあるんだろうけど…
一瞬で曲できちゃった、朝飯前だよねwみたいな…
文明化の過程を研究したノルベルト・エリアスによると礼儀作法というものは階層の差異化のために気まぐれに恣意的に作られるものだと
しかし完全にランダムな行為というものは長続きせず忘れ去られてしまうため後付けで適当な理屈が与えられる
そしてマナーが定着し階層を超えて普及してしまうと差異化という目的が果たせなくなるためまた新しいマナーが必要とされるというサイクル
どんなに超絶技巧プレイだったのとしても俺は注目されないだろう
というか、俺でなくても、超絶技巧プレイヤーはまったく注目されてない
俺はチェックしてるけど、多分、ほとんどの人は、なんかすごいね、で素通りしてしまっているのだろう
それより、初心者記事とかが強い、ギタースクールの講師とか、スタジオミュージシャンのうんちく語りとか、楽器屋店員の雑談の方が見られてる
あと、エッチなかっこのお姉さんが演奏した方が爆発的に注目される
ぼっちざろっく!でぼっちちゃんに水着でプレイしてもらおうという話はあながち間違っていない
際どいコスプレでピアノを弾くのと、普通のオッサンがピアノを弾くのと、どちらもレベルが同じだったら、みんなはどちらを見るのか?
つまり、デブでキモイ童貞で中年の俺ではギターヒーローどころか、視聴者を不快にさせたと運営に通報される方が近い
なるほど、となると音楽理論のうんちく、というか、俺はちゃんとした教育受けてないから偉そうなこと言えないし、間違ってる可能性もあるけど、
あの有名な曲は、こういう仕組みで作られていて、つまり、作者はこういうことを伝えたいという意図があると考えられる、
耳コピをすることで、作曲者の意図を推察することができる、みたいな話を書けばいいのだろうか
でも、それもそんなネタないしなあ
はなわはベースだったけど、イングヴェイやインペリテリがお笑いやったら面白いだろうか?
いや、それも違うか…
R.I.P. 迎田良子さん
「安楽死」を考える スイスで最期を迎えた日本人 生きる道を選んだ難病患者【報道特集】
https://news.yahoo.co.jp/articles/8bb2d6cf595ffedc5bfdf45ad29546aca08b0474
というニュースが話題になっている。 迎田良子さんというパーキンソン病の人が、スイスで積極的安楽死したという話だ。
迎田良子さんは暴力家庭に生まれ、 高卒とともに家を出て、 日本語講師として海外で仕事をしていた有能な女性だ。 ヨーロッパ各地を渡り歩いたという。 しかし50代でパーキンソン病を発症し、 婚約していたフランス人男性にも捨てられた。 そして日本に戻り一人過ごしていたが、パーキンソン病からくる長年の苦しみから解放されるために 安楽死を決意。スイスに渡って安らかに死んだ。 婚約していた男性に看取ってくれるように連絡をつけていたらしいが、 直前になって拒否され、一人で死んだ。
遺骨はレマン湖に撒かれた。 レマン湖は男性とデートした思い出の場所だったらしい。
おれはどうも、この社会で生きていくことが難しいようだ。 この社会で生きていくのはどうしても辛いから、 今ある少ない貯金が尽きたら自殺しようと思っている。 実家に帰ってきたのは、心の整理をつけるためである。 親もおれがいきなり死んだら、心の整理がつかないだろう。 だからすでに、お金が尽きたら自殺するということは伝えてある。
しかしおれはこの社会で生きるのが辛くてそれから逃げたいだけであり、 自殺の苦しみを味わいたいわけではない。 楽になるために苦しむということは嫌だ。 でも安楽死ならどうだろうか。 楽に死ねるだろう。 それがおれの望みだ。
費用は200万円程度らしい。 あとは、英語でコミュニケーションがとれること。 幸い、今ならば200万円は工面出来る。 英語も問題ないだろう。 安楽死するために英語を勉強したわけではないが。
この人生は最悪だった。 思うに、おれは劣った人間との相性が最悪だ。 相手がコンプレックスを抱えていると、衝突することが多い。
ご存知のとおり、 おれの人生は最後の最後、高専とかいう知的障害学歴のクズに破壊された。 結果、おれはもうこの社会で生きていくことが不可能になり、 金が尽きたら自殺するほかなくなった。 この詳細は、おれが死ぬ前にでも書き残そうと思う。
結局このクズも、学歴コンプレックスの塊なのだ。 優秀なおれに出会ってしまったことでそのコンプレックスはより強くなり、 おれに対して粘着し、人生を破壊してやろうと思うようになった。 そしてそれは成就された。おめでとう。
京大でもそのようなことがあった。 こいつは学歴コンプレックスではないが、 自分の容姿や能力にコンプレックスを抱えていた。 それ故に、そのどちらも優れていて、 必死に努力しているようには見えない おれが憎かったようだ。
おれは劣ってる人間に対しては無関心だ。 関わっても得がないとか、損得勘定の問題ですらなく、 ひたすら興味がない。死んでほしいとも消えてほしいとも思わず、 ただ、見えなくなる。 しかしこの無関心が、相手にとってはひどく傷つくらしい。 そして、それが相手の中の敵対心に火をつけるという仕組みのようだ。 めんどくさすぎる。 それは、そちらのせいでしょう。おれのせいではない。 あなたが劣ってるから悪いんです。 ギフテッドに生まれなかったあなたが悪いんです。 いちいち絡まないでほしい。
今後も、こういうことがいちいち起こるんだろうかと思うと もう耐えられない。 おれはもうこの社会で生きていく気を失ったと思う。
おれの夢は、知床で熊と一緒にコーヒーを飲みながら 世間話をするような生活だ。 人間から離れ、山の中でひっそりを暮らす。 そういう生活が叶わないならば、もう、生きる気はない。 ベーカムにも期待しているが、おそらく実現は遠く、間に合わないだろう。 自然の中で熊と囲碁をしたかった。
おれのように社会適合出来ない人間が安楽死出来るような社会になれば 多くの人が救われることは間違いない。 しかし、安楽死には当然、慎重な議論が必要である。 ある難病患者の女性は、積極的安楽死が認められてしまうと その楽な死を選ばないことを自己責任に転嫁されてしまうことを恐れている。 これは例えばだが、用意された楽な死を選ばないのだから生命維持装置の費用は自費にしろとか、 そういう論調が生まれることもあり得るだろう。 確かに、それは恐ろしいことだ。 難病になることは不運であるから、これは国が救うべきだ。
だから、必要なのは積極的安楽死を飛び越えた「超」積極的安楽死である。 超積極的というのは、難病であるとかそういう理由は必要なく、 単に生きるのが辛いことを理由にして安楽死するということだ。 ようするに、今自殺によって実現されている死を薬による安楽死に置き換えるというものだ。 試験での失敗を苦にして自殺するのもいいだろう。 恋人に捨てられたから自殺もいい。 整形手術に失敗したから自殺もいい。 おれのように、社会に適合出来ないから自殺しますも当然許されるべきだ。 生と死には対称性がなければいけない。
大人は、「まだ若いから」とか「これからきっと良いことがあるから」とか言って あなたを生かそうとするだろうけど、それは あなたを自分の老後を支える駒として見ているからだ。
この国の現状は、今は辛くても頑張って生きていればいつかきっと良いことがあると 思えるような状況ではない。 だから、うまく行かなかったら即死ぬという選択肢がないと不公平だ。 また、失敗したら気軽に死ぬことが出来るからこそ、 人間は現世において挑戦することが出来る。 日本人のチャンレンジ精神が低いのは、高齢化社会による社会保険料の問題と、 拳銃の所持が許されていないために自殺が簡単でないことのせいだと思う。 そういう意味では、日本こそ、積極的安楽死が必要な国だといえる。
超積極的安楽死は犯罪も減らすだろう。 貧困になった人が誰しも強盗や窃盗をしたいわけではない。 生きるために仕方なくやっている人もいるだろう。 でも超積極的安楽死があればそういう人たちも、 他人に迷惑をかけるより 死を選ぶのではないだろうか。
請負で山の上に居たときに、同和部落問題についての講習に協力会社側の人間も参加させられたけど
参加した人たちが講師にそんな差別意識もって仕事してるほうが今の時代可笑しい旨のことを言いまくられて
もう終わりますってさっさと帰ったのを思い出した
組合員って組合のトップじゃないの労働貴族になれんから意味ないよね
で、それがぶつかる時にいちいち討論も面倒だからマニュアル的に決めとくがマナーのあるべき姿だと思っていて、マナー講師の仕事は啓蒙の名でマナー弱者を虐めるんじゃなくて、強者同士でぶつけ合ってより多くの人たちのより多くの幸福を導く道筋を作ってくれよとおもってる。
で、この辺の話で金払ってるから良いだろになる人は金以外で払うべきものを見てないんかなと。この話ならクレジットされるのが大事なスタッフがスタッフロールをないがしろにされればそこの価値が下がるわけで、その分作品の質が下がるなり給料を上げるなり必要になってくる、それに対して何も払わないって言うならそれはコジキだわな。