はてなキーワード: 目的意識とは
の元増田です。
『思い当たるフシ』というやつをリストアップして持っていこうと思います。
既に検査が明日に迫っているものの、「増田に上げる」という目的意識でも持たないといつまでも先延ばしにしそうなので……。
【現在の状況】
■普段の生活で困っていること
■あまり困っているわけではないがADHDの特性に当てはまりそうだと思うこと
こんなところでしょうか。書き連ねてみるとひっどいものですね……。
『東大文科一類から、法学部に行かない人が増えている』な記事があった。
やりたいことが割と明確で、それが官僚や法曹じゃない人は『法学部以外』を目指し、
『目的意識、将来意識が希薄』な人が、そのまま『周りに流されて』法学部に行きがち、という記事。
文科一類って、開成とか灘とか出身者が多くて、『周りも東大に行くから、自分も行く』のような主体性ない人が結構いる。
法学部『でも』行くか、法学部『しか』行かない、という学生、それが法学部の一部には存在する。
この記事を見て、
『東大文科一類から、そのまま法学部に進学するか、それとも駒場の教養学部に残って別のことをするか、悩んでいた27年前の自分』
を思い出してしまった。
原稿の段階においてはこれまでより表面的な文章それ自体に関する事柄が重要となる。冲方はこの段階を「肉書き」「皮書き」の2段階に分けるが、原稿の執筆と推敲をそれぞれ意味しているに過ぎない。本稿では表現上の混乱を招くだけであるため、特に冲方の分類には従わない。
さて、西谷のように本一冊を使ってこれを解説したているものも存在するが、その内容は全て基礎的な日本語文法の復習であり、独自の知見は少なく、例えばうなぎ文などを交えた日本語文法それ自体に関する細やかな議論があるわけではなく、また修辞技法に関する詳細な分類と効果について言及しているわけでもない。会話文の閉じカッコの前に句点は付けない、中黒ではなく三点リーダを偶数個使う、といった些末な作法をめぐるこれらの内容について本稿では特に言及しない。
文法、作法上の間違いではないが避けた方が好ましい表現についても、断片的ながらそれぞれの作家ごとに主張されている。例えば水島の「同じ語尾を連続して使わない」「台詞以外で「である」「なのだ」という語尾を使わない」「三点リーダと感嘆符の多用を避ける」、榎本の「三行以上にわたる一文は避ける」「会話の順番を固定し、誰がしゃべっているのかフォローの文なしでも理解できる方が良い」、西谷の「物事が起こった順番に書く」などである。
とはいえこれらは絶対に避けねばならないものではない。例えば同じ語尾を重ねることは畳語法として効果的に機能しうる一つの技術である。会話の順番を固定する、というのも、例えば5人の登場人物の会話順が完全に固定されて順に発言しているような状態が自然な会話文として望ましいとは思えない。それぞれ場合によって使い分けられるべきであろう。
よって本項では各作家によって提案されたいくつかの修辞技法についてを断片的ながら俯瞰するにとどめる。
水島は「明るい文」「ラノベ文体」として、「難しい表現を使わず、何が起こったのか一目でわかる」こと、「読者がハイスピードかつリズミカルに読める」ことが望ましいとする。
具体例として次の例を挙げている。
「すごい美少女だ!」
俺は驚き、つい声を上げた。と、同時に……、
――ドカーン
背後で、謎の爆発が!
なぜ難しい表現を避けるのかといえば、「読者は気合いを入れて読んではくれない」「メインターゲットとなる読者である中高生は学校の登下校、勉強の合間などに読むので、集中して読んでくれない」からだとする。「ラノベは読み飛ばされるのが宿命」だと水島は言う。これに近しい意図を持つ指摘としては、榎本による「ガイド」の提案がある。ガイドとは榎本独特の表現であるが、「シーン冒頭に「これがどういうシーンなのか」がわかる描写を書き込む」もので、つまりそのあとの文を読み飛ばされても何が起きたのかざっくりとは理解してもらえる、という効果が期待されているものである。
何が起こったのかわからないような文章を避けるべきなのは当然だろうし、テンポ悪くだらだらと薀蓄を書き連ねたようなものは(それをウリにしている作家もいることは事実だが)大体の場合避けるべき、というのはさほど違和感のない話である。
とはいえ学校の登下校、勉強の合間などに遊ぶテレビゲームや携帯ゲームは集中されないのか、といえばそうではないだろう。読者が集中してくれないのではなく、読者の集中を誘うだけの内容が無いからではないのか。
読者はバカだからバカでもわかるように書きましょう、というのは、逆に言えば中身の無さ、文才の無さを読者に責任転嫁しているに過ぎないとも考えられる。筒井は様々な実験的小説を書いてきたが、それは「読者の理解力に対する理解があってこそであった」と自分の読者ならわかってくれるという確固たる自負が見て取れる。もちろんそれは既に作家としての名声を確立した後だからこそ、という面は否定できないが、作家から読者をバカにしていく、という水島の姿勢はいささか理解に苦しむところである。
クーンツは作家に与えられたチャンスは最初の3ページだという。第一文から始まる3ページで面白いと思わなければ読者はそこで読むのをやめる。そして読者を3ページで魅了するための技術として、過激なアクションに始まること、ユーモアを含ませ、一度冷静に状況説明をしてから再度緊迫した場面展開に話を戻す、という手順を紹介している。
一方で西谷は望ましい書き出しについて、いくつかのラノベの冒頭を並べてその傾向を述べており、主人公の描写、自己紹介、考え方から始まるタイプと、主人公の目に映るものを描写する書き出すタイプの2通りのいずれかが望ましいとしている。
また忌避すべき典型例として「壮大な書き出し」を挙げている。例えば人類の9割が滅んだ世界であることを厳かに説明するような文章は避けるべきと言い、それくらいなら他愛もない会話からはじめ、その途中で人類の9割が滅んだことを明かす方が望ましいとしている。
人類の9割が滅んだ、とは物語背景となる情報であり、重大だが具体的な動作を連想させる情報ではない。それに比べると会話文は動作とひもづくものであり、その意味ではクーンツの「アクションに始まる」という内容と大きく矛盾するものではない。
しかしながら、これも絶対的に忌避されるべきかといえば難しい。
例えば名作と名高い「猫の地球儀」は
と、まさしく壮大な書き出しで始まる。「同じ語尾を連続して使わない」に余裕で違反する3連続の接続助詞「で」に加え、何の説明もなく独自の専門用語を第二文目で出すなど言語道断である。
しかし筆者は、上述の水島のドカーンをはるかに凌駕する圧倒的な魅力をこの書き出しに感じる(もちろんそうは思わない人もいるだろうし、それを否定する意図はない)。
作家に与えられたチャンスは最初の3ページだ、というクーンツの主張には、一読者としての経験則的に筆者も同意できるところではある。しかしではどういった書き出しが望ましいのか、といえば一概にこうでなければダメだ、というのは難しいように思われ、筒井による「いい書き出しかどうかは結局のところ作品全体の出来に左右される」という指摘がもっとも妥当であるように思われる。
従って、アクションから入ろうが主人公の身の回りから入ろうが壮大な書き出しで始まろうが、3ページで読者を作品世界に没頭させる内容が実現できればそれで問題は無いと言えるだろう。
頭に浮かんだ順に適当に書いていくと散漫な記述になりがちであるとして、西谷は「自分が描こうとする場面を実際に図に書いて、どういう順番で描写するかを決める」のが効果的だとする。この主張はその場に存在する様々なものを具体的に詳細に想定しているかどうかの事前確認という意味合いが強い。
また、「目に見えるものだけを書いていると、リアリティーのない文章になってしまう」として五感への意識を促す。嗅覚については言及されることが少ないが、特に音については場所、方向、登場人物の存在を示す役割を果たす効果的なものだとする。また西谷独特の主張として、足下の変化は触覚という点で効果的であると主張する。
こうした西谷の指摘に加えて榎本による「静止したものだけでなく動作する物を混ぜる」という指摘を考慮すると、情景描写の臨場感とはその情景における時間経過ではないか、と筆者は考えている。
止まった絵ではなく、音や匂いを含めた一定の時間の流れを含めた「図」が望ましいという意味では、作家は西谷の言うような「図」ではなく「絵コンテ」を書くべきだと言ってもいいだろう。
仮に作家が自分の想像を完全に文章化でき、そこから読者が作家の想像通りに完全に場面を想像できるとした場合、静止画が再生されるよりも動画が再生された方が臨場感が高いのは言うまでもないし、そこにに音や匂いも付与されているのであれば、臨場感はさらに高くなるだろう。
絵コンテという考え方はまたカメラワークへも影響すると考えられるが、映像作品におけるカメラワークのセオリーとこうした娯楽小説における情景描写の順序や方法の類似点、相違点については十分な調査と検討が必要と思われ、本項では今後の検討課題として割愛したい。
より良い場面の切り替えについて、クーンツによる指摘に触れておきたい。クーンツは「ひとつの場面が終わったら、すぐさま読者を次の場面へ案内しなければならない」こと、そして簡潔さを重視する。例えば主人公は一人自室でテスト勉強をしている場面Aと、学校でテストを受けている場面Bを連結させるとする。この間にはもちろんさまざまな出来事、例えば寝て起きて朝ごはんを食べて家を出て電車に乗って学校に到着する、といった過程があるはずだが、それらをだらだら書くべきではなく、場面Aが終わった次の文ではテスト中の主人公を描くべき、という。
これは場面の切り替えにやっつけ仕事めいた過程を描く必要は無い、という単純な指摘に留まらず、各場面はプロット上必要不可欠な要素であるべきで、必要のない場面を含めるべきではない、とも理解できる。例えば場面Aのあと電車でヒロインと遭遇させる必要があるのであればそれを場面Cとして独立させ、プロット上場面AとBの間に配置すべきである。
クーンツは会話は全体の20~30パーセントは必要だとする。一方で30ページ以上続く会話文も問題であるとしており、当然であるがバランスが必要である。
その場に登場人物が2人しかいないときに、いちいちどちらの発言か説明しないと読者が理解できないようならその会話が悪い、という指摘や、「「言った」という動詞が連発しないよう、表現を工夫する、などというのは過ちである」というのはなかなか面白い指摘と言えるだろう。クーンツは発言内容が重要なのであれば、それ以外の「言った」という表現を「尋ねた」「口を開いた」「聞いた」など必死に工夫する価値はないとする。一方でアクションシーンでは動詞の選択は重要だとしており、その場で強調すべき要素とそうでない要素を区別することを要求している。英語と日本語の違いはあれど、これは文章のメリハリを付ける上では面白い指摘と言いうるだろう。
ヒックスは会話の機能として、「ストーリーを前進させること」と「登場人物を明らかにすること」を挙げるが、特に後者については人物の性格を読者に理解させる重要な要素だ、と換言できるだろう。
このようにクーンツ、ヒックスはともに会話文を重要な位置づけにあるとみなすが、一方でラノベ作家陣からの指摘として、榎本は「キャラクターの会話ばかりで「そのシーンはどういう状況なのか」「今どうなっているのか」が全く書かれていない作品」を批判する。
この点については筒井が「描写や展開が面倒なのですべて会話で片付けようとする」ことを批判しており、何のために会話文を書いているのか、という目的意識に違いがあるように考えられる。すなわち情景描写が苦手だから、間が持たないから、といった問題を正面から解決するのではなく、会話文で埋めることでごまかすようなことが榎本や筒井の批判するところと言いうるだろう。
説明するまでもないが、小説では一人称体、もしくは三人称体が多く用いられる。この人称に関しては、どの創作技術本でもありがちなミスとして、一人称体にも関わらず語り手の知り得ない情報を記述してしまう、という点がよく指摘されるところである。
一方で三人称体は登場人物の知りえない情報を記述することができるという利点があるが、一人称体がその語り手が同化する先の人物への感情移入を惹起しやすいのに対し、三人称体はその点で劣ると言えるだろう。
このことから水島は、「楽しさ重視のコメディは一人称」が望ましく、「複雑なストーリーは三人称が向いている」としている。では一人称体と三人称体を組み合わせて書けばいいのではないか、という意見については、それは読者の理解の混乱を招く手法として否定し、また三人称体においても実質的には「主人公が今どうなっているか」を中心に描くことが望ましいとしている。
一方で飯田は三人称体をとるメリットは「キャラクターそれぞれの内面が描ける」点にあるとしている。実際「インフィニット・ストラトス」を例に、飯田は一人称体と三人称体の混濁を否定せず、それどころか「主人公の一人称視点と、ヒロイン寄りの三人称視点を使い分けて全ヒロインからの愛され感をもたらしている」と高く評価している。
とはいえ三人称体として振る舞いつつ登場人物それぞれの視点に入ったり、といった視点を「神の視点」と表現し、これは避けるべきものだとする論調は少なくない。
一切言及されていないが、現実には三人称体に一人称表現が入り込む技法は自由間接話法と呼ばれて存在し、主人公の知る由もない情報を描けるという三人称のメリットと、感情移入を容易にする一人称のメリットを同時に享受できる極めて強力な技法である。
なぜ言及がないのかといえば、これを多用する作家はさほど多くなく、むしろ全く使わない作家の方が多いことから、おそらくはプロの作家自身、これを人に説明できるほどうまく扱える自信が無い、ということが原因ではないかと思われる。
他方、これと似て非なる技法に「神の視点」があり、これについて触れたものとして、クーンツは「ストーリーの途中で作家が登場人物を批評したり意見を述べるのは19世紀の時代遅れな手法」としており、もはや使うべきではない技法だとしている。
端的に言えば「あぁ、神よこの男を憐れみたまえ」といった大仰なそれに対する指摘であるが、例えばH.P.ラヴクラフトなどは意図的かつ効果的にこの神の視点を用いていたように筆者は考えているし、町田康の有名な「あかんではないか」などは見事にこれを活用した好例と言いうるだろう。
筒井はこれを「劇化された語り手」であるとしているが、これについてはまた詳細かつ精密な議論が必要であることから本稿では割愛する。
水島は夢や過去の回想について、これらは今誰が何をしているのかがわかりにくくなる、述べており、またこの点についてはヒックスも同様の指摘をしている。「バック・ストーリーの情報を提示するのに最も効率が悪く気の効かない方法が、フラッシュバックである」と、フラッシュバックはドラマの勢いを失わせるものだと注意を促している。
一方で、筒井による「遅延・妨害」に関する記述はある意味でこのフラッシュバックの効果を逆用したものとも言いうるだろう。具体的内容としては、「読者の疑問を宙づりにしたまま進行させる」ものである。特にクライマックスの直前など、いよいよ事態が緊迫し抜き差しならない状況であることを描いたところで、突如穏やかな場面に切り替えて「あれはどうなっているんだ」と読者の不満をあえて買い、じらした上で緊迫した事態の展開に再度移る、ということでより大きな満足感を読者に与える効果があるとする。
クーンツもその冒頭において、過激なアクションの次に一度冷静な場面を挟み、再度戻る、という手法を提案しているが、効果としては似たようなものだろう。
推敲の重要性を否定するものは一つとしてない。しかしどう推敲するか、という点について具体的に述べているものはそれほど多くは無い。例えばキングによる6週間空け、そして1割削減する。ワナビにとっては6週間も余裕がないことの方が多いだろうが、一定の時間を空けて自分自身で読み直すことの効果は少なくないだろう。
冲方は推敲の要点として、「冒頭とラストにインパクトと引きを作る」「事件とはあまり関係のない人間の登場を減らす」「専門用語は前半は少なく、後半は多くする」という推敲の指針を挙げる。最初の2点はプロットレベルでの書き直しが要求される内容でもあるだろうし、そもそも事件(物語)に関係ない人物を登場させる意味はなにか、という疑問もあるが、専門用語の配分などは参考になるだろう。
最後に、推敲は一度で終わるものではない。アイディア、プロット、原稿まで順に進めるとこれまで述べてきたが、推敲によって再度プロットへ、またはアイディアまで戻ることはいずれの説においても当然のこととして主張される。
サイコパスのAO義塾塾長の文章に突っ込み入れるンゴwwwwwww
全文は http://aogijuku.com/tk2016/
今回の一件で悶々とする中で、改めていま私が為すべき事は何かと考えた時、
それは「AO入試を通して、全社会を牽引していく先導者を輩出していく」という原点を貫き続けていくことだと、思い至りました。
→勘違いやぞ
自らの頭で考え、行動することを身につけていくことをサポートしていきます。
→まず学力つけるのが第一なんだよなあ
そして、全世界を牽引していく先導者となることを目指す、
それは今回の一件でも痛切に感じました。
それでもなお、私はAO入試が、これからの日本社会にとって欠かせない入試形態の一つだと私は確信しています。
AO入試では、大学から受験生へ必ず「志(=大学で学ぶことへの目的意識)」が問われることになります。
「志」を抱くには「意識」が欠かせない
そして「志」を抱くには、
だから私たちが「意識が高い」と嘲笑されることは避け難いこととも言えるのでしょう。
しかし、これからの日本には社会への「意識」が高い人々が「異端」として嘲笑されてしまう少数派であってはならないと思います。
これからを担っていく高校生にとって、そしてひいては日本人全体にとって、
「社会への意識が高いこと」を普遍的なことにしていくためには、
AO入試という入試形態が社会の教育装置として不可欠だと僕は思っています。
とんだ思い違いやね
社会問題を解決していく、社会への高い意識を持った担い手こそ必要です。
→まあわかる
その担い手を育てる仕組みの一つこそ、私はAO入試なのだと思います。
一方で、一点刻みの受験戦争を勝ち抜くには、
社会へ関心を持つよりも、机に向かうことばかりが奨励されてしまいがちです。
→いかんのか?
もちろん、机の上での勉強や学力を身につけることは極めて重要です。
しかしその重要性は、勉強や学力は「手段」であることに対してであり、それ自体が「目的」ではありません。
→意味不明
点数のみで評価することは、手間がかかりません。
→根拠なし
大学での学びも「手段」であって、入学することが「目的」ではないはずです。
→一時的な目的を達成して、それから手段としての学びを行うことの何が悪いのか
高校生達が大いに学問することへの、それぞれの「目的意識」が最も大切です。
その目的意識を問い、社会全体で育てようとするのが、AO入試です。
このAO入試の可能性を活かして、
「ゴール地点」ではなく「スタート地点」へと描き直していきたいのです。
→一般入学者は大学入学がゴールとかいう妄想を押し付けないで下さい(迫真)
やはり、AO入試で入学するには、意識が高いことが求められます。
要するにバカってことやし
むしろ、意識が高いことで嘲笑されてしまう日本社会の現状こそ、最も正さなければならない深刻の病理だと、真面目に思っています。
そんなこと真面目に思ってるなら真性のバカやな
本来ならAO入試の導入に合わせて、学校が変化するべきでした。
学校がAO入試のサポートを万全に行ってくれるのなら、AO義塾の出番など必要なかったと思います。
学校という教育機関に、高校生達のAO入試への挑戦をサポートしてもらうことを期待するのは難しいのが実情です。
AO入試に挑戦する高校生をサポートするコミュニティを創りたいと決心しました。
幸いなことに、AO義塾は毎年、合格実績の過去最高記録を更新し、
本年度のAO義塾4期生も既に慶應義塾大学に150名以上合格することが出来ました。しかしそれを支えたのは、既存の塾・予備校の概念ではありませんでした。むしろ、全くその逆の概念でした。
→AO用の意識高い実績作りのための団体まで用意しているもよう
教える側、教えられる側という関係でもなく、
茂木健一郎とか
200人の塾生がいれば、200通りの志があります。
みんなそれぞれ、違う色、違う形をしています。
それが私たちにとっての誇りです。
合格を目指しません。社会に貢献出来る人材を輩出することを目指します。
そして、この信念は揺るぎません。
安定した時代には、常識的なライフコースというエスカレーターがあり、
それに乗っていれば、社会のことなど考えられずにいられました。
自らの頭で考え、行動出来なければ、一寸先は闇な時代です。
でも、そんな不安定な時代に生まれた私たちのような世代だからこそ、
スリリングだけれども、わくわくするような人生を送れる世代です。
明日がどうなるのか怯える人生より、明日を切り拓いていく先頭に立つ人生に、僕たちの世代はしたい。
※ポエム終了
そしてそれは全てAO入試に挑戦することで得られる学びです。
時代の転換に合わせてそろそろお役御免です。
こうした背景を考えれば、
やはり、新しい学びの場が不可欠です。
AO義塾はその新しい学びの場たらんと、
そして再出発の第一弾として、
「社会問題を考えるワークショップ」を12月26日(金)に開催します。
皆さんと一緒に「考える」機会としていきたいと思っています。
対象は高校生ですが、参加人数によっては、大学生の見学も受け付けます。
こうした企画等を通じて、全世界を牽引していく先導者となることを目指す、
ぜひ意欲溢れる、才能の原石である高校生の皆さんのイベントへのエントリーをお待ちしております。
それは「結果」で示してみせます。
斎木陽平
全体的に文章が下手で草生えた
なぜかこいつは脳内で一般入学者を大学入学がゴールの「意識低い人間」に仕立て上げてるんだよなあ
ここ最近もやもやがたまってるので(もやもやしすぎて頭が働かなくてちゃんとした文章が構成できないけど)、はてダ使うの初めてではてな記法とか間違ってるかもだけど考えを整理するの兼ねてここで愚痴らせて
某大学の物理系にいるM2なんだけど、博士いくつもりで就活とかも全然してなかったのに今になって研究の行き詰まりがむっちゃ露呈してかなりやる気喪失してる
心当たりとしては
2. そもそも自分は実はそんなに研究をやりたいわけじゃなかった
あたりで、ネットでいろいろブログとか検索してるとやっぱりこういうので悩んでる人多いんだね
1のほう、d:id:next49:20081019:p2とかd:id:next49:20081207:p1とか「なにこれ自分じゃんやば…」ってなってしまった
大学院入るときに分野をわりとがらっと変えたせいもあるけど、研究に必要なレベルにまだ基礎知識があんまり追いついてないのに「研究」をやらされるのでリンク先にあるような叱られまくりの学生になってしまって辛い
このあたり2のほうとも絡んできて、その辺はd:id:next49:20090222:p2とかd:id:next49:20080205:p2がすごいしみる
自分が物理あんまりわかってないので、指導教員が「これこれこういう方針でいってみては?」って提案してくれて、ほうほうそういうものなのね、ってそういう方向でやってみて、で結果をみせたら「この報告からは君が何をやろうとしているのかわからない、これによって君は一体何を主張したいの?」みたいに言われるとえー急にそんなはしごを外されても…ってなって、でもやっぱりそれじゃ研究する立場としてはダメすぎるよね。
本当に自分で「自然な疑問」を持って問いを立てる、っていうのが全然できない
なんというか、理系の人の大半が例えば法学での甲という学説と乙という学説の対立なんか別にどっちでもいいよ、って感じてるのと同じくらいに物理のあれこれに対してえー別にどっちでもいいよ、って感じててあんまり「これを明らかにしたいんだ!」っていう目的意識を持つのが難しい感じ
いやそんなんじゃなんで大学院行ったんだよって話だけど、一つには周りの人に「君は学業が優秀だから」っておだてられたのといまやってる分野が将来的にもっと盛り上がりそうだったから、っていうのでそもそも「この研究がやりたい!」って動機じゃあんまりなかったのかも。前者に関しては「優秀な人間だって勘違いしちゃったじゃない!」のあのマンガまんまだしだいたい分野変えた時点で少なくとも学部の頃での評価なんてなんの役にもたたなかった、後者に関しては物理でそんなのあるんかいな、って思うかもしれないけど詳しく書くと身バレしそうだし割愛。
実際のところ院に入る前に「自分はこの分野に興味があるんだ!」って思ってたのは実は自己欺瞞(本当は別に研究するつもりもなかったけど、それじゃ大学院行く意味ないし適当な理由付けとして)だったのかも
とにかく、このブコメhttp://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/next49/20080205/p2にあるような
「研究の対象にも研究すること自体に対しても興味がないから考えないのだと思う。どうでもいいと思うことについて人は頭を使わない。「正解」があるならもうそれでいいですって感じになるよな。」
っていうのはマジで心当たりありすぎる。ていうかそれをM2の今になって気づく脳タリンな自分に辟易するけど、それでもまだなんとか指導教員に自発的に「これこれこういうところが分かりません!」て質問できれば状況はマシだったのかも。
でもアスペルガーのサバイバル術でよくある「質問されたときは理由で返すな、そういう時に相手が聞きたいのは理由ではなく謝罪だ!」みたいなのを高校生くらいのときにふんふんそういうものか、覚えとかなきゃってやってたせいか上で書いたみたいな状況で指導教員に「これはどういうことなの?」って聞かれてもむっちゃ身構えちゃうしそこであなたがそう考えた理由を教えて、って言われてもえーそういうこと今まで求められてなかったよー、ってやっぱりはしごを外された感しかない。最近はこういう質問なげられたときにしどろもどろになってろくな返事もできない自分にたいして指導教員もかなり呆れ顔になってるな、ってわかってしまうので精神的にけっこうきつい。
上のブコメのリンク先とその追記先を読んで思ったのは、例えば就職面接のコピペで知られる「1+1は何ですか?」っていう質問にたいして大学教員のほうとしては「私は1+1=2だと考えます。それには3つ理由があります。1つ目は…以上の理由により、1+1は2とかんがえるのが妥当だと私は主張します」って学生が答えるのを期待してるのかもしれないけど、自分が今まで生きてきて当たり前に求めらてた解答は「(1+1が何であることがこの人の期待してることだろう…)→(その答えを察して返事する)」だったし、ていうか研究室の一歩外にでれば今でも普通にそう振る舞うべき場面ばっかりじゃん。「気立てがいい」って要するにそういうことじゃん。
ほんとなんかもう、ただただ自分が研究に向いてないってことが改めてわかったというだけの1年半だったし修士すら終わらせられる気がしない(修了要件に学会発表を1回はしなきゃ、みたいなのがあるけどできる気がしない、未だにぜんぜん結果がでてない)、でも退路も立たれてどうしようもなくて大学いく電車の中ですら辛くて泣き出す始末、いままで期待していろいろサポートしてくれた家族にも申し訳なくて大学院無理そうですって言えないし、いまはすごく明日の月曜が来るのが嫌すぎてつらい
かといってここで逃げたら「自分で選んだ道すらまっとうできない」ダメ人間の烙印はずっとついて回るし、親や教師の言うことがよく聞けるだけの聞き分けのいい子が大人たちの考える「正しい答え」をひたすら暗唱し続けた結果がこれだと思うと情けないと思う反面、しょせんは自分の頭で主体的に考えられない人間の末路にはお似合いだねっていう感じもするしもう一生誰かの言いなりになって言う事を聞くだけで生きていければな、っていう希望しかない
http://anond.hatelabo.jp/20140706001632
のエントリー。どうやら私のことを言っているみたい。
ちょうど夕飯の準備も終わったところなので、思いつくまま書いてみようと思う。
確かに私の家はすごく厳しかった。
「女と言えども、東大にくらい行くのが当たり前だ。お前がやるべきことは勉強と、来たるべき時に備えて女を磨いておくことだ。」
そんなことを幼少の頃から言われ続けてきた。
あまり賢くなかった私は、そんな父の言いつけを忠実に守ろうとして、進学校に入学し、勉強に励んできた。
東大の理二を選んだのは、東大という名前がつけば父が納得してくれるだろうという単純な理由。別にどこでもよかった。
入学し、何も目的意識がない私にとって、東大の授業は何ら意味を持たず、ただぼんやりと過ごす毎日だった。
でも、旧友にはそんな姿を見せられない。単なる意地が、過去の私を掘り起こし、成人式での振る舞いをとらせた。
今考えると本当にバカみたいだけど。
そんなときだった。
だるそうにしていながらも、時々思いついたようにペンをノートに走らせ、またぼんやりの繰り返し。
興味が沸いた。
前期の授業が終わろうかと言うとき、ようやく話しかけることができ、そのノートの正体が分かったの。
でも、「知りたい」って思うことの本質っていうか、好奇心ってこういうことか、っていうのが分かった。
彼はどうでもいいと私が思うことでも、自分がやりたいと思ったらどこまでも進んで行っちゃう人だった。
まず初めて会った講義。彼の必修ではなかった。ただ講義名に興味があったというだけでもぐっていたらしい。
それからというもの、私も彼も、好奇心の赴くまま、いろんな講義にもぐった。
あの教授はこうだ、あの講義はこうだと意見交換を交わすうち、自然と仲良くなった。
付き合うというか、自然と一緒になった感じ。
もちろん、ドキドキすることもあったけど、日頃は何も構えることなく、自然体でいられたのがよかった。
そうなんだよ。自分のしたいことを思いっきりやること。そして、ちょっとずつそれを周りと分かち合うこと。それだけで、十分幸せを感じられる。
彼女はこういった。
”ご夫婦の写真を見ましたが、まあ平凡な容姿になっていました。勉強ができることにこだわった彼女は、結局世の中の幸せと縁遠い人生を歩むのでしょう。”
”勉強だけができることは人生の勝利には結びつかない。キレイであること、お金があること、コネクションがあること、人生で勝つために必要な要素はもっとたくさんあるのです。”
人生において、勝利ってなんだろう。誰かと比較することに意味はあるのかな。
幸せかどうかは私が決めるの。
容姿の優劣とか、世の中の幸せの定義とか、そういうのに左右されてはいけないと思う。
残念だけど歳を取れば容姿は自慢できなくなってくる。世の中の幸せの定義は、世の中の状況によって変わり続ける。
私は今、夕飯をもぐもぐ食べてくれる旦那と、あうあう言いながら一生懸命に笑顔を返してくれる娘が居るだけで幸せ。
それが、私が7年間でたどり着いた結論だよ。
なぜか。それは「強制的」な苦労より「能動的」な苦労の方が得られるものがより大きいからだ。
何かを成し遂げようとするならば一定以上の苦労や努力は避けられないものだが、他人から強制的にやらされる苦労ほど苦痛なものはない。
抑圧的で苦痛を伴う苦労からは人は逃げようとするので、結果的に得られるものが少なくなるし、頭のなかでネガティブなイメージが出来てしまい継続的な努力が出来にくい。
強制的にさせられた苦労で何かを成し遂げたとしても、自分がやりたいと思ってやったことじゃないから達成感や喜びは少ない。
能動的に「学ぼう」と思って行動する苦労は、その成果がダイレクトに自分の考えたことの評価としてつながるので、喜びが大きく達成感がとてつもない。
同じ仕事をやるにしても上司の指示に従ってばかりいるのと、自発的に発言・行動して仕事を動かすのとでは、どちらが達成感、そして得られるものが大きいのかは誰の目にも明らかだ。
まあ正しく表現するなら、
「同じ苦労をするなら買って出る苦労をした方が楽しいし、成果が出やすい」ということ。
・追記
「自ら買って出た苦労は苦労とは思えない」という意見はその通り。やってる本人が苦労とも思わず能動的に楽しくやっていることが、他人から見たらなんであんなに努力できるんだろうと思ってしまうことは多いと思う。
例えばモンハンを何百時間やるにしても、それを楽しんでいる人間と強制的にやらされる人間とではモチベーションや成果は全く違ってくるだろう。
この場合の「苦労」という言葉は、自ら買って出てやっている行動を、他人から見た客観的な印象としてとらえてもらえばいいかもしれない。
そういう意味で言えば、ブラック企業だろうがすき家のワンオペだろうが、何か自分なりに目的意識を持って自発的に動いた結果としてなら十分価値ある行動だと思う。まあバイトでそう思う人間は少ないだろうけど。
要は同じ苦労でも能動的に動いて学ぼうとしているんなら、それは行動する価値がある。
巷で批判されている部分はそれを「他人から強制的にやらされる」または社員を都合よく利用する為に「能動的だと思い込まされる」部分だ。
そこはまた別に判断力が必要だと思うが、大体そういった判断力は決断力より後に来るもの。動いた結果は結局動いてみなければ分からないし、決断して行動したその経験の積み重ねから学んだものが判断力として蓄積される。
判断を他人に委ねると都合よく利用される可能性は高くなる。
あと、苦労を買って出たところで成功するとは限らないという意見があるが、そんなもの買って出ようが人からやらされようが失敗する可能性は常につきまとう。
ただ同じ失敗をするにしても、買って出た行動からの方がその失敗から学ぶものは多い。
なぜかというと、買って出た行動はその責任の比重が自分の方に傾くから。失敗をダイレクトに自分の責任として受け止めざるを得ないので、芯から反省して次に活かすことに繋がる。
もし強制的にやらされたことで失敗したら、その作業を押し付けた人間をただひたすら攻撃、追求して何の反省も学ぶことも無く終わるだろう。
成功する為のメソッドは人によって職種によって環境によって時代によって千差万別。自分の能動的な行動から編み出すしか無い。自己啓発本やネットの記事を読んでも、それがいくら正しかろうが自分が学び取ったものでない限り何も変わることはない。
http://anond.hatelabo.jp/20140502221658
★読破したのは、薬師院はるみ「名古屋市の1区1館がたどった道」という本だが、
というのは、名古屋や横浜、大阪のような政令市では「1つの区に1~2館」というのが実情だが、東京23区では
「区内で7館とか10館」というのが、ごく当たり前の状況になっている。
政令市だと「図書館から半径1キロ圏内の人口より、半径1キロ圏外の人口の方が多い」、
つまり「図書館が徒歩圏外にしか存在しないエリアの住民の方が多い」のだが、
東京23区では「図書館から半径1キロ圏内の人口の方が、半径1キロ圏外の人口より多い、
それだけ図書館網が区内をくまなくカバーしている」状況である。
東京23区の図書館環境に慣れてしまった身には、政令市の図書館状況というのは「まことにお寒い状況」に見えてしまうし、
おそらく図書館利用率も、徒歩で図書館アクセスできる23区と、そうでない政令市では、全然違っていると思う。
ましてや、図書館が整備されてない通常の市、或は郡部とでは、利用率は月とスッポンだろう。
多分、23区住まいの方が、読書欲が多く、かつ経済的にも余裕があって、
本来なら「小説家にとって、お客様を多数抱えているハズの商圏」なんだが、
そういうエリアでくまなく図書館ネットワークが構築されちゃっているから、小説家の怒りも相当なんだろう。
★あと、「住民1人当たりの図書館館数1位は富山県だ、だから富山が進んでいる」という言説があったが、
これには違和感がある。
利用者にとっては、人口当たりの館数なんていう数値はあまり意味がなく、
「徒歩圏内に図書館があるかどうか?」それが大きいと思う。
クルマを運転できる大人なら徒歩圏云々はあまり関係ないが、クルマを自力で運転できない小中学生にとっては、
「徒歩圏内に図書館があるか否か?」は、「図書館を気軽に利用するようになるか、否か?」の分水嶺になってしまう。
その意味では「徒歩圏内に図書館サービスが行き届いている23区が、圧倒的に進んでいる」と思う。
「なぜ東京23区は、ここまで図書館王国になったのか?歴史的背景は何か?」
★図書館のプロって、この「徒歩アクセスできるかどうか?」の観点をあまり重視してないような気がする。
図書館関係者って、「図書館が果たすリファレンスの役割」とか、とかく大上段に構えがち。
でも、図書館利用者の9割は、そういうことを気にせずに、「タダで本を読める、読書欲を満たせる」という単純な理由で
利用していて、図書館関係者の高尚な想いと、ズレてる気がする。
利用者目線だと「徒歩圏内にサテライト館が欲しい、貸出冊数・期間を拡大してほしい、開館時間を延長してほしい」
この辺の意識のずれは、何とかならないか?
★そもそもレファレンス機能・アーカイブ機能は、国会図書館と都道府県の中央図書館が主に担えばいい話であって、
市区町村図書館、それもサテライト館は、とにかく利便性向上につとめればいいのでは、とも思う。
本を読む、という場合、
2.なんとなく、読書欲を満たしたい
という2つがあって、1.の場合はレファレンス機能・アーカイブ機能が重要になる。
また、蔵書数は多ければ多い方がいい。
でも2.の場合は、他館からの取り寄せ機能さえしっかりさせておけば、
蔵書数にはこだわることはない。リファレンス機能もあまりいらない。
それより利便性が命になる。