はてなキーワード: 感情表現とは
因子ガチャはクソ。
普通のガチャはそれなりに。今の所配布多いしどうせサイゲのことだから無料10連するんだろ。
お嬢様口調で食いしん坊。しかもレース中にいきなり茶をシバく。
全体のウマ娘にいえるところは耳をピコピコするのがあざとすぎる。
犬を飼っていたので「耳」や「しっぽ」で感情表現されるともう気が狂う。
ケモミミってそういうところずるいよな。顔では「全然嬉しくないですけど」みたいな人間の表情をして、耳はピコピコしてる。サイゲはそういうことするよ。
パワプロとかシャニマスとか言われてるけど個人的にはパワプロのほうが近い。シャニマスはどっちかというと同じレッスン・仕事をこすり続けるのが最適解でそこにサポがどうきてくれるかが重要すぎる。最終的にほとんどをオーディションに費やしてファン人数増やしたり、レール(ノート)に沿ってレッスンしたりでレッスンできるかどうかに運要素が絡んでくる感じ。
パワプロはスマホのやったことないが9とか10とかやってた感じにちかく、サポや友情発生を見つつ自分がやりたいレッスンをコントロールできる。
バクシンオーやサイレンススズカのようにスピードをこすり続けるのが良いウマもいるが大体のウマは必要ステータスを定めてそこに向けて練習していくので良い。
これに「今日は筋トレしたい気分です」とかつかないから良い。俺も「お昼寝いっぱいしたいから」と有給申請したい。
レースは操作が一切ない。だがそれが良い。完全に応援側として見れる。
特殊スキルの演出も熱い。走ってる時のウマ娘の表情も必死で良い。
でもG1レース以外で自分のウマが勝負服来てるのに他のウマが運動服なの勘弁してほしい。なんか恥ずかしいじゃん。
微妙。
序盤で述べてる因子ガチャのせい。
「とにかくプレイを積み重ねれば積み重ねるほど強くなれる」ゲームではない。
モンハンでいうと発掘武器やお守りや装飾品ガチャのようなもので育成が終わった後に次の育成ウマ娘に能力を継承させることができる因子というのが完全ランダムでつく。
完全ランダムかはわからないが、スピードSS スタミナD パワーE 根性F 学力Bみたいなバクシンオーにパワーがついたのでたぶんランダム。
責めて「スピードSSならスピード因子☆2以上確定」とかほしかった。このせいで因子ガチャするときは無闇矢鱈にスキルをつけないことが安定してしまっている。
強い育成ウマを作る、親馬(便宜上こう呼ぶ)を作るが完全にイコールではないので運に頼る部分が大きい。
強スキルをとことん詰め込めば一回り劣っていようと余裕で勝てるぐらいにスキルが重要。
特に中距離以上のウマにとってスタミナ回復ができるスキルがあるかどうかはかなり重要。素のスタミナが800ぐらいあっても「スタミナが足りないですね」と煽られることがある。
その代わりに500ぐらいのスタミナに回復スキルが2個ぐらい付けば疲れることがほぼない。
これが何を意味するかと言うとサイゲが「フェスです 最強スキルです」とかいってなにか実装してきた日にはウマ娘育て直しも十分ある。
それを見越して今のところ自分は因子ガチャしてるのはあるが、とにかくスキルが勝負を支配する部分が多い。
まぁでもイベント次第でしょ。今の所ほかプレイヤーと争うコンテンツが趣味程度のものなんでいいが。
サイゲのことだから実質対人戦のサークル合同レースとかやってくるからそれに向けてって話であれば親馬今のうちに作っといたほうがいいかもしれない。
怖いのがその親馬ですら作り直しになる可能性がある。なぜなら☆3以上のウマ娘の固有スキルは遺伝ができるからだ。
面白い。
面白いが今のうちだけかと思う。なにより拘束される時間が長い。
今の所他に強いコンシューマーゲームもでていないからみんな余裕があるからやってるだけだと思うところはある。
それでもまだまだ先のスケジュールに大移動が発生するようなタイトルがないこととガチでやっていこうと腹を決める人がその間に増えていくと思うのでしばらくはみんなウマ娘ウマ娘いってるんじゃないんですかね。
スキルゲーのところでかいたが回復スキルがあるかどうかでだいぶ違う。
有難いことに親の庇護下にあった時代はお金がなくてご飯が食べられないことはなかったし、奨学金を貰って学校に行くこともなかった。そう、衣食住は満たされていたのだ。家に帰れば専業主婦の母がおり、父が働いたお金だけで家族全員が暮らすことができた(バイトはした)。
もちろん周りの友人達の親の中には共働きの人もいたがその理由については特に考えることもなかった。他人の家の経済状況なんて全く興味がないし、考えもしなかったからだ。寧ろ流行りのゲームも買ってもらえない自分の家よりディズニーランドにいつも行っていて、最新ゲーム持っていて、正月夏休みには親戚から万単位のお小遣いを貰っている友人の方がお金持ちだと思っていたくらいだ。私の親に対して大変失礼な考えだ。
初めに違和感を持ったのは私が大学に上がった時だった。奨学金の説明があるため、該当の人は残ってくれ、とアナウンスがあった時多くの人がその場に残っていた。その時点での私の中の常識は学費というものは親が出してくれて当然だったのだ。今思えば非常に傲慢な考えだ。
また、ニュースなどで貧困問題が取り上げられてる際も自分の身近に該当する人がいなかったし、この飽食の時代に食べるものがなくて苦しんでいる人がいるという事実自体どこか夢物語の様だった。
唯一若い人の収入が少なくて生活が苦しい、ということだけが実際に働いて実感を持つことができた。
SNSを見ていると最後まで文章を読まずに感想を書いたり、文章の正しい解釈が出来ていない人が多い。最近話題の漫画を読んだときに作者が「本編のこのキャラのこの行動の理由はこういう事です。」と注釈をつけていた時は絶句した。人の受け取り方は千差万別あるとはいえ特に漫画は読んだ受け取り手が意味がわかる様に描かれていることが多い。さらに作者だけではなく編集者もチェックして他者に伝わることを確認している筈だ。それなのにコミックスで作者が注釈を入れなければならないくらいにキャラの行動の理由がわからないという手紙が届いたということだ。それはつまり読解力のない人間が増えたと捉えることもできるのではないか。読解力がないという事は正しく相手に伝わらないし、伝えられないことに繋がる。それはコミュニケーションが正しく取れないから満たされないことに繋がるのではないか人は喜怒哀楽の中に細かい感情の機微があるはずで、感情表現や、行間が読み取れない事は学だけでなく人としての感情も乏しい事だと私は思う。
冒頭に書いた様に私はオタクだ。二次創作はよく見る。最近の二次創作で疑問に思うのは大食いキャラが食べ方が汚い様に描写されることが多くなったな、という事だ。私個人としては「大食い」と「食べ方が汚い(行儀が悪い)」は全く違うことだと思っている。しかし何故か大食い=食べ方が汚いのイメージが定着しているのだ。作中でキャラクターの育ちがいい描写をされていても何故か二次創作では飢えた獣の様な食事方法をさせられているのだ。よくオタクは「沢山食べる君が好き」と言っているが、自分の推しが飢えた獣の様にご飯を食べていることには抵抗がないのだろうか?私はものすごく嫌だ。二次創作に限らずテレビを見ていても食べ物を上から食べる、口に物が入ったまま話す、迷い箸などの芸能人はよく見かける。定期的に箸の持ち方が炎上もしている。正しい持ち方はその持ち方である根拠があるのに、自分ができないからそれはおかしい!という人間が増えた気がする。(勿論、懐石料理の様に部屋の開け方から食べる順番まで守れ、とは思わない。私だってそこまで出来ない。一般常識の範囲の事ができていない人がいるのだ)
あくまで私個人の見解だが、人間は自分が体験、経験したことを主軸に物事を考えたり行動する為、それだけちゃんとしたテーブルマナーや躾がなされていない人が増えたのかとすごい貧しさを感じてしまった。
よく本に出てくるフレーズとして「知識は宝だ」の様な文章がある。実際に知識があって頭がいい人ほど腰が低く、心にも余裕がある様に思える(この場合の頭がいいは勉強ができるだけでないということも補足しておく)。心の穏やかさはそのまま豊かさに繋がっていると私は思っている。最近のSNSを見ていると、世界の実情が辛いことも踏まえても、貧富格差広がっている中全体的に貧しくなっていってるのと、絶え間ない情報と自分に都合のいいところしか見ない様な状況になっている気がする。それによって(それだけではないけれど)感情のコントロールが効かなくなってるのを、SNSやら、二次元キャラやらに当てがって発散してる様に見える。昔からいたのかもしれないがガッツリ目に見える形になっていて、経済的にも精神的にも貧しさを感じて私は怖い。
進撃の巨人のアニメを見ているのだが、今までに主人公のエレンが2回ほど自分のふがいなさに絶望し自嘲するシーンがある。
しかしアメリカでのリアクション動画や、掲示板での反応を見ると、わざわざエレンの自嘲行為について大量の説明コメントがついており
「これが彼の感情表現なんだ」とかいちいち説明してる人がいるのだ。
一応言っておくと、そういった説明を聞き大半のアメリカ人はエレンのその行動を理解しており特別荒れているわけではない。
しかし単語を使わずに、どのような感情表現なのかを説明しなければならないほど、ということは自嘲という感情表現そのものが一般的ではないと思える。
しっぽの感情表現もあるよな
よく絵師の「絵の感想を送ってくれたらめちゃ喜ぶ」みたいなツイートが定期的にバズる。私は絵描きではないが、全く同じスタンスである。好きな絵及び推し絵師には積極的に感想を送るべきだ、という話をこれからする。
界隈にすごい絵が上手い絵師(以後神絵師)がいる。界隈の人間なら誰でも知ってるくらい有名な人ではちゃめちゃに絵が上手い。クスッと笑わせてくるようなネタ絵からクソでか感情を催すようなシリアスな絵まで描けるすばらしい神絵師だ。描く対象の特徴を捉えるのがめちゃくちゃ上手い。とにかく界隈大手の神絵師である。
その神絵師はマシュマロをやってたからよく感想を投げていた。このキャラの表情がすごいやら当たり障りのない内容だったけど神絵師は律儀にマシュマロに返信をくれた。心優しい神絵師だ。
その神絵師にDMを送ったことがある。マシュマロでもよかったんだけど、私の文章力が足を引っ張った。「絵のこの指の角度がもうやばい」みたいなお気持ちを文章にするのは難しいし相手にとってもわかりにくい。どの指のどの角度だよってなるのも当然だ。だから、神絵師がアップした絵をスクショして、余白に感想を書き込んだ。デジタル版トレペ感想である。トレペ感想はすごい便利だった。「この指のこの角度」とか指示語ばっかりのゴミ文章を創成しなくていい。指の部分をまるで囲んで「ここすんごい好きです」って書くだけでいい。画期的なクソでか感情表現法だと感動した。そのデジタル版トレペ感想をDMで送った。正直DMを送るのにすごい緊張した。神絵師は私のことを知らない。私は絵描きでも字書きでもないただのオタクだし、FFは二ケタ前半でなんなら普段は鍵をかけている。完全に不審者である。散々迷った挙句、一時的に鍵を外して、プロフに界隈の名前をそれとなく記しておいた。今思えば、目出し帽をかぶった不審者が全裸になったくらいの変化でしかない。それでも当時の私にとっては清水の舞台から飛び降りるくらいの気持ちだった。
神絵師からDMが返ってきた。どこぞの知らない馬の骨の感想を喜んでくれた。デジタル版トレペ感想の感想を長文で送ってきてくれた。神絵師は神だけでななく性格もすごいよかった。私はブロックされなかったことに安堵して、アカウントに鍵をかけた。それからは鍵をかけたままトレペ感想を送っている。神絵師は律儀に返信をくれる。
デジタル版トレペ感想を作成するようになって気づいたことがある。作品制作時間とトレペ感想制作時間の非対称性だ。私は絵に感想を書き込むのに25分程度かけている。まあアニメ1話分くらいだ。しかし、その絵を描くのにかかった時間を考えればアニメ1話分の時間など微々たるものだ。無知にしてカラーの一枚絵を描くのにかかる時間を全く知らないが、アニメ1話分では済まないだろう。それだけではない。神絵師を神絵師足らしめるのは絵に費やした時間である。私が絵を描いても神絵にはならない。絵の上達のために時間を費やしたことがないからだ。一枚の絵には、作業時間だけでなく絵を描き始めてからこれまでの時間が背後にある。私たちはこれを心に刻まなければならない。
聞いて驚く勿れ。神絵師はその絵をツイッターにアップしている。私がその絵を見るとき、神絵師が費やした時間を何の対価も払わずに享受していることになる。正直お金払わせてほしい。私にできることは、神絵師が費やした時間よりはるかに少ない時間で作成したデジタル版トレペ感想を送ることだけである。一周回って無力しか感じない。ありがとう神絵師。生まれてきたことに感謝している。
以上、考えてきたことをつらつら書いたが、推し絵師の神絵を見てクソでか感情を催したら積極的に感想を送った方がいい。これが全てである。
この手の「共感力不足」問題の対応策は割とはっきりしている。「感情を説明することが難しい」の話でもあったけど。。。
1つめのポイントは、「相手の話をちゃんと聞くこと。復唱できるくらい、そのまま聞くこと」
なぜか。
そもそも、話し手が話した言葉は、話し手本人にとって一番心地よい言葉。
なので、そのままの言葉が返ってくると、自然に「うんうん」となる。
ちなみに、「おうむ返し」に失敗するパターンでよくあるのが、「聞き手が、勝手に表現を変えてしまう」時。
聞き手が、自分にフィットする表現に置き換えちゃうと、話し手にとっては心地よくない表現になってしまう。
復唱って、出来るようでできないんだよ。自分の中でついつい表現を変えちゃうから。
大事なのは、頭の中の反応は一旦脇に置いて、ただ、「相手が言った言葉をちゃんとキャッチし、再生する」こと。
だから、相槌を丁寧に使う。
「おうむ返し」で全ての言葉を言わなくても、相槌で「ちゃんとあなたの言葉を受け止めましたよ」というメッセージを返すことで相手は安心する。
相手の感情に合わせて、相槌の言葉や声の出し方を調整すると、相手の反応も良くなる。
試してみると面白いよ。
3つ目のポイント。「自分の意見なんて、ほとんど言わなくていい」んだ。
コミュニケーションでは、ニコニコしてうなづいているだけの方がむしろ有効。
なぜか。
自分の意見、というのは、ある意味自分と相手の「違い」を浮き彫りにするもの。
そして、「自分と違う人」であることを示す言葉を聞けば聞くほど、お互いの心が離れていくものなんだ。
だから「意見を言う量」や「意見の強さ」をコントロールすることが大事。
相手を変えたいのだとしたら、正面から意見をぶつけるのは、一番成功から遠い行為だ。
政治家の会食がベストとは言わないが、直接意見をぶつけるよりよい方法は他にいくつもある。
4つめのポイント。感情表現や感覚表現をつけて返事をする。最初は実感がなくてもよい。
「今日は寒いですね」「このご飯は美味しいですね」「ご飯を作ってくれて、ありがとう」
気持ちとか感覚の言葉は、明らかな嘘や思いつきでない限り、相手と共有しやすい。
単純だけど、
「美味しいね」「うん、美味しい」
これだけでも、相手と同じ(ような)感覚をかなり深く共有することができる。
厳密には錯覚かもしれないが、それでもコミュニケーション上は有効だ。
人間は動物なので、自分と同じような感覚を持ち、自分と同じような考え方をしている、
と感じられる相手と親しくなっていく。
はぁ~。だめだこりゃ。同じ人?
大人向け=幅があると思いこんでるのが悲しい。
トムジェリとか別に大人向けじゃないけど表情くるくる変わりますよ。
そして元増田もおそらく評価するカートゥーンなんて、自分の表情を鏡で見まくって描いてます。
これは描くものとして当然の行為だし、Gigazineソースかなんかで明示されてた記憶があります。
元増田を言えばAKIRA、俺も大好きですよ。フリクリも好き。
でもトップをねらえ!と言うと急にオタクカルチャーだと言って否定するわけでしょ。SFですらないと。
オタクの一部にオタク向けしか理解せずにサブカルを否定する狭量な人が居るのもたしかに事実だ。
しかしそれがオタクカルチャーの否定要素になるという言説自体が片腹痛い。
そしてオタクカルチャーが他のカルチャーに言及したとき、それが本格的ではなく稚拙だ、とするのはより滑稽。
まして増田のように感情表現に依拠させて否定するなど愚の骨頂。
俺はそれぞれの文化が花開けば良いと考えてるだけです。
俺もハンコ絵が一時期嫌いだったので実は深く意図を汲み取ると言いたいことはわかる。
でも萌え絵というものはそのバリエーションにこそ骨頂があるんだよ。
部分部分のディテールを損ねてでも「属性」という付加物で勝負する。
そしてその多様化で生き残ってきた。決してリアル系の作画、映画など他のサブカルチャーに引けをとっているという比較対象で使うものでもない。
藤本タツキはマンガ表現の中でなんとなくタランティーノっぽい空気を漂わせてるとどっかで書いたけど、藤本のそれにしたって心の片隅では「漫画でそれやらなくてもなあ」という部分と、こいつすげえなという部分の二種が混在する思いだ。
萌え絵はそれの中で優れた歴史表現を含めていて、それ自体が文化だ。
いやー、君こそずれまくってて笑えるんだけど。
まずさ、
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
ここの部分を見て感情表現なんて一言も書かれてないですよ。元増田の主張は基本的にオタクがその他のサブカルチャーを容認してこなかった、と延々と繰り返してるだけ。元増田の趣旨を読み取れず、ズレまくってんのはあんただ。
ほかも極めて馬鹿なので突っ込んおいてやるか
どこがやねん。アクタージュですら涙袋という表現上エグい部分をあえて描いて表情を作ろうとしている。
変顔と言われても萌キャラの顔をゲス顔にして過剰演出することだってある。
言われないと気づかないのかもしれないが、改めて考えてみるとおかしいよね?
唇は萌えキャラと萌えキャラじゃないキャラを見分けるポイントの一つだ。
萌えキャラじゃないキャラは完全な唇ではないにしろ「下唇の位置を特定させる影」のようなものがある。
西洋では口が重視され、東洋では目が重視されるとはよく言われることだ。
そのことを踏まえた上で萌えキャラを見れば唇がないことの異質感にはすぐ気づくはずだ。
何が言いたいの?
お前の主張はキャラに感情がないだのあるだのうんたらでしょ(そして指摘自体が的外れ)。
なんで口だけが感情なの? なぜそんなに深堀りしてない状態で萌えキャラを論じられるの?
お粗末だよあんまりにも。個人的な意見だけど表情筋で最も豊かな部分は眉間と目尻です。
口で判断するところから出羽守そのものというか。まあこれは印象だけど。
この程度も看破できないのなら口挟むのはやめといたほうがいいよ。
ズレたことを言っているのは貴君では?
トピ主の言う「人間的に動かす」とは「感情表現」のことを指しているのでは?
動的なアニメの話をしているのに静的なフィギュアを持ち出すのも意味不明(イミフ)だよね。
「動かす」話題で動かないフィギュアを持ち出すのは、おかしい。
さて萌えキャラはディフォルメされた絵柄によって微細な感情表現を行うことができない。
一般人は素直に萌えキャラに感情表現の制約があることを利点ではなく欠点とみなすのだろう。
だが価値観の違いによってか萌えオタはこれをむしろ利点と認識しているのかもしれない。
「明示的に示される表情」は何を考えているのかわからない「思わせぶり」なリアル女より優れている、と考えているのかもしれない。
若い絵師を見ると、こうした萌えキャラの性能上の欠点に見切りをつけて、そうでない表現を模索しているようではある。
おそらく萌えキャラは微細な感情表現がオミットされているため「エモさ」を重視する最近の若者は直感的にダサいと感じているのだろう。
言われないと気づかないのかもしれないが、改めて考えてみるとおかしいよね?
唇は萌えキャラと萌えキャラじゃないキャラを見分けるポイントの一つだ。
萌えキャラじゃないキャラは完全な唇ではないにしろ「下唇の位置を特定させる影」のようなものがある。
西洋では口が重視され、東洋では目が重視されるとはよく言われることだ。
そのことを踏まえた上で萌えキャラを見れば唇がないことの異質感にはすぐ気づくはずだ。
もっとも萌えキャラは眼球が無闇矢鱈と拡大されているので「目の表現」をもオミットされているわけだが。
唇のない萌えキャラがそうした表現を行うには必然的に絵柄を変えぬばならない。
「絵を描いたことがないやつ」などと攻撃をするくらいだから画力にはよっぽど自信を持っているようだが?
いままで萌えキャラに唇がないことの欠点について考えたことはないのだろうか?
なんで下手なの?
アイドルだろうがお笑い芸人だろうが役者だろうが、滑舌と発声の基礎訓練はやってるはず。
歌手は上手い人が結構いたと思うけど、アイドルは歌ってても打率は低い印象がある。
アニメの声優に限らず、吹き替えやバラエティのナレーションなどでも芸能人を起用することがあるけど、やっぱり滑舌が死んでることが多々ある。
下手なままで本人も周りもファンも気にしてないように観察される。
解せない。
(演技が未熟でも周りが上手ければ影響されるし、メインの演技に周りが合わせることもできる。素人が芸能人があてた声に違和感を強く覚えるのは、感情表現としての演技というよりは滑舌や発声の技術のほうだ)
(アイドルがどういう発声をしてるのかは、AKB0048や22/7をみるといい。多数が未熟だと全体として整って感じるかというと、そんなことはない。)
(滑舌がいまいちでも発声がよければなんとか耐えられなくもないというサンプルとしてスポーツ選手がゲスト声優として参加してるのを見ると良い)
勿論タイトルは釣りで、カフカは全世界に影響を与えたユダヤ人かつオーストリア(チェコ)人なわけですけど。
独文学というとカフカ、カフカというと独文学。そんな感じですよね、実際のところ独(語)文学においてはトーマス・マンとかゲーテとか他にも様々な著名な作家がいるわけですけれど、カフカはその研究テーマとしては比較的ポピュラーな御仁であります。ユダヤ人の家庭に生まれ、生地である現在のチェコ=プラハの言語に依らずドイツ語にて創作を目指したカフカの、ミステリアスな人間性はその作品群に対しても同様に、謎めいたベールを投げ掛けています。
カフカの文学をお読みになられたことはございますでしょうか。まあ僕もそれほど熱心な読者とは言えないかもしれないのですが、とりあえず『変身』・『城』・『審判』のほか幾つか著名な短編を読ませて頂きました。まあカフカの作品の特徴は、感情的な部分を敢えて抑制するところにあります。勿論十分に感傷的な部分を持った短編とかも散見されるのですが、基本的に、感情の伝達、あるいはその伝達の手段としての文学というものをカフカはあまり信頼していなかったのではないかとも思われるのです。というのは、基本的に作中人物達は様々な問題に取り囲まれていることが多いのですが、弱音を吐くことがあまりなく、ついでに言えば仮にその感情というものが滲み出るにしても、基本的にそれはレトリックや暗喩といった形によって示されるので、はっきりとした感情というものが作中に表れるということは稀なんですね。この辺に、カフカの抑制的な人格と、コミュニケーションそれ自体に対するカフカの立場というものが表れているように思われます。カフカは基本的にコミュニケーションというものを信用しておらず、また、コミュニケーションを通して自分自身の人生をくつろげるものに変える努力に関しても、冷ややかな見方をしてきたように思われるのです。
コミュニケーションという営みは人間と基本的に切り離せないもので、人間はそれを用いて自分の人生や他人の人生をコントロールしようとします。しかし、そのような一般的なコミュニケーションの立場と、カフカのコミュニケーションに対する立場は明らかに違うように思われます。とはいえ、カフカの立たされていた環境を考えれば、我々が用いるようなコミュニケーションのあり方と、カフカにおけるコミュニケーションのあり方との乖離は、さして驚くべきものではないでしょう。
つまり、カフカはユダヤ人でありかつオーストリア人でありかつチェコ人と呼べる極めて国家や国民性というアイデンティティが複雑に錯綜した人物であったからです。これはカフカ研究においては極めて一般的な基礎知識ですが、カフカは現在のチェコに当たる地域で生まれたにも関わらず、その日常においてはチェコの土着言語を用いずにドイツ語を用いました。また、当然のことながら創作においてもドイツ語を用いておりました。チェコで生まれながらにしてチェコ語を使うことを許されない――つまり、カフカは自身の持つ言語によってさえ一種の疎外を受けていたと言えるわけです。超基本です。
カフカにとってコミュニケーションとは――なかんづく、コミュニケーションを根本的に支える言語というものは――自身の人生をリラックスさせ、他者との間に健全なコミュニケーションを成立させる、我々における言語のあり方とは少しばかり違うものだったということです。カフカは生まれながらにして一種の異邦人であった、ということですね。この「異邦人」という記述はもはや陳腐な言い方なのでしょうが、しかしやはりこの視点はカフカを理解する上では切っても切れない重要な点となります。カフカはそのアイデンティティの複雑さ故に、生粋の異邦人でありましたし、そして彼が用いる言語やレトリックは基本的に、一種の生存戦略だったのです。要は、植民地支配を受けた国家の国民が土着言語を用いず宗主国の言語を用いるのに近い、生存戦略の一環として言語を用いる生活を送ることが、彼の人生においては定められていたのです。我々にとって言語と人格は複雑に結びつき、そして、自身の人格や感情を表す際に、極めて重要な役割を演じます。恐らく、この世界におけるほぼ100%近い人類が、言語に対してそれと同じ感覚を抱いていることでしょう。しかしカフカにおいてはそれは事実ではありません。
カフカの作品群において、カフカは言葉によって感情を語ることはありません。カフカが語る感情は、物語の構成に依存しているか、ないしは物語中における舞台装置によって、つまりは暗喩によってのみ語られることとなります。その、感情表現の大いなる欠落が、カフカの文章における特徴ですらあるのです。あるいは、それは仏教における「見立て」の感覚に近いかもしれません。つまりは、一種の擬似的な曼荼羅と言いましょうか、物事や物質をある特定の配置に並べ変えることで、何らかの物質を超えたメッセージを贈ろうとする試み。枯山水が現実の自然を表すように、カフカはある種の機械や道具立てによってのみ自身の感情を説明しようとし、翻って言うならば、カフカは直接的な表現によって感情を説明しようとなどしなかったのです。感情の欠落。
この「感情の欠落」が文学の特徴であることは明らかにカフカが作り上げた文学の一潮流と言えると思います。後年の作家であるトーマス・マンの文学においても、感情や内省と言うべき人間の心のあり方が、敢えて描かれない抑制的な文体の影を見ることができるように思われます。感情とはなんなのでしょうか? コミュニケーションや言語は、我々にとって慰めと言えるものなのでしょうか? カフカはそれに対して否と答えます。言語は、必ずしも我々に結びついていない。同時に、言語を基底として成り立っているコミュニケーションもまた、我々に属していない。我々は、根本的に言語によってコミュニケーションを取ることができない。
しかしそのコミュニケーションへの失望が結論ではないのです。何故ならカフカは、コミュニケーションに失望をしていてさえなお、小説をものしたのですから。
何故カフカは文学を書いたのでしょうか? 文学は自己表現である、という一般的な見方と、カフカの文学的なあり方には乖離があるように思えてなりません。カフカにおいては寧ろ、文学は自己から自己への感情の乖離です。いわば自己の自己に対する乖離そのものです。
そのような営みは、恐らくカフカの人間性に淀みを与えているようにさえ思えます。自己の自己に対する分離、乖離を通して、恐らく彼の感情も一部彼から乖離し、分離していたからです。そのような営みが、彼にとって一体何だったのか? それは我々には想像するほかありません。短絡的に考えれば、その営みは、その乖離と分離の営みは、単純な自己破壊的行為であったと断じれるかもしれません。自己から自己を分離し、乖離させることは、明らかに自己にとって好影響を及ぼす行為ではないからです。とは言え、彼の行為は本当にその自己破壊を目的にしていたのでしょうか? あるいは、世の人々が芸術家や小説家に対してしばしば言うように、彼は文学というものを用いて、彼の生命と生活の痕跡を世界に残そうとしたのでしょうか? それも、疑わしいと僕には思われます。つまり、カフカの文学はコミュニケーションに対する諦観なのですから。そこには、コミュニケーションや言語に対する深い諦めの影の姿を見て取るほかないのです。
結論から言えば、カフカが文章を書いていたのは、恐らく乖離を目的とした、逃避行動だったと言えるでしょう。そして同時に、彼は自己から自己を乖離させることによって、一般論的に自己省察を深めようとしたのでしょう。敢えて、自己から自己を分離させることによって、自己を省察可能な対象として対置する行為が、彼の文学の目的の一部だったと言えるでしょう。
このような記述は文学における一般論の範疇を出たものではなく、彼の人生や文学の目的は未だもって謎に包まれています。カフカに限らず、一部の文学者は、そして小説家は、コミュニケーションの媒体である文字や言語を用いながらに、コミュニケーションを諦めているのであり、つまりは何かを伝えようとしながらに、我々に対して何も伝えようとなどしていないのです。あるいは、最終的には彼らのような小説家の目的は、一言によって表せられるのかもしれません。
家で飼っていた室内犬が死んだ。母親が散歩させている途中、他の人が連れている犬に噛まれて死んだらしい。外出先から帰ってきた途端、父親の口からそのことを聞かされた私はしかし、何も感じることができなかった。
私はその犬をわりあい可愛がっていたと思う。週に一度は母に代わって私が散歩に連れて行ったし、夕食後にテレビを見ている時はいつも膝の上でじゃれさせていた。今でもそのふわふわとした心地よい体毛の手触りを、懐かしさと共に思い出すことすらある。私はその犬に対し、単なるペットではなく家族の一員としての愛情を本当に持っていたのだ。
にも拘わらず、私は犬が死んだことに対して、やはり何も感じることができなかった。私の後に帰宅した姉は部屋に籠って泣き続けていたし、父は事件の細部を知るにつれ相手の飼い主への怒りを煮えたぎらせていった。家族の中には犬の死に際しての、ある種の感情的連帯が出来上がっていたが、私だけがそこから疎外され、居心地の悪い思いをしていた。
思えば私は昔から感情表現が苦手な子供だった。自分の中に確かに感情はあるのだが、それをどういう言葉で表せばいいのか迷っているうちに言いそびれてしまう。私の中での感情とは何かよくわからないもやもやしたレトルト状の実体であり、喜怒哀楽のような確固たる形をとることがないのだ。
そんな人間だから読書感想文も苦手だった。本を読んで何かを感じることはできるが、それを既成の概念で説明することにはどうしても抵抗を感じてしまう。かといって自分独自の表現を編み出せる訳でもないから、陳腐な教訓をむりやり本から引き出すことで体裁を整えていた。
思うに、程度の差こそあれ、誰でも私のような部分を持っているのではないだろうか。人間の感情とは元々、確固たる形を持たない不分明なものであり、それを無理やり怒りだの悲しみだのと呼んでみることでわれわれは他人に自分の気持ちを伝えられている(と錯覚している)だけなのではないか。われわれは単に怒るから怒るのであり、悲しむから悲しいだけなのではないだろうか。
犬が死んだ後の父はまさに怒るために怒っているように見えた。犬に愛着を持っていなかった(どころか、犬の頭をペットボトルで殴りつけたことさえある)父は相手の飼い主に賠償させることに拘り、ただ悲しみに沈むだけの姉や母を「泣き寝入り」だと言って激しく非難した。その姿は単に「家族を守る強い父親」という自己像に執着しているようで、痛々しいほど滑稽に見える。
私は依然、家族の誰にも同調することが出来ず、ただぼんやりと犬の死が家族の記憶から薄れていくのを待っている。そしてこの先も、感情を表に出さない、歳の割には幼く見える人間として生きていくしかないのだろう。
「自分語りをする」「好きなものや嫌いなものについて書く」「社会問題に絡める」
読書感想文の書き方については、元増田に限らず、こうした説明がなされることが多い。
ところで増田民は、これらの要素を含む文章を見たことがあるはずだ。
それこそ日々うんざりするほどよく目にしているはずだ。
そう、「女オタのお気持ち長文」である。(別に女オタに限らないが、しかし圧倒的にあの界隈の話ばかりだ)
そして逆にこうも言える。
「女オタは文章の書き方を小学校の読書感想文から全くアップデートできていない」
子供たちが「何を書いていいのかわからない」と悩む時、大人は得てしてその原因を「書き方がわからないから」と考えがちである。
しかし「文章の書き方」など、最低限国語を勉強していればだいたいわかっているはずだ。
学があろうがなかろうが、人間好きなものを語る時には饒舌になり、そして嫌いなものを腐すためならあらゆる手を尽くすと相場が決まっている。
しかし読書感想文に限ってなぜこうも悩まなければならないのか?
感情といえばせいぜいどうでもいい本を無理やり読まされた恨みぐらいしかなく、しかしそれを正直に書くわけにもいかないので、いったい何をひねり出していいやら悩むしかない。
虚無だ。
実際、私も読書感想文を書かされたことは人生の中で何度かあったはずだが、課題になった本の題名も内容も全く覚えていない。
なので適当に要約して最後に申し訳程度の感想をぶち込むしかなく、当然ながらコンクールにはまるで縁がなかった。
しかし今ならわかる。
お気持ちさえあれば、内容はどうでもいい。
たとえ自分の言いたいことが三行で説明できようと一行で終わろうと、あのクソ長文のように誰も聞いていない自分語りとクソ大げさな感情表現を一行ごとに挟んでやれば、文字数だけならいくらでも稼げるのである。
朝からこんなポエムを書いて申し訳ない。でも、書かずにいられなかった。
最新アルバムの盗作を200時間聞いて、今まで自分の中でくすぶっていた疑問が全て解けた。
それまでの彼らの音楽はティーンをターゲットに作られていたのだ。
sui-sの七色の歌声がどんな曲でも歌い上げてしまうので、それが彼らの真骨頂だと思い込んでいた。
「ヒッチコック」や「ただ君に晴れ」の、キャッチーでいて急にドキリとさせられるような大人の部分が見え隠れする、そんなアンバランスさがヨルシカの面白さだと思っていた。
その後色々な曲を聴き込むたび、sui-sの新しい一面を発見してはのめり込んでいった。
聞き流しているだけなのに、急に彼女の歌声に心臓を鷲掴みにされるような瞬間が病みつきになっていった。
ところが今回の「盗作」は今までのキラキラ輝いている感じは感じられず、少し落ち着いた、むしろ陰鬱な雰囲気さえ漂っていた。
今までは若さと体力だけで後先を考えないような危うささえ感じられる疾走感だったものが、同じ疾走感でも助走をつけながら徐々に加速して、そのうち自分の限界に挑んでいくような疾走感に変わったような印象だった。
先行シングルの「思想犯」も、はじめは戸惑いつつ、気がつけばヘビロテリストに加わっていたが、それでも少し戸惑いながら、「爆弾魔」の再レコーディングを聞いて、彼らの今回のアルバムで表現したいものを垣間見た気がした。
そしてとうとう「花人局」にたどり着いてしまった。
はじめのたった1フレーズで、いままでのヨルシカのイメージを粉々にされた気分だった。
今までヨルシカにもとめていたもののすべての答えがこの曲に詰まっていた。
そこには今までのヨルシカの魅力の一つであった少年少女のような有り余るエネルギーや熱意のようなものはなく、心の奥底の方からじんわりと染められていくような脆くも危うげな心の変化が歌いこまれていた。
今までもsui-sの歌声は変幻自在でどんな歌でも歌い上げるだろうと思っていたが、どちらかというと子供っぽい表現が多い中で、まさか、ここまで大人びた歌を大人びたままに細かな心情表現を持って歌い上げるとは思ってもいなかった。
もちろん、n-bunaの曲や言葉選びがあってはじめての作品である。
よくもここまでsui-sの歌声を信用して、これだけの複雑な感情表現を必要とする曲を作り上げたものだと。
とにかくこれを読んだ全員にこの曲を聞いてほしい。
でも、この曲だけを聞くのはやめてくれ。
せめて、youtubeで公開されているヨルシカのMVを一通りみて、いままでどんなヨルシカが求められ、受け入れられてきたかを知ってから聞いてほしい。
曲の始まりから終わりまで鳥肌が一度も止まらず、歌声の変化に涙腺が突き上げられ、歌詞の意味に触れたときに顔を覆いたくなるような悲しみに襲われたこの気持ちを少しでも誰かに理解してもらいたくて、でも、そんなものは経験した本人しか経験しようがないこともわかっていながら伝えないと気がすまないという衝動だけで書き上げてしまった。
当然ヨルシカがあなたにとってそういった存在になるとは限らない。
でも、世界にはまだこんなに心揺さぶられる出会いがあるのだということを伝えたかった。
かもしれない、というか当にそうなのだが。
特徴の一つとして「周囲から見ると何を考えているかわからない」が挙げられ、この障害を知らない人からしたら、ただただ取っ付きにくいタイプの人間だと思われがちで、少しでもこういった障害があることを多くの人に知って貰えたら、という願いを込めてここに書くことにした。
端的に言うと、他人に興味関心がなく社会的関係を育みたがらず一人でいることを好み、感情表現に乏しい。
以下の項目の4つ以上が当てはまるとこれに診断される。
殆どが後天性のもので育った環境や人間関係の縺れ、うつ病などの経験を通じてこのような障害が生じてしまうらしく、他の人格障害である「回避性パーソナリティ障害」「妄想性パーソナリティ障害」「境界性パーソナリティ障害」なども併発していることが多いらしい。
また、一見して感情的に冷めていて無関心であるように見えるが、実際には非常に感受性豊かで何か大きく感情が揺さぶられるとすぐに泣いてしまい、それを"恥"だと認識している為、他人の前では見せたがらない。
他人にどこまでも寄り添う正義感を冷ややかな目で見たり、同調して特定の人物を叩きたがる傾向のある現代社会(特にソーシャルネットワーク)においては豊かすぎる感情の露呈はやや「変わり者」と見られる風潮があり、それを"回避"するべくして無関心を装っているのかもしれない。
ここからは私の話をする。
両方において少しやりづらい点は、他人に興味関心をあまり持てない故にコミュニケーションにおいてやや近寄りがたいと思われがちなところだ。
その上、他者との対立を望まず、「波風立てない優しい人」を演じている為に、一般的に社会的弱者と呼ばれるような方や精神的障害を抱え悩んでいる方、主に年下から懐かれやすいと感じている。
そう思うのは、もしかしたら私自身の精神年齢が低いからかもしれない。
表面上では波風立てずに他の人の意見に賛同・同調したり、話が進展しない時は自分から立候補して意見を出すなどしているが、そもそも「自分の本心での考え方」が意識下にあり、その大凡がその場の空気に逆らう考え方や批判的な内容なのだ。
勿論同じ世代の人間と会話をすれば本心から同意・納得するのだが、こうして自分の本心を隠して「いい顔」をすることによってメンタルの弱い子相手には「自分はこの人に肯定されている」という気にさせてしまうのだろう。
普遍的・平均的価値観の人間からすれば私のようなタイプは「本心では何か考えがあるのにそれを表に出そうとしない」ことが感覚的に伝わって近寄りがたく感じているのではないだろうか。
また、上の項目に関しては、性的活動に対する興味と親しい相談相手以外の全ての項目が当てはまった。
家族に育てられ今もなお健在だが、今まで一度も「親孝行をしよう」という気持ちが持てなかったのである。
大人にもなれば自分の誕生日を祝われるのも気が引け、両親の誕生日も自分から祝うことはなくなった。子供の頃は、社交辞令としてそれを受け入れていた節がある。
誰にも打ち明けていなかったが、自分はなんて薄情な娘なのだろう、と何度も自分を責め立てていた。一般的に親子は仲良しであるという理解があったからだ。
シゾイドパーソナリティ障害の多くは、小児期の育ての親に冷たい態度を取られたり育児放棄をされるなど、なんらかの切っ掛けがあり他者との交流を拒むようになるらしいが、私の場合そんな大それて分かりやすく暗い過去は持ち合わせていない。
せいぜい、躾の為に押し入れに閉じ込められたり、大声で怒鳴られたりしたぐらいでそれが自分の今後の社会性に繋がっているとはあまり考えられなかった。躾だと分かっていたから。
むしろ自分の友人が悲しい過去を背負う人たちばかりで、自分は親に愛されて育ったのだと実感したぐらいだ。
何故人は喜び、悲しみ、笑い、傷つき、怒るのか?
その理屈を探るべく、クラスメイトに様々なアクションを起こし(聞こえは悪いが決して悪意はないもの)経験を得て人間が何をされたらどう感じるのか、どんな過去があればどの解釈が生まれるのか等々、自己陶酔気味に理解を深めていった。
今よくよく思い出して考えてみれば、若干サイコパスの素質はあったのではないかと思う。
自分自身の成長が遅く、それらを"恥"だと感じて回避するようになったのは高校の途中ぐらいからだった。
私はその頃ようやく、自分自身の性格が酷く醜いものだと悟り、表に出さないよう気を付けて生活するようになった。
ちょうどバイトを始める時期でもあり、結局若さ故に大人とぶつかっていくことになるのだが。
思い返せば、こうした気付きや自覚から、トラブルメーカーである自分は常に一歩身を引かなくてはならない、と抑圧を始めたことでシゾイドパーソナリティ障害は生まれたのだろう。
社会に出てからも若い時は大人とぶつかり最大のトラウマを抱え、しばしのうつ病闘病期間の末にある特定の人種との関わりがアレルギーになるなどしたが、もともと感受性と被害意識が強い為、感情を表に出せばどうなるかは火を見るよりも明らかだ。わざわざあの内容を書くほどでもないだろう。
長々と書き綴ったこの身の上話を誰が読みどう感じるのだろうか?
出来れば、私と同様に「何も感じない」で終わって欲しい。ただ、シゾイドパーソナリティ障害というものが存在すること、それを患う人間がどんな人間であるか、だけ分かってくれたらいい。
インターネットには批判をすることが好きな人間がしばしばいるようなので、私がコメント欄を開くことはないし、肯定的な意見に全身全霊で耳を傾けることもないだろう。
なぜここに書いたのかという経緯を最後に綴る。
他者への興味関心が薄く、打ち明けてどうこうされたい相手もいない。(相談相手はいるが、解決できないと私が結論付けた問題を提起したくない)
カウンセリングや心療内科の先生にすら、これらの障害・過去を「私」と結び付けられることが"恥"だと感じている。
受診したところで、気持ちを落ち着ける薬を処方されるだけなら、むしろそれだけでいい。
だけどたった一度だけ、どこかにこの思いを落としておきたかった。
残念ながらこの障害を抱えていることに対して「辛い」「悲しい」等の感情は持ち合わせていないが、心の奥底に眠る承認欲求と抑圧前の煮えたぎる反社会的な感情が私の手を動かしたのだ。