2020-08-22

家で飼っていた犬が死んだ話

家で飼っていた室内犬が死んだ。母親散歩させている途中、他の人が連れている犬に噛まれて死んだらしい。外出先から帰ってきた途端、父親の口からそのことを聞かされた私はしかし、何も感じることができなかった。

私はその犬をわりあい可愛がっていたと思う。週に一度は母に代わって私が散歩に連れて行ったし、夕食後にテレビを見ている時はいつも膝の上でじゃれさせていた。今でもそのふわふわとした心地よい体毛の手触りを、懐かしさと共に思い出すことすらある。私はその犬に対し、単なるペットではなく家族の一員としての愛情を本当に持っていたのだ。

にも拘わらず、私は犬が死んだことに対して、やはり何も感じることができなかった。私の後に帰宅した姉は部屋に籠って泣き続けていたし、父は事件の細部を知るにつれ相手の飼い主への怒りを煮えたぎらせていった。家族の中には犬の死に際しての、ある種の感情的連帯が出来上がっていたが、私だけがそこから疎外され、居心地の悪い思いをしていた。

思えば私は昔から感情表現が苦手な子供だった。自分の中に確かに感情はあるのだが、それをどういう言葉で表せばいいのか迷っているうちに言いそびれてしまう。私の中での感情とは何かよくわからないもやもやしたレトルト状の実体であり、喜怒哀楽のような確固たる形をとることがないのだ。

そんな人間から読書感想文も苦手だった。本を読んで何かを感じることはできるが、それを既成の概念説明することにはどうしても抵抗を感じてしまう。かといって自分独自表現を編み出せる訳でもないから、陳腐な教訓をむりやり本から引き出すことで体裁を整えていた。

思うに、程度の差こそあれ、誰でも私のような部分を持っているのではないだろうか。人間感情とは元々、確固たる形を持たない不分明なものであり、それを無理やり怒りだの悲しみだのと呼んでみることでわれわれは他人自分気持ちを伝えられている(と錯覚している)だけなのではないか。われわれは単に怒るから怒るのであり、悲しむから悲しいだけなのではないだろうか。

犬が死んだ後の父はまさに怒るために怒っているように見えた。犬に愛着を持っていなかった(どころか、犬の頭をペットボトルで殴りつけたことさえある)父は相手の飼い主に賠償させることに拘り、ただ悲しみに沈むだけの姉や母を「泣き寝入り」だと言って激しく非難した。その姿は単に「家族を守る強い父親」という自己像に執着しているようで、痛々しいほど滑稽に見える。

私は依然、家族の誰にも同調することが出来ず、ただぼんやりと犬の死が家族記憶から薄れていくのを待っている。そしてこの先も、感情を表に出さない、歳の割には幼く見える人間として生きていくしかないのだろう。

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