2020-08-09

ゾイドパーソナリティ障害かもしれない

かもしれない、というか当にそうなのだが。

特徴の一つとして「周囲から見ると何を考えているかからない」が挙げられ、この障害を知らない人からしたら、ただただ取っ付きにくいタイプ人間だと思われがちで、少しでもこういった障害があることを多くの人に知って貰えたら、という願いを込めてここに書くことにした。

 

 

まずシゾイドパーソナリティ障害とは何ぞや、という話。

端的に言うと、他人に興味関心がなく社会的関係を育みたがらず一人でいることを好み、感情表現に乏しい。

以下の項目の4つ以上が当てはまるとこれに診断される。

 

 

 

 

引用元MSDマニュアル

 

 

殆どが後天性のもので育った環境人間関係の縺れ、うつ病などの経験を通じてこのような障害が生じてしまうらしく、他の人格障害である回避性パーソナリティ障害」「妄想パーソナリティ障害」「境界性パーソナリティ障害」なども併発していることが多いらしい。

また、一見して感情的に冷めていて無関心であるように見えるが、実際には非常に感受性豊かで何か大きく感情が揺さぶられるとすぐに泣いてしまい、それを"恥"だと認識している為、他人の前では見せたがらない。

他人にどこまでも寄り添う正義感を冷ややかな目で見たり、同調して特定人物を叩きたがる傾向のある現代社会特にソーシャルネットワーク)においては豊かすぎる感情の露呈はやや「変わり者」と見られる風潮があり、それを"回避"するべくして無関心を装っているのかもしれない。

 

 

ここからは私の話をする。

 

 

私はアラサーの女で仕事趣味を両立させて過ごしている。

両方において少しやりづらい点は、他人に興味関心をあまり持てない故にコミュニケーションにおいてやや近寄りがたいと思われがちなところだ。

その上、他者との対立を望まず、「波風立てない優しい人」を演じている為に、一般的社会的弱者と呼ばれるような方や精神障害を抱え悩んでいる方、主に年下から懐かれやすいと感じている。

 

 

そう思うのは、もしかしたら私自身の精神年齢が低いからかもしれない。

表面上では波風立てずに他の人の意見賛同同調したり、話が進展しない時は自分から立候補して意見を出すなどしているが、そもそも自分本心での考え方」が意識下にあり、その大凡がその場の空気に逆らう考え方や批判的な内容なのだ

勿論同じ世代人間と会話をすれば本心から同意・納得するのだが、こうして自分本心を隠して「いい顔」をすることによってメンタルの弱い子相手には「自分はこの人に肯定されている」という気にさせてしまうのだろう。

普遍的・平均的価値観人間からすれば私のようなタイプは「本心では何か考えがあるのにそれを表に出そうとしない」ことが感覚的に伝わって近寄りがたく感じているのではないだろうか。

 

 

また、上の項目に関しては、性的活動に対する興味と親しい相談相手以外の全ての項目が当てはまった。

家族に育てられ今もなお健在だが、今まで一度も「親孝行をしよう」という気持ちが持てなかったのである

大人にもなれば自分誕生日を祝われるのも気が引け、両親の誕生日自分から祝うことはなくなった。子供の頃は、社交辞令としてそれを受け入れていた節がある。

誰にも打ち明けていなかったが、自分はなんて薄情な娘なのだろう、と何度も自分を責め立てていた。一般的に親子は仲良しであるという理解があったからだ。

 

 

ゾイドパーソナリティ障害の多くは、小児期の育ての親に冷たい態度を取られたり育児放棄をされるなど、なんらかの切っ掛けがあり他者との交流を拒むようになるらしいが、私の場合そんな大それて分かりやすく暗い過去は持ち合わせていない。

せいぜい、躾の為に押し入れに閉じ込められたり、大声で怒鳴られたりしたぐらいでそれが自分の今後の社会性に繋がっているとはあまり考えられなかった。躾だと分かっていたから。

しろ自分の友人が悲しい過去を背負う人たちばかりで、自分は親に愛されて育ったのだと実感したぐらいだ。

 

 

それに、小学生の頃は他人に対して興味津々であった。

何故人は喜び、悲しみ、笑い、傷つき、怒るのか?

その理屈を探るべく、クラスメイトに様々なアクションを起こし(聞こえは悪いが決して悪意はないもの経験を得て人間が何をされたらどう感じるのか、どんな過去があればどの解釈が生まれるのか等々、自己陶酔気味に理解を深めていった。

教師陣には、当たり前だが問題児として扱われていた(はず)。

今よくよく思い出して考えてみれば、若干サイコパスの素質はあったのではないかと思う。

 

 

自分自身の成長が遅く、それらを"恥"だと感じて回避するようになったのは高校の途中ぐらいからだった。

私はその頃ようやく、自分自身の性格が酷く醜いものだと悟り、表に出さないよう気を付けて生活するようになった。

ちょうどバイトを始める時期でもあり、結局若さ故に大人とぶつかっていくことになるのだが。

 

 

思い返せば、こうした気付きや自覚からトラブルメーカーである自分は常に一歩身を引かなくてはならない、と抑圧を始めたことでシゾイドパーソナリティ障害は生まれたのだろう。

社会に出てから若い時は大人とぶつかり最大のトラウマを抱え、しばしのうつ病闘病期間の末にある特定人種との関わりがアレルギーになるなどしたが、もともと感受性被害意識が強い為、感情を表に出せばどうなるかは火を見るよりも明らかだ。わざわざあの内容を書くほどでもないだろう。

 

 

長々と書き綴ったこの身の上話を誰が読みどう感じるのだろうか?

出来れば、私と同様に「何も感じない」で終わって欲しい。ただ、シゾイドパーソナリティ障害というもの存在すること、それを患う人間がどんな人間であるか、だけ分かってくれたらいい。

インターネットには批判をすることが好きな人間がしばしばいるようなので、私がコメント欄を開くことはないし、肯定的な意見に全身全霊で耳を傾けることもないだろう。

 

 

なぜここに書いたのかという経緯を最後に綴る。

他者への興味関心が薄く、打ち明けてどうこうされたい相手もいない。(相談相手はいるが、解決できないと私が結論付けた問題を提起したくない)

カウンセリング心療内科先生にすら、これらの障害過去を「私」と結び付けられることが"恥"だと感じている。

受診したところで、気持ち落ち着ける薬を処方されるだけなら、むしろそれだけでいい。

だけどたった一度だけ、どこかにこの思いを落としておきたかった。

 

 

残念ながらこの障害を抱えていることに対して「辛い」「悲しい」等の感情は持ち合わせていないが、心の奥底に眠る承認欲求と抑圧前の煮えたぎる反社会的感情が私の手を動かしたのだ。

抑圧を繰り返すことで感情の抱き方を忘れ、自分を殺すことがないように。

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