はてなキーワード: 帰依とは
神道は穢れ 穢れってのは混じり物ってこと
禊ってのは純粋化する作業であって汚濁を清らかにするって一般的なイメージの意味じゃない
汚濁ってのは「人間にとって使い道がない」って事で単一民族で形成された特色
これは血筋とか由来のものとかで一旦どうにかなったらリセットきかない
きかないかわりにそれを記録したものとして成り立つ
なので死んだらリセットがないので穢れ担当も神になれるようになってる
仏教のほうは不浄な 清められていないってこと
偉い人が「これはOK」って認可すれば良いってこと
多民族の広範な教理はあとから入ってきたやつも許可してやらないといけないからな
不浄ってのはえらい人がOKかNGか決めるわけで
逆にOKがでたらうんこでも食わないといけない
祝福されたら水でも石でも食えるようになるからな
それは土地によって気温が高くて腐敗と管理が難しい動物も食べるのNGにしたりするのな
うんこって決定されたらもう救われないの?ってのを助けるために
阿弥陀 このよのすべてに
仏とかなんとか ○○の名において
って唱えるのな
ダメなものでも自然にかえれば循環してもどってくるので最悪死んだらなんとかなる
また不浄な思いやらお金やらなにやらがでてくるのでオーソライズしていかないといけない
賽銭したりな
そういう意味でお寺は病院と同じ 病気になったやつが病気をもってきてそれをおいて変えるみたいな
興味があったら神学でもやってくれ
ただぼうずがごちゃまぜでうんこはきたないとかいってたらてめえ便所掃除の修行はきたないものをいやいややってたのかボケって殴り倒してもいい
NGが発生したものを救済するのが仕事なのに汚いとかいうやつは職務怠慢すぎる
おまえらのあつめてる賽銭もうんこだから仕事しないなら放り出せといってやれ
穢れとかいうなら穢れの神様としてその役を担ってくれるありがとうになるはず
「中国の侵略に脅える安倍首相は、ひたすらアメリカに媚び摺り寄って、『守ってもらおう』としている。しかし、アメリカが中国と全面戦争してまで日本を守ることなど、絶対にあり得ない。……その証拠に、アメリカは日米両政府が四月に合意した『日米防衛協力の指針』(新ガイドライン)の内容を、公表前に中国に見せている」「アメリカは日本を利用するだけ利用するが、イザとなれば日本を餌食にして、中国と太平洋を二分して棲み分けしようと考えている」「では憲法第9条だけを守っていれば日本は安全なのか。これは空虚な観念論にすぎない」「アメリカも、憲法9条も、国の柱ではない。では何を柱とすべきか。ここに日蓮大聖人の重き重き御存在がある。諸天に申し付ける絶大威徳と大慈大悲の、御本仏日蓮大聖人以外に日本の柱は断じてない。……日本一同、日蓮大聖人に帰依し奉り、国立戒壇を建立する以外に、亡国を免れる術は断じてない」と。
生まれてきて、大人になって、暮らしを営んでいることに幸あれと本当に思う。碌でもない出来事が日々石ころのように転がっていて、それを道から除けるか、避けて通るか、人それぞれなんだけど、なんというかその、道があることが愛おしい。僕らはみんな生きている。生きているからすごいんだ。
世を苦行だと捉えるのが一般的な仏教の根本原理だ。聖なき衆生が業のもとに救いなく永久に続く苦行を生きる煩悩の有様を目に見える世界だとする。解脱とはメタ世界への移行でその業の世界からの脱出を意味してそれを神聖視するわけだけど、そもそもの動機は業からの逃避な訳で。ものを食って、うんこしてる身で。要は、苦行してるお坊さん方は、世の中から逃げたくて逃げたくて仕方がなかった。だから糞下流には混じり合わず、己の世界の内でしんどいことをやり続ければ報われる、というのが原始仏教。こいつらくだらねぇな、つきあってられねぇな、なんて、分かりやすいエリート意識。
しかし、苦しい世だからこそ、そこに生きることが尊いのではないか。そこで泥水をすすり、愛欲に溺れ、駆け引きを駆使しながら己と子を護り、肉を喰らって、眠りと朝日を保障する。おい、ねえ、すごくない?俺できないし。というのを愚直に見つめた男がいる。それが親鸞だ。
教義としてのオリジナリティは法然にあるのかもしれないが、親鸞は事実、泥水をすすりセックスをし、酒を飲み肉を喰らいながら、そんな俺が信じてるよ、と阿弥陀の救いを説いた。私が知る、あなたたちをこそ救わずして、何が仏か、と。
ここからは俺の独自の解釈。かつて僧という「形」のために頭を剃った愚行を「愚禿」と表わし、今現に業を一身に背負うこと=菩薩行を積んでいる目の前の人々をこそ、哀れまず慈しまず尊んで、己より行を達した者とし、敢えて同じことをした。世は、かき集めた金をつぎ込んで寺を建て、加持祈祷をさせれば徳=得の時代。そのような儀式、「計らい」は要はショートカットであり邪であるとし、業に直面しながら苦しみ生きることこそ解脱の道であり尊い行いだと、己の身をそこに投じた上で彼は知って、そして説いた。
生きよ、生きよ、生きよ。あなたたちは尊い。何が何でも生きて生き抜く中で、だからこそ届く念がある=救いがある。「南無阿弥陀仏」とは、何者をも超越した阿弥陀仏に帰依いたします、という意味だけど、きっと多分なんでもよくて、怒られるかもだけどアーメンでもきっと全然良かった。念仏なんて要するにお題目でしかない。生きよ、あなたたちは間違っていないと、そのためになんか支えが要るならとりあえず南無阿弥陀仏っていっとけ、それを親鸞は言いたかったのだと俺は思う。
結果いろいろあったんだけどね。親鸞だって所詮エリートだ。パンピーとは頭の出来が違うし、思想の落としどころも多分違う。阿弥陀の前に人は平等まではいいけど、衆を集めて暴力的人権運動が起こせまでは多分思ってなかったろうし。いやまあ、どうなんだろうそこのところはまだ腑に落ちてないんだけれども。
ああ、酔っぱらって書いてるから面倒くさくなってきた。誰か、増田にも真宗の門徒いんだろ。西でも東でもいいや、門外漢のお説に捕捉してくれ。
では、無宗教なあなたにオススメしたいのだが、浮世絵をみたらどうだろう。
まず、復刻版を数枚買え。復刻版で十分だ。いや、むしろ復刻版のほうがいい。美術館にある江戸時代のものは色は褪せてるし紙は黄ばんでしまっているから。
なんという、なんという躍動感。
なんでも、例のあの富士山をバックに巨大な波の絵、神奈川沖浪裏ってんだけど、あの水しぶきは1/5000秒のシャッタースピードで撮った写真と酷似らしい。
そうだよな、たしかにHD画質をよいしょしてた頃の、スローで水泳を写したりする映像が流れまくってたけど、あんな感じだよな。
どんな絵より、躍動感があるんだよ。
ドガのエトワールなんかより、北斎漫画の雀おどりのほうが躍動してる!
あんな線描なのに!!陰影もつけてなければパースも狂ってるに!信じられない!
もう、描いて描いて描きまくって辿り着いた境地なんだろうな。
富嶽百景っていう絵本、本編よりあとがきが有名なんだけど、「110歳までの絵を上達してみせる」っていう人生設計を宣言してる凄まじさ。
実際、90歳まで長生きしてたのに、その臨終の際の言葉も、「あと10年、せめて5年、」っていうまだ描き足りないという未練を残してるそうな。
そういう人格面は話が逸れるからさておき、画家はここまで、こんなにまで時間を切り取れるのかと。
一瞬を永遠にすることができるのかと。
カメラというものを知ってる僕らには、驚きは薄いのかもしれない。
はっきり言って、当時の人たちからしたらとんでもないよ。
プロゴルファー猿でショットの時の効果音が「ギャンギャンギャン」だったり、ジョジョでキスの時の効果音が「ズキューン」だけど、北斎を見た時の効果音ときたら、そんな幹事だよ。
で、広重もすげぇ。
北斎より後の時代の人だけど、北斎が長生きで現役時代が異常に長かったから、活躍してる時期はけっこうかぶってるんだけどね、これまた凄い。
絵の中で時間が流れてるの。
数々の発明を残してるんだけど、一番わかりやすい例だと、雨を線で描くっていう発明かな。
雨が線だよ?当たり前のようだけど、逆だろ?
絵がその瞬間を時間を止めて描くものだったら、雨は空中に浮かぶ粒でしかない。それが線!
1/5000秒のシャッタースピードの逆、露光時間を長くしてる!
なんなの?北斎という天才の仕事を全否定して、新しいワザを繰り出す。
色彩といい、視覚効果といい、もう語り尽くせないほどの発明をしちゃってるわけ。
来る日も来る日も描いて描いて描いて描いて、それこそ花が咲く瞬間から虫、天候に至るまで、ただただ描く。
なんのために?芸術のために?いや違う、芸術とは、もっと個人主義的でワガママなものだ。
自らの心の内から溢れ出るものであり、自己表現であり、俺が一番と叫ぶものだ。
だって、浮世絵は絵師と彫師と摺師と、言うなら版元と共同作業なんだ!
絵師の下絵は、版木に貼り付けられ、その線をなぞり彫られてしまう。紙くずとなり、版木からでた木くずとともにこの世から消えてしまう!
そんな下賎な商業印刷が、芸術としても芸術の分野で第一線の作品の遥か上のレベルなのはなぜか?
いや、商業印刷だからこそ、私の表現のための絵ではなく、絵のために自らを捧げるという境地に辿り着いたがため、そうなったんじゃないかと思う。
浮世絵師は、いや、彫師は、摺師は、版元は、売れるだけ摺った!売った!
即ち、それが世界に美しいものを広めること、ひいては美しいものであふれた世界になることを知っているから!
海を超え、時代を超え、人々を感動させている。
宗教だ!
もう一度浮世絵を見てみよう。
描かれているのは、喜びや楽しみだけではない。憂いや悲しみも描かれている。しかし、見た人が自分なんか死んだほうがいいと思わせるものはあろうか?
ない。
武士、すなわち役人も、飛脚や輿を担ぐ労働者も、老人も子供も、体を金で売る遊女でさえも描く、根底にあるのは人間賛歌!
人間だけではない!虫けらや一本の雑草に至るまで、生きとし生ける物への賛歌!
帰依しよう。
最近増田でも打線組む投稿が散見されるので、マイナーどころのファミコンクソゲーで組んでみよう。
家庭用ゲーム機の出現から30数年、携帯ゲームの嚆矢となる携帯アプリの出現から10数年。クソゲーを語る文化もまた成熟しつつある。
そうした文化にこの文章が影響を与えられるとは到底思えないが、まぁ見て楽しんでもらえたら嬉しい。
擬似的な3D空間を探索するゲーム。主人公が腰の悪そうな歩き方をし、移動も遅い。上にしかビームを出せないくせに敵が横からもくる。ヒントも意味不明で音楽も気持ち悪いし壁が目に悪い光り方をする。タカラが生んだ先駆的クソゲー。
https://www.youtube.com/watch?v=tL71-Hsh9lo
坂本竜馬を操作して明治維新をおこそう。前半がアドベンチャーモードで薩長同盟を締結し、後半が戊辰戦争シミュレーション。アドベンチャーモードは中岡慎太郎が強すぎて竜馬を使うことはない。シミュレーションモードは新政府軍が弱過ぎて板垣や伊藤が隣の藩の雑兵に殺されるレベル。そして何故か生きて戊辰戦争に身を投ずる坂本。史実とは?
http://nicoviewer.net/sm4286007
糞。ゴーストバスターズのロゴがあるだろ。禁止マークにゴーストが収まっとるあれだ。あれを動かすゲームなんだぜ。これ。
https://www.youtube.com/watch?v=YxJNXahpPHc
ノストラダムスの大予言後の世界を旅するRPG。最終的に天道という実在する新宗教に帰依せよ、という結論に至る怪奇的ストーリー。宗教的、神秘主義的な世界観は独創的ですらあるが戦闘は連打ゲーであり移動は何故か恐竜で行なう。1989年という時代性、今よりももっと精神や信仰や信奉というものが身近だった、すなわち「オウム」以後に忌避されるようになった若者のスピリチュアルなものへの傾倒の時代を象徴するクソゲー。こうした意味で、もう現れない時代性を反映した記念すべきクソゲーなのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=H_rYG_ZM4Oo
ファミコンのパスワードは長い。特に長いものにこの『覇邪の封印』と『ドラゴンクエスト2』とがあるが、その評価には著しい格差がある。主人公に付いてる妖精の性格が悪く、ヒロインを憎悪しておっさんを贔屓する。悪徳商人を殺す王道ファンタジーRPG。
https://www.youtube.com/watch?v=aKe7yIqj4TY
すまんこれは名作だ。ゲームの歴史上、「攻撃して倒すゲーム」が主流のなか「最後まで守りきる」ゲーム。そしてかなり難しい。それゆえクソゲーと揶揄されるが、本当はとってもソリッドなゲーム。女の子はかわいいし、実際難易度も凝りに凝っている。
https://www.youtube.com/watch?v=cBmHNRZBZsY
マップと実際の道路が合っていない。マップ見ないで画面で覚えようにも、道路が変なところどうしで繋がっている。プレイヤーはマップと実際の画面とを総合して、自分の心の中でゲームの空間をイメージせねばならない。
https://www.youtube.com/watch?v=L2ABLQKHHCU
プーチンが領土欲を露骨に発露する2014年現在、再評価も求められるゲーム。なぜか水道管を東京モスクワ間で結ぶ。石油じゃねえのかよ。このゲームゴルビーあまり関係ないのにゴルビーの肖像権をロシア大使館に申請し、許可されている。なぜロシアも許可したのか。失敗すると可愛い女の子が投身自殺する。
https://www.youtube.com/watch?v=AC0IKZet0Ds
パリダカに出るために車を調達するところから始める。途中野生生物を倒したり、内戦中と思しきアフリカ国家を通る。荒唐無稽な出来なのだが、どこか「これがパリダカの雰囲気か」と思わせる説得力があるクソゲー。もちろん現実のものとは全然違うんだけど。音楽がかっこいい。
あれは民意ではないとか、ひどいのになると集票に不正が行われていたとか言ってる人もいるけど、ちょっと冷静になって考えたほうがよくね?
あのさ、マイノリティが国政に割ってはいるためにどうするかを考えていかないといけないと思うの。
選挙に勝つには、支持者がどこにどれだけいるか、名簿作って管理しないと。
「私の知り合いは7割以上が未来の党に入れてるのに、あの結果はおかしい」
万が一、億が一でも政権取ったら、脱原発だけじゃなくて、ほかにやることもあるんだろ。
外交どうするの?
大臣はどう任命するの?
原発以外は興味ありませんったって、国土交通大臣とか農水大臣とか、誰かやらにゃならんわけだろ?
公明党だって、結党は創価学会の初代だか2代目だかが獄死したから、言論弾圧に反対とかそういう始まりじゃなかったっけ?
全方位的にやってるだろ?
興味ないことだってさ、たとえばワクチンの公費助成やらなにやら。
創価学会だって、国立戒壇とか、天皇が日蓮に帰依すりゃ平和になるとか、そういうの捨てたでしょ。
地道に住民の陳情を聞いたりしてる。
維新の会は一足飛び過ぎる気がしたが、一応関西圏じゃ地方議会に足場があるだろ?
世の中かえるには、地道に動かなきゃ。
地道って、デモ行進とかじゃないぞ。
とにかく顔を売れ。
名前を憶えてもらえ。
そして住民の声に耳を傾けろ。
宗教的経験
カルトの「超越的世界観」によって、現実世界においては解決の困難な問題が解決することと述べました。他方、この類の世界観は非現実的であるために、受容が困難なのも事実です。ところが、「神秘体験」、「超越体験」などと呼ばれる幻想的な宗教経験は、その受容を著しく促進します。
オウムにおいても、教義の妥当性の根拠は、その種の宗教的経験でした。つまり、多くの信徒は教義の世界を幻覚的に経験しており、その世界を現実として認識していたのです。地下鉄サリン事件への関与は誠に愚かであり、心から後悔しておりますが、この事件についても、宗教的経験から、私は教義上の「救済」と認識して行いました。
このように、宗教的経験は、「殺人」を肯定する非現実的な教義さえ受容させる原因となります。したがって、宗教的経験を根拠とする思想やこれを起こす技術の使用には注意すべきです。
以下、宗教的経験の検討のために、私の経験を述べさせていただきたく思います。
前述のように、高校三年生のときに、私は、「生きる意味」の問題を意識するようになりました。しかし、その後、私は目を引いた本を読んだり、簡単な瞑想を指導する団体に入会したものの、その問題は棚上げ状態でした。大学で学ぶことが将来の職業に直結するので、学業や学費のためにアルバイトに忙殺されていたのです。
そのようなとき、偶然、私は書店で麻原の著書を見かけたのです。昭和六十三年二月ごろ、大学院一年のときでした。その後、関連書を何冊か読みましたが、彼の説く解脱。悟りが気になりました。
最終的な解脱・悟りは、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の境地であり、本来、私たちはその状態に安住していたにもかかわらず、煩悩にとらわれたために、輪廻して苦界をさまよい続けているとされていました。ここで、絶対自由とは、カルマ(業。転生する原因)から解放され、どの世界に転生するのも、最終解脱の状態に安住するのも自由という意味でした。絶対幸福とは、金、名誉など自分以外の外的存在を必要としない幸福という意味でした。絶対歓喜とは、自己が存在しているだけで歓喜状態にあるという意味でした。
不明な点が多いものの、何らかの絶対的に幸福な境地の存在が事実であれば、その追求は「生きる意味」に値するのではないかと思いました。
また、麻原は修行を完成させて最終解脱の境地にあり、弟子を指導して彼らをも解脱させているとのことでした。麻原や弟子たちの体験談を読むと、解脱への確かな道が存在しているように思えました。彼らの体験には普遍性が感じられたからです。さらに、麻原は自身の体験の妥当性を、ダライ・ラマ十四世をはじめとするチベット仏教やインドの聖者たちと交流して確認したとのことでした。
前述の解脱のような教義の話だけならフィクションを読んでいるようなものでしたが、このような実証的な姿勢は理解できることでした。この点は、私がそれまでに接した斯界のものとは違っていると思いました。
しかし、事はそう簡単に運びませんでした。麻原が主宰するのは、宗教団体「オウム真理教」だったのです。(なお、当時、オウムはほとんど無名の団体でした。)
私は新宗教に対して拒絶反応が起こるのを禁じ得ませんでした。「輸血拒否事件」、「霊感商法」…新宗教に関するマスコミ報道は、決まって言いようのない不快感を催すものでした。とりわけ、「輸血拒否事件」は、高校三年生のときに話を聞いた団体のことだったので、新宗教に対する問題意識が高まりました。
この事件の報道では、事故に遭った子供が「生きたい」と言っていたのにかかわらず、両親が教義に従い、輸血を拒否したとされていました。この団体の聖書の解釈が正しいという保証はないのだから―私にはほかの解釈も可能に思えました―、そのような不確実なことに基づいて命を犠牲にすることが信じられませんでした。ですから、この事件で、私の新宗教に対する不信は決定的なものになっていました。
このようなわけで、私は本を読む以上にオウムに近づけなかったのです。
ところが、本を読み始めた一週間後くらいから、不可解なことが起こりました。修行もしていないのに、本に書かれていた、修行の過程で起こる体験が、私の身体に現れたのです。そして、約一ヶ月後の、昭和六十三年三月八日深夜のことでした。
眠りの静寂を破り、突然、私の内部で爆発音が鳴り響きました。それは、幼いころに山奥で聞いたことのある、発破のような音でした。音は体の内部で生じた感覚があったものの、はるか遠くで鳴ったような、奇妙な立体感がありました。
意識を戻した私は、直ちに事態を理解しました。爆発音と共にクンダリニーが覚醒した―読んでいたオウムの本の記述が脳裏に閃いたからです。クンダリニーとは、ヨガで「生命エネルギー」などとも呼ばれるもので、解脱するためにはこれを覚醒させる、つまり活動する状態にさせることが不可欠とされていました。
続いて、粘性のある温かい液体のようなものが尾底骨から溶け出してきました。本によると、クンダリニーは尾底骨から生じる熱いエネルギーのことでした。そして、それはゆっくりと背骨に沿って体を上昇してきました。腰の位置までくると、体の前面の腹部にパッと広がりました。経験したことのない、この世のものとは思えない感覚でした。
「クンダリニーの動きが正しくないと、くも膜下出血を起こす」、「指導者なしの覚醒は危険だ」―オウムの本の記述は別世界の話でしたが、今や、我が身に起こりつつある現実でした。私はクンダリニーの動きを止めようと試みました。しかし、意志に反して、クンダリニーは上昇を続けました。
クンダリニーは、胸まで上昇すると、胸いっぱいに広がりました。ヨガでいうチャクラ(体内の霊的器官とされる)の位置にくると広がるようでした。クンダリニーが喉の下まで達すると、熱の上昇を感じなくなりました。代わりに、熱くない気体のようなものが上昇しました。これが頭頂まで達すると圧迫感が生じ、頭蓋がククッときしむ音がしました。それでも、私は身体を硬くして耐えるしかなす術がありませんでした。
突然の出来事に、どうなることかと思いましたが、それをピークに一連の現象は収束しました。どうやら、無事に済んだようでした。
オウムの宗教的世界観が、一挙にリアリティを帯びて感じられました。麻原をグル(修行と指導する師)として、解脱・悟りを目指すことが私の「生きる意味」であると確信しました。麻原の著書を読み始めて以来相次いだ体験に、彼に強い「縁」を感じていたからです。クンダリニーが自然に覚醒したのは、前世のグルの著書を読んだために、修行者だった私の前世の記憶が甦ったからだと思いました。
このように、急激に宗教観念を受容して、思考体系が一変する心理現象は、「突然の宗教的回心」と呼ばれています。これと漸進的な宗教観念の受容との違いについて、研究論文には次のように述べられています。
突然の回心は、被験者そのものが全く変えられるように思われる経験として定義した。つまり、その変化は、被験者が生じさせるのではなく、彼にもたらされるように思われた。また、その変化は、被験者の生活様式、道徳的特性を形成する態度におけるものだった。
漸進的な宗教的発達は、上で説明したような回心経験がないという特徴のもので、そして被験者が自身を無信仰と識別したことがないものである。
すべての回心者は、疑いの余地なく、無信仰の状態から信仰深い状態になった。
二つの集団の特色をかなりよく示す、二つの自伝を下に引用する。一人の突然の回心者は、彼の経験を次のように記述した。
この経験は、私が一四歳の秋に起きた。私は畑を耕して働いていた。突然、嵐が近づいたように思われ、そしてあたかも私の周りの全てが止まったようだった―私は神の存在を感じた。馬たちは完全に止まった状態になった。真っ黒な空がとどろいたので、私は祈った。嵐はすぐに通り過ぎたが、この瞬間だった、―私は祈りながら―主が望むならば、クリスチャンになり、主に仕える決心をしたのは。
漸進的な宗教的発達をした集団の一員は、彼の経験を次のように記述した。
私が信仰深いと自覚したときを説明するのは難しい。それに対し、何年か前に私は十ポンドで生まれ、そして現在はそれよりかなり重いという事実を説明するのは、全く簡単だろう。この成長には、出来事の印象がないわけではない。しかし、少なくとも回想では、そのプロセスはあまりに完全に連続したように霞んでいる。だから、私が自身の認識に現れた時点を思い出せる以上に、私は“信心深く”なった時点を分離できない。私はその二つの出来事はほとんど同時に違いないと思う。
このような宗教的回心は、人が葛藤状態にあるときに、幻覚的な超越体験と共に起こることがあり、このとき葛藤が解決するとされています。また、突然の宗教的回心においては、常識から非常に逸脱したビリーフ・システム(思考体系)が受容される場合があるとされています。そして、「カリスマグループの一つの注目せざるを得ない特徴は、入会の特徴がしばしば劇的な回心の経験であることだ」といわれています。
私の場合、「生きる意味」に係わる葛藤のために、回心が起き、オウムの教義体系が受容されました。このように、非現実的な世界観が突然現実として感じられ、それが受容されることがあるので、超越体験に基づく世界観には要注意でしょう。後述のように、それが日常生活との間に摩擦を生じる場合は問題が起こるからです。
オウムの宗教的世界観が現実となった私に、入信以外の選択はありませんでした。また、新宗教うんぬんといっていられる状況ではありませんでした。クンダリニーが覚醒した以上、指導者は不可欠だったからです。私はクンダリニーをコントロールできず、頭蓋がきしんでも、なす術がなかったのです。この状況について、ある共犯者は「広瀬君は、本を読んだだけでクンダリニーが覚醒して、困って教団に相談に行ったと言っていた。ある種の困惑を広瀬君から感じた。」と法廷証言しています。
こうして、オウム真理教の在家信徒としての生活が始まりました。在家信徒は、社会生活しながら、教義の学習、守戒など教義の実践、ヨガの行法、奉仕などの修行をすることが基本でした。
オウムの教義と修行の目的について、あとの話の理解のために必要な部分のみ説明致します。
教義において、修行の究極の目的は前述の最終解脱をすること、つまり、輪廻から解放されることでした。なぜ解脱しなければならなのか―それは、輪廻から解放されない限り苦が生じるからだ、と説かれていました。これは、今は幸福でも、幸福でいられる善業が尽きてしまえば、これまでに為してきた悪業が優住になり、苦しみの世界に転生するということでした。特に、地獄・餓鬼・動物の三つの世界は三悪趣と呼ばれ、信徒の最も恐れる苦界でした。
それに対して、解脱はすべての束縛から解放された崇高な境地でした。解脱に至るには、次のように、私たちが本来の最終解脱の状態から落下していった原因を除去していくことが必要と説かれていました。
私たちは自己が存在するためだけで完全な状態にあったにもかかわらず、他の存在に対する執着が生じたために輪廻転生を始めたとされていました。それ以来、私たちは煩悩(私たちを苦しみの世界に結びつける執着)と悪業を増大させ、それに応じた世界に転生して肉体を持ち、苦しみ続けているとのことでした。たとえば、殺生や嫌悪の念は地獄、盗みや貧りの心は餓鬼、快楽を求めることや真理(精神を高める教え=オウムの教義)を知らないことは動物に、それぞれ転生する原因になるとされていました。
これらの煩悩と行為は過去世のものも含め、情報として私たちの内部に蓄積しているとのことでした。この蓄積された情報が「カルマ(業)」でした。そして、「悪業に応じた世界に転生する」というように、自己のカルマが身の上に返ってくることを「カルマの法則」といい、これも重要な教義でした。
カルマの法則から考えると、解脱、つまり輪廻からの開放に必要なのは、転生の原因となるカルマを消滅(浄化)することになります。ですから、オウムにおいては、カルマの浄化が重視され、修行はそのためのものでした。
[なお、前述の「殺生」は、虫を殺すことも含みます。ですから、そのほかに挙げた行為もそうですが、一般人の日常的な行為はほとんどが悪業となります。したがって、信徒についても、入信前は悪業を為してきたことになり、それらを浄化しない限り苦界に転生することになります。だから信徒たちは必死に修行していました。また、家族など周囲の非信徒たちは苦界への転生が避けられないことになり、それを信徒たちは案じていました。後述しますが、日常生活と相容れないこの教義のために、一般社会は苦界への転生に至らせる世界とみなされました。そのために、信徒は一般社会を離れて出家していきました。さらに、苦界へ転生する現代人を救済する目的で、殺人まで犯すことになりました。]
また、オウムの教義において、麻原は「神」といえる存在でした。それは、最終解脱者であり、様ざまな「神通力」を有するとされていたからです。特に麻原は、人を解脱させたり、高い世界(幸福な世界)に転生させたりする力があると主張していました。私たちに「エネルギー」を移入して最終解脱の状態の情報を与え、代わりに、苦界に転生する原因となる悪業を引き受ける―「カルマを背負う」といっていました―と説いていたのです。カルマを浄化していないと苦界に転生するのですから、カルマを背負ってくれる麻原は、まさに「救済者=神」でした。
麻原の指示が絶対だったのも、そのような「救済」の能力を有するためでした。オウムの世界観においては、苦界への転生の防止が最優先であるところ、麻原の指示の目的は、苦界へ転生する人類の救済とされていたのです。
回心による教義の受容の後、入信後は、私の身の上に個々の教義の体験が現われ、教義の世界観に対するリアリティがますます深まりました。たとえば、入信の一週間後に、麻原の「エネルギー」を込めたとされる石に触れたところ、気体のようなものが私の身体に入ってきました。そして、胸いっぱいに広がり、倒れそうになったのです。そのときは、ハッカを吸ったような感覚がして、私は自身の悪業が浄化されたと思いました。
その後も様ざまな形でこのような体験を重ねたので、私にとって、麻原が「カルマを背負う」能力を有することは現実でした。そのために、麻原は「神」であり、その指示は絶対だったのです。
なお、現在は、この種の経験は暗示の機制による幻覚と理解しています。つまり、以前に接していた「エネルギーを移入してカルマを浄化する」という教義(二十一頁)が暗示になり、「エネルギーを込めた」とされる石に触れたところ、教義どおりの幻覚が現れたものと思います。(このように、回心後は幻覚的経験が極めて起きやすい状態になっていました。)
なぜあの男が―麻原の地位が教団内で絶対だったことに対する疑問の声をよく聞きます。その理由の一つは、私と同様に、信徒にとっては麻原を「神」とする教義の世界観が現実だったことでしょう。ヨガの行法によって、多くの信徒が教義どおりの宗教的経験をしていたのです。
現役の信徒は、今も、麻原の力でカルマが浄化されると感じる経験をしているようです。だから、麻原が法廷でどんなに見るに堪えない振る舞いをしても、彼は「神」であり続けているのです。私もそうでしたが、信徒が帰依しているのは生身の麻原ではなく、宗教的経験によって知覚した麻原です。「現実」よりも「宗教的経験」のほうがリアリティがあるのです。
このような宗教的経験の作用について、文献には次のように述べられています。
アメリカで(そしてしばしば国際的に)現在見られる多くのカルト様のビリーフ・システムを概観することは、臨床医が特定のセクトを正しく評価するにあたり役に立つ。ビリーフ・システムは、一般に部外者を困惑させるもので、多くは超越体験や神秘体験に基づいている。あるものは、なじみのない東洋の伝統から得ている。あるものは、教義を再構築する程度にまで、既存の宗教を粉飾する。
超越体験あるいは神秘体験は、回心のプロセスにおいてしばしば重要だが、このことはジェイムズとフロイトが注目した。葛藤の解決における超越体験は、非精神病者と精神病者の両方に急性の幻覚的エピソードが起こる程だが、この重要性も強調されてきた。これらの経験はまた、カリスマセクトの多くの全員にとって、グループの全員をを続けされる総体である。これらの出来事は、類似した現象を経験したことのある他の人たちとの友好関係を、最高潮に高める強力な感情的経験になる。
宗教的経験のコンテクストにおける精神病様超越現象が生じることを説明できるモデルは、まだ開発されていない。しかし、注目すべきなのは、かなり注意を引く知覚現象を、これらのセクトの全員が普通に報告することである。たとえば、一つのグループの百十九人の全員のうちの三十パーセントが、瞑想中に幻覚様経験を報告した。明らかに、このような現象は、心理学者が正常な精神的プロセスのみならず病的プロセスを理解するのにもかなりの影響があるはずだ。それらはたぶん、精神病といわれる人に幻覚状態を起こすあるコンテクストの性質を、心理学的に理解する助けになるだろう。
(A教団は)夢さえも「お父様(教祖)の夢を見ますよ」などと暗示を与えて教祖の夢を見やすいように誘導したりする。それらのプライミングの結果、信者は身辺でおきる現象がすべて神やサタンといった心霊現象ととらえることになっていると思われる。さらに、こうした経験が西田のいう個人的現実性を高める。つまり体験や推論が教義と整合しているという認知を与え、ビリーフは強化される。
(西田公昭 一九九五年 ビリーフの形成と変化の機制についての研究(4) 社会心理学研究、一一、一八-二九)
(プライミング―特定の情報に接触させることによって、人間の情報処理を一定の方向に誘導すること)
瞑想のより高い段階は多くの経験を含む。これは、伝統的な文献によく載っており、明るい光のヴィジョン、身心の喜びに満ちた陶酔感、静けさ、明晰な知覚、および愛や献身の感情を様ざまに含む。“超意識”、“超越体験”、“神秘体験”、あるいは“クンダリニーの覚醒”と名付けられており、これらの状態は、人を引き込む影響を及ぼす。この影響は、瞑想の伝統によれば、非常に深刻になるものだ。
※「輸血拒否事件」1985年6月に神奈川県川崎市高津区で起こった事件。ダンプカーにひかれた当時小学5年生の男の子が、両親の輸血拒否にあい、約5時間後に死亡。「大ちゃん事件」とも。
思うんですけどね、ぼく、脳にチップを埋め込んで知識を頭に直接ダウンロード的な世界が本気で到達しないかなーと思ってるんですよ。でも一言で知識といっても。全知識のことでは無く、いわゆる理科学系的な知識のこと。
そのような未来感に対して在野の方は「知識を頭に叩き込んでも知識の使い方を覚えられない」という文句がでるんですが、僕はそんなもの詭弁に過ぎないと思うんですよね。
何故ってそもそも人ってあなたみたいな偉そうな人が言うほど馬鹿じゃないよって思うし、論理とやらは数学でも良く出来た人文系の本でも読めば会得できるものだと思うからです。
加えて理系的知識のみ頭に直接叩きこんでも構わないというのは、理系的知識が(複雑系的な言説が代表する最先端の知を除いて)すべてがファクト(らしい)だからです。
例えそれが原理的に「ファクトらしい」ことであるとはいえ、少なくとも恣意的では無いんですよね。それでですね、そしてそんなファクトらしいことをファクトとして扱って科学はここまで技術化され人類の進歩発展に帰依してきた(ここれ辺が人文知とは異なるところです。人文知はその恣意性が暴力的な力を持っている。そしてその暴力性が人文知の力。すなわち文脈を書きかえること。個人にとって一見関係無かったものを一つの視座を持って関係づけ、切実なものにする。それが人文知の力、だと思ってます。)(一方理化学的な知識にも別種の暴力性が当然あります。そのことに自覚的でない科学者はみんな根本的には自分勝手なクソ野郎なんだと思います。残念ながら。)
うう、かっこの中の話で本筋から遠ざかった…。
ぐだぐだ言ってきましたが、ここまで言ってきたことは一言です。基本的な理系知識というものは大抵が世代を超えて一個の人間がまた改めて一から学ぶほど価値があるわけではないということ。
いわゆる理系学生の中に以下の現実に気づいて憂鬱な気分になっている人は多いと思うんだけれど、若いころの時間を使って結果の分かりきってる学生実験をする価値なんて99%以上無いんですよね。
え、実験道具の使い方?レポートの書き方?全部別プログラムでやらせた方がよっぽど効率的です。だってどちらも理系的な知識を使わないじゃないですか。どちらかというと体育と国語ですよ。
そりゃ回数重ねてれば何かの偶然で新しいことが起こるかもしれないけれど、そこに若い学生の時間を使うのはいかがなものかと思います。どちらかというならこれから寿命がますます伸びた年配の方がおやりになればよい。しかも年配の方々は数が増えるのは分かりきっていることなのだから。可能性の伸びしろとしてはそちらの方が全然優位なはず。
そしてぼくはそのような年配の方(時間があって、科学とかゆるく好きで、しかも高校の教科書的な所から大学の2~3年程度の知識が頭に一括ダウンロードしてある方)が自由に研究を趣味的にできるような場がこれからあると良いなーと思います。
知識があったとしても大抵は無駄な研究もどきなるとは思いますいが、それでいいんです。無駄は文化になります。文化は物語化されてブランド足り得ます。
今までに比べてはるかに安いコストで、気軽に研究できる。しかも初めから自分の興味のある分野を。これってとてもいい社会だと思います。それにそのようなある種のハードルを下げるにはとても良くて、実際的に何がいいのかというと人材流入のハードルが下がれば在野の人の既得権の縛りが解かれる+競争激化+多様性が増しイノベーションが起こりやすくなるんですよね。(その弊害は例えばPixivなんかで散見されますね。すなわち雇用の問題。)
これからデジタルに親和性の高い世代が高齢者になったり、ある程度英語等でコミュニケーションで来て人材の移動性が高まる時代に、それを実現できたら、かなりのその地域引いてはその国のブランドになりえるし、いいことだと思うんですよね。
日本というのは自然災害がその立地条件からして根本的に多い国だし、今回の放射能ははそもそも強いと思われていた農作物のブランドの(程度はどうであれ少なくとも方向性として)下落につながった。その後の日本政府の立ち振る舞いも同様に日本全体をパッケージとして観たときのブランド価値は下がったと思う。
つまり日本というのは根本的に他国に比べブランド価値が強くなければ優秀な人材を引っ張ってこれない国だと思うんですよ。例えばわが身ひとつで立身出世しようと考える優秀な中南米人が「日本は色々災害とか身の危険あるけど○○があるからここで仕事をしよう」と思ってくれないとダメなんですよね。でなければきっとこれから日本という国は戦えなくなる。(経済的に豊かでなくなってくると無駄の確保ができなくなります。無駄の重要性は上に述べてきたとおり)。
さて、ここまでメリットばかりあげてきましたが批判も数多く考えられます。例えばその筆頭にしてもまっとうなものが「科学の発展が加速したらますます倫理の側が追いつかなくなるじゃないか」というものです。
しかし、僕はこの観点も保証できます。なぜなら時間に余裕のできたものは、退屈な事実の再確認や荒唐無稽な技術への信仰ばかりするのではなく、確かな今を見据える人文知的なものを学びたくなる欲求が高まるはずで、加えて言えば知識の記憶に費やす時間が短くなれば余暇が創出できるので、そのような歴史、思想史、哲学史を学べる機会は増えるはずなんですよね。たとえあなたが時間があるから大丈夫(=自身の倫理を構築できる)とは限らないなんては思えなくとも、学生実験をやるよりはよっぽど有意義な時間が過ごせるとは思いませんか?
以上のことがもっとも実現可能性の高い場はラボをシェアするという理念の元運営されているいくつかの団体だと思います。なぜなら人材の流動化がこれから激しくなる時代に情報系のものを除く理化学系研究が根本的に抱える問題とは研究はラボというその場でしかできないことで、その土地でしかできないならその場にしかいられない。そこをシェアをすることでより開放するサービスが圧倒的に人々に受け入れられるだろうからです。
また実現に向けて初めに脳内に知識ダウンロード、と言いましたが、それより若干コストは高くなるかもしれないけれど海外のよく勉強したにもかかわらず文系就職しそうな元理系学生とか先生に雇って、そのサポートに比較的リーズナブルに提供できれば十分今まで述べてきた未来の足場としては実現可能だとも思います。
自分の性癖が特殊で理解されないことに一定の優越を覚えるのは青春時代の普遍的な志向の一つだが、24になっても未だ同志を得ない自分の性癖は恐らく変わっているのだと思う。私はスカンクが好きだ。臭い液をぶっかけられて悶え苦しみ、吐き散らして尚臭味の取れない強烈な奴を想像し、一人でマスを掻くのが好きだ。
おならフェチだのスカトロだのには息子がなかなか反応しない。屁だ、臭いものだと思い込めばやってやれなくもないが、どうもしっくりこない。スカンク娘というジャンルには若干反応するものもあれど、それもやはりスカンクの模倣として捉えて初めて自分の裡に興奮を引き起こす。気づいたのは小学生の頃だったが、未だ人に打ち明けられずにいる。到底理解され得ぬ性癖であることは承知で、周りのギラギラした男達のAV談義に水をさす気にもなれなかったから。
想像であることが大きな価値を生んでいる。別段、アメリカに渡って本物のスカンクの悪臭を味わいたい訳ではない。体験してみればか細い妄想が瓦解しかねないし、もしかしたら妄想に色を添える事象になるかもしれないけれど、思考の対岸の、触れ得ぬ聖域から臭ってきてほしいと思うのだ。妄撮も、本番なしの風俗も、パンチラも、いずれも巧妙に向こう岸を見遣って悦に至るものだろう。そのくらいは分かる。本物との邂逅など野暮なものだ。
人並みの恋愛をしてみても、当然至る性行為に当たってみても、スカンクの幻影が消えない。正面切って女性と、あるいは男性と向かい合ってみれば忽ちコンプレックスも氷解し、真っ当な人間になれるものだと信じたこともあった。しかし現実は、後背位で動く女や男の尻の穴からスカンクの臭腺を想起し、そこから殆ど擬似的に放たれるメチルメルカプタンに悶絶する自分を以て性的興奮を起こらしめるばかりで、事が終わって彼女や彼の頭を撫でていても恐らく人と自分の思うことは違うのだという乾いた絶望感に襲われるほかなかった。
最近暇が出来たので、図書館を巡ってスカンクに関する文献を蒐集するようになった。コピーを取り、スキャンをし、ネットでは得られないスカンクの臭液に関する情報を集め、タグ付けをし、一日の終わりにそれらを眺めてマスを掻くようになった。少年時代に何度もお世話になった動物のひみつ新訂版の擬人化されたスカンクや、シートン動物記のスカンクの社交術に記載されたメリアム氏の少年時代の経験(臭液をまともに顔にかけられた話)やコンウェー氏の元に来た少年が臭液を嗅いで失神した話や、学研の知育ずかんのなぜなぜどうぶつととり(つづき)にある、「スカンクのおならはほんとうにくさいの」というページにあった親向けの解説など、忘れもしない文字列とイラストが起こす興奮は得も言われぬものだった。
17の頃から、臭いということそのものへの興奮を見出すことで、一般的な性指向に自信を帰依させたいと願うように成り、その試みは半分成功し、人にはにおいフェチなのだと言い張ることが出来、それは自尊心を保つのにたいそう役立った。しかし現実はそのまま放っておいてはくれず、においフェチとしての自分が確たるものとして存在するに従って、呼応するようにスカンクの臭液への憧れはいっそう激しさを増していった。
ネットで自由に情報を収集出来るようになったことは、自分の性癖を満たす有用な道具を自身に与えると同時に、自分の肩身狭さを客観的な指標として与える恐怖そのものでもあった。例えば英語にある程度堪能になったことでJustin CourterのSKUNKに出会えたし、勿論YouTubeは海外のテレビ番組からスカンクの動く姿を、臭液の噴射する様を、噴射された人間が悶え苦しむ姿も現実の物として与えてくれた。ここに至っても自分の求めるものは仮想的なスカンクの臭液であり、現実の臭いという具体的な形を伴った物として自身が体感したいとは思えず、ある日はそれを矛盾として捉え自身を苛み、またある日はそれを合理として捉え自身を確固足らしめた。
そんな中、どうやら匂いを体感出来るスピーカーやプリンターのような機器がその内出るかもしれないという情報を目にし、ひどく困惑することとなった。紛れもなく現実の臭いでありながら、メディアを通して体感する擬似的な臭いに対し、自身の立つべきポジションが、自身を納得させる論法が分からなくなったのだ。体験してみて判断すればいい、行動してみて思考すればいいという言葉は的を射ていない。ひどく感覚的な、あるいは妄想的な、仮想の情熱にその端を発する私の性癖は、いつの間にか、体験したときに終わり、触れてしまえば崩れ落ち、嗅いでみれば全滅的な嘔吐感を催す、ある種自身の終焉として認識されるようになっていたから、そのような装置があってはならない、あっても普及してはならない、嗅いでやるものかと、先の見えぬ義務感を私の中に植え付けた。
スカンクは臭い。おならと呼ばれる物はガスではなく液体。臭いの主成分たるメチルメルカプタンは都市ガスの匂いづけに用いられる物質。臭腺から噴射される液体はたんぱく質と結合しやすく、目に入ると一時的な失明を引き起こし、その臭いは風向きによっては1km四方前後に届く。マダラスカンクは逆立ちをし、そのディスプレイが成功しなければ両足を下ろし、臭液を敵の顔目掛け、機関銃の掃射のように左右へ少しブレさせながら噴射する。
これらのいずれもが、私の息子をいきり立たせ、射精に至らせ、日常生活と人格形成に支障をきたす。自分に子どもが出来ても、あらゆる方法を以てこの性癖が受け継がれることを防ぎたい。自身のように、そういった話を完全にシャットアウトされ、無菌室のような環境で育てられるようにするでもなく、潤沢にそういった図書を部屋に据えるでもなく、極めて自然に。自分の子どもには普通であってほしいと願う親の気持ちを、こうした角度からも汲み取れるのだなとふと思い至った。
http://anond.hatelabo.jp/20100607121955とそれに続くツリーを参照。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%F3%A5%EA%A5%EB?kid=96382
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%E7%C0%EE%CE%B4%CB%A1?kid=187790
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%D0%C0%EE%B1%D9%C9%D7?kid=298666
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EB%A5%B7%A5%D5%A5%A1%A1%BC?kid=116282
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%B0%B5%A2%C0%C0%B4%EA%BC%D4?kid=284504
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%CD%CC%B5%CE%CC%BF%B4?kid=298684
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%A2%B0%CD?kid=269361
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%CC?kid=300194
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BC%A5%A6%A5%B9?kid=8301
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%B1%B0%AD?kid=299816
『外国人への憎悪を煽る者たち』それはこのエントリに、デマやリテラシーなどとタグやコメントをつけてキリッとしている、はてサやリテラシ厨や民主信者、お前らの事だ!
あ?なに訳わからない寝事抜かしてんだってか?
特別に知能は低い癖にプライドだけは高いバカなお前らにも分かるように噛み砕いて説明してやるわ。
先ず、この590人という荒唐無稽な数字の"デマ"の拡がる背景を考察する。
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100404/trd1004040702001-n1.htm
ここにあるように、既に税金対策のために戸籍を偽って扶養者を増やす手口は常套手段となっている。
ここでは節税と表現しているが、これは実態を捕捉出来ない点をついての脱税に他ならない。
悪質外国人が働きに来たところで日本の貨幣が外国に流れるだけで、日本の行政サービスはフリーライドされ税金は入ってこないのである。
このように税金を納めない外国人が、同じ手法でブローカーを通じたり組織だって子どもや養子縁組をしたならば、それをチェックする方法はない。
とってつけたように、
などと施行前日に通達を行っているが、そんな事実際にどうやって調査するんだ。現地国とネットワークをもって組織だって書類を仕上げてくるプロに対し、窓口の公務員がそれをチェックできるとかどんだけお花畑なんだよ。
こんな稚拙なザルなシステムを強行した事に民の怒りが蓄積されている事をまず理解しろ。
この590人登録事件は、その真偽が問題なのではなく、このような不正な請求が実際に組織的に可能である事そのものに起因して発生した現象である。
可能であるならば、やってくるに違いないという思い込みは、たとえそれがバイアスがかっていても消去する事は出来ない。
いいか?ここでそのバイアスを責める前に、システムに不備がある点が問題だという事実、それをその物覚え悪い頭に叩き入れておけよ。
で、そのような条件下で、蓄積した怒りの発散先として、この"デマ"が590人登録騒ぎという形を為し、市井の民の怒りのシンボルと化した。
そしてそのシンボル化がさらに、怒りの表明の焦点を一箇所に集中させる事が、薄ぼんやり暮らしているバカどもに有効に認知を拡めるツールとして機能する事に気づかせ、さらなるスパイラルを描いたのは至極当然である。
高津区役所が電話攻撃でサービス不能になる程度の事で、政府の愚策の問題点を浮き彫りにできるのならば実に合理的な抵抗であろう。
市井の民が、お上の決めた暴挙に対抗するならば、このような手段で対抗するのは当然でありレトリック的に言えば防衛本能の発露でしかない。
だから、これをデマだよキリッとか言ってるだけのうすらバカのみなさま方におかれましては、その指摘になんの意味もない程度の事は理解していただけませんかね?
この"デマ"に寄り添って声を上げる人間の事を、リテラシー強者(笑)なるデマの真偽の判断を否定ツイート一つ如きで判断しておきながら、『デマに乗せられる情弱』という構図で見下して、空っぽな脳を自尊心だけで満たしているだけの単なる思考弱者どもは、妖怪どっちもどっちどころではなく救いようがないうすらバカなんだよ!
まぁバカに言っても無駄かww
もっとも、はてサ脳に侵されてない人間の中でも、"デマ"を使ってこのような煽りを蔓延させる事に眉をひそめる良識的な立場のまっとな人もいるだろう。
だが、その認識は甘いと謂わざるを得ない。
この"デマ"騒ぎさえ、民主教に帰依したバカのやり口に比べるととてもまともな穏当な反対意思の表明にしか過ぎないんだよ。
たとえば、この頭を叩くと空っぽでぽむぽむするから名前が id:pompom20 のブコメ
http://b.hatena.ne.jp/entry/hamusoku.com/archives/2987779.html
id:pompom20 ネトウヨ 子ども手当で民主党叩きしている、この手のレイシストウヨは全員逮捕すべき。ネトウヨの存在は日本の民度を下げる害悪のガン細胞、よって切除手術が必要。
まぁ充分これでもすごいが、これを省略せずに説明すると、つまりはこのような思想である。
これほどまでにガチでやばい本物のキチガイ思想になんの留保の情も抱かないロボット達に今の政権政党が支えられている。
これを敷衍していけば、本当の言論弾圧・ニーメラーが待ち構えているのに、非実在青少年なんていう言論の自由(笑)ごっことかやってる場合じゃねーってのwww
さて、まとめておくか。この"デマ"に乗じて声を上げる者たちを、ネトウヨだの排外主義だの情弱だのと呼びあらわす者たちに告ぐ。
この現象を生み出した最大の責任は、票とりのために拙速な法案を施行した民主政権にある。
致命的な欠陥に対し、とりあえず緊急的な方法で指摘をしているだけに過ぎない者たちに、その手段の稚拙さを謗る事を良識などと考えているうすらバカどもが、いくらヘイトスピーチ、レイシストとレッテルを貼っても、それは外国人を差別する意志(意味もなく外国人にお金を渡すのを阻止するのは差別じゃないよw念のためww)もないのだから事実とは異なる誹謗中傷でしかない。
こうして普通の日本人を悪魔にでっち上げるのは、思考回路の作り方の失敗が産み出した幻影であり、それこそ日本人へのヘイトスピーチ以外の何物でもない。
そのような不当な中傷により、本当にレイシズムが発生する事態が起きる事があったら、お前達こそ本物のレイシスト生成装置であり、非難されるべきはお前らだ。
民主教徒の諸君。自民時代の児童福祉手当と同じとかレイシズムだとか言っても世の中何も解決しないんだよ。
根本的な原因に向き合い、民主政権を支持した自分がバカでしたごめんなさい。
まずそこからはじめるんだ。わかったかな。まぁわかんないだろうがなww
ただ、自らの罪の償いを他罰に求めてもなんの解決も得られないぞとだけ言っておくわ
ttp://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/occult/1268749422/
38 :本当にあった怖い名無し:2010/03/21(日) 16:36:34 ID:khW4IM/zO
主要事件全てに関わってるからオウム事件の全貌を掴むのに都合がいいし、
風貌や逮捕された時の笑みと逝った目がとても印象的。
この人の洗脳されぶりは凄まじくて
サリンを撒いたことを善行で自分は救済者だと本当に思っている。
他の幹部の多くは罪を逃れるために教祖に責任転移をしたのに対し
新実は未だに麻原に帰依を貫いてて、拘置所でもずっと修行してるようだ。
こいつの傍聴記はイカれた発言の連発で、読んでると本当に面白いのよ。
芥川龍之介の「杜子春」の解釈を巡って検察官と言い争いしたりなw
39 :新実の法廷発言集:2010/03/21(日) 18:23:05 ID:MPsrY25i0
法を犯して人を殺していいのか?――
「法を決めたのは国家。死んだのはそれ(法)とは別の因果応報です」
「慈愛の心に満ちていたからやった。死刑になり地獄へ堕ちてまでやろうとした」
私が聞きたいのは、罪の無い人がなくなっている。その点ですが――
「すべては因果応報。罪無くして死傷する人はいません。因があって結果がある。これが答えです」
人を殺すという誰がみても悪の行為でも、喜びを感じることが究極の理想になるのか?――
被害者や遺族をどう受け止めているのか?――
「犠牲者は転生した。答えるべきではない。被害者に世俗の論理で言い訳するものではない」
自分の行為は悪ではあると考えるか?――
「完全なる善ではないでしょうか。」「善悪超えた全き善と思う」
(麻原に)支持されれば喜んで人を殺したい?――
「そのように理解されて結構」
そのような言葉がいかに被害者や遺族を傷つけているか分かるか?――
「傷つくなら傷つかない本当の心を求めて欲しい。
(遺族が)人間の心を持てと言って苦しむのなら(その)心が苦しみの因とわかる」
自分の犯行を直視せず、心の動揺を避けようとしているのではないか?――
規制派が明らかに間違っているといって、それに反対するものが絶対的に正しいとは限らない。
都条例の違憲性を本当に心配している人々にとって一番のネック、獅子身中の蟲は間違いなく「身内のロリコン」である
は一つの全体論で、まだ生まれてない作品も含み、憲法に照らされる必要があり、今後の法令にも影響を与え……
と、あらゆる面から見て今回の法案は問題がある。間違っていると言っていいだろう。
しかし、だからといってそれに反対している連中が全員正しい事になるとは限らん。
オタクはそのへんを混ぜっ返して、ロリコンを否定すると「表現の自由を否定するのか!」って返してくるわけだが。
まさか「自分のロリコン趣味は諸手を挙げて社会に歓迎されるべきものである」
とでも思ってるんじゃあるまいな? そりゃない……と思いたい。
基本的に外側からみた集団への評価というのは、「その集団で一番程度の低いやつ」で決まると言っても過言ではない。
実際、世間のオタクだってギャルとかPTAをそういう眼で見てるんだし。
オタクなんて人によってはヤンキーと変わらないんだぞ、実際迷惑行為も多いし。
ハッシュタグで、十八歳未満の性交も生物学的には正しい云々という議論も見たのだが。
その議論自体は認めるにせよ、そういう事言う人に限って女に処女性を求めたりしますよね、あれってなんなのかな。
オタクはオタクという共同体への帰依意識みたいなのがあって、それが足を引っ張りまくっている
#hijitsuzai
最近はてな界隈で「ホメオパシーと自閉症」論議が賑やかである。
いわく「ホメオパシーが自閉症(を抱えて苦しむ家族)を食い物にしている」
確かに、科学的根拠がない(再現性がない)ホメオパシー治療にブラシーボ効果以上の
効果を期待するのは無理があるし、自閉症家族を食い物にホメオパシーが
金儲けをはかるのであれば、それは糾弾すべきだ。
しかし、一義的に金儲けを意図していない、「善意のホメオパシー共鳴者」に対して、
自分は一方的に非難する気にはなれない。
「先天性だ、治らない、諦めろ」、と冷酷に宣言するしか能がない。
「先天性だ」とあっさり言われて、そのまま家族があきらめきれるだろうか?
家族が「1%、いや0.1%」の可能性に賭けて「ニセ科学」に帰依することを、
どれだけ責められるだろうか?
ホメオパシーを「評価」するとすれば、
「治癒の可能性に賭けて、少しでも前向きに努力するひたむきな姿勢」じゃないか、と思う。
少なくとも自分の目には、現代医学は「自閉症の治癒に向けて、前向きな努力を行なっている」とは、
とても思えない。
荒唐無稽な話であるが、脳外科手術等の施術によって、自閉症が科学的に治癒
(完治しないまでも、部分的な改善)が図れるのであれば、現代医学は
しかし、そのような話が聞こえてこないのは、自分が不勉強だからか?
「0.1%の可能性」に賭けて「前向き」に進んでいるホメオパシーの方が、
主義主張を文章にまとめている途中で、その文面に表れている内容と私とが乖離していくような感覚を、最近何度も経験している。
何これ。よく分からん。
要は、書きたかった主義主張が適切な形になるまでまとまっていなかったわけなんだろうけれど、それにしても困ったもんだと思う。なんたって時間の無駄遣いになっているから。『おおっ、このもやもやした考えを発言しよう』と意気込んで三十分。『なんか違う』と全てを削除してしまう。馬鹿なの? 死ぬの? 先走るから悪いのだけれど、何度経験しつつも学習しない自分に腹が立ってきた。しかもこれって論理的じゃないってことなんじゃないのかな。理論的じゃないってことなのかな。【論理的】と【理論的】はどこがどう違うのかな。
話が逸れた。集中力がないのだろうか。今までにも度々あったような気がするし、今もそうだ。考えていることが次から次へと飛躍していってしまう。だから書きたいと思っていたひとつのことが書き切れない。中途半端。尻切れ蜻蛉にもならずに全削除されてしまう。しかしながら、この飛躍する考え方は変な風に帰着することもある。例えば【論理的】だか【理論的】だか分からない考え方が A→A´→a→a´→A というように、大筋が見て取れる関連性のあるものだとするのならば、私の考え方は A→Y→n→p→A のように脈絡がないのだ。これって、かなり大問題のような気がする。少なくとも、会話をするとき、相手に不必要なストレスを与えるのではないのだろうか。
困ったな。もちろん誰それ構わずにこの方法を取るわけではないのだけれど、フランクに話している内によくこうなってしまう。会話と主義主張とはまた領域が違うから一緒くたにできないか。でも、それでも面倒だよなあ。それとも、諦めずに書いてみればいいのだろうか。
で、こんなことを書いて、私は何がしたいんだろうか。分からん。無意味に思えてきたぞ。うん、そうだった。この無意味に思えてくるというのも大敵だった。私が全削除を実行する二大要因のひとつだ。いやいや、そのほうがいいのかもしれん。なんか文末まで変わってきたぞ。そんなに変わってはいないか。なんだろう、こういう文章って、人の内面を表すのだなあって今更ながらに思った。だから多分、私にはこういう文章は合わないんだろう。苦手なんだ。どうしても駄目なんだな。段々私じゃなくて、他の誰かが書いているような気になってくる。ネット上の架空人格とでも言えばいいのか。おそらく違うけれど、その人格と私が乖離していく。そうじゃないと書けない。でもそうすると私の意見じゃなくなってしまう。表層に上ってきた架空の人格が騙ってしまう。短い文ならこういうこともないのだけれどなあ。
そしていきなり人格がどうのこうのって言うもの見当違いな気がしてきた。早いな。こういうことは書く必要がないんじゃないだろうか。無駄だろうに。消せよ。削除だよ。また全削除だよバーカ。反応が欲しいわけじゃないんだよなあ。表現したいんだ。けれど、それはものすごく恥ずかしいんだ。そしてそうすることの意味を考えてしまうと虚しくなるんだ。
何この文。きもちわるい。オナニーはティッシュに包んで捨てろよ。本当に死ねばいいのに。何が言いたいのかさっぱど分からん。馬鹿じゃないの? もうやだ。
というか、増田でも何でも推敲ってするもんなの?2ちゃんでも必要なんだろうか。私はしてしまうのだけど。読まれるものだからね。だから、素早く長文が書ける人が羨ましくもある。それでも、やっぱり、表に出すにあたって、何かしらのフィルターを通して出しか意見って出せないのかな。偏った思考を垣間見せる書き方とか、一定のキャラクターとか。そうじゃないと書けないような気がする。会話にしても、場の空気っていうフィルターが存在するんじゃないかな。ディスカッションも立場ってのがあって、だからしっかりと立脚するんだろうな。
で、私にはそれがないと。うーん、そのとおりだ。どこにも属せていない。属したくない。いろんな主義主張、立場を理解したい気がするから。そうじゃないと、問題は総見できないんじゃないの? するとだけれども、私が意見を発するためには私というバックグラウンドを確立しなければならないわけだ。面倒くさいなあ……。だって、一人でグループと対峙するわけでしょう? 馬鹿馬鹿しいね。そして、そんな奴の意見なんて聴かれないだろうし、効力がないよ。
冒頭に帰依するかと思って続けたけど、どんどんどツボに嵌っていったよ。どっぴんしゃんだよ。抜けたらどんどこしょ。俵の鼠はどうしてチューなんて鳴いたんだろう。誰がお茶碗割ったんだ。
もう止めよう。意味が分からん。