はてなキーワード: ぼんやりとは
そういうタイプなので、今まで能力もないのにあれこれ委員や係を引き受けて、うまくできなくて文句言われたり、あの人はやりたがりだからやらせとけばいいwと言われたりしてきた。
大人になっても未だにその傾向は変わらないから、きっと道端で倒れた人がいて、AEDがあったら自分は救助すると思う。
とっさに、やらないでいるのがとてつもなくストレス。
冷静に考えれば後で訴えられたら家庭が崩壊するんだろうけど、目の前の差し迫った状況に耐えて無視できる気がしない。もし倒れた人が亡くなってしまったら、きっと凄く後悔して、(助ければよかった、いやAED使ってもダメだったかも、訴えられる可能性があったのだから家庭を守ったのは当然だ、いや、でもあの人は死んじゃったんだ、まだ生きてたかもしれないのに、AEDあったのに…いや仕方なくね?いや、)とグルグル悩んで増田にお気持ち長文を書くか、そんなこと書いて肯定して貰おうとか汚ねえと思ってやめるか…ってなりそう。
講習も何度も受けたし、電気ショックが必要かどうかは機械が判断してくれるから、医学的なこと(呼吸とか心音が雑踏の中で聞こえるかとか)はあまり心配してない。警察と訴訟リスクなんだよね…。
実際には、自然と周りにいる人を巻き込むことになるだろうから、警察はあまり心配ないかな。講習で「倒れた人がいたら周りに声をかけて、119番する人、駅などの係員に知らせる人、AEDを持ってくる人、人垣などでプライバシー保護のリーダーシップを取る人など手分けする、指差しで指名したらやってもらいやすい」と習ったから、うまく行くかはわからないけどやってみようとするだろう。それを見てた人が警察に証言してくれるのをぼんやり期待してるから、警察はそれほど心配してない。
怖いのは死亡時や羞恥心からの訴訟だよな〜…でもやっぱ、黙って(死んじゃうかもしれないけど心を鬼にして無視!)は、多分できない。衝動的で慌て者でおっちょこちょいな性格だな。
別に警察や訴訟リスク、周りの目を恐れる人を非難はしないよ、何が耐え難いかは人それぞれだし。
ただ、学級委員を引き受けて馬鹿にされたのは嫌だったから、そういう人間をあんまり馬鹿にしないで欲しい、あとAEDを使うのはしなくても、時間に余裕があって「駅員をよんできてください」と頼まれたら、できれば引き受けてくれたら、頼む側になりそうと思う人間は嬉しいです。
と思って書いてみた。
お金をいかに節約すべきかという話になると、よく出るのが「家計簿をつけましょう」という話だ。
まあはてなーはそこ「あったりまえでしょ」という人と「むりっす」という人に極端に分かれそうだけども、「家計簿」というとつきものなのが「挫折」。
何故挫折するかとなると「手間に見合うと感じられない」ということだと思う。
「感じられない」というのがポイントで、「思わない」ではない。
要するにわかっちゃいるけど実感として手間と利益がバランスしてないということなんだろう。
なので、重要なのは2方向から攻めることで「利益を想像する」と「手間を減らす」とについて話すことだと思う。
まず利益について
「心穏やかになる」のと「エキサイティングなチャレンジができる」だ。
家計簿というと出費を節約する為にやるものだと思ってないだろうか。
コツコツやった挙句、出費を我慢する為に乾いた雑巾を絞るような思いをする羽目になると。
節約について話し始めたのに、前提を否定するようだが、これはNOだ。
正確にいうと節約もできるが、それ以外にたくさんの可能性が開けるし、不意にガツーンとくる大きなストレスが減る。
過去と現在の支出をつかむということは、「減らすべきところを見つける」より「あとどれだけ使えるか正確に捉える」のと「未来に起きそうなことを予測する」効果が大きい。
先月の給料からいくら残ったのか正確に分かれば、来月、再来月の給料からいくら使う余裕が生じそうかわかる。
今今持ってる金からいくら使えるか、だけでなく、いくら使ったら何ヶ月で取り返せるかがざっくりとわかる。
まあ自営業だと給与所得みたく安定しないだろうけど、自営業で帳簿つけてないとそもそもそれ長続きしないだろう、そこら辺は給与所得者より神経質なはずだ。
まあ即ち家計簿つけてれば「まとまった金を使う時に過度に不安にならない」ということだ。
「不安にならない」だぞ、はてなーにとってこんな魅力的な言葉あるか!?
それなら貯金通帳だけみてりゃ十分と思うかもしれないけど、それだけだとやや粗い。
出ていく金には毎月ほとんど動かない「固定費」と月によって支出に幅が出る「変動費」と時々発生する「臨時出費」がある。
これらがどういう配分かわかっていないと「生じそうな余裕」が見えてこない。
「臨時出費」があったせいである時点の支出が膨れ上がり、将来においてもそれが発生するとぼんやり感じられて、余剰の予測が過度に少なく感じることはある。
もちろん「減らすべきところを見つける」こともできるけど、これは3ヶ月に一回か半年に一回やればいいと思う。
「減らすべきだなー、無駄だなー」と心理的に思ってることも、半年単位で見ても実は大した金額使ってなく、それより納得しているつもりで規模のでかい金食い虫が見つかるかもしれない。
そういうのは半年に一度整理すればその金額をもっと有効に使える。
それで年末までにいくらまでリスクを引き受けられるかを掴んだら、そのお金でなにかにチャレンジするなりすればいい。
それはもうささやかで小市民的ではあるけど、コントロールされたリスクだ。
繰り返すけど、家計簿は「もっと我慢する為につける」ものではなく、「もっと心穏やかに生きる為」と「もっと大胆にリスクを取る為」につけるものだ。
「お金使ってもいいのかな、取り返せるような気がする、でも失うのが怖いな」という煩悶を「まあこれで失敗してもクッションできる金だってわかってるし」という心理で乗り越えられる。
ちなみに自分は計算した挙句問題ないと判断した金額をオンライン英会話とロボット掃除機と洗濯機に使った。
英会話はまだまだだけど、ロボット掃除機と洗濯機に関してはもう、すぐにメリットを感じている。
洗濯機は今まで徒歩5分にコインランドリーがあったのと、かつて洗濯機も置けないような狭さの部屋に住んでいた頃の生活の記憶で慣れきっていて、引っ越して全然スペースができた後も金額の大きさに二の足踏んでたんだけど、コロナで在宅になったので、設置の時間も、その後の日々の洗濯もいくらでも時間作れると思ってやっと買った。
結果、別にコインランドリーでも生活はできたけど、大幅に時間が節約できてる。
ロボット掃除機についてははてなでは語り尽くされてると思うけど、時間が節約できるのはもちろんのこと「ほぼ毎日掃除やってもらえる」日々は想像を超えた快適さだ。
ここら辺の「時間を節約できたり手間を忘れられる物や事」を手に入れられればもっといろいろ考えられて、プラスのサイクルに突入していくんだよね。
やる前って「失う金」のことばっかり想像できるけど、「やった後の利益」はなかなか想像しづらい。
ホリエモンとか秋元康みたく「やれ、とにかくやれ」というのは彼らの他の発言やキャラクターもあってなかなか反発心もわく話だが、ぼんやり見える将来の利益にむかって踏み切るのは大事で、それには度胸か工夫が必要になる。
それが人間だ。
閑話休題。
挫折したらかけた労力の意味ないと思うかもしれないが、最低1ヶ月あれば、たとえ不測の事態で次の月に挫折しても、お金が入る→出るのサイクルが1個成り立つので、ざっくり予測はたつ。
まあもちろん続ければ続けるほど予測精度は上がるけど。
最低1ヶ月は必要。
でも1ヶ月ならもつでしょ。
あと、早くからやってればいいのに今やっても遅きに失している、と感じてしまうかもしれないけど、この言葉を送ろう「すべての人類は例外なく今後の人生において、今が一番若い」
こうなってくると重要なのが「手間を減らす」だ。
これは「アプリを使う」と「3分以内にできることは即座にやる」「3日に一回は記録する」ということが重要だと思う。
「アプリを使う」に関しては、自分はこれらのアプリから選んでやっている。
買ったものはなならずレシートをもらうようにして、3日に一回はこれでパシャっとやる。
何らかの理由でレシートが保存できないキャッシュレス決済は、「その場で記録する」か「まとめて明細がやってきた時に記録する」というふうにしている。
「その場で記録する」ケースが発生するのがスマホだけ持って出かけた時のバーコード決済などで、まあレシート持って帰ればいい話だけど、手ぶらで通したい場合に「3分以内にできることは即座にやる」対応をしている。
「まとめて明細がやってきた時に記録する」はカード決済などで、これは多少面倒だけど、ここに至るまでに他の手間を削減して余裕を作っておくことが大事だ。
なので、日々のレシートは「3日に一回は記録する」という態度がいいと思う。
1週間溜めても無理ではない。
実際じぶんはやってたし。
でも1週間分となるとレシート撮影し続けるだけで30分から45分くらいかかる。
そこは3日に一回の10分なら軽くできるし、毎日の3分以内は考えなくても終わる。
こまめにやれば「あー、これから30分、レシート撮り続けるのかー」という重さがない。
ここら辺のそれでも若干のこる小さいめんどくささは「配偶者がやってくれる」「外注できるサービスを知っている」という人にとってはまあどうでもいい話だろう。
配偶者には表現できる限り最大限の感謝を示して、サービスに関しては教えてあげて、世の無駄な苦労をしてる人を減らして欲しい。
こんなことをするよりその時間で大きく稼ぎたいと思う人、家計簿つけてるとその大きく稼ぐためのチャレンジにいくら投資できるか明確になるぞ。
ことほど左様に家計簿には利点が多い。
僕の好きな仏教系の挿話に「火事で燃えてる家と赤児の話」というのがあって
どんな話かというと、とある家が火事になっているとする――。その燃えている家の、崩れた瓦礫の隙間に赤ん坊が取り残されているとする。赤ん坊はどうやら周囲の状況にあまり気付いていないらしく、指を咥えてぼんやりとした面持ちのままその場に座り込んでいる――。まだ火の手はそれほど近くにまでは来ていないから、何らかの手段を講じれば赤児の命を助けられるかもしれない、みたいな話。
でも、瓦礫でできたスペースは小さくて、その奥まった場所に取り残されている赤児の元へは、大人の体では大きすぎて辿り着くことができない。また、その瓦礫を除けようも、ちょっとしたバランスの変化で瓦礫は崩れ落ちそうに見えるくらい、その均衡は危うい。つまり、その時赤ん坊を助け出す手段としては、赤ん坊自らの力によって瓦礫の外へと這い出してもらうより他に方法がない、という状況である。
さて、この時赤児にアプローチするには幾つか方法があって、この挿話によればその方法は主に二つである。一方に関しては、これは失敗が決定付けられた最も愚鈍な手段であるんだけど――次のようなものだ。
「火事なんだ! すぐ傍にまで火の手がやって来ている。だから早くその場所から逃げ出すんだ。さもないととんでもないことになるぞ!」
当然この方法は赤児の命を救うことができない。それは無論のことで、赤児はまだ大人の冷静な言葉を解するには年齢や知能の発達が不十分で、その言葉を正しく理解することなど到底できないから、正しい指示を送ったところで何の役にも立たないということなのだ。
また、そこにはもう一つ細かい問題というのもあって、この挿話ではそれについて次のように述べている。大人が必死な目をして、必死な声で赤児に対して叫ぶのを見て、むしろ赤児は言うことを聞くどころか怯えて、泣き出して人事不省に陥ってしまうなり、あるいは、間違った方向へと這いずって逃げ出してしまうなり、むしろ事態が悪化する行動を取る結果にしかならないだろう――とこの挿話の語り手は述べるのである。
さて、そのような具合に、「正しい情報を与え、正しい指示を行う」といった方法はこの場合何の役にも立たないことが示された。それどころか、より事態を悪化させることにしかならない、という結論が述べられた。勿論これはあくまで仏教的な挿話の範疇で示唆されていることではあるんだけれども。いずれにせよこちらは失敗にしか傾斜しない、二者のうち一方の愚鈍極まる手段ということであった。
では、もう一方の手段とは何か。
それは、「何か音の出るおもちゃを持って、笑顔で赤児に呼びかける」である。
上手くいけば、赤児はそのおもちゃに興味を示して、出口の方へと這いずって自ら正しい方向へ歩むことができるかもしれない。少なくとも、何ら言語を解さない赤児に向かって、「逃げろ」だの「火事が迫っている」だの叫ぶよりはずっと結果はマシになる筈であろう、とのことであった。因みにこの方法を用いる理由として一つ、さらに重要な前提があって、つまりそれは赤ん坊はよくも悪くも自分自身がおかれている状況に無自覚であるということである。そのため、赤ん坊は火事の危険を知らず、余計な恐怖や危機感によって泣き叫んだり人事不省に陥ったりする心配は今のところ無い――つまりは割と平然としているということが、この第二の手段を更に正当化する理由となるのであった。
時間制限は確かに存在する。火の手が回る前に、迅速な判断が必要な場面ではある。とは言え、自らの膂力によって瓦礫を除けたり、あるいは赤児の取り残された小さな隙間に入り込むといった手段を使えるわけでもなし、正しい指示を送ることは怯えさせるだけで役に立たない――そんな時に用いるべきなのは、本当は「おもちゃの音色と、同時に浮かべられる朗らかな笑顔」なのだというのが、この挿話の結論であった。
賢明な読者の皆様はお気付きであると思うが、この「火の手が迫り今にも崩れそうな家」と、「状況を理解していないし、また言語を解すこともできない、取り残された赤ん坊」は、現世と衆生にそれぞれ対応した比喩となっている。もっと言えば、それは我々の世界と我々自身についての比喩なのだ。
(あるいはこれは、悟りや涅槃(救い)というものと、それを理解できない衆生の対比になっているとも言える。)
いや、こんなこと言ったら気分を害する人もいるかもしれないんですけどね、まあ仏教というか宗教全般は大体そういう通底した考えとか世界観があるのはしゃーない。正しい言葉で語りかけても、衆生は危険を認識するどころか怯えて遠ざかり、尚の事炎の害に遭う可能性が高まるので、何らかの便宜的な他の手段(この場合はおもちゃと笑顔)を講じるべき、というのが、仏教側のスタンスだということでした。まあいずれにせよ昔の人は面白い喩え思いつくなー、とかそういう話なんですねはい。
iTunesに入っていた赤い公園のトーキョーハーバーを昨日から何回もリピートしている
特に強い思い入れがあったバンドではないけど、なんとなく頭がもやもやというかぼんやりしているのがわかる
でもだから報道するな!とか話題にするな!っていうのも違う気がするんだよな
うまく言えないけれど、彼女がいたこともいなくなったことも、ちゃんと噛み締めて消化して人生にしていきたい
もしそれでバッドエンドになってもね
東京都心に住まうハイソサエティな人々や地方民は、東京にこれだけ近いところに、これほどモータリゼーションが発達した都市があることをほとんど知らない。
東京でも横浜でもない、車を中心にした世界がここにある。
嘘だと思うなら、カーシェアでも借りて一度センター北・センター南界隈を走り回ってみるといい。
東京と横浜の中間でなおかつ東海道線と東名の中間ぐらいの位置関係と言えばぼんやりとイメージがわくだろうか?
詳しい歴史とかはwikipediaを見ろ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%8C%97%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3
元は森と原っぱしかなかったところを開拓したニュータウン開発としては最後発に近い再開発事業だ。開発が始まったのが実質80年代以降なので、近代的なモータリゼーションをがっちり取り入れた都市計画に基づいた街が作られている。
ざっくり言えば、港北ニュータウンはショッピングモールの集合体だ、少し小さめの濃縮されたイオンモールクラスのショッピングモールがぼっこぼこと乱立している、センター北・南両駅に中規模のショッピングモールが3棟(港北東急、港北阪急、ノースポートモール)、立体模駐車場を持つ小規模ショッピングモール(どでかい商業ビル)が4棟、さらに商業ビル多数。近隣にはホームセンターも幾つもある。
そんな中途半端なショッピングモールじゃあね、という向きには、車で3~40分圏内に大規模ショッピングモールが3か所(ららぽーと横浜、ラゾーナ川崎、トレッサ横浜)、もう少し小さい規模でグランツリー武蔵小杉、たまプラーザテラスとか、横浜圏までいれると本当に数えきれなくなる。
とにかく車があれば買い物を行く先に全く困らない、毎週末・毎日がショッピングモール巡りだ、車で複数のショッピングモールを梯子することなんかもザラ。
それから、この二駅だけでスーパーが大小とりまぜて10軒前後ある、あほか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%8C%97%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kohoku_New_Town_-02.jpg (写真)
まず道幅が広い、一般道で3車線があたりまえにある。狭い細路地がほぼ存在しない。一方通行もほとんどない。車の取り回しで困ることが無い。
駐車場も安くどこにでもある。商業施設の駐車場はほとんどがスロープ式立駐で、だいたい割引で足りるか、最初から無料。
ある意味センター北・南が猛烈に充実しているため、車無しで滅茶苦茶快適に生活できてしまうのだが、当然車の所有率も高い。
そして、いい車が走っている。外車率が異様に高く、軽が少ない。都心みたいにポルシェとベンツ、アストン・ベントレーにあれはマクラーレンか、みたいなバブリーさは無いが、ドイツ勢、ラテン勢など欧州車がかなり多い。レクサスも多い。港北ニュータウンにいると、日本の不景気とは? という気分になるぐらい、日本で失われつつある豊かさがまだここには生きている。
そして、ニュータウンらしく、車歩道分離や、公園が充実しているのもすばらしい。センター北・南から徒歩圏にもちょっとした森のような大きな公園が幾つもあるし、車で移動すれば自然もスポーツ施設も遊戯施設も多数あり子供の遊び先の選択肢に事欠かない。大きな公園に行くと、テント族っていうの? ミニバンにカートとテント載せてやってくる親子連れが広場にテント広げてゆったり遊んでる。ああいうの、都内育ちからみると全く未知の世界で軽いカルチャーショックがある。わざわざ、ひーこら奥多摩まで行ってバーベキューする必要ないんだ、みたいな。
それから、第三京浜・東名高速が至近というのも大きい、レジャーとなったときの選択肢が都心とはけた違いに多く、海と山にすぐ行ける。箱根・鎌倉・三浦・伊豆・富士・東海方面が東京よりすべて一回り近い。渋滞のボトルネック一つ分少ないことで、車での日帰り旅行もめちゃくちゃ快適。
都内でマンションや戸建てをサラリーマンが買うのが現実的でなくなって久しいが、港北ニュータウンとその周辺の横浜市営地下鉄沿線はまだ選択の余地がある、さすがに新築マンションの造成は減ってきているが、中古なら3~4000万円代から選択肢がある。しかもニュータウン故、ほぼすべてが築浅なので都心に比べれば程度が全然いいし広い。駐車場も当然ついているし、駐車場代も都心みたいにん万円なんてことはない。
歴史が浅いということは、世代・年齢層も若いということだ、周辺の戸建て地域もおんぼろの昭和な住宅や空き家・廃屋なんてほとんどない。街がぴかぴか、古い家はだいたい地主さんの邸宅。
港北ニュータウンのある都筑区は首都圏でも数少ない出生率が高く人口が増え続けている自治体だ。まぁ、40年50年先のことはしらん。
人種的には、ややマイルドヤンキー寄りだがヤンキーではない、リア充だけどうぇーいじゃない、ぐらいの層が厚い。所得がそれなりにあると思われるおされな人も多い。スポーツ観戦が好きで子供もサッカーやらせてます、目指せJリーグみたいな感じ? なにしろ、手軽にスポーツをできる環境がある。
そして、BOOKOFFに行くと、売られている本の質が違うんだ、ひたすらベストセラーやジャンプ掲載作品で埋まってなくて、それなりに面白かったり、マニアックな作品もごろごろしてる、実用書の質も高い。つまり、本好きが沢山いて、本を買い、BOOKOFFへ放流するというフローが成立しているわけだ。
総じて、平均してそれなりの所得があり、家と車を持ち、自分の生活を等身大で生きている、そんな世界が港北ニュータウンだ。
東京都心へは電車で40~50分、車で1時間前後、というところ。
港北ニュータウンの中央駅はセンター北とセンター南の二駅、センター中央駅は無い。この二駅を貫くように横浜市営地下鉄ブルーラインと同グリーンラインが通っている。
残念ながら東京都心直通の路線は無く(計画はあったんだ...)、都心に出るにはブルーラインであざみ野に出て田園都市線もしくはグリーンラインで日吉に出て東横線へ乗り換える必要がある。横浜・新横浜・みなとみらいへはブルーラインで直通だ。
車でのアクセスは、東名 横浜青葉ICもしくは第三京浜 都築ICから15分弱。
都心に直通の電車がないなんて田舎だよね、という向きには田園都市線沿線のたまプラーザ・あざみ野・青葉台を勧める。半蔵門線直通で都心まで30分前後だ。通勤時間的には都内の多摩地区と変わらない。
全体に若干割高にはなるが、車があれば、港北ニュータウンの利便性は享受できる。
ご存知のように殺人的な通勤ラッシュでおなじみ田園都市線だが、大井町線の乗り入れで改善してきているし、オフピークして、渋谷以前の半蔵門線から乗ればそれほど大したことはない。
ただし、歴史が一回り深い分高齢化が進んでいるのも確か。モータリゼーション第一世代が高齢化で免許―返上して駅から遠い戸建てを手放すみたいな話が出てきている。
都心と比べて東急グループや大手資本がなんとかしようとしている点がちょっと違うところで、たまプラーザの再開発なんかがその例、興味があるなら行ってみるといい。
東横線沿線は良くも悪くも東京都心に近い属性がついてくる、居住費や駐車場も高くつくし、狭い道も多い。武蔵小杉・元住吉・日吉あたりは車でも住みやすいが水害が心配なのは去年の台風でわかっただろう。
そんな感じで、首都圏にでもモータリゼーションが発達して発展している都市がある、ということをわかってもらえると嬉しい。東京都心と地方のロードサイドの二元論なんてナンセンスだ。
都内勤務だけど、リモートワークも進んだし、ちょっと都心から離れてみるのもいいよね、車の運転好きだし、という層にはぜひ一度訪れてみてほしい。
港北ニュータウンに無い物? うーん、歴史とか、超高級ブランドショップとか、それから下北や吉祥寺みたいな個性かな。あーあと、あれあれ、イオンが無いよ。
ここ10年くらい頭の中にぼんやりと『助けてほしい』っていう思考が頭から離れなくて、
何をどうしたらいいのかわからないけど漠然とした恐怖とか焦燥感みたいな感情がずーっっとついて回ってる感じがするんだよね
最近さ、今更ながらジョーカーっていう映画見たんだけどさぁ、すげー心に響いたよ
俺みたいなクズに愛してくれる人が出てきて人並みの幸せを手に入れたり金持ちになったりヒーローになったりは100%無理でも、ジョーカーほどの度胸はなくても
生配信中に富士山から滑落死したニコ生主だとか、上級ニート謳歌しながら調子乗りすぎて実の父親にぶっ殺された英一郎とか、電車でキチガイかましてたら正義マンに殺された性の喜びおじさんみたいに
大喜利みたいに哀れで滑稽で笑える死に方でもすれば5ちゃんねるみたいな狭いコミュニティの中で語られる存在くらいにはなれるかもなって
そんなことを考えるんだよ
アラサーの女。恋人とセックスレスになった。恋人はそこそこのおじさん。私に勃たなくなってしまっただけかもしれないけど、もうセックスしたくないらしい。それ聞いて超しんどい。セックス大好きだけど、別に誰とでもしたいわけじゃなくて恋人とのセックスがめちゃくちゃ好きだった。大好き。簡単に幸せになれるし、多少の揉め事や不安もセックスしたらふんわりと解決してた。なのにもうしたくないって言われた。したくないって言ってる相手に強要するのは男女どちらに対してでも性暴力だと思うから強要できないし、そもそも無理にしてほしいと思ってるわけじゃない。
本人には言えないけど、もっといろんなことがしたかったとかいろいろ後悔あるなあってぼんやり考えちゃう。あんなこともこんなこともいつかしてみたいなーとか考えて楽しかったのに、もう実現することはないんだと思うととても悲しいし辛い。恋人が元気なうちにいろいろしておくべきだった。
僕の好きな仏教系の挿話に「火事で燃えてる家と赤児の話」というのがあって
どんな話かというと、とある家が火事になっているとする――。その燃えている家の、崩れた瓦礫の隙間に赤ん坊が取り残されているとする。赤ん坊はどうやら周囲の状況にあまり気付いていないらしく、指を咥えてぼんやりとした面持ちのままその場に座り込んでいる――。まだ火の手はそれほど近くにまでは来ていないから、何らかの手段を講じれば赤児の命を助けられるかもしれない、みたいな話。
でも、瓦礫でできたスペースは小さくて、その奥まった場所に取り残されている赤児の元へは、大人の体では大きすぎて辿り着くことができない。また、その瓦礫を除けようも、ちょっとしたバランスの変化で瓦礫は崩れ落ちそうに見えるくらい、その均衡は危うい。つまり、その時赤ん坊を助け出す手段としては、赤ん坊自らの力によって瓦礫の外へと這い出してもらうより他に方法がない、という状況である。
さて、この時赤児にアプローチするには幾つか方法があって、この挿話によればその方法は主に二つである。一方に関しては、これは失敗が決定付けられた最も愚鈍な手段であるんだけど――次のようなものだ。
「火事なんだ! すぐ傍にまで火の手がやって来ている。だから早くその場所から逃げ出すんだ。さもないととんでもないことになるぞ!」
当然この方法は赤児の命を救うことができない。それは無論のことで、赤児はまだ大人の冷静な言葉を解するには年齢や知能の発達が不十分で、その言葉を正しく理解することなど到底できないから、正しい指示を送ったところで何の役にも立たないということなのだ。
また、そこにはもう一つ細かい問題というのもあって、この挿話ではそれについて次のように述べている。大人が必死な目をして、必死な声で赤児に対して叫ぶのを見て、むしろ赤児は言うことを聞くどころか怯えて、泣き出して人事不省に陥ってしまうなり、あるいは、間違った方向へと這いずって逃げ出してしまうなり、むしろ事態が悪化する行動を取る結果にしかならないだろう――とこの挿話の語り手は述べるのである。
さて、そのような具合に、「正しい情報を与え、正しい指示を行う」といった方法はこの場合何の役にも立たないことが示された。それどころか、より事態を悪化させることにしかならない、という結論が述べられた。勿論これはあくまで仏教的な挿話の範疇で示唆されていることではあるんだけれども。いずれにせよこちらは失敗にしか傾斜しない、二者のうち一方の愚鈍極まる手段ということであった。
では、もう一方の手段とは何か。
それは、「何か音の出るおもちゃを持って、笑顔で赤児に呼びかける」である。
上手くいけば、赤児はそのおもちゃに興味を示して、出口の方へと這いずって自ら正しい方向へ歩むことができるかもしれない。少なくとも、何ら言語を解さない赤児に向かって、「逃げろ」だの「火事が迫っている」だの叫ぶよりはずっと結果はマシになる筈であろう、とのことであった。因みにこの方法を用いる理由として一つ、さらに重要な前提があって、つまりそれは赤ん坊はよくも悪くも自分自身がおかれている状況に無自覚であるということである。そのため、赤ん坊は火事の危険を知らず、余計な恐怖や危機感によって泣き叫んだり人事不省に陥ったりする心配は今のところ無い――つまりは割と平然としているということが、この第二の手段を更に正当化する理由となるのであった。
時間制限は確かに存在する。火の手が回る前に、迅速な判断が必要な場面ではある。とは言え、自らの膂力によって瓦礫を除けたり、あるいは赤児の取り残された小さな隙間に入り込むといった手段を使えるわけでもなし、正しい指示を送ることは怯えさせるだけで役に立たない――そんな時に用いるべきなのは、本当は「おもちゃの音色と、同時に浮かべられる朗らかな笑顔」なのだというのが、この挿話の結論であった。
賢明な読者の皆様はお気付きであると思うが、この「火の手が迫り今にも崩れそうな家」と、「状況を理解していないし、また言語を解すこともできない、取り残された赤ん坊」は、現世と衆生にそれぞれ対応した比喩となっている。もっと言えば、それは我々の世界と我々自身についての比喩なのだ。
いや、こんなこと言ったら気分を害する人もいるかもしれないんですけどね、まあ仏教というか宗教全般は大体そういう通底した考えとか世界観があるのはしゃーない。正しい言葉で語りかけても、衆生は危険を認識するどころか怯えて遠ざかり、尚の事炎の害に遭う可能性が高まるので、何らかの便宜的な他の手段(この場合はおもちゃと笑顔)を講じるべき、というのが、仏教側のスタンスだということでした。まあいずれにせよ昔の人は面白い喩え思いつくなー、とかそういう話なんですねはい。
在宅勤務中の社員を監視するためのPC用ソフトウェアの広告が堂々と放映されている。
勤務時間中に在宅で社員が全員遊んでいるかのような姿を映し出してから、これでは「生産性」が下がりますよね?とやっている。
監視される側となる人間が大半であろう乗客は、ぼんやりとこの広告を眺めている。
コロナウイルス騒ぎが長引いたせいでとうとう在宅勤務は終わり、日本的な「テレワーク」の時代が本格的にやってきたのだと、この光景を眺めながら私は思った。
テレワークは、社員が常にPCに張り付いて仕事をしているふりをすることを求める。
家にいても仕事で結果を出していれば問題ないという在宅勤務の時代は終わったのだ。
テレワークは、社員がオフィスに出勤し、時間までそこにいること自体を評価する日本的な働き方の再来だ。
結果ではなく、姿勢や努力といったよくわからないものを長時間労働で「見える化」している気になっている働き方の再来だ。
希死念慮というのか、ただの鬱っぽい時期なのかわからないけど、ただ、ある時突然うっすらと死にたいという気持ちが自分の真横に並ぶ感覚がある。
コイツが来ると仕事が全然手につかなくなって、タスク一覧見ながらぼんやりとしてしまう。それでも締め切りは来るしもともとバッファもそんなに多くは設けていないので残業することになる。完全に使えない社員になってしまう。
年度末の面談でも仕事のムラについて指摘された。通期で見れば大きな問題はないが、大きな功績もない、みたいな評価。調子がいい時の状況が続けば昇格できるのに、なんて言われているが、自分自身この、真横にいる不気味な気配への対処の仕方が分かれば苦労しない。
そいつはふとした時に真横にきて、ぴったりと俺と同じ方向を見る。俺自身の関心がそちらにあろうが、なかろうが、こちらに襲い掛かってくるようなものではなくて、ただそこに在り続ける。不快と言えるほど強い印象を持てる感情でもなく、かといってこいつがあるといろんなことが手につかなくなる。こいつが来ると分かりやすく部屋が汚れる。ゴミ出しに行くのが億劫になり、昼休みも昼寝で過ごしてしまうようなことが増える。
横になって沢山眠ればいいかと思って眠りについても、延々と眠れてしまうし、寝れば寝る程悪化するような感じさえする。眠っているときもそいつは俺の真横にいる。友達と何か話そうとスマホを見ても、誰に何を送るか決められず、結局代わり映えしない情報が流れるtwitterと、こうやって増田を見ることくらいしかできない。
コイツがいなくなるまでの期間は不定で、一日二日でいなくなることもあれば、一ヶ月以上続くこともある。いなくなるきっかけに心当たりはない。はたと気づくと居なくなっていて、急にいろんなやる気が湧く。
瓶の底で、蛍は微かに光っていた。
しかし、その光はあまりにも弱く、その色はあまりにも淡かった。
僕の記憶の中では、蛍の灯はもっとくっきりとした鮮やかな光を夏の闇の中に放っている筈だ。そうでなければならないのだ。
蛍は弱って死にかけているのかもしれない。僕は瓶の口を持って、何度か振ってみた。蛍は瓶の壁に体を打ちつけ、ほんの少しだけ飛んだ。しかし、その光は相変わらずぼんやりとしていた。
多分、僕の記憶が間違っているのだろう。蛍の灯は、実際にはそれほど鮮明なものではなかったのかもしれない。僕がただ、そう思い込んでいただけのことなのかもしれない。あるいは、その時僕を囲んでいた闇が、あまりにも深かったせいなのかもしれない。
僕には思い出せなかった。最後に蛍を見たのが、いつのことだったのかも思い出せなかった。
僕が覚えているのは、夜の暗い水音だけだった。
煉瓦造りの、古い水門もあった。ハンドルをぐるぐると回して開け閉めする水門だ。岸辺に生えた水草が、川の水面をあらかた覆い隠しているような、小さな流れだった。辺りは真っ暗で、水門の溜まりの上を何百匹という蛍が飛んでいた。その黄色い光の塊が、まるで燃え盛る火の粉のように、水面に照り映えていた。
あれは、一体、いつのことだったのだろう。
そして、一体、どこだったのだろう。
上手く思い出せない。
カスな部分は大きく分けて二つある。一つ。
・オカリンの遡り方が思ってたのと違った
僕たちはシュタゲを見て、最後の「世界を騙せ」のシーン、名シーンだ、にいたく感動した。
色々ある。伏線の回収、絶望からの希望、そして何より、「辛い時を過ごし苦渋を何年も舐め続け、世界と戦い続けた世紀末のリーダーオカリン」
が、若いオカリンに向けて語るその言葉が何より重く感じたからだ。
それがなんだ、クリスが死んでぼんやりさんとして数年生きて、事故で昏睡、目覚めた時からチマチマ時の遡行を繰り返してって
なんだその地味なMMOのクエストみたいな作業。全然わくわくしない。ライン工で疲れ切ったオカリンとか見たくなかった。ダルの方がすげえじゃん。
・オカリン復活の歯切れが良くない
皆が見たい「中二病のオカリン」が戻った……!と思ったらちょっと照れたり、あの時のオカリンは何処へ?って感じが否めない。
クリスが死んでも中二病であり続けて、狂ったマッドサイエンティストとしてリーダーになってほしかった。
週明けから会社のなかでけっこうすごいごたごたが起こっている。
朝から責任者の怒号が響き渡り、夕には社会不適合者・土下座・クビなどのワードが飛び出すしまつで、原因のクレーム案件を作ってしまった社員は一日中泣きどおし、帰りには嗚咽をもらすほどの状態になっていた。
上席のいないタイミングでこっそり声をかけたりしてみたけど、何のなぐさめにもなってないだろうな、むしろ負担に感じてるかも……と思うと申し訳なく、己の無力さを痛感した。
この案件にかかわっていない私ですらもなんだかずっと胃が重たく、一日中謎のだるさと、ストレスを感じたときに無意識に出る歯の食いしばりが止まらないながらも、なんとか仕事を終えた。
夫が夜勤でいないときはいつもお惣菜なんだけど、今日ももちろんお惣菜、ていうか今日こんな日こそお惣菜っ…! と意気込み、いつものスーパー寄って買い物、レジで係員にポイントカード渡した瞬間、「なんだか今日お顔がいつもと違う……大丈夫ですか?」と言われた。
思わず「いやあちょっと会社でいろいろありまして……」とつるりと打ち明けると、「やっぱりい、いつもとお顔が全然違いますもの」と彼女はたたみかけてくる。
いつもだって、必ず仕事終わりのタイミングで、そんなに生き生きした顔はしてないはずなんだから、今日はよほどやばい顔してたんだなと思うと同時に、これから家族のいない家に帰る私のマスクの下の表情を読み取り、心配して声をかけてくれたことがうれしくて、無性に泣けた。
なんだろう、そもそも私の顔を覚えていてくれたなんて。
毎月、ポイントの当月失効分を気にかけてくれる彼女。心配されないように失効するポイントをつかおうとしたら、今日はポイント5倍デーだから次の機会にしたほうがいいとアドバイスをくれる彼女。いつも親切な店員さんだなと思っていたあの彼女が私のことしっていてくれたなんて……。
たとえそれが、こいつ半額の総菜しか買わない客だなという認識であったとしても全然うれしい。
そして、こんなにもしんどいときに、思いがけずこんなに優しい言葉をかけてくれたのがなによりうれしかった。
家にかえる道々、相手が熟女じゃなかったらこれはもう恋に落ちてるなと思ったんだけど、よく考えたら別に熟女でもどんとこいっていうか、向こうさえよければもうなんだろう、今の状態で全然恋愛したい、こんなに人の機微をさっしてくれる人と恋ができたらどんなにか……今度ご飯とか誘いたい、と心底思ったんだけど、気持ち悪いだろうし何より迷惑だろうからやめておく。
私は彼女にとってあまたいる客のひとりにしかすぎないことを肝に銘じなければならない。
ところで小学校低学年のころ、朝の登校中に、二学年上の意地悪な人に顔にかさをぶつけられた。
私は当時、今にもましてものすごくぼんやりした子どもで、「あ、ごめーんわざとじゃないから!」と言われたのをそのまま受け取り、そっか、わざとじゃないならいいや、とそのまま学校に行ってふつうに一日をすごした。
家に帰ると、玄関先まで出迎えにきてくれた母は、私の顔を見るなり、「どうしたん、そんなにしょんぼりして! 学校でいやなことあったん?」といった。
そうきかれてはじめて私は、朝、顔にかさをぶつけられたことがものすごく気にかかっていたんだと気づいて、わんわん泣いた。
そのときのことを思うと、何気ない表情をの変化を察してくれたレジの彼女はのことを、お母さんみたいだとも思う。
私は彼女の数多いる客の一人にすぎず、彼女にも家庭があることは百も承知だが、できることなら、健在だが遠方に住む実母にかわって、この地での私のお母さんになってほしい。
そもそも私は筋金入りのマザコンで、セフレもなんかちょっともちっとした感じでママみを感じる体型をしており、男性ではあるのだが、時々「お母さん」とよばわって抱きつかせてもらっている。
総合すると、私は多分母親の要素を感じる人と恋愛がしたいのではないか。
仕事がえりのつかれた会社員にちょっと声をかけただけで、ここまでいろいろ思われてるなんて、レジ係の人も災難だなあと今書きながら思った。気の毒すぎる……。
人生って、「何かをした」「何かをしなかった」の積み重ねなんだと、
した事は積み重なっていくし、しなかったことも確実に積み重なっていくんだな。
その間がすっかすかだ。
ある時点から「何もしない」を積み重ねて、今の自分がすっかすかなんだ。
というかFGOの金時×玉藻とかいうカップリングのことなんですけどね
ついでに源頼光に恋愛的に迫られてるけど俺は上司として尊敬してるんだよなーいやーまいったなーみたいなキャラ
玉藻はFGOじゃないfate(エクストラ)の主人公が本命でその設定をFGOまで持ち越してる
玉藻がFGO主人公に恋愛アプローチしてほしいみたいな需要が発生しても玉藻本体ではなく別の人格がキャラクター化してあてがわれる徹底ぶり
そんで肝心の金時玉藻(略して金玉…にはならない。なぜかゴルフォとかいうカプ名)の公式での絡みというと、なんか…一回だけ同時に召喚されて…金時は玉藻のこと(こいつ毛皮派手だな)みたいな感想で…玉藻は金時を(こいつ顔面はイケメンだけど中身が全然タイプじゃねーわ)みたいに思っていた…
なんでこんな二人をくっつけようって発想になるんだろう…両方とも他の相手おるやんけ…せめて男女どっちか片方だけでもフリーのやつとかいるだろ…茨木童子とか…あっあいつなんか最近綱とかいう男と接点できてて…まあなんか他にいるはずじゃん妖怪キャラ同士でやりたいにしても
なんなら両方既存のカップリング相手いたとしても…なんかこう…それを蹴飛ばしたくなるくらいぐっとくるやりとりがあるとか…
そういうのすらない
マジ虚無
まじなんもない…そういうカプ…
そんでそのよくわからない取り合わせのカップリングの公式単行本が出てしまって困惑しかしていないってわけ
しかも!ほぼ同時に二冊出てる!星海社と角川から!二種類!出版社違うのに表紙デザインはお揃い!なんで!?
いやなんなんだこの待遇
公式側にこのカップリングをすこっている者でもいるのか?それにしては公式での絡みが薄いを通り越してちょっと会って挨拶したかな…ぐらいのぼんやりした感じなのはどうして???
酒の味とか腹膨らむ感じがあんまり好きじゃないから酒を常飲するひとのことがあまり理解できなかった。
けど、気持ちがしんどいなら、そりゃ毎日のように飲みますわな、という理解に至った。
最近、もう死にたいな〜と思ったときに、あれほんとに死ぬ必要あるのか? と考えた。明日の生活に困るほどの貧困とかではないわけで。
そこで、考えることを放棄すればいい、というところに至った。いわゆる死んだように生きるってやつ。
でも思ったとおりに行かない。寝てるだけというわけにもいかないから、どうあがいてもなにか刺激が入ってきてそれに対して思考しだすともうだめ。
思考をぼんやりさせる薬とかないのかなーとか調べたり、お経聞いたり禅?マインドフルネス?をちょっとやってみたりしたわけだけど、よく考えたら多くの成人済みの人間が手を出しやすいし効果もそれなりにある頭をぼんやりさせる手段として、飲酒があることに気づいた(今までも全く飲まなかったわけでもないので、酔っ払ったときふわふわと楽観的になる気持ちよさは知ってた)
それなりのやつを飲むだけでかなり頭がぼんやりするうえに、成人してれば入手はクソ簡単でアンコール入ってればいいだけなら安価(ザルのひとは知らない)
入手しやすい酒の味が苦手じゃなきゃ、絶対毎日のように飲んでたわ。
うつ病的な精神疾患の診断ついてるひとは、アルコール依存症にも注意してねってのも、意味わかんなかったけど納得。
つまり酒は人にとって一種の抗不安剤とか安定剤にもなるわけなのだな、と。
面接の前に少量酒飲むといい感じになるとも聞くし。
酒も薬も飲み過ぎは体に悪いとこも似てる。
でも自分は同じ量を腹に入れるなら断然コーヒー/お茶とお菓子だな。酒はアレルギー的な反応も出やすくなっちゃったし。
だるい。
私ははんこ屋を経営していた。
しかし、世間がはんこ撲滅を訴えはじめると、すべてが変わってしまった。
店の経営は傾き、愛想を尽かした妻は家を出て、愛人と暮らし始めた。
いまは亡き父の言葉を思い出す。
はんこが無くなったら、自分はほんとうに自分なのだと、他人に示すことができないんだよ。
思えば30年前、市役所で提出した婚姻届には、私と妻のはんこが押されていた。
父が作ってくれた特製のはんこである。
名前の横で赤く輝くはんこの文字は、私たちの未来を祝福するかに見えた。
いま私が手に持っている離婚届には、はんこが無い。
「問題ありません」
私は納得できなかった。
「でも、この離婚届にははんこが無いでしょう」
役人は困った顔をする。
「はんこの欄はとうの昔に廃止されましたよ。あなたもご存知でしょう」
「はんこが無いのに、この離婚届を提出したのが私本人だと、どうやって分かるというのです」
「いま身分証を見せてくださったじゃないですか。それで十分です」
「いや、いまここで見せたって、あなたが見ただけだ。本人だったのか、あとから確認できないでしょう」
「じゃあ、はんこがあれば十分だというのですか。あなたの名前のはんこなんて、どこでも買えるものなのに」
私の声が荒くなる。
「違う。大量生産のはんこだって、必ず微妙な個体差がある。だからこそ、本人だと証明できるのだ」
役人はもはや呆れ顔だ。
「そうかな。そのはんこさえ手に入れば、だれだって押せてしまうでしょう。もちろん、身分証だって手に入れば他人だろうと使える。
いまこの役所では、身分証さえあれば、それであなた本人だとみなすことに決まっているんです。それで十分でしょう」
「この男に見覚えはありますか」
「なぜですか」
私は反論する。
「はんこぐらいで犯人にされちゃ困りますよ。真犯人が私の名前のはんこを買って、置いていったのかもしれないでしょう」
「いや、はんこには必ず微妙な個体差があるんだ。これは紛れもなくあんたのはんこだよ」
警察官の言うとおり、テーブルの上に置かれたはんこは、間違いなく私のはんこだった。
それも、妻との婚姻届に使った、あのはんこだった。
そのはんこには、あの愛人のものだろう、赤黒い血がべったりとついている。
妻が犯人で、私を陥れるためにはんこを置いていったのだろうか。
なぜそんなことをしたのか?
私はあの間男を憎らしいと思っていた。
それに、市役所に行くまでのあいだ、私の意識はぼんやりとしていた。
無意識のうちに間男の家に行き、あいつを殺してしまったのではないか?
もちろん私にはなんの覚えもないが、はんこは私の存在を証言している。
薄暗い取調室のなかで、はんこの存在ははっきりと私の実在を証明していた。
はんこの欠けた離婚届よりはるかに、その証明には説得力があった。
私がいま刑務所にいるということを通じて、はんこは自らのもつ決定的な力を誇示していると思えた。
その力に思いを馳せるとき、私自身の存在もまたたしかだと思える気がした。
はんこ屋は倒産した。
妻はすぐ別の男と再婚したらしい。
いい年こいて楽器を習い始めた。仮にギターとする。ギターじゃないけど。
近場でマンツーマンレッスンを受けられるところという条件で探し、
プロミュージシャンが個人レッスンを受け付けていたのでそれに申し込む。
60分が月二回、月額10,000円。高い・安いとかは今回の問題ではない。教えるのが上手い・下手の問題でもない。
始めて半年経って思う、
レッスンでとりあえず曲を演奏するのだが、弾けなかったところってなんで弾けなかったの?と考えると
『反復練習が足りない』!!
これに尽きる。頭と手が覚えれば弾けるところなんだ。
じゃあ、レッスン開始10分で弾けないところにぶつかりました。どうしますか?となったとき、
10分ぐらいその部分を繰り返し練習して、ぼんやり形になったところで次のフレーズへ。
次のフレーズで弾けないところにぶつかったら、それなりに練習してまた次のフレーズへ。
それでレッスンが終わる。
そして次回のレッスンでは9割忘れてる。
自分でもレッスンは練習の場ではなくて、自分の練習の成果を評価してもらう場・次の方向性を決めてもらう場だと思っているので、自分も不本意。
だから本当はレッスン回数減らしたくないけど、月1回のレッスンにするのがいいのかなぁ
あれ、なんで楽器習い始めたんだろ?
って状態ですね。