はてなキーワード: 責任問題とは
「給食を全部食べさせる」教育の弊害。俺は、小学生の時、自分が自殺すると給食のおばさんが喜ぶと信じていた。
先生は「給食を全部食べないと、給食を作ってくれたおばさんが悲しむ。全部食べれば給食のおばさんが喜ぶ。だから、給食は全部食べなさい」と教えていた。
自分は、食べるのが遅く、給食を牛乳で流し込んで食べていた。まずい。苦しい。しかし、どうやら給食のおばさんは喜ぶらしい。
つまり、給食のおばさんは、僕ら小学生が苦しめば喜ぶ人たちなのだ。人にとって一番苦しいのは死だ。
給食を牛乳で流し込む程度の苦しみで給食のおばさんは喜ぶのだから、自分が死ねば、ものすごく喜ぶに違いない。
加えて、自分の分の給食も作らなくてすんで、一石二鳥。だから、「自分が自殺すれば給食のおばさんは大喜び」と信じていた。
給食室で、給食のおばさんから給食を受け取る時、今日も生きててごめんなさい、と思いながら受け取っていた。
今は大人になって、同い年ぐらいの奴が普通に小学校の教師とかやってる。
「給食を全部食べさせることで苦しんでいる小学生がいる」みたいに批判すると、たぶん、「そんな小学生はいない」という反論が返ってくるのだろう。苦しんでいる小学生の存在を認めた瞬間、対策を講じないと責任問題になるからな。だから、そういう反論をあらかじめ潰しといてやる。俺は給食を全部食べさせる教育で苦しんだぞ。俺が実例だ。
・はてなの特定カテゴリから、いくらブクマが伸びても総合に現れない。
・はじめからNG
・途中からNG
・はじめからNG
おそらくこれは禁句が設定されているものと思われる。
それら禁句は、経験則上以下の通り。
権利関係が絡むもの。(商品、企業、サービスの固有名詞、おそらくは紛争回避と思われる。)
ここは自動処理が予想される。
・途中からNG
単語のNGはないけど、内容がアレな時と思われる。
いずれにせよ人的対応が予想される。
はてなのカテゴリ自体がタグや内容などをもとに自動的に割り振られていると考えられるので、各カテゴリにしか響かないキーワードもあれば、例えば総合など閲覧数が伸びる面において設定されているNGワードがあるように思える。
経験則上、ジェンダーに関わる内容によく見られる挙動に思えた。
あとこれは気のせいかもしれないが、それなりにブクマが集まってから突然ホッテントリするようなこともあった気がする。
もしそれが事実だとしたら、NGワードで一旦蹴られたにも関わらず、それなりにバズっている増田に関しては検閲候補になっているのかもしれない。
NGワード増田の中でブクマを集めている増田がソートされる→検閲→内容に問題がないと判断した場合、各カテゴリに振り分ける
増田はあくまでダイアリーなので投稿禁止機能はつくれないのではないか。
ただし、それが無条件にバズってはてな管理下の記事として広まってしまうには危険度が高いので、こうした処理をしているものと思われる。
おそらくこの辺りの責任問題をクリアにできない(しないほうがいい)点が、増田がいつまでもベータサービスな理由ではないかと勝手に考えている。
尚、ユーザー個人に対する監視についても可能性は否定できないが、慎重に言葉を選んだ増田は問題なくホッテントリすることが多いので、おそらくない。
もしかしたらNGワードに対するフィルタリングの強度くらいは設定されているかもしれない。
(過去問題のある増田を投稿したりした場合、NGワードが一つでもあれば無条件で検閲入りするなど。)
検閲の存在を意識してから、この辺りを気にして書いてみることで最近は問題なくホッテントリしてますし、先日は700ブクマくらいまで伸びたこともありました。
ご参考まで。
安保法案をめぐるここ一連の流れは、今まで日本という国と国民が先送りしてきた諸々の問題が噴出してきた感がある。それは安全保障だけでなく、日本の行政機構の構造の問題や、ともすると太平洋戦争に至る過程・戦中の流れ・戦後の総括についての話題も含まれるようだ。
先に、これを書いている私個人の意見を述べておくと、憲法違反の疑念の問題を除けば、安保法案に消極的賛成だ。「後ろ向き」賛成ともいう。
たぶん、この3点は、程度の差があれども(で、程度の差によって意見が分かれるところだろうけど)、普通の日本国民の誰もが感じていることではないだろうか。
安保法案に憲法違反の疑念がある問題は、安保法案が主題としている安全保障とは別のところで、大問題だといえる。
乱暴に言えば、「オレオレ憲法解釈」で物事を進めてしまうことは、「オレオレ『コーランの解釈』」で物事を進めているISISと似たようなものだ(「オレオレじゃない『コーランの解釈』」=イスラム法)。ISISを非難できなくなってしまう。
本来は、安保法案を進めたいのなら、憲法を改正すべきなのだ。だが憲法改正に関しては、また別の、根の深い問題がある(後述)。
憲法違反の件を無視するなら、安保法案で示している内容には、傾聴に値するものがある。
それは「俺は殴るつもりはなかったし、むしろなだめようとしたんだけど、興奮した相手が殴りかかってきて……」というケースにどう対応するか、という問題だ。
基本的に、戦争なんて損ばかりだ。人道的にも、財政的にも、経済的にも問題がありすぎる。戦争せずに済むなら、その方がよいのは当然だ。
太平洋戦争を経て日本が学んだことは、第一に「自分から殴りかからない」ということであり、第二に「とりあえず、まずは話し合いをこころみる」ということだ。この2つをまとめると「揉め事には『大人の対応』で臨め! ガキじゃあるまいし、すぐに殴ろうとしなさんな」となる。
(まあアメリカも、「ABCD包囲網での締め上げ」とか「蒋介石にカイロ宣言で『無条件降伏』を要求させちゃった」とか、火に油を注いだところが結構あるのだが)
とはいえ、揉め事は自分だけでなく相手もいるから生じるもので、相手が最初から殴る気で仕掛けてきたら……と考えると、少なくとも護身はできないとマズイ。
この辺のバランスが、(当時の国際政治の状況やら何やら事情があったとはいえども)自衛隊の誕生の一端にある、といえる。
問題は、東アジアの各国が経済成長にともない軍事力も増していることと、経済成長により他国との摩擦が表出してきたことと、世界的な不況の影響で各国国民の不満がたまっていることと、その不満が経済成長による他国との摩擦で高まってきたナショナリズムの気運に流れ込んでいることと、そんなナショナリズムの高まりを各国政府が制御しきれるか否か、である。今の東アジアは、第一次世界大戦前夜のヨーロッパ並みにキナ臭い。
個人的には、政府の戦略として反日を主導している今の中国や韓国よりも、何らかの要因で政府の力が弱まって下からの突き上げを抑えきれなくなった場合の中国や韓国の方が怖い。戦前の日本にもそんな感じ(=下からの突き上げ)があっただけに。
しかも他国の軍事力が増加しているため、自衛隊との相対的な差が縮まることで、相手から「くみしやすい(殴っても問題ない)」と思われてしまう可能性もある。
日本の場合、四方が海で、防衛すべき範囲が広い。海上自衛隊か海上保安庁はともかく、今よりも備えを厚くする必要はあるだろう。現実問題として、離島地域では中国漁船の違法操業の問題があるし、竹島や尖閣諸島のような離島地域での領土問題も抱えている。
備えを厚くする場合、方向性として「自前で全てそろえる」と「仲間を呼ぶ」の2つが考えられる。安保法案は後者の「仲間を呼ぶ」の流れを汲んでいる。
実際のところ、日本の経済状況的に「海上保安庁や自衛隊を拡充して、日本全土を自前の軍隊で守る」というのは厳しい。先に書いたように、四方が海であるために、防衛すべき範囲が広い(というか広すぎる)。また、例えば対中国で考えると、装備や錬度でカバーするのが難しいぐらいに「数」の差がある。
ここで従来のようにアメリカと組むとして、アメリカ軍が度々行われてきた軍縮で縮小していることに留意する必要がある。この影響は、少なからずアメリカ軍の軍事力を頼りに軍縮していた同盟国に影響を与えている。日本も例外ではない。
あと安保法案の話で「自衛隊がアメリカの都合で起きた戦争に駆り出されたら――」的な批判がなされるが、同様の批判はアメリカ国内にもあるだろう。すなわち「他国の都合の戦争に、自国(アメリカ)の若者を送り出すって、どうなのよ?」ということだ。アメリカ軍を引っ張り出したいなら、アメリカ国内が納得する「(アメリカにとっての)大義やメリット」が必要だ。選挙のこともあるだろうし。
安保法案は、いわば「規模を縮小したので一度にカバーできる範囲が狭くなったアメリカ軍の協力をとりつけやすくする(アメリカから見た優先度を上げさせる)」ためのものだ。こうしておくことで、「ワイの後ろには○○の代紋があるんやで」効果で相手を怯ませることも狙えるだろう。
繰り返すが、戦争せずに済むなら、その方がよい。その一方で、万が一への備えそのものは必要だ。
(再三ならが、憲法違反の件を無視するとして)安全保障の点で、安保法案が示す内容は、良し悪しは別として、ある意味で現実路線と言える。
いえるのだが、しかし、実際に日本国民として安保法案に直面して感じるのは、「これ、悪用されずに適切に運用されるのだろうか?」という心配である。
私はとりたてて再軍備主義者ではないが、日本が再軍備化すると仮定した場合、重要になる点を1つだけ知っている。
一言で表すなら、それは「空手の有段者になれ!」ということだ。空手の有段者は強いが、強いからといってむやみに周囲に殴るかかることはない。むしろ、普通の人よりも強い自制が求められる。
仮に日本が再軍備化するとして、再軍備化したからといってすぐにやたらと殴りまわったら、それはガキの態度だ。大人ではない。軍隊を持つ平和路線の他の国家と同様に「(鍛えてますけど、むやみに殴りかかりませんよ。だって)大人ですから……」という方向が望ましい。
民主主義国家において、このような態度をとるには、第一に軍隊自体の暴走を防ぐためのシビリアン・コントロールが必要であり、第二に軍隊を統帥する政府の暴走を防ぐための「国民による政府の監視と、選挙による適切なコントロール」が必要であり、第三に「国民自身の自制」が必要となる。
日本の再軍備化を進めるなら、国民はまず自省して、過激な排外主義を排除しなくてはならない。排外主義は他国や他民族とのいらぬ摩擦を生み出し、火種となってしまう。これは大人の態度ではない。排外主義は排除されるべきだろう。軽挙妄動は許されない。高い倫理観を持つべきだ。
また国民は、日常的に政府の動きを監視し、選挙直前の動きや宣伝に紛らわされることなく、観察した記録にもとづいて投票を行い、政府の暴走の要因となりうる人物を当選させないように努めなくてはならない。
残念ながら、今の日本では、まず選挙による政府のコントロールが効いていない。例えば安倍政権の安保法案の一件は、2014年の選挙の時点で囁かれていた話だ。だが、結果はどうだろうか? 選挙の時、我々は直近の出来事にとらわれて投票していなかっただろうか?
次に、日本では政府の暴走の歯止めとなる公的機関が存在しない。例えば憲法裁判所がないため、憲法違反の疑念がある法律であっても、一度可決・公布されてしまえば、何か具体的な事件が起きて誰かが提訴しない限り、違憲性の審査は行われない。
最後に、行政・立法・司法の三権のどの分野でも構造的問題が指摘されているにもかかわらず、何の変化もないため、三権に対する不信がある。
例えば、仮に日本に憲法裁判所があったとして、安保法案に違憲の判断を下すことができるだろうか? 日本の裁判官の大半は実質的に最高裁判所の裁判官に任用されている。最高裁判所の裁判官は内閣によって任命されている。そして最高裁長官の任命過程においては、内閣の意向が少なからず反映されている。このような流れの中に憲法裁判所があるのならば、暗黙のうちに内閣の意向に影響された判決がでても不思議ではない(ことに、内閣の意向を受けた最高裁判所の裁判官の胸三寸で出世も更迭も決まってしまう一般の裁判官の身ともなれば……そして、内閣の意向によって出世の頂点(最高裁の裁判官)に立てるか否かが決まる最高裁判官の候補や、下手すると引き摺り下ろされかねない最高裁判官ともなれば……)。
行政・立法に関しては、外部から見て、どうにも組織に自浄作用があるように思えない。例えば何か問題が起きた場合、大抵はトップの更迭で済んでしまう。何が問題であったか分析し、具体的で効果のある改善案を提示し、改善を行い、その結果を問題分析や改善案を含めて広く公開する……というPDCAサイクル的なものが、組織外部の国民の目にはみえない。
そもそも我々日本人は、失敗を恐れすぎる。もとより人間は失敗する動物だ。何も考えずに突っ走って失敗するべくして失敗するのは、さすがにどうかと思うが……しかしある程度成功確率を高めたなら、その時点でチャレンジしてみて、失敗したならしたで反省会を行い、次に生かすべきなのだ。
だが実際には、なぜか最初から失敗を許さない雰囲気が強いし、失敗するとすぐに責任問題を言い出す(本来は、反省会で色々と分析した上での「責任問題」のはずだが……)。人格攻撃になることもしばしばある。そして早すぎる責任問題に決着がつくことで、本来開かれるべき反省会はなされず、有耶無耶に終わってしまう。
悪いことに、日本社会は失敗に厳しすぎる。一度更迭されたら、ずっとそのままだ。このような環境では、皆失敗を恐れるし、失敗したら隠そうとする。なぜなら、失敗したら、そして失敗したことが発覚すれば、この先一生どん底だからだ。
行政や立法の構造の問題は、この日本社会の「失敗への厳しさ」が悪い方向に作用しているために生じている気がしてならない。誰だって自分の身はかわいいものだ。少なくとも私はそうだ。あんただって、そうだろ?
ともかく、日本国民には少なからず三権への不信があるうえに、政府をうまくコントロールすることもできていない。この状態では、どのような法律であっても、適切に運用されるか否かの疑念が生じる。
特に、安保法案をめぐる安倍政権や自民党の動きはマズかった。政権による強引な進め方や、一部議員による乱暴な発言は、国民にとって「国民が政府・議会をコントロールできていない」という印象を与え、不信を高める結果となった。またオレオレ憲法解釈を持ち出してきたことで、安保法案そのものについて「将来、オレオレ『安保法案の解釈』を持ち出して、滅茶苦茶なことをやらかす政権がでるのではないか?」という疑念を与えてしまった。
「安保法案=戦争法案」と揶揄される背景には、その内容の難解さだけでなく、「誤った運用がなされるだけでなく、将来、拡大解釈して無茶なことをやらかすようにならないか? そして誰にも止められないのではないか?」という三権への不信が見え隠れしている。
蛇足だが、安保法案を通すには、本来は憲法改正が必要だ。だが日本国民には憲法改正へのアレルギーがある。なぜか? 「あいつら絶対に余分な変更(=改悪)も入れてくるから」という政府・議会への不信があるからだ。自民党の憲法改正案は酷かったし、派遣法の改正もアレだった。こんな実例が山ほどあるのだから、不信が高まって憲法改正アレルギーになるのも無理はない。
日本国憲法に関しては、そもそも押し付け憲法論がある。個人的には、押し付けだろうとなんだろうと、ネズミを捕るのが良い猫だと思うのだが……。
仮に押し付け憲法だったとして、ではなぜ世界でも稀な憲法九条が存在するのか、という点を考えてみることは重要だ。世界的には、平和路線の国家でも(規模の大小はあれども)軍隊を持っているものだ。
要するに、大日本帝国は、当時のアメリカに「キ○ガイ」だと思われたのだ。あいつらに刃物を持たせたらあかん、何やらかすか分かったもんじゃねえ――ということだ。
例えば、現在生きている日本人たる我々がニュースで目にする自爆テロを理解しがたいように、当時のアメリカ人は特攻という行為を行う日本人を理解しがたかったのではないか? また国体維持のためだけに南方戦線で損耗率7~8割という無茶(現代戦では損耗率3割で全滅判定)をやらかしたメンタリティーも理解できなかったのではないか?
理解できないことが、恐怖をあおる。戦略的には、特攻も南方戦線での戦いも、大日本帝国の政府にとっては裏目に出てしまった。日本は軍隊を持つ資格はない、とんだキ○ガイだと認定されてしまったのだ。
しかしこれは、裏を返せば「まともな国になったなら、まあ、軍隊を持ってもええんじゃね?」ということにもなる。まともな大人は刃物を振り回しません、ということだ。
さて、「安保法案=戦争法案」と揶揄される背景をもう少し考えてみると、興味深いことに気づく。それは、日本国は未だに「キ○ガイ」ではないか、という疑念だ。これは中国や韓国の主張(実際に彼らの言っていることから類推すると、そういうことになる)のことではなくて、日本国民から日本国政府ならび議会への疑念のことだ。
というのも、「安保法案=戦争法案」という構図には、どこか「また『特攻』や『ニューギニア戦線での地獄』が繰り返されるのでは」という不安があるからだ。
これは、太平洋戦争について国民と国家をひっくるめた反省会(失敗の原因の分析、具体的な改善案の提示、改善案の適用)が行われなかった弊害だろう。
そもそも太平洋戦争は大失敗だった(戦争に懲りたということは、つまり、失敗だったということだ)。大失敗だったからこそ、三権と国民を巻き込んでの大反省会が必要不可欠で――もしかしたらどこかで行われていたのかもしれないが、残念ながら私は寡聞にして知らない。
国民と国家自らによる反省会(総括)が行われて、落とし前がついていたなら、ここまで疑念は膨れ上がらなかったはずだ。でも反省会無し・対策も無しなら、「またやっちゃうかも」という心配は残ったままとなる。
戦後に反省会が行われず、そのまま70年が経過した。その間、残念ながら三権への国民の不信が高まった。そしてここ20年ほどの政府・議会の混乱や暴走ともとれかねない動きは、国民に「政府と議会=我々がコントロールできない代物」という印象を強く与えてしまった(仮にも民主主義国家だというのに……)。
再度繰り返すが、戦争せずに済むなら、その方がよい。その一方で、万が一への備えそのものは必要だ。
必要だが、しかしまた「キ○ガイ」のごとく暴走してしまわないか? やむをえない自衛のための戦争ならともかく、暴走して要らぬ戦争を起こしてしまわないだろうか? 三権への根深い不信と、国民が政府と議会をコントロールできていないのではないかという疑念ゆえに、日本国民は、日本という国が「キ○ガイ」のままではないかという恐怖を感じているのだ。
私は憲法違反の疑念より安保法案に否定的であり、安全保障の面では安保法案に Permalink | 記事への反応(1) | 18:20
長文のコメントありがとうございます。
こちらは「主張と違う論点で反論する」と「業界自体が間違っていると言い出す」の合わせたパターンですね。
確かにこういうパターンも多くありました。
「もともと」とか「そもそも」とかが出てくると「主張と違う論点で反論する」の典型みたいですね。
元記事(http://bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/)ではブログ主さんがこういったコメントに対しても丁寧に返信されていました。
しかし、私にはまだ難しいですね。
もし書くとしたら
「このブログはコメントの質についての話題で、五輪ロゴ問題の責任問題は範囲外です。」
みたいな感じでしょうか。
やりたいことはたくさんあるし、死にたくなんかない。このまま死んでしまうなんて絶対に嫌だ。かといってテロ行為みたいな犯罪を犯して人生をムダにするのも面白くないので、どうして良いか困っている。
ただ、自分の望んでいるような状態が実現する可能性が事実上零であるという事実に絶望感を感じる。活きていても何も良い事が起こらない。自分は絶望的に不幸だと感じる。
こういう場合、無責任な他人は「世の中を変えることは出来ないが自分を変えることは出来る。あなた自身が変われば幸せになることが出来る」と偉そうに言う。臨床心理士のカウンセリングを受けたこともあるが、同じ様なことを言われ、結局自分の気持ちは何も判って貰えなかった。(うっかり私の言い分を肯定して犯罪行為を起こされたら責任問題になるから肯定したくなかったのだろう。)
この「自分を変えなくてはいけない」という事こそが自分にとって最大の苦痛だと誰も判ってくれない。「このままの自分が幸せになれない」ことがどうしても受け入れられない。
たぶん「自爆テロ」あるいはそれに類する狂気の行動(人混みに車を突っ込ませるとか、薬物を使用して凶器を持って街中で人を殺傷する)ような人間は、自分と同じ様な気持ちになっていて、自分より少しだけ行動力があるのだろう。(世間的に)幸いなことに自分にはそれだけの勇気がないから、こうして増田でグダグダ吐き出すことでなんとか心の平穏を保っている。
繰り返すが、これは決して犯行予告ではない。そのような大それた事をする実行力は自分にはない。ただ「あんたが変われば幸せになれる」以外の解決策をだれか教えて欲しい。
the_sun_also_rises 光市母子殺害事件はどらえもん弁護があまりに荒唐無稽だったから日本国中から総ツッコミをうけたのだと思うよ。それと南京事件問題とを同じとみなし汎化するのは早過ぎた一般化(http://goo.gl/HHDCnK)だね。論理的でない。
kurotokage id:the_sun_also_rises さん もうあの件について書きたくないので当時危機感を覚えて書いたエントリでも参考にどうぞ。http://d.hatena.ne.jp/kurotokage/20070624/1182692975
http://nogawam.blogspot.jp/2015/02/1.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/nogawam.blogspot.com/2015/02/1.html
上記URLより、id:the_sun_also_risesとid:kurotokage という2人のブコメのやり取りを見ていて思ったことを書きます。
殺人を犯した者がひどく精神的に未発達だったり、知的・精神的な障害をもっていた場合、「ドラえもんが生き返らせてくれる」と考えながら犯行に及んでいた可能性がある。
これはなにも光市母子殺人事件のことじゃなくて、たとえば今後「ドラえもんが生き返らせてくれる」という心理状態で殺人をおこなう者があらわれるかもしれない。もしそうなれば裁判でそのことが論じられ、そのとおりの全貌が明らかにされるべきだ。
もしかしてthe_sun_also_risesは、「被告が犯行にいたる動機、犯行時の精神状態は、裁判でいちいち明らかにする必要がない。そんなものにかまわず死刑にしろ」という意見なのだろうか? さすがにそれだと日本の司法を否定することになると思うのだが……。
「被告は死者が生き返ることを信じていた。それほど幼稚な精神状態でこの犯行に及んだ」
という可能性を否定しきれていなかったと思う。
弁護団が言っているように被告は精神の発達がかなり遅れていたのかもしれず、もし本当にそうだとすれば、「ドラえもんが死者を生き返らせてくれる」と心のどこかで信じたまま犯行に及んだのだとしても不思議ではない。
私には真実がどうだか分からなかった。というよりも、被告の人間像を何も知らなかったのだ。生い立ちや人柄・性格についての報道は無かった。マスコミでいつも報道されているのは事件の残酷さとか、少年法や死刑制度の是非とか、あとは被害者遺族の苦しい感情ばかりだった。そのため私にはあの弁護団の主張を肯定も否定もできなかったわけだが、この事件に深入りしていって詳細を調べる気がおきなかった。
ところが世間の反応は違っていた。the_sun_also_risesが言っている総ツッコミ、もとい総攻撃が始まった。
それはあまりに最悪で野蛮なものだったが、世間の人々がどんな感想を持とうが勿論自由だ。「被告が言っていることはウソくさい」「あの弁護団の主張はさすがに信じがたい」という評価が出てくるのも仕方がないと思う。
ただし当然のことだが、「ウソくさい」「信じがたい」というのは、「その可能性を無視してよい」という意味ではない。かなり疑わしくて嘘っぽく聞こえるからといって、完全には否定しきれない主張というものが存在する。裁判ではその点がしっかりと検証されなければならない。
当然とも言うべきこの原則が、世論の圧力によって捻じ曲げられそうになっていることを私は大変危惧していた。
すでに判決が下っている現在ならば、「あの弁護団の主張は間違いだった」と断言を述べても差し支えないだろう。しかし判決がでる前にそう決めつける人たちが目立っていた。そのほとんどは弁護側の主張を熟慮どころか一瞥もしておらず、ろくな内容を伴わないまま凄まじいバッシングになっていた。そのせいで裁判が捻じ曲げられそうなのが私には恐ろしかった。
もっと酷いものだと、「弁護団が悪意をもってウソをついた」とか「被告にむりやり嘘を言わせている」という誹謗中傷があった。それ以外にも「被害者を侮辱するために"ドラえもん"を持ち出した」とか「裁判を死刑廃止のアピールに利用している」とか、そういうことが盛んに言われていたと思う。
しかし、それには確かな証拠があったのか?私はそれらが単なるデマや憶測で、司法に対する無理解・不勉強のために騒がれていたものだったと記憶している。
このとき橋下徹(※当時は政治家じゃなくてタレント弁護士だった)が「懲戒請求を出せばよい」とテレビ番組で視聴者を煽ったことがあった。そして実際にたくさんの懲戒請求が提出されたらしいが、それにもかかわらず懲戒された弁護士は一人もいなかった。
the_sun_also_risesはこういう誹謗中傷があった現実にたいし、あまりに無頓着だと思う。あなたが死刑判決を支持するかどうかは問題ではない。まさか誹謗中傷の横行を"総ツッコミ"と呼んで正当化するつもりか。そして「"ドラえもん"弁護をおこなった弁護士たちを懲戒するべきだった。それができなかった日本の弁護士会は腐ってしまっている」とでも主張するのか。
最後に一つ言っておくと、懲戒請求をやれと煽った橋下徹でさえ、
「あの弁護団はフザけている。裁判中に『ドラえもんが生き返らせてくれる』と主張するのは被害者への侮辱だ」
なんていう非難はしていなかった。
最初のころはどうだったのか知らないけれども、懲戒請求を煽動したことが訴訟沙汰になって以来、橋下のスタンスは慎重で回りくどいものになった。
http://hashimotol.exblog.jp/6545710/
弁護団が記者会見を開いて説明していたような犯行態様の事実の詳細を公表することは、
被害者遺族をかえって傷つけることになるし、世間もそんな情報は求めていなかったのであり、
公表をしてはいけなかったのです。です。
犯人の手が順手か逆手か、そんなことを必死に説明しても、世間が求める情報ではありませんから、
当然メディアでも取り上げられません。
世間が求めていた情報は、疑念は、差戻し審で主張の変更をあそこまでするのであれば、
1審、2審は何をやっていたのか?ただ一点それに尽きます。
被害者遺族も、そこに一番悔しさや虚しさを感じ、
世間も刑事裁判は何をやっているんだ?との大きな疑念を抱いたのです。
そうであれば、1審、2審の弁護活動の不十分さを徹底的に公表し、
そして僕も含めてでありますが、弁護士全体の責任問題ととらえ、
ただし、刑事裁判制度を維持するために、主張の変更をさせてもらいますと、
一番迷惑をかけることになる被害者遺族に対して頭を下げて、謙虚に世間に訴えればよかったのだと思います。
(中略)
散々失敗してきて大批判を受けててきた僕が、もし光市母子殺害事件の弁護を引き受けるようなことがあれば、
最高裁の期日を欠席するのであれば、まずは被害者遺族へ直接出向いてお詫びをし、
欠席する理由の説明を徹底したでしょうし、主張の変更を行うのであれば、
1審、2審の弁護活動がいかに不十分だったかを被害者遺族や世間に説明します。
そして1審、2審の弁護人に責任追及を徹底して行い、何も動かない日弁連に徹底的に悪態をつきます。
そして差戻し審集中審理後の記者会見を開くにしてもあのような記者会見にはしなかった。
それも絶対にやってはいけないこと。当事者同士の私的な争いの民事裁判とは全く異なるのです。被害者遺族が存在するのです。
被告人の利益のためだけ、そして自分たちの主張の正当性を示すことしか考えていなかったのではないでしょうか?
今枝弁護士が事件の詳細、弁護団の主張を公開したことで、世間は何を理解するのですか?
何を納得するのですか?
今枝弁護士の事件の公開は、自分たちの主張の正当性を示すための公開で、
被害者遺族のそして世間の疑念を晴らすための公開ではありません。
被害者遺族や世間の疑念は何かを真摯に考えれば、事件の詳細の公開など不要です。
1審、2審の弁護人が何をやっていたのか、なぜそのときに、差戻し審のような主張が出てこなかったのか、
差戻し審の弁護団と被告人はどのようなやり取りの中で、今回のような主張が形成されてきたのか、
もちろん、世間の多くは、現弁護団の主張が荒唐無稽だと怒っているのでしょう。
しかし、なぜそのような荒唐無稽な主張が今になって出てきたのかをきちんと説明し、
1審、2審の弁護士も含め、弁護士全体の責任問題だという認識で、被害者にご迷惑をおかけすることをお詫びし、
しかし、被告人の供述が法廷に出ていない以上、刑事裁判制度を維持するために主張の変更をさせて頂くと
世間に頭を下げれば(自分たちの責任ではないにせよ、弁護士全体の職務懈怠だし、
刑事裁判制度を維持するのもそれが正義だ、俺様は偉いんだの姿勢ではなく、
刑事裁判制度を維持することが弁護士の職責であることを謙虚に思えば、頭を下げることなどどうってことないはず)すれば、
ここまでのバッシングにはならなかったでしょう。
ようするに橋下徹は、弁護団があのような主張を法廷内でおこなうことは容認しており、"ドラえもん"の件を含めてその弁護方針を非難するつもりはなかったらしい。
そのかわりに彼は弁護団が法廷外でおこなった行動を非難している。つまり「法廷内でやっていることに問題はないが、法廷外において被害者遺族や世間への説明・配慮が足りていない。記者会見のやり方もよくなかった」というスタンスであるようだ。
あと他には「1審、2審の弁護人が何をやっていたのか」とか「弁護士全体の責任問題」とか、彼の非難はこの弁護団とは関係ない方向にも向いている。
なるほど、これならこれで橋下の意見には一理ある。しかしその場合、橋下に煽られて懲戒請求を出した人たちは一体何だったのか。あのとき懲戒請求を出した人たちは、まさに橋下が容認している弁護方針(ドラえもんetc)に怒り心頭になって懲戒請求をやっていたのだ。
ここでこれ以上に橋下徹を論評することは控えるが、いずれにせよ光市母子殺害事件の弁護団が法廷内で行っていたことやその弁護方針は、あの橋下でさえも非難せずに(できずに)容認したものであったことは記憶しておきたい。
ニュース見てなくて、ニュースらしいニュースはツイのニュースbotとか深夜NHKくらいだからマスゴミ?の報道具合知らんかった
人質事件の背景は大雑把にしか把握してないけど一番の責任は殺した人にじゃないの?
政府が煽ったのが悪いとか危険地帯に行ったのが悪いんじゃなくて、そもそも人を殺す行為が一番悪いじゃん
子供ならすぐ分かるのに、なんでマスゴミは政府やら被害者に責任向けるんだろ?
勿論ガチガチに責任問題を考えたら全く責任が無い訳ではないんだろうけども、それでもあえて言うと
容疑者を捕まえて裁く力がないから政府や被害者に責任おっかぶせて責めたいのか?
テロリストが人殺して更にテロの標的と見定めさせたのはテロリストを刺激したw首相が悪いのか?
思想主張失って自身を潰そうとする敵へ残酷動画で恐怖を与えて片っ端から喧嘩売ってるだけなのに
テロの標的になって怖い!こんな風にした国が悪い!ってバカじゃないのか?
殺された身内がどうしたいか?自国民を殺された国としてどう動くか?を考えた時
前者は置いておいて、後者は強く主張しないと生き残れない国際社会においては然るべきアピールなんだと思う
金銭援助は本当に必要な人へ渡らないとか、貧困故に無学故にテロリストへとか社会は理不尽あるけど
単純な話、そもそも人間としての人理のボーダーラインを犯したのはテロリストだよね?
少なくとも国や被害者は直接的に彼らの人理を踏み越えて無いはず
28歳女。飲食店勤務。年の瀬だけど乳首が取れかかっている。佐村河内風に言えば、3年前から少しずつ取れかかっていた。28年間、舐められもせず、吸われもせず、一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べてきた私がなぜこんなことになったのだろうか。今流行の妖怪のせいだろうか。一大事~なのは確かである。そんな思いを抱えながら、これまで保湿クリームを塗ってニプレスを貼り、どうにかこうにか凌いできた。ニプレスを剥がすとき、私はいつも『三つ目がとおる』の写楽保介を思い出す。これは私の第三の目なのだ。そう思うことで少しだけ強くなれた。しかしニプレスを剥がして出てくるのは痛々しい乳首。『三つ目がとおる』というより『乳首が取れる』である。そんな私の乳首も今年に入りとうとう限界に近づいてきた。干しぶどうを通り越して今や落ちかけの線香花火、最後の一葉、あるいはクリフハンガーである。薄皮一枚でどうにかぶら下がる様は、このままリポビタンDのCMに使えそうな画である。ファイト一発!私はそうやっていつも乳首を励ましていた。
世間では女性の乳首はさくらんぼに例えられることもあるが、私のそれは実ではなくヘタ(茎・軸)のほう、より専門的に言えば果柄である。口の中で結べるとキスが上手いと言われるアレである。仮に私が大塚愛ばりに「私さくらんぼ!」と乳首を出そうものなら、男性にぎゃあと叫ばれた挙句、大塚愛と法廷で戦うことになるだろう。もし徳永英明が私の乳首を見たら『取れかけのChikubi』というバラードを歌い上げるだろう。スピッツなら『乳首がポロリ』、コブクロなら『取れそうで落ちそうな乳首が今年も春を待っている』、一青窈なら『薄紅色の可愛い君のね、乳首がちゃんと終わりますように』、いくつもの乳首J-POPが頭をかけ巡る。もういっそのことすべてを諦めて、ありのままに任せたらいいのではないかと思うこともある。しかしありのままやっていたら私の乳首は十中八九レリゴーしてしまうだろう。もちろんこれはMay J.の責任問題であり、法廷で戦うことになるのは必至だ。もちろん黒幕は松たか子である。
とにかく私の乳首は無事に年を越せるか分からない。仮に年を越せても再来年は分からない。遠からず乳首が離れるときがくる。子が親から巣立っていくように、いずれ別離のときがくる。だけどそのときは涙は見せず、笑って見送りたいと思う。ぽとりと落ちた乳首はきっと大地で芽吹き、いつか綺麗な花を咲かせるだろう。木になる果実はさくらんぼ。そのとき大塚愛とのさくらんぼ裁判が幕を開ける……。
結婚を考えている彼氏がいて、今後のことで話し合いになっているので相談がてら日記にします。
彼氏30歳(年齢にしては高給とりらしい)、私は24歳、教員志望の学生です。
来年から私は1年間、私立の非常勤講師になります。そのことには彼氏も賛成しています。
ですが彼氏としては結婚をする前に正規雇用で働いて欲しいみたいなんです。
私としては非常勤講師は確かに安月給ですが、自立できないわけではないのでいいじゃんと思うんですが…。
仕事をするうえでの責任問題も、教育活動のもとでは平等だと思っています。
来年は担任をもたないので楽ではありますが、特定の教科を教えるという意味での責任は同じ重さだと思っています。
また教員でフルタイムで働くとどうしてもブラック企業並に働かなければならないので、同じくブラック企業で働いている彼氏との生活が破綻しそうで嫌なんです。
それに結婚し出産すること、そして彼氏が望む「子どもができたら子どものために3年以上は育児に専念してほしい」ことを考えると、正規雇用を数年で辞めてしまうのは、学校に迷惑だと思って、気が進みません。(特に私立/公立のシステムが好きじゃないので私立のみ考えています)
彼氏は正規雇用で働くためなら子どもを作らなくてもいいと言い出しています。
彼氏の年齢や社畜的な働き方、お酒・タバコが好きなことを考えると、あまり彼氏の年齢が高くならないうちに子作りをするほうがいいと思うのですが、さきのことを考えて正規雇用を選ばないという選択がどうも嫌なようです。
お互いがお互いに納得できず平行線のままです。
それでも彼氏は結婚をしたいという意思は変わらないようで、指輪を見に行ったり、親のところへ挨拶にきたりという計画はあります。
一通り資料と話し合いで、どのぐらいの規模感か見積もりが必要になる。
あくまで概算見積もりで、○百万円、○カ月かかるってことになる。
話が進むと契約の話になる。
当然、プロジェクトを進めていく中で、
新しく作らないところや研究しないといけないところが増える。
納期には間に合わなくなる。
SE、プログラマーと連絡が取りずらくなる(電話するといつも怯えた感じになる)。
俺も上からオマエ一体どうなってるんだ的なことを言われ始める。
これって、契約の仕方間違ってるよな。
作るものわからないんだから、金や時間がどのぐらいかかるかなんか未知数じゃん。
会社の方針で納期と金額がない契約の状態ではスタートできないからそうしてる。
開発会社も死にそうになるしで絶対間違ってると思う。
全体で2か月ぐらいでできるような仕組みなら、これでも問題ないと思うんだよ。
納期遅れるっていったってどうせ1、2週間だし。自分の中で揉み消せる。
初めに金額と納期決めてスタートするっていうやり方おかしいよな。
世の中の皆さんはどうしてるんでしょう。
全然怖くもなんともない。
ミスや抜けが散見されるようですが、一体どういった管理をしているのでしょうか?
に対して、
ご連絡有難う御座います。
ミスや抜けている部分には赤を入れてご指摘ください。
みたいに返事すればOK。
仕様のまとめとか仕事でやらなきゃいけないことが多いんだけれど、
ちょくちょく間違って、っていうか打合せで曖昧だったところを曖昧のまま書いたり、自分なりに解釈して書いたりしたところを指摘されて怒られる。
自分は叩き台作って関係者に確認してもらって直しながら完成に近づけたいのに、そういうのすっ飛ばして完璧を求める客がいる。
この間なんか、100項目ぐらいあるまとめ資料作って見せたら、
ミスや抜けが散見されるようですが、一体どういった管理をしているのでしょうか?
このまま進めてしまうと責任問題に発展してしまいます。(というか、この資料はかなり無責任です)
しかもどこをどう間違ってるのか教えてくれない、というか今更聞けない感をむちゃくちゃ出してくる。
散々振り回されて何回も謝って何回もやり取りして「まあ、こんなもんで許してやろう」的な反応されたときは(何様だ!テメー!)って思う前に、許された解放感で泣きそうになった。対等なはずのビジネスがいつのまにか完全に主従の関係になってる。
あとで詳しく言うけどな、「お酌問題」って発想の順序が逆。
でもこれが、カワイイねーと左手で子供の頭を撫でるのだったらどうだ?
チームの仲間からホームパーティーに招待されないと不安になるアメリカ人は多い。
国が違えば、文化に差があることはわかるから理解できることでも、同じ日本人ってだけで気が付かないことは多い。
身内に不幸があった家が年賀状を出さないのは一般的でも、1年鳥居をくぐらないって地域も日本にはある。
海外って言葉が一般的に通用してしまうように、ついつい一国の中に多様な文化が存在することを忘れがちになる。
「文化」を定義すると本が一冊くらい書けるんだろうが、まあ「ある振る舞いの総体」ってとこだろうな。
で、「お酌問題」ってのも、文化的な衝突なんだよ。
しかも、年代と地域によって大きく異る文化だから、まさに異文化交流と言っていい。
んでな、これ話としては順序が逆なんだよ。
手酌が失礼にあたるとか言われても、若い人にゃピンとこないだろ。
オマエソレ楽しそうにLINEしてるけど、なんで合コン来たの?みたいな。(それでも古いイメージかも知れんが)
宴会においては、美味い酒を飲む・美味いメシを食うってのは二の次で、基本は「メシ食って仲良くなろうぜ」が目的なワケだ。
するってえと、当然のことながら、
という構図になるわけだ。
するとだ、先にお酌するのは当然部下で、場に女性が居ればその女性が酌して回る、
逆に言えばだ、「その場に居る一番若手からの酌を待てないのは、大人として常識はずれ」とされてたわけだ。
部長が手酌で飲んでるってのは、ご機嫌ナナメで宴会を楽しんでねぇって幹事の責任問題になってたんだよ。
まあ、山の手言葉が標準語ってことになったのと同じで、東京は一部の企業での狭い内輪の文化でしか無いこういった話が、
マスメディアの発達とともに、適度に変容して地方にも伝わったり色々して、今に至るわけだ。
まあ「お酌」にまつわる昭和な文化ってのは、平等がどうの性差がどうのってこっちゃない。
共通認識が共通認識をつくり上げるというか、常識が拡大再生産されるというか、まあそういうモンだ。
当時のソレが良かったとは思わん。非効率だし、性差別だし、滅私奉公なんざ封建社会もいいとこだ。
そう思う人達が多かったから、今はそういうの減ってきてるんだろう。
喜ぶべきことだと思う。
ただ、だ。
コンプライアンスだ男女同権だ平等だ、封建社会じゃなく先進国だと言ったところで、
じゃあ、未開の住人の迷信は、笑い飛ばしてナイガシロにするのが、「文明人」のヤルことなのか?って問題は残る。
そりゃ、「あけましておめでとうございます」って言ったところで、死んだ旦那は帰ってこねぇ。
でも、旦那が死んだの知ってりゃ、正月だって「こんにちは」って挨拶するモンだ。
正解は無い。
ただ、少なくともお酌は強要するもんじゃねぇし、今となっちゃマナーでもしなきゃならんことでも無い。
マナーとかプロトコルってのは、メンドクセエから決めとく「考えなくて良いように共通化しといた作法」なワケだ。
いまは、昭和にマナーとされて決まってたことが、良く考えたら良くねぇな、と解体されてる。
だから、郷に入っては郷に従えとは言わん。
ヤなことは嫌でいいと思うし、判らんことは判らんと言って良い。
年長者が年少者に対して思いやれないのであれば、そりゃ単なるオシツケだ。
宴会断って評価が下がるだの昇進できねえだのってのも減っては来てるだろ。
でも、自分が理解できん文化を軽視するのは、異なる文化を持つ人に対峙する態度として正しいだろうか?
(相手が正しくない態度だからといって、自分までそうするこたないと、俺は思う)
まあ、部署で宴会するから断りきれなくて、と参加しちまった時は、ホンの少しだけで良いんだ。
思い出して欲しい。
目の前に居るのは、自分とは違う赤の他人で、全く違う時代を生きてきて、全く違う文化を持ってる人間だってことを。
たぶんガキの頃の遊び方も、家庭の考え方も、ハレの日の食い物も、何が良しとされるかも違ってきた。
同じ日本人に見えるかもしれないが、そこに居るのは大抵の場合、異文化人だ。
文明人未踏の未開の地で、(嫌々ながらかも知れんが)部族の一員になって、その部族の祝宴に招待された。
そうしたときにどう振る舞うのが良いのかは、各々の信念に基づくだろうが、ちっと思いやってもバチは当たらねぇよ。