はてなキーワード: 自然現象とは
呼んだ?呼ばれた気がしてここに降臨
路側帯に車を停めて、ウンコをすることか?それは緊急事態なので許そう。しかしビニール袋に入れて持ち帰るのがマナーだ。
山歩きでウンコがしたくなったとき。当然近くにトイレな無いな。これも仕方がないので許そう。野・糞と書くだけに野の中でウンコの仕方
登山中のウンコは自然現象。英語でウンコがしたくなったことを「自然が呼んでいる」という
登山用語で「雉撃ち(きじうち)」か「お花摘み」と言われるくらい。ちなみに「お花摘み」は女性の方ね。メルヘンだね。これならアイドルでも許せるね
さて、ウンコをする前に穴を掘れ。なぜかというと、しゃがむと肛門*と地面のクリアランスは拳1個程度だ
そこでウンコをすると、ウンコが地面に当たる。そのときの感触はまるでバックから掘られたウホォって感じになる。ああ、肛門*に異物が入って来る新しい感触
新しい感触に浸るのもいいが、単純にウンコが地面につかえているだけだ
そして用が済んだら穴を埋めるのだ。その時、紙は燃やすこと。紙はトイレには流せるが自然の中では溶けて無くならない。これがマナーだ
しかし標高が2500メートルを超えると、穴を掘ってウンコを埋めても自然分解されない。土壌が痩せているのだ。さらに生態系を破壊しかねない
高山に登るときは携帯トイレを持って行く、これはマナー以前に山の掟、義務だ
さて、路上でウンコをすることになったら、拭いた紙はウンコの上に置いて良し。そこにウンコがあるな、踏んではいけないな、という目印になる
僕はルールを守れない人よりもルールを守れない人を見てイライラして暴言を吐く人の方が嫌です。
どんなに頑張って注意喚起してもルールを守れない人、ルールを理解できない人はどうしても出てきてしまうんだから
電車のドアは3列で降車し、その後に3列で乗車すればとてもスムーズだし、曲がり角で人が正面衝突しないように右側通行もしくは左側通行の表示は守られるべきなんだけどどちらも邪魔をする人たちがいる。彼らのせいで電車の乗降時間は何倍にも膨らみ、通路の曲がり角は気を張らないといけない危険地帯となる。
同じような環境に育ち、同じような教育を受けた日本人であるからには共有できる部分も大きいと期待するからこそ、彼らには得も言われぬ怒りを覚える。正義を執行したくなる (元増田のブコメより拝借)
しかし逆に言うと電車などはそういう不確定要素があってもなお機能するように設計されているともいえる。
電車のドアは3人が並列で通過できる幅なのではなく、両サイドの狛犬くんがいることや、降りる人が終わらないうちから乗り込もうとするあさましい人々が塞いでもなお真ん中に一人が通れる幅の設定なのかもしれない。
これは側溝のフタと同じだ。落ち葉やごみで網の一部が塞がれてもなお十分な排水量を確保する。水路には砂やヘドロがたまるがそれを見越して設計する。
もしくは虫だ。「なんでよりによってこっちに向かってくるんだよ!?」「口に虫が飛び込んだ!気持ち悪いなあ。やつらも死にたくないはずなんだから口になんかはいるなよな~」など、虫の行動は人間の理解を超えている。
我々は勘違いしているのかもしれない。
おそらく、インターネットを使い、能動的に文字を読み書きして、マナーなんぞに目を向けるとかそのレベルのことができるだけですら、全体の中ではそこそこ高い位置にいるのかもしれないのだと最近は思う。(決して選民的な「オレスゲー」ではなく)この多様な世界は横方向と同様に、下方向にも限りなく広い(深い)のだ。
彼らは我々には想像ができないぐらい異質な世界に暮らしている可能性がある。
それこそ側溝のフタに詰まる砂や葉っぱだったり、意図もなく人の口に飛び込み自殺をする虫たちのような世界に。
かれらのことは自然現象だと思ってあきらめるのが一番だと思うんだ。
http://www.welluneednt.com/entry/2015/03/21/073300
1)これは自然現象なのであって(嵐とか竜巻とか噴火とか)あきらめるしかないと思う。
2)とにかく平謝りに謝ってその場を切り抜ける。
それ以外に道はありません。がんばって耐えてくださいね。
怒りに理屈は通じないというのはその通りだと思う。
女性に限らず、駅員にキレている中年などの怒りも、嵐とか竜巻とか噴火の類だと思う。
男性が恋人の女性の前で自然現象的にやるのって、嘲笑じゃないかな。
恋人の前で「アレな男」や「アレな女」についての嘲笑をよくやる男性って多くない?
(複合遺産:文化と自然の両方について、顕著な普遍的価値を兼ね備えるもの。)
(1) ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの。
(2) 地球の歴史上の主要な段階を示す顕著な見本であるもの。これには生物の記録、地形の発達における重要な地学的進行過程、重要な地形的特性、自然地理的特性などが含まれる。
分からん。
(3) 陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの。
進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスだ!!なんせうんこが出るんだからな!!アナルは日々進化している!!
(4) 生物多様性の本来的保全にとって、もっとも重要かつ意義深い自然生息地を含んでいるもの。これには科学上または保全上の観点から、すぐれて普遍的価値を持つ絶滅の恐れのある種の生息地などが含まれる。
アナルは芸術だーー!!逆さに盛り上がったアナルは人類の創造的才能を表現している!!
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
建築物とかではないな。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
知らん。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
関係なさそうだ。
(5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。
これも関係ない。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
顕著で普遍的なアナル思想、アナル信仰だ!!さらにAVという芸術作品と直接関連している!!
http://anond.hatelabo.jp/20140501000451
ありがとう。思案のきっかけが示されて、気分が少しすっきりしました。
感謝されるべき相手が違うんじゃないの?ってムカつくことがある。
自分なら、料理が食卓に並ぶまでに関わった全てに感謝して「いただきます」したい。
「関わる全て」を、人だけじゃなく他の生命や自然現象や多くの偶然まで含めて
便宜上「神」と呼ぶのだっていう考えなら、便利だねと理解できる。
ムカつくのは手柄の横取りみたいな話。
都合のいい偶然を狙っているだけじゃなくて、
みんながお膳立てした手柄をかっさらっていくような
固くて開かない瓶のふたを
みんなが交互に顔を真っ赤にしながら開けようとしてるうちに
ちょっとずつふたが緩んできて、さあいよいよ開くぞというところで
ひょっこり現れたヤツが開けてドヤ顔、みたいな
そういうふてぶてしさにムカついてしまう。
病院に行って病気の症状が良くなったなら、まず治療してくれた人に感謝しない?
誰かが手を差し伸べてくれたなら、その人こそまず讃えられるべきじゃない?
そこをすっ飛ばしていきなり「神」に感謝するような思考回路に苛立ってしまう。
あなたが信じている「神」は真っ先に感謝されないと拗ねるのかと。
いつでも有り難がられていないと次からもう手を貸してくれないのかと。
そんなに器量が狭い訳ないじゃんと思うんだけども。
感謝の気持ちを持つことで心穏やかになるなら、それはいいんだけど
そうやって物事をゆがめてしまったら、
できるはずのものができなくなって、助かるはずのものが助からなくって
結果またどこかで行き詰まって困る人が出るじゃんか
で困ったときには結局、奇跡が起こるのを期待するばっかりになるじゃんか
そういうのがまかり通る社会は嫌だと、私はいちいち腹を立てていたのでした
おわり。
曰く「誕生しました!~グラムです!みなさんのおかげですありがとう!」
・虹の写真
曰く「虹発見♡」
曰く「いってきますー!」
・ネコ
曰く「かわいい♡」
曰く「やっぱすげー」
・恐らく飲酒後
「今、このチームで仕事できてる自分って、ほんと幸せだと思う。みんなでもっとこの世界変えていきたい。小さな力でも伝えられる事ってあるんだって、マジで感じた」系w
・「さてとっ」っていうだけの謎の身内つぶやきw
・無題でビールジョッキ、ワイングラス、カクテルグラス、ぐいのみ、などなどw
その他
・花
・夕焼け
・「みんな気づいてない実は福島第一は今こうなっているw」系
・署名呼びかけ
・なるべく自慢しすぎないようにがんばって言葉選んで投稿した子供達の写真w
・雪だるまw
ほかにもいろいろあるなー
日本人はどんなツールでなにやってもほんとやる事と内容おんなじw
またわれわれのもとから同志が去っていった。
そして新たな仲間がやって来るだろう。
山の向こうにかさを増しつつある積雲とともに。
だがかれも間もなく去るだろう。
もうすぐ冬がくる。
悲しい記憶をえぐるあのつめたい風が。
まずわれわれの同志は認識すべきだったのだ。
冒険者ガイドブックには書かれていないが、ここがおしゃれな女子の見栄が光を放つ都会でも、スポーツ万能イケメンの性欲のたぎるにぎやかな浜辺でも、ネット動画で盛りあがれるような若者でひしめいたゲームセンターでもないということを。
はてなとはムラ的である。そしてムラとははてな的である。同時に、はてなは非都会的であり、都会とは非はてな的なのだ。
ムラにおいてムラビトの関心事はつねに共有されているし、共有されるべきなのだが、それはムラが外部から侵入してくる敵に対抗するためには仕方のないことなのだ。
ムラの一体感こそが強大で理不尽ともいえる文明社会の力に立ち向かうための、ある種魔術的ともいえる結束力の源となっているのだから。
この小さな社会は閉鎖的で狂信的で、SNMN(神聖四文字(テトラグラマトン)。われわれはそれを便宜上「シナモン」と呼ぶ)を神と崇める中世的カルトによって支配されている。
驚くのも無理はない。この先進国日本においてまさかオカルティズムによって支えられるムラがいまだに存在していたなどと、誰も想像すらできなかっただろう。
だが、これはまぎれもない現実なのである。はてなというムラはここにある。そして同志よ、きみはこのムラに足を踏みいれてしまったのだ。
第一に、ムラビトは新参者の排除が好きだ。もしも新参がおしゃれなフェラーリに乗ってやってきたら、つるはしを持ったムラビトによって、その紅き果実は一夜のうちに無惨な血だまりと化すであろう。「ふぇらだかへらだかなんだかしらねえが、おらのムラで調子に乗ってんじゃねえ!」耄碌した老人のたわごとにきみは付きあうべきか。
第二に、ムラビトは新参を待ち望んでいる。ムラビトは新参が現われなければムラビト同士で殺し合ってしまうのである。ムラの平和は新参の流入によって生じるあの排除への一体感によってかろうじて保たれている。愚劣な新参の流入を嘆きつつ、同時に過疎化を心配する声もあるというわけだ。きみはムラビトに言うべきだろう。「お前らの命はオレが握っているッ! どちらが上か勘違いしてくれるなッ!」と。
第三に、ムラビトは誤読が好きだ。ムラビトには都会の常識、論理、科学が通用しない。このムラは迷信や魔術によって支配されているのだ。その解釈はつねに飛躍し、高レベルのムラビト=ラビならば、否定は肯定となり、間接話法は犯罪告白となり、人間は六本足になるだろう。「え? おれが誤読したって? 誤読するような書き方をするお前が悪いだろうが!」ムラビトとコミュニケーションすることはそもそも不可能なのだ。きみのせいではない。
第四に、ムラビトはお役立ち情報が好きだ。たとえばおすすめ小説を並べたアフィブログはかならずムラビトを吸い寄せるが、彼らはお役立ち情報が好きなだけで、そのお役立ち情報を活かそうとは思っていない。お役立ち情報に触れた見つけたというお得感だけでお腹いっぱいなのである。むかし「あとで読む」という貼り紙が村のそこら中の電信柱に貼られていたころがあったが、もちろんあとで読んだムラビトなどいないのである。ムラビトとはその程度のアホである。きみはアホの戯言を気にするのか。
第五に、ムラビトは高学歴ぶるのが好きだ。ムラに大学院などないのになぜかムラビトは全員が識者面をしている。わけもわからずに社会情勢を嘆いてみせるが、じつはムラには日本社会との接点はほとんど残っていないのであまり意味がないのだ。だがそのことにムラビトはまだ気づいていない。それは幸福だろうか不幸だろうか。ムラビトの空想癖にせいぜいきみは苦笑するだけで済むだろう。
われわれはふたつの提案をする。
第一に、何が起ころうと、それを風に揺れる稲穂のざわめきや蝉の鳴き声あるいは馬のいななきのようなものだと思ってしまうということである。ムラにはムラのやり方がある。それはムラにとっては極めて自然なことなのだ。ムラにおいて排除とは自然現象であり消化作用である。きみは批判されているのではない、大自然に包まれているだけなのだ。われわれ都会人は疲れた精神のうちに自然の癒しを欲しているが、ムラビトをそのようなものだと思ってみてはどうだろうか。
第二に、コメント欄を閉じ、ブックマークコメントを非表示にするという技術的な解決策がある。われわれはこの方法をすすめている。レベルの低い冒険者はまずムラのなかに要塞を作って引きこもり防御をかためるべきなのだ。初心者にありがちなことだが、初期装備のままムラの深部を、ムラビトのこころの闇を探ろうとしてはいけない。危険だ。命の保証はない。そうやってわれわれの同志は倒れていったのだ。扉を開けなければ嵐はやがて去っていく。大荒れの海を見に海岸へ行ってはいけないのだ。
ムラビトの世迷いごとをまともに受けとってはいけない。かれらは異世界とテレパシーで会話しているのだ。われわれ文明社会に生きる人間とはその語も文法もアクセントも思考様式も異なっている。かれらは秘境に生きる最後の魔術師たちなのである。
まず最初に断わっておくと自分は、どうでしょうの大ファンです。
多くの人の目に触れるように、タイトルは少し大げさに付けました。
タイトルを観ただけで気分を悪くした人がいれば、本当に申し訳ないです。
また、地方によって放送開始日にバラつきがありますが、最新作のネタバレが文中に
入っていることも予めお断りしておきます。(私は現在第7夜まで視聴済)
× × ×
現在、最新作の『アフリカ』が全国で順次放映中ですが、観ていても
「この4人が揃って旅をしているのが見られるだけで充分嬉しいんだけど、やっぱりなんか違うんだよなあ」
と、私は思ってしまうわけです。この違和感は、前作『原付日本列島制覇』から続いているものです。
その違和感の正体を自分なりに考え、予測を交えいくつかの項目にまとめてみました。
× × ×
①【企画を引き延ばし過ぎている】
最も大きな原因はコレかな?
前回の『原付日本列島制覇』から顕著になっている傾向ですが、番組の人気(加えて大泉洋の人気)が
飛躍的に高まったおかげでしょうか、一つの企画の放送回数が大幅に増え、ファンとしては長い時間
どうでしょう班の活躍が見られることは嬉しい一方で、結果的には一回一回の放送の中身が
レギュラー放映終了後の企画を順に追っていくと
2005『西表』全8回
2007『ヨーロッパ完全制覇』全9回
2013『アフリカ』全14回予定
となります。
レギュラー放映時に長丁場とされていた『対決列島』が全10回。
レギュラー最後の企画『原付ラストラン』が全8回(放映回数は全7回だが最終回が1時間枠)
と考えると、前作と新作が、いわゆる「取れ高」を引き延ばして作っている企画であることが伺えます。
逆に考えれば、例えば今回の企画の回数が半分の全7回であれば、これまで放送したシーンの内の
半分はカットされ、もっと笑いが凝縮された作りになっているはずなのです。
大泉さんのエッセイネタの繰り返しも、冗長なサバンナの動物のカットも、半分ぐらいの時間でちょうど良いのでは?
②【出演者が無茶をしなくなった】
二つ目の原因はこれでしょう。
テレビの業界事情に私は全く詳しくありませんが、全国区の俳優となり、過密スケジュールの大泉さんが
万が一どうでしょうのロケで怪我をし、仕事を休業せざるを得なくなった場合。あるいはそれ以上の
大怪我を負った場合に関係者に与える影響がとてつもなく大きい、と言うことは想像に難くありません。
そんな中での今回の『アフリカ』です。
最初、旅の行先がアフリカだと知った時、多くのどうでしょうファンは色めきたったことでしょう。
「ついにどうでしょう班が長年、未開の地として挙げていたアフリカに!」
「これはブンブンやベトナムを越える危険が降りかかるかもしれない!」
私も思いました。
しかし、実際今のところの放送内容を見ている限り、番組史上最高レベルと言っても良いほど
サバンナの動物たちを、安全な車の中から見渡すだけの旅。食うものにも何一つ困らない旅。
次々と映し出されるサバンナの動物たちは確かに生で見れば見応えがあるのかもしれません。
どうでしょう班が興奮する姿には実感が籠っていることは理解出来ます。
しかし、その映像って視聴者が本当に水曜どうでしょうに求めている大事な要素なのでしょうか?
キー局でお笑いタレントや人気俳優が出演する、ありきたりな○○アフリカ紀行と何が違うのでしょうか?
『ジャングルリベンジ』で剝き出しの軽トラの荷台に乗って野生のヒョウを観に行ったこと。
『ユーコン』で、いつクマに襲われてもおかしくない状況でテントに毎晩寝泊りしていたこと
『ラストラン』で異常な数のカブ渋滞を潜り抜け、事故車が横たわる悪路を走っていること。
それらを知った上で最新作を観ているのです。
パワーダウンした感は否めません。
また、これは身体的な危険に限った話ではありません。
なども含む、「出演者が嫌がっているのに企画に抗えないシーン」の欠如が前作・最新作には著しいのです。
もしも、人が苦しんでいる姿を見て笑うなんて、と言う否定をする人がいるならば、それは過去の
どうでしょうの企画の大半、この番組の根幹の部分を否定することになるでしょう。
③【旅の目的が無い】
例えば、過去の海外企画でも『中南米コスタリカ』は、身体への危険が起こる可能性はほとんど無い
企画でしたが、そこには「幻の鳥、ケツァールを写真に収める」と言う実際に高難度の目的があり、
そのゲーム性のおかげで、視聴者は最後まで緊張感を持って楽しむことが出来たのではないでしょうか?
(とは言え、この企画の一番の楽しさは制作陣が予期していなかったであろうバズーカの功績が
大きかったことは言うまでもありませんが)
では、今回の旅の目的は何でしょうか?
それともどうでしょう班が初めてアフリカに行く、と言う事ですでに目的は達成されるているのでしょうか?
アフリカと言うセンセーショナルなイメージを与える場をロケ地に選んでおいて
冒頭で藤村Dが言っていた
「アフリカに着いてからの流れはムゼーにすべて任せている」と言う趣旨の言葉は恐らく真実でしょう。
そのノープラン至上主義のスタンスはどうでしょうらしいのですが、いかんせん企画の骨子の部分すら無く
それを14週持たせるのは、いくらなんでも無謀すぎたんじゃないかなあと感じてしまいます。
④【その他】
偶然的要素が強い部分ですが。
思いつくままに箇条書きで
→西表のロビンソン、ベトナムのニャンさん、アラスカのジム、ユーコンのピート。
・アクシデントが起こらない
ただこればっかりは狙って出来るものでは無いのでしょうがないですね。
・名言が出ない
→不作かなと個人的には思っている前作でも「文久三年!」などは印象に残っているのですが
最新作では、今のところ名調子が無いなあ。死の危険が迫っているとかじゃなくっても
暑いとか寒いとか眠いとか腹が減ったとか、そう言う時に大体名言が出るんですけどねえ。
× × ×
などなど、次から次へと文句ばかり書きましたが、それでもやっぱり私はどうでしょうが好きですし
一生どうでしょうするつもりです。
冒頭にも書きましたが、出演者の高齢化も進み、いつまで全員の元気な姿が見られるかも分からない中で
あの四人が揃って旅をしているだけで嬉しくて仕方が無いのです。だからこそ、昔の放送の方が良かったなんて
懐古主義には陥りたくないとも思うのです。
であれば、企画の方向性の見直しは必要なんじゃないかなあとは。
・長期の放送スケジュールに耐える企画の創出。あるいは、スケジュールの短縮。
これらを踏まえた上で、カントリーサインとかサイコロの海外版とかって駄目でしょうかね?
それか試験に出るどうでしょうの世界史版とか(安田さんのスケジュール抑えるのも大変だ)
あまりに熱狂的なファンの前では、どうでしょうって否定しずらい雰囲気があるし、頭ごなしに否定する
一部の自称お笑い好きにも辟易しているのだけど、同じように感じてくれる人がいたら嬉しいです。
「今ちょうどテレビで新しいのやってるから観て!」って、どうでしょうを知らない周りの友人に
自信を持って勧めたいんですよ。
「昨日見た!?」って周りのどうでしょう好きと言い合いたいんですよ。
ほんとそれだけです。
まかり間違って、制作陣の目にこの駄文が触れることで、何かを考えてもらえるキッカケになれば
最高なんですけどね。そりゃ無いか。
ありがとう。ご指摘のとおりです。
夜中に爪を切ると蛇が来るというのは蛇信仰というものが存在した、というのは聞いたことがあります。
むかし夜になると明かりが乏しく手元が正しくない状態で不衛生な刃物を身に当てるという行為は自虐的だという通俗を誇張するのに使われていたという話も聞いたことがあります。
口笛を吹くと鬼が来るという話も聞いたことがあります。人間に対して害のある動物がまだ多く、同じ人間も闇夜に潜んで人を襲う可能性があった時代の鬼という分類が未知の生物全般を言い表せることも信仰や宗教い関係あることなのかな。
蛇にかまれて指が腫れるぞ、みたいなのはそれが適度な毒を持っていて夜に遭遇する他の生物でもよかったかもだけど蛇を選択したのは何かの意図や感情だと思います。
蛇という形をした生物と他の自然現象などを見合わせて何かのバロメーターを役割付けた知識を宗教や信仰にまとめた過去をふまえて、今現在はそこから科学や歴史などの分野に分派していないのかな?
安全管理について具象を用いたということは宗教だった、と言えるかもしれませんが今現在において具象というものは宗教や信仰とかかわりがありますか?
感情は感情で、歴史は歴史、その多くは心理学とか歴史学などで定義されていたとして、不明な点はそれぞれの不明な部分とはまだ現在でもしないのかな。
蛇にかまれて指先が腫れるのは嫌だ、という感覚に便乗して夜を爪切りの時期からはずすという誘導方法は有効な心理作戦とは言わず信仰と扱う学問かもと思っていても、それが今現在も機能して存在しているのかと言われたら、むかしは信仰心からできなかったことで、現在は別の分野が担えるけどやっぱり今でもできないことを結果は同じだから宗教とまとめていいのかなって。
ちょっと違った角度から書くと、物語を書く人とアスペって相性が悪いんだよ。
物語っていうのは、“様々に起きてくる事象をある視点から見て関係のある一連の出来事として解釈したもの”という定義が出来る。
たとえば、ここに悲しい人がいました。冷たい雨が降ってます。このふたつは本来関係ない。だって自然現象だし、そんな関係があろうハズがない。しかしそれをある視点から見て、心象風景として演出的に描写する。関係を発見(ねつ造と言っても良い)して物語の1シーンとして組み立てる。
物語を作るには、また、自分の生きてる時間を物語として看取するためには、そういう心性が必要なんだよ。
それに対してアスペというのは、関係性の把握が出来ないとされている。つまり、物語を普段から書いてる人にはアスペを深く理解する事が出来ない(だってじぶんは関係背を把握したり演出したり出来るから)。その上、アスペは物語に大きなストレスを与えるんだよ。彼らは物語の律というものに対して配慮がないから、ある種のウィルスのように物語を破壊する。
もちろんもの書きは「アスペと一緒に暮らす苦労」なんかは、体験すれば理解出来る。一人称の感覚として。でもそれは、異星人と暮らすみたいな話に行き着く。
このへんの相性の悪さがアスペがドラマなんかに出づらい理由じゃないかなあ。
タイトルはやや釣り。既に皆が知っているような事を、ちょっと別な言葉でもう一回書くだけ。
いきなり結論を書くと、これ。
理系は事象や物それ自体に興味を抱き、人間同士の営みについてはあまり興味がないが、文系は基本的に人間中心主義で、人間関係に強く関心を寄せる。
興味というと話が限定的になるので、世界の捉え方と言ってもいいかもしれない。
理系は、まず銀河の中に太陽系がありその中の地球と言う惑星に棲む様々な生物のうちの一つが人間、というように、自然科学的な世界の枠組みの中に人間社会があると考える。物事の本質はそれ自身の持つ法則や性質にあり、人間がそれに与える意味は付随的な物と考える。
一方文系は、まず人間社会がありその中の一団が天文学を発達させ太陽系や銀河の有り方を発見した、というように、人間社会の枠組みの中に様々な知識や発見があると考える。人間社会に置いて物事がどのような意味を持つか、それこそが物事の本質であると考える。
どちらの見方もそれぞれに真理であり、当然ながら優劣をつけるような種類の事ではない。
筆者は子供の頃、理科はとても好きで教科書を隅々まで読んだりしたが、社会科、殊に歴史や現代社会には全く興味を感じなかった。基本的に社会科は人間同士の営みの話だからである。歴史の授業で出てくる○○の戦いやら××革命やらも全て、「ある時代のある場所で人間同士が喧嘩した」というだけのことに見えて、個別に細かく眺める意味がさっぱり分からなかった。それに比べると理科の知識は、一つ覚えるごとに一つ新しい世界が広がるような気がしたものだった。
現在ではその頃よりもう少し歴史の面白さが分かるつもりではある。
興味が向かう方面に関しては努力も苦にならず、能力が伸びる。その結果、理系は物事に入れ込むオタク気質に、文系は人間関係に強いリア充になる。
逆に、興味がない分野のことについては、アプローチが下手になる。理系は、新しい知識や発明品が、人間社会においてどんなカードとして使えるかまで、気が回らない。ただその物の新奇さやスペックの凄さを言うばかりで、それが金や権力にどう変換し得るか、その発見で喜ぶのは誰で困るのは誰か、そういう政治的ビジョンが乏しい。文系からすれば酷くどうでもいい事に拘って人間関係を悪化させたり、他者の発言の裏にある感情や政治的動機が読みとれずに見当違いな反応を返したりする。
一方文系は、人間関係の中でのみ有効な方法を、それ以外の分野にまで当てはめようとして、おかしな話に引っかかってしまう事がある。例を挙げれば、自然現象相手に取引やお願いをしてみたり(「願えば叶う」式ライフハックなど)、自然に起こった出来事に誰かの作為を求めたり(ID論など)、人間の価値観で物事の因果関係まで推測したり(水伝など)、と言った調子だ。最重要事項が良好な人間関係や政治的な強弱関係であり、知識や情報はそのための道具にすぎないので必ずしも正確さは必要なく、より人を動かせる話に食いつく。
断定的に書いたが、実際は大抵の人間が理系の心と文系の心を両方持ち合わせており、割合に個人差があるだけである。その割合も、置かれた環境や心理状態によって変化するであろう。
興味の方向性から、それぞれ理系分野・文系分野に進む傾向は有るかと思うが、当然当てはまらない人も多く居るだろう。
筆者は文系の心がやや乏しいため、文系の描写にはズレた点が多いかもしれない。
ツッコミ歓迎。
東京って都市は田舎の安い労働力が流入したおかげでおっきくなったわけじゃん。
農家の次男坊三男坊が江戸の街に流れ、廃藩置県で住所の自由が保障されて更に都市への移住が加速し、高度成長時代も集団就職の上京組が大挙して訪れ、なんだかんだで今に至ったわけで。
それが、元々東京に住んでいた住民の利益を甚だしく侵害したかと言ったら、まあそう言えなくはないけども、結果としてしょうがないと思うんだな。
乗っ取られることがいいとか悪いとか、不毛な議論な気がする。
労働力が安いところから高いところへ移動するのは、どうあったって妨げることができない。
水が高いところから低いところに流れるように。
どんなに大きなダムを作ろうと、際限なく堰き止め続けるわけにはいかない。
流れの速度や向きをコントロールすることで、洪水や鉄砲水を防ぐことが出来る。
平素よりお世話になっております。
http://anond.hatelabo.jp/20120922164617
とある地方公務員が日々思ったことを10のコラムに分けて書いてみた
http://anond.hatelabo.jp/20121012225331
http://anond.hatelabo.jp/20121013233222
http://anond.hatelabo.jp/20121015233513
今後首都直下型地震や南海トラフの巨大地震といった大規模災害が予想されますが、それらの災害に対して、基本的に自分の身は自分の身で守るという自助というものが必要になってきます。
災害というと地震や津波、土砂崩れ、降雨災害といったように多岐に渡るわけですが、それらだけでなく原発災害なんかもあります。
しかし、災害という自然現象に対して人間とは非常にちっぽけでありますので、出来る範囲というものが限られてきます。それは行政も同様です。
災害発生時には災害対策本部を設置するといった地域防災計画の策定というものが行政の仕事としてあるのですが、その地域防災計画も結局のところ、内閣府や都道府県の想定が変わってしまえば全部見なおすことになります。良い例が3.11の東日本大震災が典型例でしょう。
地震予知というものが科学的に難しく、現状では不可能でありますので、それに備えて国の方も予算を組んでおりますが果たしてどこまでそれらの施策に実効性があるのか疑問が残ります。
結論を先どってしまいますが、行政ができることは結局、防災ではなく、少しでも被害を少なくする減災ではないかと思います。というよりも防災の現場に携わっている職員ならば、ゼロリスクというものが不可能であることは十分に承知していると思います。確かに一人でも犠牲はない方がいいに決まっています。しかし、それが不可能であることもまた現実です。
ある町のケースですが、その町は津波によって浸水する可能性が極めて高く行政の何かしらの手立てが必要な地域です。方法としては避難できるタワーを建設したり、津波から逃れるための避難路を作ったりするわけですが、一番確実な対策としては高台に移転するという方法です。津波が到達する可能性の低い場所に地域まるごと移転するというものですね。
この場合、行政が本当に地域住民の命を守るという観点を重視するならば強権的に土地収用という方法もありますが、基本的に地域の合意がなくてはいけません。しかし、津波が浸水する可能性が高い場所というのは漁師町が多くて、高台移転によって生活ができなくなります。加えて、高齢化が進んでいることが概して多いので、今更生まれ育った土地を離れることはできないと考えるわけです。高台移転を強制的に行うことは、結果的に高台移転派と残存派に別れ、ヘタすれば地域性を壊すことになりかねません。それゆえ、高台移転は現実的には困難です。だからといって、タワーを建設するのも適切ではないと思います。
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建設に巨額費用、平常時使い道なし 津波避難タワー 効果に疑問符 静岡
(産経新聞 2012/06/13)
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120613/szk12061302110002-n1.htm
タワー新設には数千万円の費用と毎年の維持管理費がかかる。防犯対策も課題で、管理人を配置すれば人件費や夜間・休日の態勢がネックになり、かといって施錠すれば非常時に住民が出入りすることが困難になる。
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このケースからわかるように、津波避難タワーというのは津波が発生するまでは使い道もないタダのハコモノになってしまう可能性があります。また、津波の高さが想定を超えてタワーを上回ってしまった場合は事態はさらに最悪になります。
今防災産業は地方経済の起爆剤として注目を集めています。御存知の通り、現在政府は防災対策として多額の予算を地方に分配し、それらを補助金として活用しています。その補助金を狙ってあらゆる防災グッズが販売されています。
ただ、この防災産業のビジネスモデルも既存の公共事業型のビジネスモデルと違いはないように思えます。結局、財源は国の補助金でありますので、そこに食い込めばいいわけです。
皆さんの街にも町内会や自治会というものがあると思いますが、同じく自主防災組織というものがあると思います。
それらに対して自治体は補助金を交付しています。ただ、補助金の中身が非常に疑問を感じます。
http://www.city.kawaguchi.lg.jp/kbn/08200007/08200007.html
http://www.city.kawaguchi.lg.jp/kbn/Files/1/08200007/attach/taisyousikizai.pdf
川口市はひとつの自主防災組織に対して、事業費の半額を補助しています。おそらく、その他の自治体の補助金もだいたい同じでしょう。
補助金は半額補助のように一部補助されることもありますし、「全額補助」されることもあります。つまり、自主防災組織は手続きさえすれば補助金が支給されるわけです。
自主防災組織は名前は違えど、実質は既存の町内会ですので、自主防災組織の代表=町内会長ということになります。そして、町内会の役員はだいたいが自営業者の場合が多いですので、知り合いの工務店で購入することになります。
また川口市の資機材を見ますと、大半はホームセンターで買えますので、地元のホームセンターにとっても悪い話ではありません。
つまり、防災産業活性化という観点からみれば、この補助金制度は非常に地元の販売店からすれば非常に有利なわけです。
しかし、この補助金によって購入した資機材というものは果たして本当に利用されることはあるのでしょうか。先ほどの津波避難タワーと同じく災害が発生されるまでは使えないものですから、結局これも維持にコストがかかるだけです。もしくは、防災以外の町内会活動に流用したり、私的に流用するかもしれません。それは結局自主防災組織の裁量ですし、ブラックボックスに近いですね。
自主防災組織というのは、実質は町内会ですが、その中に災害発生時にお互い助け合うための役割を担っています。なので、普段は避難訓練や防災研修、学習会などを行なっています。
上は山口県の自主防災組織の組織率の推移ですが、今後自主防災組織が増えていくでしょう。そのインセンティブとして、国は補助金を地域に配ることで組織率の上昇を図っていくと思いますし、東日本大震災により、防災意識はより高まっていくでしょう。
しかし、この地域を守る自主防災組織ですが、果たして災害発生時にどこまで機能するでしょうか。防災組織といっても、実質町内会ですので高齢者中心ですので災害発生時には自分の身を守るだけで精一杯です。実際、自主防災組織という名前ですが、避難訓練などの災害発生時に、主に活躍しているのは地元の消防団です。消防団も人的リソースが限られていますので、結局外部からの助けなしに町内会で助け合うことが困難であることが容易に想像できると思います。
先述したとおり、本当に住民を津波から守るのであれば、強権的に移住させるか、その地域の固定資産税率を上げるといったことをして、住民を動かすことが必要になります。いくら防波堤や防潮堤を作ったとしても、どれだけ機能するかわかりません。可動式防波堤よりも、単純に津波がやってこない地域まで住民の方々に引っ越してもらうのが一番シンプルだと思うのですが。。。
それが叶わないのであれば、せめてご遺体の発見が早期にわかるように手足に識別するリングをつけてもらいたいです。被災地では未だにご遺体の判別が困難であり、結果として遺族だけでなく、行政の方もその対応に追われています。
結論的にいえば、現在行われている防災に対する施策も、災害が発生してみないとわからないということです。ただ、高齢者、災害弱者については犠牲は想定しておく必要があります。当然、行政は住民の命を守ることが使命です。しかし、同時に災害が派生したあとに生き残った住民の生活を取り戻すのも使命だと思います。
また、有効性には疑問が残る津波避難タワーをはじめとした、ハコモノ整備を積極的に行い、同時に実際は機能できないだろう自主防災組織に対しても補助を続けるしかありません。今は東北の現状がありますのでまだクローズアップされていませんが、復興予算の次は、おそらく防災関連の補助金がクローズアップされていくと思います。
無駄遣いと言われようが、実効性に疑いがあろうが、それを地域が望んでいるのであれば仕方がないのかなぁと思います。それで地域のお年寄りが安心し、地元の業者が少しでも潤うのであれば、
ブログを始めました
わかってないなあと思うのは、日銀は往々にして緩和の前後に引き締めを行うってことと、自らの政策を否定するようなアナウンスを行うということ。
金融政策の有効性はどうかなんて議論を行う以前の問題で、日銀はそもそも矛盾した行動を取りたがる。
緩和したと思ったら早々に引き締めたりあるいは緩和の前段に引き締めを行ったり、緩和しながら金融政策無効論を主張したり、デフレ脱却を目指すと言いながら人口構造デフレ論や経済成長率低下デフレ論をアナウンスするといった支離滅裂な行動を取るのが問題なの。
ニューケインジアン経済学では人々の期待をコントロールする事が重要とされているし、事実として昭和恐慌デフレの例からも実際のオペ以前に高橋是清が蔵相となったというアナウンスによって期待が変化しインフレ率が上昇した。
でも今の日銀は、右を向いて「デフレ脱却に向けて金融政策を頑張ります」と言いながら、左を向いて「金融政策には効果がありません」とか「インフレ率をコントロールすることはできません。自然現象です」と言っているわけよ、つまり自分の政策を自分で否定しているわけ。
思うんだけど
弱者は死ね(強者の意志のような言い方) という話と 弱者は淘汰されて死んでしまう(自然現象)
という2つの話があって、
弱者は淘汰されて死んでしまう(自然現象) という当たり前の話なのに (今でも世界には餓死する人が普通にいる)
なんで、強者が弱者を守らないと弱者は死んでしまう。どうして、強者は弱者を守らないんだ?横暴だ!
という話になるんだろう。
常識的に考えれば、このままでは弱者の我々は競争に負けて死んでしまう。
競争に負けない程度強くなるためには、これこれこういう事業拡張が必要で、これだけの投資が必要だ。
だから、国は農業にこういう投資をして 産業を改革し、弱者が死なない程度の強者になれるようにすべきだ。
という妥当な話に なんで ならないんだろう。
ツイッターやmixi等のSNSに情報を発信し、それが理由で炎上。
フジテレビの社員の横領なんかも見つかって、正直ネットは怖いなっと思います。
何故、このような炎上が日常的に発生するようになったのでしょうか?
当時大学生の私はサークル仲間がブログをしているのではないかと考え、
検索サイトを使って、キーワードから何人かのブログを探し当てた事があります。
探し当てられた事を知った人たちは、正直気味が悪かったと思います。
そこで、逆に自分自身も個人情報をネットに出す恐怖を感じていました。
SNSが飛躍する先駆けの
mixiでは自分の日記をマイミクだけに公開する事ができました。
正直、内輪話をするには最適であり、
そのことが日本人向けのSNSであることの証明ではないでしょうか?
mixiを利用した人はネット上に自分の情報をおおっぴらに出す事に対して
抵抗を感じなくなったのではないでしょうか?
そこから、
新しいSNSのフェイスブックとtwitterが導入されました。
フェイスブックには、今までの
この段階において、ネット上においてハンドルネームを用いるのではなく、
そのような文化が生まれました。
現実の自分のものとしてネット上にも関わらず責任を持たなくてはならなくなりました。
つぶやくという新しいネットへの情報発信の感覚が生まれました。
個人情報と考えることもなく、気軽に情報を発信することができてしまう。
それ故、発信してかまわないつぶやきか、
そして、
私は、むかし政治家のニュース等を隠す作業を担当していた事があります。
そんな時に登場し、ネット上から該当するニュースを隠す作業をしていました。
情報を完全に削除する事はできません。
商売上、具体的な作業方法は述べる事ができませんが
検索サイトのキーワード検索で100から、1000まで増加させる。
それだけで、情報が見つかる事はほぼなくなるでしょう。
強く言っていました。
情報を削除する事はできない事を理解していたのでしょうか?
今、SNSを使っている人たちは本当に
その発信している情報を消す事ができない事を正しく認識しているのでしょうか?
簡単にデブリを発生する事ができる以上、
落ち葉を広げている事だと考えてください。
それに火をつければ燃え上がる事でしょう。
同じように、一度出した情報は
枯れる事があっても、なくなる事はありません。
その溜めた情報、枯れて誰の目にも留まっていないと思った情報が
一度、火をつけると爆発的に広がって行くのです。
簡単に火はつかないでしょうが、
枯れ葉が多ければ多い方が、
引火した時に大きく燃え上がりやすい。
炎上を防ぐには、
つまり火種を出さない事と