はてなキーワード: 自然現象とは
人間社会が前提にあって存在するものが文化と言わずして何と呼ぶんだ。
老化現象は自然だが老化現象によって引き起こされる変化は現実の環境に依存する、
若い連中がおらず老人が現役世代になったヤクザ社会なんて老害という「自然現象」なんざ既に崩壊してる。
老害が発生しない状況なんていくらでも想定できるし既に日本社会に老害が成り立たない状況もいくつか確認されはじめてる。
お前の固定観念から出てくる単なる願望であり感想をさも定常的なものかのように言いふるまうのはよしてほしい。
時間旅行してみようか。
IT界隈でエンジニアとして働いているが、なんとか2年持ちこたえることができた。
まだまだ自信なんてものはないし、一生自信なんて生まれない気すらする、俺の同僚の優秀さ。
必死にやらないと戦力外通告を受けてもおかしくないくらいの気持ちで日々働いている。
それでも日本だったら、その辺の日本のなんちゃってCTOよりはマシなスキルを持っていると思う。
将来的には日本に戻って日本の社会に貢献できればと考えていたが、外から見える日本はヤバイ。
安倍の下りとか、まだ自民を盲信するアホな国民がいることに対して、民主主義が完全に機能してない点。
そりゃ他の党もまじでイケてないよ。希望の党?なんだあのルー大柴の弟子みたいなおばさんは?ルー小池?
中身のないやつほど、カタカナ語や精神論で話を濁すよな。馬鹿なおまえら、これだけは言っておく。どうせこういうカタカナ語大好き、精神論大好きなやつは100%大したことは言ってない。何がワイズスペンディングだ。当たり前のことをカタカナに直すな。
そもそも政治システムが終わってるから、どうしても短期的で無益な政策しか国民受け、特に老人受けしないことが破綻の原因だと思う。だから自民だけを攻めたりはしない。
政治に合理性がなく、本来やるべき政策が盛り込めないことが致命的すぎる。だって票とれなきゃ戯れ言で終わるからね。
でも残念ながら、政治システムを変える流れなんておそらく破綻したって起きやしないだろう。
この数十年、政治家は老人優遇政策+少子化対策度外視で、少子高齢化を歪なまでに加速させてきたよな。
日本の少子高齢化はある程度は自然発生している部分もあるが、世界一の少子高齢化社会は自然現象で起こっていることじゃないからね。
無益な過剰医療で税金を老人の延命に全力投入したって何の未来もない。政治家都合の老人票のために多額の税金が使われるとか、10年前にそろそろやめようぜって議論してたって時既に遅しだったのに、まーだ軌道修正せず、今までと同じ路線で政治をしようとしている。
短絡的な政策、未来なんて老人政治家は考えやしない。目先の経済政策に国民は歓喜。
このまま少子高齢化が今のペースで進んだらあと20年で日本船は沈むんだぜ。2年前の俺は30年は持つと思ってたが。
自分は日本の政治に完全に諦めた。破綻エンターテイメントなんておもしろいわけないじゃん。日本ヤバイって言ってるけど、嫌いで言ってるんじゃないからね。諦めたということは、破綻を受け入れるという意味だ。
次にビジネスの面。
二番煎じ以外でなんかビジネスあったっけ?創造性のかけらもないよね。さらに倫理観までないときた。
なんだよ、メルカリとかDeNAとか道徳なき商売とかまじで社会的大罪だからな。社会に混乱与えてるだけじゃねーか。国も国で倫理なんて知ったことではないときた。
ちょっと脱線するけど、目の前で事故が起きて、スマホで写真とる馬鹿が決してマイノリティーでない国民性はヤバイ。
金が絡むところでしかサービスがないのに、おもてなしが日本人の国民性かのように言うな。
完全に個人主義社会で人が困ってたって人助けするほうがマイノリティーじゃねーか。
こっちでは新しい独創的なビジネスが次から次へと生まれている。日本じゃ考えられないペースでだ。もちろん、お金になるかどうや怪しいビジネスもたくさんあるけど、他社のビジネスをコピーすることしか脳のない日本社会より全然マシ。
そして企業の凋落。既に国際競争力はほぼない。大企業すらボッコボコ潰れていくだろう。
これで少子高齢化が進んで、老人だらけになったら未来の見えない老人じゃ内需にすら貢献できないよ。
少子化で人がいない。完全に売り手市場なのをポジティブに考えすぎて若者は自民を支持してるらしいね。
ただの少子高齢化政策で人がいないだけだぞ。お前らの未来は真っ暗だけどな。
日本にいずれ帰ろうって思ってた自分は、そんなに馬鹿だったのか??少なくとも視野も経験も今より格段に低かったことは確かだ。
もうあと数十年で破綻することが目に見えている状況でさすがに日本には帰れない。
なんで沈む船に乗らなきゃいけないんだ?両親はギリギリ逃げ切り世代、自分が守るべきは自分だけだ。
もともと自分ではなく社会の先行き不透明さから子供は作らないって決めていた。その選択は正しかったと思う。
政治家さあ、お前らが馬鹿じゃないなら、意図的な破綻活動をしているってことだよな。
せめてもの償いとして、日本国民が世界で働けるように働きかけてくれ。労働visaのハードルが下がれば、あとは英語力があればやっていけるだろう。
都民ファーストの会が圧勝して、ネットのコメント欄は結構もりあがっている。
マスコミが報じる主な要因は「腐敗への拒否反応」っていうやつで、確かにだいたいそうなのだろう。
一方でコメントの中には「馬鹿な都民が多いから自民が負けた」なんていうのもあって、これから政治的な求心力が弱まることの問題を指摘しているものもある。
そういったコメント欄を見るにつけ「我々はどこに向かうのか?」の論争がとても少ないな、と感じる。
求心力と表現するからには、どこに向かうのかは最も大切な事柄だ。
いや、もちろんどんな政党も「何をするのか?」「どこに向かうのか?」という話はしている。
しかし、そのアイディアたるや、現実的すぎるか、場当たり的すぎるかのどちらかに感じる。
大抵はバックグラウンドに経済の話が見え隠れしていて、それにラップがかかっている。
言葉をかえていえば、生物的に自然である「自分の利益をとりたい」と「生き残りたい」という2つの欲が、強烈に表れている。
しかしだ。
自分の目先の利益をとりたいのと同時に、人の幸せの役にたってもみたいし、大義のためになら死すら覚悟することすらある。
それが自分にとって、大きな報酬になることを知っているからである。
多くの人は、こんなことは100も承知だから、このバランスをとった政策を思いつきたいと、四苦八苦することになる。
さまざまな政策案は、ある意味「人を馬鹿にしすぎているのかな」と思うことがある。
先に触れた「自分の利益をとりたい」と「生き残りたい」という2つの欲求のスイッチを押しすぎていると感じる。
マズローの五段階欲求説が正しいとするならば、21世紀においては、もはや(経済的ではなく)生物的な生存欲求を満たせない人は限りなく少ないのであるから、政策は人間のもう少し別の社会的な欲求を満たすようなものであった方が、実は自然であると考える。
今の政策案のように、人間の生存レベルのスイッチを押しまくった結果は悲惨である。
おもしろいもので人は押されたスイッチに反応して態度をかえるからで、生存欲求のスイッチを押しまくった結果は、生き残り競争しか残らない。
もしこれに人の絶望が加わるならば、そこには戦争が見え隠れしてしまう。
こんなこと、誰も実は望んでいないと思う。
(もし望んでいるとしたらその背景には「絶望」が横たわっている)
これはとても不思議なパラドクスになるが、人間を信じれないから、信じれない政策を採り続けるというスタンスである限り、抜け出せない罠である。
もし政策を仕切る側として、欲求のバランスをとらなければいけないと感じているならば、まず人間を信じてみるしかないのである。
さて、では無邪気に人を信じてみるとして、一体どのようにアプローチすればよいのか?という課題がある。
それはマズローの五段階欲求の、より上位の欲求をつくように、政策やアピールを意図的にかえていくという試みが必要になる。
しかしその話をシンプルにしてしまうと、多くの人にとってピンとこないし、人の恐怖心や思い込みの呪縛を解かなければいけないことも多いから「希望」をもって語れるエンターテーメント性が必要となる。アップルのアプローチなどは抜群にうまい。あれを真似る手はある。
どちらにせよ政策を取り仕切る側としては、21世紀において、社会的欲求の方が生存欲求よりも強くなりつつあることを悟った方がよい。だからこそ、それを求心力に使わない手はない。
いつの時代の社会も課題を抱えているが、21世紀は、脱戦争や平和という意味で、人間にとってかなり重要な課題を抱えている。
その課題を解決するには、政策にも21世紀のイノベーションが必要で、そのイノベーションとは、人間の生存欲求をつくことをやめることだと考えている。
さて、ここでどうしても目をつむれない話がある。
希望は人を動かすものであるが、大きな希望の一つが「根本破壊」であるというやっかない人間の性質がある。根本破壊はたいてい戦争につながる。
この衝動は「なぜ人間は破壊的な感情をもつのか?」という書籍もでているくらいやっかいな性質であることは間違いない。
しかし、その書籍でも結論がないように、この破壊衝動というのは、人間に備わった自然な欲求であると理解するしかない。唯一理由を考えるとすれば「想像のためには破壊が必要である」という、人間都合ではない想像くらいしかない。
今までも人の社会は、安定してくると腐敗がはびこり、それに絶望した人たちが破壊(多くは戦い)をおこし換えてきた歴史がある。
つまり希望にみちて破壊行動を起こすのである。希望は平和を作らない。
これも自然の掟なのだとしたら、今まで考えてきた話はまったく無に帰する。つまり我々人間が能動的に起こせるアクションはほとんどない。
どんな政策を思いつこうが、がんばろうが、自然の成り行きで腐敗した社会が暴力的に定期的に置き換わるだけである。
この問題こそ、21世紀の政策を考える人たちが真摯に向き合わなければいけない課題だと感じている。
我々は抗うだけ無駄な存在なのか、それとも違う方法があるのか?
さまざまな背景を想像した上での個人的見解としては「新しい希望を創出することこそ、今の為政者が取り組んだ方がよい問題である」と元に戻りたい。
なぜなら、少なくとも今までと同じスイッチを信じていただけでは、同じ歴史を繰り返すことになる。
幸いにして、今世紀は人間にとって面白いイベントが多数待ち構えている。
初めての高齢化をキープした人口減少もそうだが、AI時代においてシンギュラリティが語られ、人間の脳を含めてたいしたことがないことがわかってきている今、人間存在、人間という生物に対する深い理解とチャレンジがこの世紀では実現してほしいと思っている。
そうすれば、少なくとも人間の抵抗が無意味なのかそうではないのか?のテストにはなる。
今の各政党(もしくは個人かもしれないが)が取り組むべき真の問題は、深い人間理解のもと、無邪気に自分自身を信じて、今までの政策アプローチをそれこそ破壊することであると思う。
そのためには、信念が必要で、そのためにはテクノロジー的な人間理解が必要で、その先には死生観と自然との対話や芸術が必要である。
さもそれが実現されたならば、平和ということが人間にとって必要なことなのかどうかも含め、本当の信念ある目標として成立させることができる。
「世のため」とは人間社会のため、「人のため」とは他人のためなのですから、人間至上主義のエゴイズムがほとばしっていることにはかわりありません。さらにいえば、自分のためでは無いということによってあたかも「エゴイズムではありません」っていう大義名分を得るわけですから、むしろ危険です。
「世のため人のため」は人間中心の利己なのですから、どうやっても、地球のためとか宇宙のためとか動植物や国土風土のためだとかいう価値観には直結しえません。
道徳と称するものは、(儒教の)信仰ですから、「道徳はエゴイズムだ」というのはタブーであり、嫌悪されます。中国文化圏は儒教信仰で、日本というものも儒教国家です。そして、国家社会を維持するための方策として、儒教が教化されてきました。信仰を「間違っていますよ」と指摘されると怒るわけです、己の誇りの無さを埋めるために依拠するところですから。信仰とは、無批判に善悪が決まっていて、自然法則は抜け落ちます。日本は儒教国家ですから、儒教や道徳を批判することは国家社会の既成構造、既成状態を批判することと同じ、すなわち社会の既成状態によって助かっている人々にとって、儒教批判はタブーで、絶対にダメであるわけですね。
さて、例えば「一番じゃなきゃダメ」だというスパコンにせよ、その神戸のスパコンのケイってやつは確かに例えば気象シミュレーションに用いることで災害予測技術の向上にも活用されています。災害予測をすることで、「かけがえのない人命」が助かると、ほぼ皆思うでしょう?
人類は人間至上主義で、他の動植物や地球や宇宙のことが抜け落ちています。例えば、人命のためだとか、国家のためだとか、人類のためだとか、子孫繁栄のためだとか、そういう目的で資源も浪費するし、地球を破壊して、それでもなお増殖しようとしてきました。その異常性を省みることすら、ほぼ全ての人は、しません。
人命のためとか、産業のためとか、経済成長のためとか、国家のためだとか言っていれば、いくらでも資源を浪費してかまわないという理屈になるでしょう。そのためには、化石燃料を浪費するし、核燃料を遣ってでも電力をジャブジャブ消費可能にしなければならないということになる。防犯のためならば電灯点けっぱなしにもするし、宣伝のためならば看板の電灯も点けっぱなしにするし、自家用車は売りつけるし、誰もがモノを所有し放題で浪費していいという社会状態にした方が都合がいいわけです。
そもそもは例えば神道にせよ、原初の神道、つまり神祇信仰、いわゆる自然崇拝という時点では、地球や宇宙や自然現象に対する畏敬がありました。天皇は祭祀を行いますが、その祭祀の目的は天神地祇、つまり自然や自然現象の御機嫌を読むことです。それは、天皇以前の卑弥呼などであっても同じです。そういう超能力(ESP)であり、そういう職業です。
それに対して、神社神道へと変遷し信仰の対象が人へと換わり、そして人間の我欲を満たすことが主目的の祈願ばかりが行われるようになり、さらには国家主義のいわゆる右翼にせよ国家神道と称する儒教を信仰しているわけですけれども、そうなるともう人間社会至上のエゴイズムです。
人間ってそんなに大したタマなんか? 「かけがえのない命」っていうけど、どうせそのうち死ぬんだろ? それが当然の自然法則であるわけですから、その現実を直視してイヤイヤしないのが、本来の神道(原初神道)もそうですし、本来の仏教(人間釈尊が説いた仏教)もそうです。
儒教や国家主義だけではなく、民主主義とか共産主義とかでも凡そ、人間中心主義から脱け出られません。人間至上のエゴイズムから脱出するには、そもそもの自分自身の思想が、脳が、その域に達する必要があります。デモクラシーであろうがコミュニズムであろうが、当の人々ひとりひとりがその域に達した生物にならなければ、人間至上から抜け出した自己客観視の可能なスーパーエゴのある社会にはなりえないのです。むしろ、民主主義とかいってその域に達しない人が政治参加をして自己批判もしないでいると、エゴイズムによる政治になります。つまり衆愚政治になります。けれど言うまでもなく、独裁体制や階級政治、身分による社会であっても、社会を差配する者がエゴイストであれば、話になりません。
そうすると、今の、安倍日本にせよ、プーチンロシアにせよ、トランプアメリカにせよ、どうなのかって、いちいちここで言うまでもないと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20161228200026
荒木はどうも「主人公が敵を殺害する(≒裁く)」ということに迷いがあると思っている。
火山活動という自然の力により宇宙に放出する。殺害にまでは至らない。
ついに殺害。さらに注目すべきなのが、作中に「裁くのはおれの『スタンド』だッー!!」という台詞が出てくること。ここでは明確に主人公による敵の裁きを肯定している(と読める)。
肉体的には事故死、さらに怪奇現象により霊的にも死亡する。それ以前の展開でも、主人公グループの共闘という形で吉良を追いつめており、フィニッシュブローは仗助ではなく承太郎が決めている。以下の台詞にも注目。
永久に死にたどり着かない状態に置かれるが、逆に言うと殺害もしていない。
殺害するが、直接手にかけるのは主人公ではなくエンポリオ。ただ、作中でエルメェスが復讐を正当化する発言をしており、主人公が悪を裁くことに対する立場に迷いが見える。
つまり、結末は以下の3つに分類できる。
(2) ①主人公が②悪役を倒すが殺害までには至らない。⇒ 1部、5部
(3) ①主人公以外の者(自然現象含む)が②悪役を殺害する。⇒ 2部、4部、6部、7部
ここまででとりあえず増田の以下の疑問
でも吉良と決着をつけるのは仗助でなきゃ駄目だろう!!!
に一つの答えが出る。1部から7部までで主人公が決着を付けているのは意外と1部と3部と5部だけ(2部を含めてもいいけど)。主人公が決着をつけないと「駄目」というほど必然ではない。
「君の名は。」を観た。映画としては面白かったが、監督の東京至上主義的発想がにじみ出ていて気分の悪い作品だった。以下ネタバレこみでどこが気持ち悪かったか書く。
まず、三葉が飛騨に住んでいるのに東京の話ばかりするところが気持ち悪い。飛騨は一応岐阜の一部であり東海地方である。テレビも名古屋のニュースが入るはず。ならば、まず三葉が向かうべき都会は東京ではなく名古屋のはずである。もちろん、東京と名古屋では都市の規模に明確な差があるけれど、「カッフェ」はたくさんあるし雇用も最低限はある。実家の様子を見に行くことを考えれば名古屋に就職するという選択肢も考えられるはずで、そこがすっぽり抜け落ちているのが不思議だ。小説版では三葉が名古屋のことを「大きな田舎」と表現する場面があるらしいが、当たり前だが飛騨よりは名古屋のほうが何倍も都会だ。三葉たちが困っていたのは「カッフェ」がないこと、雇用がないこと、訳のわからない因習があることだ。それらから逃れるためだけならば東京ではなく、岐阜市なり名古屋市なり富山市なり近くの地方都市に引っ越せばいい話である。(岐阜や富山は雇用が少ないかもしれないけれど)三葉が「田舎」を脱出したいという気持ちはわかるが、その向かう先が「東京」である必然性は感じられなかった。
次に、三葉たち糸森村の若者たちが最終的に三人とも上京するというのが気持ち悪い。繰り返し書くが、三葉たちが「田舎」から脱出するなら名古屋に引っ越すという手段もある。それなのに三人が三人とも東京に出てくるのはなぜなのか?また、百歩譲って名古屋が飛騨と同じレベルの「大きな田舎」だとして、「田舎」に彼らが残らなかったのはなぜか?糸森が消滅したとして、その地元に愛着があるなら欠点はあれど飛騨に残るという考え方も抱けたはずだ。特にテッシーは親父が土建屋でその跡を継ぐという選択肢も考えられたはずであり、岐阜で就職することもできたはず。東京に行った三葉と地方に残ったテッシーという対比もできたのに三人とも上京してしまうというのが腑に落ちなかった。
そして、彗星が墜落したあとの三葉とテッシー夫婦以外の糸森町民の姿が描かれないのも気持ち悪い。町は半分くらい吹っ飛んだが避難は完了したはずで、三葉の妹やおばあちゃん、親父さんは生き残ったはずである。それなのにせいぜい三葉の親父さんが週刊誌に載ったことがわかるくらいで妹やおばあちゃんの後日談はない。あたかも彗星によって三葉たち以外の糸森町民は抹殺されてしまったかのようだった。また三葉たちは生き残ったが、糸森という文化は彗星墜落によって消滅してしまった。これは瀧が過去を改変する前も後も実は変わっていないように思えた。田舎の文化や田舎に残った人たちを瀧は実は救えていないのではないか。
(そもそもおばあちゃんや妹は生き残ったのかという疑問もある。ラスト付近で瀧が彗星の被害について振り返ったとき、彼は「突然の避難訓練によって、奇跡的に『ほとんど』の町民が生き残った」といった。この言葉からわかるのはあの彗星墜落によって少なからず死者が出ていたということである。その死者の中にテッシーの親父や三葉パパや四葉が入っていた可能性も後日談が描かれなかったから十分ありうる。神社や土建屋といった「田舎の因習」の象徴である彼らを監督は観客にはわからない形で彗星で消し去ってしまっていたのかもしれない。)
①「君の名は。」の世界には「東京」と「ど田舎(=飛騨)」しか存在しないのが気持ち悪い。地方都市の存在を無視している。
②若者たちは必ず「東京」へ行かなければならず、彼らが抜けだしてしまった「ど田舎」は描く必要がないという思想が気持ち悪い。東京は必ずしも「地上の楽園」ではないし、若者たちが抜けだしても飛騨に残った人たちの生活は続いている。「田舎」は「東京」へ向かう若者たちの踏み台ではない。
この二つは監督の「東京至上主義」から出てきているのではないか。東京以外に日本に都会はなく、あとは全て「田舎」である。「都会(=東京)」は素晴らしく、「田舎(=東京以外)」はくそったれであり、若者は必ず上京しなければならない。自分は新海監督のファンではないので彼が今までどういう映画を撮ってきたかよくしらない。だけど、「君の名は。」を自分なりに解釈するとこういうメッセージがあるように思えて仕方ない。そしてこの発想は「東京以外」にすむ自分としては非常に気持ち悪い。セカイ系だなんたら言われてる人らしいがその手の批判もむべなるかな、と思ってしまうような映画だった。
・追記
一部ブコメに返信
「miruna 軽井沢の田舎のボンボンにはTOKYOがあんなキラキラに見えるんだよきっと。ファーストフードの豊かさを無視してブルジョア高校生がクソ高いカフェでお茶してトラットリアでバイトするんだから。」
これは全くその通りだと思います。自分がなんでこんな増田を書いたかというと恐らく新海監督は長野のご出身(それも関東圏にかなり近い)なので都会=東京なんですよ。彼の原体験にはど田舎(長野)と都会(東京)しかない。近くに札幌や福岡、名古屋のようなそこそこ都会な都市がない。だから地方都市をぶっ飛ばして若者がみな東京にすい寄せられていく話を書いたんだと思います。でもそれは福岡や名古屋、札幌のほうが東京より近いエリアでは微妙に事情が違ってくるはずなんですよね。だから本当はご自身の出身である長野東部を舞台にされたほうがしっくりくると思います。
「Phenomenon あんだけ飛騨を美しく描いてるのにその解釈②はないんじゃない」
この点については「星の降る夜に”『君の名は。』(ネタバレ) - 私設刑務所CHATEAU D'IF http://chateaudif.hatenadiary.com/entry/2016/09/09/232626」というエントリーが自分以上にわかりやすく解説しています。
“ 新海誠本人の田舎への郷愁は景色のみで、ヒロインの言う「都会に行きたい」、東京大好きが本音というところだろうか。彗星には世界が滅びる鬱映画『メランコリア』的な破壊衝動も感じる。人が死ぬ必要はさらさらないけれど、場としての田舎は滅び去れ! 災害描写は3.11メタファーなのだが、滅びるのが予言通り、みたいな乱暴さもあり、ババアの教えや伝統芸能が、街が救われることプラス自分の恋愛のために存在した、というのはすごいナルシシズムだ。 ”
“ ヒロインや友人ら主要登場人物はみんな東京へと去り、親以上の世代のその後は語られないあたり、まさに「親殺し」の物語であったとも言える。”
「メランコリア」は未見なのでよくわかりませんが、自分は「君の名は。」を観て「アクシズが墜落してしまった逆襲のシャア」みたいな映画だなあ、と感じました。人は死ななかったわけですが、彗星の落下自体を「奇跡」で回避できなかったということは、実はかなり絶望的な映画なのではないか、と。彗星の落下は自然現象ですが、その落下を設定したのは監督自身です。彼には田舎の人間(若者以外)を全て抹殺したいという願望があったのでは?少なくとも私は田舎に対する愛着は感じられませんでしたね。
とにかく自分は事実誤認(四葉や彗星の死者数)をたくさんしているということもわかったので、もう一度見返したいと思います。そしたらまた追記を書くかも
結局それって自分次第じゃない?
1日は24時間誰にでも平等にやってきます。それを梅雨と考えるか、やりがいのある「試練」と考えるかどうかはあなた次第です。
あなたが梅雨なんかに負けたくないって思えば、梅雨は梅雨じゃなくなるし、梅雨だと諦めるなら、それもあなたの人生です。
でも、そんなに簡単に諦める人には決して人生の「晴れ」はやってこない。
簡単に梅雨だと認めてしまう人は、努力もせずに愚痴ばっかり言ってる人。
努力もする前から梅雨は自然現象だから仕方ない。悪いのは○○だ、なーんて社会や他人のせいにする。
そうやって自分に「壁」を作って、自分をさらけ出さない。そんなんだから梅雨になる。そんなの悲しいでしょ。
ジメジメした負のオーラで、自分自身を梅雨模様にしちゃう弱い人。だから人も離れていく。
結果を出してる人たちはちゃんと努力してる。自分に厳しく、他人に優しく。
あなたが心の中でちゃんと「晴れ」を作っていけば、梅雨は梅雨じゃなくなる。
梅雨入りしたって世間では言うかもしれないけど、大切なのは自分は自分。それを忘れちゃダメ。
何なんだ一体!?
まるで理解できない
それが本当なら宇宙誕生前は時間も空間もない混沌であったという
なんだそれは!?
それを信じるなら混沌の中からこれが生まれてきたということになる
それでは何らかの存在がこの宇宙を必要としたということじゃないか
混沌の世界から物理法則、質量保存の法則を持つこの宇宙が誕生した?
おかしいじゃないか!
何のために?
もう訳が分からない
でも少なくとも誰かが自分を自分たちを全てのものを見ている気がする
俺の外の外の外の外のどこかにそいつがいる
そいつが神なのか?
途方もなく遠いところにいるやつに会うことはできるのか?
訳が分からない!!
なんで俺がいる?
なんで俺がいることを必要とした?
自然現象とかそんな知ったような科学的な意見を聞きたいんじゃない!
事実として今俺がいるということはこの宇宙が望んでいるということだろうが!
紙に火をつければ燃えるように結果として俺がこの宇宙から許されて存在しているだろうが!
もし必要としないであればこの宇宙そのものが存在する理由もなく法則そのものが存在しない!
何が言いたいのか分からない
とにかくなんな何だ
おかしいだろう
誰が決めてるんだ
おかしいだろう
法則がある存在するということが必要性を逆に導き出してるということに何で気づかない
法則がなければめちゃくちゃルールがなければめちゃくちゃな世界になってる
これが必要でなくてなんだ?
もしこの宇宙にない法則Xというものがあってそれがこの宇宙に無いと困るというのなら
それが無かったときのことを考えてみろよ
何も起こらねえ
何も
自然としてもないと困るわこんなん
んー、なんで工学系だと思ったんだろ。
人文系でも社会系でもreasonableかどうかって議論はするよ。
ただ、そこで背景となる「理屈」っていう枠組みはある意味自由に設定できるんで、自然現象と一致する「理屈」を探すっていうアプローチと違うってのはわかるけど。
合理的かどうか、というのは単に設定した理屈に現象があっているかどうかを言っているんであって、そのこと自体に価値判断は含まれないと思うけど。(もちろん、「今はこのフレームで議論するんだ」という前提のもとでは、非合理性は避けるべきものであるけれど)
(追記:いや、設定した理屈と現象との乖離についてなぜ非合理になってるか、を考えることもあるな。つまりそこには別の「理屈」が存在する可能性があるわけで、それは何かとか。議論してる主体が非合理じゃあ議論にならないけど、対象の非合理性はそれ自体が対象になり得る)
悪意があるとか上から目線とか本気で気にするはしごたんじゃないだろ
あれだけ悪意あるエントリ量産しまくって上から目線で子持ちを叩いてるんだから、人に礼儀や配慮を要求できる立場じゃないことは重々承知のはず。
そもそもズイショのエントリーにははしごたんらしき人物が現れない。
むしろ俺をちゃんとネタにしろよ!と怒っていたんじゃないかな。それか賠償金搾り取って未納にしてる家賃に当てるとか。
なんにしても念仏に出来るネタもらって感謝してると思うよ。おかげでやっと本格復帰できそうじゃん。
いつ犯罪者に変わるかわからないほど、毎日、子連れの若い主婦に対して「殺したい」と思っている。誰でもいいんだ。潰れてしまえばいいのに、そしてベビーカーの中の赤ん坊もこの手でわし掴みにして壁にたたきつけて二度と… その可愛い声を出すこともないように、ただの肉塊にして、いやミンチ状態にして、肉コーナーにパック詰めして100円くらいで売り飛ばして「ザマアミロ!」ケケケ、お前らの愛の結晶なんざ、俺にとっては何の価値もねえゴミ以下なんだ…!ってことを、いつか思い知らせてやりたいと思いながら、とりあえず生きてる感じだな…
気に入らないハムスターを箱詰めにして飢餓発狂衰弱に追い込むはしごたん
俺はハムスターが好きだ。安いし、犬みたいにうるさくないし、死体の処理も手間がかからない。これからもハムスターをとっかえひっかえ飼ってゆくつもりだ。
俺が気付いた時には既に、目を開けたまま横たわり、呼吸が止まっている状態でした。やはり不衛生な監禁生活が良くなかったようです。
黒い瞳
こうやってがんばってがんばって異常性をアピールしたのに鳴かず飛ばずで、現役に粘着するも相手にされず
「そうだ!子持ちに恨み言をいってみよう!2008年のように!」
「金髪豚野郎」で一斉を風靡した泰葉が「フライディチャイナタウン」を熱唱したように、はしごたんは歌う。
かつて大ヒットしたあの歌、「『子供が産まれて感動した』『おめでとう!』…がどんだけの男女を無気力にさせているか少しは考えろ」を。
そして「ある個人史の終焉」で幸福な家族のネット人生を潰したあの日のように、ズイショが潰れる夢を見る。
でも今回のはしごたんはトピ主さんに擦り寄ったり、電子書籍を出そうかなやめようかななんて色気を出したりで売名が透けているんだよな。
その辺も泰葉っぽくて、帰ってきたはてなアイドルらしいと思う。
相手にしないのが一番だわ。
はしごたんに「相手にされなかった自分」という新たなアイデンティティを与えてやれるしな。
相互RSSだ同期ブログだブクマ互助会だと盛り上がった後自粛ムードになっても、一呼吸おいて身内ブクマ再開するのがこれまでのはてなブログ。
よほどひどいブクマスパム以外はスルーしてきたけど、最近アフィブログのブクマ互助会が目について「それはどーよ」て思ってる。
Kindleセール始まりました格安スマホおススメですクレジットカードいかがですか?てそれブロガーじゃなくてアフィリエイター。某物を持たない界隈は定義どうこう以前に広告貼りまくって馴れ合いブクマし合うのが受け付けない。
これはさすがに「複数のアカウントで共謀して同一のURLをブックマークする行為」「広告、宣伝および検索サイト最適化を目的としてブックマークする行為」のふたつにひっかかってアウトなんじゃないの?広告誤クリック狙いのブログがホッテントリに並ぶのは、はてブがアフィブログ御用達なイメージついて長期的にもよくない。
返報性の法則は自然現象?赤信号みんなで渡れば怖くない?「みんなやってるじゃん」とブクマ互助会がカジュアル化してる気がする。
でもカジュアル化進むとアルゴリズムもはてなブログ見る目も厳しくなって、互助会やってないブログも巻き込まれるよね。
あと、ブログ始めて1年以上たっても未だにブクマ互助会頼りの書評ブログさんたちは、さすがに後進に譲って自重した方がよくない?
1. 紐理論は行き詰まっていたと言えるのか?公理論的場の理論の方が説得力があるということで旗色が悪かったというのは分かったが死に絶えたわけではなく、完全に行き詰まっていたわけでもないからこそ復活の余地があったのではないか?
2. 行き詰まっていて、研究者が絶滅したとしてもそれはそれでいいのではないか?自然現象の解釈に紐理論の方が適しているなら、公理論的場の理論が複雑になることで行き詰まり、紐理論がいずれ「再発見」される。それならそれでいいのではないか。
俺がゴミと呼んだ人文系の学問には例えばマルクス経済学がある。あんなものを学問としては認めてはいけないのは善良な市民なら常識だろう。が、仮に学問として認めたとしても行き詰まっていたのは事実を虚心坦懐に観察すれば明らかであったはずなのに結局ソビエト連邦の崩壊まで、それを学者達は「西側のプロパガンダ」などとし認めようとしなかった。その後も日本共産党などは「ソ連のは『真の』社会主義ではなかった」などと見苦しい言い訳を重ねていた。