2014-05-01

感謝の向かう先

http://anond.hatelabo.jp/20140501000451

ありがとう。思案のきっかけが示されて、気分が少しすっきりしました。

感謝対象への違和感自分の中に確かにありました。

 

感謝されるべき相手が違うんじゃないの?ってムカつくことがある。

今日も食事が頂けるのは神様のお陰ですと祈るよりは、

自分なら、料理食卓に並ぶまでに関わった全てに感謝して「いただきます」したい。

「関わる全て」を、人だけじゃなく他の生命自然現象や多くの偶然まで含めて

便宜上「神」と呼ぶのだっていう考えなら、便利だねと理解できる。

 

ムカつくのは手柄の横取りみたいな話。

雨が降るまで祈りを止めない雨乞い祈祷師ならまだましで、

都合のいい偶然を狙っているだけじゃなくて、

みんながお膳立てした手柄をかっさらっていくような

 

固くて開かない瓶のふたを

みんなが交互に顔を真っ赤にしながら開けようとしてるうちに

ちょっとずつふたが緩んできて、さあいよいよ開くぞというところで

ひょっこり現れたヤツが開けてドヤ顔、みたいな

そういうふてぶてしさにムカついてしまう。

 

病院に行って病気の症状が良くなったなら、まず治療してくれた人に感謝しない?

誰かが手を差し伸べてくれたなら、その人こそまず讃えられるべきじゃない?

そこをすっ飛ばしていきなり「神」に感謝するような思考回路に苛立ってしまう。

あなたが信じている「神」は真っ先に感謝されないと拗ねるのかと。

いつでも有り難がられていないと次からもう手を貸してくれないのかと。

そんなに器量が狭い訳ないじゃんと思うんだけども。

 

感謝の気持ちを持つことで心穏やかになるなら、それはいいんだけど

感謝が先にありきで、なんでもいいから感謝したいがために

因果こじつけたら世界が歪むじゃんか

そうやって物事をゆがめてしまったら、

できるはずのものができなくなって、助かるはずのものが助からなくって

結果またどこかで行き詰まって困る人が出るじゃんか

で困ったときには結局、奇跡が起こるのを期待するばっかりになるじゃんか

そういうのがまかり通る社会は嫌だと、私はいちいち腹を立てていたのでした

おわり。

記事への反応 -
  • あの方が手をかざしたら苦しんでいた病気が治ったとか、 災害の中で、あの方を拝んだ自分たちだけは被害を免れたとか、 あの方がいらした間だけ雨がやんで陽が射したとか、 そうい...

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