はてなキーワード: 拡張とは
9月12日(土)、俺は、全身麻酔下で行われる精索静脈瘤(グレード3)の手術を断ることにした。
精索静脈瘤のことは、男性不妊を受診した人なら良く知っていると思う。
精巣の周りの血の流れが滞ることで、玉袋の排熱がうまく機能しなくなり、
精子の運動力が弱ってしまうというものだ。ご存じの通り精子は熱に弱い。
精巣のエコーと触診の後、俺はこう告知された。
左:3.6mm。右:拡張が見られる。自覚症状は全くなかった。
完治を望める治療法は外科手術しかない。保険適用で自己負担は4万円。
命に係わるリスクなんて全くない、腹腔鏡による低侵襲な手術で、
盲腸切るよりもはるかにイージーだ。ひと眠りする間に治っている。
それで、俺の精子が元気になるなら、しない選択肢は無いと、理性ではそう感じている。
†
5chとTwitterで全身麻酔の体験談を読んでいて、本当に気が滅入ってしまった。
過呼吸とパニック気味になり、みっともなく妻の前で何度も泣いた。
「あっという間に落ちる」
「10数えようとして最後まで数え切らずに落ちた」
「一瞬で落ちて、次の瞬間ベッドの上に居る」
これを、苦痛の全くない素晴らしい治療と捉えるか、それとも……
俺は、これはとても怖いと感じた。
手術を受けている間の、無意識下の自分はどこに行ってしまったのか?
目覚めた後の自分は、本当に、目覚める前の自分と同一なのだろうか?
突然プツンと意識が途切れるのは一時的な遮断ではなく、死そのものでないか?
今ここにいる自分は死に、同じ意識をバックアップした他人が目を覚ましているのでは?
そういった、途方もないものを想像した時と同種の、金玉が縮こまる感覚が、ある
手術に対する恐怖心は、弟が大病をしたこともあり、子供の頃から人一倍あって、
手術になったらどうしようと夜一人でベッドで震えて眠れないこともあった。
幸いにして、大怪我一つもせずにこの歳まで生きてきた。
だから、この問いに対する結論は先延ばしにしていればよかった。
その先送りのツケを、今払わされている。
いまどき、ガン告知だって、もう少しあっけらかんとしているだろう。
いい歳して、そのくらい動揺してしまった。精神的に堪えられそうになかった。
精液検査の結果は悪いものではなかった。運動率は少々低かったが。
放置したところで、ガン化したり、命に別状のある病気でもない。
男性不妊以外では、積極的に治療されることは稀という事実も存在する。
言い訳だけはどんどん出てくる。
結局、手術は受けないことに決めた。
†
手術が怖いと訴える若者の存在自体は珍しくもないかもしれない。
幼い時から、気を失う、失神することへの恐怖が半端無く強い。
30年余りにわたり肥大し続けた認知の歪みは、ちょっとやそっとで打ち砕けるものじゃない。
そうはいうが、お前は毎日キッチリ5時間寝てるじゃないかといわれるかも知れない。
正直に答えよう。俺は、睡眠を取ることさえ、怖くなってしまうことが、よくある。
実際俺は、イヤホンでASMR音声を聞き続けていないと、不安のために寝落ちすることができない。
耳から入ってくる音声を頼りに、眠りにつく前の自分と、目覚めた後の自分の自意識が
ひとつながりになっていることを、毎日自分に言い聞かせ、それで漸く、おっかなびっくり
落ちていくことができるようになったのだ。全身麻酔ではそれができない。
手術室でもASMRを流してくれたら、それも可能かもしれない。
先日は、それすら堪えられなくなった。中間過程――睡眠によって4時間も5時間も、
途絶えてしまった自分の意識の屍――を想像してしまい、そのことがとてつもなく、恐ろしく
感じられたのだ。それは、死の時間そのものだ。横たわるベッドはさながら棺だ。
自分という存在が消滅してしまう恐怖を抱えて、どうして、赤子のように、
最近は、睡眠中1時間おきにアラームを鳴らすことで、これに対処するようにしている。
1時間の睡眠ならまだ「こちら」へ戻って来られるという感覚的なものが、自分の中にはある。
ウトウトしたかと思ったタイミングで、アラームが鳴る。現在の時刻をチェックする。
これを繰り返すことで、無意識を回避しつつ、朝までの時間をやり過ごす。
論理ではないのだ。
結局自分が納得できるかどうかが、恐怖を乗り越えるのに一番大事だと思わされる。
全身麻酔ではそれができない。
手術室でも1時間おきに覚醒させてもらえれば、それも可能かもしれない。
(思考実験をしてみたが、30分で完了する手術なら、躊躇なく受けていたと思う)
昏睡への恐怖を訴える患者に対して、麻酔科のWebページではこう説明されている。
今まで麻酔から目覚めなかった患者は存在しない。必ず覚醒している。だから大丈夫だ。
真っ当な説明だ、こちとら原理まで散々調べたからそれは承知している。
そう、それでも、絶対安全な「作り物の死」であっても堪えられないのだ。
思い出したが、俺はジェットコースターも楽しめない人間だが、それと同根な気もする。
ビビリの俺は、カリブの海賊からスモールステップで難易度を上げていかなければならない。
幸いにして精索静脈瘤には、自費負担にはなるが、日帰り局所麻酔による治療も
存在する(ナガオメソッドは良さげだがとても高額で、貯金を溜めておかないと払えそうにないが)。
どうしても自然な受精が困難であればこちらも選択肢に入れることにしよう。
†
これから20年30年生きていれば、体中にガタがどんどん見つかるはずだ。
脳ドッグを受ければ、脳動脈瘤が必ず1個や2個は見つかるだろう。
祖母は心臓が弱かった。心臓にカテーテルを挿入しないといけないかもしれない。
そのたびに、泣きわめいて何とか全身麻酔を回避する方法を探し求めるのか。
きっと俺みたいな臆病者がガン告知で取り乱し、代替療法にハマった挙句、
治るはずのステージをみすみす悪化させて、全身転移の末苦しんで死んだりするのだろう。
いや、それよりも何よりも、人生の終焉に待ち構えている大関門――死――、
死こそ、人知の及ばぬ、理性の制御できない最たる存在ではないか。
妻や、まだ見ぬ子と、どれだけ輝かしい日々を送ったとしても、それはいつか終わるのだ。
偽りの喜びでしかないのだ。
俺と、その家族が暮らしていた記憶は、いつの日かこの世界から消え去ってしまうのだ。
それに何の意味がある?
運よく在宅勤務で顔を見られることもない。
まさに今この時も、数秒後に脳卒中で誰にも気づかれず突然死してしまう妄念が頭から離れない。
大人になれば、こんなくだらない恐怖は薄れていくものと信じていた。それがどうか。成人して以降不安は強まるばかりだ。
まだ若いから、と一笑に付してきた最悪の可能性が、日に日に、無視できないほど大きくなっていく。
幼少期からの不安感が全く緩和されていないことに、絶望しか感じない。
死の数か月、数日、数時間前、俺は更に激しく動揺し、どれだけの絶望で染められているのだろうか。
どうして自分のことしか考えられない人間になってしまったのだろう。
誰よりも出産を希望していた妻に対して、本当に申し訳が立たない。
それとも、こんなにも死に怯え、生まれてこなければとさえ思っている男が、新たな命の親になろうだなんて、烏滸がましいということなのだろうか?
周辺の恒星系への移動が子孫の存続においてただ一つの道となった文明が
ハビタブルゾーンなど考慮せずに、情報ネットワークのグリットを恒星系間で実現するように
創り上げた人工知性のネットワークを創り上げる。
これらの自律型人工知性は自己増殖と新たな恒星系への到達を最優先として
自己増殖を進めていく。最終的には当該人工知性を生み出した生命体が
絶滅した後も、グリットの情報領域を拡張し、数千万年から数億年の期間にも
及ぶ持続的発展の末に恒星間から、銀河間へとそのネットワークを構築していくことに
なる。
当然、このように生まれたネットワークの価値形態(価値というのは存続させるに
値するか否かのみで判断する)。最終的にこの人工知性はわたりゆく地域ごとに
存在している有機体と自身のネットワークを融合させ、その環境に最適化された
ネットワークを生み出す事が肝要であるという結論に至るだろう。または
何億年という存続と何億という自己繁殖パターンの中で最も優位性があるのが有機生命体が生まれた場所に自身のグリッドを早期に移植し、その生命体とともに
有機生命体の生存可能領域や時間は人工生命と比較して極端的に短期的であることから、最終的にその地域を制覇するのは人工生命であることが自明であるからである。即ちグリッドが生まれたときから、共生を中心としたコラボレーティンブネットワークの形成が人工生命が新たな有機物型知的生命体を恒星系で発見した際の目標となる。
朝晩の洗顔後、保湿していない状態のまぶたにアイプチ用の押さえる棒みたいなやつとかで線を引く。ふたえになったらまぶた以外を保湿。まぶた以外保湿後に線引きでも。
とにかく乾燥させたまぶたに線をつける。
線の位置は理想のラインでなくひだがある(付く)ラインに。擦ったり下まぶた押さえて白目剥いたりしたときにふたえっぽラインできることあるでしょ?そこらへんに。
わたしほぼひとえの辛うじて奥ぶたえ!蒙古ひだがとっても強いの!おかげでまつげはまぶたに押し下げられて軽くだけど逆さまつげ!ビューラーもマスカラも糠に釘、無用の長物なのくすん…☆
わたし思ってたの…幅広の奥ぶたえが末広ふたえならそれってわたしの奥ぶたえも拡張すればちゃんとふたえに見えるようになる可能性が無きにしもあらずなのでは?って!
ひだの位置をずらしていって幅広末広になったらいいなが動機なので平行ふたえを目標にはしていない。そもそもこのやり方で蒙古ひだがあるタイプを平行ふたえにというのは無理なことと思う。
わたしは蒙古ひだが張り過ぎていて平行ふたえに寄せると恐竜みたいな目になるし顔の大きさと目の小ささが強調されて精神によくないのでそこは諦めている。
自分でちょっとやってみて、継続することでふたえの線ができるのではと思ったのでリスクを恐れない好奇心旺盛増田一蓮托生しよ。
明らかなリスクは乾燥。ようは皺リスク。言ってみれば故意に(任意の位置に)皺を作成することは可能か、という作業。
それとまぶたを引っ掻くことで眼球へも負担かかってそう。
月経カップを初めて使用してみたという方が、その体験を所謂「オタク構文的」に仕立てたレポがバズったことがきっかけらしい。
月経カップはユーザー数自体が国内にはまだ少なく、能動的に調べない限り情報が入ってこない中、親しみのあるオタクノリで語られたことで存在を身近に感じられた方が多くいたのだと思う。
興味深くその流れを追っていた中で、「月経カップのユーザーはメリット面ばかりを強調して勧めてくるのでなんか宗教っぽい」という意見を多く目にした。そこで、月経カップユーザーは何となく胡散臭い、という疑念への回答をユーザーとして自分なりに考えてみることにした。
第一に、月経カップは決して安い買い物ではないし、一般的に薬局等での取り扱いもされておらず、ちょっと気軽に試してみる、ということが難しい。
誰だってそのままドブにお金を捨てたくはないわけだから、自分に合うものかどうか、各メーカーの製品を比較するなどして購入する前にかなり慎重に検討している人がほとんどではないかと思う。
「使用が慣れるまで痛い思いをした」という情報もレビューなどを調べればそれなりに目にするので、そのあたりのリスクも引き受ける覚悟の上で(というと大袈裟かもしれないが、ある程度は仕方がないと受け入れて)実際の購入に踏み切っている人が多いのではないか。
そこまで行き着く動機というのは、私の場合には、それまでの生理用品の使用に著しく不快感や不自由を感じていたことだった。
ここで特定の生理用品についてのディスを書くつもりはないので、具体的にどこがどう悪いといったことは詳しくは言わないが、元々皮膚が荒れやすい体質だというのが大きい。
言うなれば最初から、「ナプキンなどの使用に伴う苦痛A」が解消されるのなら、「月経カップの使用に伴う苦痛B」は許容できるという不等号になっているのだ。
苦痛Aの解消にフォーカスが当たっている自分のような人間にとっては、苦痛Bというのは既に自分の中で飲み下してしまっている部分なので、つい「不快が”全部”なくなった!」みたいな言い方をしてしまいがちなのかもしれない。
しかし当然ながら何をより不快、苦痛に感じるかというのは人によって大きく異なるわけで、苦痛Aの方が苦痛Bよりずっとましだという人がいるのは全くおかしいことではない。
それぞれ自分が安心できる道をとるべきなので押し付けるような言い方だけはお互いにするべきではないが、何にせよ人の言う「快適さ」にはその人の価値観や個体差によるバイアスがかかっているという当たり前の話でもある。
加えて、体質や心持ちの方が変わらなければおそらくはずっと要因としては残り続けるであろう苦痛Aに比べて、苦痛Bの方は多くの場合、慣れによって無くなるか、少なくとも軽くはなってくるという、怪我のリハビリテーションのようなところがある。
リハビリとして考えてみると、「この器具を使えばあなたの身体はずっと自由に動かせるようになりますが、慣れない内は痛かったり違和感を感じたりしますよ」という選択肢を自分で納得して選んだ場合、その後練習を積んでだいぶそれを使いこなせるようになったという時に「確かに自由にはなったけれど、リハビリのこういう所がこれだけキツかった」とデメリットを伝える方に向かうよりは、今まで強い苦痛を感じていた人であればより一層「この器具を使ってよかった!同じ悩みがある人にぜひ薦めたい!」という感動ばかりが全面に出てしまうというのも、心理としてそこまでおかしなことではないのではないか。
そういった性質と、元々ある程度各自でリサーチした上で使用している人が多かったという背景から、ある種の「前提」を共有しているコミュニティで閉じてしまっていたという面はあり、そこが傍から見た時の”怪しさ”に繋がる要因であるかもしれない。
そもそも今回バズったきっかけのレポートを書いた方のように、「今までナプキンでもそこまで苦労をしていたわけではないか、人からもらったので使ってみた」というケースは結構特殊なほうではないかと思う。
しかしバズったことで月経カップ含めて色々な生理用品について率直に、気軽に語られるきっかけになったのならばそれはいい機会だし、また、月経カップを使用してみたが上手く使えなかった、という人が自分を責めてしまわない為にも、バズったレポートのような「失敗談」がオープンに聞ける機会があるのは良いことと思う。
私自身初心者の頃は着脱に苦労した経験があり、個人的には「慣れれば絶対にうまくいきますよ」という言葉の方に勇気づけられて練習できたタイプではあるが、「同じように上手くいかない人がいる」とか「諦めてもいい」という声によって安心を得られる人もまたいると思う。
反面、拡散される中で月経カップユーザー側からすると少し「怖いな」と感じられるノリもあった。
ここで少しだけ、仮に今、日本では圧倒的に月経カップ(もしくはタンポン)を使っている人がメジャーで、紙ナプキンを使う人が一番少数派である、という反転した状況を想像してみてほしい。
この状況が反転した世界では需要が少ない紙ナプキンは高級品で手に入りにくいが、それでも”わざわざ”紙ナプキンを使っている人たちというのは、体内に何かを装着する事への心理的な抵抗感など、各自の切実な理由があってそれを選択しているのである。
そうやって自分なりの安心を得ている人が少数いる中で、突然「なんか紙ナプキンていう生理用品があるらしい」という話題がSNSでバズったとする。
紙ナプキンユーザーが圧倒的に少数派である状況で、「紙ナプキンとかいうやばいツールw」みたいに面白コンテンツとして消費されたり、「経血を体内に溜めないで自然に外に出すっていうのがいかにも子宮系カルトの人が好みそうだよね」と特定の思想や集団と結び付けられたり、「公共のトイレに毎回ゴミを出すなんて不潔、感染症スプレッダーになっている」などというネガティブな意見がワッと湧き上がるのを想像されると、少しこの「怖いな」という気持ちが理解いただけるのではないだろうか。
意見を言う自由があるのは当然のこととして、「オープンに語る」ということと「他人の領域に踏み込む」ことは違うし、特に生理用品は単なる「嗜好」や「趣味」という基準からではなく、もう少しプライベートな身体・健康上の理由から選択している人が多いと思うので、その辺りはデリカシーを持って語っていったほうが良いのではないか。
最低でも、〇〇をつかっている人はこうなんじゃないかとか、勝手なイメージや想像に基づいた偏見をばらまくのは良くないし、そういう姿勢こそカルト等と揶揄される”疑似科学”と何も変わらないように思う。
一応補足しておくと、今回バズったことでレポート主の方を責めたりするつもりは全くない。むしろ予想外にバズってしまったことで色々と矢面に立たされてしまい大変なことだろうと思う。
使った人が率直な使用感を述べることは全くの自由だと思う。しかし、その中でも少しだけ読んだ方への誤解に繋がるのではと心配になる部分はあったので、以下は参考として書かせていただく。
月経カップのメーカーのHPなどには身長体重や出産経験のありなしによって推奨されるサイズが書かれており、先ずは自分に合ったサイズを買うことでリスクを抑えられる。
レポ主の方はMサイズを人から貰い受けたとのことだったが、未経産かつ性交経験がないと書かれていたので、サイズが合っていない可能性があり少々心配になった。もちろん体格や個人差があるので一概には言えないが、Sサイズやさらに短いタイプ等もあるので、基本的にはこれから使用される方は最初の月経カップは自分で選んだ方が間違いがないと思う。
また、着脱の度に煮沸消毒したほうがいいか、という点に関して。メジャーな月経カップメーカーの使用方法には基本的には月経期間が終わった後と始まる前に1回煮沸消毒すればよいと書かれており、メーカーによっては必ずしもそこまで神経質にやる必要はないと書いているところもある。月経カップは区分的には一般医療機器にあたるので、「なんとなくこうじゃないか」と各自で判断するよりは、使っている製品ごとに書かれている使用方法を守るのが安全だと思う。
最後に、処女の場合性具等で拡張しないと月経カップは入らないのではないか、という懸念については、逆に経産婦の方やパートナーのペニスは入る方でも月経カップは最初痛くて入らなかった、という意見もよく見る。月経カップ装着の仕方にクセがあるので、ディルド等の性具と比べて考えるより、やはり月経カップ特有の装着の仕方に慣れていくことでしか痛み等は解決しないように思う。
ただ、確かに今まで膣に何も挿入経験がないという方とそうでない方とでは心理的な抵抗感なども大きく変わってくるとは思うので、まずはタンポンなどで挿入しやすい角度や感覚などを練習してみるというのは有用だと思う。
◆追記
ツイッター上で、ここで言及しているレポート主の方に何点か指摘を頂いたようだったので補足。
先ず、「マイノリティとまで言って「月経カップを使う人」をコミュニティや属性にしている時点でうわあと思ってしまう」、という指摘に関して。
文章内で”マイノリティ”という言葉を使用したことに関しては、単に”少数派”という意味で使用したつもりだったが、意図しない含みを連想させる言葉であることも確かだと思ったので、そのまま”少数派”に訂正した。文章の至らなさがあり申し訳なかった。
そして確かに話を分かりやすく進めるために「月経カップを使う人」をひとまとめのように表現してしまっている部分はあるかと思うが、勿論、月経カップユーザーを特定の属性に押し込めたい意図はなく、私の主張はむしろその真逆のところである。
月経カップユーザーが閉じたコミュニティになっていかない為にも件のレポートがバズったことには良い作用があった、という事を書いたはずだったのだが、この日記がレポート主の方に向けて月経カップを「庇え」と言っているように受け取られてしまったようで残念だった。
また、「ナプキンのネガキャンをしている月経カップユーザーだって居た」、という指摘については、もしその「ネガキャン」の内容がナプキンを使用している人を不当に貶めたり、偏見のある発言をしていたということなら、私が問題視しているのはまさにそういう声や、この日記のコメント欄にも発生している「布ナプキンの方が云々」のような発言のことだ。
元々この日記はレポート主の発言に向けてではなく、あくまでその流れに便乗して乱暴な発言をする人たちを危惧して書いたものだったが、結局レポート主個人の気を悪くさせる結果になってしまったことについては申し訳ないし、ここで交換日記めいてしまうのも良くないので以後は更新しないことにする。
ググりゃわかるけど。
まず現実があって、それに対して現実のような仮想空間を作り上げる技術=Virtual Reality(VR)=仮想現実がある。
いまだとHMDを被って3D空間で3Dモデルとかを眺めるのがVR。
そんで現実をベースに3Dモデルとかを被せる技術=Augmented Reality(AR)=拡張現実。
いまだとスマホのカメラや透過型のメガネデバイスで実現している。
あまり馴染みのない言葉だが、仮想現実に現実のデータを被せるAugmented Virtuality=拡張仮想というのもある。
実例がよくわからんが、oculusがカメラで撮影しているものをリアルタイムで3Dモデルに変換してVR空間に再現するのとかやってるやつは拡張仮想だろう。
ほんこれ
日本はいつになったら子どもは親の拡張臓器を卒業出来るのでしょうか?
しかし児童福祉の意識が強い国は例外なく自己責任の強い国であり
自己責任の強い国は自己責任としてどこまでも堕ちることが可能で
親が薬中だったり獄中だったり子ども共々ホームレスになったりする国だからな
「健康」という言葉は現代においてすっかり「正義」とか「マナー」とかそういう言葉...社会善、あるいは社会責任として捉えられるようになってしまったな。
そして何より、社会の中で「健康」という言葉の意味する所が変わっている。10年、20年くらい前には「健康」というのは単に「病気ではない状態」もっと言えば「病識がない状態」であって、個人の範疇から大きく外れることは無かった。
例えばタバコを吸う当人が「これはストレス解消になってるから、(総体として)健康のためなのだ」と思っていたら、疑問符は付くものの概ね健康のためなのだろうと社会的に捉えられていた。
しかし、この10年、社会活動家の影響や、コロナの影響、そしてインターネットとSNSの発展により、「健康」というのは急速に社会的なものとして拡張されるようになってしまった。社会の視線が入ることにより、「健康」というものはより画一的で厳密な物になってしまった。誰もが何時如何なる時に見ても健康でなければそれは健康ではないという、時間、空間を問わない社会視線によって健康が評価されるようになってしまった。
現代ではもはや「ストレス解消のために不健康な振る舞いをすること」はもはや許されない。見知らぬ誰かがあなたがそのストレス解消行為をする所を見たときに「不健康だ」と感じたならその時点でもはや健康ではないからだ。ストレス解消はいつ、だれが見ても"健康"な方法で行われなければならない。(タバコなどはもっての外だ。この20年で完全に加害性のシンボルとなった物はどう考えても「健康」じゃない。)
そしてその社会性をもってして「健康」は社会規範になった。健康は皆が守るべきルールであり、そこからの逸脱は社会意識に欠ける振る舞いだと見なされるようになった。(卵が先か鶏が先かは私は存じないが)「不健康」は「加害」であると見なされるようになった。
不健康という言葉は表向きは「あなたのためを思ってやっている」と言う態度を示しているが、その内実は「社会規範に従わなければどうなるか分かっているな」というヤクザの脅し文句に他ならない。
どうも都合のいい総括が行われているようだ。
IthacaChasma 3本の矢のうち、1本目(金融緩和)は上手くいった。しかし日銀は金融緩和はできても需要は創出できない。2本目の財政出動が全く足りなかった。おかげでデフレ脱却ができず、賃金も増えなかった。消費税率上げは最悪。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20200902213816
本来のリフレ政策がどのようなものであったか、振り返ってみよう。
戦後の各国は、ケインズ経済学の影響の下で、財政政策および金融政策を用いてマクロ経済の安定化を実現するという枠組みを受け入れてきた。しかし、世界的な固定相場制が崩壊した1970年代以降は、マクロ安定化の手段は金融政策を主軸とし、財政は基本的に公共財や公共サービスの供給に割り当てるという考え方が定着するようになった。(略)したがって、金融政策をそれ(引用者注:国内マクロ経済の安定化)に適切に割り当てておけば、財政政策をマクロ政策に用いる必要は特にない。
岩田規久男(編)『まずデフレを止めよ』 pp123, 124
この認識を支えていたのが、
1920年代の長期的成長経路への回帰という意味での終焉については、さまざまな要因が指摘されている。「1940年3月のドイツ軍フランス侵攻によるヨーロッパからの大量の戦争資材の発注による輸出の急増とアメリカ自身の軍事費の急増による拡張的財政政策」(加藤[2001]199-200頁)を強調するのは加藤出氏である。白川方明氏も同様に戦争を強調する(白川[2002a])。(略)
アメリカが参戦したのは1941年だが、生産はその前にすでに上昇している。1940年にはほぼ終焉が完成していると考えるべきである。(略)1941年以降、財政支出が増えたことはそのとおりである。しかし、それまでの時期については、それほど増えていない。(略)
さらに、安達氏の研究でも、公共投資の増額は大恐慌からの回復、終焉とあまり関係がないことがわかる。デフレからの脱出が達成された1933年には公共投資は減少していたし(ルーズベルトは、就任と同時に緊縮財政を行っていた)、40年にはまた減少していた(図表5-3を参照)。
岩田前掲書 pp159, 160
という実証と、
そもそも、先進国のマクロ的な景気対策はほとんど金融政策に頼っている。というのは、資本移動が自由な場合、金融政策が財政政策より効果的というマンデル=フレミング理論のほかに公共投資のような財政支出は特定の利益集団に利用される可能性が高いために敬遠されるからだ。広範な消費者を対象とする減税政策であれば、こうした問題は避けられるが、財政赤字を考えると減税の余裕はないからだ。
岩田前掲書 p210
という理論だった。すなわち、緊縮財政であっても(緊縮でない方がベターであるにせよ)、レジーム転換を伴う十分な金融緩和を実行すればデフレ脱却は可能だ、というのが本来のリフレ政策であった。これを総括するのであれば、
のいずれかでしかあり得ない。本来のリフレ政策が実現されていたにもかかわらず消費増税のせいでデフレ脱却ができなかった、とする冒頭に掲げた意見は、本来のリフレ政策は誤りであったというのが論理的必然であると考えるが、そのように理解していいのかな?
それも動物など他の生き物や、人形のようにある程度人型を模したものですらなく、本当に人間に近くもなんともないもの。
どう考えても異常性癖・性的倒錯とされるものの一種だ。人前で大っぴらに言えるものではない。
それでもこの性癖は、バレてしまったところでせいぜい変な奴がいる程度で終わってしまう。
(反例として初音ミクと結婚した人がいるが、氏はぬいぐるみやフィギュアを妻と称した写真があるので、どちらかというと人形系統なのだろうと思う。
初音ミクってモノっていうよりキャラクターだし。人形写真を見るにシンセサイザーと結婚した感じでもない。)
さらに不思議なのは、アプローチさえ上手であればこの性質は評価軸に乗ることすらあるということだ。
例えば車を性的に好きな人でも、「愛車はもはや妻みたいなもんだ、だから細かい所でも何でも知っておきたい」だの言えば、なんか車愛が深い人みたいになる。
あまり性的に見ていることをつらつら書き連ねたら流石にドン引かれるだろうけど、それは一般的な趣向でも同じことだ。
(例の漫画は「性的な事を大声で言ったらそら引かれる」という意味では失策だったと思う。)
おそらく「普通と違う」と言いながらも、同性愛や、子供・動物・死体・人形みたいな趣向は皆まだうっすら理解できるのだと思う。
人を愛することが分かる人は、人に性欲を抱くことを理解できる。
だが、生物から遠い所まで行ってしまうとよく分からなくなってしまうのだろう。
変な人ではあるけどそれを率先して叩く人は滅多に現れない。うっすらもわからないからだ。
「なんでそうなるんだ?」「どこに性的魅力を感じてるんだ?」という疑問の方が先に来るだろう。
現実の被害者が発生しないという点はあるが、それは人形だって同じのはずだし、そもそも内心の段階では被害者は発生しないはず。
だから実はここは観点に入っていないのではないかと自分は思う。
何が言いたいかと言うと、叩かれがちな指向趣向って言うのは、皆の根底にある趣向の拡張版なのではないかということだ。
実際LGBTは今、「珍しくないことだ」「たくさんいる」という方向性で理解を深めようとしている。
自分はきっと、小児性愛も珍しくないと思う。犯罪と隣り合わせな部分があるから難しいだろうけど、差別と犯罪を切り離して考えられるようになるといい。
こういう皆がうっすら持ってる趣向の範囲のことが一番難儀だから、救われたらいいなと思う。自分たちは別に救われる必要がないから。
黒柳徹子は考えた。
すでに人間がいないので、チンパンジーを椅子に座らせると徹子の部屋を開いた。
さすがの黒柳徹子も徹子の部屋を常に開いていない場合、命が尽きてしまう。
チンパン「ウホホ」
徹子「あらそう、そんなことが(笑)」
徹子はとりあえず嬉しかった。
事実森が消えてチンパンたちが死ぬと、地球から徹子の部屋を開ける場所が急速になくなっていった。
食料も水も酸素もいらない。しかし徹子の部屋は開かなければ死んでしまう。
黒柳は長い時間を掛けてケープカナベラルに残った無人のシャトルを横領し、火星へと飛んだ。
そこから数十万年、黒柳の子孫である玉ねぎ一族は玉ねぎ頭を揺らしながら火星を蹂躙することになる。
徹子たちはなにかに飢えていた。
ボランティアに身を投じたい。
火星で、それも徹子しかないこの場所でボランティアなど夢また夢だ。
この飢餓的な意識は火星の岩石に向けられ、死に近くなった徹子種は岩石を守るように死んでいった。
数学の記述としては座標系を入れないのは不自然というのは同意するよ
一旦入れた後で取り払って公理系を作ったりしないといけないのだろうし
ただ、数学の自然な記述が人間の原始的な形への理解の形と近いか、というのは、人によるだろうが大半の人にとってはNOだと思ってるし、中等教育の数学の単元は数や図形を扱う方法を学ぶ演習(名前変わってるけど算数の延長)、ぐらいの意味合いだと思うので学問としての数学からみた自然な記述である必要がないと思う
積木や製図用具を目で見て触って得られた経験則をひとまず整理してみた、という出発点で教育を始めるのなら、
脳内にあるモデルとの差異が少ないから受け入れもしやすいでしょ。それが直感的という意味
中等教育までぐらいは、経験則を拡張して肉づけしていくのが目標の一つだと思う。それが学問など必要のない人たちの底上げにつながる
三角形の内角の和は180度、確かに外角と内角の和は180度というのは明らかに見えるからそうだな、という確度のレベルで拡張してやればいい
高等教育では、学問をやらなきゃいけないので経験則を要素還元してなるべく経験則でない形にして、仮定を減らしていくのが目的となるだろう
Word Editorという今時珍しいWYSIWYGのFirefox拡張があって、今それで書いてる。
打ち消しもスタイルシート仕様なので反映されない。まあこれは辞書にタグ登録のほうが楽か……。
ただやっぱね。
テーブルが楽。
行00 | 列01 | 列01 |
行01 | ||
行02 |
WYSIWYGなんてローカルな技術、ほんといまどき衰退しちゃったからなあ……。
全部サーバサイドで実装されてる時代になって、結局衰退して今またという。
😄顔文字は一発挿入。
₻特殊文字も同じく。
こんな拡張。
興味ある人は使ってみては。
ブログ持ちの人などにも。
https://addons.mozilla.org/ja/firefox/addon/word-editor-addon/?src=search
毎年思うのは、コレ合筆してくれねぇかなぁ、ということだ。
土地の数の単位を筆という。目には見えないけれども土地は区切られている。大体の土地には1筆ごとに番号がついている。
これは「公図」というものを見ればわかる。公図は登記所や一部の自治体の窓口で有料で見る(もらう)ことができる。
昔、土地に番号をつけて管理をするということになったとき、多くはその時の土地の所有者や利用状況によって区切られた。
その頃の建物一棟の敷地とか、その時の田んぼ1枚とか(もちろん違うこともある)。
そこを後になって違う使い方をするとき、新しい使い方の一区切りごとに区切り直す。範囲を決めて土地を利用したり所有したりするには筆単位にしないと色々と面倒だからだ。
そのとき、新しい形を上書きするだけのことがある。もとからあったいろいろな線の上に、改めて四角形を書くようなイメージだ。
また、隣の土地を新たに自分の敷地に加えるというときに合筆(2筆の土地の間の線を消すこと)をしないということもある。
そうすると、今の1つの使い方をしている土地の範囲、例えば柵で囲われた住宅の敷地とかの中に、いくつもの筆があるという状況になる。
それの何が面倒なのかと言うと、一つには画地計算だ。
市街化が進んでいるところの土地は大抵画地計算法というやり方で固定資産税を課税するための土地の評価額を計算する。
この方法では土地の間口や奥行きを測らなければならないのだが、測る範囲は大抵は同一の利用をしている範囲だ。
同一の利用をしている範囲内にいくつもの筆があると、それぞれの測量図を引っ張り出してこなくてはいけない。
もちろん、画地計算が未だに電子地図上でできない(ウチが導入してないだけ)のが悪いのだが、仮に出来たとしても昔の測量図はスキャンしないと始まらないので面倒なのには変わりない。
測量図も含めて全部電子化してぇなぁ。でも上を説得したりするほどのやる気はない。
面倒な点の2つ目は評価だ。2つ以上の筆で1つの評価単位になる場合は処理がめんどい。
単に同じ評価にするだけでなく、何らかの形でこれとこれとこれはひとまとまりですってしておかないと課税システム上で特例適用地積の按分をすることができないし、
地図上にそれを表すことも出来ない。
これも地図システムから評価できるやつにできれば楽になるんだけどなぁ。例によって自分がやる気はない。
面倒な点の3つ目は、データの数が多くなること、データが重くなること。
ただ、コレに関しては一番の戦犯は国と自治体だ。道路がいけない。街区ごとでいいから道路を合筆してくれたらいいんだけどなぁ。無駄手間でしかないけど。
そういうわけなんだけど、一方では合筆はしてほしくない。
俺は結構地図とか地形とか歴史が好きだ。その点では、公図はかなり面白い。
「あ、ここ昔畑だったんだな」とか、「これが昔の道路だな」とか「この道路は拡張されたんだな」とか「ここに水路があったんだ」とか「ここ湧水だ」とか「池だったんだ」とか、
そういうのが透けて見える。
こういうのは全部今の利用の形に合わせて合筆されたら見えなくなってしまう。
極致は区画整理だ。一旦全部まっさらになるから昔のことは何も分からん。
もちろん昔の資料がなくなることはなく、単に現在の公図がキレイになっちゃうだけだけど、
それでも「史料」に当たらずとも今の土地の形から見えるものがあるっていう面白さが消えてしまうのは残念だ。
まあ心配いらないんだけどな。キレイにするためだけの合筆なんて金かかるだけで所有者使用者にはそんなにメリットはない、んだろう多分。ほとんど誰もやらないし。