はてなキーワード: 嫉妬心とは
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/president.jp/articles/-/41248
個人の感情を社会問題に結びつけて正当化しようとするはてな民が見苦しすぎる。
もう社会の格差問題として語ってたまともな人たちが去っていったよね。
ひろゆき記事のはてブコメントみたら個人の感情が吹き出しまくっててただの嫉妬にしかなってないコメントばっかりになってる。
「あいつらが東大に合格したのは親が金持ちで遺伝的にも恵まれていて努力すれば報われる条件が揃っていたからだ」
「あいつらは自分が努力したから東大に合格できたと思いあがってるようだが常にことことを戒めてやらねば(使命感)」
「上野先生はあいつらにガツンと言ってくれて気持ちよかった(なんか女性問題について語ってたみたいだけどそっちはどうでもいいや)」
「あれあれ、私は事実を指摘しているだけなのに反発するんですかぁ?そんなに自分が努力したって認められたいんですかぁ?」
「それに比べて親が東大ではなく家も貧しいのに東大に行った人は素晴らしいものがある」
こいつらはいったい東大生に何を求めてるんだ?都合の良いサンドバッグか?
「今の東大生は恵まれてる!チートだ!平等な採点だと格差が固定されるから苦学生を優遇するアファーマティブアクション的な仕組みにしろ!」
というならそれはそれで一理あると思う。
もちろんそういうコメントしてたやつが大卒なら家庭が貧しくて高卒の人間に対してちゃんと席を譲るならだけど。
けど、別にそういう要求があるわけでもなさそうだし、むしろそういうものには反対してるよな。
低学歴の人間にたいする見下しがひどいのはこの前の動物園騒動で明らかになったわけだし。
低偏差値の人間を見下しつつ、東大生にはコンプレックスむき出しで足を引っ張ることだけ一生懸命。
なんて見苦しい生き物なんだ。
ただただ「これで勝ったと思うなよー」って言いたいだけに見えてしまうので
何度も同じネタを蒸し返してホッテントリさせるくらいならそろそろ「どうなってほしいのか」考えてくれよ。
毎回毎回懲りずにシャミ子みたいなこといわれても、
シャミ子なら可愛いからいいけどはてブの人ってだいたいオッサンおばさんだし見苦しいだけ。
実家の太さを論点にしたいなら幼稚園受験の話をしたほうがいいと思うし
本当の意味での学歴の話をしたいなら、文系ならロースクール、理系なら先端技術の博士号の人たちにもっと注目すべきなのに
そっちの話は全然しないしな。
「全然わからない。俺たちは雰囲気で東大について語っている」だけじゃん。
運良く東大合格した程度のヒヨッコに対していちいち「いい気になるなよ?」って嫉妬心をむき出しにするんじゃなくて
もっと博士号とった人たちを評価できるようにならんと世の中良くならんのとちゃいます?
そっちはそっちで日本企業の年功序列とか給与で報われないことを批判してるから大丈夫って?
無敵すぎるだろ。なんでそこまでいつでも自分が正しい前提なの?
あんたら何様なの?
私の昔話を思い出して書いてるだけです。
思い出したこと書き出してるので
よく分からない文です。どうぞ。
両親は母と血の繋がりがあり、父とはありません
今の父とは血が繋がっておりません
そんなややこしい家系でも
仲良く暮らしてたと思っていました
私が両親と縁を切るまでの話です。
私は私が生まれて3ヶ月の時に
当たり前ですが当時の記憶はありません
聞かされていたのは
「実父はお前と私を捨てて女と出ていった」
だけでした。
見た目通りその人はヤクザ屋さんでした
娘の私でさえ母に触れることができなかったと
聞いています
母と私は個別に部屋を分けられ
日々が1年ほど続きました
ありませんでした。
月に何回かは会っていました
その間に紹介された母の彼氏その②は
いい人そうでしたメガネかけて真面目そうな
クレイジー野郎は韓国人との間に子供をもつのが夢だったみたいで
お付き合いしたそうです。
久しぶりに会ったら母親は身ごもっていました。
結婚をしていました(知らなかった)
母は私に「ママと一緒に暮らすか、このままおばあちゃんと一緒に暮らすかお前が選べ」
と言いました
その事を祖母に伝えました
祖母は「お前はばあを捨てるんか!!
あんたをここまで育ててきったたのはだれやねん!」
泣きながら私に怒鳴ってきたんです。
当時1年生ですよわたし??
そんなこと言われたら
私が間違ってるんだと思って悩みますよね
結局少し悩んで母と住むことにしたんですけどね。
すごい顔してました。
育ててくれたものの甘えに甘やかされ
お箸の持ち方はおろか、
教えられて来なかったんです。
躾されました
わかった上でこの先ご覧下さい
まだミルクを飲んでいる弟と私、父で
母のいない間留守番をしていました
父は母の送迎をしていたのですが
母を職場に送り届けると父は
死んだように眠って迎えの時間まで起きることは
ありませんでした
母を迎えに行くのは深夜1時
まだ夜泣きをする弟の面倒をみてました。
後に産まれてくる妹2人がいるのですがそれまで
この生活を続けました
全員で5人兄弟です
水商売をやめました
父は子供を見ることはありませんでした
私は中学生になりました
きしょメンヘラになりました
母が昔していたバスケ部を選んだのが間違いで
母はキャプテンをしていたのですが
貶され、罵られ、靴やボールも
1番安いもので揃えられました
それは全然いいんです、実際下手だったし
弟が野球を始めました
全部高級な物たちが揃ってました
言う事聞かなかったりわがままを言うと私だけ
地元の山に置き去りにされたり、
昔は私が言うこと聞かないからだと思ってました
でも今思えば同じことして怒られてるのに
門限があったんですよ、うち
門限は18時で遊びたい盛りの高校生
守るわけないじゃないですか、、
門限を破ったその日から数日
晩御飯が出てこなくなりました
仕方ない、門限守らなかった私が悪い
みんなが寝た頃にコソコソ晩御飯を食べてました
そんなことをしていたからか
ゴキブリ呼びがムカついたので
飯食わなくなったんですよもう3日ぐらい
そしたら母親はその事を仲良い隣人に伝えてたみたいで
あの時人の優しさに触れた感じ、
ほんとにありがたかった
この一件から何をしても母と言い合いになって
父とも上手くいかなくなって
一人暮らしを始めたんです。
生活はほんとにほんとにほんとに
クソ女、アホって呼ばれることもないし
家の物食べる度にお金払わなくていい
父の機嫌を伺って過ごさなくていいし
殴られなくていいし
父が兄弟を殴ってる姿も見なくていい
暴れてる姿を見なくていい
服を無くされることも
お金貸さないと誰がお前を育てたと思ってるねんって言われなくていい
18年間辛かったなぁ
無いと思うけどもしこれを両親が見てくれたら
こう伝えます。
もう二度と会いませんように
中学生の頃に、仲良くなったクラスメイトがいた。Aちゃんと呼ばせてもらう。
Aちゃんと私は趣味が近くて、お互い小説を読むのが好きだった。買った本の貸し借りなんかもしていて、借りた本の感想の手紙なんかもやりとりするくらいだった。
ある日、Aちゃんの家に誘われた。ある小説がゲーム化したのを買ったから、一緒にプレイしようって話だった。
Aちゃんの家は適度にさっぱりしていて、暮らしやすそうなお部屋だった。そこで私がキョロキョロしていると、Aちゃんが飲み物はコーヒーでいいかと尋ねてきた。私はコーヒーが好きだったので、ありがたく了承した。
じゃあちょっと待ってて、とAちゃんがキッチンに入っていくと、ガリガリという大きな音と、コーヒーのいい香りがしてきた。その音は何かを削っているかのような音で、何が起きたか分からなかった私は無作法にもキッチンに踏み込み、大丈夫?とAちゃんに声をかけていた。
一方のAちゃんはキョトンとした顔で、大丈夫って何が?と訊き返してきた。彼女の手元には、鉄で出来た砂時計みたいな道具があった。
彼女が豆を挽くところから煎れてくれたコーヒーは、とても美味しかった。
と同時に、私は彼女との間に壁を感じた。
私はコーヒーというと、マグカップに細かいチップ状の素を放り込んで、直接お湯で溶かして作るものしか知らなかった。
私がコーヒーを飲んでいる間に、「豆から出すコーヒーは初めて飲んだよ、美味しいね」と言うと、Aちゃんは「今まで缶コーヒーしか飲んだことなかったの?」と訊いてきたので、「いや、ウチのコーヒーは直接お湯を注ぐヤツだからさぁ」と答えたら、なんかよくわからない様な顔をされてしまったからだ。
だから、ああ、壁がある、って思った。
たぶん、この暮らしやすそうな家の調度品とか、彼女は塾に通わせてもらえるとか、そういうのを支える根底が何か違うんだな、って思ってしまった。
その日から私は、Aちゃんから少しずつフェードアウトしていった。彼女は何も悪くない。悪いのは、醜い嫉妬心を持つ私だ。
でも、あのコーヒーの味が感じさせた壁を目にして、それでも笑ってられる強さはなかった。
私にも同じような女友だちいるけど、男捕まえる能力と地道に勉強する能力って別物だからしょうがないよ。その子とは付き合い長いんだけど、とにかくコミュ力が高くて、男心を掴む能力がすごい。バツ2で子持ちだが、その後別の男と同棲中という強者。
でも、ほとんどKKO化している昔の同級生のメールの相手もしてあげてるらしくて、その辺は偉いと思う。そのダメ男は無職だけど親が不動産残してくれたから食べてゆくことはできて、ひたすら暇を持て余しているので彼女に日記のような長文メールをしょっちゅう送って寄越すらしい。その子に彼氏がいることは知ってるのでアタックはして来ないけど、そいつのメンタルがヤバそうな時に友だちはメールの返信をしてあげるそうだ。
話がそれたけど、モテる子を羨むなら、いったん嫉妬心は横に置いといて、どういうところがモテる理由なのか研究した方が役に立つと思うぞ。
高嶋ひろみの百合漫画「○○と加瀬さん」シリーズは以前から読んでて好きな漫画ではあるんだけど
話が続くにつれ、というか以前からあったが上京してから露骨に増えだした描写として
男はへのへのもへじに描く
というものがどうにも引っかかるようになってきた。
基本的にこの漫画において男は不浄のものであり不純物であり山田と加瀬にとって障害のような存在として描かれている
出てくる男は2人にとっては皆下衆であり気持ち悪いものとして描かれている
その象徴であるかのように男の顔は全てへのへのもへじに描いている
道行くだけのモブでも男だったら徹底して全てへのへのもへじに描いている
この漫画は百合なので男の存在は邪魔なものという大前提は理解る。
そういったのを当て馬的に出して嫌悪させる事で結果的に山田と加瀬さんの関係が尊いものだという事を強調させる漫画的狙いも理解できる。
山田も加瀬も実はかなり嫉妬心が高いので、男のみならず他の女の子ともちょっと仲良くするだけで嫉妬の対象になってしまう。
女相手でも山田と加瀬の2人には一種の障害として描かれる場合もある、しかしそんな状況でも女は決してへのへのもへじには絶対に描かない。
非対称性として女は可愛く描き、男はへのへのもへじにして露悪的に描く世界である。
ふと思った
これってポリコレ的には正しい描き方なの?
少なくとも自分はこの漫画がそういう部分でポリコレ的に叩かれてる場面を一度も見たことが無い
ここ数年はポリコレの空気も高まってるし、自分も特に意識して情報収集したわけでは無いが同調圧力的に何がポリコレ的に正しいか正しくないかの空気感だけはわかるようになってきている。
それを踏まえると、「加瀬さん」シリーズのへのへのもへじ男描写は「ポリコレ的に正しい」とはどうしても思えない
別に自分はどちらかと言えば、ポリコレ尊重よりも表現の自由のほうが大切だと思ってる派だ
だから別に「加瀬さん」で男をへのへのもへじに描こうがどうしようがそこは作者の自由だし不快なら読まなければいいだけの話だ。
けどポリコレ棒を振り回す人達は「加瀬さん」のへのへのもへじに関しては叩いてる様子を見たこと無い
仮にこの漫画がBL漫画で、女を全員へのへのもへじにして不浄・不快な存在として描いていたらどうだっただろうか?
藤本タツキの読み切り「妹の姉」(姉のヌード絵を妹が描いて飾られちゃう話)がポリコレ的に問題だと叩いてた人は
「これが男の兄弟だったら問題無かった」とかとんでも無い事言っていた
結局は男だったら幾らでも毀損しても良い、という事なのだろうか?
自分が加瀬さんのへのへのもへじ男に対して引っかかるのは、わざわざへのへのもへじにしてまで出さなければならないものなのか?って
百合百合した世界を重視させたいなら、近年ありがちだけど男の存在そのものが最初から無いものとするとか
山田と加瀬の関係性を強調させたいなら、いっそ山田と加瀬以外の全ての存在はへのへのもへじしてしまうとか(言っちゃなんだか加瀬さんシリーズって結構セカイ系的な部分あると思うし)
しかしこの漫画は女の子はみんなキラキラ可愛く愛嬌のある存在で、男は皆へのへのもへじで下衆で不浄な存在であるとしている
そんな不浄な存在を、わざわざピュアな山田と加瀬に仕向けていちいち退けさせる展開を、以前からあるにはあったが、大学編から特に露骨に増えてきた印象がある。
けど、それがポリコレ的に問題視されている瞬間を俺は目にした事が無い
ミソジニー描写は駄目だけどミサンドリー描写なら全然構わない、というのがポリコレの人達の結論でいいんだろうか?
だとしたらポリコレって結局自己愛性のための道具でしか無いという事なんだろうか。
もう一度言うが俺は「加瀬さん」がミサンドリー漫画でも(俺個人の心のひっかかりは別として)そこは表現の自由なのだからそこ構わないと思ってる
私は物作る系のサークルに入っていて、最近コロナ対策しながら対面での活動が再開されたんだけど、久しぶりに活動にいったら初めて見る一年生が割といた(割と人数いる上に夏まで一切顔合わせがなかったのでほぼ顔知らなかった)。初めての人がいる分には多少交流しようかなという気でいたんだけど、有り体にいえばその一年生たちがねじ曲がった承認欲求を曝け出してて目も当てられないかったんだよ。
具体的には外で人の髪切ってたり、その日はペンキを扱ったんだけど、作業着にペンキを塗りたぐってほしいと言われてたりとか。
私の捉え方がひねくれてるんかもしれんけど、それを楽しんでるというより、自分の変さをアピールしてサークル内での個性を確立したいという醜い欲望に見えたんだよな。
私もそういう気持ちはわからんでもないけど、個性っているのは誰でもやろうと思えばできるとっぴな行動をやって確立されるもんではなくってもっと自分のコアの部分を磨くことによって自然に確立されていくもんだろう。
その1年生たちがやってることはただの怠慢のようにしか見えんかった。(あと、それを見ながら笑う周りの上級生の「これでこそうちのサークルや!」みたいな身内感も嫌悪感がすごかった。)
2色目のペンキを塗ろうとしたらもういいですとか言って焦るな。髪切るなら全部剃り上げるくらいやりきれ。そこまで行けばある意味誰にもできないことをするヤバいやつという個性になりうるのに中途半端だから気持ち悪い。それができないんだったら最初からやらないで欲しい。
いつもだったらスルーするか愛想笑いして終わってたけど、今日は朝から気分悪かったから過敏になってただけなのかもしれん。
もしくは今日は喋れる人が少なかった上に、その喋れる人も一年生と楽しそうに話してたから居場所奪われた嫉妬心みたいなのが生まれたんかもしれん。
それか私も昔はこの一年生みたいだったかもしれないと無意識のうちに思い出して拒否したのかもしれん。
どれでもいいけどしばらくはそのサークル行かんだろうなぁ。コロナで人との関わり少ないから数少ない人と関われる場所だったけどな
一昨日オフ会で出会った特撮オタの人(この人は陽キャで既婚)からとても面白い話を聞いたのでこちらにまとめておく。
最近はオタクが市民権を得てきたとか調子に乗りすぎだと言われる。確かに一部のオタク界隈は間違いなくそうなのだが、オタク全体が解放されたわけではない。
市民権を得たのはソシャゲやってるライトオタクやアニメや漫画などが好きなやつらだけ。その他のオタクは相変わらず隠れることを余儀なくされている。
その代表格が「独身の」特撮オタクとフィギュアオタクだ。特撮オタクは直にイベントにいってはじめて一人前と呼ばれる。仮面ライダーを欠かさず視聴しているだけでは輪の中に入れない。特撮系の5ちゃんねるでジゴワットレポートの人の陰口をたたく数の多さがそれを物語っている(らしい)。
アニメなら共通話題を出しやすいが、特撮ものはそうはいかない。必然的に孤独を強いられるし、フィギュアなどを買っている人間は特にそうなる。彼ら彼女らにとってみればオタクというのは未だに隠れるべきものであり見つかれば叩かれるものなのだ。
特に同志を得られなかった特撮オタは自由にふるまうオタクを見ると嫉妬の意識だとかオタクの鉄のおきてを破った人間への嫌悪感で狂いそうになるらしい。そしてアニメオタクを叩きたいという欲望を強烈に募らせるのだ。俺様がこんなに我慢してきたのになんでお前らは自由にふるまっているんだ。許せない、というわけだ。
また、特撮オタクは金がかかる。そのため、薄給の人間が特撮オタをやっているとそれ以外のごらくがなにも持てない。その結果、独身で、特撮以外何も持たない限界オタクが出来上がる。こうした限界オタクは、自分の精神を保つために選民意識を持ちやすい。そして「我々特撮オタクこそが真のオタクである」というトンデモ理論が生まれるのだ。特撮はただでさえ正義を訴えるコンテンツが多く、特撮を見すぎると悪と戦うヒーロー願望を持ってしまうのだという。陽キャさんは半分冗談ぎみに「萌えアニメよりは有害度が高いかもしれないなw」と言っていた。
そんなわけで、オタクへの嫉妬と、陰キャをこじらせて我こそは真のオタクという選民意識を持った特撮オタクが一定割合で誕生する。素直な人間は、その嫉妬心や憎悪をそのままむき出しにする。しかしこれにあれこれと理屈をつけ始めるやつがいてそういうやつらがネットでオタクを自称しながらオタク叩きをするらしい。
この選民意識に同調しやすいのが「BL」界隈の腐女子のうち、友達が少ない陰キャである。これまた腐女子と一口でいってもいろいろいて、多くの腐女子はBLだけが好きなのではなく多趣味であり友達も多いそうだ。ところが、どっぷりBLにはまった結果リアルに友達がいない類の腐女子は特撮オタと同じように選民意識を持ちやすい。また、一定年齢以上の腐女子は、長年の迫害の結果オタクは隠れているべきであるという意識が特撮オタ以上に強い。その結果として隠れてないオタクたちを見ると嫌悪感をむき出しにするのだという。言われてみると、はてなブックマークでオタク叩きをしている人間の多くは年配の腐女子であるな。
こうして陰キャ独身男性特撮オタと陰キャ腐女子は「陽キャオタクが憎い」という理由で結託しているのだという説明だった。
ウェイ系オタクの彼女は、小説書きだがTwitterでは専ら絵師へのリプに徹している。好きな絵師がいたらすぐに感想を送ってふぁぼりつする良質な腐女子である。絵師のはしくれでもある私もその対象となったらしい。1年ほど前から、彼女にたくさんリプを頂いた。本も買ってもらった。
そんな素敵な彼女と私がなぜ距離を置いたのか。一番の原因は彼女が愛されすぎているからだろう。そう、単なる嫉妬だ。
美人で明るい彼女。オフ会などで何度か会ったことがあるが、私が青春時代に敬遠していたタイプの女性なのだ。チア部やテニス部に所属してそうな感じの、スクールカースト上位のウェイ系だった。片や私は陰気なデブス。かれこれそういう人種とは極力関わらないよう努めてきた人間なのだ。恋愛経験豊富な彼女と喪女の私。社会人でお金持ちな彼女と貧乏学生な私。推しカプのこと以外は全く話が合わない。彼女がときどき口にする「大学時代に飲みサーで〜」とか、「推しに〇〇万課金したwww」とか、そういうステータスを持たざる者には逐一グサグサと突き刺さった。何度も言うが、彼女は全く悪くない。私と180度違う人生を送ってきたリア充なだけなのだ。私の醜い嫉妬も甚だしい。
極めつけは、このコロナのご時世。周知の事実だが大学生はほぼ全面的に登校を禁止させられている。様々なイベントに行かなくなったし、家に引きこもる時間が大幅に増えた。しかし彼女は違った。在宅勤務をフル活用し、ここぞとばかりに様々なフォロワーさんと会って食事やカラオケやオフ会をしているのだ。感染症対策は怠っていないというのでそれを咎める気はないのだが、もともと人脈が狭い私は、彼女がTLにアップする飯テロ写真を見る度に複雑な気持ちになった。
そして先月。比較的近場に住んでいるため、私にも彼女から遊びの誘いが来た。久しく誰かと会って話せる機会。私は二つ返事でOKした。
けれど、彼女を見る度に自分の情けなさを痛感し辛くなる。私も彼女のように美人だったらな。彼女のように神絵師ともたくさん話せたらな。それが積もり積もって、気づけば私は彼女の事ばかり考えていたのだ。恋ではないほうの別ベクトルで。
先週が丁度約束の日だったのだが、その前の日にも彼女はフォロワーさんとカラオケで推しの映画鑑賞をしてワインを飲んでいた。私が遊びの時間帯や内容やらを聞いても未読無視(結局、遊ぶ当日の10時頃にようやく既読したのだが…)。そりゃそうだ。彼女はフォロワーさんと遊ぶのに忙しい。1ヶ月間会うのをソワソワ待っていた暇人とは違うのだ。
そう思ったところで、私の中で何かが吹っ切れた。彼女に嫌われると他のフォロワーさんとのオフ会でも気まずくなるのは目に見えている(彼女は色んなオフ会に必ずと言っていいほど参加している)。それは分かっていたが、もう彼女を見てますます自分が嫌いになるのが怖かったのだ。適当な理由をつけて、その日にドタキャンした(最低)。
彼女もそれを暗黙の了解として受け取ったらしい。その日の晩に「嫌われているのかと薄々感じていたが、案の定そうだったと今日分かった。今夜は呑む」とツイートしていた。そのコメントには、多くの絵師からの慰めリプライ。そう、それでいい。もう彼女はたくさんの人に好かれているんだ。こんな嫉妬心の醜いやつとは関わらないでくれ。
支部における彼女の作品を非表示にし、Twitterではこっそりミュートをかけた。堂々とブロ解しないところにも、私の惨めさが滲み出ている。
そのVtuberのファンには悪いが、正直「あぁ、やっと楽になったな」と思った。
(ここから先は話が分かる人用にしか書かないけど、許してほしい。)
去年の12月の彼女たちの華やかな復活には正直興奮したし、投げ銭も少しだけ投げた。
けれど、「話し合いの決着が結局ついてないこと」だったり、「他の10人の子たちが口をそろえて批判していたこと」が引っかかって素直に推すことができず、距離を置き始めた。
よく考えればあの騒動に関しては何も解決していなかった。このまま脳死で応援することは簡単だったけど、それだといつかまた同じことが起こってしまうだろうな、と思ってた。
残された10人の子たちに降りかかる誹謗中傷や、目に見えて下がっていく同時接続数を見て心が苦しくなった。
彼女たちに全く落ち度がないかといえばそうでもないが、一度は心から愛してた彼女たちの凋落を見守るのは心苦しかった。
そのうち、「なんでこの子たちはこんなに苦しんでいるのに、あの子は人気を集めているんだろう」と思うようになった。
自分でも歪んだ嫉妬心からの感情だと分かっていたけど、どうしてもそう思う気持ちを拭いきれなかった。
一方がたくさんのファンに囲まれ、たくさんの投げ銭をもらい、いろんなVtuberとコラボをしているのを見て、本当に心が苦しくなった。
やっぱり素直に応援できなかった。
日の目を浴びないでほしかった。
そして例の炎上、そして今日の事実上活動休止ツイートを見て、すとんと心が軽くなった。ずっとずっと心を苦しめ続けていた呪縛みたいなものが消えうせたように感じた。
あの騒動の本当の原因は何だったのか、おぼろげながら真実らしきものを知ることができた。
多分、自分の気持ちに整理がついたところでもうあの残った10人の子達の配信を見ることはないだろうけど、やっと前を向いていけるような気がする。
とりあえず今はホロライブを見ているが、もうあんな騒動は二度とごめんだから感情移入しすぎないように距離を測りながらVtuberとは付き合っている。
終戦の日は、Y君の命日です。
高校時代の同級生Y君とは、それほど親しくありませんでした。同級生とは言っても、三年間で同じクラスだったのは一年生の時だけでした。その後は、時折廊下などで会った時に軽く話をし、稀にメールをする程度の仲でした。
Y君は、予備校の友人と二人で海水浴場に行って事故に遭ったそうです。酷く天気の悪い日で、彼らの他に誰も泳いでいなかったと伝え聴いています。それ以上Y君の死の理由は誰も話しません。みな察しがついているからです。
しかし、僕は彼の死の理由と向き合う必要があります。悼むだけでは足りないほどの仕打ちを、僕は彼にしてきました。
Y君と最初に話したのは、高校入学初日です。僕らの高校は、マンモス私立高校で、大概は公立高校の受験に失敗した人間が行く学校でした。お世辞にも賢い学校とは言えません。それでも、それなりの生徒を集めて、特進クラスが二クラス編成されます。僕らのクラスはその一つでした。
入学式からしばらくは、みな口々にどこの高校に落ちてこの学校に来たのかを話していました。例によってY君も学区一番の難関公立高校に落ちたそうです。最も、僕らの高校の進学クラスの大半は、その高校か、県下トップの公立高校を落ちてきた人間でした。
はじめは出席番号の近い者同士で輪になるものです。彼と僕の出席番号は二番違いでした。ゴールデンウィークに入る頃には友情の再編成が済み、僕らは別々の交友グループに加わって行きました。
端から見ていて、グループの中のY君の地位は極めて低かったと記憶しています。彼らのグループはみなテニス部でした。Y君はいつもいじられる役回りを演じていました。自分から話を切り出しても「調子乗るなよ」という言葉を掛けられている様子をよく見かけました。
入学式が終わってすぐに、実力試験を受けさせられます。Y君の試験結果がどうであったか僕は知りません。少なくとも、僕より上ではなかったことは確かです。学年トップ十人は公表され、僕は四位でした。
第一志望でこの高校に進んだ僕は、周囲から奇異の目で見られていました。ただ一人、Y君だけは、周囲と少し違う反応をしていたのでよく覚えています。Y君の同じ中学校で、学区トップ校合格間違いなしと言われて落ちた二人を、僕は下しました。そのことをY君は自分のことのように喜んでいました。
その時の僕にはまだ、そんな理由で勉強をはじめようと思う理由を理解できませんでした。彼にとって高校はどのような意味をもった場なのかと怪訝に思いました。今になって思えば、不本意に入学した学校について、明るく思える理由を見つけられた日だったのでしょう。
とは言っても、その後Y君が試験のライバルとなることはありませんでした。二年生からは、進学クラスの文系理系とで別れてしまい、一緒になることはありませんでした。英語の授業だけは進学クラス二クラス合同で、レベルごとの三グループに別れて開かれていたが、ついに一緒になることはありませんでした。二年間、Y君は成績下位クラスから上がって来ませんでした。
交友グループが完全に別れてからも、僕はたまにY君と話す機会がありました。というのも通学に使う電車の駅が同じだったのです。そうかと言って一緒に通う約束をするような仲でもありませんでした。遭えば多少話をするといった具合でした。Y君はよく話しかけてきましたが、僕から何か話しかけたという記憶はあまりありません。
彼の家はごく近所でしたが彼の家に遊びに行ったことはありません。詳細な場所も知らず、団地の名前で知っているだけでした。僕は中学卒業後にこの街に引っ越してきたので、同じ中学校の出身というわけでもありません。彼が普段通学路にしていた道が、僕の部屋の窓から見えます。しかし、駅との直線距離上に住んでいる人と思っているだけでした。
Y君はテニス部に入部していました。中学から続けていたと聴いています。しかし、同じクラスのテニス部員から伝え聞くかぎり、部の中での実力ははじめから下位だったそうです。Y君は小柄で、先も細く、よく中学生のようだとからかわれていました。
Y君と同じグループのテニス部員は、高校二年にあがるまでに部活を辞めてしまいました。部員の層は厚くないものの、後輩にも実力で追い抜かれ、Y君は引退まで団体戦のメンバーに入ることはなかったそうです。
ときに一年生の頃にY君と同じ班だったM君は強豪のサッカー部員でした。髪を染めピアスをしていたM君は、Y君に対していつも高圧的な態度をとり、掃除当番を押し付けて、誰よりも早く部活の練習に行き、後にレギュラーの座を得ていました。少なくともY君はそのような気概を持ち合わせてはいないように見えました。
僕らの通った高校には、進学クラスを中心とした三泊四日の受験勉強合宿がありました。合宿中は山のように課題を出されました。ホテルに着いて早々、会議室に籠ってひたすらに特別授業を聴かされました。それが終われば翌日までに解いてこいとプリントを大量に渡されました。まともに取り組んで解き切れる量ではなく、教師もその事を知った上で出していた節がありました。それでも僕らは、教師の鼻を明かしてやろうと思って夜を徹して問題を解いていました。
Y君は、ちょっと問題を解いては周りに話しかけていました。「どこまで進んだ?」「この問題どう解くの?」と。そして周囲が邪魔そうな顔をすると自虐的に謝った後、「よし、俺も集中する」と宣言して問題に取り組み、三十分と保たずに振り出しに戻るのでした。
高校二年の頃、しばしば僕はY君のクラスでごく親しい友人と受験勉強のノウハウや、進行状況について情報交換をしていました。そこに、部活が休みになってY君が加わったことが何度かあります。
Y君が、自分の勉強について詳細を語ったことはありませんでした。自分より成績の良い人間の発言には同意をし、自分と「同等程度以下」と思っている人間の発言にはあまり信用していないような素振りをしていました。しかし、前者が後者の発言に賛同すると、途端に賛同し出す、風見鶏な態度で話に加わっていました。
僕らはみな自分に合わせて勉強のスタイルを組み立てていました。Y君には、そのような節はなく、彼の尊敬する誰かの勉強の仕方を真似しているだけでした。正確には、真似している「つもり」なだけでした。
僕がセンター試験模試で九割をマークした時、Y君が英語の勉強内容について尋ねてきました。その頃僕は学校で配られた基礎的な問題集で文法問題を毎日大量にこなしていました。ケアレスミスを減らしつつ長文問題に十分な時間を確保するためでした。自宅学習を英語の長文に充てられるよう、学校での細切れの時間は文法を勉強していた方が都合よかったのです。
そのような事情は告げず、学校で配られた問題集を解いているとだけ告げると、Y君は基礎的な問題集にずっと取り組んでいました。かなり後になってから知ったことですが、Y君は毎度の模試では長文問題で大量失点を繰り返していました。長文を読む訓練からはじめるべきだったのに、同じ文法の問題集に何周も取り組み続けていたのです。その後も彼は模試の度に取り組んでいる問題集を尋ねに来ましたが、僕は同じ問題集だと答え続けていました。
時を同じくして学年上位の人間が「単語力が足りない。」と言ってハイレベルな英単語帳に噛りつくと、Y君はそれを無条件に肯定し、同じ単語帳に取り組み出しました。
学年上位の彼女の場合、元から基礎的な語彙力・単語力がしっかりあり、それに支えられて文法問題を解きこなし、身に付けた語彙・文法で長文を読み解き、総合的な英語力を身に着けた後に、日々取り組む実践問題の中で単語力の不足を感じていたのでした。Y君は、そのような事情を知る由もありません。
すべての教科の勉強がこのような具合で、Y君の受験勉強は日々、一貫しないものになっていきました。誰かが「基礎をしっかりしないといけない」と言えば同意をし、しばらく基礎的な勉強を繰り返し、また誰かが「基礎ばかりで実践レベルの問題が解けない」と言えば、応用問題を解き始めました。Y君は、自分の実力を冷静にみて勉強する習慣がなかったのです。
試験が終わっても模試が終わっても、Y君はいつも「次で挽回する」とだけ言って答案用紙を二つ折りにして閉まってしまい、自分が何を間違えたのか何が不足しているのか反省をしているようには見えませんでした。僕らは答案を見せ合い、点数をひけらかし合い、同時に何を間違えたのかも見られ、ときには馬鹿にされ、それを恥じ、次には同じ過ちをしまいと心に誓ったのです。そして口々、「次の試験では負けない」と言い合うのでした。
Y君は、ただひたすらに成績上位の級友に勉強方法・勉強内容を尋ね、それを真似してみるだけでした。あるいは、それで成績の落ちた級友に反省点を尋ねてみるだけでした。自分の頭を使って、自分に必要な勉強をして成績を上げようという姿勢が見られませんでした。
高校二年の秋頃から、学年トップ十人の常連の内で、制服に細工をするのが流行りました。理科実験室から拝借してきた薬品で五円玉や五十円玉を磨き上げ、ブレザーの左胸にある校章の裏に挟むのです。すると鳥をあしらった校章が後光の差したように見えます。上位三人が五円玉を、残り七人が五十円玉をはさみ、模試のたびに奪い合うのです。
事情を知らぬ者が見れば、何のこともない遊びです。どんなにかよく言っても「お洒落」程度のことです。何も知らないでY君がそれを真似して校章に五円玉を挟んでいたのを、僕らは影でクスクスと笑いました。自分の手で掴む喜びを知らないで、努力する苦しみを知らないで、努力した者の成果にだけ憧れるY君の態度を、僕らは気づき、そして内心侮蔑の眼差しで見ていました。鈍い色の五円玉が、それを象徴しているように思えたのです。
勉強をしたからテストの結果が伴うのだという自信が、僕らの中にありました。また、勉強していないから全国模試で他校の人間に負けるのだと悔しがっていました。進学クラスの同志とともに学内順位で一喜一憂するのは全国模試で泣くほど悔しい思いをした腹癒せであり、本懐はみな志望校への合格でした。
正直に言えば、僕は心底彼を見下していました。大した進学校でもない私立高校の成績上位だけを見て、「◯◯君、勉強できるもんね」と言えてしまうY君の姿勢を、僕は内心唾棄すべき存在だと思うようになっていました。
僕は、努力の方向性を間違える人間は愚か者だと思っていました。そして努力すらしようとしない人間を軽蔑していました。他の何もかも投げ打って練習に取り組むわけでもなく実りのない部活動にただ漫然と時間を費やすY君の姿勢は、まさに軽蔑の対象でした。「三年の夏に部活を引退したら、本格的に受験勉強をする」というY君の弁に至っては、この時点でもう勝負はついていると僕は思いましたが、哀れな奴だと思うことにして黙っていました。
当時進学クラスの上位面々にしても、実際には大した学力は持ち合わせていませんでした。勉強すればするほど募る不安を振り払うべく、ビックマウスで自分を鼓舞させ、歯を食いしばって受験勉強に打ち込んでいたのです。
みな手の内を知っているから言い合えた言葉がありました。「普通クラスの連中が努力して行くような大学だから、日東駒専は滑り止め」「明青立法中はセンター利用入試で一学部二学部抑えて、あとは試験慣れ」「本命は早慶、国公立大学」
Y君が目指したのも、早慶の文系学部でした。折りに触れ志望学部を聞いた時に「受かったらいいなぁ」という言い方をしていたので、どこまで本気で受験していたのか分かりません。また彼が将来どういう職業に就きたくてその大学を目指したのかも知りません。いずれにしても、当時のY君の実力からすれば、合格は絶望的なので記念受験だったと思います。
日本で双璧をためす有名私立大学どころか、当時のY君は本気で日東駒専を第一志望にして対策を組んで然るべき成績でした。それにも関わらず、十分な対策をしていなかったのでしょう。そのレベルの大学を「滑り止め」として受験し、行き場がなく浪人が決まりました。
先にテニス部を辞めたある級友は、有名私立大学に合格しました。Y君から学業面で「同等程度以下」と思われていましたが、彼は初めからY君より成績は良く、そして努力の甲斐あって志望校に合格しました。Y君が、センター利用試験で抑えるつもりだったレベルの大学です。
高校の卒業式で、Y君は自宅浪人をするつもりだと話していました。図書館で勉強している方が集中できるからだと本人は話していました。それを聴いて、受験勉強のやり方を根本から間違えているのだから予備校に通わなければY君は同じ失敗するだろうと、僕は思っていました。
僕も浪人が決まっており、同じ境遇の友人らと、どこの予備校に行くか、予備校が始まるまでどう過ごすか情報交換をしていました。しかし、僕は、彼と同じ予備校に通うのは自分の精神衛生に悪いと思い、誘いませんでした。
僕は気心が知れた戦友二人と予備校生活を送りました。定期的に他の予備校に通っている元同級生とも食事に繰り出し、情報交換とリフレッシュをしていました。時には勉強会を開き、時には悪い遊びに繰り出し、予備校生活を満喫しました。僕はY君に対して意図的に声をかけませんでした。
Y君が亡くなった後、彼がどのような浪人生活一年目を送ったのか、聴いて回っても誰も知りませんでした。分かっているのは結果だけです。一年後の再戦にY君は敗れました。彼が受かったのは、日東駒専の文系学部一つでした。浪人してそんな大学行けないと、二浪することを決めたそうです。Y君と伴に最後までテニス部にいた普通クラス出身者が、予備校生活の後に地元国立大学の教育学部に合格したのも少なからず影響があったと思います。
Y君の二浪目については、僅かながらに噂が流れていました。僕らが通った予備校とは別の大手予備校に通ったと聴いています。そしてそれはY君の両親の望みだったという話です。しかしそれ以上のことは誰も知りませんでした。
Y君は、限りなく記念受験に近いであろう第一志望の早稲田大学に落ちました。それでも、今度は明青立法中レベルの大学に手応えを感じていたそうです。高校時代の担任教師の元には、今度は大丈夫そうだとメールが来たそうです。滑り止めに受けた日東駒専の合格は決まっていました。
しかし受かった手応えを感じていた青山学院大学は、不合格だったそうです。その結果が判明した時、既に日東駒専の手続き期日は過ぎていたそうです。二浪して予備校に通い、親に負担を掛けたくない気持ちが働いたのでしょう、Y君は日東駒専の入学一時金を払わなかったそうです。
かくしてY君は三浪目が決まりました。その頃のことは、Y君の級友何人かが打ち明けられていました。「一浪、二浪までは変換できるけど、三浪って、ケータイで変換できないんだね」Y君からある友人に宛てられた最後のメールには、そう書かれていたそうです。
苦しさは後に喜びがあると知っているから耐えられるものです。喜びのために経験する苦しさと、苦しさの後にある喜びとは、価値が全く異なります。失敗の先に成功を掴んだ人間だけが、成功を評価できます。しかし成功を掴めない人間には、そのような言葉は無力です。苦しさの中でも特に失敗は辛く、とても重ねていられるものではありません。
三浪目の夏、Y君は、予備校の友人と二人で海に行き、事故に遭ったことになっています。酷く天気の悪い日で、盆過ぎの海水浴場には彼らの他に誰もいなかったと伝え聴いています。
同行したのが同じ予備校の友人であるのかは分かりません。しかしその新聞を調べてみると、天気予報では、県内は午前曇、午後から雨となっていました。海水浴に出かける天気ではありません。実際の天気を調べてみても、前日から曇り、実際に曇のち雨だったようです。
二人は遊泳禁止柵を超えて、外へ外へと泳いでいったそうです。友人はしばらくして怖くなり引き返し、Y君のことを警察に通報したそうです。海上保安庁と警察が捜索したものの、Y君が発見されたのはそれから二日後のことでした。
沖に流されて生還した人の体験談を、折りに触れ読んでみました。だんだんと手足の感覚が無くなって行き、全身が重く感じられ、乾きと苦しさと絶望のあまりに、自ら沈もうとしても身体は死を受け入れず、数時間に渡って浮かんでいると言います。その間、Y君は何を思ったのでしょう。
暗く塩辛い海の底に引きずり込まれるまでの数時間、海に来たことを後悔するのでしょうか。自らの力の無さを恨むのでしょうか。早くから勉強しなかったことを悔やむのでしょうか。時代を恨むのでしょうか。日本社会を恨むのでしょうか。
人生の遠回りを許さない日本の空気に、Y君は命を奪われました、一体誰が仇をとってくれるのでしょうか――僕はそう思うことで、Y君の死は、自分の責任ではないと思い込もうとして来ました。そんな綺麗事では済みません。彼を死に追いやったのは僕らです。
彼の学業上の相談に乗らなかったのは、彼が気楽に、好きなことをしていたことに対する妬みです。彼が、僕の思う独善的な「努力」をしないことについて、快く思っていなかったからです。「努力」などと呼んでいいものではありません。自分の味わった苦しみを人も味わえばいいという意識は、酷い嫉妬心に過ぎません。
彼が学業面で悪循環に陥っていると知りながら、僕ら「成績上位者」を誤解していることと知りながら、僕らが手の内を明かさなかったのは不当な仕打ちです。Y君は、級友の受験勉強という、励まされる理由にも自信を持つ理由にもならないものを盲信していました。そして、僕らはそのことの具合の悪さに気づいていながら放置し、影で嘲笑っていました。僕らはY君の話を聞ける関係にあったのに、聞かずに見殺しにしました。
こうまで酷い仕打ちをして、どうして彼の死を受け止めて来られなかったのでしょう。
今なお、僕は「僕ら」でないと責任を背負えない弱い人間です。そんな僕にも毎年夏は訪れます。しかし、今に自分一人、罪の念を免れたいがために記憶を上塗りし、忘れ去ってしまうことでしょう。あるいは、もうそれは始まっているのかも知れません。
実家にある、かつての僕の部屋からは、一車線しかない県道が望めます。Y君が三年間、高校に通うために歩いた道です。なんの変哲もなく、田んぼと林に囲まれた田舎の風景です。僕が彼から奪ってしまったものの一つです。