はてなキーワード: 高嶋ひろみとは
高嶋ひろみの百合漫画「○○と加瀬さん」シリーズは以前から読んでて好きな漫画ではあるんだけど
話が続くにつれ、というか以前からあったが上京してから露骨に増えだした描写として
男はへのへのもへじに描く
というものがどうにも引っかかるようになってきた。
基本的にこの漫画において男は不浄のものであり不純物であり山田と加瀬にとって障害のような存在として描かれている
出てくる男は2人にとっては皆下衆であり気持ち悪いものとして描かれている
その象徴であるかのように男の顔は全てへのへのもへじに描いている
道行くだけのモブでも男だったら徹底して全てへのへのもへじに描いている
この漫画は百合なので男の存在は邪魔なものという大前提は理解る。
そういったのを当て馬的に出して嫌悪させる事で結果的に山田と加瀬さんの関係が尊いものだという事を強調させる漫画的狙いも理解できる。
山田も加瀬も実はかなり嫉妬心が高いので、男のみならず他の女の子ともちょっと仲良くするだけで嫉妬の対象になってしまう。
女相手でも山田と加瀬の2人には一種の障害として描かれる場合もある、しかしそんな状況でも女は決してへのへのもへじには絶対に描かない。
非対称性として女は可愛く描き、男はへのへのもへじにして露悪的に描く世界である。
ふと思った
これってポリコレ的には正しい描き方なの?
少なくとも自分はこの漫画がそういう部分でポリコレ的に叩かれてる場面を一度も見たことが無い
ここ数年はポリコレの空気も高まってるし、自分も特に意識して情報収集したわけでは無いが同調圧力的に何がポリコレ的に正しいか正しくないかの空気感だけはわかるようになってきている。
それを踏まえると、「加瀬さん」シリーズのへのへのもへじ男描写は「ポリコレ的に正しい」とはどうしても思えない
別に自分はどちらかと言えば、ポリコレ尊重よりも表現の自由のほうが大切だと思ってる派だ
だから別に「加瀬さん」で男をへのへのもへじに描こうがどうしようがそこは作者の自由だし不快なら読まなければいいだけの話だ。
けどポリコレ棒を振り回す人達は「加瀬さん」のへのへのもへじに関しては叩いてる様子を見たこと無い
仮にこの漫画がBL漫画で、女を全員へのへのもへじにして不浄・不快な存在として描いていたらどうだっただろうか?
藤本タツキの読み切り「妹の姉」(姉のヌード絵を妹が描いて飾られちゃう話)がポリコレ的に問題だと叩いてた人は
「これが男の兄弟だったら問題無かった」とかとんでも無い事言っていた
結局は男だったら幾らでも毀損しても良い、という事なのだろうか?
自分が加瀬さんのへのへのもへじ男に対して引っかかるのは、わざわざへのへのもへじにしてまで出さなければならないものなのか?って
百合百合した世界を重視させたいなら、近年ありがちだけど男の存在そのものが最初から無いものとするとか
山田と加瀬の関係性を強調させたいなら、いっそ山田と加瀬以外の全ての存在はへのへのもへじしてしまうとか(言っちゃなんだか加瀬さんシリーズって結構セカイ系的な部分あると思うし)
しかしこの漫画は女の子はみんなキラキラ可愛く愛嬌のある存在で、男は皆へのへのもへじで下衆で不浄な存在であるとしている
そんな不浄な存在を、わざわざピュアな山田と加瀬に仕向けていちいち退けさせる展開を、以前からあるにはあったが、大学編から特に露骨に増えてきた印象がある。
けど、それがポリコレ的に問題視されている瞬間を俺は目にした事が無い
ミソジニー描写は駄目だけどミサンドリー描写なら全然構わない、というのがポリコレの人達の結論でいいんだろうか?
だとしたらポリコレって結局自己愛性のための道具でしか無いという事なんだろうか。
もう一度言うが俺は「加瀬さん」がミサンドリー漫画でも(俺個人の心のひっかかりは別として)そこは表現の自由なのだからそこ構わないと思ってる