はてなキーワード: 情報量とは
同人誌、中でも「評論」と呼ばれるジャンルが好きで(二次創作や肌色系も大好きですが!)、ネットや即売会で目についた本はとりあえず買っている。
その時に買わないと二度と手に入らない(場合が多い)のが同人誌だ。
昨年の夏コミで手にした数冊の中に、ちょっと変わった本があった。
いや評論系の同人誌は基本的に全部変わっている本なんだけど、その中でも特殊な輝きを放っていたのだ。
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い か
生 活
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と、書かれているのみ。
そして売り子は若い女性の二人組だ。
ちょっとキョドりつつ見本誌を手に取ってペラペラをめくってみると、とにかく「いかの同人誌」らしいことがわかった。
イルカなら、あるいはタコならまだわかるけれど、なぜイカにした。
久しぶりに私にとってのヒット作かもとニヤニヤしながら購入。
リュック一杯の戦利品を背負って聖地から家の近くにあるサイゼリアへと移動し、この場で読んでも通報されないであろう本を数冊出す。
即売会から直行したファミレスでの読書は、私にとっての憩いの時間である。
最初に読んだのは、「いか生活」だった。なのでイカ料理を注文。
発行は日本いか連合、編集長は佐野まいけるさんという方で、どうやらイカの専門家ではなく、アマチュアのイカマニアらしい。あの売り子さんのどちらかなのだろうか。
同人誌の内容は、10人くらいのイカ好きが、それぞれの立場からイカの魅力だったり、イカとの思い出だったり、イカへの想いだったりを綴った合同誌だった。
イカの本というよりは、イカ好きの本という感じだろうか。イカと共に生きる人の紹介だから「いか生活」なのかな。
この本のおかしいところは、同人誌をこれまでに何冊か作った上でイカの本も作ったのではなく、イカが好きすぎて初めて同人誌を作ったっぽいところだ。別にそうだとは書かれていないけど、これまでたくさん同人誌を読んでいるので、肌感覚としてなんとなくわかるのだ。それにしては完成度がやたらと高いけど。
「頭足類」という言葉を覚え、世の中にはこんなに多種多様なイカ好きがいるんだねと満足して本を閉じた。
そしてつい先日、「いか生活」の続編であるvol.2が発売されることを知った。
え、vol.2って。そういえば前回の本にvol.1って小さく書いてあってけど!
おもしろいテーマであれば、多少内容が雑でも売れることがある。だが逆にどんなに内容が充実していても、人を引き付けるテーマでなければ売れない世界。
イカがマイナーかどうかは微妙なところだが、同人誌のテーマとしてはマニアックだろう。
これが「ねこ生活」とか「ことり生活」といったキャッチーな別テーマの横展開だったら、たぶん10倍売れるはず。ファン数の分母が違うのだ。
そして一番売れないのが、マイナーなテーマの続編である。絶対やっちゃダメ。そもそも続編を買うのは、ただでさえ少ない一号を買った人の中の、その一部の人だけなのだ。
おそらくそんなことは分かった上で(そしてたくさんの人から同じことを言われた上で)、あえてイカで続編を出したのだろうという心意気に胸を打たれ、発売日に購入させていただいた。
もしかしたら前号で全力を出し切ってパワーダウンしているかもと思ったが、これが明らかにvol.1よりも面白くて驚いた。
前回のテーマが「イカを愛する人」だったのに対して、今回は「解剖」である。イカそのものに対して、マニアックに鋭く切り込んでいる。
そしてその執筆は半分以上、いや8割くらいが編集長の佐野まいけるさんによるもの。おそらく前回たくさん参加者がいるために押さえていた部分を余すことなく吐き出したのだろう。
最初の記事はスルメイカの解剖マニュアルなのだが、なんと6ページにわたってみっちりだ。
そんなにイカが好きなのかと驚くと同時に、こちらがイカを知ることでさらなる疑問が湧き、なんならもっと詳しく!ここどうなっているの!もっと教えて!って問い詰めたくなる自分に驚いた。たぶん近日中に新鮮なイカを買ってきて、この記事を読みながら解剖する気がする。
まさかイカを「料理しよう」ではなくて、「解剖しよう」と思う日がくるなんて。
そして解剖をたっぷり堪能した後に来るのがイカ料理のおいしそうなレシピ集。そうきたか!
ここまででもうこの本を買った代金分を楽しんだ気もするが、次もすごかった。なんと島根県の水族館?でおこなわれた、ダイオウイカの解剖というイベントレポートだ。
専門家による公開解剖を、イカマニアがレポートすることで、イカの知識が人並み程度の私でも、その希少性と臨場感が伝わってくる。
いや、一番伝わってくるのは佐野まいけるさんの興奮か。その道のプロ(憧れの存在らしい)から学ぶ喜び、楽しさが詰まった解説は、イカヲタらしく専門用語(読み方すらわからない漢字多数)をバンバンと早口の文字で詰め込んでくるハイテンションモード。そうだ、私が同人誌という媒体で読みたかったのは、この圧倒的な熱量なのだ。
そして次のページは、まさかのダイオウイカの試食である。どうやらこのイカ好きにとって、解剖と試食はセットらしい。
食べた部位は漏斗牽引筋(どこだよ)で、その味は「不味さの永久機関」だとか。
とにかくまずいらしく、でも貴重な体験だから記録として残したいし、どうにかして肯定的な評価をしたいという願望から、すごい情報量でまずさを嬉しそうに熱く伝えてくる謎の食レポとなっている。
ようやく食べられるように加工した結果に対する「ぼったくり居酒屋の生ハム」というコメントが最高だ。
「或る解剖者の手記」という作品では、官能小説(それもかなりの上級者向け)ではと勘違いするような赤裸々な感情を綴った解剖の日記を書き、次のページではサンシャイン水族館の方への真面目かつ楽しげなインタビューで、ここでしか読めない話を一般人でも「へー!」と楽しめるレベルでうまく引き出している。一冊の同人誌の中で、文章の種類をテーマごとに書き分けているのが何気にすごい。
そんなこってりとしたイカ情報の合間には緩急をつけるかのように挿入されているのが、vol.1から続く、イカ好きの多様性の紹介である。
カミナリイカをテーマにしたカクテル、イカのオリジナルソングの解説、イカ好きあるある、イカの墨や甲を使ってイカを描く作家さんの取り組み、イカのアート作品など、濃厚な文章で酸欠になりそうになったところで、ようやくこれらが息継ぎをさせてくれる。
久しぶりにすごい同人誌を読んだ。
まー、イカの本なので、こういうのは、好みは分かれると思います、きっと。
個人が退職金使って研究していた内容も全部会社に残してきた。徹底的に詳細にぐうの音も出ないようにかいておいた。質問もいらないように こまかく丁寧に書いておいた。
深夜に変なスピリチュアルの広告読んでゲラゲラ笑った後に、ちょっと思うことがあったから思いついたから書いただけなんだ。
乱雑だし、プロット作りも推敲も何もしていない。ただずっと抱えていたものを吐き出す場が欲しかっただけなので、とりわけ目立つものもない。
これを書いている私は、いま地方大で歴史を学ぶ大学院生だ。ストレートで大学院まで上がった位の年齢だと思ってほしい。
私の専門は歴史だが、そこから興味が広がって宗教や、それに関連する文化の話も好きだ。本来専門ではないけれど、色々本を読んでみたりしている。
そこで思うことがあった。宗教・信仰は本当に人の暮らしに密接に関わっていると実感した。そして、勉強を続けたからこそ気付く事や、それまで抱えていた自分の気持ちに整理をつけることができた。
この記事はそんな私の20年ちょっとの人生で触れてきた宗教に関する思い出の覚書だ。
私の家の目の前には、カトリック教会があって、附属幼稚園が教会のすぐ隣にある。ミッション系というやつだろう。
家からすぐということもあって、私と妹はそこの幼稚園に通っていた。
朝幼稚園に来たら、シスターたちに挨拶をし、玄関のマリア像の前で十字を切る。朝礼やお昼のお弁当を食べる前には「主の祈り(天におられる私たちの父よ~のやつだ)」を唱えたし、クリスマスの時期になれば、年長クラスの子たちがキリストの聖誕劇をやるために練習をしていた。
ああそう、あとメダイもちゃんともらっていた。確か聖母子像か、聖母マリアのものだったはずだが、年に数回会うおじいちゃん(どう考えても教会の神父だ。園長って呼んでいたけど)から、新年度になるたびに名札につけてもらっていた。
そんな幼稚園でキリスト教に触れる生活を送っていた幼少期。年長クラスはクリスマスに聖誕劇をしていたけど、年中クラスや年少クラスだって讃美歌を歌ったり、合奏をしていたので、どこの幼稚園もこういう歌を覚えているものだと思っていた。
卒園式のお祝いには、聖書を分かりやすくまとめた絵本をもらった。絵本といっても結構文字が書いてあるし、ハードカバーの大型絵本だった。聖書の教えも何度か聞いていたはずだが、私がきちんと聖書の物語に触れたのはあの卒園式の日だったに違いない。
既に本の虫だった私は、それなりに漢字も読める方の子どもだった。だからその絵本も気になって、天地創造から長い時間をかけて読み通した。
当時6歳の私は、意味はあまり分かっていなかったけど、ところどころの挿絵のインパクトは強烈だった。
洪水に翻弄されるノアの方舟、モーセが海を割るシーン、キリストが茨の冠を被せられ、鞭うたれるシーン。幼い私は、もうそれはそれはびっくりしたのだ。
それから数年経って、小学校を卒業して中二病が芽生えるような年になった頃、私はイキってまた聖書に関心を持ってみた。
西洋美術が分かるやつはかっこいいし、その元ネタが分かるとなおかっこいいと思っていた。恥ずかしい話だが。
そこでもう一度聖書のストーリーを絵本(今度は妹がもらってきたやつだ。まったく同じ絵本だが)を読んでおさらいし、やっぱり意味は理解しないままミルトンの『失楽園』とかを読んでいた。
この後、ぼんやり興味を薄く抱き続けたまま、今一度大学院に入ってからちゃんと勉強をしようと思い、現在に至っている。世界史とかは大事な要素だしね。
こうしてみると私はクリスチャンのように見えるのだが、家には仏壇があるし、今の興味の原点がある幼稚園時代にはその仏壇で「まんまんちゃんあん(関西で仏壇やお墓でお参りをするときに言う幼児語)」をしていた。祖母は今でも毎朝、犬の散歩から帰ると仏壇の前でお経を上げる。
父方の祖母と同居しているのだが、祖父は私が生まれる1年ほど前に亡くなっている。祖母は幼いころの私の面倒を、共働きの両親に代わって見てくれていたから、幼稚園から帰ると「おじいちゃんにまんまんちゃんあんして、ただいま言うんやで」と言われるがまま、お鈴を叩いて手を合わせていた。今でも何か報告(たとえば大学に受かった時や、卒業認定をされた時)があるときは仏壇の前に座ることがある。
お盆やお彼岸には、お墓参りはできるだけしようと思っているし、昨年京都に行ったときは私の家の宗派の本山のお寺にもお参りした。これは本当になんとなくだったけれど、行ってよかったなとは思っている。
だから私は、今のところは仏教徒で、ごく一般的な日本人の宗教観なのだけど、困ったことに、私はとある宗教の3世にあたる血筋でもある。
名前を出すのは少しはばかられるので婉曲的な表現をするが、先述のように私の家は仏壇のある仏教徒の家だ。宗派を言えば浄土真宗。
ただ母方は宗派が違い、日蓮宗なのだ。分かりやすく言えば父方の祖母は「南無阿弥陀仏」と唱えるけれど、母方の祖母は「南無妙法蓮華経」と唱える。
この時点で察しの良い方はお分かりかもしれない。母方の祖母はいわゆる「学会員」だ。
だから、母方の祖母の家に遊びに行くと某新聞が置いてあったし、本棚を見れば某氏の著作が置いてあった。
母自身は学会員ではない(嫁いでいるし)し、母の姉夫婦もそうでないのは知っている。私自身会員ではない。
だから3世を名乗る立場ではないのだが、私は学会員としての祖母の姿を見て、ああいった宗教に対する疑問を抱くようになった。
実際あの学会について「おや?」と思ったのは、私を可愛がっていた母方の祖父が亡くなった数年後だった。
祖父が亡くなった後、葬儀や四十九日の法要に関しては違和感を感じることはなかった。後になり、伯父がかなり骨を折ったことを知ったのだが。
違和感をはっきりと感じたのは母方の伯母夫婦、大叔母、そして私たち家族と祖母が参加した七回忌の法要だ。
いわゆる法事だから、自分の認識では「お坊さんを呼んで、お経を読んでもらって、そのあと親族で食事をする」というものだった。事実父方の祖父の法事はお坊さんを呼んでいる。
まず、お坊さんを呼んでいなかったのだ。黒スーツに黒いネクタイを締めた見知らぬ男性(見た感じ祖母とそれほど歳は変わらない人だった)が居て、私の知らない親戚かと思っていた。最初は。
いつになったらお坊さんが来るのだろうと思ったら、法事が始まるから仏壇の部屋に来いと言われた。言われるがまま妹の隣に座り、数珠を持っているとその男性が仏壇の前に座って、読経を始めた。
「は?」と思った。なんでこのオッサンがお経読んでるねん。お坊さん来られへんかったん?違和感しかなかった。
どうやら件の学会ではその地区で一番偉い学会員が法要の読経をするということを知ったのは、さらにそれから2年ほど経った頃だ。
ただ法事の時に、伯父が「僕はちゃんとした日蓮宗のお寺に骨を埋めてもらうように言っている」と若干怒気をはらんだ口調で言っていた理由が、理解できた。
母方の伯母夫婦とは、その七回忌の法要以降会っていない。いや、何度か伯母とは会ったが、伯父とはそれ以来もう何年も会っていない。
昔はよく祖母の家にお盆や正月の折に触れて来てくれていたのだけど、仕事の関係で来れない、と言うのが聞いている理由だ。でも、多分彼はきっと、学会員である祖母宅周辺の人に会いたくないのだろう。少しだけ言い合いになっていたし、伯父が祖父の葬儀に口出ししたことで何かがあったのだろう。
同時に、祖母が熱心に読経を一日に何度も行う理由、祖母の家にあった新聞や書籍がなんだったか、芋づる式に分かってちょっとだけ嫌気がさした。
祖母よりも熱心だったのは大叔母(祖父の姉)で、会合(というのがあるらしいが、この辺りは詳しく知らない)にも熱心に参加していたみたいだ。
別にこの記事で批判をしたいわけじゃない。けれど、どうしても伯父の言葉がずっと心に引っかかっているのだ。
「お義父さんの事も、ちゃんとお弔いしたいのにそれが出来ないのはほんまに悔しい」という伯父の言葉が。
いま色々な宗教の事を学び、宗教が社会に与える影響の強さを知った上で、私は伯父の言葉に同意したい。
信仰は自由だ。それはこの日本で認められた権利だ。けれど、大好きだった祖父のことを、あんなジジイの安い読経で弔いたくはないのだ。
そしてああ言った新興宗教団体が、親族との軋轢を産んでいることを伯母夫婦の一件で身に染みて実感したのだ。
母方の祖母と我が家の仲はいい。祖母はいま一人暮らしだし、私も長生きしてほしいと思っている。
けど、少しだけわがままを言うなら学会と縁は切ってほしいかな、と思わなくはない。
少し愚痴っぽくなったが、最後にその新興宗教がらみの話をちょっとだけ聞いてほしい。
大学進学以降そうした新興宗教がらみのトラブルやエピソードは少なからずあると知った。友人も巻き込まれたことがあったらしい。
大学の最寄駅前には某証人の人達が冊子を配るために立っているし、家にも何回かチラシがポスティングされたり、勧誘がそもそも来たりした。迷惑だから帰れ、と総スルーをかましたが。
去年なんか、右翼のおっさんが一般人に絡んで暴行しかけた事件の証言を、某会の勧誘をしていた女性二人がしていて「情報量が多い!」と内心ツッコミを入れた現場を目撃した。
彼らも、それを信仰するのは自由だけど、私のように嫌悪するまでもないがもやを抱えた人間を周りに産んでいるのではないかな、と時折思わなくない。
スピリチュアル系のトンデモ科学に関するツイートがTwitterなどでも話題になりがちだが、そういうのを見ても「ああ、なんというか、かわいそうだな」と思ってしまう。
思ってしまうだけで、それを思いっきりネタにして笑い飛ばしているあたり、私はかなり嫌な人物だなと自戒しなくもないが。
何度も言うが、批判する意図はない。あなたがもしここまでに挙げた何かの信者であっても、私は知らない。
ただ、ひとりの学生が格好をつけて、自分は何を信仰しているのだろうな、と思い返すための文章だから、大した感想も求めていないのだ。
特定防止に色々ボカして書いているため、情報量が少ないのをご容赦願う。
必ずしもADHD全般に当てはまる特徴ではないかもしれないが、私は元々調子の波が激しい人間である。それは『日ごと』のレベルもあれば『5分単位』まで様々である。それゆえに、『決まった時刻から』『決まった時間内に集中して課題をこなす』というのが非常に苦手である。こんなことを書くとすぐにでも「大学の試験とかも全部そうだろ」という指摘が飛んできそうであるし、全く正しい。実際、過去に私が単位を落とす理由でもあった。(脚注1)
しかし、それでも苦手なりになんとか考え、特にADHDの治療開始後は
等の工夫をすることで、本来はアンコントローラブルな調子の波をどうにか本番に合わせてきた。
これだけの工夫してもなお、苦痛であることに変わりはない。とはいえ、これは1年のうちのたかだが4回ないし8回程度の試験期間だけどうにか行っていたことである。
しかし、競プロではそれが毎週のように課される。断続的に『調子の波を本番に合わせる』タスクを行うことは、大げさに言えば精神的な自傷行為のようなものであった。
まず、競プロが総合的に『楽しい』と思っているならば全く問題ない。ぜひ続けてほしい。
競プロに対して不安や苦痛を感じてる人達は一度、自分なりの競プロとの付き合い方を考えてみると良いかもしれない。
『趣味で始めたけど今はちょっと……』という人は、しばし距離を置いて競プロを休んでみたらどうだろう。少し胸のつっかえが取れたらまた楽しく参加できるかもしれないし、他の趣味(CTFとか、特に関係ない娯楽全般)に出会うこともあるかもしれない。
これは私の偏見だが、『競プロの成果がなければ就職できない 』かつ『競プロの成果があれば就職できる』という必要十分なケースはそう多くないと思う。潜在的にでも競プロの成果を出せる人は、大学(院)の研究なり講義で学んだ内容なり、何かしら他の方法でそのコーディング力や数学的・論理的思考能力をアピールできないだろうか。逆に、それらを評価できない程度の採用担当者が『競プロ』という物をそもそも評価できるのかとも思う。大学との両立に悩むのなら、やはり競プロを休止して大学の学習や課題に専念するのもアリだと思う。
当記事に対し競プロ関係者などから怒られが発生した場合、当記事は予告なく消滅する場合があります。
某プログラマーの十数年前のブログ記事がバズっている。それを読んだ前提で書く。あの記事への呪詛めいたものだ。
そりゃあお前から見ればお前以外のプログラマーは全員意味不明な大馬鹿野郎にしか見えないだろうよ。お前がそう感じるであろうことには同意する。1日100行しか書かない奴なんて仕事サボってるやつだしそれ以下のやつなんて無益な物体でしかないよな。気持ちはわかる。でもそうなるしかないんだよ。俺は俺たちはお前の思うゴミカス共程度のモノにしかなれない。何が論理性を捨てろだ?感覚でできるから感覚でやれるだ???逆だろ論理でしかできないから論理でやってんだよ。なんでその程度のことが認識できないんだ?????
例えば絵を描くときに「見たまま描けば写実的にかけるよ」なんていう情報量0のウンコを頑張って無視してやれ骨組み人形だの解剖学だのツイッターに貼られる4ページHowto解説だのを頼って一足飛びで「描けるという結果」をひねり出してんだよこっちは。その頼る解説だって基本的に糞だ。例えばスポーツに関してでもyoutubeに大量にある「誰でもできるバク宙講座!」みたいなカス動画は誰でも《任意の高度な身体動作を代入してください》をできると言いながらそれを実行するために必要な基礎身体能力(筋肉量・体幹・柔軟性etc)に言及してすらいない(してるやつがいたら教えてほしい)。どいつもこいつも適当なことしか言わない。高校の頃に居た数学を教えるフリしながら「なんで分からないのかが分からない」と言いまくってた教師みたいなもんだ。もう一度言うが感覚がないやつは感覚じゃできないんだよ。感覚でやればできるんだから感覚でやればいいなんでやらないの???という主張は感覚でできないやつには一切なんの関与もしない。無だ。0だ。虚無に対しては無視する以外のどの手段をとっても俺たちにとって不幸だ。だからどうでもいい。才能のある人達同士の毛づくろいとしてだけ消費されるべきだ。その用途なら存在価値があるだろう。
件の記事は総人類の大半を占める凡百共には一切関係のない話だ。論理的思考を放棄せよだ?唯一の戦う手段を捨ててどうすんだ???????才能と感覚のないやつがやっていくための手段をこき下ろしてバカにして楽しいか??????????こっちはしたくもない努力を努力して努力するんだよヒーコラ言いながらクソみたいな思考をエミュレートしてんだよそれがどんだけ処理の遅いもんだったとしてもそうするしか無いから。なーにがこれは誰にでも実行可能ですだよここが一番腹立つわどういう見識ならそんな嘘八百がでてくるんだよご丁寧に別記事で方法論めいた怪文書まで用意しやがって嘘を嘘とすら認識できてないのか????????????
あの記事のことはさっさと忘れろ。意味がない。悪影響すら及ぼす。糞が。糞が。クソが!!!!!!!!!!!!!!
小学二年生のときにプログラミングを始めたという才能人(さいのうんちゅ)の意見なんてちゃんと無視して自分の人生をやりましょう。それがいいと思います。
あと、多分俺はあの記事を書いた本人よりそれを拡散してツイッタートレンド1位に持ち上げた奴らの方により腹が立っています。ちゃんと無には無だと言うか皮肉でも言って返す程度にしましょう。でなければスルーしましょう。
あとあの記事は2007年のものなので、今現在の氏がどう考えているのかはわかりません。
以上です。
ゴミカスうんちを読んでくださってありがとうございます。
普段何を「見て」いるんですか
似たようなパッケージとはいえ品名しか文字が入ってないし、麦茶が飲みたくなった時に「緑茶」「麦茶」「ほうじ茶」の中から麦茶を選ぶのはそう難しくないと思うんですけど。
今日の夕飯にジューシーな唐揚げを作りたい!って思ってスーパーに行くと大体「国産若鶏むね肉」のすぐ近くに「国産若鶏もも肉」が置いてあると思うんですけど、緑茶と麦茶、50%一致した並びの文字の認識に難がある人は正しく国産若鶏もも肉を買ってジューシーな唐揚げを食べられているんですか。何回かに1回もも肉とむね肉を間違えて買ってきてパサパサした唐揚げを食べてるんですかね。
スーパーに行くと赤地に白文字の牛乳の近くには大体白地に青文字の牛乳が置いてある訳だけど、なにを基準に選んでいるんでしょうか。「いつも買っていない方」の牛乳は脳内でどう処理されてるんでしょう?
デザイン的な問題ではなく、ただ単に文句を言いたいだけなんだろうなあ…
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一般的には明確に違うパッケージデザインになってる商品のパッケージから情報量が減ったことを比べてるあたりをズレてると言われてると思うんですけど(名推理)」
→もともと似たようなパッケージの肉をラベルの文字の差でちゃんと認識出来るなら、パッケージデザインの中で特に重要なのは文字であってその他の部分はシンプルにしても問題ないのでは?→問題ある人はどこで判断してるのか気になったのです
話は変わるけど無印良品もラベルのデザインは統一されてるんですけど商品の色とか質感で判断してるんですかね?(自分はパッケージの文字を最初に見るからわからない)
うわ。まんま発達障害の言い分だ。
お前らは行間を読めないから、他の人なら理解できる指示を理解できなくて、それを上司の説明が悪いって解釈するんだよ。
じゃあ、なんでいつもお前以外からは同じ質問が飛ばないの?上司の説明が悪いんじゃなくて、お前の理解力が足りないだけじゃないの?
メールで言いましたも、一見、そっちが正論に聞こえるけどダメ。メールの文章が前後関係とか文脈を無視した必要最低限にも満たない情報量しかない。お前はしっかり報告したつもりになってるけど、単純に情報が足りなすぎて怪文書になってるだけ。
最近小児型ラブドールの是非についてはてぶで話題になっている。はてぶではラブドール愛好者である増田の反論と、規制推進派のツイッターとがホッテントリ入りしていた。はてぶ以外で議論がどのように展開されているかは確認もしていないので知らないが、そもそも糾弾されている我々小児性愛者のが置き去りにされている気がしたので意見を述べる。
ただし我々小児性愛者と書いたが、私自身小児性愛者を自称することには抵抗がある。DSM-5で定義される"The individual has acted out these sexual desires, or is experiencing significant distress or difficulty as a result of these desires."は自分には当てはまらないので。それでも子供に対し性欲を掻き立てられるし、その手のイラストを描いてもいるため他から見たら小児性愛者と断じられても仕方がない。
さて、ラブドールについてだが、以前欲しいと思ったことがあり購入を検討したが結局買わなかったし、買わないで正解だったと思う。高額であることのみならず、部屋の容量や引っ越しの可能性も考えたらおいそれとは手が出せなかった。ラブドールそのものが極めて上級の趣味なので、槍玉にあげられている小児性愛者の一人としても今回の運動には今一つぴんと来ないのである。実際はてぶを見て知っただけで、増田が記事を書かなければ恐らく知ることも無かった。change.orgにはたびたび署名しているが、自分のところには周ってこなかったし。それもあって本来のターゲットである小児性愛者ではなく人形愛好家に弾が当たったのではなかろうか。
もちろん将来そこそこの広さのある終の棲家を得られたなら、そしてそのときに小児型ラブドールが今よりも精巧であったなら購入したいとは思っているので、規制には当然反対である。反対するのが至極当然である。
一方で規制推進派をただ否定すればいいかというとそうでもなく、規制したがる人たちの危惧も無碍にはできまい。規制に賛成の立場のブクマで星を集めているのは「それをきっかけに欲望が芽生えるか、あるいは加速するのでは」というものだ。ご丁寧に実例を紹介してくれる人もいた。
こうした意見に対して、どう対応すればいいのか正直分からない。とりあえず私自身は自分こそがその反例だと思うので自分について少し述べることとする。
まず私の小児性愛の目覚めは幼児期のナルシシズムと同年代の少女へのコンプレックスのためだと思う。小学生ごろまでは綺麗な服を着られる姉がひたすらに羨ましく、その結果として女装癖があった。女の子の自分がどんな形ででも注目されたいという欲望があった。その後自分は女の子にはなれないと諦めたことで、自分の中で理想形が小学生までの少女に固定されたのだと思う。近年中学時代の友人と再会する機会があったのだが、彼の第一声は「今でもロリコンなん?」であり、つまり私は「生粋のロリコン」であると自他ともに認められる(ちなみにロリコンという呼称は大嫌いだ)。
その後長じるに及んでその手のイベントがあったかというとけしてそんなことはなく。単純所持禁止前までにその手の動画を見たこともあるが自分でも、とはならなかったし。姉や親族に子供ができて、私がしばしばお世話をしたけれど別段何もしなかったし、そもそも今の仕事が子供と関わる仕事だがこれまで悪いことは何もしていない。
しかしこんなこと言ったところで、「情欲をいだいて子供を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」とまではいかなくとも、意識していなくてもセクシャルなことをしているに違いないとか、自己申告乙とか、今後どうなるか分からないとか、よしんば認めてくれたところで反例1だとか言われるだけでしょう。
ただそれでも私が強く主張したいのは、「欲望」と「実際の行動」の間には深い溝があり、その溝を乗り越えられるのは限られた人間だけだ、ということです。私が初めて彼女とセックスすることになったとき勃起できずに気まずい空気が流れた原因は、私自身の性癖もあるが、人間という情報量の多さに気圧されたからだ。子供とこれまで幾度も接してきたが、彼らそれぞれの「個」に圧倒されて、個性を剥奪された単なる「性的対象」としてなどけして見ることができなかった。
結局犯罪ができる人間というのはとことん相手を見下せるか相手との共感性が皆無な人間なのだと思う。だからこそラスコーリニコフも殺人と超人思想を結びつけたわけで、肯定的な表現をするなら「乗り越えられる人間」ということになる。
そして犯罪者が乗り越えてしまっているものは、他にもあるがまさに「社会における自分の立ち位置」であろう。家族、親類、職場、友人のことなど考えたらけっして悪いことなどできないはずだ。それでも犯罪ができてしまう人というのは、尊重しうる他者がいない人なのではないだろうか。
最初に小児性愛者と断じられても仕方がないと言ったが、やはり私が自分には当てはまらないと述べたところの定義こそ重要だと思う。何人か医者の友人がいるのだが、精神科医の友人(娘がいる)は「イラストを描いて欲求を昇華できているのはとてもいいことで、全く問題がない」と言ってくれた。また別の友人は、私のことを彼女に紹介する際「凄いロリコンだ」と言ったら、彼女は「その人を治療できるのはあなただけなのよ」とかなんとか言ってきたので「理性で制御できてる以上単に個人の趣味」と諭したという。理解ある友人がいて幸せだし、だからこそ裏切れないとも思う。
小児性愛者に危惧を覚える、その感情は理解できるのだが、小児性愛癖を持つものが実際の行動を伴うわけでもないし、罪を犯せる人間というのは特別なのだということは一考してほしい。私としてはラブドールの規制なんかよりも、人権教育を通じてお互いを尊重できる社会を気づくことが大切だと思う。
数多ある意見の1つに過ぎないかも知れませんが、この度の悲しいお知らせについて、とても重要なお願いがあります。ぜひご一読頂けると助かります。
今回のことについて、またそれについても様々なことをSNS上でみな好き放題言っています。我々はこういう風に対面で顔を合わせなくてもコミュニケーションができる時代になって、その最も身近なものであるSNSと、どういう風に付き合っていけばいいのかほとんどの人は困惑しています。顔を合わせなくていいということから、どんなことでも発信でき、また(SNSのない)日常生活では言われないようなことを言われたりするようになってから、SNS上で見えている相手はバーチャルな人間だと考えるようにし、自分(人間)vs相手(機械)のように接しています。しかも自分は普段の自分と違う人間のように、普段なら喉まで出かかって止めるような文言さえも、あっさりと指をなぞらせて全世界へと発信するのです。しかしその割に相手(機械)の言うことには感情を揺さぶられ、たびたび日常生活ではあるまじき過度な言葉で相手を責め立てることもあります。さらに、膨大な情報量。誰しもが発信できることから、必然的に日常生活ではわざわざ聞くことのない人の意見まで(要か不要かに限らず)目にせざるを得なくなりました。
と、ここまで書きましたが今回のことが、何が一因であったのかということについては、色々な人がこれもまた勝手な意見をいくらでも言ってくれています。しかし自分も正直それを精査していく、という気分にはなれません。一人の尊い命を失った悲しみもさることながら、何よりもうこの情報化社会の情報量に疲れてしまっていて、さらにはSNSの使い方についてあれこれ言われてしまうことは、何か自分の一番柔らかい部分に触られているようで気味が悪いような気もするからです。
ですから、この誹謗中傷がどうだとかについてこれ以上触れることはしません。今回自分がわざわざメッセージを送ろうと考えたのは、自分なりの考えを伝えお願いしたいことがあるからです。
人間は、というか自分のような人間は、どこからが台本なのか、ということを小さい頃から気にして見てしまいます。テラスハウスはもちろん、ラジオやお笑いや、とかくエンタメ全般的に。大人になればなるほど、その線引きの部分が段々と分かってきました。コンテンツを制作する上では、台本はなくせないということも。そうすることで、面白さが担保できる。その場で生まれるかわからない爆笑を待つよりも、安定的に面白い方が大事だというのが根源にある。
テラスハウスもずっと楽しみに見ていました。2020東京から過去の作品も遡ってほとんど見ました。このテラスハウスでも同様に、どこまでが台本なのか、と考えましたが、それについてネット上では正確な情報は開示されていませんでした。それでも、まぁいいかと楽しんでいました、所詮エンターテインメントなのだから。
しかし、その楽しい時間は実にあっけなく終わってしまいました。
台本があって、それに従って演技をする出演者の方々。すべてはただの操り人形であり、それを見る視聴者たちは騙されてあげて、楽しむ。騙されていながらも没入して、そこで同じように感情を揺さぶられて楽しむ。どんなエンタメもこうして楽しんでいるのに、現実で人が一人死んでしまうということは、そんな平和な世界で行われるエンタメの中には決して存在してはいけない概念です。
少し戻って、自分が引っかかるのは、そもそもこれが台本であったのかどうか、ということです。彼女が番組の指示通りに、また示唆されて作為的にあの「コスチューム事件」を起こしたのであれば、これが自殺につながったと言っても過言ではないのですから、テレビ局は殺人とも言えるでしょう。そうでなかったとしても、悪意のある編集があったという新野氏の証言があります。そうした番組を取り巻く諸々が、視聴者には何一つとして知らされていないのです。
これ以上は長くなってしまうので、簡潔にいたします。お願いというのは2つあります。1つは彼女がなぜ自殺しなければいけなかったのか、番組制作という面からそれを解明すること。テレビ局で働いている人々の大半はきっと善良な人達なのだろうけど、舵取りはいつも腐り切っているように感じます。この事件が闇に葬られてしまう前になんとか事実をすべて開示して欲しい。2つ目には、彼女の自殺以降おそらくひどく誹謗中傷を受けているであろう出演者の「彼」やその他の人々の精神的ケアです。頭の悪い人たちは「彼」があんなことをしなければ彼女が自殺することもなかったというでしょう。実際、死んだ人が責められることはほとんどありません。今後苦しい思いをするのはいつも、今、そしてこれから生きていく人たちなのです。
この2つを、出演者でありながら、一個人としては制作には関係のない貴方にお願いしたい。きっとこれを読まれても、お願いするところが間違っているのではないかと思われるかも知れません。しかし僕は、貴方の「一生をかけて考えたい」という言葉を信じたいのです。その覚悟があるならば、すべて自分のうちに閉じこもって考えるのではなくて、少しでも何か行動をして欲しい。山里亮太が、あの番組のマスコットのような立ち位置で、あの時間だけは番組の傀儡だったかも知れない。しかし世のSNS上の人々のように、貴方の本当のところは人間である、ということをどうか信じさせてください。そうしてこれからも、後ろめたい気持ちなしに、エンタメで傀儡となる貴方を楽しませて欲しいのです。
広さ1のマップで全ての建物の内部が作り込まれNPCが生活している。
広さ1のマップで経済がシミュレートされていて、全ての建造物や(場所によっては)地形を破壊できる。NPCが建設したり修復したりする。
広さ100のマップで政治と経済と技術の進化がシミュレートされ、歴史も進み、建物も時代に沿って進化したりする。
広さ10000のマップで上記を達成。戦争もシミュレートされる。
——追記
ブコメで進化が遅いって言われてるけど、GTA5がいつのゲームか考えると、あながち遅くもないと思う。
GTA5が2013年9月発売だから、2023年で10周年だけど、あと3年でそこまで進化したゲームが果たして出るだろうか?
たぶんグラフィックが少し綺麗になって、広さが1.5ぐらいにはなるかもしれないけど、その程度で終わると思う。
本質的には何も進化してない。それを踏まえての上記予想なんだよね。
俺ももっと早く進化して欲しいけど、それは無理だと考えている。
ウォッチドックス3が全てのNPCを仲間にできるという画期的な仕組みを導入するので、それがどの程度のクオリティになるか、今から楽しみだけど、マップの広さは0.5ぐらい(WDは密度で勝負と製作者が言ってるけど、それを考慮してもせいぜい0.7ぐらいが限界じゃない?)だろうし、自動生成のせいで調整しきれてない部分も沢山あるだろうなと予想してる。
でも2030年頃には、そろそろ血の通ったものをある程度自動生成できるようになってるんじゃないかな。
—-更に追記
id: hazardprofile NPCが勝手に行動するのはゲームにならんというのはSTALKERでやったでしょ
chernobyliteというa-lifeが搭載されたゲームが2019年秋に出てて、好評みたいだけど。。。
—-更に追記
広ければいいのか?みたいな意見もあるけど、ここでは密度も含めてるからね。
それを踏まえて、広ければいいのか、という問いにはYesでもありNoでもある。
なおGTA5の面積は資料によって78㎢から125㎢ぐらいなので、間をとってここでは100㎢とすると、
東京都が2188㎢なので面積だけなら約22倍だけど、高層ビルの中や駅の構内なんかを考慮するとGTA5の1000倍ぐらいの情報量はあるんじゃなかろうか?(雑ですまんな。もっと精密な考察は俺も聞きたい)
上記2030年の予想で言ってる、全ての建物の中が作られてるってのは、超高層ビルなら1階に入れたらOK程度のなんちゃってレベルを想定してる。おそらく超高層ビルや新宿レベルの駅なんかが再現されるのは2040年頃でやっとじゃないかな。
で、それは面白いのか?という問いへの答えだけど、もちろんゲームとしての面白さはゲームバランスが重要。
それがダメなら答えはNoになる。でも、ここではそれをクリアした上での話だから、答えは「面白くなるに決まってる」だ。
俺は上記予想のものが実現したら、面白さの次元が変わると思っていて、逆に言うとこれが実現できなければ(グラップリングアクションなどの別の進化?を考慮に入れても)面白さの次元は変わらないと考えている。
なぜここで東京都の情報量について触れたのかというと、俺の言語能力では、上記予想で述べた要素が面白さのパラダイムシフトに貢献するという事をうまく伝えられないからだ。そこを補足すれば、それぞれ各人で少しは想像しやすくなるかなと思い書いてみた。
もう少し言うと、あそぶつり、という物理シミュレーションを題材にしたフリーゲームがある。