はてなキーワード: 卑近とは
一方で、ネットですぐに企業の経営層や官僚、もっと卑近な例だとスポーツの首脳陣(サッカーや野球の監督や運営層とか)をあいつらはバカだと断定する人を見て疑問に思うようになってきた
彼ら彼女らはどういう所を見てそう言ってるのだろう??
自分は世間的には頭が良い方とされる京大を出て世間的には頭が良い人が就職するとされる会社に就職した
10年ほど仕事をしてその中でいろいろな人に関わったけど、身の回りの人を頭悪いとかバカとか思ったことは一度もない
協力会社や取引先の方、みんな優秀だなと思って過ごすことができた
(厳密にいうと、もっと頑張ってほしいとかやりにくいなとかはあったけど、根本的にバカとか思ったことは本当に一度もない)
1つ確信して言えるのは、部外者が「こうしたらいいのに」とか言うことは、当事者は当然考えが及んでいるということ
ネットですぐに反応される、こうすればいいのにとか言われてる案は当然考えられてて、特に検討の初期段階で既に揉まれてることがほとんど
また、上層部が頭悪い、お偉いさんはクソみたいな意見は常に一定の支持を受けるけど、
大企業や中央官庁で意思決定に関わる人(プライム上場大企業の取締役級、中央官庁の局長級課長級やそれに準ずる人)と仕事で接する機会あったけど
やっぱりそこまで行く人はそれなりにきちんと優秀な人がほとんどだった
同族企業で…というパターンは私の経験も多くはないので知らないけど…本当に無能な人も血縁で存在しうる環境は確かに一定程度はあると思う
ただ、最後にまとめていうと、ネットや増田やブコメで簡単に他人を無能だと断罪できる人ってどういうキャリアでどういう世界でやってるのかなってのが不思議だなって思うのです
すぐにいくつかのレス増田ありがとうございます。
「(そういう人は)有能な人が少ない階層にいる人が多い」
将棋は崇高な文化である。棋士は日々己の頭脳を磨き、それを魂を削り、命を傾けて対局に挑む。盤上の勝負だけが彼らの生きる縁(よすが)であり、生きる意味と将棋が同義になるほどに没入して闘う。その生き様に、そこから生まれる珠玉の棋譜に魅入られたもの達が価値を見出し、やがて国が誇る文化のひとつとして昇華した。
…したはずだった。
全人口からすればほんの僅かな選ばれた者たちだけがなれるのが棋士。誇らしく、また、ある程度、将棋をするだけで生活が保障されるという夢。巨大なスポンサーと太客に支えられ、ボードゲームで生きていく。そういう類の夢の職業であるはずである。
世の中、しがないサラリーマンだけで構成されたら面白くもなんともない。己の才能と矜持と努力で夢を掴む職業がある方がいい。それに大企業や市井の人々が金を出すのもまた夢のひとつである。
棋士は崇高な職業であるが故に、彼らのことは彼ら自身で決める。団体は煌めく脳細胞の集合体なのだから、律するルールは己らで決定するのである。そうしてきたし、そうしているし、これからもずっとそうする。自分らで決め、自分らで裁き、勝ち、負け、蹴落とし、蹴落とされ、また這い上がり、生きていく。
昔は新聞とテレビが国民の情報収集と娯楽を担っていた。家庭内ではサラリーマンが専業主婦と子を養えるだけの給与があったため、家長の力が金銭的にも精神的にも強く、将棋はそこにおいては祖父や父親の文化的な嗜みとしての強い立場がある程度存在していた。新聞は将棋の強い親となり、国営放送は積極的であった。そういう時代があった。
人間が鎬を削って苦しみ抜き、勝ち負けを決める盤上の駒を使うゲームは、金を払う価値があった。
あれから随分と時が経った。新聞とテレビだけで満足する時代は終わった。家長だけが働いても食える時代ではなく、家庭のバランスも変わった。メディアと父親はもちろん、どちらも生き残ってはいるが、台頭するスマートフォンやタブレットに、男女が働く時代に、馴染まないと生きてはいけない。将棋自体は、スマートフォンで気軽に指せる時代にもなったが、気高く素晴らしい棋士の存在は、意義を問われることとなる。
新聞が金を出しきれなくなった。テレビで流すことも極端に減った。他業種のスポンサーは追加され、ストリーミング再生の放映権を売った。
どうせ親が金を出すから将棋だけしていればいい時代が終わった。現代に馴染むためにはエンタテインメント化されるのは必然だ。あるときは道化となり、メシを食い菓子を食い、ついでに将棋を見てもらう。若き救世主が地球を侵略しに来たことによって、それは加速された。
メシアはAIという集合知を連れて侵略にとりかかった。それは将棋の内容においての改革を意味していた。向上しようとするもの、必死に縋り付くもの、諦観を持って見守るもの、利用して他の切り口を模索するもの…。面白くなった、つまらなくなった、指すものからしても、観るものからしても、取材するものからしても、どう思うかは人によって違う。
そしてメシアは強烈なファンダムをも従えた。アイドルとは偶像崇拝を示すのが元の言葉である。新時代では避けて通れないSNSというものの圧倒的な力で振りまわす、いや、振り回されたのか。
繰り返すが、太い親とパトロンで保たれていた内側の秩序は崩壊した。
ひとつひとつの力は小さいが、集まれば世論をも左右するファンダムをコントロールしなければこの星は滅びへと向かう。メシアが星を滅ぼすのではない。彼はどうやら将棋を心の底から愛していそうで、まだ、メシアで居続けようとしてくれている。まだ。
滅ぶのはファンダムをコントロールできなくなったときだ。ファンダムはある時は鮮烈に良さを訴え社会現象を作りだすが、ある時は量で圧倒してスポンサーをも非難する。諸刃の剣に近い。
ファンダムは集合体であり、それぞれの知性もまちまちだ。ひとつ事件が起これば、愚鈍な発言がもてはやされる場合だって大いにある。SNSで取り上げられるのは、必ずしも論理的で倫理観のある発言ではないからだ。
文化という話に戻ろう。文化とは何か。それは半永続的な魅力のある、それ自体は一般市民の人生に必要のないものだと定義したい。生きるのに必要はないが金を出す価値がある。卑近に言えばそういう類のものだ。
将棋で生きている、または、将棋に関連して飯を食っているものからすれば噴飯ものの言いようかもしれない。だが、一般社会ではそういうものだ。将棋が無くなって、困る人の方が少ない。世界には多くの人間が存在していて、多様な娯楽があり、人生があり、他の仕事がある。
将棋と関わり、生きていくものにとって生きづらくなった、と思われるかもしれない。そう。いま、生きるとはそういうことだ。何かすればすぐに炎上し、働き方は厳しさを増し、対面での人間関係は難しい。他の人々も何かしらの生きづらさを抱えて生きている。それが現代社会だ。認めなければいけない。
身分や全てを隠した故、自分がここに書いたことを卑怯で誤謬や脚色に満ちていると思われてもいい。ただ、将棋を棋士を素晴らしいものだと思っている。たった1人の棋士の存在が自分の将棋への見方を変えた。メシアでもない、かつてのメシアでもない、残りの棋士のひとりだ。自分は彼に将棋を指し続けて欲しいからこれを書いた。
どの立場からも、互いに歪み合っている場合ではない。不用意にお気持ちを述べることも、ただ黙って推移を見守ることも、それぞれのファンダムが暴走することも、形勢を有利にはしない。
匿名はてブで書くのは非常に遺憾だった。しかし、それにも、それでもきっと書く意味はある。職業・年齢・性別・棋力は伏せた方がよかった。たとえば、
会社員で30歳で男でウォーズ四段だ。
この5つの前提で同じ文章を書いた時、それぞれ違った先入観が発生する。そういう階層や区別が罷り通るのがこの素晴らしい文化だからだ。(なお、一例であり、上記のどれかが自分に当てはまるわけではない。)
何かが変わるだろうか。この星はどうやって滅びるのか手をこまねいて見ているだけはもどかしい。
将棋を次の100年へ。
それこそ昔はニコ生くらいしかなかったのが、今ではスマホ一台あれば、無限に配信サービスもあるから、増えるのは自明なんだが。
かくいう自分も、配信者をやっていた。同接は多くて15名くらいの、底辺も底辺だ。
話すこと自体は好きだったし、YouTubeの収益化ができたときは嬉しかった。(スパチャを投げられるとかそんなことはないので半年の収益は数円だったが)
推しのイラストレーターにイラストを依頼とか、配信者でなければできなかっただろう。
そう、自分を切り売りした結果としてできることは増えるので錯覚しがちなのだが、擦り減っていくものは、かけがえのない大切な何かなのだ。
皿の上に差し出しているソレは、簡単に消費されていいものではないし、消費される側もする側も、麻痺しているように感じる。
配信者側は今言ったように、できることが増えていくから、擦り減ったものには目が行きにくいし、
視聴者側も「配信者が好きでやっていることだから、自分も好きに応援しよう」と考えるものだ。
自分もそうだが、とりたてて絵がうまいわけでも、歌が上手いわけでもない。トークも平凡だと思う。
絵や歌、ゲームの巧みさなど売れるだけの芸があるなら、それを売れる。だが、自分も含め、素人にはそれが無い。だから、自分そのものを切り売りするしかない。
枯れたスポンジから血が滴るようになっても、売れる芸などないからだ。
そこまでして承認欲求をかなえたいものなのか、とは自分も思う。
自分の場合は、始めたきっかけは承認欲求だったのだと思うが、今となっては素人の自分の話をなぜか面白いと聞いてくれる人がいるから、その人たちに自分のできる範囲内で精一杯お礼がしたい、そんな感情なのだ。
だから、ひとくちに承認欲求の肥大化が問題、というのも自分としては違うと感じる。
等身大の自分を切り売りして、売った分だけできることが増えて、承認欲求も満たされて、
気が付いたら致死量まで擦り減っていた何かによって、いつか、死んでしまうのではないか。
少なくとも自分は擦り減った結果、あんなに話すことが好きだったのに、「ああ、こんなにもことばって伝わらないんだ」という絶望を得た。
どれだけことばを重ねても、
「なるほど!××ということですね!」「自分がいつ××だと言った!?」
と頭を抱えることが多く、それが耐えきれなかったんだろうと思う。
ことば、言語というものは相手と自分が一意のものを思い浮かべるためのコミュニケーションツールだと思っていたばかりに、本当につらかった。
今となっては、いつ、どこで、誰と話す時だとしても、「どうせ自分の言葉は伝わらないのだ」という諦観と絶望が支配するようになった。
まあ、自分の具体例で言えば話が通じないやつを放置、ということができなかった自分の不器用さに原因があると思うから、別に構わないのだが。
それでも、「話が通じる人もいる」ということを信じられなくなったのは、自分にとっては大きな損失だろうとは思う。
最近のトレンドのひとつに、「夢を追いかける若い少年少女を消費する」文脈があるような気がする。
もちろん、これは最近に限らず昔からそうで、だからオーディション番組や甲子園はみんなが好きなんだろう。
ただ、ネットの普及、SNSの浸透、素人でも誰でも配信ができるという状況が、これを加速させ、卑近にしているように思えてならない。
少なくとも、オーディション番組や甲子園のように、覚悟をもって飛び込む、ということはなく、敷居が低く気軽に飛び込めるようになっているのは間違いないだろう。
それに加え、先でも述べたがオーディション番組や甲子園のように、明確な一芸を競うなら、そこまで自我は痛めつけられないと思う。そこでの失敗は能力の不足(まあ運もあるだろうが)と割り切ることは比較的容易だ。自分を切り売りする場合に比べれば。
オーバーなリアクションばかりしていると、寿命を縮めるという。
決して簡単に消費されて良いものではないはずだ。簡単に皿の上に載せて供して良いものではないはずだ。
と、思うのだが、私だけだろうか。
リベラリストの根拠は(中略)個人へ委ねられている。この問題点は現在まさに問題視されている特定の宗教団体の問題と殆んど違いがない
現在まさに問題視されている特定宗教団体、すなわち旧統一教会の問題は、霊感商法によって破産にまでいたる多額の献金プレッシャー、マインドコントロール、合同結婚による海外への日本人女性に対するhuman trafficking など人権無視の疑いのある諸活動と、そのような団体と政権与党の関与の疑いでは?
ほかには自称愛国者たちの言論活動と反日を掲げるカルトの関係も世論的には重要なポイントになるだろう。
思想的な対立であるかのように言ってるけどどこまでも卑近で単純な話だと思うんだがなぁ
追記)元増田は要するにリベラルだってカルトじゃん!と言っているっぽくて、そのうえで同じカルトなんだからこれは思想内容の対立だ!と持っていこうとしているように見える。しかし実際はリベラリズム、あるいは保守主義でさえ思想そのものは特定個人の権威に頼ったものとは言い切れず、さらに本件の問題は統一教会の活動内容そのものにあると思われるがいかがか
【追記する】
ひろゆきやガーシーは書いた当時に話題になってたから話の枕にしただけで別に羨ましくもなんともないよ(22:45追記: 羨ましくもなんともないは言いすぎた ちょっとうらやましい お金ほしい)
「日々を心安らかに過ごすことが成功です」みたいな人の話は別の機会に聞くから回れ右してほしいんだけど、少なくとも収入や知名度の点でほとんどのはてなーよりも成功してるでしょ?そのくらいは共通認識にできませんこと?
天才は法に縛られない!お前は凡人だから成功できないだけだ!みたいなウスラトンカチなこと言ってるのがいるが、別に凡人なのは自覚してるからくだらねえ話すんなよ
天才「かつ」法に縛られない人間ばかりが成功してるように見えるからそんな社会ダメじゃね?って話をしてんのよ。なんなら道徳的な天才よりも法に縛られないだけの奴のほうが成功してね?俺は道徳的な天才に成功してほしい
ちなみにビジネスの話ね?個人の成功で言うと基準が曖昧になるから、みんなが聞いたことがあるような大企業でグレーゾーンを通ってきてない企業なんてある?
【追記した】
ガーシーが話題になってるし、あとひろゆきとか、例が卑近すぎるなら大きいところではマーク・ザッカーバーグとかイーロン・マスクとか
詐欺的な行為とか違法、脱法的なことで金や注目を集めて事業を拡大していくのが成功のためには必要に思えてならない
企業単位でもソフトバンクなんか違法スレスレっていうかダメじゃね?みたいなこともあるし、飲食チェーンで労働基準法守ってるところなんて皆無だし
ときどき話題になるようなベンチャーも貧テックみたいな知的障害ボーダーを狙うオレオレ詐欺みたいの出てくるしメルカリは盗品市だし
大きくなってからようやく色々整備したようなところは実際あるかもしれんけど、拡大時期から律儀にルールを守ってた大企業なんて存在するのかな
ルールを守りましょう、他の人を大事にしましょう、って教育しておいて、そうでない人が成功してもてはやされるのはなんだかなあ
qyosshy 誤注文がなくなって客にも店にもやさしいシステムにしか思えん。聞き間違いだの頼んだ頼んでないだのが発生する仕組みを倫理的に正しいと思える感覚は理解できん。/ 労働者側の視点が無いんだろうなあって思う。
yP0hKHY1zjyP0hKHY1zj 何十年も前からバーコードという形で生が番号化されているのだが、それを当たり前のように受け入れてきてファミレスの数少ないメニューの3桁の番号化で急に危機感を持つところがかわいい。
akutsu-koumiakutsu-koumi 気に入らん人は騒いでおれば良いと思いますよ。でも銀行がATMを導入して倫理が損なわれましたか?セルフレジの普及が人の機械化を推進しましたか?自分の漠然とした抵抗感を尤もらしい言葉に置き換えているだけでは?
slimebethslimebeth この手の人が下らないのは文中の老婆のような上の世代が嫌がってたことはあっさり受け入れてる点だな。文明の利便は享受したい、若い世代の感覚は受け入れられない、我々世代の情緒だけが真っ当!てのは老人の我儘だ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/anatatachi_ohno/status/1544470962011115521
このブクマ連中の言っていることは一応は正しい。しかし、人間が機械や産業システムの論理に組み込まれて、人間が取り替え可能な部品のようになっていくことへの抵抗感や違和感は、マルクス、ウェーバー、アーレント、フーコーの主題でもある。大野さんを老害と断罪するのなら、これらの偉大な(とされる)哲学者も老害と断罪されなければならないだろう。
「新しい便利なモノ」に対して、何も考えずにさっさと適応できてしまう人と、違和感・抵抗感を覚えながら少しずつ適応していく人と、どちらが人間としての主体性を持っているかと言えば、やはり後者であろう。前者の人は、今の中国のような独裁権威主義体制にも「便利だからいいじゃん」と、あっさり順応できてしまうに違いない。
ただもともとの最初のエピソードがサイゼリヤという、主題の大きさに比してあまりに卑近な(個人的な意見では不適切な)事例だったので、誤解を招きやすい面があったのは確か。また前後の文脈が大事なので、切り取られるのが宿命のTwitterでは、論じるのに最も向かないタイプの議論でもある。GAFAのような事例で、字数を費やして活字で論じるべきだろう。
シンマンさんが「人間を好きになった」ように見えない、という感想を時々見かける。id:whkr さんのブログの、理解できない対象への好奇心、という解釈は納得できる。
自分も鑑賞後に、長澤まさみLOVEみたいな卑近な解りやすさを避けたんだろうな、と思いつつ、自分なりに少し考えた。
https://twitter.com/y_gurizou/status/1528323226899648512
https://twitter.com/y_gurizou/status/1528494336773869568
映画は、シンマンさんの監視員の立場を逸脱した罪を贖う物語として再構築されており、勿論、贖罪をテーマにした文学や映画は多くあるけれど、人間への思い入れによって天使の立場を逸脱してしまった、という『ベルリン・天使の詩』が、補助線として近いかな、という感想です。
そもそも歴史的な話として封建時代の「男系長子相続の社会」みたいなモデルを「男子優遇社会」だと社会学者なんかが判断したのが始まりっしょ。それはそれで間違ってない、なぜならこの社会において女性は財産の相続権がないわけだから。
んで、この社会は「男子優遇社会」なのはそれはそれでいいんだけど、じゃあすべての男子がそうなのかといえば違う。具体的には長子以外の男子は相続権がないし、長子のスペアとして自由やら権利やらが制限されてきた。つまり「男子優遇社会」の中で相対的に弱者だった。これが前近代の封建社会における弱者男性だよ。
上記の話は歴史上の話であって直接的には現代社会には関係ない。のだけど、現代の自由主義社会を作るに当たって、その恋愛観や男女観を形作るときに、騎士道物語的なロマンチック・ラブイデオロギーを利用したってのはある。女性の人権なんざ薄っぺらい封建主義から人道人権が重要な近代主義に移行する仮定で、女性を尊重するに当たっての「物語」として男性は女性を守るべしみたいな価値観が挿入された。
でもそれって「物語」であって「価値観」だから色んなものがごっちゃになって濁って導入するしかなかった。物語って多面的なものだから仕方ない。
「男は女を守るべきだ、それが男の甲斐性なのだ」みたいな価値観。日本で言えば文明開化から戦後昭和に至るまで、そういうのが繰り返されてきた。ジャンプ漫画にだってその影響は強くある。それは細かく精査すれば、男性側の労力的精神力的あるいは財産的な「持ち出し」にあたる行動規範だ。
しかし、前述したように封建的だった時代から男性は女性よりも優遇されてきた。最終的には優遇をなくして同権社会を作ればいいんだけど、一足飛びにそこにはいけない。社会が混乱するし下手したら壊れる。なので、男性優遇社会の優遇分を「再配分」するために、男性側が持ち出して女性を遇するという文化が要請された。
時代が進み現代になっても、この文化はあちこちに根付いている。卑近な話で言えばデート料金をどっちが持つかって話にもなるだろうし、専業主夫にたいする風当たりの問題もあるだろうし。
現代社会においては「男系長子相続」が強要されているわけではない(※日本でも一部田舎の家系ではそういう文化が残っていたりして話を面倒くさくしてるんだが)。だからそういう意味でもう僕らの社会は個人主義自由主義の社会だ。
にもかかわらず、再配分文化の名残で、男性がその男性の能力や財産とは無関係に、何らかの持ち出しを続けなければならないとすれば、それは再配分を超えた搾取であるのだから、弱者搾取ではないか? これが現代の弱者男性でしょ。
別に難しい話じゃないし、明快な話なのに、なんでこんなに混乱してるんだ。
歴史に学ぶ、というのはそんな簡単ではないと思う。そもそも、現在が本当にその歴史と同じ状況なのか?ということをまず考えなくちゃいけない。
かつてヨーロッパがヒトラーのズデーテン地方併合を黙認したのも、「歴史に学んだ」(そっちの方がうまく収まると考えた)からであり、結果的にそれは悪手だった(と政治学の教科書に書いてあった気もするが詳細はよく覚えとらん)
卑近な例で恐縮だが「歴史に学ぶ」といえるのは、次のようなミクロなレベルのものくらいしかないのではないか。
例えば、夏目漱石の時代は「小説なんて読んだらバカになる」と言われ、彼の小説も蔑まれていたと聞く。
今は「なろう小説」や「異世界転生もの」が盛んにバカにされているけども、それははたして正当な評価なのだろうか?自分も人間のよくある「新しいものをバカにする」習性にハマっているだけという可能性を考えると、簡単にバカにはできないように思える。
自分の想いを子の名前に託す行為に可哀そうという人は、好きな野球チームやタレントにちなんだ名前をつけられた多くの子供達にも同じ感情を抱いて生きてきたのかな
https://b.hatena.ne.jp/entry/4716189011670940290/comment/n-styles
これ普通そうじゃない…? って思ったんだけど、この書きぶりを見るにそうじゃないのが世の中では普通なのかもしれん。
正確には可哀そうだとは思わない(他人の名前に対してそう思うべきではない)が、名前をつける側がそういうことをしてはいけないと思う。だってその人のアイデンティティになるものが卑近な実在のものに依ってるのって、それを知ったときに嫌な気分じゃない? 万一それが好きだったらいいけど、明らかに他人の好みを押しつける形でしょう。
これは二分法じゃなく程度の問題で、どこに線を引くかという話でもある。自分が名前をつけられる側だったら、すでに実在がない歴史的なもの(偉人とか)なら許容範囲かなー。死んだじいちゃんの名前、とかでもOK。つける側だったらそもそも具体的なものから名前を取らないと思う。
問十二、夜空の青を微分せよ。街の明りは無視してもよい 川北 天華
川北天華。当時は進学をめざす高校生。進学は最終目標ではなく過程のひとつだろう。
単語と語法は平易。しかしそれらはすべてべつの何かを表象する。示唆により言外を表象するテクニックは掛詞とよばれるが、この歌は全句が掛詞で構成されさらに全体として言外のなにかを表象する。このため通常の和歌の範疇を超え、たぶんに神話的な雰囲気を持つにいたる。
配置
物理か地学の問題文をなす歌を助詞などを除去し単語をならべその内容を検討。
内容は上記のとおりテスト、光景に二分され、交互にならんだふたつの要素がリズムを形成している。
テスト、光景、ふたつの要素は卑近。受験をひかえた高校生という状況をあてはめると、この世代特有の神話的要素がうかぶ。
テスト、光景という対極を交互につなぐ構成は内外両極を往還するリズムを生んでいる。対句法ではくくりきれない振り子のようなリズムである。その振り子は往還をくりかえしながら全体をある方向へとすすめてゆく。机上の1枚の切片にしるされた問12という即物的な文言は夜空を数式で描けと命じそのときは下界を無視せよと結ぶ。一枚の切片がもとめる問いは振り子のようなリズムのなかで一瞬にして無限の宇宙へと拡大し発散する。読者はこの内外両面、両極往還のリズム、そして机上のちっぽけな紙片から数式をとおして一気に宇宙にひろがる強力なベクトルによってここちよく翻弄され、さまざまな記憶作用を楽しむことになる。じっさいのところこのリズムとベクトルは、おとなとこども、他発と自発、受動と能動、服従と自立ーつまり境界面を生きる高校生の生活のリズムとベクトルそのもので、それらが作者、あるい読者のこころのゆらぎそのものを表徴する。
問十二
夜空
青
街
明り
良い
各々の単語および叙述は高校生にとって卑近ではあるが軽くはない。試験問題、ふと見上げる夜空、その奥にひろがる宇宙。それらは作者の人生の主要な一部、あるいはすべてかもしれない。ひとつひとつの単語が表層の意味から遊離して現状と行く手の不安、悩み、探求、願望、希望、決意といった、思春期から青年期にかけての心象を表象する。この歌は、読者ひとりひとりに当時の記憶を想起させる力を持つ。
展開は三部で序破急をとる。
テストの問題文からはじまる文章表現はそもそも斬新なのだが、それを体言止めとして何かを宣言している。この宣言は直裁に読者にとどき、読者はこの歌とともに問いに挑むことになる。
十二は天文や暦法と関連がある。詠人だけにわかる何かの符丁かもしれない。だがそんな読み解き以前に十二月は受験シーズンであり、夜空がもっとも冴えわたる季節でもある。受験生たち、あるいはかつての、そしてこれから受験生となる読者たちは、冴え渡る夜空にひろがる大宇宙を仰ぎ何を思うだろう。
この衝撃はじゅうぶんに非凡な序を一気に振り切り読者を天空に打ち上げる。
微分される夜空の青とは何か。
それは学問的対象として規定される夜空であり、それゆえ純粋に観察と探求の対象であり、その分野への進学を目指す詠み人にとって、それは宇宙であり未来であり、そして自分でもあるだろう。それだけではない。その解をもとめる読者じしんの姿でもある。
街のあかりとは成功し定着したものたちの放つ光、そうしたしがらみとははなれた位置にいる受験生にとって、街のあかりは外部か雑音にあたるかもしれないし、いつか自分が再参入する場所かもしれない。
この歌はテストの問題文そのものであり、解答は記されない。作者はこの問いに答えることも思考の過程を示すこともせず、それらすべてを読者に投企している。そのため読者は作者の投げかけた問いの答えを探すことになる。読者は自問し夢み思惟し想像し記憶を想起する。歌を鑑賞することで作者の心象に分け入る作業がいつのまにか自問となり、ときには自分の過去、あるいは未来、そして今この瞬間を投影する。
上記のような構成は、ありていに言えば時分の歌、青春期限定の叙情歌といっていい。さしあたり言語機能の極限をさぐる現代短歌のなかではこうしたテーマははやらない。ではそれだけを根拠にこの歌の価値を限定できるのか。
そうかもしれないが、それで終わりにしてほしくない。なぜなら、こうした心のゆらめきを大切に記憶し想起し記述する行為は自己と世界のはざまから生まれる認識の、つまり哲学と科学の原初のすがたであり、その姿勢が現代短歌の流行からはずれていようといまいといっこうにかまわないから。
結句を復唱したい。
俗世、しがらみ、現実などを表象する「街の明かり」を無視してもよいと歌い上げる。かそけき深き空の青さが真実ならばその対極にある現実など捨象してかまわないとも歌い上げる。
時分の歌かもしれないが、そこに込められたまっすぐに真実を見ようとする迷わない力をわたしたちは大切に保持してゆきたい。なぜならそれはたぶん、うしなってはいけないものだから。
例えば出先で、「しまった、今日録画しようと思ってた深夜ドラマの録画をセットしとくの忘れた!」と思った時。
家に帰ってから録画予約すればいいんだけど帰る頃には結局忘れちゃうんだよなー。
リマインダーセットしたりするんだけど、リマインダー見るの忘れちゃうし。
そんな時にこうすると思い出せることに気づいた。
まず、やらなきゃいけないことを、漠然と「忘れないようにしよう」ではなく、具体的に「いつ」「どのような状況で」やるのかを決める。
例えば録画予約だったら「家に帰って手を洗ったら服を着替える前にやろう」みたいな感じ。
次に自分が実際にそうしているところを頭の中に思い描いてみる。
手を洗ってタオルで拭いて、部屋に入って番組表を表示してリモコンを向けている一連の動作。
それだけ。
で、案の定家に帰る頃には録画予約のことなんかすっかり忘れてるわけで。
だけど家について手を洗っていると不思議と「そういえば録画予約しなきゃ」と思い出すんだよな。
ポイントは、全く関係ない日常の動作と、忘れたくないことを結びつけて記憶しておくことっぽい。
なんというか、自分で自分にちょっとした催眠術をかけているような感じ。
お試しあれ。
なんでそんなにおっぱいを揺らしたがるの?
私は胸が揺れる表現が苦手です。
いきなりですが、アホでは?
私も胸が揺れる表現が苦手です。
でも「自分の日常生活にない表現だから嫌」なんてマヌケな説明はしません。
胸が揺れたら不快なのと胸の形をキープする為にブラジャーをつけています。
ご苦労さんです。
でも誰も「あなたやあなたの友人知人の胸が揺れている」とは言ってません。
頭か心にご病気があるのでは?
ならば、長々と書いてた「私の日常で胸は揺れない」という話と結論が全く関係していません!
私は「性的なパーツアピールの取り締まり」に賛成か反対か問われたら反対です。(乳揺れなんか好きじゃないですが)
だって「性的」も「アピール」もなんのことだかさっぱりわからないんですもの。
そこがきちんと定義されずに無限に広がるポテンシャルを秘めてる限りはその基準のとがめだてに反対です。
バカはこういうとすぐ「取り締まられるべき基準など自明だ!」などとバカを丸出しにして威張ります。
しかしタリバンがあなた達と同じ正義、「公共の場で性的なパーツのアピールは見たくない」を実践した結果
あの国では女性は髪の毛も肌も全て覆ってしか外出できなくなっています。
女性の髪の毛は性的だし、それを出して外に歩くことがふしだらなアピールである、それは自明のことだとタリバン戦士は思っています。
自分のお気持ちや教義を自明と思ってるので議論は不可能です。バカって怖いですね。
あなたがたが「性的」や「アピール」の基準を明確にするまではね。
悪意があるというよりは頭が悪くて思考が緩いだけなのでしょうが(最善の相)、
それぐらいの労も厭うならば人の自由や欲望を制限するなんて言う大それた夢のほうを捨てたらいいんです。
積極的に見たくはないけどバカが取り締まろうとすることには反対です。
股間や乳を擁護するのではなくバカによるタリバン的な暴力性を警戒するということです。
私は股間や乳を見て気分が良くはなりませんが大した悪影響があるとも思えない。
一方でタリバン系バカが調子づくことは社会にものすごい悪影響があります。
なんでそんなにおっぱいを揺らしたがるの?
一番カチンとくるのここなんですよね。
自分の言ってることの意味を分かってないですよね。バカだから。
けど乳を揺らす表現をしたい人がいる。それを見たい人がいる。
「必然性ないよね!?」「無いならやめられるよね!?」って本気で言ってる?
それがどういう帰結になるかわかってるのでしょうか。
あなたが好んで選択するあらゆる漫画や映画やドラマやMVといったコンテンツ、ちょっとしたデザイン、あなた自身が発するなんらかの絵や言葉、
それ全部突然現れたアホに「必然性ないよね!?」「無いならやめられるよね!?」って言われても飲まなきゃいけないんですよ。
バカは抽象的な話だけで問題点が理解できないから卑近な例で説明すると、
学校や会社で人の持ち物やら服やら髪やら靴やらにいちいち「学校に持ってくる必然性がない」「会社にその格好でくる必要がない」って取り締まりたがるアホいたでしょ、
あれと同じことをやってるんですよ。
「必然性があるのかないのか」と言う質問に応じるなら「ない」かもしれない、
「ない」って答えるとそのアホの望むチョイスを押し付けられるわけ。
何このアホアホシステム?
「必然性ないだろ」が表現をやめさせる理由になると思ってる人は
全く根本的に、完璧に、箸にも棒にも引っ掛からない、超ド級の、馬鹿です。
元増田のバカさと関連する形でバカなブコメがついてる(トップ人気!)から引用します。
zheyang
戸定梨香の動画、乳が揺れてるのにスカートと腰のリボンが揺れてない。
乳に対する異常な執着が伺えるらしいんですが、
まずどこからが「異常な」執着なのか、何によって判定するのか教えて欲しいんですよね。
揺れたら異常なのか。揺れなくても大きいだけで異常なのか。胸元が開くと異常なのか。肩はいいのか。
客観的なラインとその論理を説明できるならよし、そうではなく都度決めてるならそれはただのあなたがたの主観と感情であって
そんなものはあなたがたの中ですらブレブレに動くし、まして他人が共有できるものではないんですよ。
きっとこの人達はこれっぱかしのこと聞かれても答えに窮するんだけど(なんにも考えてないから)
自分の発した言葉の意味を説明出来ないのは醜態であるという基本的な認識がこんにち発言する人全員に欲しい。
それで、
そもそもなんでこの人達がこういう微妙かつ自分達での定義すらできない「必然性」や「正常」なんていう弱弱しい論陣で戦おうとしてるかというと
フェミニスト議連がぶち上げた「性犯罪を誘発する」のような規制理由が無理筋であることは判断突いちゃってるからなんですよね。
フェミニスト議連の主張が間違ってることをこの人達は言外に、無意識に、判断出来ちゃってる。
正にお気持ち。
「スカートやリボンが揺れてないのに乳が揺れてるのは異常だ!」って本当に笑っちゃうというかレベルが低いというか、
世の中には乳に全然興味がなくスカートや髪の毛の揺れこそが少女の可愛さを表現するんだと信じてその描写に打ち込む漫画家とか幾らでも居るし
それは異常な執着ではないんですかね?
https://pbs.twimg.com/media/E1_HNmHUcAQhlbD.jpg
っていったらスカートの皴の繊細な描写も異常として取り締まりだすのかな。
saiusaruzzz 元増田は「女性にとって胸を揺さないことの必然性」を説明していて、だから胸を揺らすことは女性にとって「自己」表現とはなりにくいという話では。
だから元増田にとって乳を揺らすことが自己表現でないことは元増田の自由です。 こんなん何度も言わせないでほしい。
でも元増田以外の人達が乳を揺らす表現を選択することはその人達の勝手であって、元増田が「私の日常には無い」と宣言すること自体おかしくね?関係ないじゃん。
「私が全女性の代表です」とか「私が女性性を統括管理しております」とかいう気持ちが出始めてるならそれは心の病気です。
何もズレていません。
乳だけに反応するあなた達の乳児性や視野の狭さ反応パターンの貧しさを言っているんです。
「異常な執着」という雑な話に乗るなら私は例えとして出したこの漫画家の方が遥かに繊細で徹底的な執着を持った異常者だと思う。
https://twitter.com/siiteiebahiro/status/1252618446677803008/photo/1
あの雑でへったくそなvtuberの3Dモデルなんかよりこの人のイラスト見てると100倍ゾワゾワする。
乳ばっかり見て「揺れた!異常だ!」ってまあほんとに何を狩ってるつもりだか。
あなたたちはすごーーーくわかりやすい表層的なシグナルに反応するカエルです。
そんで自分が反応したものに対してカエルの浅はかな考察を加えておせっかいなレッテルを貼る。
あなた達が追えてるのは「表現者の異常な執着」なんて上等なものではなく、単に「自分のカエル脳の反応パターン」です。
その表現が有害であるなんて証明できたこともなく、自分のカエル脳が興奮したことを持って「許されるはずがない!」と喚いてるんです。
中世かアフガンに生まれてたらフシダラ女狩りや魔女狩りで自分の脳の興奮を他人に転嫁出来たのにね。
Arturo_Ui 長すぎて読む気が失せたんですが、「スカートの皴の繊細な描写」って、「プリーツ」のこと?
「あれは皴じゃなくてプリーツって言うんだぞ!ボクチャン知ってる!」ですか。
おしえてくれてありがとう!むずかしいこと知っててえらいでちゅねー。
私はプリーツの話ではなくスカートの動きで生じる皴の描写話をしています。
例に挙げた人はプリーツの上で重なったり折り畳まれたりするスカートの布地の形を追求して描写してるんです。
この人の理想の「活き活きとした少女」がスカートに皴を作りまくりながら躍動する絵をずーーーっと描いてる人です。
ね?具体例を画像で出されてすらどこが凄いのか何に執着してるのか着目する能力がないんです。
この程度のお粗末な解像度しかない人達だから「胸が揺れた!」みたいな表現狩りが大好きなんですよね。
「肌が見えた!」っていう蛮人となんもかわんねえ。
nicoyou “乳を揺らす表現をしたい人がいる。それを見たい人がいる。”うん。それはいいと思う。VTuberで揺れるのもいいと思う。ただ公共の場に持ってきたら見たくない人にまで押し付けることになってない?って話じゃない? 増田
けど取り締まる気はない。理由は上述の通り。
お前等がそれでも自分基準の取り締まりをやりたいならせめてその「性的」「アピール」の基準ぐらい示したらどうですか?と言ってるの。
ていうかこれ全部本文に書いたよね?
toaruR 性的に受け取られることを「期待した」表現かどうかで一線引けますよ(´-`)揺らす性的魅力によって消費されることを期待しているのなら、それは性的表現だという風にね
おめーみてーな回転がすごうく悪い人の為にタリバンの例えをしてあげたんですけどね(´-`)
タリバンは女が髪や肌を出して歩いてるだけで「男を誘っている」「アピールしている」と判定していきり立ってその女を取り締まるわけです。
一方であなたの様な頭のにぶうい規制派さんでも、日本生まれ日本育ちならまあ髪や顔の肌を取り締まりたい感性は持っていませんよね?
つまりあなたもタリバンも「性的なアピールは許さん!」という同じ文言の正義の信奉者であるにもかかわらず
その具体的な基準が全然違うわけです。正義の味方同士ですら基準が全然自明でない。
どこにどうやって引くんでちゅか?
それが単なるお前の個人的な反応ではないということを誰が証明するんでちゅか?
せめてちゃんと明文化して基準案として出してみたらどうでちゅか?
しってた?頭悪くない人間でも自分の考えまとめるために紙に書くんだよ?
君達はなおさらちゃんと文字で何枚も書いて考えまとめないとダメじゃん。
なんだろう、自分の卑猥なほど頭悪い主張を自信満々にアピールしてくるのやめてもらっていいですか?
私の個人的な感覚では、低品質なvtuberの動画が公共空間に流れることなんかより、
こういう気持ち悪いほど頭悪い発言がわいせつ物扱いにならずに流通してる事の方が不道徳なことだと感じるんですよね。
オリジナルの日本語版が出て時間が経ってからのリリースだから、流出避けのために資料を絞ってるわけではないだろうになぜこんなに誤訳が多い……
(引用はすべてスーパーダンガンロンパ2とdanganronpa2より)
"(前略)vigorously slammed the button more times than he needed to."
砂漠のオアシスのようなさわやかな誤訳。しかし日本一ソフトウェアが免罪されるわけではない。
「斬新なローションプレイだね!じゃ、脱いでおいたほうがいいかな?」
"Ooooh, fresh coconut lotion! Would it be better if I take off my clothes first?"
ココナッツの汁をローションとして使うことが斬新だと言ってるのに英語版ではココナッツ汁が新鮮ということになっている。
確かに採りたて新鮮だがそういうことを言ってるんじゃない。
「嫌な手だな…」
彼の言葉は手に対するものに見えるが実質は直前の相手の発言への呆れというかツッコミというかだろう。
しかし英語版ではその発言に同意or黙認していることになり意味が違ってくる。
「ほら、醜い顔だよね… 」
"Look, he has such a horrible expression on his face, don'tcha think...?"
心をぞわぞわさせるどぎつくて悪意あるセリフがごく普通の描写になっている。
直訳してくれてればよかったのに。
"Tch! Nosy bitch...!"
細かいヤロー呼ばわりされているのは彼の会話相手(男)でありbitch(女)ではない。
確かに女子の話題は出てくるが、このシーンで細かいといえるとしたら男の方である。
この二つによりこのbitchはほぼ間違いなく話題に出た女キャラを指すと思われているだろう。
ちなみにbitchは性的な意味を含まないことが多いのは知っている。というかこのゲーム内でのbitchはすべてただのクソ女か意味のない悪態として使われていた。
再追記終わり
"But...it's an academy that recruits only exceptional students from around the world, right?"
辞書を引かないのだろうか。
全体的に日本語がよくわかっていない訳が多い。
「おいっ、何をしているっ!」「やめろっ!!」
有能で状況を正しく把握していた彼だが英語版ではとろい間抜け。
「なんだよ…オメーもあの窓が気になんのか?」
なにをどうやったらこんな訳になってしまうのか見当もつかない。
「なんだぁ…使えない…」
"Aww...how useless..."
原文は話し相手を無能呼ばわりしているが、英語版ではそれ(物)は壊れているから使用できないという意味のようだ。
「このふとどき者っ!わたくしはそんなに膝の軽い女ではありません!」
"Imbecile! I am not some woman with flexible legs!"
「惜しい!もう少し上です。」
"O-O-Of course you're not! You're much classier than
「けど…速く走れそうだな。」
"With legs like those, I could prolly do the splits real easy."
英語版はflexible legsなるドンピシャな言い回しがありながら活用(ancleでもhipでもいいだろうに)しないでつまらない訳をあてた。
「目覚めたぞ!」
"I have awoken!"
クラスメイトの変態化を目撃した驚きが英語版では起床報告になっている。
本筋と関係ないのが救い。
「わからないんだったらいいよ…わからないまま終わればいいよ…」
"It's fine if you don't understand... You can just see the end without knowing."
危うく見逃すところだった。感じたモヤモヤに従って立ち止まってみてよかった。
日本語版では「謎が解けないまま終了」だが英語版では「終了することに気づかない」。
「ボクらは昔から、そういう風に教わってきたはずだよ。」
「直接的に言葉で言われなくたって、ボクらを取り巻く世界を見ればわかるよね。」
「テレビやネットや新聞から垂れ流される“希望溢れるメッセージ”がそう言ってるもん…」
「勝てない人間も…頑張らない人間も…頑張っても勝てない人間も…」
"For a long time, humans have been taught that if you try hard enough, you can accomplish anything."
"Even if we weren't told this directly, you'd know it just by looking at the world around us."
"The Internet, TV, and newspapers are overflowing with hopeful messages that say exactly that..."
"But people who can't win...people who don't try to win...people who try their best and still can't win..."
気づいた瞬間血の気が引いた、個人的に最低最悪の誤訳。機械翻訳にかけてもこうはならない。
元の文章にありもしない"if you try hard enough, you can accomplish anything"と"But"を入れようとした時点でおかしいと思わなかったのだろうか。
また英語版だと彼は"Internet, TV, and newspapers"に賛同していないことになるが、それなら"hopeful messages"と形容するのは不可解だと気づいてくれよ。
訳者は単純に読み違えたのか勝手に自分の主義主張を入れ込んだのか。
個人的には中間をとって、先入観に惑わされて誤読したのだろうと思っている。
確かに英語版は敵役とかちょっと厨二かひねくれものの主人公とかライバルが言いそうな、または苦い現実を地道に描くような物語によく出てきそうな言葉だ。
でも彼はそうじゃない。
彼を、ちょっと幼げで熱情的で小物っぽい狂信者を表したセリフをよくもこんな訳にしてくれたものだ。
"It's like the smug feeling you get when you explain something
同時通訳者の逸話で、どこかに招かれてスピーチした人が日本語に訳しにくいジョークを言ったときに
「この方は面白いジョークを言いました。みなさん笑ってください」と言って
その場を丸く収めたという話を思い出すが、ゲームの訳者は客に笑えと頼む仕事ではない。
確かに英語版もどことなく彼女がいいそうなセリフだが日本一ソフトウェアの罪が軽くなるわけではない。
「オメーがオレを殴んだよ。」
「だってお前…いつも俺を信じてなかったろ?」
良いシーンで誤訳。二つも誤訳。どうしてそうなるのか意味不明すぎて恐怖すら感じる誤訳。
詳細は伏せるが日本語版ではあるキャラの口調が一時変わる。それはいいけど英語版で微妙に追従してるのが困る。
英語に口調の違いなどほとんどないのに無駄に一部だけ変更してるから違和感しかない。誤字脱字だと思った人が多いだろうなあ、あれ。
ささいなことだとは思ったがここはあえて日本語版に背きその変更は削っていつもと同じ口調にしてもらった。
「そうか? 栄養ドリンクに見えなくもないけど…」
"Really? It looks like some kind of dietary supplement to me...Protein powder, maybe...?"
ぷっwwぷろていんwww
リアルで吹いた訳。その人がプロテインなんて持ってると思ったか?
ここで出てくるのは茶色で小さめの瓶。彼にはオロナミンcやデカビタのようなものに見えたのだろう。
しかし他の人に尋ねたところ、海外にはそのような容器に入ったエナドリはないらしいからプロテインにされてても仕方がない。
ちなみにこの訳の違いによる実害はない。
田中のセリフはなぜか軒並み高品質だった。ソニアのほとんどのネタが再現されていないのと鮮やかなコントラストを成していた。
左右田の口癖は「メンドクセー」というものだが、残念なことに英語版ではこれが毎回違う単語で訳されており口癖になっていない。
彼が手間や時間がかかる作業についてそう表現したことは一度(あいまいなのを含めれば二度)しかない。
あとは全て、怖い・不安という気持ちのときにのみメンドクセーと言っている。
臆病だったり地味に泥臭くこつこつ努力したりする左右田が恐怖を面倒という言葉に変えることでのんきで軽薄なパリピを装っている描写だと思っている。
ちなみに、一度だけの純粋に手間がかかることをメンドクセーと呼ぶシーンは
みんなの手間を省こうと努力して成功したがそれでも手間が残ってしまったときの
「メンドクセーけどヨロシク(意訳)」だからむしろ上の思いを強化している。
友達と仲間はそこそこ区別して使われているが英語版では全てfriendになっている。
なんとかしようと思ったが仲間をうまく表せる言葉は英語にはないようだ。
他の人に聞いたところそこの言語には仲間にあたる言葉があるようで一度は喜んだ……が
実際のところとあるきっかけからその言葉は廃れて今ではほぼ皮肉にしか使われないと言われ不意に
その人はゴッド・オブ・ウォーに戻しておいたそうだ。
それを英語版では円をそのままドルだったり"you don't speak English"だったりして違和感しかない。
ありがたいことに他の人はこれもyenに直したり"Don't you understand in human terms?"という意味の訳文にしたりしてくれた。
デカルトといえば有名なのが「われ思う故にわれあり(コギト)」。ここから近代的自我が始まった。
自我というものの存在を確立したデカルトの三段論法は西洋に影響を与えまくったが、特に注意しなくていけないのは神の存在を使わなくても自我の存在を規定できるという点だった。
でも実際のところデカルト自体はコギトから神の存在証明を行っている。神の存在を証明する時代の要請があったのだけれどそれについては後で触れる。
時代は流れてフランス革命が起こり国民国家が誕生する。国民国家が誕生すると神が死ぬ。
どういうことかというと、それまでの王による国の支配がどういう理屈で正当化されてきたのかということを説明する必要がある。
「王権神授説」というやつだ。それまでの王族による支配権は神が王に与えた権利だった。
神がこの世界を作って人間も作ったのだから神には人間を支配する権利がある。王は神に権利を与えられたので国民を支配する権利がある。
中世の神学者たちが大真面目に神の存在証明に邁進した理由がこれでわかるが、
彼らは頭の体操をしていたのではなく、国家の礎として必要な公共事業として神の存在を証明し続ける必要があったのだ。ご苦労さま。
ところが、王が打倒されて国民が自分たちの代表によって自分たちを支配する国民国家が生まれると、神は必要なくなる。
そして神に変わったものは国民の自我と理性のみとなり、国民は唯一絶対なものであるそれらによって自分自身の足のみによって立つことになる。
これにて「近代的自我」いっちょあがりだ。
なぜなら人間が生まれてくるのは神が「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」といったからだし、日本で言えばイザナキ神が妻ともめて「いとしい妻よ。あなたが千人殺すなら、私は、一日に千五百の産屋を建てよう。」といったためだからだ。
なので神がいる前提だと反出生主義は成り立たない。
フロイトといえば精神分析だが、あとで精神分析の手法が全然間違ってたということがわかったせいで、その功績についても一般的には忘れられている気がする。
フロイトの偉大な功績は2つあって、1つ目は「精神を科学のまな板の上に載せたこと」それ自体。
フロイトは夢分析の過程で人間が表層意識には浮かんでいない、既に忘却している過去のトラウマに影響されて現在の行動を選択していることに気がついた。
患者自身は自分が理性的に考えて選択した結果だと思っていても実は意識に登ってきていない「無意識」によって人間の行動や症状が変化する。
これはすごい発見だった。それまでは人間の行動は意識、つまり自我がコントロールしているとされていたのだから。
フロイト的無意識の例で言うと、チャップリンの「ライムライト」という映画がある。
あの映画のオチでヒロインは忘れていた過去のトラウマを思い出し、それを乗り越えることで身体的な症状も克服する。
これはフィクションだし、ちょっとフロイト的すぎるので、もっと卑近な例を出すと、
犬が苦手だなあと思っていたら、実は記憶にないくらい小さな頃に犬に噛まれたことがあった、とか
梅干しの写真を見たら、「梅干しをこれから食べよう」と意識しなくてもつばが出るとか(パブロフの犬)。
映画の映像の途中で肉眼では認識できないように一枚だけコーラの写真を入れておくと映画館でコーラの売上がのびるだとか(サブリミナル効果)。
こういう感じで無意識が人間の行動に大きく影響を与えるということは、今では常識にまでなっているけれど、これを言い出した始めの人がフロイトというわけだ。
フロイトは原始的な欲望とかが無意識の正体だと考えてなんでもそれで説明しようとして失敗したわけだが、(夢分析の本とか何でも性欲で説明しようとしていてやばい)。フロイトの後続の研究者たちは無意識の概念をさらに発展させていった。
表層意識に上らないのに人間の行動に影響を与えているもの、といえば「不随意運動」だ。
たとえば、眩しい光みたら瞳孔が小さくなるとか、膝を叩いたら足が上がるとかが有名だけどそれだけじゃない。
心臓が動くのを意識して止めたり動かしたりできる人はいないから鼓動も不随意運動には入る。
呼吸も意識すれば止められるけど意識しなくても止まるわけじゃない。意識しているときは随意運動で意識していないときは不随意運動といえる。
ところで人間の意識は脳の一部である大脳新皮質で起こっている反応であることもわかってくる。
脳のその部分以外で起こっているこのと大半も無意識下で行われている。細胞の代謝とか。
さらにさらに、全ての行動に当てはまるわけじゃんないみたいだけど、「人間がある行動をとろうと表層意識で考える一瞬前に、既にその行動を取るためのニューロンが発火している」なんて話も出てくる。
さてそうすると、どうなるかというと、人間が自分の意識で自分の体をコントロールしているという考えは実は間違いで、人間の活動の大部分は無意識がコントロールしていることになる。
意識が肉体(無意識)をコントロールしているという従来の主従の逆転がここで起こっている。
ここまで来ると「無意識」を拡張しすぎて「無意識」ってなにって話になってしまう。細胞の代謝のことを「無意識」という言葉でまとめるのは違和感があるから。
ここでいいたいのは「表層意識下に上らないすべてのもの」みたいな意味であり、一般的な言葉の「無意識」とはちょっと違うものになってしまうので哲学者はこれに「エス」とかいう名前をつけた。
意識ではなくエスが人間の行動を決めるのである。というか人間が何を考えるのかもエスが決めているといえるのだとするとコギトがおかしなことになってくる。
「われ思う故にわれあり」ではなく、「われ思わされているゆえにエスがある。われはあるかどうかわからない」に修正しなければならない。
「生きるのは苦痛である。苦痛でない場合もあるが生んでみないと分からないのでいわばギャンブルである」
「生まれる際に両親は子に生まれてもいいかという同意を取っていない」
「よって生むのは無責任であり生むべきではない」
しかし人間の9割は無意識下の存在であることを踏まえて見ると、見え方が違ってくる。
第一の登場人物である「子」は産まされるという受動的な立場ということになっているが、同意を取るべきタイミングには意識が存在しない。つまり無意識である。
無意識の相手に無理やり生まれることを強制するのかと反出生主義者はいうのだが、これまでの議論で無意識(エス)こそが人間の大部分であることをこれまで延々と説明してきた。
で、重要なことはその「エス」自体は生まれてこようとする方向性を持っている、ということである。
今だに現代人は意識がなければ何も決定することはできないと思っているが、むしろ無意識が先にあって意識が後から形付けられたといえる。そして人間の肉体の不随意運動は生き残ろう、という方向で行動を起こす。
精子の蠕動だって不随意運動だし、卵子の排出だって不随意運動なのでこれらはエスである。
胎児は産道を通るとき自分の体をねじって頭蓋骨を変形させながら外に出てくる。生まれてこようとする意志がそこには感じられるが、もちろん意識も自我もない。
だがそれらの反射が自分自身ではない、というのもおかしな話である。
それらが全て生まれてこようという方向に方向付けられているのに、「本当は生まれてきたくなかった」というのはどういうことなのだろうか。
自意識、理性を過大に評価するのが現代人の病巣であってこれは単に、いまだにデカルトの呪いがとけていないのだと思う。
「生まれてこないほうがよかった」という人間だって、それはそれで大変な状況なのは間違いないのだけれど、ひざを叩けば足が上がるし、急に熱いものに触れられたら自分を守るために手を引っ込める。
生きたくないとか言うけど呼吸は止められなければ、心臓は勝手に動いている。
どう見ても肉体は生きようとしている。
やっていることと言っていることが違う。
でも不思議なことは何もない。自意識なんて人間のほんの一部でしかないからである。
自己の定義を自我に狭めるべきではない。それは単にその方が精神衛生上いいというだけの話ではなく間違っている。
エスの定義は自意識に上がらないすべてのものと書いたが、哲学者によるとこれはつまり「自我」以外の「世界全て」のことを指すらしい。
流石にそこまで悟ることは難しいが、自己の定義を自分の不随意運動、や無意識の習慣程度にまで広げておけばデカルトの作った罠にはまらないで済む。
漫画は雑誌文化の一部であり雑誌には男性誌と女性誌があるからというもっともらしい説明を聞きました。
それにくわえて漫画は娯楽性が高くて男には戦いと美女、女には恋愛とイケメンを主な目玉にやってきたから男女の偏差が生まれやすいからということだそうです。
けれども雑誌文化ということであれば日本の近代文学も雑誌文化です。同人誌です。
しかしラノベなど一部のジャンルを除いては男性向けだとか女性向けとか公式にあるいは読者が言う傾向は見られません。
それについて調べてみると文学はそもそも女が見るようなもんじゃなかった時代に販路なりが成立したんだろうといいます。
(漫画は手塚がリボンの騎士、赤塚がアッコちゃんやってた通り勃興早々に少女漫画が分岐していた。 )
男しか見ていないからわざわざ男性向けと自称するまでもなかった。そこから女性が参加するようになれば、余計なラベリングがされていなかった雑誌はおのずと総合誌的な色合いを帯びるようになったということでしょう。
ㅤㅤ
しかし「販路の成立の仕方」ということで見ると、映画や音楽も小説と似た事情だと思います。
映画や音楽を男や女しか楽しまなかった時期があったとは考えにくいですね。
「映画 男女比」と検索するとハリウッド映画の男女不均衡が調査で浮き彫りに」という見出しも出てきます。男女不均衡を話題として取り上げること自体が、映画はかつで男女に等しく楽しまれたものだったという前提を示唆しています。
(ちなみに、男女差が当たり前にある漫画文化の目線で見ると男女不均衡を記事にすること自体にも違和感を禁じ得ないでしょう)
音楽にしてもそう。伝統音楽が典型的でしょう。ケルト音楽やケチャや中国の音楽を男女の一方しか楽しまなかったということがあったでしょうか。
(まあ中国の音楽はドラマで悪の皇帝が宮廷音楽を楽しんでるのを見てるから男の娯楽みたいに見えてきますが)
他にも伝統音楽というのは数多ありますが、このようなものは部族みんなで囲んで楽しまれるようなものだっただろうから、目的的にも性差が組み込まれようがないわけです。
現代でもCDショップに行ってもアイドルのを除けば男女で棚分けされていることもありませんしね。
ちなみにゲームの場合はハクティビズムが源流にあってこれはギークの趣味、男に偏った文化だったしょう。事情として小説(=文学)に近いと思います。
ㅤㅤㅤㅤ
映画や音楽の場合では娯楽性という面でも漫画と近接していると思います。
けれども娯楽本位だから、チープな文化だから男女差が起こりやすいという言説は退けられるべきでしょう。
映画でもマーベル系は男性客に偏ってるのかなという印象もありますが、恋愛を主題としてきた多くの映画が別に男性向けとか女性向けとか言われていません。これらはたとえば崇高なメッセージが込められていたから作品としても高尚なものへと昇華し鑑賞者の性別を凌駕したのでしょうか。
そういうこともあるかもしれませんが、そうじゃないものも十分多いと思います。
映画は高尚だから自分の性に関わらず楽しめ、漫画はそうじゃないから性に依存するというのは、漫画側に対する不当な矮小化に思えます。
ㅤㅤㅤㅤ
音楽だって純粋な娯楽でしょう。上手い人のピアノの即興曲は男女に関係なく人を魅了します。またその旋律に男女の物語を乗せることができるという点でも映画や漫画との違いはありません。
ㅤㅤㅤㅤ
媒体という表現のあり方が性差を生んでいるかもしれないとも考えました。
その意味では音楽を除き映画と漫画が同じ視覚表現なので近似しているように見えます。
また美術館に展示されるような絵画についても、このような芸術もまた上流階級の主流である男性にもっぱら楽しまれていた点では小説に近い事情ですが、引き合いに出したいと思います(現在の美術に男女差が見られない理由を過去の販路の成立の仕方に限る必然性がないから)。
映画は実写。小説はデフォルメされています。この点はむしろ絵画に近いでしょう。
また小説との比較では、小説は文が主体で漫画は絵が主体という違いがあります。
これらを総合すると、絵による視覚的な刺激は文章と違って刺激が強く、男性に好まれるような描き方は女性にとっては関心を呼ばないばかりか嫌悪感すらを抱かせやすい(逆も然り)という意味で排他性が強い表現なのかもしれない、ということがまず言えそうです。
しかし問題は主体が絵であること自体ではなく、絵画との相違点としての、漫画における絵の特徴が関係しているのだというところに焦点が絞られると思います。
ではその違いは何か、そこが難しいところなのです。
「漫画は実写と比べてもかけ離れたデフォルメを使っているから」と言ってみても、それは程度問題でしかなく、特徴を質的に捉え切れたことにはならないでしょう。今の私の頭で考えられるのはここまでです。
ㅤㅤㅤㅤ
ちなみによく考えるとテレビなんかは男女差のないこれ以上ない卑近な例ですよね。男女差があるように作っては最高でも人口の半分程度しか視聴者を期待できないということで、視聴率の点でテレビ局が困るのです。
もちろんドラマなどには二兎を追う者は一兎をも得ず式の一方の性別によく愛されるような内容に仕上げる制作方法も見られると思います。
しかしたとえばNHKのゴールデンタイムのバラエティーなんかわかりやすいと思いますが、(ためして)ガッテンや日本人のおなまえの視聴者に男女の有意差があるとは到底思えないでしょう。
それには「ためになる内容を提供する」テーマ的な部分と、人材的な部分があるのかもしれません。
名前の雑学とか医学知識とかいうことのお役立ち度合いに男女差はないでしょう。
人材的な部分というのは、アイドルでもイケメン美女でもなく、とにかく無難なルックスの人たちで出演陣を固められてる傾向があるということです。
男女の一方に好かれるような人を起用すれば、その人数が奇数であればどちらかの性別に向けた色合いを帯びてきてしまうのは自明でしょう。
しかもたとえ人数的に均等であったとしてもパワーバランスの点で完全に均衡させるのは難しいから、やはりおのずと偏りが生まれてしまうと思います。
逆に特に容姿の端正さで採用されたわけでもないアナウンサーや適当なバラエティータレントにはそういう意味でのフックがありませんから、そういう人たちで絵面を構成させることで、ポリコレも真っ青なTHE中性的な番組が生まれるのだと思います。