2022-08-23

自我の切り売り

ここ10年くらいで一気に、配信者、が増えたと思う。

それこそ昔はニコ生くらいしかなかったのが、今ではスマホ一台あれば、無限配信サービスもあるから、増えるのは自明なんだが。

かくいう自分も、配信者をやっていた。同接は多くて15名くらいの、底辺底辺だ。

話すこと自体は好きだったし、YouTube収益化ができたときは嬉しかった。(スパチャを投げられるとかそんなことはないので半年収益は数円だったが)

推しイラストレーターイラストを依頼とか、配信者でなければできなかっただろう。

そう、自分を切り売りした結果としてできることは増えるので錯覚しがちなのだが、擦り減っていくものは、かけがえのない大切な何かなのだ

これをうまく説明する語彙が、自分にはないのだが。

皿の上に差し出しているソレは、簡単に消費されていいものではないし、消費される側もする側も、麻痺しているように感じる。

配信者側は今言ったように、できることが増えていくから、擦り減ったものには目が行きにくいし、

視聴者側も「配信者が好きでやっていることだから自分も好きに応援しよう」と考えるものだ。

さら根深いのが、思うに、「素人である」ことだと思う。

自分もそうだが、とりたてて絵がうまいわけでも、歌が上手いわけでもない。トークも平凡だと思う。

絵や歌、ゲームの巧みさなど売れるだけの芸があるなら、それを売れる。だが、自分も含め、素人にはそれが無い。だから自分のものを切り売りするしかない。

枯れたスポンジから血が滴るようになっても、売れる芸などないからだ。

そこまでして承認欲求をかなえたいものなのか、とは自分も思う。

自分場合は、始めたきっかけは承認欲求だったのだと思うが、今となっては素人自分の話をなぜか面白いと聞いてくれる人がいるから、その人たちに自分のできる範囲内で精一杯お礼がしたい、そんな感情なのだ

から、ひとくちに承認欲求肥大化問題、というのも自分としては違うと感じる。

等身大自分を切り売りして、売った分だけできることが増えて、承認欲求も満たされて、

気が付いたら致死量まで擦り減っていた何かによって、いつか、死んでしまうのではないか

少なくとも自分は擦り減った結果、あんなに話すことが好きだったのに、「ああ、こんなにもことばって伝わらないんだ」という絶望を得た。

どれだけことばを重ねても、

「なるほど!××ということですね!」「自分がいつ××だと言った!?

と頭を抱えることが多く、それが耐えきれなかったんだろうと思う。

ことば、言語というもの相手自分が一意のものを思い浮かべるためのコミュニケーションツールだと思っていたばかりに、本当につらかった。

今となっては、いつ、どこで、誰と話す時だとしても、「どうせ自分言葉は伝わらないのだ」という諦観絶望支配するようになった。

まあ、自分の具体例で言えば話が通じないやつを放置、ということができなかった自分不器用さに原因があると思うから別に構わないのだが。

それでも、「話が通じる人もいる」ということを信じられなくなったのは、自分にとっては大きな損失だろうとは思う。

最近トレンドひとつに、「夢を追いかける若い少年少女を消費する」文脈があるような気がする。

もちろん、これは最近に限らず昔からそうで、だからオーディション番組甲子園はみんなが好きなんだろう。

ただ、ネットの普及、SNSの浸透、素人でも誰でも配信ができるという状況が、これを加速させ、卑近にしているように思えてならない。

少なくとも、オーディション番組甲子園のように、覚悟をもって飛び込む、ということはなく、敷居が低く気軽に飛び込めるようになっているのは間違いないだろう。

それに加え、先でも述べたがオーディション番組甲子園のように、明確な一芸を競うなら、そこまで自我は痛めつけられないと思う。そこでの失敗は能力の不足(まあ運もあるだろうが)と割り切ることは比較的容易だ。自分を切り売りする場合に比べれば。

オーバーリアクションばかりしていると、寿命を縮めるという。

ひとの感情は、それだけコストのかかるものなのだ

決して簡単に消費されて良いものではないはずだ。簡単に皿の上に載せて供して良いものではないはずだ。

と、思うのだが、私だけだろうか。

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