はてなキーワード: テレビ番組とは
スターウォーズやスタートレックでメートル法が使われているのは「ヤード・ポンド法を採用するアメリカ人にとっては耳慣れないメートル法がSFっぽく感じるからだ」とするエピソードが広まっている。
これは、いまだにメートル法を採用しようとしないアメリカ人のズレた感覚への揶揄として、しばしば働いているようだ。
しかし、たとえば上記のフォーラムを見てみると、そこで挙げられている考察の多くは、「未来社会ではメートル法が一般に用いられているであろう」という純粋な予測である。
国家が統合され宇宙にまで進出した人類が、アメリカにしか残っていないヤード・ポンド法を使っているほうがおかしい、という論理的な考証である。
Wikipediaの「合衆国のメートル法化」の項目にも以下のような記述がある。
https://en.wikipedia.org/wiki/Metrication_in_the_United_States
The continuing use of U.S. customary units has caused writers to speculate in fiction set in the future about the adoption of the metric system. Many authors have assumed that the United States and the human race in general will use metric units; however, others have assumed the continued use of U.S. customary units or have neglected to take metrication into account. Writers sometimes use customary units simply because American readers and watchers will understand the measurements; other times, they are simply used by accident. The 1966 show Star Trek, for instance, initially used U.S. customary units despite multiple Earth national origins and a setting in the 23rd century. Later, starting with "The Changeling", metric measures were used, albeit inconsistently. Later sequels of the show, such as Star Trek: The Next Generation, and Star Trek: Enterprise (set in the 22nd century), used the metric system exclusively.
文化的影響
アメリカ合衆国の慣用単位の継続的な使用は、未来を舞台にしたフィクション作品において、メートル法の採用についての考察を作家たちに促してきました。多くの作家は、アメリカ合衆国および人類全体がメートル法を使用するだろうと予想していますが、他の作家はアメリカの慣用単位の継続使用を想定したり、メートル法への移行を考慮に入れなかったりしています。作家たちは、アメリカの読者や視聴者が測定単位を理解できるように慣用単位を使うことがありますが、時には単に意図せずに使っていることもあります。たとえば、1966年のテレビ番組『スター・トレック』は、23世紀を舞台にし、地球上のさまざまな国籍の人々が登場するにもかかわらず、当初はアメリカの慣用単位を使用していました。しかし、後に「変わり者」("The Changeling")というエピソードから、メートル法が使用されるようになりましたが、一貫性には欠けていました。その後の続編である『新スタートレック』("Star Trek: The Next Generation")や『スタートレック: エンタープライズ』("Star Trek: Enterprise"、22世紀を舞台とした作品)では、メートル法が完全に採用されています。
アメリカ人がメートル法に「SFっぽさ」を感じているとしても、それは「人類が共通言語を話している」などの設定と似たような「SFっぽさ」であって、「耳慣れない」という理由ではおそらくないだろう。
Twitterを見ていると、アニメやテレビ番組の実況でキャプチャ画像等を垂れ流しているアカウントが複数存在してる。
例としてあげちゃうけど、有名なのはやっぱり:Story_terror
法律上では引用の要件を満たしていると思われるものは少ないし、存在しないと思う。
本来であれば著作権上、アウトのものであり、問題だらけであるはずなのに、
なんでそれアウトだよってTwitter側も権利者側であるテレビ制作者側もアニメだったら(c)なんとか製作委員会は取り締まらないの?
(1)アニメ画像つきのツイートが行われることでアニメ本編の宣伝効果になる
(2)アカウントを特定し、1つ1つ告訴していくのには時間・費用がかかる、告訴することでのメリットを感じない
(3)注意をするにも連絡先を公開しているようなアカウントは一握り。DMから送っても無視されてる
こんなとこ?
Youtubeでアニメ動画本編をアップするのはさすがに発売されるDVD/Blu-rayや有料配信などの売上に影響がでるし
「違法アップロードはやめましょう^^」っていうテロップを延々と流しまくりはじめたけど、
静止画の場合は影響少ないだろうし、グレーゾーンってことで目こぼししてるってことなの?
こういったTwitter上でのキャプチャ・転載における逮捕や注意喚起などの事例があったら読んでみたいから、もし知っていたらなんかトラバください。
というかがしがし取り締まってるよ!っていうのであれば知らなさすぎて申し訳ないレベルだわ。
漫画とか同人グッズとか、音源とかをTwitterにあげてたやつが公式アカウントに
「それ違法だから殺すぞ」みたいなリプ食らってたのは見たことあるけど、アニメのキャプチャでは実例として自分は見たことがなくて。
アニメ業界的には、このような状況をどのように見ているのかが知りたい。
フェアユース思考としてTwitterでの実況についても寛容に見ていくつもりであるのか。
まあTwitterでハッシュタグつけてキャプチャ画像あげてあれこれっていってるのはどうせ公式アカウントは追ってるんだろうけど、
たまに「キャプチャをあげるのは著作権法違反!」って権利者でもない人がリプとばしてるのとか見るじゃん。
たしかにあげる方としては「いけないことをしている」つもりはあるのかもしれないし、「皆やってんだからやってもいいだろ」っていう感覚なのかもしれないが
そういう曖昧な感覚のままでツイートさせていくのって、不健全というか、時代にそぐわないというか、二次創作の世界とはまた違う権利の世界のお話だから、
二次創作ガイドラインを作ってるように、Twitterでの実況に関するみたいなガイドラインも設けて、
お好きにやってちょーだいくらい書いてくれたほうが時代にあってる気もするけど、どうなんだろう。
ちゃんとダメって言えよ。取り締まれよ。禁止しろよ。何野放しにしてんだよ。っていうこのグレーな状況に時折イライラしてしまう自分と、
流れてくるキャプチャを見て、見てみるかーって思うアニメもあるので、140文字のテキストだけよりも、キャプチャがあったほうが断然宣伝効果はあるから、
キャプチャつけてツイートしたほうが、実際はいいんじゃないのって思う自分がいて、どっちにしろイライラする。
なんでこういう濁りというか、グレーなものが気になるんだろう。気にならなければいっそのこと清々しく幸せなのに。
キャプチャつけてツイート流してるっていう人の意見も聞いてみたいけど、どこで聞けばいいのかわかんないし。
キャプチャつけてツイート流してる人は単なる感想を述べるのにこのシーンを見ていますというだけで添付してるの?
みんなこのアニメをみてくれ!って気持ちでツイートしているの? ただのRT乞食なの?
まとめブログに転載したりしてるのはさすがにアフィ目的なのわかりやすいけど、ただTwitterに流すだけじゃお金にはならないよね・・・。
まあそのツイートを第三者であるまとめブログがTwitterのアプリ引用をして貼っつけて、アフィリしている事例はよく見るんですけど。
検索上位によくあがってくるから、こういうのは取り締まれよとは言いたいが。
こんなの考えてるの自分だけかもしんないし、こんなのブログに書けないし、もやもやするしで、もし同じようなこと気になってる人がいればと思って書き散らかした。
追記:
なんかこれ前にもモヤモヤしたな、と思ったら、元々自分はMIDI音源を聞くのが趣味で、MIDIサイト巡りをしてた時期があったんだけど、
JASRACが一斉取り締まりしてMIDIサイトがどんどん閉鎖したときのことを思い出した・・・
6月20日に公開されたアジア地域大学ランキングで東京大学が7位に下がり、100位以内で日本の大学がランク入りしていたのは14校ほどであったという。
シンガポールや中国の大学が躍進しているのは理解したが、疑問に思うのは日本の大学自体が機能しているのかという点である。
最近あるテレビ番組で日本国内の大学数を紹介していたが、約781校も存在しているという。
これはアメリカの約2000もの大学数の次に多いとされている。(2011年 日経新聞の記事より)
何故世界の中で、大学数が2番目に多い筈なのにたった14校しか入らないのだろうか?
少子化の影響で大学受験は全入時代となり、進学率の上昇と同時に「大学生」という肩書きが将来有望とされているエリートとそうでない者の2極化が徐々に始まってきたことが1つの要因と私は思う。
最近では、国立大学の授業料高騰化が問題となったが、私立大学に関する危機感を示す話はあまり上がっていないと感じている。
このような状況から、文部科学省は大学としての本来の機能を果たしているか全大学を対象に調査し、去年では私立大学等改革総合支援事業という計画を発表した。
シラバスの改善や授業評価結果の活用、グローバル化、他大学との連携、地域社会貢献などを目的としている。
大学の設備費などを国から補助してもらい、本当に大学として存在する意味があるのか疑問に思う。
そして、日本の大学は就職予備校化に伴い、ビジネスマナーを大学の授業として取り入れている所も存在する。
それが本当に授業なのかどうか疑ってしまうが、単位取得の一つとして成立してしまうのである。
もっと書き留めたい内容がまだあるがここで省略させてもらう。
今回一番に言いたいことは「大卒欲しさの為だけに進学するのか、明確な目的の為に行くのか、そして安易に入学できてしまったこの現状に心配である」という事だけだ。
http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2016_0621.html
しかし少なくとも80年代後半からの日本では、雑誌・新聞以上に世相を知るのにかかせないのがテレビだってことには誰も異論は挟まない。
しかし過去の放送内容を研究者が自由に手に入れることはできない。
大昔のフィルムは残ってなくとも、80年代以降の放送内容くらいはテレビ局に残してあるだろうに。
テレビが反省しないのは、放映しっぱなしでアーカイブを残さないからだ。(新聞社でも縮刷版残さないとこあるけど)
放送された全てのテレビ番組が録画され、そこに行けば誰でも自由に視聴し、参照することができる、テレビ版大宅壮一文庫のような場所を作るべきだ。
例えば、10年前に「福島瑞穂が朝まで生テレビでこんな酷いことを言った」というデマコピペが流行り、検証するのに非常に面倒くさい方法が取られたが(2chの実況ログから検証された)、テレビ文庫があればそこへ行って過去の朝生をチェックするだけで、デマだと簡単に証明することができた。
例えば、舛添の政治資金問題に多大な放送時間を割いているワイドショーに疑問を抱けば、過去の政治家の政治資金問題の放送時間と比べて、その異常性を調べることができる。
今、非合法的にだいたい全ての番組が一旦はアップロードされるようになっている。しかし、権利者に即座に消され、アーカイブとして残ることはない。
よくネットでは、「○○の言葉はどんなふうに広まった?」みたいな記事が人気になり、新聞や雑誌を中心に調査されているが、テレビを調べなくてどうするんだっていつも思ってた。
何かテレビが無視されている。調べられないのは分かるけど、それならそうと言及すべきだろうと。それもこれも、テレビが全くアーカイブを残さない、公開しないからだ。
別にネットで自由にさせろというわけじゃない。しかるべき場所でしかるべき人がしかるべき手続きを取れば、誰でも視聴し研究できるように保管されてればいいだけなのだ。
どうしても好きになれない
足が速くなりたいとは思うし
マラソン走れる人を凄いとは思うけれど
たくさん食べられるようになりたいとは思わないし
食べられる人を凄いとも思わない
小さい頃に「足が速い奴スゲぇ」っていう風潮はあっても
「たくさん食べられる奴スゲぇ」っていうのが無かったからなんだと思う
「たくさん食べてたくさん動くやつスゲぇ」ってのはあったけど
「たくさん食べるくせに普段は普通の奴マジクズ」って感じだったと思う
そりゃ地域によっては「たくさん食べる奴スゲぇ」ってのがあったのかも知れないけど
大食いの高校生全国大会とかも聞いたこと無い(ありそうだけど)からマイナーなんだろう
それなのにテレビ番組になると大食いが幅を効かせているのが凄い違和感を感じる
みんな本当にスポーツ選手を見るような憧れの目で見ているんだろうか
闘いやスポーツなどの試合以外で「参戦」という言葉を使われているのを初めて見たのは、確か5、6年前に読んだ雑誌の見出しだったように思う。
ファッション誌だったか音楽雑誌だったかは忘れてしまったが、その言葉は夏に開催される音楽フェスへ観客として来場することを指して使われていた。
すでにこの表現は広まっていたのか、意識しだすと案外色々なところで見つけられた。
それらはやはり押し並べて「ライブと呼ばれる芸能イベントを観に行く」という意味合いであった。
「客のことを『金を払って戦いに首を突っ込む馬鹿者』だと見なしていることに誰も気づいてないのか」
などと内心毒づいていた。
あの言葉は2016年になっても未だに散見できるのだが、最近はその使い方がまた少し変わってきたように見える。
我が家では夕飯時に食堂のテレビでくだらないバラエティ番組を垂れ流す。
テレビを覗けばお馴染みの芸人やアイドルと並んで普段なかなかお目にかかれない俳優や文化人が喋っている。
この捻ったキャスティングがなされるようになったのは、おそらく10年ほど前からだろうか。
売れない映画や本の宣伝と、マンネリ化しだしたテレビ番組のテコ入れという利害の一致から始められたこの慣習は、今や視聴者に何の変哲も無いこととして受け流されている。
よくよく見るとあの騒々しいテロップの中に「参戦」の文字が躍っている。
どうやら番組を「トークの闘技場」、イレギュラーなゲストを「グラディエーター」に見立てているらしい。
テレビ局もここまで思い上がるようになってきたかという白けと、いつまでこの変な言葉遣いが巷で繰り返されるのだろうという微かなむかつきを感じながら、自分はこの日記を書き綴るのであった。
あんなにまっすぐで一生懸命前を見て歌うような人がどうして人を悲しませるようなことをしたんだろう。
ファンモンの時から彼の歌とパフォーマンスが大好きで、ソロになってもずっと応援してきた。
ライブも何回も行ったし、彼の出るテレビ番組もずっと見てきたから彼のことは人一倍詳しいつもりだ。
彼のすごいところは何せ歌がうまいところだ。
今まで色々な人の生歌を聞いてきたが、大抵の人は生歌独特のムラのようなものがある。
むしろそれが味に感じたりするので一概にいい悪いという話ではない。
でも、彼は違う。
実際にライブでも聞いたし、テレビの生パフォーマンスでも何回も見てきた。
それをあれだけの運動量と、あれだけの表情の中で維持できるのだから、普段から並大抵じゃないトレーニングをしているはずだ。
わたしが今まで聞いてきた中で生歌独特のムラがなかった人間は、彼以外には洋楽の超大物シンガーだけだった。
運良く手に入れることのできた日本公演チケットで見た彼女の歌声は、むしろ音源を遥かに超えるほどの圧倒的な表現力と歌唱力だった。
彼はそれほどではないにせよ、いつでも音源と変わらない安定感がある。これはすごいことだと思う。
そんな彼が人を裏切るようなことをするわけがない。
彼は騙されたに違いないんだ。相手の女性には彼と大勢の彼のファンに謝ってほしい。
彼のような真っ直ぐで正直な人間を騙すなんて本当に許せない。
この2つのバンドはヒップランドミュージックという同じマネージメント事務所に属しているんだけど
両者はメディア露出に対するバンドの考え方のトレンドを変えたバンドであると思う。
サカナクションのライブをテレビで見たのをきっかけに、バンドを聞くようになった人間。
といってもそこまでディープではない。
一年前からTSUTAYA DISCASで新旧問わず月に4枚CD借りるという
そういうわけで、日本のポピュラー音楽を聞きはじめてから日が浅いので、
で、最初の話に戻る。
バンドのメディア露出に対するトレンドを作ったバンドであると思う。
※追記
ブクマで、スペシャ(スペースシャワーTV)のライブ中継の時に視聴者に言った言葉との情報を頂いた。感謝。
バンドがテレビに出ない美学がバンドシーン、ひいては音楽シーンの衰退に繋がった。
http://natalie.mu/music/pp/sakanaction04
BUMPの藤原の発言の意図は当時の音楽シーンに詳しくない自分は想像するしかないのだが、
音楽と商業が結びつきすぎていて、音楽が音楽でない評価のされ方をしている
ヴィジュアルやルックスで音楽が評価されることを嫌ったのだと思う。
そんな感じか。
音楽の純度を高めたい。そんな感じ。
※追記
ブクマで教えて頂きました。横山さんのテレビに出なかった理由とか書かれていて(その日自分はMステ見てなかったけどツイッターが騒いでたのは覚えてる)、
一方でサカナクション。
アルクアラウンドというMVなどで知名度をあげてきた(あと大手フェスでのヘッドライナー)
インタビューを読んでみればわかるように、Mステ出たり、紅白出たり。
総合芸術というワードがサカナクションに対して使われたり、裏方の仕事やスタッフを紹介したりと
音楽だけでは勝負しない、というのがサカナクションのスタンスであろう。
(ちなみに山口はファッションと音楽の乖離を嘆いてNFパンチというテレビ番組まで作ってしまったが、自分はバンドがテレビに出てこなかったからそういうことになったのだと思っている)
テレビに出ない、テレビに出る、というバンドの大きな流れを作った2つのバンドだけど
個人的には、
音楽を音楽として純粋に聞いて欲しい、というBUMPの方が共感できるし、
正直、ビジュアルと音楽が結びつくとイメージが固まってしまうところがあるので、
嫌だと思うのだけど、まぁ個人的意見。
実際サカナクションはイメージの固定化前提、イメージを作って、
ビジュアル的要素を音楽とパッケージ化して売ってるわけだし。確信犯(語句の使い方違うな)。
(でもファッションと音楽が結びつくと、変に威張って排他的なやつが出てくるので社会の空気が窮屈になるな、とダサい人間である自分は思う。自分みたいな奴がファッションを抑圧してるという自覚はある)
メディアの使い方は悩んでるんだろうなって思う。SNSも含め。
テレビに出ないのと出るの、どっちが正しいかという話でもないし。
音楽を汚したくない、という思いは一緒だろう。
音楽の楽しみ方は人それぞれってことで。
ちなみに個人的な話で閉めさせていただくと、
ドーム行きたい。
GoogleだってFacebookだってTwitterだってAmazonだってユーザーの動向を把握することに必死だし
その動向を別のビジネスに活かしたり別のビジネスに売ったりしてる
バナー広告なんてそれをサンプリングするためのもの程度でよくて統計的にみたら広告ブロックしてるユーザーなんてどうでもいい
そのへんはさておいて,思考実験としてインターネットから広告が無くなることを想像してみる
世界の隅っこで黙って良い物作ってても誰も見向きもしない
例えば今のテレビ番組は録画がメインになっちゃってCMスキップされるから広告としての価値がほとんど無くなってきてる
直接的に番組内で紹介する企業からお金を取っているかどうかはちょっと分からない
マーケティングの仕事をしていて、映像関係もちょいちょい仕事で絡む事が多く、それもあるのかどうかテレビ番組もよくチェックしている。楽しみの面もあるけど、テレビ局は未だに影響力が多く、少なくともネットではびくともしないくらいのこの方面のタレントや過去の技術的な積み重ねがなんだかんだで集まっている事が多くて編集、演出など勉強になることが多い。
ネットの子供たちは、まだ理解力がついていかないのでYTとかの素人動画になってしまうのは、それはそれで仕方ないのだが…、今回の話ではおいておく。(ネットもテレビと同様に楽しくチェックしてるけどね)
さて、最近のバラエティの話。主に青年向けの番組・お昼のものなどでも…。
最近はもう定石や定番の演出・編集を入れないことが多くて面白いなと。例えば、最初にタイトルコールして参加者の紹介を省いていきなり本編の目玉の画を入れ込んできたり。(その間に参加者の紹介など一切なく番組が進行している)後、30分番組だとしても、ゲストが入れ変わって別収録をまとめて放送してしまったり。今まではあり得なかった、順序みたいなのを一部の制作チームはガンガン壊しているのを肌で感じる。
いいことだ。
お笑い芸人・・・それはストレスの中で生きる人々に笑いを提供し、心に潤いを与える誇り高き仕事だ。
もちろん、すべての人がお笑い芸人の力を借りなければ笑えないわけではない。日常のふとした瞬間にも笑いは訪れる。にもかかわらず、観客は彼らを求め、そして笑えなければ、まるで無視される。彼らは常に自問自答する。「果たして俺のやってることの何が必要とされているのか?」「自分のやっていることは社会に役に立つのか?」「俺は面白いのか?」と。
そうした葛藤の中で、彼らは自らに技術が必要とされていくことに気づくことになる。"お笑い"の消費速度は、あまりにも速い。世の人々が、それを「面白い」と認識し、溢れてしまえばそれはたちまちありふれた光景の中の一部となり、"日常"という「つまらない」ものの一部となってしまう。今「笑える」ものが、半年後に笑えるとは限らない。たとえ一時的に「面白い」とされても、そこに胡坐をかいていると、たちまち「つまらない」ものになってしまうのだ。彼らはそこから蹴落とされないために修練し、叱咤激励しあい、切磋琢磨し、自らの"お笑い"に対する感覚を磨く。
その中で導き出された笑いの極意――それは、アンデルセンが描いた童話『裸の王様』にならい「王様は裸だ」と言うこと。つまり、権力や権威であったり、それが自然なもの、認めざるを得ないものといった同調的な圧力に臆せず、その姿を暴き立てること。それこそ、"日常"という誰をも取り巻く状況に対して風穴を開けるに対して必要とされる、根本的な姿勢なのだ。だから彼らは現状に満足しない。生き残る為にも、社会の中で生きる人々のためにも、自らの芸に毎日少しでも磨きをかけ続ける。それこそが、お笑い芸人に託された宿命なのだ。
そのお笑い芸人と呼ばれる人々の中でも、天才と呼ばれた人がいた――松本人志である。
彼がお笑いコンビ、ダウンタウンとして世に出てきた時、それを先輩芸人として見ていた島田紳助は、それまでの笑いの概念を覆されたという。彼の笑いのセンスはひときわ独創的だとたちまち評判を呼び、全国放映されるテレビ番組でいくつもレギュラーを抱え、時代を代表するお笑い界のカリスマとしての地位にまで上り詰めた。
時は経ち、依然として彼の姿をテレビで見ない日の方が少ないほど、確固たる地位にまで上り詰めた。彼はお笑い芸人として評価される側に留まらず、M-1グランプリで審査を務めたり、すべらない話で新旧問わない芸人のトーク力をフックアップするなど、今や時代の寵児には留まらない、お笑い界にその名を刻む人物となった。
そんな独創的なお笑いセンスとカリスマ性がある彼がレギュラー出演する番組の一つ、「ワイドナショー」で発言したのが以下の言葉だ。
http://www.huffingtonpost.jp/2016/05/14/masuzoe-matsumoto_n_9976334.html
>追記部分
たとえば「現実の生々しさとかを題材にして描いた」…すなわちドキュメンタリー系の映画やテレビ番組を考えてみてくれ。
そこで描かれているのは「自分とは違うタイプの人間が自分の知らない世界で自分がやらない行為をやっている」ものではないか。
どうして漫画に限ってそうでないと言える?
人は「自分とは異なるものを観察する」ことでも楽しめるものなんだ。
ONE PIECEのルフィや名探偵コナンなんかを「憧れ」の一言で括ってしまうとまた頓珍漢な方向へ行くぞ。
「かっこいいなあ」と思っても憧れるとは限らないし、「こうはなりたくないな」と思っても嫌いになるとは限らない。
増田は適当に思いつきで書いた短文も拾われやすく、悩み相談の面白さにはピンからキリまであるが、しかし、世の中には悩み相談をコンテンツとして提供している場所もある。
雑誌やラジオ、テレビでしばしば一般人から送られてきた悩み相談が取り上げられるが、それらはやはり厳選されているためか悩み相談としてのクオリティが高い。
例えば、先日たまたま見たマツコ・デラックスと有吉がやっているテレビ番組で取り上げられていた「面接で社長とふたりきりで出張できるかと言われた」というものは、増田に書かれていたら、100ブクマを軽く超えていたように思う。
もちろん本当に送られてきたものなのか、そもそも実際にあったことかは疑問符がつくかもしれないが、コンテンツとして十分面白いので、私はあまり気にしない。
見返してみると、増田でブクマが多くついた悩み相談はクオリティが高いものが多い。
悩み相談なんて回答次第でどれも大して変わらないだろうと思っていたが、案外そうでもないんだと気づいた。
最近叫ばれるようになった頑張ってる人に「がんばれ」って言ったら駄目論。
頑張らなくても片付く仕事しかしてないので周囲から「がんばれよ!」って言われると頑張ろうという気持ちになる。
多分それが普通の反応なんだろう。
問題は頑張ってる人に対して同じ言葉を使うのは辞めた方が良いと言う人が
最近やたら増えた事。
CMとかテレビ番組でも「がんばれ」を使ってはならないとした強迫観念を無理に押し付けてる様な
そんな圧迫感を与える内容が放送されると何だこれ?と思う。
うつ病になる人の多くはきっと普段頑張ってる人なんだろうけど、
だからって俺は頑張ってるから「がんばれ」なんて軽々しく言ってくれるな!と抗議の気持ちから
「がんばれ」が周囲から忌避される様になったのだとしたら残念至極という他ない。
だって、頑張ってる事に対して一定の評価を得てはならないと言ってる様なものじゃない。
俺は「がんばれ」って言われたら嬉しいな。
そりゃ女の子に言われるとか友達、上司、仕事仲間に言われる「がんばれ」も嫌いじゃない。
がんばれ!がんばれ!←これの一体何が問題なのか、正直言って本当の所は分からないままで、
テレビとかネットのいつもの言葉狩りなんじゃないかと思えてならない訳ですよ。
大学の国際競争力強化を狙った「スーパーグローバル大学」(SGU)構想。文部科学省の肝いりで始まったが、選ばれた大学が不満を募らせている。国の支援が想定より少ない上、予定していなかった仕事も次々発生しているからだ。
「これじゃまるで『SGU詐欺』だ」。東日本の大学トップは「びっくりするほど支援の額を値切られた」と話す。
SGUは世界に通用する研究や国際化を進める大学を重点支援するため、文科省が2014年に募集。104大学が計画を提出し、37大学が選ばれた。「世界ランキングトップ100を目指す力のある大学」(タイプA)は最大で年5億円、「グローバル化を牽引(けんいん)する大学」(タイプB)は最大年3億円を、それぞれ最長10年間支援する。
だが、15年度の平均支援額は、タイプAが2億8800万円、タイプBは1億3100万円。1億円未満も5大学あった。「あれだけぶち上げておいてこれか。文科省は風呂敷を広げすぎ」(西日本の大学幹部)。「今も納得していない。でも、『文部科学省さま』に文句は言えない」(関東の私大の担当者)。さらに、各大学への交付額は未公表で、「あの大学はうちより少なかったようだ」などと臆測が飛び交う。
各大学に昨秋、文科省からメールが届いた。会議やシンポジウムでは、「SGU」ではなく正式名称を使うようにとの内容だった。札幌学院大が「SGU」を商標登録しており、「SGUを使用した場合、商標権を侵害」と書かれていた。東日本の大学の担当者は「印刷物を刷り直すはめになった。完全に余計な出費。最初に調べておいてほしい」と怒る。
さらに、文科省の定める英語での呼称は「トップグローバル」大学。「スーパーグローバル」は英語では普通は使わない表現だからだ。西日本の大学の担当者は「なんで国内向けはわざわざ妙な名前にするのか。海外向けに翻訳する際、直す手間がバカにならない」とあきれる。
テレビ番組で英会話講師を務める鳥飼玖美子・中央教育研究所理事は「英語では、『グローバル市民』なら国連などでも使っているが、『スーパーグローバル』なんて言い方はしない。『トップグローバル大学』と言えないことはないが、あまり聞かない」。事業自体についても、「そもそも海外ではグローバル人材という概念がないし、グローバル化は否定的にとらえられることもある。グローバル人材育成という発想が、グローバルでない」と指摘する。
■「背伸び」した計画も
SGUに選ばれたくて、実現が難しい計画を立てた大学もある。東日本の大学の担当者は「海外の大学と留学の協定を結ぶことや、受験生受けを考えると、『国のお墨つき』がないと不利。計画をちょっと『盛って』しまい、精査して青くなっている」と話す。
計画には、留学生の割合の数値目標も盛り込まれている。現在、海外からの留学生の授業料を減免する大学が少なくない。学生の定員は決まっており、留学生が増えるほど授業料収入に響く。例えば、授業料100万円の3割を減免する場合、留学生の受け入れを2千人増やすと年6億円の負担増になる。「『もうからない』学生の割合が増え、経営体力との勝負になる」(西日本の大学)。減免措置の見直しを検討する大学も出始めた。
SGUに選ばれた多くの大学が外国人の教員の比率を上げる目標を掲げた。ただ、外国で教育研究歴のある日本人でも「外国人教員等」として比率に含めることが可能だ。「外国人教員の確保は大変なので、日本人で達成すればいい」(関東の私大)という、「数あわせ」も頻発しそうだ。
■当初より採択大学数増え…
事業を担当する文部科学省高等教育企画課の担当者は、支援額への不満について、「大学から直接少ないと言われることもある。財政状況が厳しく、予算を思っていたほど確保できなかった上、当初予定していた30大学より採択大学数が増えたので、1大学当たりの支援は少なくなった。『最大で』の金額が、誤解された面もある」と説明。「スーパーグローバル」の呼称については、「和製英語。でも、分かりやすいし、インパクトのある表現だと思う」。外国人教員の比率を巡る大学の対応は、「グローバルな日本人であれば問題ない。外国籍でなければならないということはない」。計画を『盛った』大学の存在は想定外で、担当者は「ちゃんとやれないなら理由を説明してもらうことになる」と話している。(石山英明)
http://digital.asahi.com/articles/ASJ4T5DB4J4TUTIL04W.html?rm=514
まーーーーた顔の話してるよ、品がないなあ
気持ちはわかるが落ち着いて。
普通の人間だったら本当にひどいと思うが、この人物については仕方ないよ。
だって、彼、本当に、ブサイクだもん。ブサイクなだけでなく、ブサイクであるというだけで話を聞いてもらえないという経験をしたことがあるもん。
ブサイクのせいで人生\(^o^)/と思わざるをえないような扱いを受けてきたもん。彼は大学生の頃ネット右翼的活動をしていた。その時の顔が実名付きでFlashに顔写真載ったことがある。彼なりに勇気を出して「印象操作している」「日本の報道は信用できない」というメッセージを世間にうったえかけたんだ。そして、そのかいあって、かかれはやしきたかじんのテレビ番組にVTRで登場してる。
その時に彼はどういう扱いを受けたか。2ちゃんねるのスレタイこれだぜ?
たかじんファンのデモ参加者が「たかじん」で晒し者にされ、ネトウヨ側ですら容姿を笑う
いくら彼がブサイクだからってこれはひどすぎる。存在の全否定だ。身内であるネトウヨからも顔で切られる
頑張ってメッセージを書き、勇気を出して写真の取材に応じたのに、彼がまれにみるブサイクであったせいで話を聞いてもらえないどころかただ容姿を笑われ、あだなまで付けられて馬鹿にされる始末だった。彼は自分の正しさには自信があり、文章力でも誰にもまけない自信があったにも関わらずそれなのに、ただものすごいブサイクだというだけでこれだけの仕打ち。ブサイクであることは罪である、と社会から厳しい現実をたたきつけられたわけ。これはトラウマになる。この他にも彼は自分がいかにブサイクであるかを自虐的に何度もブログ記事に書いている。親しい人間にもニコ生でとにかくお前は痩せろ豚と言われていた。今も昔も豚ということだろう。彼のブサイク語りは誇張でも何でもなくすべて事実ってことだ。最近どこかのオフ会に行った時にもFacebookで彼がいかにブサイクであるかで盛り上がる記事が投稿されていた。今になっても、彼がブサイクで人生詰んでる状況は変わらない。
彼は本当にブサイクなうえ、そのことにコンプレックスをもって豚のように僻み続け、自分を相手にしてくれない女性に対してはどうせおれがブサイクだから馬鹿にしてるんだろうという被害者意識を勝手に持ち、俺は被害者だから女性に対してはどんなに嫌なことを行っても許されると本気で思ってる。そんな彼が、北条かやのような人間を見つけたら美人だからチヤホヤされやがってとキレる。ジョジョ4部のアンジェロのように。また彼はブスだと思っている女に対してはすごく尊大に振る舞う。もし彼がブスだと思っている女が自分より成功していたらゲス女呼ばわりして貶めようとする。これらは全て復讐であり、正当な権利の行使をしているにすぎない。 だからミソジミーではない。
だから彼がああいう記事を書くのはしかたがないのだ。彼がああいう記事を書いてしまったとしても、普通の人と同じように扱っては可哀想だ。だって彼身も心も本当にブサイクなんだから。 ブサイクのせいで人生詰んでる彼に対して事実をつきつけるのは死ねといってるのと同じだ。だからそっとしておいてあげてやってくれ。
一時期イベントを企画する仕事に携わってた。色んな修羅場を経験したが、一番の修羅場は「出演予定者が自殺した時」だった。
道徳心をかなぐり捨てて告白すると、正直、体調不良や仕事の都合で欠席される方がまだいい。死なれたらイベント自体が開催自粛だ。
それまで準備してきたものが全部崩れ落ちる徒労感、ファンから「無茶な企画で追い詰めたんじゃないか」と疑われる理不尽さ、
上からリスク管理を責められる絶望感(どうしろって言うんだよ)、他の出演者に俺らが頭を下げに行く虚しさ…
小さなイベントでさえそうだったのだから、例えばテレビ番組やら講演会やら企画している人たちにとって
出演者が「責任とって自殺しようとしたけどムリでした」なんて放言している様子は胃穴レベルのストレッサーだろう。