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はてなキーワード: 考察とは

2020-12-22

anond:20201222084635

今回キャラが一人であとはロボ(サイボーグ?)になったのもメカの方が大人に売りやすいか

みたいな考察出てたよな

2020-12-20

anond:20201220113447

AB 明瞭に言語化された謎と明瞭に言語化された解答

   作者は解答を知っていて、情報小出しにすることで読者の興味を保たせる

   https://shonenjumpplus.com/episode/13933686331769363678

   主人公は〇〇が××なのはなんでだ?と言語化している。おそらく数話後に答えは△△だったからだ!と気づきを得る(はず)

aB 明瞭に言語化されておらず、仄めかされた謎と明瞭に言語化された解答

   後述

Ab 明瞭に言語化された謎と、言語化されない解答(あるいは解決されない結末)

   幼少期の東方仗助を救った変な髪型青年…は措いて

ab 仄めかされた謎と、言語化されない解答(あるいは解決されない結末)

   僕ヤバみたいな「考察勢」が現れる漫画

   

2020-12-18

斎藤環先生の鬼滅の考察を読んでいて

ふと銀魂死神編を思い出した。首切り役人の家の話だったなあれは。

2020-12-17

私はまだ「新サクラ大戦」をプレイできていない

サクラ大戦が発売されてから一年が経った。発売日に買ったゲームパッケージは、封を切られることな本棚の中で埃を被っている。

私はまだ、「新サクラ大戦」をプレイできていない。

私は15年近くサクラ大戦ファンを続けている。いや、続けて「いた」と言っていいかもしれない。2006年PSPで発売されたサクラ大戦1&2にドはまりし、ドリキャスPS2を買って3,4,5をプレイした。一日の受験勉強を終えた後、深夜0時~3時までドリキャスを起動し、3時間だけ睡眠を取って学校と塾へ行き、帰ってからまたサクラをやる。大学受験という過酷生活の中で、サクラけが生きがいであった。

ゲームプレイした自分は次々に派生作品へと手を伸ばしていった。OVAと旧アニメ活動写真を鑑賞し、小説漫画を買い漁り、CDを聞いて武道館ライブにも足を運んだ。あらゆる公式作品では飽き足らずに、ネットに転がっている二次小説を片っ端からガラケーで読んだ。サクラにはまって宝塚も鑑賞した。私にとってサクラとは、自分青春を賭けたコンテンツであったのだ。

サクラに熱を挙げていた私とは裏腹に、サクラ自体にはほとんど進展がなかった。Vの発売以降も定期的なショウは開かれていたものの、公式的な動きはパチンコや他ゲーとのコラボ程度であり、ジャンル前進させるコンテンツ――本編の続編は止まっていたに等しかった。1年、また1年と歳月流れるにつれ、私も他のジャンルに手を広げていく。サクラは依然として好きであったが、あくまで懐かしい思い出の中の1つという立ち位置になっていった。


しかし、2018年4月のセガフェスでついにその瞬間が訪れる。

「新サクラ大戦始動」――太正29年の帝都東京舞台に新しい花組が復活する。Vから13年経ってのナンバリング続編が満を持して発表されたのだ。

あの瞬間の興奮を今でも覚えている。アパートを着の身着のまま飛び出し、家の前の川沿いを下流のほうへ歩いては折り返し上流のほうへ歩いてはまた折り返し、何度も何度もあてどなく歩き続けた。頭の中に溢れて来る激情身体をじっとさせてくれなかった。

私がサクラ大戦を初めてプレイした時は、すでに当時のシリーズ最終作であったVが発売されていた。私にとってサクラ大戦出会った瞬間から最終回であり、ずっとナンバリングの続編を望まれながらも、決して叶うことはない幻のゲームであった。

それが、ついに、叶う。サクラの続編を遊べる日が来るなんて、本当に夢だと思った。忘れかけていた青春時代熱狂と興奮が心をかき乱す。たまらずに開いたTwitterタイムラインは狂乱の渦に包まれていた。


2019年3月末、セガフェスにてサクラ大戦の続報が発表される。メインキャラクターデザイン久保帯人氏が、ストーリーイシイジロウ氏が、そして音楽田中公平氏が手掛ける。檄帝にコーラス等のアレンジを加えたメインテーマは、今までのイメージ踏襲しながらも新しい風を吹き込もうとしている。私の心は歓喜と期待に溢れていた。Twitterでは友人がPVを見て考察を巡らせていた。発売日は2019年12月12日――もう一度あの世界が味わえると思うと自然気持ちが昂った。

同年の6月から、「帝劇宣伝通信」というコーナーがセガyoutubeチャンネルで始まった。公式新規情報を発売日まで随時公開していく番組であるプレイ動画キャラクター世界各地の華撃団の紹介、グッズとメディア展開など、様々な情報が発信されていく。

私はそれらを欠かさずにチェックしていった。しかしながら、一か月、また一か月とカレンダーをめくるにつれ、自分の心の中には言い知れない不安のような影がよぎっていった。


果たしてセガは、サクラ大戦未来へと続く作品にできるのだろうか?」

今の時代美少女たちと触れ合えるゲームはそこらに無料で溢れている。歌う少女も戦う乙女も、20年前とは比べ物にならないほど多くなった。群雄割拠ゲーム業界サクラというジャンルは生き残ることができるのだろうか?

サクラ大戦時代とともにあった。当時のアドベンチャーゲーム、ありていに言えばギャルゲーの中で、サクラは独特の地位を占めていた。歌劇スチームパンクの融合、セガサターンという機種だからこそできた恋愛ゲーム一般向け展開――あの頃のサクラを不動の地位に置いていたものと言えば、新規性と物珍しさによって時代を先取りしたコンテンツ力であったことは疑いない。

しかし、時代は変わった。ゲームは何でもアリになった。アイドル物のゲーム世間一般にまで浸透するとともに、きちんと遊べるゲーム性を核としてギャルゲーさながらの恋愛要素を取り入れる作品はいくつもリリースされている。

サクラ大戦は初代から24年の歳月を経た。その年月は時代性という重りになってサクラ大戦にのしかかっている。

「これは今の時代に耐えうるものなのか?」

気づけばそう問いかけていた。プレイ映像が公開されていくにしたがって、自分の中の情熱が冷静なものに変わっていくのが分かった。



そして2019年12月12日、私のもとにAmazonからパッケージが届いた。そのとき仕事が忙しく、届いてから3日ほどやる時間が取れなかった。

極力ネタバレは控えていたものの、つい気になってTwitterを覗いてしまった。

そこには、「熱」がなかった。

新作発表、主題歌公開のときに賑わいのあったタイムラインは嘘のように静かであった。ストーリー言及するどころか、面白さやつまらなさを語る人もいない。ぽつぽつと流れる呟きは、まるで腫物に触るような言葉の数々であった。

好きの反対は嫌いではなく無関心である。本当に面白コンテンツであれば、人々は誰に先導されるでもなく自然と語り始める。それはネタバレであれ考察であれ妄想であれ、大きな熱となりジャンルを強く後押ししていく。しかし今は、その熱がどこにも見えなかった。栄華を極めたかつてのコンテンツを前にして、友人たちは出来の是非を問うこともなく、ただ当たり障りのないことを呟くばかりであった。

――ああ、そういうことなんだ――

その様子を見た私の心の中に、言い知れないほどの寂しさが襲った。それは悲しみや怒りといったハートを揺れ動かす激情ではなく、まるで亡くなった親友を前にした時のような、涙も出ない喪失感であった。

私はそれを見て、新サクラ大戦を遊ぶことを止めた。プレイしたらそこで終わりになってしまう。20年以上続いたシリーズの行く末を見届けてしまえば、「いつか続編が発売されたらいいなあ」と心を躍らせることもできなくなってしまう。

そして何より、サクラを見限ってしまうのが怖かった。

「ああ、こんなもんだったよなあ」という気持ちで終わらせることが嫌だった。ゲーム面白さに興奮することも出来の悪さに嘆くこともなく、ただただ現状を受け入れて観念することがたまらないぐらい恐ろしく感じた。

こうして私は、サクラ大戦というシリーズを思い出のまま取って置こうと決めた。私にとってサクラ大戦は、続編を望まれながらも決して作られない希望ゲームであるあのころノスタルジーを終わらせもせず続かせもせず、優しい思い出のままそっとしておこうと心に決意した。

そんな私とは対照的に、漫画テレビアニメ舞台と、次々にメディア展開が進められていく。ユーザーとの熱量の違いは目に見えており、ゲーム中古価格がそれを如実に表していた。


そして202012月15日、新サクラ大戦から約1年後、ゲームアプリサクラ革命」がリリースされた。開発はソシャゲ業界大手FGOを手掛けるディライトワークス。リリース初日にも関わらず、タイムラインでは話題にすら挙がっていない。PVを見て考察を巡らせていた友人は、FGOのカルナサンタに熱を上げていた。

もう、誰もいなくなっていた。

そして私はまだ、「新サクラ大戦」をプレイできていない。15年前の思い出にずっと閉じこもり、夢の続きを見ることを拒否しているのだ。

2020-12-16

みやまん考察

スパコンとか不粋な奴いるな~。

ヘリポケモンGOやってた高須みたい。

ゲームの楽しみ方知らないんだろうな。

富野アニメを見たら面白かったが納得できないところも多い

初代ガンダム映画とZの映画F91映画逆襲のシャアリーンの翼を見た。

基本的にどれも面白かった(面白くなきゃこんなに見ない)んだけど、全体を貫く家族観というか男女観というかがどうも納得できない。

そして、軽くググったんだがその辺をうまく言語化してくれてる考察記事なんかも見当たらないので書く。


まず基本的に私は、男女に本質的差異はない……というか、あるかもしれないが、文化科学の力でそれは限りなく縮小していくべきだと考えている。

男女に差異はあるかもしれないが認めるべきでない、というのが正確か。

まれた時に定められる性別などというものがついて回るのは人間にとって不幸だと思うからだ。

時折SF作品などで描写される、無性で生まれ、ある程度成長したら本人の意思性別を決定できるとかそもそも性別概念がないので決定もしないとか、そういう世界が好ましいし美しいし幸福だと考えている。

また、家族制度もなくてよい。個人として生きるのに、家族がついて回るのは恐ろしい。

強い反出生主義ではないが、性別家族の檻から抜け出すのが困難な現状での生殖は、あまり喜ばしいことだとは思えないので複雑な表情になる。

私はそういう感覚である


そして富野アニメなのだが、性別差異を強調しているような描写があるかと思えば性差無頓着描写もある。

女性性を持ち上げたりしたあとに、逆に所詮女子供馬鹿にしているような言動主人公格が言ったりする。

家族についても、家族血筋呪いだというニュアンスと、家族って大事だよな!みたいなニュアンスが混在している。

そして性愛生殖についてはなぜか妙に生々しく描かれている……基本的には肯定的だと思うのだが、美化というよりとにかく生々しい。

これがもし一貫して「男女は別物、家族大事ヘテロ恋愛して生殖バンバンしようぜ」みたいなことを語る作家であれば、私も「性別概念に魂を縛られた古い人間め」と見切りをつけるのが簡単なのだが、見た限りの富野アニメはそうとも言い切れない。

もちろん、そもそも作家性がなくその場に応じたエンタメを作ってるだけなので考える必要がないとかそいういうクリエイターでもなさそうだ。

識者からすると、富野由悠季の性別観、家族観生殖観というのはどのように整理されているのだろうか?

私にとっては大雑把に言えば不快な場面が多いのだが、ただ不快だとは言い切れない部分もあり(だからこんなに見たのだ)、なんとも落ち着かないのだ。

16日の18時頃追記/

トラバを見て、少し整理できた。

富野作品には厭世観人間不信が感じられるので、生殖恋愛への否定を予想して見ることになるのだが、いつの間にか性愛への肯定描写がされていて、そこがうまく繋がらないのだ。

下世話に言えば、アムロカミーユ機能不全家庭育ちで恋愛や家庭への不信をこじらせ幼なじみにも冷たい非モテっぽいのに、ララァやフォウとは出会って即スマートにいい感じになるのはNT共感を踏まえても納得できないってこと。

これは富野自身結婚子供を作っていることへの「こんな作品作ってて家族持ちなの!? だから子孫肯定なのかもしれんけどよく結婚する気になったな!?」という戸惑いとも近い。

2020-12-11

差別とは

https://anond.hatelabo.jp/20201211083327

なんというか、この増田に対しても「差別する自分自覚しろ」というブコメが星を集めるあたり、まるで連合赤軍の「総括」のようだなと思ってしまった。

差別に関する話は、突き詰めれば確かに個人不断内省によって超克されるものなのかも知れないが、実際嘆かわしいほどの差別存在しているのに、むしろそう認識している筈の者ほど、それが現実問題として解決に貢献しそうにない方法他人強要しているように見える。

要は、差別を十把一絡げに話してしまえば、それがかえって差別を温存することに貢献する、ということにならないかと思うのである

反差別批判なるものをする人は、おそらく差別についてひとしきり考えて一つの考察を得たのだろう。しかしその人が語るのは、解決すべき社会問題としての差別ではなく、決してなくならない差別存在するこの浮世において清く生きるための方法であるように思える。

ちなみに、出羽守と言われるかも知れないが、英語では差別もっとわかりやすく捉えようとしている。

差別を表すdiscriminationは、行動を伴うもの。prejudice(偏見)は考えや感情価値判断を伴うもの。stereotypeは単純化された認識である

例えば「黒人腕力が強い」というのはstereotype。「黒人腕力が強いから怖い・嫌い」というのはprejudice。「黒人の隣には座らない」というのはdiscriminationだ。

もちろん人間認識に基づく話だからどれも混ざり合っているし、理想を言えばstereotypeをなくせたら最高かも知れないが、まあそれは無理な話だ。でも、その理想が追求できないからといって「しょうがないよね」ってのも違くね?という認識がここにはある。つまり、最低限discriminationをなくしましょうねというコンセンサスを得るために言葉を使い分ける。

最近増田の例で言うと、「公立中学は荒れている」というのはstereotype。「公立中学は荒れているか動物園みたいなひどい場所だ」と思うのはprejudice。「公立中学校は動物園」とブコメするのはヘイトスピーチに当たると考えればdiscriminationになるだろうか。しかしこの差別の具体的な被害者は誰なのか。

どちらかというと、これを批判する者は、他人のprejudiceに足を突っ込んで叩こうとしているように見える。

今回のように見える形でprejudiceを表明するのはよくないが、表明しなければprejudiceもまた思想信条自由に守られていたりもする。もちろんprejudiceなんて無い方がいい。しかし、クソ味噌一緒に全部差別で全部悪いとすることも、却ってよくないと思う。

まあ別に英語が優れているという話ではないんですが、いずれにせよ、自分差別について理解を深め太郎になったところで世の中の差別はなくならないわけで、そういうことについてはどう思うんだろうなとか思っちゃうよね。

anond:20201211183500

増田実験場だから

アク禁するより、「書き込めるけど書き込みがすぐ消えてしまう」の方が効果的かもしれないって仮説を検証するためにこういう仕様にしてるっていう考察が出てた

2020-12-10

エロゲー歴史から考察するネットスラング地雷」の意味変化

ネットスラングにおいて「地雷」とは、かつてはエロゲー用語のことだった。私の知る限りでは二十年ほど前から使用されていた。

腐女子がよく地雷って言うけどさ。』

ttps://anond.hatelabo.jp/20201209101046

当時のエロゲーは一本8,800円が基本で、タイトル名とパケ絵とエロゲ雑誌わずかな情報だけで購入を判断していた。購入前情報作品クオリティ乖離が大きいこともしばしばで(端的に言ってクソゲーであること)、そうしたゲームを買ってしまうことを地雷を踏むと表現していた。次第にそうしたゲームのことを地雷ゲーム地雷ゲー、あるいは単に地雷と呼ぶようになった。アニメ地上波放送なら無料漫画ラノベは高くても1,000円なのに対して、エロゲー価格が8,800円と高額であり、しかも購入しなければ内容がわからないことから金銭的な損失のショックを地雷を踏むことに例えたのだろう。

地雷ゲームを防ぐにはメーカー名(ブランド名)や製作スタッフシナリオCGクレジット名)で判断をすればよい。しかし、新興ブランドの新作に対してはそうした戦略をとれないので、2ちゃんねる等の掲示板感想を見てから購入を決めることが賢い判断だった。だからこそ、地雷可能性があるエロゲーを予約するだの発売初日で購入するだのと宣言することは勇者として崇められたことだったし、感想が「〇〇は地雷だった」でもその情報は重宝されたのだ。

二十年ほど前のエロゲー業界では「はじめてのおるすばん」[2001年](以下はじるすと略す)が話題だった。発売元ビジュアルアーツ傘下のZEROというブランドであるが、ZERO製作スタッフ名を伏せて実験的なゲームを発売することが多く、内容がクソゲーであることもしばしばだったので地雷メーカーとも呼ばれていた。当時、国際NGO紛争地帯での地雷ゼロキャンペーンを推進していたので、それになぞらえて地雷ZEROなどと揶揄されていた。当然「はじるす」も発売前は目に見える地雷と評されていた。しかし、児童ポルノ法制定[1999年]から続く規制強化の論調に反発するかの如くに幼く見える女の子が18歳以上と言い張る公式ホームページによる紹介ページが大好評になり、エロゲー業界を超えた大きなムーブメントとなった。当時ネットサーフィン死語)をしていた人は、「はじるす」紹介ページのパロディを見たことがあるはずだ。この「はじるす」、想定を超えたブームによる品切れが続き、なおかつゲーム内容がおおむね前評判通りでもあったので(メインヒロインゲーム開始時に非処女であることに物議を醸したが)、地雷ゲーム汚名返上するほどの人気作となった。発売後2~3か月ほどは、「はじるす」を求めて各地のエロゲーショップ巡回する「はじるす難民」が続出したという。今日でのネットスラングとしての「難民」の意味は、きらら系の癒しアニメ最終回を迎えることによって、アニメによる癒しに強く依存したファンが新たな癒しを求めて彷徨うことである。「ゆゆ式」や「きんいろモザイク(1期)」が放映されていたころに「難民」の用語流行り始めたが、その元祖は「はじるす」だと思っている。

地雷意味が変化したきっかけは、同じビジュアルアーツ傘下のイージーオーから発売された「うちの妹のばあい」[2003年](以下、うちいもと略す)であろう。当時のイージーオーは知名度は低く大きなヒット作を出していなかったものの、シナリオCGシステムともに一定以上の品質を保持していたので、知る人にはある程度の評価をされていた。「うちいも」は発売前の公式ホームページによる宣伝に力を入れており、なおかつ当時は妹ものブームだったこともあって大きな評判となった。しかし、イージーオーは「寝取られ」のジャンルで知られるブランドでもあったので、古参ファンと何も知らない新参者との間で大きな議論を呼んだ。「イージーオーのことだから、また寝取られ描写があるのだろう」、「いや、公式情報によると妹との純愛しか見えないので、寝取られはありえない」という具合であった。結論を言うとバッドエンドルートでヒロイン寝取られがある。それも、ご丁寧に攻略ヒロイン全員分にだ。今でこそある程度の市民権を得た「寝取られ」だが、当時はまだ理解できる人が少なかった。純愛を望んだ多くのユーザーにとっては意図せずに「寝取られ」を見せつけられる結果になったので、作品としては不評や反感の意見が飛び交うこととなった。しかし、「うちいも」が「地雷」と呼ばれることはあまりなかった。と言うのも、「うちいも」は前作の「雨やどり」を超えるボリュームシナリオCG量があり、バグ不具合もなかったので「クソゲー」ではなかったからだ。シナリオの内容についても、分岐によってはハッピーエンドもあり、そちらでは「寝取られ」も無く概ね好評を得ていたので、作品全体は「地雷」ではないもののバッドエンドが「地雷」と評されたり、「鬱ゲー」と呼ばれるジャンルを好むユーザーからはむしろ高い評価を得たりもした。これが「地雷」の用語クソゲーを踏むことから変化して、ジャンルシチュエーションユーザーの嗜好と不一致することに対して用いられてきた最初の例だと思われる。ちなみに、イージーオーは「うちいも」の賛否両論騒動を受けて、公式ホームページで「純愛宣言」をすることとなった。内容としては、今後リリースするすべてのゲームで「寝取られ描写をしないというユーザーに向けての宣言であるしかし、イージーオーは失った評判を取り戻すことができず、ブランド解散することとなる。

次に「地雷」がキャラクターに対して用いられた例も述べる。エルフの「下級生2」[2004年]であるエルフは今でこそ解散してしまったものの、かつては老舗の有名ブランドであった。「東のエルフ、西のアリス」と呼ばれ、業界大手アリスソフトに匹敵するほどの人気があった。エルフは「ドラゴンナイトシリーズ「同級生」シリーズで知られるブランドで、エロゲーをやったことのない人でもタイトル名だけは知っていることだろう。昨年アニメ放送された「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」も原作エルフにより発売されたエロゲーである。「下級生2」の発売当初はエルフの人気シリーズ続編ということもあって当然多くの期待と注目を浴びることになった。しかしながら、「下級生2」も「寝取られ」(正確には寝取り?)が原因で不評を買う結果になってしまった。メインヒロインの「柴門たまき」は主人公の幼馴染だがゲーム開始時点で医大生の彼氏持ちという、学園もの恋愛アドベンチャーとしては斬新な設定であった。「たまき」を攻略することは、彼氏持ちの女が幼馴染の男(主人公)と二股デートをすることと同義でもある。そして攻略を進めると「たまき」は二股がバレて彼氏に捨てられることになる。その後もシナリオを進めると、主人公との情事を重ねる際に「たまき」は医大生と肉体関係を持っていたので非処女である告白するのだ。そのうえ、「たまき」は情事の内容をいちいち元彼氏と比較をするのだ。ゲーム序盤では、「たまき」は主人公の幼馴染でクラスのマドンナ的な存在として描かれていたにもかかわらず、その本性は性悪ビッチ女だったという展開にピュア童貞エロゲーマーの精神が耐えられるはずもなかった。激怒したエロゲーマーは、エルフファンクラブを退会しゲームディスクを真っ二つに割った画像をアップした。これが「たまきん事件」の顛末である。「下級生2」が「地雷」と呼ばれたことはもちろんだが、それと同じくらいに「たまき」も「地雷」と評された。これがゲームではなくキャラクターに対して「地雷」が用いられた最初の事例かと思われる。

ちなみに、00年代中頃になると地雷ゲーム呼称はあまり使われなくなってゆく。その理由としては、体験版公式ホームページによる情報公開が進み、発売前からある程度内容を推測できるようになってきたからだ。さらに、アリスソフトの「妻みぐい」[2002年](定価2,800円)を契機に廉価ゲーム流行って、エロゲーは一本8,800円という常識が崩れたこともある。それにより、新興ブランドクオリティ不明エロゲーを8,800円で発売することもなくなったので、エロゲーマーが地雷を踏むことも無くなった。次第に地雷ゲーム言葉は廃れていった。さりとて、クソゲーが消えたわけではない。クソゲー愛好家の間ではHYPERSPACE(通称:超空間)というブランドエロゲーは有名だが、「地雷」ではなく明らかな「クソ」なので地雷ゲームと呼ばれることはなかった。

なぜ「地雷」の歴史を長々と述べたのかというと、冒頭に述べた増田にて、同人界隈で腐女子地雷という言葉を用いることを知ったからだ。今でこそ「地雷」は「下級生2」の例で述べたように、キャラクター人物に対して用いられるのが常である実在人物においては、合コン相手交際相手風俗嬢などに対して使うことが多いだろう。しかし、腐女子同人作品の受け入れられないジャンルカップリングなど嗜好の不一致という意味で用いているのだ。これは「うちいも」における地雷用法と同じである。そうした観点からみると腐女子が用いる「地雷」はむしろ原点回帰と言えなくもない。そうした意見を述べてみようかと思った。しかしながら、エロゲーとは関係ない文脈で「地雷」を用いている場で長々とエロゲー歴史を語っても尋常者は嫌悪するだけとなるので、ツリーに表示されないようにh抜きでURLを張ってこのように長々とした文章を描いた次第である

私は「地雷用法本来意味に立ち返るべきだと言及するつもりなど毛頭ない。ただ単に、インターネット黎明期の頃から続くネットスラングが用いられた当初の時代雰囲気を主張したくなっただけである。かつてネットスラングエロゲーマーをはじめとしたヘビーなインドア男が生み出すのが常だった。インターネットは、現在のようにWi-Fiで楽チン接続するのとは訳が違った。高額で場所の取るデスクトップPCを用意し、プロバイダ契約にも金を払い、様々な配線を床や壁に絡ませて、頻繁にフリーズするWindowsで面倒なインターネット接続設定をする。このような芸当は、注ぎ込める時間と金の全てを家の中で消費するヘビーなエロゲーマーにしかできないことだ。手間暇をかけて接続したインターネットの利用方法はもちろんエロゲー情報収集である。だから、当時生まれネットスラング現実では全く使い道の無い言葉となるのも当然のことだった。逆に、現実言葉エロゲーマーにとっては違う意味を持つこともある。2007年に月探査衛星の「かぐや」が世間ではニュースになったが、当時Googleで「かぐや」と検索するとエロゲーブランドの「アトリエかぐや」が最上段に表示されるというありさまだった。今では到底信じられないことかもしれないが、もしも日本インターネット文化構成したのが引きこもりエロゲーマーばかりだったらというおぞましい現実が、インターネット黎明期実存していたのだ。

もちろん私もヘビーなインドアエロゲーマーだ。しかし、エロゲーから離れてもう十年以上も経つ。エロゲーとはもはや無関係の私が、「地雷とは元々エロゲー業界で用いられてきた言葉で…」などと述べたところで、誰の代弁にもならない無意味な話にしかならない。GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーは「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と演説したが、その言葉を借りれば「エロゲーマーは死なず、ただ消え去るのみ」と言ったところであろうか。しかし、職業軍人とは違い私はただの一消費者に過ぎず、しかもその趣味現実世界では誰にも公言できないので、演説どころかこのような匿名ブログしか述べることができない次第だ。それに、こうして長文を書くこと以外に自身エロゲーマーであったことの証明ができないので、もはや消えていたも同然だ。

エロゲーマーは死なず、とうの昔に消え去っていたのだ。

まんじゅうだんだんめんどくさくなってきた。

最初は「ツイッタータグ付けて皆推理呟きあうのかな?」と楽しみだったけど、だんだん考察ディスコで誰か解決するんちゃう?」って気になってきた。

しかも「融解班各位は○○して下さい」とか音頭とる奴出て来たし。

好きにさせろや。

2020-12-09

頭が良い馬鹿について

「頭が良い馬鹿」というなんとも矛盾した表現がある。

  

いわゆる勉強は出来てテストでは良い点が取れるが、要領が悪かったり、常識が欠如していたり、人間関係問題が有ったり等々の理由で「馬鹿」と周りの人間評価される人の事だ。

ここで書きたいのは「頭は良い(が、他人自分感情を持っていてそれに大きく左右される存在であることを意識できていない)馬鹿」の人の話。

  

例えば頭が良いが正論で人を殴るのが大好きなタイプ仕事はできるが、他の仕事が遅い人を馬鹿にしたり怒鳴ったりして場の空気を悪くする人。

口癖は「バカ」クズ」「遅ぇよ」「何でこんな事もできないんだ」「少しは自分の頭で考えろ」

自分の周りにこういう人がいるので(隣の部署上長で、頭が良い人と評判だがよく怒鳴り声が聞こえる)、それを考察したい。

  

こういう人は頭は良いが、人間の半分が「感情」で出来ているというのをたいがい意識していないように思える。

相手にも感情があって、自分発言や行いが相手感情をいたく傷つけるのに無頓着だ。

いわゆるサイコパス他人共感する能力が低いor欠如していて、しばしば組織内でパワハラモラハラを行う。

  

プライドは高く学歴等でマウントを取ることも多い(その人の場合は分かりやす学歴で人を馬鹿にすることはないが、初めて会う人には大体出身大学を聞く)。

普段の会話からも「あのバカは~」みたいな発言が随所に見られ、周りの人を見下しているなというのが良くわかる。

そのためか他人から馬鹿にされたりするとすぐ「あ、カチンと来たんだな」という感じの表情になり、声色も若干変わる。声は荒げないが発言攻撃的になる。

  

このことから分かるようにかなり怒りっぽく感情的だ。

他人の「感情」に無頓着であるのに、自身は大変に「感情」的である

  

その割に自分自身をそれほど怒りっぽい人間だと思っておらず、「部下に厳しい事も言うが良い上司」だと自負している節すらある。

自身の「感情」にも無頓着なのだろう。

当然、周りの人間は波風立てないように表立ってその人を批判したりはしないが、自然飲み会の場などではその人の悪口大会になるし、パワハラ調査などでも浮かび上がってくる。

そして、いざという時に味方になってくれる人が周りにいないのだ。

  

ゆえに、こういうタイプの人を「頭は良い(が、他人自分感情を持っていてそれに大きく左右される存在であることを意識できていない)馬鹿」と自分は整理している。

本当に頭が良い人というのは何事も自分相手感情を損なわないようにうまく振る舞うのだろう。

  

このように感情意識できていない「頭が良い馬鹿」の人を反面教師にし、自分相手感情意識しながら「自分に良し、相手に良し、世間職場)に良し」な三方良しを心掛けたい。

2020-12-07

オドオドしたブスが嫌い

卵が先かニワトリが先かは分からない。

ルッキズムを語りたいとも思わない。

とにかくオドオドしたブスが大嫌いなのだ

知り合い、同僚、友達関係性はどうであれ、見目麗しくない、ちょっとしたことでモタついたりオドオドしてる女(ブス)を見てるとイライラする。

もちろん容姿が美しいことだけが正義ではない。

見た目が美しくても、性格最悪…という人も中にはいるだろう。

ただ、私の周りの美人達は皆性格が良くハキハキしている。

人のことを気遣える。人に優しくできる。協調性がある。趣味が多い。

周りで、オドオドびくびくしたり、卑屈な考えを持ってたり、(明らかに間違っていても)自分の考えを正当化しがちで「ぼっち」になる人に、不美人が多いのだ。

オドオドしたブスは、何も悪いことはしていないのだから堂々と振る舞ったり、聞かれたことに対して適切に答えればいいだけなのに、

あっ、あの、えっと、んー、えー、うーんと…

このワードを文中に何回出せば気が済むのか。

事の発端は、知り合いが私のヘアカラーファッションメイクネイルなど、美容に関することに興味を示してきた。

知り合い自身は悪い子ではない。「少し優柔不断気味?」「今まで美容あんまり興味がなかったのかな?」という印象だった。でもよく見てみると、

謎のパーマ(全然似合ってない)、手入れがされてない手元、しま○らで390円くらいで売ってそうな服、ボロボロスニーカー、「整えている」とは言い難い雑に剃ってチョンチョンと描いた眉、ガタガタふにゃふにゃのアイメイク。もちろん口紅なんか塗らない。

はっきり言って、「ダサい」と思った。

そんな彼女が、先月、「いつも(美容関係は)どうしてるの?」と聞いてきて、私が通っているヘアサロンエステサロン、まつ毛エクステネイル、服や小物を買う商業施設などザッと説明したら、非常に興味深く聞いてくれた。

ヘアカラーネイルのオーダー方法など、「そうなんだね!」「素敵だね」「どんな物があるのかな?」と、会話も弾んだ。

そして、

ヘアサロンは私にも似合うカラーカットあるかな?」と聞かれた。アウトバストリトメントすらしていない髪の子に。

メイクちゃん勉強したこといから教えてほしいな」と言われた。乾燥しているのにリップクリームすら塗らない唇に。

でも嬉しかった。綺麗になって一番嬉しいのは彼女本人で、彼女自身性格も明るく、素直な子だったから、楽しくなってほしかった。

見た目が綺麗になれば自分テンションが上がることを一番知っているのは、女である私と、きっと彼女だ。

そうと決まれば話は早く、メイクファッションヘアケアなど一連の流れを教えた。

もちろん私が簡単メイクを施したり、コーディネートの考察に付き合ったりした。

眉毛はこの角度で今より濃くした方がいい。ファンデーションはこうやって肌にのせるんだよ。

体型のバランスがこうだから、こんな形のジャケットが似合いそう。色が白いかインナーの色はコレがいいんじゃないかな。とか、着せ替え人形みたいで私自身も楽しかった。

自慢じゃないが、私は相当なマセガキ小学生の頃から化粧の知識を学んでいた。(母が読んでいた雑誌の影響もあるが)

高校生になれば付けまつげやまつ毛エクステ社会人になってからエステ脱毛など、美容に関しては歴も長く、そこそこ自信があった。

一通りメイクファッションを教え込み、完成を見せたら、なかなかに垢抜けていて、彼女の素材を引き出した自分にも賞賛を送りたかった。

変わりように一番驚いていたのは彼女だった。

すごく喜んでくれて、メイクで使った物を自分も買う!と言ってくれ、「一緒に綺麗になって、これからいろいろ覚えていけたら楽しいね」「オシャレしたら一緒に色んなところに行くのも楽しいし、気分がアガるね」と2人で話した。

そして今月、美容院に誘った。

服装メイクは教えたつもりだし、髪型で印象がかなり変わるのだから、今度は髪の毛も気にしてみようよ!というような話だった。

でも、待ち合わせに現れたのは、以前と変わらない「ダサい彼女だった。

メイクの時に教えたアイシャドウファンデーションは?と聞くと「買ったけどまだ開けてない」

ファッションコーディネートの時に買った靴は?と聞くと「履く場所もないし…」と。

いや、今日してこいよ。今日が使う場所だよ。

美容院だよ?都内一等地の。こぎれいな格好が似合う場だよ?

と思ってしまった。

美容院に行ってからも散々で、本人はカラーをしたい。パーマをかけたい。いろいろ要望を言っていた。

美容師さんが「最後カラーパーマをしたのは?」「どんな髪色にしてみたいですか?」「普段服装は?」いろいろ質問を投げかける。

それに対して、「えーっと、、、忘れました」「あっ、あんまり希望はなくて…どういうのが似合うのかも分からなくて…んー…」「普段…?うーん…普段は外に出ないから…」

いやいや、聞いている方が困るだろ。

っていうか、要望を言うなら調べてこいよ。どんなスタイルにしたいとか、少なくても誘ってから2週間以上あっただろ。

普段あんたがずーっとうつむいていじってるその手にあるものはただの板か?いくらでもググれただろ。

そして普段懇意にしてる私に恥をかかすなよ。

2人して一緒に入った美容院。

私は、普段からケアした髪を少しカラーをしてもらって、トリートメントもして女性らしくなるデザインカットを施してもらった。大満足だ。

彼女は、正直いつもと変わらない、似合っているとは言えない、真っ金髪パーマ

店を出て、カフェ感想

彼女は「増田は髪が綺麗だね。そんなに似合うカットしてもらえていいなあ」

「目が本当に大きいね。羨ましい」

「その服似合ってるね。今日髪型(カット後)にぴったりだね」

いや、普段からヘアケアしてるし、やりたい髪型調べてきたからね。っていうか教えたよね?

そして、目も自然に大きく見せられるようなメイク勉強してるからね。っていうかメイク教えたよね?

服装も似合いそうなものをチョイスしてきたからね。っていうか選び方教えたよね?

以降、私は「ありがとう」普段やってるからね」くらいのことしか言えなくなってしまった。

その瞬間から私の中で、彼女は「オドオドしたブス」と思うようになった。

聞かれたことにオドオドびくびくして、

行動しないくせに一丁前に「羨ましい」だの言って、せっかく買ったものタンスの肥やしにしてる人と、これから一緒に出掛ける気も失せる。だって、教えてもやらないじゃない。

いつもダサい格好してるのは自分なのに、それでいて「私なんか新宿ルミネなんて行けないよー」って言ったり、「銀座ネイルサロンなんてとても…」って言うなら、教えを乞うな。

だったら「羨ましい」なんて言うな。

ダッサい服着て家族だけと会話してれば?

家族しか話せなくて、いつまでもオドオドしてればいいじゃん。

からぼっち」になる人に、不美人が多いのだ。

2020-12-06

女性が道を譲らないこととジェンダーロール

本日個人的にとても興味深かった記事がある。

https://anond.hatelabo.jp/20201205155542

上記記事は、おそらく女性と思われる人物が、道ですれ違う時の回避行動の男女での違いについて個人的検証した結果である

元増田記事の中で女性が道で回避行動を行わない(または遅い)理由について、

女性は避ける気がない/避けるという選択肢をハナから持っていない」のが理由と考えられると述べている。

私は東京在住の男性だ。

私も上記記事増田と同じような検証をしていたことがある。

まあデータもない匿名文書であるが...。

男性はたいてい20~30m手前の段階で0.7避ける。たまにこちらを睨みつけたまま肩を張って直進してくるのもいる。

女性は残り2~3mギリギリのところでやっと0.3避ける人と、まったく避けない人が半々くらい。

この結論上記記事増田と変わらないのだが、私が男性からか、女性回避行動について元増田とはまた少し違った特徴を発見した。

それは私がガードレールの無い道で、20mくらい手前でより安全な方向(車道とは逆の道の端側)に回避した場合は、数秒遅れて、女性も道の端側に進路変更した後、直進してくることがかなりの頻度であったということだ。

元増田のいうように女性がただ避ける気がないだけなら自分が端側に避けた時点で、進路変更をする必要はなくなる。にもかかわらず、わざわざ自分と同じ方向に進路変更する。これはどういうことなのか。

思うに、女性は対男性に関しては、避ける気がないだけでなく、「男がより危険が側(車道側)を歩くべき」という考えがナチュラルにあるのではないだろうか。

から、私が安全な方向に避けた場合は、それが気に入らず、「お前は車道側を歩け」と進路変更してきたわけだ。こうでも考えないと明らかに自然な行動だ。

(ちなみにその時、車道に車が来ているかどうかにかかわらず、このような行動の変容は発生する。)

空間認識能力が低く、ギリギリまでこちらに気づかないタイプ女性ももちろんいるだろう。ただ、そういう女性20m手前ではまったく目が合わないので、こちらを認識してないのが大体わかる。

上記に述べた女性タイプ20m手前から明らかにこちらを認識したうえでそういった行動をとっている。

女性と思われる元増田も、最後に「女性が避けない結果ぶつかるのはわかるけども、男と女がぶつかったらダメージが大きいのは女性から男性が避けてほしい」と述べている。

このように女性の道での回避行動には女性男性に対するジェンダーロール意識もかかわっているのではないかと思った。

この結論自分考察に過ぎないが、それはそれとして、男性危険役割を背負うべきと考えるジェンダー規範は糞だと思う。さっさと廃れてほしい。

別にこのような結論が出たからと言って、私は行動を変えるつもりはなく、相手を問わず人ととして車道側に0.7避ける人間でいようと思う。

anond:20201205155542

実験自体眉唾だけど人幅って着目点は面白かった。


増田考察とはちょっとズレるけど、「自分は0.5人幅以上避けたからんだから後は向こうが避けずにぶつかってきても知らねー」っていう意識の人はけっこう多いように感じるわ。

女が男にぶつかられたって主張が多いのも、男側がクズパターンよりこっちの方が多いんじゃないかと思う。

好き好んで女にぶつかりに行くようなクズ男も世の中にはいるんだろうけど、そんな邪悪男性の多数を占めるとは思えないし。

Aが0.5人幅避けてBが避けてこなかった状況でも、通常はぶつかれば自分も痛いし、逆ギレされるリスクもあるから、Aはさらに0.5人幅避けることになる。でもAが男でBが女の場合だと、体格や力の差で男側は大して痛くもないし、逆ギレされるリスクも小さいから、男側は0.5人幅以上避けようとしないって状況になる。

これは女側の主張する"女だから舐められた"は事実だけど、同時に"男側が悪いわけではない"もまた事実となるパターン

そういう事例が世の中にはたくさんあると思う。

anond:20201206001137

鬼滅アンチも鬼滅ファン考察面白くてすき。作品のものと同じ位楽しめてほくほくしている。特にアンチさんからの指摘見ると「そうそうこういうのでいいんだよ」って大事概念なんだなって思う。例えばヒロアカなんかは自分は好きで、アンチの指摘真に受け過ぎって言われるけど「これでいいのかな?」って作者が思ってるの伝わってくるんだよね。最近なんかだとエンデヴァーを許す許さないとか、いじめっこが過去と向き合う向き合わないとか。そういう葛藤って、常に自分一般的価値観を疑い続けなくちゃいけなくて、作者もしんどそうだし読者もしんどい

でも鬼滅はかわいそうな過去で深みは出してるけど、基本的善悪ははっきりしてんだよね炭治郎の「優しい」って評価も、日本一優しい鬼退治ってキャッチコピーにも「本当にそう?」っていう疑いはない。それが戦場において向いてないんじゃないかってことは言われるにしても。敵の悪に対しても、例えば他の作品だったら「蜘蛛山の鬼の家族にも歪んだ絆があった」とか、童夢は「夢見て幸せに逝った患者もいた」とかにしそうなとこを単純に性格最悪に描いてでもかわいそうな過去が…ともってくる。そういう「同情できるが確実に悪とうう分かりやすさ」みたいのが日本必要とされてたんだなって思う。

一生懸命葛藤してるヒロアカかには頑張ってほしいし応援したいけど、やっぱり葛藤ってしんどいし疲れるし娯楽には今は不向きになってきてるのかもしれない。

anond:20201206093718

一部のマイナーサブカルはそれに立ち入る時点で、「よくわからないサブカルに関心を持ってる」って時点でガチ趣味勢=オタク烙印はられたのもあるんじゃないかと思う。

この視点は無かった、でもそうか確かに

面白い考察だ。

anond:20201205155542

女性の体格(身長)との相関を調べて欲しい。この調査の中での体感でもいい。

自分考察だと「女性の中でも背の高い女性は避けない」だ。

なぜか。彼女たちはその人生の初期に避ける必要がほぼなかったからだ。

男性が成長期を迎える15歳前後まで女性男性に対して肉体的に常に優位な状態にある。つまり学校内の通路男子と相対した女子基本的に避ける必要がない。体の小さな男子勝手に避けてくれるからだ。(さらに、男子も避けなかった場合、悪いとされるのはいつも男子ということもあるだろう)。また平均身長より大きな女子自分より背の低い女子に対しても避ける必要がない。したがって、学校内において基本的通路を譲るという習慣が身につかないことになる。小学校中学校でこの習慣が徹底して身につくことになる。

最悪なのはこの世に女子校というもの存在することである高校で共学校に進学した女子であれば、成長期を迎えた男子彼女身長をみるみると追い越し、その校内生活の中で自分が道を譲る必要があることを悟るだろう。だが、女子校に進学した場合彼女達にその機会は与えられない。廊下を歩けば自分より小さな女子達がいつも勝手に避けてくれる。こうして、相手に進路を譲らない女子が完成する。

anond:20201205155542

エスカレータの踊り場 (?) で留まる、

店のドアの目の前で留まる、

駅の改札のすぐ前で留まる、

店のレジ全商スキャンを終えてから漸く財布を取り出す、

上記により該当する性別はどっち?と考えると、本考察は納得

anond:20201206001656

その考察面白い

面白いっていう単純な感想なっちゃうんだけど、面白い

なるほどね、目から鱗

でも思考的に機械強制されてる実感がないならやっぱり幸せだね。

2020-12-05

アニメオタクキャラクターオタク

アニメという映像媒体のものが好きで映像情報収集したり分析したりするのがアニメオタクなのはわかるわ

ジャンルオタクはそういう仕組みの言葉じゃん

鉄道オタク模型オタク家電オタクカメラオタク廃墟オタクダムオタク

でもさ、アニメに登場するキャラが好きでキャラグッズやキャラ画像を集めたり、キャラについて考察が止まらない人は、「アニメ」のオタクというより、「キャラオタ」「キャラクターに恋してる」とか「推しがいる」奴じゃないのか……?

ソシャゲとか他メディアキャラが出てたら、そこもおっかけたりするじゃん

アニオタキャラオタは両立するだろうけど、内包しては無いだろ

2020-12-04

いじりとイジメ境界線

いじりと称するものイジメだというのは最近言われることで、いじり芸はただのイジメだというのも認知されつつある。

が、同時に「いじられるのが好き」という人もいて、これが本心からそうなのか、そういう「物わかりのいい人」を演じていたほうがグループの中で長期的にはいポジションサバイブできるから方便で行っているだけなのかは外から見てわからない。

結局いじりを積極的にしている人が「愛があるいじりはイジメではない」的なフワッとした免罪符的お決まり文句を語って「今の世はいきづらいねえ」的に回収されてしまう。


これはとてもわかりづらい。

しかし、良好な関係を構築するのに「いじり」がゲートウェイになる人もいて、双方の関係性がそもそも良好であるいう第一関門をクリアし、相手がこれ系に耐性があるという第二関門をも超え、いじる方も本当に相手の触れて欲しくない点を触らないという大三関門をクリアした上で、そこにさらに見えない境界線が引かれているようだ。

そう、境界線だ、境界線がどこに引かれているか問題なのではないか


「いじり」には役割的に3者が存在する。

「いじる側」、「いじられる側」、「観客」だ。

このどこの間に境界を引いて「内と外」とするか。

大前提の前3関門をクリアした上で、「いじる側」「いじられる側」を内に置き、「観客」を境界線の外に置く。

この場合、「いじる側」「いじられる側」は共犯関係で、「観客」はモブに過ぎない。

もっと極端に、「観客」を置いてきぼりにして「いじる側」「いじられる側」が双方だけを見ている擬似SM空間を作ってしまパターンも考えられる。

この場合は「境界線という視点」の上で「いじり」の条件を満たしていると考えられるのではないだろうか。


対して「いじる側」「観客」を内に置き、「いじられる側」を境界線の外に置く。

これが「境界線という視点」の上での「イジメ」にあたるのではないだろうか。

上記の形だと多数派による少数派の迫害に過ぎない。


テレビ芸人の「いじり芸」と称するものは「いじる側」「いじられる側」も圧倒的に観客の境界線の内側にいる共犯関係から「いじり」なのであって、学校職場で真似事に行われる「いじり芸」が単なる「いじめなのは、「いじる側」が自分ポジションの為や観客に人気を得たいが為だけに「いじられる側」を境界線の外に置き「差別エンターテイメント」に堕してしまうが故であると思われる。


ちなみにこれは「いじられるのが嫌いじゃない」という人に対する考察であって、1対1で延々とパワハラを繰り返すような異常者の異常空間についての話ではない。

vtuber理解できないおじさんはセンスいね

Q.「アニメキャラ」+「顔認識で動かす」+「生主」=Vtuberの良さは?

A.生主じゃん。分からん

はい-100点です。

日本には差別があるという事実」+「広告」=組み合わせれたら大バズ

エコバッグ」+「すぐ畳める」=Shupatto 700万個の販売

ヒットしたものでもざっくりと分解してしまえばごくありふれた内容の組み合わせでしかないが

組み合わせ方や売り方などで既存差別化したら十分売れる商品になり、それこそがキモなのにそこから否定しだしたら本質を捨てながら考察してるアホでしかない。

ただのエコバッグじゃん、ただの差別事実陳列罪じゃん、ただの生主じゃん

そうじゃないでしょ?合わないは当然あるから好きにしたらいいけどダサい文句つけてる自覚はしよう。

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