いじりと称するものがイジメだというのは最近言われることで、いじり芸はただのイジメだというのも認知されつつある。
が、同時に「いじられるのが好き」という人もいて、これが本心からそうなのか、そういう「物わかりのいい人」を演じていたほうがグループの中で長期的にはいいポジションでサバイブできるから、方便で行っているだけなのかは外から見てわからない。
結局いじりを積極的にしている人が「愛があるいじりはイジメではない」的なフワッとした免罪符的お決まりの文句を語って「今の世はいきづらいねえ」的に回収されてしまう。
これはとてもわかりづらい。
しかし、良好な関係を構築するのに「いじり」がゲートウェイになる人もいて、双方の関係性がそもそも良好であるいう第一関門をクリアし、相手がこれ系に耐性があるという第二関門をも超え、いじる方も本当に相手の触れて欲しくない点を触らないという大三関門をクリアした上で、そこにさらに見えない境界線が引かれているようだ。
そう、境界線だ、境界線がどこに引かれているかが問題なのではないか。
「いじる側」、「いじられる側」、「観客」だ。
このどこの間に境界を引いて「内と外」とするか。
大前提の前3関門をクリアした上で、「いじる側」「いじられる側」を内に置き、「観客」を境界線の外に置く。
この場合、「いじる側」「いじられる側」は共犯関係で、「観客」はモブに過ぎない。
もっと極端に、「観客」を置いてきぼりにして「いじる側」「いじられる側」が双方だけを見ている擬似SM空間を作ってしまうパターンも考えられる。
この場合は「境界線という視点」の上で「いじり」の条件を満たしていると考えられるのではないだろうか。
対して「いじる側」「観客」を内に置き、「いじられる側」を境界線の外に置く。
これが「境界線という視点」の上での「イジメ」にあたるのではないだろうか。
テレビ芸人の「いじり芸」と称するものは「いじる側」「いじられる側」も圧倒的に観客の境界線の内側にいる共犯関係だから「いじり」なのであって、学校や職場で真似事に行われる「いじり芸」が単なる「いじめ」なのは、「いじる側」が自分のポジションの為や観客に人気を得たいが為だけに「いじられる側」を境界線の外に置き「差別エンターテイメント」に堕してしまうが故であると思われる。
ちなみにこれは「いじられるのが嫌いじゃない」という人に対する考察であって、1対1で延々とパワハラを繰り返すような異常者の異常空間についての話ではない。
いじめを加害者の悪意の発露みたいに捉えず、人間関係が濃くなりすぎるとストレスによって暴力的行動が起こると見ればもっと単純化できそう