はてなキーワード: 場の空気とは
マナーが完璧であるということは全てが予定調和のうちに収まっていて価値がないことを意味するわけ
価値あるもののマナーが悪いのは当然、考えるべきは失われる澱んだ場の空気と新しい価値がどう釣り合うかというコスパの問題だけ
私は、アラサーの社会人である。事務職である。総合職である。割とお堅い職業である。肩書はまだない。
中学高校と私立の中高一貫校に進み、偏差値で進学する大学を決めた。そんな「ゆとり世代」である。
近頃、周りでよく「セクハラ」「パワハラ」の話を聞くようになった。
いや、誤解しないでほしいのは、女性側がことさらにセクハラやパワハラを訴えているという話ではない。
男性側が「こんなことをセクハラって言われたけれど、これってセクハラじゃないよね?」と『赦し』を請うという話である。
さて、我々昭和から平成の世代にとって、これが同世代の一般的な考え方なのかは分からないが、生まれた時から世の中は男女平等社会だった。
大学までは「男性である」とか「女性である」ということを、正直そこまで意識をせずに過ごしてきた。過ごしてこれてしまったとも言える。
我々はいわゆる「ゆとり教育」世代であるが、これは単純に教育の質が落ちているということではない。国が主導した「ゆとり教育」の導入は、教育の選択を助長させた。
すなわち、金銭的に豊かな家庭は、「ゆとり教育」の公立高校か、それとも「独自のカリキュラム」を売りにした私立の中高一貫校かをこれまで以上に選び始めた。
しかし、「独自のカリキュラム」といっても、その中身を吟味し、選ぶことは容易ではない。
その結果、偏差値の高い中高一貫校に進むこと、大学は「早慶上智」あるいは「MARCH」に進むことが重視された。
だからこそ、社会に出てから「女性」というラベルに対して、「男性」というラベルとは別の意味付けがされることに慣れていない。
これまで男性と同じように偏差値の良い大学に入ること、さらに言えば一人で生活していくことのできる企業に入ることを目標として、男性と競ってきたはずなのに、社会に出たとたんにそれだけでは通用しなくなってしまう。
これまでのように、男性と同じ振る舞いをしていれば良いのかといえば、そうではない。
さらに「女性であること」「女性らしさ」を暗に求められる。そのことへの違和感である。
この違和感を通常はフェミニズムやジェンダー論の立場から語られることが多いが、私はどちらかというとこれは感情社会学の問題で、必要のない「感情労働」を強いられることに対する違和感だと思っている。
例えば、先日、上司から「これはセクハラじゃないよね?」と相談された事例を例に挙げよう。
飲み会のときにその場の空気で写真を撮ろうという話になったのだ。彼は、一緒に仕事をしている女性の部下を隣に呼び出して、一緒にピースサインをして写真を撮った。
彼は、部下の身体に接触したわけではないし、彼女は笑顔でピースサインをしていた。
だけど、「本当は嫌だった。あれはセクハラなんじゃないか」と同期と陰で話しているのを聞いてしまったそうだ。
「笑顔で写真に写っていたのに、セクハラだと言うのはおかしいんじゃないか」と上司は納得のいかない様子だった。
男性の上司は、男性の部下を隣に呼びだして、ピースサインをさせることはあるのだろうか。
逆に、自分が男性の上司から、隣に呼びだされて、ピースサインをさせられたら、自然と笑顔になるのだろうか。
おそらく、自然に笑顔にはなるまい。しかし、その場の状況から、自らの立場から、笑顔にならざるを得ない、と思うのではないか。
無理やり自分に「自分はこの状況を楽しいと感じている」と思い込ませるのではないか。
つまり、感情を無理に、自分の本来自然に感じる方向とは別の方向に動かして、その場を収めようとする。
言ってしまえば、上司と部下という関係性を円滑に進めるため、「感情労働」を強要されているわけである。
この件が「セクハラ」に該当するのかはさておき(そのためには、そもそも「セクハラ」の定義から語らなければならない。「セクハラ」は一般的に被害者が不快に感じた場合はすべてそれに該当すると言われているから、そういう意味では「セクハラ」と被害者が認識したものはすべて「セクハラ」になるが。)、
女性は、社会においてこうした「感情労働」を強要される場面が多いと感じる。
そこに身体的な接触があったかどうか、という問題ではなく、また、誰の目に見ても明らかに性的な要求をされているのか、というものでもない。
女性であることを理由として、自らの感情を、自らが本来素直に感じる方向性とは別の方向性に働かせなければならないこと、そのことに違和感を覚えるのだと思う。
体調の話とか、飲んでる薬(向精神薬?)の話とかを一日一度は言ってる。なんの病気かは知らない。
話題を変えようとしたり他の人とばかり話すと「私は嫌われている…」なんてSNSで書いたり、オープンにしてる日記で愚痴を書いたり、あからさまに無視してくる。
メンタルを病むのは現代病みたいなもんだから仕方ないなと思うんだけど、こういうときどうするのが適切な対応なのかわからない。
別にその人のことは嫌いじゃないんだけどさすがにストレスは溜まる。
変なこと言って傷つけるのもいけないと思ってスルーしていたんだけどそれもあまりよくなかったようなので、どうするのが場の空気を悪くせずうまい対応になるのか、誰か教えて下さい。
はてな界隈ではあれだけクソミソにケチョンケチョンに貶されてたにもかかわらず目標の倍集まった五輪ボランティア。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/this.kiji.is/425215097243026529
けちょんけちょんに貶してたはてなーは完全敗北であり、
潔く敗北宣言を出したbbbtttbbb氏はまっことに漢であり抱いてほしいくらいなのだが、
まあそれは置いといて。
今のところトップブコメでドヤ顔決めてるpoko_penってのははてなウヨクのidなので言及しない。
目を引いたのは、
「今までどこにいたの?」と感じずにはいられない、
orino-for-no
wapa
まあそうだろうな、と。マラソン大会とかでもボランティアしてる知り合いは色々いるし。スタッフ服とかもらえるだけでも記念になるし。運営が嫌だからといって、応募してる人を罵倒するようなことはしないでほしい。
skypenguins
citron_908
dalk
そりゃあ一生に一度あるかないかのレベルだし、東京にいくのにボランティアにいくといって嫌な顔をする奴は少ないしついでに遊びに行っても良いし利用しない手はないと
plagmaticjam
突如として五輪ボランティアに対して好意的なコメントばかりが軒並み人気ブコメにランクインしているというようにしか見えない。
この事象を以て、今までは
ここはぐっと踏みとどまって、
まずこれらのidが今まで五輪ボランティアに対して好意的なコメントをし続けてきたのかという点を確認してみた。
「ボランティア」「五輪」「オリンピック」で検索してみたのだが。
結論から言うと、過去のブコメからも五輪ボランティアに対して肯定的なブコメをしていたのは下記のコメントのみであった。
plagmaticjam
ただ、「適正化してくれれば」と留保を付けているように、手放しの称賛ではない。
有識者とは...
下記のブコメは、ボランティアではないが、五輪に対して肯定的と取れるコメント。
torino-for-no
五輪でマイナー競技観るの大好き人間なので、気にせず頑張ってねと。俺の税金返せって思ってる奴には振込手数料負担してくれれば俺が代わりにお前の分負担して口座に振り込んでもいい位に思ってる。お互い赤字だけど
ただ、後ほど言及するが、普段からボランティアに対して肯定的な発言があったわけではない。
一部については、過去五輪に対して非常に手厳しい批判を加えているidもある。
ただまあ五輪の運営とか政治案件とか利権とかに対しての批判で、ボランティア参加自体をdisってるわけではない、
積極的な五輪ボランティア肯定コメントはお世辞にも過去でてはいなかった。
wapa
いいから金払って人を雇えよ。施設は既存の使い回しで。レガシー残そうとか開発で金ばら撒こうとするからこういうところに歪み出てるんだし。誘致時から予算爆増してるのに人件費ケチってるのがなんとも情けない。
http://b.hatena.ne.jp/entry/370568268/comment/wapa
wapa
海外の他の大会は?と思って読んでたら書いてあって、ロンドンは本当にこれでボランティアがやったらしい。五輪は元々奉仕前提で成り立ってるのか。あんだけスポンサー料集めてるのに、そっちは施設に行ってるのか?
↑ボランティアしたい人を否定するわけではないが、カネを出さないのが気に食わないという趣旨だろうか。
だがそうすると「ボランティア」という単語の意味を理解しているかどうかが問題になるが…。
citron_908
大戦末期とクリソツだな…原爆投下に相当するイベントは開催期間中の超東海地震か
plagmaticjam氏をダシに使わせてもらって申し訳ないが、
今まではてな界隈で散々スポーツボランティアが否定されてたにもかかわらず、
現実の風向きが変わるまでは過去のブクマをみる限り一切出てこなかった。
これはやはり、
「その世界で支配的な空気に逆らうのはとてつもなく勇気も要ればコストもかかること」
という結論になるのかな、と。
で。
その支配が緩んだ途端に、
今までの不満が一気に噴出する、と。
ボランティア云々以前に、
こういう空気の気まぐれで人の意見が180度変わっちゃうところなんじゃないかな。
まあ、はてなーの手のひら返しって批判に対して「主語がでかい」という再批判があり、
じゃあ一貫性について調べてみようと思ったけど、
でもさ、
はてなのこの「急に空気が変わる感じ」って本当にきな臭くて嫌だなって思ったので、
少なくともただ単に感じだけで終わらせたくなくてやってみたわけよ。
しかし、
「あれだけ五輪ボランティアに対して凄まじいバリゾーゴンをブチかましてた奴らがそろってダンマリ」ってのは間違いない事実で、
しかもそれを検証しようとしたら想像を絶するほどの時間と労力がかかるわけだわ。
都合の悪い事実が出た、
今までと流れが大きく変わった、
ってなったときに急にダンマリする奴らが多数発生する場合には、
「はてなー」の主語は大きくしても差し支えないんじゃないかと俺は思ったね。
以上。
推敲もほぼしない。
aflat_1000dai4 敗北とかよくわからないし、自分の意見は東京五輪に否定的ということで変わらなかったな。ボランティア問題についても、そのものではなくて国体の問題と捉えているので。
その言葉にだけ反応してコメントしてる時点で、この案件に勝敗というものの見方で囚われてることを白状しているようなもんだ。
その場の空気で少数者の意見が圧殺されているということが本旨だというのに、勝敗というくだらない発想に囚われた人間には理解できないものなのだな。
1週間くらい前の出来事です。
しばらくは、振り返るのもシンドかったのですが、ようやく気持ちも整理出来てきたので書きます。
院内ではBLSやACLSの講義をしていたりする機会もいただいていました。
さて、その日は勉強会の帰り道でした。
帰りの電車、あと少しで最寄駅というところで、すぐ近くで「倒れた!緊急停車!」と大声が。
どうしたのかと思って、近づくと、明らかにヤバい色の顔色不良で明らかに異常な呼吸。引き攣るような、死戦期呼吸みたいだ。
数名が必死で座らせようとしていましたが、両肩を叩き、意識レベルを確認すると刺激にはほとんど反応なし。
私は「こういう時には、とにかく胸骨圧迫!」と習っていましたし、教えてもいました。
ある日の院内研修の際には新卒の子からの質問で「心停止でない方に間違って胸骨圧迫をしてしまっても大丈夫でしょうか?」というお話がありましたがその時の私は"誤って胸骨圧迫をしてしまっても、血液の流れに支障はありません。緊急の場面で、心停止を正確に判断することは困難です。心停止かどうか判断に迷ったら、躊躇せずに胸骨圧迫を開始して下さい。"と説明していました。
参考URL http://www.j-circ.or.jp/cpr/qa.html
ところが、私が寝かせて、「異常な呼吸ですし、橈骨も触れませんから胸骨圧迫を始めます」と胸骨圧迫を始めようとすると、中年男性数名に大声で「いやいや!息してるから!こういう時は心マなんてしなくていいよおー!」と怒鳴られるように言われ、半ば羽交い締めにされるように止められてしまったのです。
すると、もう、私は、その場の空気に飲まれ、なにもできなくなってしまいました。
いや、ただ、私がハッキリと言えばよかったんです。
「これは必要なことなんです。この呼吸、顔色は、きっと普通じゃありません。胸骨圧迫はもしかすると必要ないかもしれませんが、メリットがデメリットを上回ると感じています。」と。
でも、私は止められたことがとてもショックで、身動きがとれなくなってしまったんです。
それで、何もできなくなってしまったんです。
その場の空気では、まるでとんでもない悪いことをしていたのは私の方みたいでした。
私は目の前で止まる寸前の呼吸をみながら、遠巻きにみているだけでした。
よき援助者であろうと日々を過ごしてきた何十年かが崩れ落ちたような気分でした。
それに、止めた男性の方々はニヤニヤしながら、馬鹿にするような目で(もちろん、被害的な感情が溢れていたので認知が歪んでいた可能性も高いです)私をみているような気がしました。
その時の私は複雑な気持ちが溢れ出して、足がガタガタと震えていました。
「ああ、もう私は病院以外の場所では、もうBLSなんて怖くてできない!」としか思えなくなっていました。
怖い。苦しい。恥ずかしい。
情けない。助けてほしい。誰か。
そんな気持ちが溢れ出していました。
病院ならハリーコールをかけて、先生が来るまで出来ることをやればいい。
でも、ここでは私は何もできない。
「エラそうに院内講師とかしてたけど救急のトレーニングなんか意味がないのだ…」とその時は思ってしまいました。
誤解されそうですが、私は止めに入った方々を非難しようとしているわけではありません。
それよりも、何よりも、私は、私自身に強い嫌悪感を感じたのです。
…そんな私の支えになったのは、同業者のパートナーや友人、オンラインでのお知り合いからの声かけでした。
この場を借りてお礼を申し上げます。
本当にいつもありがとうございます。
(ちなみに急変された方はなんとか微弱な呼吸を維持しながら、抱えられるようにして電車を降ろされるところまでは確認しました。)
(胸骨圧迫がその方に本当に必要だったかどうかはその時点ではわかりません。)
(繰り返しになりますが、私は止めに入った善意の方々を非難する意図はありません。)
さて、救急現場に救急車が到着するまでの間に偶然現場に居合わせた者をご存知の通りバイスタンダーと言います。
"バイスタンダーが一次救命処置を実施した際のストレスに関する検討"という調査では、その結果として「多くのバイスタンダーがさまざまなストレス反応を経験していた。また,その体験を他者に話して,自分の気持ちを理解してもらいたいと考える者が多かった」と述べられ、また結論としては「BLS 教育において,BLS 実施によるストレスとその対処法に関する教育を考慮する必要がある。さらに対策の一環として,相談を受けるシステムを整備することが有用であり,急務であると考えられる」ということが考察されています。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsem/16/5/16_656/_pdf
その他にも、"航空機内での心肺蘇生の実施により心的外傷を負った1例" 総合病院国保旭中央病院神経精神科 大塚祐司(宇宙航空環境医学 Vol. 44, No. 3, 71-82, 2007) http://plaza.umin.ac.jp/~GHDNet/08/cprtrauma.htm
では、読むだけ胸が苦しくなるようなCPRの描写がされています。
私の体験は、航空機の事例に比べれば、些細なことだと思います。
今の私は、みんなに優しい言葉をかけてもらい、聞いてもらい、気持ちもあの時に比べれば落ち着いてきました。
今は、"自分がまたいつか急変の現場に立ち会って「BLSが必要!」と思ったら、どこででも出来ることをやらなくてはならない。それは「自分が傷ついたような気持ちになったから放棄していいもの」ではない。むしろ、誰でもやるべきことだ"と思えています。
でも、その時は本当に怖かったのです。
あるいは、それは集団における正常性バイアスなのかもしれません。
こんなに情けなかった私の話を。
それはきっと、誰かの役に立つと思います。
自分ができることは何か。
そして、次に院内外で急変に遭遇した際には、私はもっとしっかりと立ち回りたい。
私とその場の方のためにも。
この文章は、そうした決意のために書きました。
ファンサービスについて。私は某事務所のオタクである。事務所は基本的には握手会だのハイタッチだのの接触イベントはないしコンサートだって毎月毎週のようにやっている訳では無い。と思う。
そんな中でたまに自担と会えるコンサート、ライブで、ファンサービスを貰えればその回は自分の中で最高の公演になると私は思う。
馬鹿みたいに沢山の女がいて、自分より美人な同担が近くにいて、同担じゃなくても美人の他担がいて、それなのに私にファンサービスをしてくれるなんて自担くんはなんてできた子なんだろうか。
ファンサなんていらないとしきりに言ってるフォロワーも居るけど、個人的には貰えるに越したことはないぞ!タダだしね。
もちろんルールをあまりに逸脱したサイズのうちわとか嬌声とか、邪魔になるものを多用してまでファンサを強請るのは気持ち悪い。けどファンサ欲しい!!わかる
貰えるためなら頑張って良い席良い番号って思うし(近いと自分からも見やすいしという免罪符)多ステ多ステってなる量も質も頑張りたい
オタクによっては狭い箱で飛び交うファンサにはなんの価値もない、とかお手振りはファンサじゃない、とか色々あるけど、でも貰ってしまったらそれはもう自担くんと私の世界だし?
お手振りだろうと指ハートだろうともっと特別ななにかだろうと、おこぼれと確実って何となく分かるし、その場の空気が時間が止まる。一瞬のはずなのに永遠のような二人の世界に感じられてしまう。
そんなおめでたい頭なのでその数秒で今まで溶かしたン万円ン公演はちゃらになるし頑張って良かったって思うしこれからもその姿見ていたいって思うし明日からも頑張ろうって思える。
かなり変わった両親。自分の作った安っぽいワンピースを着て親戚の結婚式に出たりするような母親。当然子供の自分も母親の作った服(着づらいしださい服)とかを押し付けられてた。そうじゃなければ従兄弟達が着古してダンボールいっぱいに詰め込んで送ってきたボロくてサイズも合わない服とか。
両親というか自分の一家は親戚からも浮いてた。親戚のあつまりでも、そうじゃない場でも、母親はいつもその場の空気を凍らせるような発言ばかりしてた。自分も学校や友達になじめない毎日だった。親を見習って無神経で自己中な態度だったから従兄弟たちからも嫌われてた。
大人になり、自己肯定感が重要、自分の事を好きになれ、自分のありのまま受け入れろって言われても無理だった。大人になって、自分がいかに世の中の普通とか常識をほとんどなにも知らないで育ったか思い知る事ばかり。(母親の口癖は「そんなもの常識」だったけどね)
自分の無知さが恥ずかしい。仕事の会食でもマナーがわからなくて恥ずかしい。空気とか読めない。服装もなにが普通なのかよくわかってないからユニクロで無難そうなものを選んで着ているだけ。流されやすくて、気がついたら自分の好きでもない苦手な事を必死でやっていて一人でつらくなってたりする。
自分は非常識で変わり者で恥ずかしい。消えて無くなりたい、生きている価値ない、社会に何も貢献できない、と感じる。でもそれと反対に、人より意識高い面もある、と思い込みたい高慢な面もある。幸せに生きて行くには、自分を受け入れる事からっていうけど、嫌いだから受け入れられない。もっと別の人生を生きたかった、別の両親のもとに生まれたかったって毎日思ってる。
私は、三十代半ば年齢イコールなんとかというやつ
尊敬できる親友はいるし、楽しい職場の仲間たちに囲まれて、割と幸せ
コミュニケーション能力が特に低い訳ではないと思っている
外見は正直よくなく、その外見に対するコンプレックスや自信のなさが、パートナーがいない原因だと思ってた
ただ、最近は齢とともに自分の外見をある程度受け入れられるようになって、特に何も変わらないけど楽にはなってきている
おそらく自分は結婚はできないだろうし、それでいいともう長いこと思っていた
ただ、今日、改めてつきつけられることがあった
職場の数名で申し込んだイベントに、同僚Aが参加できなくなるかもと、個人的な理由をグダグダ羅列し始め、お前が参加でも不参加でもどっちでもよいから、黙ってくれないかなと…幹事の私は正直、イライラしていた
1週間ほど続き、私も大人気なく、全体連絡のついでに参加するもしないも自由だし、どちらにしても理由も説明する必要はないし、理由を言われるのは、無理に誘ったようで落ち込むとか、余計なことを書いた
さすがに気がつくと思った
だけど、同僚Aは全然気がつかず、イベント参加にあたってのTips的なことを書きやがった
同僚B,Cは私とAの情報に感謝を述べるとともに、ちょっとした冗談と、誘ってくれてありがとうまで書きやがった
Aはパートナーがおらず、B、Cは既婚者だ
この差なのだろう
小さくイライラさせ続け、ついに言われても気がつかないA
明らかに当てはまらないのに、場の空気を和ませ、フォローするBとC
どちらも普段は楽しい同僚だけど、Aとは一緒には過ごし続けられない
私もA側なんだろう
パートナーいないことへの直接的なコンプレックスは麻痺してきたけれど、人間性の差の結果であるとしてつきつけられて苦しくなった
人とどう関わればいいのかわからない。
何をどのタイミングでどんな順番でにどんなノリでで話せばいいのかわからない。
周囲の口調を真似してミックスして普通の人間に擬態しようとしてたけど、
私もまさにそんな感じ。
誰かが言っていたことをつぎはぎして間に合わせてる。
数か月前に今の職場に異動してきて、最初は上手くいっていた(と信じてる)んだけど、
適当に話しているのがばれている気がする。
何も考えていない、何も見えていないのが透けている気がする。
飲み会とかも最悪。
そもそも周りがうるさすぎて何話してるのか聞こえない。
私の声も小さいらしくて、「え?」って苛立ったように聞き返されるのが辛い。
思い出してはうわあああってなる。
もうつらい。
消えてしまいたい。
ネットや本に書かれているような、対人的相互作用の障害や興味の限定、ドラミング行動がみられる。
場の空気が読めず、直球すぎて喧嘩することも多く正直周りの人間も辟易している。
まあそれはそれで私は医師でもないので、傾向としてゴリラなんだろうな、心理的なサポートが必要なんだろうな位の感覚で今まで接してきた。
そんなこんなで5年くらいAに接し続けているのだが、最近頭にくることが多い。
Aの運動能力は同年代に比べとても高い方だと思う。だから尚更腹が立ってしまう。
相手のことを考えられないパス、落ち着きのない態度、すぐに作戦を理解しないetc…球が速い故に「少し考えれば分かるだろ…」と自分の中で思うことがよくある。A本人も自覚はしているが「俺ゴリラだからしょうがないよね。ちゃんと構ってね。」という態度を取ってくるため尚更タチが悪い。
ゴリラなら何でもしていいの?
「障がいからくるさまざまな行動」をほどよくユルく紹介したポスターが評判 県外からも問い合わせ - ねとらぼ
気持ちが落ち着かないときに「うろうろ」歩きまわる行動、独り言で趣味の世界を楽しむ「ぶつぶつ」、自分の声で落ち着こうとして「大きな声」を出してしまう行動、チラシなどをコレクションすることに強いこだわりを持つ「集める・触る・整頓する」といった行動が紹介されています。
つまりなんだ。
健常者であると認めてほしいなら、どんなに気持ちが落ち着かない時でも椅子にドッシリと構えて貧乏ゆすりも独り言もせず、コレクションをしたり大声を出す事も一切するなって事か。
そりゃまた随分とハードルが高いと俺は思うね。
俺が今まで見てきた人は1000時間も一緒の空間にいれば一度はそういった行動を起こしてた気がするけどな。
貧乏揺すりしてる所を一度も見たことはないけど何かあると舌打ちしてしまう人とか、ウロウロ歩き回ったりすることはないけど場の空気が硬直してくるとペンを回し始める人とか、まあ人によって種類はあれど、それぞれにちょっとした癖はあったと思うよ。
そういった簡単な癖ですら、御立派で完璧な健常者様様から見れば「障害者」なのかい?
昔の人は、無くて七癖有って四十八癖と言ってたけどよ、そういう感覚じゃ駄目だってのかい。
四十八癖ってレベルになってりゃ障害を疑っても別にいいし、そういう人に対して「この人は時折おかしな行動を取るけどそれが自分に向けられた苛立ちや敵意なんかじゃない事の方がずっと多いんだよな」って認識するのは正しいよ。完璧に正しいと思うさ。
だけどさ、無くて七癖って程度の人間に対してまで「今ちょっと腕を伸ばしたけど、ストレッチか?家でやれよな。それが出来ないってことは、障害者だな!!!」って認定していくのか?
単なる人の好みとかに対してまで「おーっとコイツはキティーちゃんグッズを集めるのが趣味っぽいがこの収集癖は何らかの障害によるものだな。コイツは障害者だ!間違いねえ!!」ってケチつけて回るのか?
窮屈だね。
実に窮屈だ。
そこまでして誰もが障害者ってことにして何をしたいんだ。
徹底的に選別していって最後に残った健常者様がこの世界を支配する貴族階級にでもなって我々のような無くて七癖を完全な0に出来なかった障害者を救ってくださりなさいますれたまわれるでござりましょうか?
ふざけてんじゃねえぞ。
「誰にだってちょっとした癖ぐらいあるんだから、他人の事をそんなに気にするべきじゃないぞ」で良いんじゃないのか?
理解に苦しむね。
君も私もみーんな障害者みーんな友達みーんな病人生きているからキチガイなんだって事にすれば仲良く出来ると思っているのかよ。
そんなわけねーよ。
「いちいち他人のやってる事に逐一苛ついてないで穏やかな気持で暮らそうぜ」で良いところをな、「可哀想な障害者だから大目に見てやろうぜ」ってテーマでポスター書いてる時点で根本的にズレてんだよ。
社長「なんでこの案件が、こんなことになってるんだ!俺は○○しろといったはずだ!」
(社長は自分の頭の中で考えたことを伝えたつもりになっていることがままある。もしくは元増田のとおり日本語がおかしい場合もある)
私「すみません」
私「…それはお聞きしてまs」
て感じで、話が通じないことわかってるので全て自分が悪いことにして、目の前の罵声をやり過ごしている。
これを数年続けてたんだが、いい加減少しはどう思ってるのか聞きたくて出した言葉が元増田の一連の会話。
面白いつもりでは全く言ってない…。
捻くれた言い方なんだろうか?
「どうして?」とかそういう一般的な会話をしたらすぐに女叩きとかに行くので、端的に自分が聞きたいことをまとめてるんだが…。
まあ、普通の会話ではないよね…。それはわかる。
ここでもしジェイが勝っていたとしたら相当会場の空気やばかったと思う。
ジェイが勝ってオカダが勝ってとなるとオカダの人気まで下がる誰も得しない展開になるからだ。
違うだろ?徹底的に技で潰しに行く猟奇殺人キャラを通して確立すべきだったんじゃなかったのか?
はっっきり寒かった。ここでEVILが勝ったのが良かったと思う。
これで心置きなく棚橋とオカダで素直に決まる展開になった。
棚橋は本気で勝ちに行ってた。事実最後のハイフライフローで決まってても不思議じゃなかった。
あれを返したのはオカダの最後の執念以外何者でもない。もう反射的にやったと思う。
ここまで惹きつけられるプロレスができるのが棚橋弘至でありオカダ・カズチカなんだろう。
凹んだ。
その場の空気悪くするのが嫌で、「ちょ、ひどーいwww」とか言って流してしまったが、本気でキレたほうが良かっただろうか。。
ただ、今も悩んでないといえば嘘になるけど、化粧や服装やダイエットでどうにかできる範囲を超えた部分は、もうどうしようもないからね。
もうブスという事実は認めた上で、謙虚に慎ましく、でも明るく前向きでいようと努めてる。性格までブスになったら終わりだから。
でも、たまーにこういうことを言われると、やっぱり凹むんだよなぁ。どんなに頑張っても、顔面の話からは逃れられないのかぁ…。
もういっそ、顔面のこととやかく言われないくらいに歳をとってしまいたい。速やかにおばあちゃんになりたい。
世の中の男性に言いたいのは、どんなに親しみやすい女性でも、容姿のことは面と向かっていじっちゃ駄目だからね。
こいつなら傷つかないだろ〜とか思っても、裏で私みたいに傷ついて恨んでるかもよ!
場を盛り上げるため〜とかいうのも無しね。そんなので盛り上がるのは程度の低い集まりだけだからな!覚えておけ!
まぁ、男性に限らず、こういうくだらないイジリをする女性も世の中にはいるんだろうね。
私の周りにいる女性はみんな大人だから、見た目で人のこととやかく言ったりしないけど。
はーへこむわー。
でも文章にしたらすっきりした(^^)
オウム真理教の「アビラケツノミコト」とは、一体何だったのでしょうか?
アビラケツノミコトとは「軍神を率いる光の命」という意味の単語だそうです。
アビラケツノミコトの初出は、「トワイライトゾーン」1985年10月号(KKワールドフォトプレス刊)でした。
考証の資料として、原文を見てみましょう。
仏教用語。サンスクリット語a vi ra hūṃ khaṃの音写。以上の5音綴は,それぞれ万有の構成要素である地,水,火,風,空を表わし,大日如来の内面の悟りを表明するとされる。一般には,すべてのことを達成するための一種の呪文として用いられる。
地水火風空(a vi ra hūṃ khaṃ)のうち「風」(hūṃ)が揃ってないので、まだ不完全(未完成)な状態、という意味もあったようです。
最終的な理想国を築くために
神をめざす超能力者
レポート/■■■■■
今月号の口絵14ページで、空中浮揚の連続写真を紹介した麻原彰晃氏。彼は師にもつかずに、独自の修行でこのレベルに到達した。だが、この超能力者の目的は、はるか先にある。
彼は、特定の宗派の僧でもなければ、団体のトップに座す人でもない。人間の師ももたない。彼の修行は独自で、しかも数千年も伝わる聖典の奥儀なのである。
麻原氏が修行を思いたったのは今からわずか8年前である。世の中すべてのものに強い矛盾を感じたのだ。何もかもウソだ。自分さえもウソツキだ。まわり中のこと一切が限りなくイヤになった。
どうしたら正しく生きられるか。彼は、その日からすべてを捨て、行に入った。
行は毎日2~5時間に及ぶ。仙道、大乗仏教、密教、チべット密教、ヨガ。ひとつに執着せず、数数の修行法をとり人れ、自分が納得する形で行なっていった。
修行を始めると、様々な神秘的なことが起こりだした。たとえば、トランス状態での異言。
その時のテ―プを聞かせていただいた。東洋系の言葉らしいが、私としては、TVなどでも聞いたことのない言葉だ。口調はかなり激しい。過激な説法、または、訴えのように聞こえる。
「アジアの、インド、中国、チベット、その辺の言葉だと思います。おそらく、自分の過去生と関係のある言葉でしょう」
麻原氏が、修行8年にして空を飛ぶということは、過去生でかなりハードな修行をしていたに違いない。彼は、テ―プに吹き込まれた自分の口から発した言葉を訳せる人を希望している。でも、もしかしたら、現在ではすでに死滅してしまった言語かもしれない。
修行3年にいたったころ、彼の魂は彼の肉体を抜け出し始めた。「体が回転するような感じになったんです。ウォンウォンというモーター音に似た音がして、それからシューという音がしたんです。その時、魂が抜け出してゆきました。
抜け出した先で、魂は宇宙の星星を見たり、『人』と会ったりするんです」
こんなこともあった。シャヴァアサナ(屍のポーズ)をとり、トランス状態に入っていた。
彼は、大ス夕ジアムのようなところにいた。観客スタンドは、裸の僧で埋まっている。中心で、やはり裸の僧の彼が説法をしている。
「霊界での説法なんですね。私はそこで説法をして帰りました」
聖典を読んで帰ることもあるという。魂が、修行において気になることを調べに行くのだ。
「自分が現実で読む本を先読みしているのです。だから、実際に読む本の内容は、すでに知っていることが多いのです」
魂が抜け出さずとも、本の内容を理解していることも度々ある。修行中「ああ、これはこういうことなんだ」と感じた通り、後に読む本に同じことが示されている。
もちろん、修行に危険が伴わないわけではない。普通だったら死んでいるというような目にあったことも1度や2度ではない。
「その時は、自分の守護神に頼むのです。そうすれば、必ず、元のところに帰ってこられる」
麻原氏には、たくさんの信仰している神、守護している神がいる。彼は、それらの神々から修行法を学んでいるようである。
「トランス状態のとき、神々が現われることがあります。神々はヒントを与えてくれることもあります。または私が質問し、神が答える。質疑応容形式のこともあります。その中で得たのは、『生きることを否定せよ』ということです」
麻原氏は、いつも出会う神とはニュアンスを異にする3人の女性に出会っている。彼には、霊界人とも宇宙人とも感じられた。
「まず1度めは、5年前。妻の出産の時のことです。朝、自宅で目覚めるとロングへアで緑色の服を着たグラマーで美しい女性が、私に向かってオイデオイデをしているんです。
全身はエーテル体とも思えるもので、炎の赤をしているのです。髪の色は、全身の色を薄くしたような感じで、ジャンパースカートのような形の服に茶色のべルトをしめていました。
会話はありません。『私があなたを守護しているのです』と私に見せているように思えました」
2回めは2年前です。自宅で、眠る直前のことです。髪は肩まで垂らし、オレンジ色の服をきた目鼻立ちの美しい女性でした。体色は人間と同じでした。この時も会話はありません。
3回目は今年の5月。ここ(麻原氏の道場)でです。髪の長さは肩ぐらい。やはりオレンジ色の服ですが、体の色は、何というか、この世にない色なんです」
3人の女性たちは、共通して美しく、グラマーであり、口をきかない。決まって、彼の左側に現われる。そして、彼女たちが去った後、場の空気が揺らぐという。
「最後はいつも、霧のようにかき消えてしまいます。ひとつ修行が進むと、異なった人が現われるんです」
麻原氏は、これまで世に出ようとは考えなかった。ところが、ある時、声を聞いたのである。
彼は今、シャンバラのような王国、神仙の民の国を築く準備を開始するため、多くの人に修行法を関放する必要を感じた。
今年の5月のことである。彼は神奈川県三浦海岸で頭陀の行を行なっていた。五体投地をしていたときのことである。突然、天から神が降りてきた。神は彼に向かってこういった。
アビラケツとは、彼の初めて聞く言葉であった。彼は、サンスクリットを教えている人を訪ねた。
すると、アビラケツとは、地水火空の意味で、アビラケツノミコトとは、「神軍を率いる光の命」、戦いの中心となる者と判明したのである。
彼は、天から降りてきた神によって、西暦2100年から2200年頃にシャンバラが登場することを知り、それまでアラビケツノミコトとして戦うように命じられたのである。
彼は考えた。チべットのような王国を造らなくてはならないことはわかっている。しかし、チベットは戦争を好まない国である。理想国を造るため、戦さを用いてよいのであろうか。
彼は、シヴァ神や、ヴィシュヌ神などの自分の信仰する神々や自分を守護してくれる神々に相談した。神々は「命を受けるべき」と返答した。
麻原氏は、神を感じるだけでなく姿を見るという。それによると、たとえばシヴァ神は、白銀のような色、ドライアイスのような色の神体を持っているという。
ところで、ここでいうシャンバラとは幻の国、聖人たちが住み、全宇宙の、そして過去から未来永劫に至るすべての英智が納められている国である。かつて、秦の始皇帝、アレクサンダー大王も求めてやまなかった土地なのだ。
シャンバラは、地下深くにあるといわれている。そして、地球上のある地点からは、シャンバラへの通路が開けているという。
その昔、チべットの首都ラサにあった古ポタラ宮の地下の一室はシャンバラへの入口であったと伝えられている。そこで、チべットはシャンバラの影響を受け、チべット密教を開花させたのだ。
聖者たちのひと握りの者たちはシャンバラを訪れることができる。そこで、ある者はシャンバラの住人となり、ある者たちは社会に戻り、許された者にだけシャンバラを伝えたのである。道教の祖・老子は、シャンバラの人になったといわれている。
麻原氏の話に戻ろう。
「2006年には、核戦争の第1段階は終わっているでしょう。核戦争なんて、ほんの数秒で終わってしまい主す。日本も死の灰の影響を受けているはずです。
核戦争は、浄化の手段ですね。だから、私は『ノアの箱舟』も信じられます。選りすぐったレべルの高い遺伝子だけを伝えるんです。
だけど、人が『自分の分け前をさいて人に与えよう』というように考えない限り、『浄化』はなくならないんですね。そういう気持ちになかなかなれないのが人間でしょう。
もし、それが真実でないとしたら、地獄・餓鬼・畜生・人間・阿修羅・天という六道はなくなってしまうでしょう。
私の目指すのは『最終的な国』なんです。それは、仏教的・民主主義的な国で、完璧な超能力者たちの国なんです」
そのためには、修行と解脱しかないのである。修行の意味を麻原氏に語っでもらった。
「修行とは、ジュースの1滴を、テ―ブルクロスの上に落とさず、水の中に落とす、ということなんです。1滴のジュースとは、人間のことです。1滴のジュースは、テーブルクロスの上に落とせば、ただのシミです。でも、水の中に落とせば広がるでしょう。
水の中にただ1滴のジュースを入れたって、水は色を変えないでしょう。でも、水の中には確実に1滴のジュースが入ったんです。
魂の根元的な状態ですね。拡散した1滴は、水の中のことすべてを知り、経験できるんです。これが空であり、寂静です。高次元に昇華した状態ともいえます」
大きな水がめの中の世界を体験している麻原氏の身辺は、アラビケツノミコトを任じられて以来、急転しだした。
修行で岩手県におもむいたときのことである。彼は、天からオリハルコン、またはヒヒイロガネと呼ばれる神秘の石を与えられた。
ヒヒイロガネとは、超古代文献『竹内文献』などにも登場する石である。神社の玉砂利のように滑らかだが、それよりずっとツヤがあって黒い。ズッシリと重たく、力ネの名の通り、金属的な感じの石なのだ。
水を張ったバケツに石を入れ、念を入れる。その石で円陣を作り円陣の中で瞑想する。
ヒヒイロガネは、手に入れた人誰にでもパワーを発揮するものではないという。念を入れられる者の手にわたってはじめて、パワーを与えられ、驚異の力を噴き出すらしい。
念を入れたヒヒイロガネは、多くの人々を同時にトランス状態にすることもできるという。この石については、いずれまた機会があったら報告したいと思う。
麻原氏に行法の一部を実際に行なっていただいた。
麻原氏は、座して、様々な印を結ぶ。印は2、3秒で変化する。
「これはチャクラ開発のための印です」
次に、立ち上がり、上半身を少し前方に傾けた。腸というか、腹の中がゴロゴロと動き出した。これは浄化法・ナウリのひとつ。腹にあるマニプーラ・チャクラの覚醒に役立つ行だ。
次は仰向けに寝てから足を天に持ち上げるショルダースタンドの形。空中浮揚に欠かせないビシュダ・チャクラの覚醒が目的だ。
それからライオンのポーズ。これは、クンダリニーの覚醒に必要なポーズである。
麻原氏の修行には、かなり危険なものも多い。たとえば浄化法のひとつで、幅7センチ、長さ3メートル半の布を呑み込むというものなどだ。この時は、呼吸ができなくなるほどだという。
彼は、修行中、シャヴァアサナに入ったとき、チャクラの光を度度見るという。
ちょうどフラッシュがパッパッと飛ぶような感じで、下のチャクラから順に光を放ち、同時にやはりフラッシュのような音がするという。音と画像がシンクロするのだ。
経験によると、音と光は様々な神秘体験には、共通して現われるらしい。たとえば未来や過去へタイムトリップするときは、マーチのリズムのような音、霊体が離脱するときはブーンという振動のような音。
これは、各種の教典とも矛盾しないという。そこで、そのような音を作って流せば、修行者は案外簡単にタイムトリップや霊体離脱を経験できるのではないかと麻原氏は考えている。
それでは、私たちがすぐにでもできる修行法について尋ねてみた。
「それは、まず何よりも五戒ですね。1が殺生をしないこと。蚊が自分の血を吸っていたら吸わしておくことです。
2が盗みを働かないこと。
3が誠実にして、ウソをつかないこと。
4が邪淫をつつしむこと。
5が禁酒すること。
以上の五戒に徹することですね。悪の行為をやめ、将来にするだろう善行をどんどんすることです」
集中的に瞑想などをしようと思うなら、空気のきれいなところの方が効果的だ。プラーナ(気)の満ちあふれた海や山を選ぶとよい。ただし、風のないところで行なう。地・水・火・風・空のエネルギーは、想像以上に誘惑的なのだ。
次に、食物は、玄米菜食の方がよい。1日に1回、または2回。または少しずつ、数回に分けて食べる。ヨーガの激しい修行をする行者の場合、日に1800~2000カロリーが理想といわれている。一般の人なら1200~1500カロリーで足りるだろう。ただ、カロリーと栄養とは異なるから、栄養はしっかり摂らなくてはならない。
「(日に)3食は獣の食事、2食は人間の食事、1食は聖者の食事という釈迦の言葉があるんですね。
でも、日に1食では、一般的には栄養が足りなくなってしまう心配がありますから。日に1度という場合は、夕方に摂るのが理想ですね」
玄米菜食だけで、スワジスターナ・チャクラ(腰・仙骨)までは開発できる。しかし、それより上のチャクラは、修行でしか開発できない。
「スワジスターナ・チャクラは植物を司るんです。ここが開発されれば、低い次元の超能力は身につきますね」
麻原氏は、腹のマニプーラ・チャクラが開くまでは、外食は一切しなかった。もっとも、化学物質などの変なものを食べることを体が受け付けなかった。
でも、今は多少腐ったものを食べようが何を食べようが平気である。火のエレメントがすべてを燃やしてしまうのである。
チャクラが開くということは、規制がなくなるということも意味しているのだ。
尾骨のムラダーラ・チャクラが開くと規制され、腰のスワジスターナ・チャクラが開けば性欲の規制がなくなる。腹のマニプーラ・チャクラが開けば食欲の、胸のアナハタ・チャクラが開けば行為の規制がそれぞれなくなる。
規制がなくなるとは、「何をしてもいい」ではなく、規制をせずとも自動的にコントロールされるということである。
「食べ物に気をつけるのもいいが、もっと大切なのは精神です。食物の害より精神の害の方がずっと悪いです。肉を食べたからってすぐ内臓が悪くなることはない。でも気持ちに及ぶ害は、すぐに体を悪くします」
つまり、肉体への栄養よりも精神への栄養の方が大切なのだ。適当な食事よりは、瞑想1時間の方がずっと栄養になるらしい。
「物質で人間は救えないということをもっとよく考えるべきなんですね」
正しい食事をし、正しい修行から得られるもの、それが超能力である。最近は、魂の浄化・向上こそ第1義で、超能力は邪道という考えも広まりつつあるので、麻原氏における超能力の実義をしてもらった。
「魂の進化・向上という考え方がありますが、それは、人間の魂が阿修羅・神々に至ることなんですよ。つまり、超能力の獲得と魂の進化・向上ということとは、矛盾しないばかりか、正しい相関関係にあるんですよ」
それゆえ麻原氏は自分を神に変える修行をし、「完璧な超能力者の集団」と彼のいうところのシャンバラ王国を設立するべく、神軍を率いて戦うのだ。
麻原氏のまず当面の目標は、自由自在に空を飛べる空中浮揚。それと、大脱身を成功させたいという。
「これは、アジナ・チャクラから自分の魂を抜き出させ、目的としている相手の身体に人る超能力のことです。これが可能になると、三界(欲界・色界・無色界)を自由に行き来できるんですよ。ここまでくると、もう人間といっていいかどうかわかりませんけどね。また、核戦争の脅威から身を守るには、極熱にどれぐらい耐えられるか、放射能をいかに防ぐか、ということになると思うんですよ。今の修行方法でそれに耐えられる身体はできると思っています」
麻原氏は、空中浮揚の初歩までの修行か達成した。しかしながらこれは、全修行の段階の4分の1にすぎない。生きているうちに、全部達成できればいいという。
「私は、ハ夕ヨガでいうところの解脱はすでにしています。真我も見ています。これから求めるのは仏教でいう真解脱です。それがいくつもの決め方がある解脱のうちでも最高のものとされています。
修行を達成した人間は、次の生を好きなように形づくれるという。麻原氏の中には、地球、自分、宇宙、神々……超大な計画がもくろまれているのかもしれない。
それもリア充やウェーイな人たちの会話のズレ方とは何かが違うの。
コミュ力が高い人の場合は場の空気に合わせて会話がズレていくけど、コミュ力が残念な人たちは場の空気にあってないけど論理的には繋がりようがあるズレ方をするの。
話がズレる時に前の部分とは場の空気とで繋がっているのがコミュ力の高い人の繋がり方で、論理的というかパズル的な形での繋がりをしているのが空気読めない子たちの話のズレ方なの。
パズルみたいな感じで話は繋がっているんだけど話の腰は折れているの。
なんかね、現実で上手くキャッチボールしていく中で会話の仕方を覚えられなかったのを漫画や小説で補ってきたような人たちの話法なの。
「オタクくんって、ライトノベル(?)みたいなのに影響されたような喋り方するよね。演技過剰っていうかさ。お笑い芸人のマネして普段から喋っているみたいというかさ」みたいに言われそうな喋り方してるの。
そこが、ゆゆ式のいい所なんだよなあ。