はてなキーワード: 二日酔いとは
とりあえず、まだ23女の私が読んでみた。で、思ったことをつらつらと書く。
完全雑記なので、読みづらいと思う。そこは許して欲しい。
自己紹介。一応正社員の社会人やってる。一応理系出身エンジニアの端くれ。
ただし、このまま順調に伸びるとは思えないんだけど。貯金しなきゃなーとか思ってる。
・・・出来ないんだけどね。ほんと。
前置きが長くなった。
まだ私が読むような年じゃないかもしれないけど、読んでみた。
メディアがいっている「普通」に乗り遅れたからもうだめだとかそういうんじゃなく、このまま一人で生きていけるかどうかが心配。
あと、10年近くあるけど今から考えていかないとまずいのかなって。
それは以下の理由による。
・自分の体がそこまで強くない
・かわいくない
以下説明。というかいい訳。
・自分の体がそこまで強くない
月1で動けなくなり、仕事にいけなくなっている。
土日出勤があるので、その分の振休を平日に持ってこれているから評価とかその辺は下がってない。
それでもまだ入社2年目程度の人間がここまで体弱くて平気なのかと本当に思ってしまう。
実際、付き合いとかで飲んでいても、学生みたいに飲めなくなったし付き合えなくなった
(昔は4人とかで焼酎とか日本酒開けて騒いでたもんだ。それでも二日酔いなかったし)
おとなしくなったという言い方も出来るのかもしれないけど、正直この体力の落ちっぷりは不安。
実際、このごろ12時過ぎると眠くなってきてしまって勉強も遊びも何も出来ないんだからね・・・。
なんだかんだ正真正銘の「メンヘラ」ちゃんと病院通って悪化しないように気をつけてるし、爆発もしないようにしているけど、
「双極性障害」ってやつ。こういうの認めてくれる人なんてほとんどいないしね。
自分で波が起きないようにある程度コントロール。極力薬には頼ってない。
さすがにしんどいときとかどうしようもないときは飲んでるけど、そんな感じでなんとかコントロールしてます。
それでも結局メンヘラには変わりないし。さすがに昔付き合ってた人を殺そうとか、ストーカーしたりというのはないと自分で信じてる。
(周りから見てそう思われていたら正直どうしようもない)
若干共依存のようなところがあるのも認めているので、飴と鞭に本当に弱い。
せめて共依存体質と双極性障害を軽くして日常生活に問題ないレベルまで持っていったとしても、基本的には
「メンヘラ」
というレッテルは変わらないのだし。
・かわいくない
正直これが一番でかいんじゃないだろうか。
かわいくて床上手であればある程度問題あったって帳消しになるだろう。
そもそも、理系一本で生きてきた人間にとってはおしゃれとか化粧とか無縁だし
(社会人になってある程度はやるようになったけど)
清楚系とか今流行の髪型とか正直全部同じに見えるし、西〇カ〇とか正直ぜんぜん
興味わかない。
もともと音楽も趣味でやっているので(お金たまらない理由その一)
余計に今のJ-POPとか馬鹿すぎて聞いてられない。
こんな感じだから回りからはクールとか冷たいとかおもしろくないとか
今もそう。主にサーバとかネットワークの管理とかお困りごと解決とか
そういう仕事してる。
正直こういう技術って日進月歩じゃん?どんどん勉強して先についていかないと
乗り遅れる。あと、5年とか10年とかならギリギリ食いつくだろ。いや食いついてみせる。
あと、なんだかんだ男女の差って生まれてくるんじゃないかと思ってる。
ぜんぜん先は見えないし、男女雇用機会・・・とかいってて働く女性には・・・って言われてるけど
正直どうだかさっぱりわからない。
むしろ、バリバリ働く女性にはいやな目を向けられるかもしれない
(一番の敵はもしかしたらばあ様と、母さんかもしれない)
以上四点の理由により、一人で生きていくのが本当にすごく心配。
ただし、もし一人で生きていくとしたらどうすればいいのか。
お金をためておいて、もし何かあって40代で仕事やめたとしてもずっと過ごしていけるだけの貯金を作ればいいかもしれない。
家を買ってその家で一生一人で過ごしていけるようになればいいかもしれない。
正直そこはまだ何も考えていない。それはそれで馬鹿だとは思うんだけど、それだけ上のような不安があるのであれば、もっと対策を
練っておけというのが普通だとは思う。
それは今後ゆっくり考えていこうと思っている。それじゃ遅いかもしれないけど。
ただし、いくつかどうしても解消できない悩みもある。
・寂しい
・病
・性欲処理
・さびしい
だからといって、長女であり、下二人(弟1、妹1)がいる実家に帰るわけにもいかない。
実家はいずれ弟が継ぐことになるだろうから、もう戻ることは許されないと思っている。
特にこれからの時期、本当に一人は恋しい。コレばかりはどうすればいいのだろう。
・病
上記にもかいたようにそこまで体が強くない。なので、いつ倒れるか、倒れるまでいかずとも
家でうなっていることは少なくない。
・性欲処理
一人で性欲処理をしていても虚しいだけだとこのごろ気がつき始めた。
若いうちは遊びに行けばまだ相手もいるし、それなりに楽しめるだろう。
ただし、年を取ってからは別だ。
・・・年とともに性欲も落ちていけばいいのだけども。
はっきりライフプランを決めることが自分のためになるとも思っていないけど、そろそろ本当に自分の人生設計を
2重、3重に定めていかないと34歳で彼氏と別れた・・・になる可能性が高いと思う。
なかなか先は暗いですが、がんばって生きていこうと思います
http://anond.hatelabo.jp/20130825162009
元増田です。
前回はいろんな人のいろんな意見をトラバやはてブのコメントで貰ってとても参考になりました。
すぐに続きを書ければよかったのですが、やはりある程度、結果が出てからまとめようと思い、だいぶ時間が経ってしまいました。
結論から言うとフラれました。
今週、動物園(向こうが動物好きだと聞いていたので)に誘ったメールを送ったのですが、その返信が
「彼氏ができたので、二人でどこかに行くというのはできない。」
というような内容でした
メールを見た当初は意外と悲しみは湧いてこず、どちらかと言えば諦観に近い感情を持ちました。
あるいは生来、感情が表に出てこないタイプであるからかも知れません。
いずれにせよ、その日は仕事を通常通りこなし、いつもと変わらず過ごすことができました。
しかし、やはり心のどこかに悲しみが燻っていたのか、昨日は同期と飲んだあと、部屋に帰っても飲み続け、
気づけば朝になっていました。そこから眠ったのですが、10時には盛大な二日酔いと共に目覚め、
連休初日はグロッキー状態でほぼ終了。先ほどようやく体調が戻ってきて、この増田を書くに至っています。
今でも彼女の顔がふと浮かんだり、断られたメールの一節が思い出されて、ひどく憂鬱な気分になります。
そして、あの時はこんな言葉を返すべきだったのだろうか、とかいろいろなifを考えてしまいます。
まぁ、きっと時間が解決してくれるだろうと楽観視していますが。
あるいは何か別のこと(仕事の関係で弁理士資格に興味があるのでその勉強など)に打ち込んでみるのもいいかなと思います。
しかし、今回初めて人を好きなるということを体験して世界が広がったというか、得られたものも多くありました。
例えば、恋愛小説とか映画を見て感情移入ができるようになったこと。
今までは自分とは全く関係のない世界の話として捉えていましたが(そもそもこのジャンルにあまり興味がなかった)、
今回をきっかけに本や映画で出てくる色恋沙汰を実感として味わうことができる様になりました。
今までは洋服といえば、ユニクロかライトオンで買うことが多かったです。
ですが、さすがにもうちょっとおしゃれに気を使おうと思い、近所のアウトレットに足を運んで、BEAMSやSHIPSやらに入ってみました。
一着一万円のシャツなんてものがこの世に存在するんだと初めて知りました。
あとは、食事のおいしいお店やきれいな景色の見えるレストランなんかも調べるようになりました。
人生が広がったという意味では今回の失恋も無駄ではなかった言えるかもしれません。
「人を恋するというのも、なかなか大変なものなんだと改めて痛感しないわけにはいかない。」
村上春樹氏はまた今年も取れませんでしたが、それで彼の作品の価値が変わるわけではないですから。
アドバイスや叱咤激励下さった皆様、本当にありがとうございました。
元増田です
気分の悪い二日酔いにはならなくても酒は若干残ります、残っててもテンションがちょっと高いっていう感じです。
午前中はメールチェックやらグループメンバーの進捗見たりやらでそれほど頭を使わずに済むので、なんとかなってます。
重要な会議とかはたいがい午後だからそれまでにはいつも醒めてますね。
それらが片付いて夕方が近づいてきて自分の仕事に取り掛かれるようになって、いつも深夜って感じです。
やってらんねぇなぁ、って感じになるから、バーいって愚痴って深夜のニュースやらバラエティ見て帰宅って感じです。
酒やめてもっと時間中のパフォーマンスあげられたほうがいいんじゃないって言われるけど、
なかなか難しいんですよね。
このエントリについて。
彼の頭が良すぎて萎えて別れた
わかるような、わからないような。読んですっきりしない部分があったので少し考えてみた。
このエントリの続編で触れられているように、この話の出発点には「高学歴と低学歴の世界の溝」の問題がある。
そもそもの問題として、「低学歴」対「高学歴」の世界の話というのはなぜ「低学歴」ポジションからの発言が多いのだろうか。それも「高学歴の世界」をポジティブなものとみなして、自分の所属する「低学歴の世界」をネガティブなものとして演出するという態度で書かれてるものが多い。
こういうタイプの文章がはてブを集めて多く読まれているのは、それを読むと読んだ人が心地良く感じるからではないかと思う。「高学歴の世界」の人はこういうのを読んで単純に優越感を感じる。一方こういう文章を読む「低学歴の世界」の人は、「低学歴の世界」にいながらにして自分は「低学歴の連中とは違うんだ」という意識を持っているような人なのではないだろうか。だから「低学歴の世界」が「高学歴の世界」に対して否定的に書かれていることに溜飲を下げる。「低学歴の世界」を批判することで、自分がそこから離れて「高学歴の世界」に近づけるような気がするんじゃないか。「低学歴の世界」に満足している人は、おそらくこの手の文章を読んでもピンとこないだろう。
では、自分自身は、こういう文章と向き合う時なにを感じているのだろう、と思った。こういう文章を読んだ時、私の胸には優越感などの心地よく単純な感情ではなく、言うも言われぬ複雑な感情がこみ上げてくる。
私自身はおそらく「高学歴の世界」に属する人間だろうと思う。曽祖父の代から大学教授の家系で、女性も祖母の代から高等教育を受けている。私は大学付属の小中高に通ったが、クラスメートの父親はおおむね医者か弁護士、研究者、大企業勤務のどれかだった。大学に入るときは、東大、京大、早慶上智、国立医学部までしか選択肢になかった。実際にクラスメートの大部分はこれらの大学に進学した。残りのMARCHレベルに進学した人たちが、私にとってとんでもなく「低学歴」の人たちだった。親類のなかでは東大京大以外は大学ではない、というくらいの認識であったし、私自身、ちょっと勉強すればだれでもMARCHくらい入れるものだと思っていた。この認識が変わったのは、大学に入って予備校でバイトを始めた時だった。どんなに必死で努力してもMARCHはまだ夢の夢という生徒が大勢いるのに衝撃をうけた。
こうして書くと自分は嫌な人間だなと思う。けれどこういった「高学歴の世界」が居心地のいいものだったかというと、そんなことはない。「高学歴の世界」は息苦しいものだ。「高学歴の世界」を定義づけるのは「今日よりも明日」だ。今日よりも明日、より良くなっていなければならない。より良く、より賢く、より豊かになっていること、それが「高学歴の世界」が求めるものである。失敗は許されない。一度失敗したものは、この日々の前進のルートから脱落し、また追いつくためには絶望的な努力を強いられる。「高学歴の世界」は失敗に敏感だ。私の両親はよく「一事が万事」と言っていた。たった一度失敗すれば、それは全て失敗したのと同じ。このスローガンに、子供の私は恐怖しか覚えなかった。遊びも教育の一環だった。教育的でない遊びは排除された。常に成長することが求められた。それは大人になっても続く。昨日よりも今日、今日よりも明日、より成長して改善していること。「高学歴の世界」を統治するのはこの原理である。
このような世界が自分にとって当たり前だったのだが、それはまたひどく息苦しくもあった。そこには「明日」と「未来」はあっても、「今日」と「いま」はない。なにもかもが「明日のため」であるとき、いまここに生きているという感覚はどんどん摩耗していく。今、この瞬間どんなに成功していても、それを100%として認めてもらえることはない。明日さらに良くなること、明日さらに成功することが求められる。それは絶え間ない自己否定でもある。この自己否定がなければ、改善も成長も望めないから。
やがて神経衰弱のような状態になって、ふとある趣味をはじめた。そこには私と同じような育ち方をした人もいれば、そうではない人たちもいた。このとき私ははじめて「低学歴の世界」に触れたのだと思う。その「低学歴の世界」のひとたちは、多くが高卒で、男も髪を染め、女性はミニスカートや露出の多い格好をしていた。タトゥーを入れている人もいれば、道端でケンカをする人もいた。この仲間のなかに入って、私ははじめて「今を楽しむ」ということを知った。お酒を浴びるように飲んで、馬鹿な話をして、大笑いして、そういうことをしても、明日のためにはならない。明日に残るのは、二日酔いだけだ。けれどその瞬間は、ものすごく楽しい。彼らは遊ぶことがものすごく上手だった。季節ごとにいつも楽しい遊びを考えていた。バーベキュー、花見、キャンプ、スノーボード。「今、この瞬間を楽しんで生きてもいい」ということを知ったのは、自分の人生が大きく変わるほどの体験だった。
こういう経験を通して考えてみれば、「うちらの世界」の価値観も理解できる。「高学歴の世界」は未来の為にという価値観がとても強い上に、一度失敗するとその損失を取り戻すのが非常に困難であるという認識を共有している。彼らにとって「バイト先での醜態を公衆に晒すこと」は大変な過ちでありなんとしても回避されるべきものである。一方「低学歴の世界」にとって大事なのは今この瞬間である。今この瞬間を楽しむことが何より大切でなので、その行為が未来にもたらす影響は考慮しない。今、バイト先の飲食店で食材をおもちゃにすることが楽しくて、目の前にいる友人を楽しませることができるのであれば、そのことがなにより重要なのだ。
「明日のために生きること」と「今を思う存分生きること」は、本来両立しうるものであるけれど、どちらかにかたよるとそれぞれ問題をひきおこすのだなと思う。自分の生きてきた世界のことは、みなよく知っている。だからこそあらも見えるし、別の世界に憧れもする。それはもちろん幻想なのだ。どの世界にも光と影がある。ユートピアはいつだって「どこにもない場所」なのだ。
さて冒頭の「彼の頭が良すぎて萎えて別れた」というエントリーであるが、これを読んで再びなんとも言えない気持ちになった。この人はなぜこんなに彼との間に線を引きたがるのか、そこに溝を認めたがるのか。なぜそこに溝を認めた上でそれでも相手を受け入れることができないのか。この場合、二人の間にあるのは「学歴の溝」ではなくて彼女の方のコンプレックスなのだと思う。自分が手に入れたくて仕方がないものを、もう自然にもっているように見える相手への嫉妬なのだろう。けれどそれは「毎日より良く」という価値観のなかで研鑽されてきた結果なのであって、同時にそのなかで切り捨てられてきたものも存在するのだと思う。そういう自分が切り捨ててきたものを恋人に求める気持ちが、私にはよく分かる。私が強く惹かれるのは同じ世界の人ではなくて、別の世界の、ある種の「生きる智恵」を持っている人だ。多く笑い、気楽で、今を楽しむ人だ。この話で、彼は彼女にたとえばそういう魅力を求めていたのかもしれないのに、紋切り型の階級差を持ちだして自己完結する姿になにか割り切れないものを感じる。
一方で、このエントリーで語られている話自体がすでに紋切り型のものであるとも言える。語り口が現代風であるというだけで、話の中身は明治時代からでもありそうな話だ。とりわけ語り手を男にしてみると、既視感が強くなる。身分差のある恋をした男が、バックグラウンドの違いを感じて、女を捨てる。「彼女の頭が悪すぎて萎えて別れた」と男が語る。あるいは女が男を思って身を引く。でも私達が生きているのは現代日本だ。好きなように生きればいい。相性が悪ければ別れればいいし、よければ付き合えばいい。けれど「高学歴」「低学歴」という単純な構図に当てはめて自分の生き方を縛るのは、愚かなことだと思う。自戒を込めて。
こんにちは!アル中です。まず「まっしぐら」ではなく、残念ながらとっくに依存症だと思うよ。
面白がるのをちょっとやめて、2~3日酒を抜いてみたらいかがでしょう?できれば依存症ではないよ。
健康上・仕事上で問題が出始めても酒をやめられない、自分の意思で飲酒をコントロールできなければ依存症。
今は出社できているからいいけれど、やがて手の振るえや二日酔いが酷くなってくると、抑えるために朝迎え酒をして出社するようになり…
それでもいずれ出社できなくなり、欠勤が続いて解雇され…
仕事も、友人も、家族も金も健康も何もかも失って、でも酒は止められない。
そうしてはじめて「酒が全ての元凶だが自分では止められない」と認めて病院へ行く…
面白がってないでまず1日、酒を抜いて。できなければ病院へ相談に行って。
失ったら取り戻せないものは多いよ。
二日酔いにより目覚めは最悪。
隣のテントで寝泊まりする人々と軽く会話するも、気分悪すぎてどうにも調子が出ない。
前日多大なる迷惑をかけた方々とYo La Tengoにて待ち合わせをしていたため、けだるい体に鞭を打ち、なんとかグリーンステージへ。
3ピースながら曲ごとにパートチェンジを行うという器用さを見せつけていた。
そして極めつけはこれぞ90's USオルタナ!って感じのノイズギター。
しかしながら全体的に音量不足で、折角のノイズギターが後ろまで届いていなかった。
普通のアメリカ人が、まるで灰野敬二かのようにノイズギターを弾きまくる姿は面白かった。
今年一月に「ガンとはもう闘病しないことにしました!おそらく最後の来日!」と称して南青山レッドシューズにて行ったライブは記憶に新しいが(行けなくて口惜しい思いをした)、なんとフジロックでは二回もステージに立っているではないか!!
前日深夜にはクリスタルパレスでもライブを行なっていたが、入場制限&長蛇の列で諦めた。
満を持して迎えたグリーンステージでのライブだったが、期待通り演奏されたのは全てドクター・フィールグッドの曲!
演奏内容も、ウィルコ・ジョンソンが歌っているだけで他は昔と変わらず。
ギターソロではキチガイ風ダンスをし、ライブはJohnny B. Goodeで終わるところまで、私が普段聞いている37年前に録音されたライブ盤とほとんど変わらず。
ライブ中盤では、女に見立てたギターを抱きしめ語りかけた後に腰を振り始めるなど、元気すぎる一面すら見せていた。
・Jazzanova feat. Paul Randolph
実はJazzanovaを見るのは本年二回目であり、前回はチケット3500円のフェスにてDJの横でPaul Randolphが歌うだけというクソみたいなライブであった。
今回はちゃんと管楽器も含めた10人編成であり、迫力の生演奏。
安定感抜群のJazzanovaの演奏がなかったら憂鬱すぎてどうにもならないほどの豪雨もなんとか精神的にはしのげた。
そして、改めて日本のバンドに足りないのは電子ドラムのパッドだなぁと痛感。
もちろん、テクノロジーによって表面的な個性を演出するのは本質的でないが、Jazzanovaの様にフィジカルなプレイとテクノロジーを共存させているバンドを見る度に電子ドラムや管楽器へのエフェクター使いなども選択肢として考えるべきだと感じる。
・Toro Y Moi
今年のフジロックで一番期待していたし、期待を裏切らないベストアクトだった。
直前に見たJazzanovaと同様にフィジカルなプレイとテクノロジーを完璧なバランスで共存させているバンド。
予習としてライブ映像を見た時から上述のバランス感は素晴らしいと思っていたが、生で見ると改めてその完璧さに惚れ惚れとしてしまった。
編成はToro Y Moi本人がボーカルキーボード、そしてギター・ベース・ドラムという四人組であった。
そう、編成だけ見ると通常のロックバンドとなんら変わらないのである。
しかし、この4人によって生み出されるサウンドは現代版にアップデートされたディスコサウンドであり、編成からは想像もつかないものだ。
どのようにしてそれが達成されてるか考えてみると、ギターの役割が象徴的であったように思える。
というのも、通常のロックバンドにおいてギターはリズム(バッキング)ギターもしくはリードギターと呼ばれることが多いが、Toro Y Moiにおけるギターはその両者とも言い難い役割を果たしていた。
つまり、通常のロックバンドにおいて固定化されている、パートごとの役割が解体されてつつあるのだ。
それはまるで「ジャコ・パストリアスはバンドにおけるベースの立ち位置を変えた」といわれるように、ロックバンドの様式をアップデートするものだ。
いやー、Toro Y Moiまじですごいよ。
Toro Y Moiはチャズ・バンディックによるソロプロジェクトなわけだから、バンドはワンマン化してもおかしくないはずが、ライブでは個々人のプレイアビリティが絶妙に生かされていた。
この点において後述するThe XXとは対照的。
The XXはバンドの形式をとっているにも関わらず完全にJamie XXのワンマン化していた。
ワンマン化というのはつまり、他のメンバーは言われたとおり楽器が弾ける人なら誰でも代替可能ということ。
実際は曲作りの段階であったり人間関係の上で代替可能なんてことはありえないのだが、ライブ演奏においてはワンマン化していた。
さらに言えば、フィジカルなプレイとテクノロジーのバランスという意味でも、The XXはテクノロジー寄りで、ステージに立っている人間は割と置物寄りと言わざるを得ない。
そんな感じで最高だったToro Y Moi、唯一ケチを付けるとしたら演奏が予定より13分も早く終わってしまったこと。。。
やはり、PCで作成した曲をバンドアレンジしているため、持ち曲が少ないのだろうか。
そういえば余談だが、Toro Y Moiのルックスは若かりし頃アフロだった釣瓶にそっくりであるということに気づいてしまった。
個人的にはツボな発見だったのだが、どうやらこの話はウケが悪いようなのでここまでにしておく。
とりあえずEasyという曲が完全に小西康陽サウンドだったのと、Heartbeatの時だけ盛り上がりが尋常じゃなくその他新曲中心の演奏はウケが悪気味だったのは覚えている。
あと、レッドマーキーは屋根があり、音が篭っているためしゃがんでしまうと上ものが全く聞こえなくなってしまうことに気づいた。
恐らくTAHITI 80はボーカルの声も高いし、上ものたちがバンドの個性を演出しているから気づいたんだろう。
まぁHeartbeatはよかったよ。
文句をつけるとすれば、カッティングギターの音作りが悪かった。弾くのが下手くそなのと相まって、16分のカッティングが全然気持よく感じられない。
・Vampire Weekend
ライブ音源を聞いて知ってたけど、A-PunkはCD音源よりもテンポが遅く踊るにはちょいと物足りない感じ。
CDでは1stのヌケ感がだんだんなくなって壮大な曲作りになってしまい残念だなーとか思っていたが、いざライブで聴いてみると初期の曲ですら壮大に感じられ、「なるほど、もともとこういうバンドだったのか」と思わされた。
Vampire Weekendでも上述のバランス感は感じられたが、Vampire Weekendは従来のバンドであり、やはりゼロ年代のバンドという感じ。HURTSもTAHITI 80もそう。
そういう意味ではJames Blakeとかもやっぱり10年代を感じさせる。
・LETTUCE
大学の先輩と合流し、The XXまでのつなぎとして一応見る。
ジャズファンクとかあんあり好きじゃないんすよねーとか言いつつ見ていたが、思いの外よい、というかよさがわかった。
あの手のものは工芸であって美術じゃないだよなーみたいな風に思っていたのだが、ギタリストは芸達者で素晴らしかった。
でもやっぱり管楽器とかはどれも同じに聞こえてしまう。それは単に自分がやってるかやってないかの違いかもしれないが、Jazzanovaみたいにエフェクトかけてみたりすりゃいいのにーとか少し思ってしまう。
とはいえ全体的に楽しく、アパッチを演奏し始めた時にThe XXへと移動したのだが、なかなかに後ろ髪を引かれてしまった。
・The XX
上述したが、Jamie XXのワンマン感がすごかった。
どういうことかというと、フロントでは女性ギタリストと男性ベーシストが共にボーカルをとっているのだが、それぞれ楽器の演奏はしていたりしていなかったりという感じ。
対照的に後ろにはMPCが二台、電子ドラムパッドが4つ、シンバル、スネア、極めつけにはスティール・パンが並んでおり、これら全てを演奏していたのがJamie XXだ。
バンドの世界観をショウとして演出するという面では完璧だった。
全員恐らくKOMAKINOの服を着て、ステージは照明を落とし、白いフラッシュとレーザーが空間を埋める。
すごかったのは、レーザーを反射させてステージ全体に広がるスモークの中に巨大なXを描く演出。
そういえばホワイトステージにおいても聞く位置によるサウンドに良し悪しは顕著で、ちゃんとした音で聞こうと思ったら人混みをかき分けてセンターのPA前くらいまではいかないとダメだなと思った。
最初は左サイド後ろで聞いてたが、これではモノラルイヤホンで聴いているようなものだ。
まぁ屋外フェスで音がどうこうとかうるせーよって話だが。
なんとアンコールを40分もやって日付が変わっても演奏し続けていたそうで。
The XXが終わってから戻ってきてもゆうに30分以上見られましたし、ちゃんとBoys don't cryも聞けた。
個人的にはメンバーのルックスが気になってたのだが、白髪をワックスで固め昔と変わらぬ化粧を施したボーカルの姿はそれだけで泣けるレベルであった。
演奏に関しては、CD音源をハイエンド・オーディオで聴いているかのような解像度で驚いた。
各楽器の音が完璧に分離しててすっげーと思いながら踊っていた。
・GOMA and The Jungle Rhythm Section
ディジュリドゥ奏者GOMA、ドラム、ジャンベとコンガ、その他パーカスみたいな4人編成。
ディジュリドゥは普通にすごいんだけど(循環呼吸が必要で、音出せるだけでちょっとすごいらしい)、ずーーーっとアフリカンなパーカスたっぷり4つ打ちで若干退屈であった。
しかしこれまたしゃがむとディジュリドゥとキックしか聞こえないというw
部分的に聞けばめちゃくちゃ踊れるし最高なんだが。
そういえばGOMAさんは未だ高次脳機能障害のリハビリ中であり、MCはカンペを見ながらだった。
GOMAさんが音楽の力を信じて病と戦うというか克服していく様はドキュメンタリー映画にもなってるし、インタビューとかで読んでも普通に感動できる。
・Jamie XX(DJ)
The XXの曲もかけつつアフロビートとか80'sディスコとかまでかけて見識の広さとセンスの良さを見せびらかすかのようなDJ。
こいつあってのThe XXだよなーと感じさせる。
・石野卓球
富士山とかかけるのかと思ったら、おふざけ要素一切なくガチテクノをストイックにかけ続けるDJスタイルだったので途中で退場。
僕のフジロックはここで終わりました。
途中でCan you dance tonight?という声ネタを何度も挟んでいたが、もう既に朝だったw
俺よくここまで頑張ったよ…と思いつつテントに帰る。
飲み会の目的はコミュニケーションと言われることが多いが、実はコミュニケーション手段としては効率が悪い。
まずコストが高い。1人あたり数千円の出費、時間、出かける手間、幹事の手間などが、毎回確実にかかる。これらは正確に金額に換算すると、許容し難い額になることであろう。
また酒が入ることにより参加者の思考力が低下する。何かを判断する際冷静にできずその場のノリに流されやすくなる。会話の内容が何故か無意味にループすることが多い。全体的にカオスになりがちで、仕事の話などはまずできないと思った方が良い。
また居酒屋などを利用した場合周囲が騒がしく会話が聞き取りづらい場合が多い。煙草の煙が集中力を阻害する。飲食物がテーブルを占拠するため筆記用具やPCを使う場所がなく必要時にメモを取りづらい。地下の店舗が多いため検索が必要になってもネットが使えないことが多い。等々、コミュニケーションを阻害する要素が多く存在する。このような中で、後々お互いの利益になるような有意義な会話ができるだろうか?
さらに身体にも悪い。アルコールは確実に肝臓に負担を掛けるし、参加することで単純に体力を消耗する。酔っぱらいの多い満員電車で帰宅する際にも余計な体力を消耗する。場の雰囲気で飲み過ぎてしまうことも多く、二日酔いになれば翌日の活動に支障をきたすし、化粧を落とさずに寝てしまった女性の肌は荒れる。
ざっと考えただけでこれだけのデメリットがあるのに、それを上回るメリットが飲み会にあるだろうか?コミュニケーションが必要なら、他にもっと良いコミュニケーション手段があるのではないだろうか?
近々今いるコミュニティを離れることになるので、みんなにご馳走してぎゃあぎゃあわあわあ楽しく飲んだ。年単位で所属していたところでもあるし、また、これから僕が行くところがだいぶん遠いところというのもあって、みんなほんとうに寂しがってくれるし、それでも喜んで送り出してくれる。いい仲間達。
そのなかに、特別気の合う子が一人いた。僕は男で、彼女は女。一緒に入ってきて、僕が先にいなくなる。最初はゼッタイ泣いちゃうから飲み会には参加しないって言ってたんだけど、結局来てくれて。でも昨日はみんなと騒ぐ日、だったから、特別話を出来るわけでもなく、終わる少し前に帰っちゃってた。ほんとに、なんでも話ができる子で、賢くて、素直で、仕事上のライバルでもあり、飽きることなく議論もできるし、不満があったらまっすぐ伝えられる、そんな関係を築いてきた。もちろん女性的な魅力もあった。好きだったか?と言われると、どうだろ。そう思わないようにしてきた、かな。彼女も慕ってくれてはいるけど、恋愛感情はなかったと思う。
なぜかというと、僕には付き合っている人がいるし、彼女も相手がいた。どちらも僕らが出会った時からだ。僕と恋人はそれなりによい関係を築いている。彼女も、まあそこそこうまくやってるようだった。少なくとも僕はそれを壊せなかったし、壊せると思わなかったし、そもそも壊して乗り越えようとも思わなかった。ただ、僕は遠距離だったので(だったのでって理由にならないけど)、その子と一緒にいる時間を、ときどき異性といる時間として感じていたのも事実。お互いに相手がいると、逆に安心して一緒にいられるのだと思う。
昨日の飲み会の話に戻ると、解散してから、僕は彼女に電話した。最後にどうしても会いたかった。とくべつ何をしようと思ってたわけじゃない、でもただちょっと近くに感じていたかった、というよりはもう少し積極的な感情があった気がする。飲み会がある前からもともと決めていたようにも思う、ひどく酔う最後の機会に、その力を借りて、会おうと。二人で会うこと自体は普段からあることだけれど、こうやって感情的に会いたいというのは特別なことだった。それでも電話をかけるのに躊躇はなかった。
結局会えなかったのだけれど。
電話はすぐ繋がった、まるでその電話を待っていたかのように。会いたいと伝えると、いったんいいよと返事があったものの、ちょっと言い淀んでいたので、都合が悪いかと尋ねると、じつは今日は彼氏がきちゃったからちょっと、と。
そっかそっか、それじゃまた今度だねって、じゃあ彼氏にもよろしくねと言って、電話を切った。僕はやっぱりほんのちょっとだけ、下心があったかもしれない。彼女の方はただ僕を慕ってくれているだけだから、二人の気持ちはもともとちょっとすれ違ってる。それは男と女の違いかもしれないし、僕がだらしないだけかもしれないし、分からない。それでも二人とも、また今度はもう二度と来ないっていう気持ちだけは、共有していたと思う。電話が切れる音が耳にいたかった。
どうして好きになってしまうのだろう。僕は、恋をするべきだったのかもしれない、盲目に。僕はいつだって恋をしていいと思っている。でも実際の人生は大抵それほどドラマチックではない。ドラマチックな人生はそのために壊れるものも尋常ではない。そして僕も例に洩れず、恋をしなかった。そしてそれはそれで一つのとてもいいこと選択だったと思う。いつ恋をするのをやめるかは、自分で決めること。それでも、こうして少し二日酔いの頭で、ぼうっとしていると――
この感傷も、すぐにながれて消えていくことは分かっている。僕はここを離れて、次の場所にいくことになる。昨日会えなくて、よかったのかもしれない。ここ数年を、ずっとぼくと一緒にいてくれて、ありがとう、それだけの気持ちをここにおいていく。
うちの場合は、上の子が1歳になって断乳もできたお疲れ様のシャンパン一杯を飲んだ夜に子づくりしてしまって、思わず2人目ができてヤバかったわ。
○保育園の送りは僕、迎えは妻。
僕は仕事柄(上場企業の役員室の管理職です)、残業は必須です。なので、時間拘束が僕ほどきつくない妻が朝早くから出勤し、18時には保育園に迎えに行けるようにしてます。といっても妻も17:30に必ず仕事をあがる約束を取り付けるためには雇い主とはかなり厳しく交渉したらしく、時々仕事が余ったら週末のどちらかに出勤しています。そんな時は僕が週末面倒見るか、体力の限界が来たら一時保育に預けます。
○料理は、平日は妻、週末は僕。
妻は朝の5時に起きて、その日の夕食を仕込みます。週末は朝昼晩とも僕がやります。
○買い物は、妻は平日には行きません。
平日の献立は平日分は妻が考えて、必要な材料を生協でネット購入します。週の途中で足りなくなったら、メールで指示が来るので僕が仕事帰り(大概、深夜です。)にまいばすけっととかで買います。週末は僕が食事係なので、子供を連れて材料を買いに行きます。その間、妻は家の掃除とか、昼の仮眠をとるとかしてます。服とか家のものは、月に1回くらい計画的に週末に夫婦で買い物にでかけます。そんなときは子供は当然僕が抱っこしてます。
お洋服へのこだわりが理解困難なので。なお平日は朝5時に起きてすぐ、週末は朝から洗濯してます。
○寝入りは妻、朝方は僕です。
子供を寝かすのは妻です。一緒に9時前には寝てしまいます。妻は5時には起きてしまうので、そのあと子供がむずかったら僕がお腹をとんとんして6時30分まではなんとしても寝かします。6時くらいに子供が起きてしまった時の妻の形相は鬼のようです。「あたしにはやんなきゃいけない仕事があるのよ!なんで子供を寝かすくらいできないの!子供が泣くまで寝ぼけてたんじゃないのこの二日酔い酔っ払い!」と罵詈雑言をしながら子供を時間まで寝かしてくれるので、そんな時は僕が洗濯物を干して、朝ごはんを作ります。時には晩ごはんも仕上げます。
こんな感じかなぁ。元の文章を読んでも夫の影が見当たらないのが謎なんだよね。うちの場合は、共働きで収入はそれなりなので、できるだけ職住近接で、二人とも玄関から職場まで30分のところに住んでいるのも大きいし、あとは都心の区って福祉施策が意外に充実しているので、病児保育とかファミリーサポートとか週末の一時保育とかには事欠かないという利点はあります。本当に助かってます。なお、保育料は収入が減れば、翌年度には減るんじゃなかったかな?公立園ならだけど。
まあ、夫婦で頑張ってくだされ。子育ても家事も、夫婦共通のお仕事なんだから。夫婦とも育児とか家事に「参加」するんじゃなくって「分担」するのが大事だと思います。僕もサラリーマンとしてはそんなに暇じゃないって言うか会社の中では最激務と評価されるポジションにいるけれど、この程度のことはできますよ。仕事は60までだけど、家庭は一生だから。
でもそれにしても仕事的にはかなり家にコミットしにくい状況の夫がいるのに、家のことをきちんとマネージして夫の状況を把握しつつ的確に家庭における部下として使ってくれる妻がいるのはありがたいことですわ。妻には心から感謝してる。ありがとう。
この文章はジョギングを始めようか迷ってる人、やってみたけど続かない人向けに書きました。
僕は運動音痴だし、長距離走が世界で一番嫌いでした。そんな僕が今では一回に10km、月間40kmを走れるようになったので、その体験を共有できたらと思います。
身長180cm
76kg(当時) 70kg(現在)
それまでの習慣的な運動なし
友人に誘われたのがキッカケです。
三年ぐらい昔。
相手は走り出したばかりの人で、みんなで皇居ランしようって話になり、付き合うことに。
この時点ではジョギング嫌い。
ただ、はてなのエントリーを何度か見ていたので、本当は面白いんじゃないか?何か得られるんじゃないか?
と、ネタ的な気持ちで走りました。
結果は最低。
まず装備が違ってました。
友人は市民マラソンに出てくるような格好だったのに、僕は家に転がってた運動靴に普通のトレパンとロングTシャツ。
他のランナーも友人みたいな感じだったから、恥ずかしかったです。
次に走行結果。
勢いで二周したのだけど、息は辛いし、足は痛い。
終わった後のシャワーの爽快感とビールは美味かったですが、得られるモノが少なすぎ。
友人には
「もう二度とやらない」と宣言しその日はおしまい。
一つだけわかったことは、前準備もなく根性だけで10kmは走れるということでした。
それから半年ぐらいして、仕事が全然うまくいかなくなってきたんです。
当時は外回りしてたんだけど、動けば動くほど辛くて。
土日は極力、引きこもってました。
上司や周りからは「ちゃんと考えろ」って何度も叱られたんですけど、体がだるくて思考が正常に回らない状態になっていました。
そんな時に「変わらなきゃいけない」って思ったんです。
で、いろいろ悩んで
・体力をつけること
・どうせなら苦手なこと
の三点でジョギングを選びました。
最後の「苦手なこと」を選んだのは「何かを克服することで得られる達成感」が欲しかったからです。
といいながら、いきなり走るのは抵抗があったので、まずはウォーキングから。
走るイメージをしながら、コースを作成。歩ける道ならだいたい走れるだろうと思って。信号だけは避けました。
意外とよくて、どうやって走ったらいいのかをアドバイスくれるんです。
ポイントは、気張らずに六割の力で走ること。
指示に従って10分、足踏みするだけでも自信はつきました。
そんな感じで自信とイメージがついたところで、いざ屋外へ。
初めは超ビビッてました。
僕みたいな初心者「クズ」ランナーを他の人が見たら笑われるんじゃないか?
という黒い感情が渦巻いて、やっぱりやめようか…と思も思いました。
でも「そんなの自意識過剰なだけじゃん。」と思い改め開始。
ラン自体に目標もなかったのでなんとなく家の近所の散歩コースを15分ぐらい走りました。
この時には事前の準備が効いていたのか、無理もせず、初めのような辛さはありませんでした。
ただ、翌日は筋肉痛でした。
なんとなく定着させるには、二回目、三回目を早い段階で乗り越えるのが大事だと思っていたので、週一回のペースでチャレンジ。
初回と違ったのは、景色を見る余裕や考え事する余裕が出できたこと。
特に三回目は走る前に仕事で嫌なことがあった時だったんだけど、これがよかった。
(普段なら深酒して泥酔して大事なお金と二日酔いで次の日を失っていたでしょうね。)
「嫌だ嫌だ。自分はなんてダメなんだろう。消えてしまいたい」なんて思いながら淡々と走っていました。
するとどうでしょうかだ、その黒い気持ちが段々と薄らいでいき、走り終えた頃には「ま、いっか」と開き直っていたのです。
これがウワサの「汗と一緒に悪い物も流れる」なんだなと感じました。
それ以来、嫌なことがあったり、頭の中がいっぱいになったら、走るようになりました。
結局、それが週一ペースに繋がったんですね。
あとは他のブログの方たちと同じです。
走ってるうちに他の楽しさ見つけたり、友人が繋がったり、大会に出たり。
モチベーション維持に役に立つのは、スマホアプリとSNSでした。
Twitterの仲間だけじゃなくて、Facebookの同級生とか、走ったことで新たに絡める人が増えるんです。
そういう人たちと結果を褒め合ったり、励ましあったりすると「よし、今日も走ろう」ってなんです。
走った記録も残るし、Twitter、Facebookへの自動投稿で、また話が盛り上がる。
走りたいって思う気持ちが続くことは本当に大事です。
ありきたりだけど、フルマラソンを走ること。
やっぱり高みを眺めてみたいです。
あと、息子(0歳児)が大きくなった時に一緒に走ること。
そのためには継続あるのみです。
「攻撃衝動」をどこまで抽象化するかというのは、本能というよりも文化の問題なんじゃないかなあ。おおむね「文化的」な国家では、攻撃衝動を即物的に解放する人は少なくなるけれども、それはあくまで「文化として教育される」からであって本能が低下したり向上したりするわけではないでしょう。(たとえば「文化的でない」国の子どもを「文化的」な国に連れてきて教育すれば、同じように「文化的」に育つだろう、という意味で。)
「攻撃衝動」の出所は、基本的に「恐怖」だと思うので、日常的な恐怖にさらされれば攻撃衝動は誰だって(男だって女だって)高まると思う。その恐怖の根源が、28日周期でくる肉体的不調であったり、前立腺の肥大であったり、血圧の上昇であったり、二日酔いであったり、密すぎる人間関係であったり、劣等感であったり……は様々だとは思うけどね。
当方♂だけど、♂と♀の肉体が異なる以上、恐怖の根源の種類が違うこともあるだろう。でも、結果自体は大差ないなんてこともあったりするんじゃないかな。男の更年期なんてものがあるように。
要するに、元増田が男か女かはオレにも分からないけど、世には悪意が溢れていて、でもって悪意には性別なんてなくて、かつ、恐怖の発散の方法にはいろいろあるんだね、と。
たとえばこうして人に話してみて解消するとかね。
それが「文化」ってものの効用じゃないのかなあ、とオレは思うんだ。
んじゃね。
こいつらどうかしていると思いつつも、そこで上手くやっていくための方法も何となく分かってきたので、
文章にまとめてみたい。
4月からそういった会社に運悪く入社してしまう方々の参考になれば幸いである。
私は東京の会社で5年間勤務後、実家の事情で退職、出身県に戻って再就職した。
そのヤバさと、田舎の会社の連中と上手くやっていく方法を挙げていく。
なお、私が以下に書くのは、以前の会社と今の会社の2つを比べただけなので、
一般性に欠くことを了承して欲しい。
さらに言えば、田舎と限定的に書いたのは多少"釣り"の意図も含んでいる。
● 陰口がヤバい
何よりまずみんな陰口が大好きだ。
良い噂が広まることは稀、悪い噂は半端ないスピードで拡散する。
仕事でミスしようものなら、次の日には何故か別チームの先輩が知っている。
気に入らない同僚への揚げ足取りも頻繁に行われるため、
例えミスをしていなくてもちょっとしたことが悪い噂として広まってしまう。
しかも最悪なのは、マネージメントをすべき立場の人間が加担していることだ。
役職があるにも関わらず、誰々がウザイとか言って仲間内でヘラヘラ笑っている。
陰口と通してチーム内の結束を高めているようだ。
自分も陰口に加担すれば良い。
陰口は悪いことだという正義心を捨て、ただ第三者を悪く言うことに快楽を覚えるようになれば、
私は絶対にそんなことしないけど。
● 話題がヤバい
雑談や飲み会で話題になるのは、パチンコ、風俗、と時々、嫁の愚痴だ。
特に飲み会がヤバくて、私は入社後10回程度飲み会に参加したが、それ以外の話題はほぼなかった。
「パチンコで3万勝った」、「5万負けた」が会話の入り口だ。挨拶代わりだ。
そこから「勝った金で風俗行ったわ」「店はどこどこの…」と話が発展する。
さらには、若い頃は給料の半分を風俗につぎ込んでいた話や、酔って川に飛び込んで救急車で運ばれた話など、
よく分からん武勇伝が延々と続く。それ前の飲み会でも聞かされました。
まあこの流れってどこの会社でもある程度同じだとは思うが。
私としては何一つ面白くない。
まあ、笑うところでは空気読んでちゃんと笑ってるけど。
あと質問して話を広げたり。全く興味ないけど。
たまに私の趣味の話を振られて割りとクリエイティブな趣味とか受け答えするんだけど、
他の連中には金を使わない趣味が楽しいとは思えないらしく、きょとんとした顔になり、
5分後にはまた下ネタトークに戻っている。
で、2時間と5000円を失う代わりにストレスとタバコの匂いと二日酔いの頭痛が残る。
そうしてこちらから話題を振って盛り上げられれば、飲み会でも良い話相手として重宝される。
私は絶対にそんなことしないけど。
● スキルがヤバい
家で◯◯の勉強してます、と言おうものなら、頭おかしいんじゃね?と言われる。
というか言われた。
英語をちゃんとした発音で話そうものなら、何故か笑われる。中学生かよ。
そんな何の努力もなしに勝手に積み上がるものでアピールされても…
他にアピールできることは無いんですか?
平均的なスキルさえあれば問題ないと見なされるし、
上に書いた陰口の対象になる同僚というのは、皆スキルが高かった。
だからそんな会社に入ったのなら、スキルアップなんてやらなくて良い。
ただし、揚げ足取りや陰口のスキルは好まれるのでどんどん伸ばして欲しい。
私は絶対にそんなことしないけど。
● 以上、私が感じたこの会社のヤバさを列挙したが、もちろん良い所もある。
・基本的には仲が良い。(仲間になりさえすれば、自分の立場が危うくなっても助けてもらえる)
● かなり愚痴っぽくて汚い書き方になってしまったが、私が言いたいのは、
その会社の人達と上手くやっていくためには、自分の信念を多少曲げる必要があるよということです。
で、仮に上手くやっていけなかったとしても転職とかの選択肢もあるよということも忘れないで欲しいです。
最初に就職した会社に我慢してずっと行く必要なんてありません。
死とは、不可逆の自称で、以後、再び動いたりしないことである。
として、真の生物でないドラえもんは故障後も再稼働に持って行くことは、現実的でなくとも可能だろうと思うに至り、生命ではないと、「私は」認識する訳です。
寿命の設定が無かろうが、一度完全に死を迎えれば、お終いの存在ならやはり生命だと思います。
ぴったりの表現で言うならニルバーナというか、蝋燭の火が消えて、お終いならそれは生命だというか。
ゾンビ。死語も活動していますが、やはり生命ではないでしょう。正体は創造者のロメロに聞いてください。
カーズ。死ねないと本人も仰っていますが、やはり太陽に突っ込むなり、ブラックホールに吸引されるなりで死ぬと思いますので、生命ではないかと。
キリスト。世界中で、唯一、死後に復活した例外。事実の確認が難しいので言及しません。(断じて、インチキだと決めつけているわけではないです)
呼んでくれた方の中に、曰く
「定義はちゃんとあって、
自己複製する
境界がある
代謝する
の三つなんだよね。
まあ定義が難しいとか論争があるかのように書かれているサイトは多いけども。
と仰った方がいます。
ここは見解の相違です。それは、一部の人が、便宜上決めた定義でしかないのです。
仮に上記の三要件を必ず満たす物が生物だと言うのであれば、種子を作る機能を欠いた植物は生命ではなくなってしまう。
ウィルスが生命でないというのは現段階で生命だと明言できないからに過ぎない。
と、まあそんな感じ?
ちんちん。
萌えアニメで、女の子の看病のためにサムゲタンっていう韓国料理を男が出すシーンがあって憤慨してる人がいるらしい。
ちょっと前にあった、リベラルとオタクが相容れないみたいな内容のエントリも、こんな状態なら確かに……、と思った。
たぶん10年たっても相容れないんじゃね。
それはそうとサムゲタンだけど、あんなん出してくる男とかやばいだろ。
韓国うんぬんではなく、モテるポイントを押さえまくってて小憎たらしいわ。なぜみんなそこに怒らない。問題のアニメはよく知らないけどこいつ確実に女慣れしてるぞ。
サークルの女子とか、姉がよく話してるんだけど、野菜と鶏肉のスープ料理でヘルシー、満腹感も得られて、コラーゲンもたっぷりで非常に良い感じの美容食なんだそうな。
自分は勉強のために女性誌も読んでるのだけど、サムゲタンはかなり女子力たかい扱い。
一方、所属サークルのイケメンは政治学専攻で何かアジア諸国に思うことはあるみたいだけど、宅飲み後の二日酔いでぐだぐだの雰囲気の中、ひとりレトルトのサムゲタンを買ってきて皆にふるまってくれた。
イケメンは思想的にはちょっと右っぽいんだけど、女の子(とおまけの野郎)が必要そうなら信条にそぐわなくても喜んで身を投じる。
特にツイッターは気軽さと字数制限のせいでどうしてもこういった「鋭くて、雑な」否定が多くなる傾向がある。もちろんブログとかでも言葉足らずとか、読み手の気持ちを考えないせいでそうなってしまうものもある。
そういったものは基本的に無視をするのが一般的であると思うが、日本人は特に「鋭い」ものには敏感だ。皆が認識すべきいわゆる「常識」とあまりにかけ離れた意見などには、必ずその常識を盾に刃向かいたくなる人が出てくる。出た杭を打つ精神だ。
冷静になって考えてみると、大抵の場合は「言い方」が問題なだけだったりするのだが、もっと根本的だったり本質的な部分の議論を始めようとしてしまう。「常識を知らないこいつに教えてやらないと!」と上から目線になる。相手が常識を持っているとは考えない。尊敬のかけらもない。同じ人間なのに。
さらにそこに輪をかけているのはソーシャルネットワークだ。数人しか前を通らない道端で、非常識な事を叫んでるヤツはみんな無視が出来る。それがネットだと、「こいつをここで無視すると間違った考えが広がってしまう!ここは私が食い止める!先に行け!」状態になる。ヒーロー症候群に似ているかもしれない。もしかすると常識人であるという承認欲求もあるのかもしれない。
こういった事象は全く悪いものではない。悪くないのだが。熱くなりすぎるとイタくなる。
通例、議論に置いて、先制攻撃(この場合は攻撃する意図すらないのだが)というのは、後続のものよりも論理性に欠けていてもよい。逆に言えば、後続側で攻撃しかえすには、史実性や理論がしっかりしている必要がある。準備が必要だ。熱くなってはダメだ。ここで失敗する人を良く見る。残念だ。
いいだろうヒーロー、ここは任せた、俺は全力で逃げるから死守してくれ。命をここで捧げて俺を守ってくれ。
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