はてなキーワード: オブジェとは
(前半からの続きです。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093126
もっとも、現代アートは手放しで褒められるものでもないでしょう。多くの批判者が火のないところに煙を立てているとは言えないと思います。作品の出来が悪いものも混じっていることは否めません。
大方の批判にもかかわらず、私は今回のトリエンナーレではそのような「的外れ」感のある作品はほとんどないか、かなり少なかったと感じています。これもキュレーションのよさでしょう。
思い返せば2020年のトリエンナーレにあった「エビにSEXをさせる方法を考える」という一連の展示はひどかった。テーマはとてもよかったのですが、日本(だったと思います)のクリエイターたちの作品はふざけているとしか言いようのないものでした。その課題は、「エコスフィア」(エビと水草の入っている閉じた水槽)の中でエビは酸素を吸って二酸化炭素を出し、水草は二酸化炭素を吸って酸素を出す。この循環のバランスはうまく保たれているが、一つ問題があって、エビは生殖をしなくなる。そこでエビに生殖をさせる方法を考える、というものでした。多くの作品はエビにセクシーな格好をさせるとか、エビの秘宝館のようなものを作るとか、そういうものだったと記憶しています。しかし、クリエイターたちはこの「エコスフィア」が地球の生態系の比喩であると気づかなかったのでしょうか? だとしたら愚かに過ぎるとしか言えません。それとも、気づいていてこのような作品を作ったのでしょうか? だとしたら二倍悪い。エビとは「私たち」に外ならないのだから、つまりクリエイターたちは女がセクシーな格好をして男を誘えばよいと言いたいのでしょうか? それはあまりにも「男尊女卑」に終始していると言わざるをえません。そこには問題意識が欠如しています。「教授の課題テーマはよかったが、学生たちのレポートがだめだったという感じだ。」私は友人とそう語りあったことを覚えています。
2020年といえば壁にブレインストーミングのように年号と出来事を書いてゆく展示もありました。そこには作家のメモも展示してあり、『荘子』の「胡蝶の夢」の故事が引用してありましたが、「與」を「興」と書き誤っていたことを覚えています。自分のことは棚に上げつつ、非本質的でささいな事をあげつらうようですが、「どうかわからないことで見栄をはらないでほしい」と思われてなりませんでした。
現代芸術の作家たちの一部が「見栄をはろう」としていることは薄々感じられます。人文学、哲学、歴史学、経済学などに議論の蓄積がありとっくに通過してきた知見について、芸術家たちが何周も遅れて的外れなことを言っている光景は、あまりみっともいいものではありません。なぜそのようなことになっているかといえば、芸術家が「作品」だけではなく、その「意味」で評価されるようになっているからでしょうか。
かつて芸術家は貴族の注文にこたえて絵を描いていたそうです。今の作家は自由に作品を作れるはずなのに、ただ社会の要請にこたえて作品を作ろうとして、中身のないステートメントを打ち出しているのは、痛々しくさえあります。
しかし、これは決して「アーティストはよけいなことを考えるな」と言いたいわけではなく、むしろその逆で「もっと学問をしてほしい」ということです。しかもそれは「芸術家」としての意識以前に、「市民」として当たり前にもつべき意識であると思うのです。芸術家は作品だけで力のある面白い作品を作って、そしてそれとは別に最低限、当たり前に市民として的外れでない発言もしてほしいのです。
トリエンナーレと同時開催の展覧会Bank ART Life7「UrbanNesting: 再び都市に棲む」に足を運ぶと、新高島駅地下1階の会場の入口には巨大な土のダンゴがありました。これはかなり面白かったのですが、説明を見ると福島の土で作ったとありました。もちろん福島の原発事故はまだ収束したと言えませんし、提示された問題は深刻です。しかし、その場では私も友人も何となく興が醒めてしまったのです。それはなぜでしょう? 何となく、「作品の面白さにテーマが負けている」と感じました。私も「キラキラ」なアートを好む一員であり、私の中で「無意味」のもつ破壊的な力に「意味」が負けてしまったのかもしれません。あるいはその逆で、テーマの重さのために、作品が軽く見えてしまったのかもしれません。いずれにしても、私は作品のよい受け手になることができませんでした。
しかし問題は受け手だけにあるのではないと思います。「作品」と「意味」のバランスは難しいことであり、作り手の側でもうまく調整しなければならないものです。先程述べた通り、今回の展覧会にはピンボケな作品が少ないと感じました。しかし、今回の出品作のうち、どれくらいが「意味」(言葉による解説)なしに「作品」だけの魅力で勝負できるものだったかは疑問も残ります。
今回の展示にあったBゼミの試みはよかった。「意味のないものを作る」とか「新しい楽器を作る」とか、芸術を意味から解き放つような試みは今でも頼もしく思われます。どうもいまのアートは、意味を付与された瞬間に弱くなってしまうような気がしています。作品と意味との関係性については、まだまだ考える余地がありそうに思います。
私の身近に YOASOBI のアニソンが好きでないという人がいます。「アニソンというのはアニメの解釈であり、アニメへの讃歌であり、しかしアニメ本編とはズレているから面白い。YOASOBI の歌はアニメのストーリーをそのまま歌っている。だから面白くない」と言うのです。何となくわかる気もします。偉そうに勝手なことを言うならば、現代芸術も世界にあるモノをそのまま出すのでなく、世界をアートの形で表現するとどうなるのか、「意味」に傾きすぎず「作品」の力で見せてほしいと思います。
しかし、芸術に「意味」をこめるなというつもりではありません。批判者の中には、芸術家は被災地を創作で消費するのではなく、実際に活動をすることで被災地に貢献すべきだというような意見を言う人があったような気がします。もちろんそのような活動はしないよりもしたほうがよいのですが、それはあくまで「市民」としてのはたらきであって、「芸術家」としてのはたらきではないでしょう。芸術家には芸術家にできることがあり、それは創作であるということを否定するつもりはありません。しかし、だからこそ「作品」と「意味」にはもっとよい関係があるのではないかと思います。その答えが何かということは、残念ながら即座に提示できないので、偉そうに勝手なことを言うだけになってしまうのですが……。
批判めいたことのついでに言えば、今回のトリエンナーレを批判する意見の中には、電気を使ったインスタレーションと環境問題を訴える作品を同じ空間に並べることの違和感を語る人がいたように記憶しています。その違和感も理解できますが、それとは別に、芸術と資本の関係という問題も感じました。入り口の協賛企業の一覧を見たとき、たいへん違和感がありました。資本主義への警鐘をならす作品(全てではないにしろ)が、大資本の資金で展示できるとは! 大企業はそのようなお金を出すほうがよいと思いますけれど、その一方で企業がそれを「みかじめ料」として批判されなくなるべきではもちろんないでしょう。作品が意味をもつときには、その作品のおかれる「場」までもが、自らの意味を暴露するようになるのかもしれない。初っ端からそんなことを考えさせられるなかなか面白い「展示」でした。
咎め立てばかりしてしまったようですが、最後によかったところをいくつか述べたいと思います。友人は、今回のキュレーターの解説文(紹介文)がよかったと言っていました。友人によると今や「この作品はこう見るべきだ、ここが素晴らしいのだと天から決めつけて、自分に酔ったような解説」を見ることも多いなかで、今回の解説文は「キュレーター自身が作品をどう見るか、真摯に考えて書かれていたので好感が持てる」というのです。また、「キュレーションにも工夫が多かったような気がする。例えば商業主義のマルボロの広告の下にインドの貧しい生活を描いた版画を配置するなど、『対比』を意識したものがいくつかあったように感じた」とも言っていました。キュレーターの仕掛けた「作品」と「意味」の関係性のバランスは果たして十分達成されたかどうか、それはよくわかりませんが、キュレーターが真剣に構成しており、私たちに問いかけるものがあったのは確かだと思います。
要するに、初めに述べた通り「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということです。言いたいことはこれに尽きます。
魅力のある作品も少なくありませんでした。友人は勅使河原蒼風のファンになり、富山妙子の画集を買いました。私は土肥美穂の buttaiが気に入りました。同時開催のBankART Life7では、みなとみらい駅の腕木信号のオブジェや、Bank ART Stationにあった送風機で立ち上がる足などの機械仕掛けの作品が好きでした。
つらつらと思いつくまま書くうちに、思いがけなく長文になってしまいました。次回のトリエンナーレにも期待しつつ、このあたりで終わりにします。
これを読んで昔の彼氏のことを思い出したのでちょっと書く。この増田の話と私の話が同じとか言うつもりはない思い出しの書き散らしだ。
私の元彼は優先席でなくても電車でお年寄りや子供連れを見つけたら速攻で立って譲るとか、ゲームセンターで取れたぬいぐるみを子供にあげるとか、街中で迷ってるぽい人がいたら声かけて道案内するとか、お年寄りの荷物持ってあげるとか、フィクションの登場人物か?ってくらい人助けをする人で、それは別にデート中とか関係なく行われる超正しい人であった。そういうところが好きだったんだけど、そういうところが原因で別れた。
ひとつのことが原因というより積み重ねだったのだけれど、一番決定的だったのは彼と私が好きだったキャラクターのショップに限定商品を求めて並んだときのことだ。この手の行列にしては短いのかもしれないけど、一時間半くらい外で並んで整理券を手に入れた。一人一枚なので彼と私で二枚。
記載時間までかなり時間があるからどうしようか、って歩いているところで整理券が終了したことを店員に告げられて泣いている子供と慌てている親がいた。正直に言って超嫌な予感がした。案の定彼氏はその場で店員に一枚で親子が入れるか確認したうえで自分の分の整理券を譲った。二人分の個数制限分ほど買わないからこれでいいよね、外で待ってるから俺の欲しいものもお願い、と言われた。
彼氏の行動は今考えても間違ってはいないと思う。一人分の購入制限で欲しいものは足りるのも、子供がメインターゲットに含まれているようなコンテンツだったので、子供を優先する態度を取るのも正しい。
でも綺麗にかわいくラッピングされたりオブジェが置かれた店内を一人で回って、なんで私は今これを一人で見ていて、かわいいね素敵だなって彼氏と言い合えていないんだろう?と思った。それを彼氏に伝えた。でも子供優先じゃん。俺が見られなくても、その分あの子たちは楽しんだと思うからよかったよと言われた。喧嘩した。たぶん幻滅された。別れた。
よく女は感情(笑)って言うけど、そうなんだろうなーと思う。結果だけ理性的に見れば、彼氏の行動は超正しい。むしろ利益を生み出している。私たちは欲しいものを全て買うことができた。譲られた親子も欲しいものを買うことができただろう。私が一緒に店内を見たかったとか、買い物がしたかったっていうのは感情の話だ。彼氏にとってその感情は他人のために我慢できる範囲であった。皮肉でもなんでもなく素敵な価値観だと思う。
でも私はそうなれないなと思った。テーマパークで一日遊んだあと、足が痛くて疲れてるのに優先席でもない席でお年寄りに席を譲れるほど、美味しそうって事前に言ってたのに後ろの人が食べたがってるからってビュッフェで残り少ないケーキを我慢できるほど、頑張って朝から並んで手に入れた整理券を知らない子供に譲れちゃうほど、他人のために我慢できないのである。それが当たり前だって言えない。
彼氏は当然私にもその飛び抜けた善性を期待するが、私は利己的な人間のため、電車を一本見送ったら座りたいし、自分の順で食べられるものは食べたいし、ゲームセンターで二人でとったぬいぐるみは思い出に持って帰りたかったし、朝から並んだら一緒に店内を見て回りたい。それも伝えたがわかりあえず、私は彼氏の当たり前の基準値の高さについていけなかった。
たぶん人によって他人のためにどこまでリソースを払えるか、損を許容できるかってちがって、それがずば抜けて広い人と私みたいな狭いカスが付き合うと破綻する。
私はおばあちゃんの迎えが来るまで待ちながらイライラしてしまった彼女さんの気持ちがわかってしまう。好きな相手との初めてのデートで、二人で楽しく過ごす時間というリソースがどんどん他人のために払われていくことが辛くて、辛く思ってしまう自分の心の狭さを感じてさらに辛くなったのだと思う。私もそうだった。聖人とカスは付き合えない。
本当に気分が最悪だから吐き出させてほしい。
レインボーフラッグ掲げてる一部のファンたちによって、推し(実在している人間)たちを使った、反差別を主張するアンソロジーが発表されてた。
ちなみに本人たちは一切反差別だとか、LGBTだとか、そういった政治的なことは動画内で主張したことない。100%の捏造。
100歩、いや1000歩譲って鍵をかけてくれて身内で楽しんでるならいいのかもしれない……けど、実態は
「フェミニズムを主張した」
と鍵をかけてないオープンなアカウントでする始末。終わってる。何だこれは。
勿論オープンなアカウントで宣伝するものだから、「〇〇はこういう活動をする人なのか」と勘違いされているケースを見られて、収集がつかなくなりはじめている兆しが見える。
その人を推す界隈の大半のファンは、推しは実在している人間で、ちゃんと自分なりの思考をしていて、立場があって、それに基づいて行動した上でやりたいことをやっている、要は画面越しにいるだけで自分たちと変わらないただの人だと理解している(と信じたい)。決して他の人間の主義主張のために利用される着ぐるみではないのだ。
「この人は〇〇な行動を取るから、〇〇な思想だろう!」と勝手に決めつけることは、レインボーフラッグを掲げる彼ら彼女らにとっては人権侵害ではないのだろうか。自分の主義主張が正しければ、他の人(本人やその他のファン)はどうでもいいのか?
それこそ、ヨーロッパでおこった絵画を塗りつぶすような抗議活動と何も変わらないと思う。それとも、ああいった反差別、フェミニズム、そういったことを主張する界隈では極端な行動を取ることを是とされているのだろうか?
もしそうだったとしても、本人がそれを見て「すばらしい!」と思ってくれると考えたのか?本当にそう思うなら、あなたが見ている推しはあくまであなたが作り上げた推しであって、幻であると断言させてほしい。
政治的主張は、どうあがいてもクローズドにはならない。オープンになってしまう。
少し前に、二次元のキャラクターにレインボーフラッグを持たせていた作品が流れて炎上していたが、あれも作品のキャラクターが公式で(公式であったとしてもだが)LGBTQ+に当てはまるわけでもないのにオープンに主張していたからだろう。
少なくとも私は不快だった。あの絵にいるキャラクターは、キャラクターではなく、レインボーフラッグと同等程度のオブジェの一種でしかなかったから。
色々なことを前提として、考えてみてほしい。
Q.〇〇は反差別主義である、と(誤解されかねない)投稿を、数名のファンが行なっていました。さて、〇〇はどうなるでしょうか?
Q.では誤解されないようにするために〇〇はどうすればいいでしょうか?
A.誤解される要因になるものを省かなければならない。
Q.省くというのは?
A.ファンの活動やファンが関わることができるコンテンツを制限する
あくまで一仮説でしかないが、ありえない話ではない。この場合、普通に活動しているだけのファンや本人が結局は尻拭いをしなければいけなくなる。
こんなことがあっていいのだろうか?
健全に活動しているファンは、推すための活動が不自由になる。FAや感想から新規客を呼び込めていた本人も、制限によって不自由にされるのだ。
今挙げたルートとは異なるかもしれないが、いずれにしても「界隈、本人にとっていいことはない」のはお分かりいただけるだろうか。
だから、一部の人は直接「鍵をかけてくれ、本人たちや関係ない人に見せないでくれ」と注意したり、他のファン達も苦言を呈している。みんなそんなことを望まないからだ。
それなのに本人たちは「nmmnルールを守れって、大多数の思考に流されてる自分たちの怖さに気付いたほうがいいよ」といって、スルーしている。ルールを守れということの根底に、本人たちの思想や人権を尊重しろという思いがあることに気付きやしない。
きっとこのまま作品についての投稿を下げることも言及することをやめることもないのだろう。大事になっても。他のファンが巻き込まれても。
本人たちがもしも否としても、きっと張本人たちはこういうだけだろう。
「反差別に反対だなんて。そんな酷い人たちとは思いもしなかった。幻滅した。差別主義者だ」
どうしたらいいんだこんなの。手のつけようがわからない。
誰か助けてくれ。
ながい。ムービーが。
ソシャゲより大手ゲーム会社のコンシューマーをよくやるタイプなんだけど、友人から「コンシューマーみたいに遊びがたくさんあるよ」と言われ続けていた。
とりあえずPC版をやってみたが…
会話が多すぎる!棒伝説ゲームをやっていたノリで来たのがよくなかった。
会話遅い!読むの早いから一定時間たたないとボタン押せないのが辛い。
何やればいいのかわからん。え?マップワンボタンでいけないの?(PS5のコントローラーで遊んでいたんだけど、長押し→↓って面倒じゃね?)
移動はダッシュだけ?すぐスタミナ無くなってしまうが、馬的なものは?あるのか?ないのか?
ストーリーのムービーが長い…傍らでネットサーフィンできるくらいには長い…
さっさとゲームをやらせてくれ…しかも固有名詞やらなんか漢字いっぱいで、意味は分かったが全然頭に入ってこんかった。
いや、これは自分がよくないのかもしれん!
とりあえず半日遊んでみる。
えっと…町に行って、ムービー
戦闘入ったが、なんだこの戦闘?!空中戦突然始まった!終わった!
次は団にいって、ムービー
ようやくダンジョンに行くか…遠いな…走るのかこれ…
終わった。仲間になったが、次はあっちへ…
……
え?また同じ敵?あそう…
また同じ感じのダンジョン…
昔のMMORPGを思い出すな…
MMORGの方がまだ楽しかった気がする…
敵ペチペチペチ……
道中に何かあるわけでもない…
特に代わり映えもしない景色をひたすらスタミナを気にしながら走って…
作業だな、これ…
いや、ガチャ産のキャラを手に入れたら爽快感とか違うかもしれん。
お試しできるからやろう!
……
それだけじゃすぐ飽きるな…
ランク上がってようやく序章第2幕に行ける!
また会話か…
あのショタを追うんだな!この探知全然使ってなかった。もっとどうにか使えないのか?
ムービー長いわ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
改めて大手ゲーム会社のコンシューマーゲームってちゃんと考えられているんだなってわかった。
飽きないように遊びが来て、すぐ自分の手で動かせるように、かつストーリーもすんなりはいりやすくて…
友人はキャラにハマっていたらしいが、序章第2幕の序盤で自分はアンインストールした。
すごく人気だけど、どこがよかったんだろう?自分があわなかっただけか…
キャラゲーって言われているみたいだし、いわゆる好みの子がいなかったのがよくなかったのか?
いや、自分はゲームはキャラというかストーリーとゲーム(遊び)しか考えてないからそもそも合わなかったか…
その一 https://anond.hatelabo.jp/20240318182037
東口の地下に何やら変な駐輪場があるのだが、実はこれは1990年までは地下街であったのだ。出来たのは1960年代のはず。
天井低くてしょぼいし店舗も狭いし店も昭和中期っぽくて古いしで、テコ入れされないままに90年に廃止。
というのも、90年にそごうが出来る事になったので、橋上駅の高さのままにデパートに入れるペデストリアンデッキを築造し、地下じゃなくて上の方で発展させる方向になったのやね。
で、駅の真ん前のデッキの基礎を建てるには地下街通路が邪魔。って事で、通路を閉鎖してデッキ基礎が貫通する形になった。残りの部分は店舗仕切りなどを取っ払って駐輪場へ。
なので一部閉鎖区画があって鉄板や木の板で塞がれているのだ。増田はここにどうにかして侵入できないかを昔から考えているのであった。
ちょっとあるよ。
本来、東アジア反日武装戦線「狼」はお召列車爆破と昭和天皇暗殺を狙っていた。場所は東北本線貨物線荒川鉄橋。
1968年まで赤羽以北の東北本線は貨客混合の複線だったが、輸送力増強の為に複々線化されて貨客分離された。これでお召列車は貨物線を走るようになった。原宿駅のお召列車ホーム自体が山手貨物線に接続されているから。
そうすると、貨物線橋梁爆破しても一般人に危害は与えないという事になる。そこで一味は爆弾設置の為に電線を設置しにいくが、人影があり、付近を徘徊しているので恐れて中止した。
そこで目標を変更して三菱重工爆破事件に至ったというワケ。元の一般人への危害回避はどこに行ったんだ。川口の乗越線はやっぱりこの貨客分離が元だから関係があると言えば関係がある。
wikipediaの虹作戦の項には「爆弾を仕掛けようとしたのは旅客線」と書いてあるが、これは間違いじゃないかと思う。そこは間違えんだろうし、増田が聞いていた話と違う。
東口駅前のそごうはそごう西武グループが売却してゴーストビルのままになってるが、三井が取得する見通しと、去年市議会で報告があった。三井という事はララガーデンとかららなんとかとかららクロフトとかになるのかと思われる。
しかしデパートというのはハイコスト、ハイリターンの業態に合わせた建物で、コストがメチャクチャかかるんだな。それは冷暖房費やエレベーター、エスカレータなどもそうだし、搬入口が狭くて外部の納品代行業者経由で整理して混載で搬入するのでないとパンクするっていうのもある。
だから巨大ダイソー一棟貸しみたいなのなら行けるが、色んなテナントが入って納品代行は使わないっていうのは無理など、難点が多いのだ。
そもそもデパートの損益分岐点って日商4000万円とかそういうレベルなんでショッピングモールなんかに入るテナントと業態が合わないのだ。
だからどうなんのかなと様子見。結局開店が流れちゃう可能性もあるね。
SLあおば通りって道があって、ファミマのSLあおば通り店っていうのもありhttps://maps.app.goo.gl/fWvvCmGbAjvhLPZw6 、道筋にはSLのオブジェとかもある。
でもこれインチキなんだよね。ここに線路があった事ってないんだ。
アリオは元はビール工場で、そこと川口貨物駅の間にユニオンビール専用線という貨物線があった。でもその専用線は現線路に平行していてJRが保線基地に使ってる。
そこでビール工場跡を再開発するにあたり、専用線跡を記念するオブジェを配置したい、でも専用線跡はJRが使ってる…って事で隣の道を指定しちゃったと思われるのね。こういうのは混乱の元だから止めて欲しいですな。
あるね。https://maps.app.goo.gl/dGPVNnEXP6hMg3n26
植物の繁茂で全然読めないが、実は同じものが陸橋の西詰にあるよ。https://maps.app.goo.gl/GNdf7d4UP3eT9aYj7
石碑の内容は、整圃事業の謝辞だよ。戦争中にまだ農地ばかりだった駅付近一帯を碁盤目状に土地の区画整理をして、その協力した地主達を名上げして感謝している。川口は江戸から離れ鋳鉄で栄え舟運で製品を出荷してやがて鉄道が来て~という事を漢文で書いてある。
この区画整理を戦前にやっておいたせいで、戦後に鉄の民需が爆上がりした時に鋳鉄工場が大量に出来て鉄の街となったのだな。
また、最初の碑がある場所というのは実は大踏切があった場所だ。駅の方から来た道が斜めに線路群を渡り、対面の斜めの道に踏切で抜けていた。
でもこれは当然危ないわけで、昭和30年代に埼玉県は荒川~大宮間の踏切を全部立体交差にする工事をしたのだ。それでこの大踏切も廃止になって代わりにこの北の川口陸橋が掛けられた。
因みにこの陸橋の開通セレモニーでは神主が来てお清めしてから神主が渡り初めをしているのが写真に残っている。
だから王子から赤羽には踏切が幾つか残っているのにその北の大宮には踏切が無いのだ。
多分西詰の石碑は元は大踏切の反対側にあったのがこの時に移動されたのではと思う。
タワマンというのは住宅地には建てられないの。日影規制もあるし、日照権も主張できるからあとから訴訟になる。
でも商業地や工業地ではそれらは主張できない。だから工業地帯から転換した地域はタワマンに最適というか、それ以外では建築が難しいの。
更にタワマンには建物の周りに公開空地を設けないとイケないのだが、「大規模な町工場」というのはこれで必要とされる広さに丁度いいのだ。
そういう訳で、川口にある〇〇製鉄、○○鋳造なんて名前の会社は、多くがもう工場を持ってないか縮小して他所に移転していて、不動産業メインの会社ばかりになってる。
日本初のタワマンは川口元郷のエルザタワー32なんだけど、ここは日本ピストンリングというエンジン部品を造っていた会社の工場だったところ。
因みにピストンリングは昔は鋳鉄を丸く繰り抜いたものが使われていた。鋳鉄には細かな穴が沢山あるのでここにオイルを保持して焼付き防止になっていたのだ。って事でやはり川口なので鋳鉄なのだ。
その丸井が閉店になって共同所有になり、ビるの愛称を決めた。もとが0101だから1110って訳でシャレや。
駅西口から徒歩7分くらいの所に飯塚氷川神社という神社がある。https://maps.app.goo.gl/fKh6qXTZGCNTYGRE9
ここだが、境内に結構古い社務所があるのだが、なんとこの社務所、選挙の投票所に指定されている。中は畳と板張りなんだが、そこに土足で入れるようにシートを敷いて投票箱と記帳所を置いて公職選挙が行われる。
すげえ田舎や離島で神社が投票所というのはあるだろうが、東京都境から徒歩10分、駅で一駅のタワマン林立地帯でこんな投票所があるというのは珍しいんじゃないか?
好事家の皆さんは選挙の日に覗きに来てはどうだろうか?
何?じゃなくて教習所や。元々地産グループの教習所だったが、グループ首魁が逮捕された影響で元会社が倒産、売りに出されて飛鳥ドライビングカレッジとなっている。
ここだが、ちさん時代から教習料が安いのが特長。都心から近いのに首都圏で一番安いという穴場なんだな。免許取りたい人はイイゾーここ。
因みに2019年台風19号の増水ではコースが7mの泥水の底になって、後にはコースも見えない泥の沼が残り、教員たち総出で泣き泣き泥かきをしたそうだ。
今年に入ってからクソ忙しかった仕事の方が一段落したので、1週間ほど休暇をとって台湾に行ってきた。
コロナで3年の間、旅行もままならなくなって、今年に入って落ち着いてからも国内旅行に留まっていた。
いい歳した独り身のおっさんなので「海外旅行なんぞしてる場合か」という気持ちもあったし、国内旅行も高松、郡上八幡、秩父と行って十分楽しめたので、億劫な準備が必要な海外旅行までする必要あるのかと思ったけど、コロナの間で英語学習を初めて、2年半でフィリピン人講師とも多少の日常会話はできるようになったし、今行かないともう海外に出なくなるかもしれないなと思ったので、思い切って行くことにした。
結果的には予想外のやらかしでトラブったりもしたけど、行って良かった。
旅程は 羽田→台北→高雄(2泊)→台北(2泊)→上海→(トランジット)→成田 4泊5日。
台湾にいってまず気づいたのが、街でマスクをしている人の多さ。
日本でも欧米に比べてコロナの封じ込めが比較的上手くいったため、自然免疫の形成が遅れたという話があったが、日本以上にコロナを封じ込めた台湾では、まだコロナは過去の話にはなってないようだった。
台湾新幹線は旅行者向けの乗り放題パスというのを発行していて、特定の3日を1万円あまりで乗り放題になる。
台北駅から高雄の最寄りの左英駅は片道で7,000円あまりかかるので、往復するならすでにこちらの方が安い。
このパスには大いに助けられた。
地下鉄やバスもタッチで乗れるし、コンビニなどでも決済できるので非常に便利だ。
台湾はコンビニ飯も十分美味いし、暑いのでとにかく良くお茶を飲む。
台湾の旅行者は6割以上は台北に行くと思うけど、高雄は非常に近代的な台北とは別の良さがある。
台北でもときどきそうなのだけど、飼い犬でもリードに繋ぐ習慣がないらしく、首輪のない犬がおじさんやおばさんの横で寝そべってたり、道をトコトコ歩いていたりする。
高雄では駁二芸術特区という倉庫街を改装したアート特区にいった。
ここは芸術がいまいちわからない人でもちょっと行ってみた方がいい。
街のゴチャゴチャしたノイズの中ではなく、青い空と遠くに山を望む景観の中に建つ巨大なロボや工事現場の作業員のオブジェは異様な存在感がある。
オブジェ系はわからなかったんだけど、あれは「どこにあるか」も重要なのだと思った。
莊記六合海產粥という屋台が夜市の入り口にあるのだが、入り口だから観光客向けで本当にいい店は中に入って探した方がいいということもなく、素直にここで食べるのが正解らしい。
海鮮粥(ハイシェンジョー)、またはシーフードポリッジといえば出てくる。
中にはエビ、イカ、牡蠣、蛤、虱目魚(サバヒー・日本ではあまり食べられてない魚で、火を通すとマグロをあっさりさせたような味と食感がある)などがゴロゴロと入って、生姜の効いた旨味たっぷりのお粥を食べられた。
旅の後半には新幹線で台北に戻ったのだが、台北のホテルにチェックインした後で、財布をおとしてしまったことに気づき、寒気がした。
ホテルの人に問い合わせると、高雄でよった丹丹バーガーに財布があることがすぐにわかり、翌日新幹線でもうひと往復することに。
結構なエマージェンシーシチュエーションだけど、英語をやっていて良かった。
トラブルで2往復を強いられた台北・高雄間だけど、車窓から見る台湾の緑の山や青い空、田園風景は圧倒的なものがある。
台北に戻ってからは、台北中心街から片道30分ほどの北投温泉に向かい、日本の銭湯風の瀧乃湯浴室に行った。
銭湯風とはいっても、別府の公衆浴場のように、脱衣所と浴室に扉がなく半分繋がっているようなワイルドな作りで、中も簡単な洗い場と浴室が2つだけ。
その温度設定もぬる湯が43℃、熱湯が46℃というパンチのあるもので、地元のおっちゃんが水筒を持ち込んで茹で上がっていた。
北投には日本風家屋の温泉博物館や、別府の地獄谷のように源泉が湧き出す地熱谷などもあり、思いのほか楽しめた。
水着があれば公衆露天風呂なども入れるので、(銭湯風は全裸の日本スタイル)持っていくといいと思う。
台北の夕食は寧夏夜市の圓環邊蚵仔煎で、牡蠣オムレツと蛤のスープをいただいた。
コロナで夜市の飲食業はかなりの危機の陥ったと聞く台湾だったけど、寧夏夜市はまっすぐ歩けないほどの大混雑で、圓環邊蚵仔煎は6年前より行列が長くなっていた。
外食文化の台湾では、特に若い人たちは夜市で連んで夕食を取る。
11月でも暖かい夜のストリートでテーブルを囲んで食事をしている風景は、自然とは違う人の営みの美しさがある。
台湾は街を歩いていても自分達の島に対する愛着のようなものが感じられて、その空気が気持ちいい。
ホテルの人がトラブルにも真面目に対応してくれたり、財布の中に一切手がつけられずにもどってきたりと人もいい。
中国本土を悪くいう意図は持ってないのだが、トランジットで寄った上海で入国審査の異様な厳重さと非効率性を見ていると、社会に不信感に立脚した緊張感が感じられ、悪く言えばユルい、よく言えば人々を信頼している台湾の空気が心地よく感じられた。
財布の件で余計なひと往復があったので、いくつかの予定を諦めざるを得なかったので、もう一度行きたい。
「辺野古移設反対のオブジェ、米兵が破壊 米軍が補償金660円を提示」
ブコメのひどい事、ひどい事。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASR9Q6S66R9QUTIL015.html
他人の敷地内にオブジェを置くな、という趣旨のトップコメントが並んでいるけれど、ブコメを書いた人もスターをつけた人も記事をちゃんと読んだのか?記事にこう書いてあるだろ?
つまり、(普通は基地との境界線だと認識する)基地フェンスの外にオブジェを置いたら、実は敷地内にあたっていて、翌日境界線が引かれたという話。
ちょっと前に「井戸を埋めるときにパイプを通しておかないと祟りが起こる」みたいなオカルトまとめがちょっと話題になってたけど、それに関連して今の仕事で悩んでいることがある。
リフォームの会社に勤めているんだが、やや高齢のお客さんが「電磁波有害説」を最近信じ始めてしまったようで、オール電化の予定だったが急遽ガスに変更したり、炊飯器もガス炊飯器にしたいとかの変更がでた。
今のところ変更自体は別にいいんだけど、この前打ち合わせにお家に行ったら珍妙な機械(説明が難しいんだけどでっかい円錐形の金属が上下についてるオブジェみたいなやつから線が出ていて、白い陶器製?っぽい丸いなにかに繋がってる)が置いてあって、嫌な予感がして調べたらやっぱり高価な電磁波対策機器だった。
そこのホームページには要領を得ない説明と、電磁場測定器を使っても変化が無いことへの言い訳が赤文字で書かれているようなもうカスッカスの詐欺商品だ。
で、最近また壁に電線を埋め込まないで欲しい(これは普通に無理)とか、コンセント全部にアースを付けてほしいとかのリクエストが増えてきた。
ちょっとずつコストが上がるような要望が出るにつれ、自分が詐欺に加担しているような嫌な気分になる(実際、工事費が上がれば比例して儲けも増えるわけだし)
でも風水に従って変な位置にトイレ付けて余計に工事費がかかるくらいのことなら普通にあるわけで、それと何が違うのか?それで施主が満足するなら別にいいじゃないか。とも思う。
俺はべつに電磁波の専門家でもないし、お客さんを安心させられるような化学的に正しい説明も出来ない。
そんな中途半端な人間がお客さんの信心を中途半端に否定しても悲劇しか起きないだろうということもわかっている。
でも同時に目の前で明らかな詐欺に引っかかろうとしている人を放っておくのは人倫に悖るとも思う。
もし騙されているのが自分の親なら徹底的に調べて言葉を尽くして説明して止めると思う。
どうしたらいいだろう。いや、どうすることも出来ないんだけど。
元々電磁波有害説にハマってる人として出会っていたらこんなに葛藤しなかったと思う。
知り合ってから徐々にハマり始めたのを目撃しているからこんなに嫌な気持ちになるんだな。
打合せに行くたびに野菜とかお菓子を持たせてくれるようなひとなんだよな。
底なし沼に沈んて行く人を黙ってみているような気分だ。