はてなキーワード: 風土とは
最近よく身内から肯定的に評価されるので思うところを書く.多分オチや結論はない.雑記.
ここで身内というのは親族というより内輪の仲間と言えるような相手だが,
大学の研究室の教授とかも含むので公的な関係でも身内と思ってる(これは自分がボスと仲良いからだが).
自分の専門は機械学習で,友人とかラボゼミとかの間ではかなり詳しい方に分類されると思う.
実際いろいろ教えたりコメントしたりで良好にコミュニケーションして関係を築いているし,
前述したような師匠や友人からの評価を雑に丸めると,僕は機械学習できる人といったところだ.
一方,会社での仕事はデータ分析で,これは普通に回している感じ.
特に会社で高評価されている印象は全くない,むしろ嫌われているきらいもある.
こうなると,人間は信じたいものを信じてしまうので身内からの肯定を高い信頼度の情報として受け取り,
会社では(不当に?)評価が低くて不満を感じる,という心情になってくる.
ただ,身内以外でも,機械学習系の解説資料がネットでなかなかにバズったり,学会でしか会わないような人からも上々に評価されている.
ある程度客観視された場合でも,自分を優秀層として認知する人がかなりいるということになる.
うちの会社は学術活動にもかなり前向きで,会社のHPには社員の発表実績リストとしてずらーっと学会発表や論文掲載結果などがリスティングされている.
決して学会活動がメインだから評価が低くなるという風土ではないはず.
この状態がしばらく続いており,日に日にイライラが募っていく.自己評価に見合った待遇を受けれていないと.
現在の年収に絶対値として大きな不満はないが,同じ業界かつ近い職種で自分より優秀でない人が自分の1.5倍も年収があると思うと本当に腹が立ってくる.
LinkedINや個人ポートフォリオサイトからの経由でリクルータから簡単な声かけはよく貰うものの,そんなにマッチングした案件が来ている気もしない.
いったいどうすればいいのか.まずそもそも自己評価が過剰に高いとは考えにくいのだが,会社や市場からの評価が正確とも思えない.
仮に自己評価の方が過剰に高いとして,外様からの評価と自己評価や身内からの評価との乖離について,人はどうやって折り合いをつけるのだろうか.
売上1兆円の財閥系某企業に勤めてるのは知ってたが、つい最近専務だと判明。
大金持ちやんけと思って庶民目線の色々な疑問をぶつけてみたけど夢が壊れた。
Q.叔父さんと同じように偉い人って港区のタワマンとか世田谷の豪邸に住んでるもんなの?叔父さんも住もうと思えば住めたの?
A.他の人はわからんけど、自分の場合そんな家買ったら破産する。30歳の時に25年ローンで買ったあの船橋の一戸建てが身の程。墨田区の庭なし一戸建ても候補に入れてたけどそれでも買ったら生活維持出来なくなると思ったから断念した。
Q.1000万円の車とか買っても生活水準変わらない?
A.そんなん買ったら生活めちゃくちゃになる。今の車を新車500万で買う時も相当無理したと落ち込んだ。だから11万キロ超えてもまだ廃車にしてない。
A.無理。社長は運転手付きの社用車で通勤してるけど。周りの役員はたまにタクシー通勤してる感じ。俺は無理。
Q.マスコミ大手の偉い人はなんで都心に住んで別荘買ったり派手な生活できるのか?
Q.権力ある?松本清張作品の登場人物みたいに愛人作ってマンション贈与するような財力ある?
A.権力はない。人望も多分ない。老後の蓄えはある。
Q.なんで出世できたの?
A.運が7割。子供が出来たとき「このままの働き方だと家族に金で苦労させる」とハッと気づいて死ぬ気で働いた、それが残り要因3割。
Q.周りの偉い人は超人揃い?
A.全くもって普通の人しかいない。みんなそこらへんのオジサン。超人ってサラリーマン人生歩むかあ?
Q.会社の若手をどう思う?
A.優秀に見える。自分の世代の若手は上司に反抗したり不貞腐れた態度取ったり、喫茶店でサボったりそういうのが普通だった。
Q.やっぱり自分は同期のなかで有能な部類にいたと思う?
A.全く思わない。仕事は元々嫌いだし、昔から今まで労働に向いてない体質なのは変わらない。
Q.引退したらなにやりたい?
私:これまでずっとpixivだけに絵を上げてて、それこそ数千ブクマは当たり前、誕壁配置もあるような絵師だったんだけど、去年昔馴染みのオタク友だちがみんな別ジャンルに散ってしまったことをきっかけに「ネットでも友達を作るぞ!」と発起してTwitterを始めた。
で、実際どうでも良いリプはめちゃくちゃくる。
ネット友達がほしくて始めたのでフォローしてくれた人みんなにフォローを返したのだが、そこで何十件ときたご挨拶リプを返すのにまず死ぬほど苦心した。コピペしか言えない。
コーヒー零して大惨事(笑)、みたいなツイートにも別に親しくもない奴から「大丈夫ですか💦やけどされてませんか💦」みたいなガチトーンの心配リプが届くので何も言えない。
なのでこれも凄いわかる。たいてい一方的にチヤホヤされて困惑することが多い。それが同じ投稿に2人も3人も似たようなリプライをぶら下げてくる。
感覚的に近いのは焼きマシュマロに「大変でしたね〜」とかってついてる慰めリプの山。
会話する気があるならまだ全然良いんだけど、一方的にほんと「会話の応酬をすることが目的」みたいなリプって本当に返しづらいんだよな。勘弁してほしい。これで最後だ!と思って「ありがとうございました〜」ってつけてもこの手の会話は引き延ばされる傾向にあり、地獄。
自意識過剰と思われてももはや良いんだが、もう絵師と仲良くなりたいんだろうなあ・絵師の特別なポジになりたいんだろうなあって感じがあけすけすぎて流石に引く。
あと1日に2〜3ツイートしかしないのに、こっちの返信も待たずに違うツイートにそれぞれリプしてくる人なんかもう返す気がなくなる。
で、どうしてこんな凄惨なことが起こるかって言うとコミュニティの平均(精神)年齢が低いってのはまさにその通りで、実際中の人はみんな中高生くらいなんだろうなあと思う。それはもうしょうがない。推してるジャンルの年齢層が低いことは単純にターゲティングの問題だから何が悪いとかって土俵の話じゃない。
今切望しているのは、じゃあどうやったら同じ低年齢向けのジャンル内において、自分と同じくらいの年代の人と繋がるかってことだ。
が、これはもうほんとリアルイベントで挨拶に行って相手の服装やノリを確認し、自分が仲良くしたいと思えるかどうか意外にない。なぜなら落ち着きのあるTwitterユーザーは自発的にこちらのどうでも良い投稿に反応してきたりしないからだ。求めている反応はそれなのだが。
以下はただ書いて成仏させるためのお愚痴だからお前らはもう読まないで良いんだけど、
・それにリプライやら引リツで反応する奴
もう〜〜〜全員むり無理無理!!!!って感じで見かけた瞬間即ミュートしちゃうよね。
日々少しずつTLが浄化されてることを信じたいよ。
ちなみに元増田が指摘されてたことだけど、これは腐女子の界隈の話に限らずもうTwitter全体の低年齢層の女性が集まるコミュニティにありがちな風土の話だから安心してほしい。
実際にオタク/絵師以外の用途でツイッターアカウントが七個あるんだけどどこでも中高生女子が集まったら必然的にそうなる。
彼女らはスクールカーストの動乱に生きてるから、Twitterで見つけた「憧れ」っぽい人に尻尾ふってしまうのは本能レベルで刻み込まれている行動であり、もうしょうがないことなんだと割り切るしかない。
はてブではほぼ無風。女性の少なさを改めて感じつつ、暇なのでツッコミを入れていってみる。
キャンペーンサイト: https://www.kao.co.jp/laurier/kosei-ful_2020cp/
誰かが生理で休んだとき、 「お大事に」って口では言ったけれど、
心のどこかでは「生理で休むなんて…」と
思ってしまうことがあったり。
“生理は一人ひとり違う”
リアルだったりする。
けれど、その違いを 受け入れ合うことができれば。
違いを“個性”ととらえることができれば。
今まで見えなかったことに気がつけたり、
そっとフォローしあえたり、
_人人人人人人人人人人人人人人_
> 突然の宝石ジェネレーター <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
A. 10人中6人が休まないと回答。休む、休まないの回答のどちらにも「生理なんかで休むなんてと思われそう」という類の回答あり
Q.5 生理痛がしんどそうな後輩に薬を渡したら断られた。あなたはどう思う?
A. 回答はもはやどうでもいいので割愛
生理は「一人ひとり違う」と思うようになった
NO 14%
YES 79%
NO 21%
生理でツラい思いをしている同僚がいたらフォローしたいと思うようになった
YES 88%
NO 12%
10人中何人のところ、増田が勝手に内容をまとめたものをアンサーとして書いていたことを追記しました。個別の回答を非難したいわけではなく、全体としてこういう価値観を公開できてしまう社風なりキャンペーンコンセプト自体に問題を感じているためです
思いのほか反応があったので追記する。
「生理には個人差があるのを理解しようっていう事自体はいいじゃん」という意見が多いように見受けられた。
ただ、ブコメにもあったけれど、このキャンペーンがこんなに反発を食らっているのは、ちょうど韓国の生理用品のCMが話題になっていたタイミングだからだと思う。
生理の日でもアクティブに過ごそう!というよくあるキラキライメージをぶち壊し、休んでいい、頑張らなくていいというメッセージ性が支持されている。
https://twitter.com/still_bambi/status/1285242450076823552
それから、これも先月頃に話題になっていた「街で初めて生理が来た女の子を見つけたら?」という社会実験の動画。増田はこれを見てちょっと泣いた。
韓国: https://twitter.com/danielx1210/status/1294954040762146816
中国: https://twitter.com/massy_ayoumi/status/1295526705088434178
こういうCMが作られ話題になっている中で、今回のロリエのキャンペーンのメッセージ「生理は個性」「女性同士、違いを個性として受け入れればもっと気持ちよく助け合える」は残念ながら周回遅れだと言わざるを得ないと感じた。
「個性=個人差なのでおかしいと感じない」「言葉狩りでは?」と感じた人もいるようだった。
一方で、私を含め「生理は個性」というワードに違和感を覚えた人の多くは、個性という言葉にポジティブ、あるいは楽観的な印象を受けたり、「障害は個性」という表現を連想したりしているようだ。
これは主観だが、「個性」には「ありのままでいい」という意味を感じ、もっと言ってしまえば「改善する必要はない」「そのままうまくやろう」という意味合いさえ感じてしまう。
生理の重さや症状は確かに一人ひとり異なるもので、自分を構成する一要素ではある。けれど、私は、それを自分の個性だとは思わない。
汚い例えで恐縮だが、例えば下痢は病気ではないが、下痢になりやすい体質、全く下痢にならないなど、一人ひとり下痢との向き合い方は違う。自分が下痢になりやすい体質だったときに、それがあなたの個性だよ!と言われて、どうしろというのだろうか?
そんなに下痢するならこういう市販薬があるよ、おむつもあるよ、もっと辛かったら病院へ行ってみよう。そういった建設的なメッセージもなく、下痢体質がキラキラした宝石に化けて、なにが嬉しいのだろうか?
そんな呆れにも近い読後感が炎上の源泉になっていると思う。
重すぎる生理は子宮内膜症や月経困難症などの病気の場合もある。だからこそ、キラキラの宝石でごまかさずに「これくらいの症状があったら一度病院に行ってみて」って言うべきだったと思う。
そういった具体的な解決策を何も示さず「生理が重いのも軽いのも個性だからお互い受け入れて助け合おうね。に終始するキャンペーンは、令和の世の中には軽率と取られても仕方ないのではないか。
こういう素朴な考えをひた隠しにし続けるのは、「生理休暇を軽視する人がそこかしこにいるって現実は無視します」ってメッセージになってしまう。たしかに若い人たちの意識は向上しているだろうけど、花王でさえもまだこのレベルなのかって話であって、花王が突出してヒドイって証拠はない。社会の現状に目をつぶって理想論に浸っていては、改善の足取りは重い。
花王が突出してヒドイとは思っていないし書いてもいない。単純に、「花王でさえもまだこのレベルなのか」という部分に呆れている。まあ、隠さなかったのは良いことだったのかもしれない。
社会全体でのアンケート結果だったら、むしろよく分かる話だった。でも、社内で起きていることなら、改善できるはずじゃん?
私が期待していたのは、「社内ではこのような考えがあった。生理用品を手掛けるメーカーとして相互理解は不可欠と考えて、まずは自分たちからこのような施策を行ってみた(たとえば生理休暇取得状況の実態調査だとか、制度化&取得推進だとか)。まだまだ浸透に時間はかかりそうだがこれからも続けていく」みたいな話だったのかもな、と思った。
追記終わり。
……という話になるはずなのに、女性BL研究者がハル・ベリーの降板を支持してるのが謎すぎるんだよな。
「大炎上」を受け……ハル・ベリーのトランス役降板は、行き過ぎたポリコレか? | 文春オンライン
これは、トランス役にトランスジェンダーの俳優をキャスティングしたっていう話じゃなくて、トランス役に決まってたシスジェンダーの俳優を引きずり下ろしたって話だよね。
私は、トランスジェンダーの俳優にシスジェンダー役を演じる権利と資格があるのと同様にシスジェンダーの俳優にもトランスジェンダー役を演じる権利と資格があるはずだと思うので、本質的な演技力に欠けるとかの話であればともかく、シスジェンダーであるというだけの理由でハル・ベリーが引きずり下ろされたのは間違っていると思う。仮にトランスジェンダーの俳優の雇用機会を尊重するにしても、それは新作映画に積極的にトランス俳優を起用していくとかのやり方であるべきで、一旦は内定していたシスジェンダーの俳優を引きずり下ろすのはどう考えてもおかしい。
でもまあ百歩譲って、シスジェンダーであるという理由でハル・ベリーがトランスジェンダー役から引きずり下ろされたのは正しいとしましょう。
BL作家のすごいところは、ゲイの人に気を遣ってとか、ゲイの人に一生懸命たくさん取材をして、というわけではない人がほとんどで、自分たちの楽しみを追求しているだけ、という人が多いのに、それでも、リアルなゲイの方から見て、ポリティカリーにコレクトな表現にたどり着いている人が大勢いることです。
「トランスジェンダー役に決まったシスジェンダーの俳優を引きずり下ろす」ことを肯定した人が、女性文化としてのBLを肯定するのは意味不明すぎる。当然、ゲイではないどころかそもそも男ではないBL作家は全員引きずり下ろせと主張しなければ筋が通らないだろう。
いや、「当事者じゃないやつが当事者の役をするな」っていう主張はそういう結論を帰結するんじゃないんですか?
映画のトランス役はトランスの役者じゃないとポリコレじゃないけどBLは女が書いててもポリコレ、なんて理屈が通るわけないでしょ。
当事者の役は当事者がやるべきだ、というのはひとつの主義であり、私にはまったく賛同できないけど、それを一貫して主張するのであれば賛否はともかくとして立派な態度だと思う。でも、同じ口で当事者じゃない人が書いてる創作を称揚するのはダブルスタンダードってやつだろう。
私は、演技や創作に当事者性は必ずしも必要ではないと思う。低い声を出せるのなら女性声優が男性キャラを演じてもよいし、高音を出せるのなら女性キャラクタを男性声優が演じてもよいし、同性愛者の俳優が異性愛者を演じてもよいし、黒人声優が白人キャラに声を当ててもよいし、日系アメリカ人が中国を舞台にした映画で主役を演じてもよいし、第442連隊のドラマに中国人をキャスティングしてもよいし、男性作家が百合小説を書いてもよいし、女性作家がBL漫画を描いてもよい。だから当然、ハル・ベリーにもトランスジェンダーの人物を演じる権利があるはずだ。
でも、ハル・ベリーは引きずり下ろされた。
それを支持するのなら、当然、自分の好きなジャンルでも同じことを支持してなきゃおかしいはずですよね?
他人に行き過ぎたポリコレを押し付けておいて、自分には適用しないなんて都合のいい話が通用するはずないでしょう。
先月のBLポリコレ問題もそうだったけど、女性文化としてのBLとポリコレは根本的に相容れないのに、ポリコレを推進する女性のBLファンが大勢いるのは本当に謎。自分の作品の中でポリコレに気を使っているだけならとやかく言うことじゃないけど、他ジャンルにポリコレで火を付けてまわっているのはいったい何なんだろう。他ジャンルがポリコレじゃなくても放っておきなよ、あんたの好きなジャンルだってポリコレじゃないんだからさ。ポリコレじゃない創作をしている者同士、仲良くポリコレの押し付けに抵抗しようぜ。
BLというのは、女性にとって性のファンタジーなので、リアルな社会とは全く無関係なんですよ。
「トランスジェンダー役に決まったシスジェンダーの俳優を引きずり下ろす」というのは、リアルな社会問題を扱っているので、全く別。
「これはマイノリティを扱ってはいるけどあくまでもマジョリティにとってのファンタジーだから実際のマイノリティとは無関係」なんて理屈、ポリコレ的にはアウトに決まっとるやんけ。
いや、ワイは「BLは女性にとってのファンタジー」でいいと思うよ。「ジャンプのお色気セクハラ描写も男性にとってのファンタジー」なわけだし、当事者の人たちがBLに対して「こんなゲイはいねえよ」って思ったとしても、それは女性が男性向け作品に対して「こんな女いねえよ」って思うのと同じだよね。消費なんてのは多かれ少なかれそういう要素があるんじゃないですか。そこに文句つけるのは野暮ってもんよ。
でもそれはポリティカリー・コレクトな態度じゃないよね。マイノリティの表象をマジョリティが好き勝手に消費するのはよくない、というのがポリコレなんだから、BLが女性のファンタジーであればあるほどポリコレ的観点からは否定されるべき対象にしかならないでしょ。
女性文化としてのBLとポリティカル・コレクトネスは水と油なんで、どっち捨ててどっち守るか選んでくださいね。個人的にはポリコレ捨てるのがオススメだけど、BL捨てるっていうなら止めないよ。
それトランス俳優の活躍の場が非トランスに奪われてるのはおかしい、っていうのがまずありきだろ
なおポリコレ先進国では「シスジェンダー女性がゲイを主人公にした小説を書くことは当事者から機会を奪っている」という理論に基づいて女性小説家が叩かれている模様。
そんな遅れた認識でポリコレについて論じてたの? ちゃんと認識をグローバル水準にまでアップデートしてね! そんな認識じゃガラパゴスすぎるよ!
まあ普通に考えたらこんなの言いがかりでしかないけど、ポリティカル・コレクトネスの理路からいえばこうなっちゃうんだから、ポリコレを支持するなら女性作家がBL書くのは問題視されなきゃおかしいんじゃないですか。ワイは「こんな結論が導かれるポリコレは根本的に間違っている」って思うけど、日本のガラパゴス表現を批判しグローバル水準を崇め奉るポリコレ支持者の皆さんは当然この結論にも賛同するんですよね?
メキシコ移民を題材にした小説『夕陽の道を北へゆけ』について、作家が縁もゆかりもない白人で文化盗用だと批判されている( https://www.newsweekjapan.jp/watanabe/2020/08/post-68.php )ので、文芸も批判の対象にはなりうると思う
綿密にリサーチしてリアリティに凝っても当事者じゃないとポリティカリーにコレクトじゃない扱いされるのどうかしてるけど、こういうイカれた状況が現代ポリコレの最先端なんだから、日本のカルチャーはポリコレを取り入れてアップデートすべきと主張する向きにおかれてはぜひぜひ有言実行で最先端のポリコレを取り入れてくださいねとしか言えない。ワイはこんなのついてけねえって思うからポリコレに敵対するけどな!
少年ジャンプ編集部に腐女子の女性が入り込もうとしてた件も、要するに男性文化の簒奪なので、女性は女性の文化を自力で作ってほしい。女性主人公で自立したフェミ的、ポリコレ的価値観の作品を……。
一応言っとくと、ワイは「ポリコレを支持するならBLはアウトでしょ」と言ってるのであって、「BLはダメ」とも言ってないし「男性文化を簒奪するな」とも言ってないで。あくまでポリコレと女性文化としてのBLは相容れないって言ってるだけ。当然ワイはアンチポリコレ派なのでBLも自重せずどんどんやれ派です。
ポリコレ派腐女子は、まあ、うん、政治的信条に従って趣味捨てるか趣味に操を立てて政治的に転向するか、好きな方選べばいいんじゃない? そんなのはあくまで腐女子の中のごく一部、ノイジーマイノリティなんだろうし。……ノイジーマイノリティだよね?
該当記事、トランスの身体性はシスに再現不可能と断言してるのも悪手だと思う/てか何故それこそ当事者じゃなくBL研究家の人が書いたの?/日本腐ェミが連帯しようと言ってた韓国フェミも最近は「脱BL」掲げてるよね
トランスの身体性はシスには再現不可能論、つまりトランスとシスの違いは服を着て演技していてもわかる、見分けがつく、という話だから、それを特定の属性の排除の口実に使うのはトランス女性は女子トイレに入るなって言ってる人たちと半歩くらいの距離しかなくない? って思うし、その論理で言うなら当然トランスはシス役を演じることもNG、シス役はシスの俳優に、という結論になっちゃうよね……。
韓国のフェミニズムを持ち上げてたら脱BLの動きが始まってて頭抱えてるのは草しか生えない。結局、アメリカのポリコレは所詮「アメリカのポリコレ」であり、韓国のフェミニズムも所詮「韓国のフェミニズム」に過ぎないのであって、日本の文化風土に適してないんだよね。そこは日本風に換骨奪胎しようとする試行錯誤が必要なはずだったのに出羽守ムーヴを決めちゃうから外国の動向に振り回されることになる。本当に大事なのは日本社会で生きる我々がいかに自由で主体性を保っていられるかという点なのに……。
実際、これがスタンダードになったらおっさんずラブみたいなドラマはガチのゲイにやらせなきゃいかんようになって成り立たないよね。そんなんカミングアウトしたくないだろうし。
トランスの役はトランスの俳優に、と書いた同じ記事で『his』はゲイへのエンパワメントとか書いてあるのは意味不明すぎるよね。宮沢氷魚ってカミングアウトしてたの? 知らなかったなぁ(棒読み)。COしてない俳優が出演しててもエンパワメントになるならシス俳優が演じててもエンパワメントになるやんけ。別々の記事ならともかく同じ記事でこんなダイレクトに矛盾してるのはちょっと……
それはずれた論点に感じられる。生み出すものが完全に虚構か、実際の肉体を持った人間を利用したものか、は受け手に大きな差があると思うんだけど。この論理だと男性百合作家もダメだよね。
「当事者の機会を奪う」が論点になってるんだから完全な虚構か実際の肉体かなんて些細な違いでしかないし、ちゃんと小説が問題視された例も提示してるのに読めない?
「この論理だと男性百合作家もダメだよね」って言われても、うん、そういう帰結になるからおじちゃんはポリコレに反対してますって話をしてるので……え? まさかワイがポリコレBL規制派だと思ってるの? 読解力ぅ~~~~~~~~~
非当事者がマイノリティを主役にしたものを作るなって言われてるんだから、当然、ポリコレの観点からはそもそも女がBLを書くこと自体がけしからんという結論になるんじゃないですか。
……っていう話をしてるんですがマジで通じてないの? 読解力やべえな! これもう賛成反対どうこう以前の問題でしょ……
そもそも論として、炎上したから慌てて引っ込めた的な話をあまりロジカルな文脈に出すのは双方良くない気がする。 / だんだん語調が強くなりすぎてBL全体を委縮させる意図でもあるのと増田に聞いてみたくもなる。
BLは別に萎縮する必要はなーんもないし好きなだけ男どうしの性愛を描けばいいと思うんだけど、ポリコレを掲げて他ジャンルにイチャモンつけてまわってるごくごく一部のBLファンの活動については存分に萎縮すればいいと思うよ。キズナアイNHK特番とか宇崎ちゃん献血ポスターとかラブライブ皺ポスターとかの昨今の男性向けコンテンツの炎上事案、どれも腐女子兼フェミニストの人たちが中心になって暴れ回ってたよね?
「BLはちっともポリコレじゃない」「ゆえに腐女子は他ジャンルのポリティカリー・インコレクトな描写に文句を言う資格はない」の2点がコモンセンスになってほしいなぁ、というだけ。どうしても他人をポリコレ棒で殴りたければ腐女子をやめてからにしようね。もちろんポリコレ派じゃない大多数の腐女子に対しては何も文句ないっすよ。存分に男どうしの愛を創作して楽しめばええねん。
「お前の理路を敷衍するとこうなるよな?」という話が「たとえ話」に見える人間、議論に向いてなさそう。
それを認めると、創作物かけないじゃん
大学入試の現代文、あまりにも簡単すぎて足切りとしての意味あるの? って正直疑問だったんだけど、なるほど足切りとしてはあのくらいのラインがちょうどいいんだろうなあってこういうブクマ米見る度に実感しますね……
とある場末の喫茶店。分煙化の潮流が激しくなる中、そこは地元の喫煙家にとって未だ憩いの場であり続けた。
しかし、にわか雨に嫌われた市長が、その店に緊急避難したことで事態は急変する。コーヒーよりもケムリが優先された空間に市長は眉をひそめた。嫌煙家ほどタバコに暗い情念を抱いてはいない。それでも健全であろうとする身の上が、「何か言っておかなければ」という衝動へ駆り立てた。
そんな市長に対し、店内の空気は冷ややかであった。その店を利用している客たちは普段“わきまえている”者が多く、それぞれ喫煙について一家言ありつつも享受している集まりだ。対して、市長の意見はあまりにも周回遅れだった。ウンザリした客たちは、この場において自分たちの喫煙が正当な権利であると主張することにした。それに加えて、市長の展開する議論が如何に古くさく、偏狭に満ちているかも指摘したのである。
論理武装を整えている数名と、杓子定規な竹輪しか持っていない市長。どちらが煙に巻かれるかは火を見るよりも明らかだった。タバコ一本が吸殻になる間もなく、市長は逃げるように店から出て行った。こうして店内は以前の雰囲気を取り戻したが、所詮これがピュロスの勝利でしかないことを彼らは分かっていた。
それからしばらくして、この町に「禁煙法」が制定された。つまりタバコの全面禁止である。何とも極端な政策だと思うかもしれないが、市長のやることとしては日常茶飯事の範疇である。市長は善良で行動力のある為政者で有名だが、同時に無能で単純な政治屋としても有名だ。
地元の風土も考えず風力発電所を作ったり、「足が不自由な人を抑圧する」として公共での二足歩行を禁じたこともある。そんな市長を椅子に座らせ続けているのは自分たちなのだから、この程度で驚くようでは市民は務まらない(言い訳させてもらうなら、候補の中でこの人が一番マシだったんだよ)。
それに今回の場合、一般人たちの反応は概ね好意的といえた。なにせ自分たちの世代はタバコの有害性について耳たこレベルで教え込まれている。公共での分煙化も推し進められている真っ只中だったので、喫煙というものに社会的な有意性も、政治的な優位性もないと考えるのは自然の摂理といえた。市長のやることを訝しげに思いつつも、ほとんどの人はとりあえず賛成派だった。
一部、ヘビースモーカー達による署名活動やデモ等が小規模に行われることはあったが、せいぜいその程度。かの喫茶店の客たちも、この状況を心静かに受け入れていた。
禁煙法ができてから数週間ほど経つと、なんとも不思議なことが起きていた。タバコを禁止しているにも関らず、なぜか喫煙者は以前よりも増えてしまったのである。理由は色々とあるが、ひとつはタバコの定義について詰めが甘かったのが大きい。
そもそもタバコは植物であり、それを原材料にしたもの全般がタバコといえるのだが、市長はこの辺りの知識が乏しく、一般的に普及している紙巻きだけを禁止したのである。実際は多種多様であり。蚊取り線香のように炊くものや、ガムのように口の中に含む物などがあった。中には舐めたり、吹いたりするものもあるのだが、市長はそのことを知らなかった。
厄介なのは、そのほとんどが普及していた紙巻きタイプより“重い”という点だった。紙巻きタバコの代替として使用し始めた喫煙者たちが、より深刻な依存症を患ってしまったのである。
それから何とか定義し直しても、今度は企業とのイタチごっこが待っていた。再定義されても、その度に企業はわずかな隙間を抜けて新たな“タバコのようなもの”を作り出す。特に煙屋が発明した「臭そうで臭くない少し臭い草」は革新的だった。どうすればこれを禁止に出来るかは、今なお思考実験として人気である。
そして取り締まりの問題もあった。何度も再定義するせいで現場の役員は対応しきれず、時に無用なトラブルに発展することもあった。結局、後手に回り続けるしかなかった市長は痺れを切らし、企業そのものに圧力をかけることで流れを止めたのである。
しかし、この選択は逆効果だった。既に喫煙行為は有名無実化している状態であり、市場に出回らないのなら個々人で賄おうとする動きが活性化したのだ。“タバコっぽいもの”を密かに楽しむ人が増え、時にはそれを売り叩こうとする者までいた。栽培そのものは禁じられていなかったため、取締りが後手に回りやすかったのも大きい。
「第一次タバコ自作ブーム」の到来である。このブームを最も苦々しく思う者たちがいた。政府に圧力をかけられたタバコ企業と、それに属する元組合たちだ。タバコの販売ルートは組合で決まりが存在していたのだが、禁煙法でそれが丸ごとなくなってしまった。それをいいことに私腹を肥やす人間が跋扈しているのだから、元組合の者たちは不満を募らせる。
そこで彼らは一念発起し、対抗すべく新たな組合を結成した。「サクリムケ組合」はこうして誕生したのである。組合は市場に出回る粗悪品を排除し、よく出来たタバコを作っていた者はスカウトして組織を大きくしていった。
当然、サクリムケ組合の統制を快く思わない者も多かった。そういった者達で立ち上げられたのが、悪名高き「シューリンガン互助会」である。こちらは烏合の衆の過激派であり黒い噂が絶えない。サクリムケ組合とはしばしば小競り合いが発生しており、そこに役員が介入した日には収拾がつかないことも珍しくなかった。
この頃になると、非喫煙者の間でも「禁煙法は失敗だったのでは?」という意見が蔓延し始めていた。撤廃されるのは時間の問題といえた。いま思うと、あの喫茶店の客たちが妙に冷静だったのは、いずれこうなることを予期していたからなのだろう。
そして某日、いよいよその時はやってきた。サクリムケ組合とシューリンガン互助会による大規模な抗争である。嫌煙家に「副流煙と中年ヘビースモーカーの方がマシ」とまで言わしめた激しい争いだった。禁煙法によって生まれた組織を解体させるには、禁煙法を失くすしかなかった。
これが禁煙法による大まかな歴史だ。喫煙問題が取り沙汰される度に、この出来事を挙げる人間は多い。その対象が如何に有害であっても、権利そのものを奪えば支障が発生する。その典型的な事例である、と。
だが、この出来事には裏事情がある。禁煙法を撤廃する代わりに、タバコの税率が大幅に上げられたのだ。そして、これは政府にとって予定調和だった。というより、タバコの税率を上げることこそ本命だったらしい。市長は人々の健康を願って「禁煙法」を提案していたが、政府の思惑はもっと別のところにあった。
税金を何とか工面したい、市民にもっと納めて欲しい状況。だが、税金には大義名分が必要だ。喜んで負担するとまではいかずとも、「仕方ない」と思える程度の理由がいる。かといって、あまり踏み込んだ話をすると国民は警戒してしまう。注意を逸らしつつ、実際に論じるべき問題から遠ざける必要があった。その条件を満たすのに、タバコは丁度よかったのである。
だからといって皆にスパスパ吸われても、それはそれで困る。不健康になって医療費が嵩んでしまっては本末転倒だからだ。タバコによって不健康な人間を増やさず、その上でタバコで儲ける。このパラドックスを成立させるには、タバコに対する問題意識を国民にしっかりと持ってもらう必要があった。義務教育でしつこく教わるのも、分煙化の潮流もその一環だろう。
それらを踏まえると、「禁煙法」なんていう突拍子もない政策が通ったのも納得がいく。本当の目的は、喫煙に関する問題意識の植え付けと、税金徴収の大義名分を手に入れるための物語作りにあったのである。喫茶店の客は、後にそう語っていた。