はてなキーワード: 担保とは
最近ふと思った
「感じる」っていう関数を考えると、こう書ける
感じる(x)
xの型はもちろん「感じるもの」だ
感じる(カンジルモノ x)
しかし、人間の脳は多態性を担保してるので、実際には動的型付けに近い
感じる(var x)
例
・感じる(暖かさ)
・感じる(力強さ)
・感じる(お昼ご飯)
・感じる(猫)
・感じる(波)
人の脳内で渡されたオブジェクトをカンジルモノにキャストする(解釈する)
この時、当たり前だが渡されるものはカンジルモノである方が、受け手にとっては簡単だ。
つまり
感じる(◯◯感)=◯◯感を感じる
「かっこいいコード」をありがたがり、「分かりやすいコード」を否定するプログラマーがいるが
あれと同じだ。
ちなみに、感じる(◯◯感)に、そのまま◯◯感を入れるのはバカっぽいというのは分かる
isEmpty(String x)に、isEmpty(string)と渡すより、isEmpty(name)などと
今回の場合はisEmpty(nameString)に近いが。
ただ、「渡すものがnameStringという名前だからisEmpty(String x)よりisBlank(var x)に渡したい」
「違和感が◯◯感だから、『感じる』じゃなく『覚える』を使おう」
という主張はそういうことを言っているのだ。
と言うわけで「違和感を感じた」はそれほど悪くないと思う
逆説的だが、スパム増田がいることによって、コンテンツの質、クオリティが担保されているのではないか、と。
スパム増田は、ニワカや荒らし、ウェーイ系などの抑止力になっていると思うんだ。
現状のスパムは機械的なものが多く、人為的なスパム、いわゆる荒らしは殆ど見ない。
これは、「すでに荒れてるじゃん」と感じさせて、荒らしを遠ざけているのではないのか。
クオリティの低下を招くマジョリティ層から、荒れて殺伐としている様を見せつけ、我々を守っているのではないか。
かと言って、増田ユーザーには機械的であるが故にブロックしやすく、そこまで邪魔にはならない。
また、得てして、良質なコンテンツは、ぬるま湯の環境では生まれにくく、一定の我慢やストレスがある場で生まれるものだ。
増田を楽しむためには、今風のサービスでは考えられないような我慢が必要である。
上から目線なブコメ、補足できないエアトラバ、旧時代的なUI・デザイン、そして、スパム増田の存在…
これらが相互に作用して、増田を良質なコンテンツを育む箱庭とさせていると思うんだ。
しかし、スパム増田の存在だけは、他のサービスには決してなく、増田を増田たらしめる差別化の根幹なのである。
外部の手から守り、内部のバランスも育む。ヘイトさえ一手に引き受ける。
誰にも理解されることはなく、陰ながらに。
ポルノのポルノたる所以は,女性の複雑な主体性を無視して,その劇中での人格を観客である男性の性的興奮を刺激することにのみ隷属させることにある。
で,24時間テレビ〜バリバラ近辺で知られるようになった感動ポルノもまた同様に,障害者の複雑な主体性を無視して,その番組中の人格を観客である健常者の感動を呼び起こすことにのみ隷属させることを指している。
食欲ポルノというのもあるらしいが,それもまた,料理本来の複雑なありようを無視して,その映されかたを視聴者の食欲を刺激することにのみ隷属させることを言う。つまり,本来は不要なクリームなりチーズなりが,本来は不要なほどに熱せられて溶けしたたっていた方が美味しそうなのであればそう見せる,ということだ。
だからポルノか否かの違いは,岡田斗司夫が言うように安直であるかどうかにあると言ってもいいのだが,同時に彼が言っている「感動させようとしているかどうか」にはない。
そんなの,誰だって感動させようとはしている。
ただ,感動させようとするときに,時に失われそうになる題材の複雑なありように気づけるかどうか,気づいた上でそれを尊重するかどうかにこそ,ポルノか否かの分かれ目はある。
クライマックスでいかにもなBGMを流すのは安直だと,岡田は安直に否定するが,話はそう単純ではない。
例えば対位法はいかにも安直ではない雰囲気を可能にする手法だと言えるが,何故そうなのかといえば,例えば残酷なシーンであればそれが持つ複雑さの中にある悲しさや可笑しさをBGMに担わせれば対象の複雑さの一端が担保されるからである。
しかし,本当の現実に寄り添えば,そもそもBGMなんて流れないわけで,何かしら音楽を流した時点で対象の複雑さを毀損してるとも言える。BGMが流れていなければ如何ようにも解釈できたはずの対象に,一定の方向付けをしてしまうからだ。
それでも,繰り返しになるが何かしらの芸術的作品を作るからには誰だって受け手に感動してほしいと思っている。ただ世界の複雑なありようが描かれていればそれが正義だというわけでもない。
もう一度言う。
感動させようとするときに,時に失われそうになる題材の複雑なありように気づけるかどうか,気づいた上でそれを尊重するかどうかにこそ,ポルノか否かの分かれ目はある。
つまり,例えば目の前の女性に対して,自らの性欲に隷属させようとして彼女の主体性を踏みにじるような,そんな行動様式で何かを伝えようとすることこそがポルノを作るという行為なのだ。
女性の,障害者の,料理(を丹精込めて作った料理人の心)の,その尊厳を一顧だにせず自分勝手な目的の手段にすることがポルノを生むのであれば,それはもはやレイプと言えよう。
感動ポルノに感動するということは,レイプの映像を見て性的興奮を覚えるのと同じくらい,道徳的には救い難く,精神分析学的には,まあしょうがないのかもね。
ポルノのポルノたる所以は、女性の複雑な主体性を無視して、その劇中での人格を観客である男性の性的興奮を刺激することのみに隷属させることにある。
で、24時間テレビ〜バラバラ近辺で知られるようになった感動ポルノもまた同様に、障害者の複雑な主体性を無視して、その番組中の人格を観客である健常者の感動を呼び起こすことにのみ隷属させることを指している。
食欲ポルノ(?)もまた、料理本来の複雑なありようを無視して、その映されかたを視聴者の食欲を刺激することにのみ隷属させることを言う。つまり、本来は不要なクリームなりチーズなりが、本来は不要なほどに熱せられて溶けしたたっていた方が美味しそうなのであればそう見せる、ということだ。
だからポルノか否かの違いは、岡田斗司夫が言うように安直であるかどうかと言ってもいいのだが、同時に彼が言っている「感動させようとしているかどうか」にはない。
そんなの、誰だって感動させようとはしている。
ただ、感動させようとするときに、時に失われそうになる題材の複雑なありように気づけるかどうか、気づいた上でそれを尊重するかどうかにこそ、ポルノか否かの分かれ目はある。
クライマックスでいかにもなBGMを流すことを岡田は安直に否定するが、話はそう単純ではない、
例えば対位法はいかにもハイドラマな雰囲気を出す手法と言えるが、何故そうかといえば、例えば残酷なシーンであればそれが持つ複雑さの中にある悲しさや可笑しさをBGMに担わせれば対象の複雑さの一端が担保されるからである。
しかし、本当の現実に寄り添えば、そもそもBGMなんて流れないわけで、何かしら音楽を流した時点で対象の複雑さを毀損してるとも言える。
それでも、繰り返しになるが何かしらの芸術的作品を作るからには誰だって受け手に感動してほしいと思っている。ただ世界の複雑なありようが描かれていればそれが正義だ、と言うことでもない。
なるべく複雑さを保ったまま、感動に向けて受け手を誘導したいというのがすべての作り手の想いだ。
だからポルノか否かの分かれ目は作り手の意図にあると同時に受け手の読解力にもある。
複雑さが捨象されていることに鈍感であれば何でも(ターミネーターでも)ハイドラマに思えるだろう。
あるいは逆に、一般にはベタでも、敢えてそこに身を委ねる可笑しさや悲しさや、果ては残酷さなどをそこに込めることで、ベタなハイドラマを超える感動を生むことができる。逆か。感動を得ることができる。
私はグラフィックデザイナーなんだけど、一緒に働いているマーケティングチームがひどすぎる。
おまけにデザイナーがチェックして納品した後で勝手に文言を変えたり、色やフォントを変えられて品質を担保できなくなっている。
ブランドの価値を高めるために品質を維持したいのに、それができなくて腹が立つ。
マーケティングってそういうことって1番大事にすると思うんだけど、どうなのかな。
もともと認知されているブランドだからなんでも露出すれば売れるとは思うけど、毎回期待を裏切り続けるとブランドに対するお客様のイメージも下がって長期的には良くないとは思うのよ。いつか資源が尽きてしまうんじゃないのか。
これをちゃんと証明してチームに浸透させるいい方法はないものか。
・・・ていうのを考えた(まだ作ってない)。
がいしゅつかもしれんが調べてない。
日々はてなブックマーカー達の繰り出す大量のブコメ。
ヲチしてこんな記事あんな記事にどんなブコメをつけているのか覗いてみたい。
気に入ったブックマーカーを落ち着いてお気に入ればよい。
俺の知りたいのはそれほど知られてはいないがひとたびブコメしたならばたちまちにして大量のスターを集めるようなブックマーカーだ。
運動瞑想野菜30gプリントアウト恐ろしい恐ろしいダジャレしいたけメガネカレーハゲ添削ホワイトボード謝罪二才などのブランディングもしないから個として認識できるチャンスも少ない。
30gとタイポすれば即座に350gだぞと本人とは無関係な第三者に突っ込まれるようなこともない日陰の存在である。
しかしそのブコメは高クオリティゆえ、名前やフォロワー数や惰性や日和見や互助ではなく、内容でスターを集める。
そのようなブックマーカーを網羅的に見つけたい。
彼らは次のような式であぶり出すことができると考えている。
打率っぽくするなら
であろうし、それならばいっそOPSも出そうかと欲が出る。
OPSは出塁率+長打率だがブコメにフォアボール等はないので出塁率=打率と考えるならば、打率+長打率でOPSも算出できる。
ランキングをお気に入られ数やコメ有りブックマーク数でフィルタリングすれば「隠れた名ブックマーカー」があぶり出されるであろう。
互助会ブコメは安定してスターを得られるがひとつのブコメで大量にスターがつくこともないと仮定すると打率ランキングにはあがってくるが長打率ランキングにはあがってこないはず。
このふたつを見比べることでフィルタリングできるのではと考えている。
カラースターの扱い、複数スターをつけた場合の扱い、そもそもスターがつくかつかないかはタイミングや運もあるし細かいことを言い出せばきりがないがとりあえず無視する。
欠点としてはスターの数はブクマの質を担保しないという点だが、欠点を意識することで欠点はカバーできるであろう。
できあがったランキングをざっと眺めてあまり使えないことが判明し(求めるような侍ブックマーカーがそもそも居なかった、そもそもあぶり出されたユーザはすでに何かのときにブコメが気に入ってお気に入れたユーザばかりだった等)愕然とするかもしれないがそれもまた一興である。
最近FXが調子いいから、このまま無尽蔵に金が増えたら~とか考えてふと思った
日本で何億も持ってたとして、一体何になるのかと
なんか楽しいことできるのかと
案1 豪邸を買う
数億が限界でしょ
案2 車を買う
ごめん、車興味ないんだ
案3 馬を買う
これは相当高いらしいね
でも調べたら数億だって
案4 うまい飯を食う
いいとこ数十万でしょ
いいとこ数千万?
つまらなさそう
案6 会社を興す
これもせいぜい数億じゃない?
それ以上だと自分のコントロール効かなくなるし、それじゃ株主だ
案7 大株主になる
妥当な線かもね
株主総会で盛り上がったり
案8 自家用ジェット
これだ! 数十億円かかるみたい
あでも、それでどこに行くんだ
出不精なのに
あと酔うからやだ
4ヶ月位で数千万とか言うのが出てきた
1年遊びまくって2億とか?
1日30万円くらい×365日=約1億
これはやってみたいね
BD5000本分くらい担保するとしたら1クール1.3億くらい? 意外とお手頃
と、無い頭で適当に考えてみたが、やはりそこまで面白くなさそう
なんだか夢がないなぁと悲しくなる
そういえば子供の頃「もし100億円あったら何するー?」の会話に、何て答えていただろう? 思い出せない
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
内容の是非に関わらず、時と場所を選ばず声高に叫べば人は耳をふさぐ。
どんな内容かはもちろん大事だが、誰がいうか、どういうアプローチかというのも大事だ。
正当な言論はそれだけで力を持つが、それを担保させるならば言動も正当であったほうが効果的だからな。
ザックリいうならば「説得力」ということさ。
前向きに考えるなら、担保されないが故に好き勝手書ける、という場合もあるだろうがな。
そういえば、友達と焼肉屋で夕食をとっていたとき、近くで街頭演説をしている人がいてね。
内容は正確には覚えていないが、食用の牛一頭にどれだけの費用がかかるか、それをもっと他の場所に回せないか、みたいなことを演説していた。
まあ、当てつけというか営業妨害というか。
大義名分は結構だと思うが、それを免罪符か何かと誤解してズレたアプローチをしてもよいとまで考える人間がいるのはツライところだ。
ただ、友人はいつもどおりのペースで食べ進め、いつもどおり注文しすぎて残していた。
なんというか、大物になると思ったよ。
言論などにおいて、他者を納得させるために付加される力だといっていい。
それには論理的であることや主張の正当性……も必要だが、最も大きい要素は別にある。
全く同じ内容を、太っている人と痩せている人が話す。
もちろん、本質的には同じだ。
でもそれらを聞いた人はバイアスがかかる。
ネットでも「○○の時点でそっ閉じ」とか、みたいな文言があるよな。
現実問題、論理そのもので評価するだとか、綺麗ごとはとてもじゃないが言えない。
今回は裏サンデー
うわ、もう殺しちゃうのか。
仮に死ぬとしてもしばらく先かと思ってた。
でも、う~ん……大してバックボーンがちゃんと描写されていない状態での退場だから、正直イマイチのれない。
世界観というか、この作品の方向性を伝えるという意味では十分な役割を果たしたとはいえなくもないが。
国王の理屈は、都合のいい解釈で、そもそも今回の事件を手引きした黒幕であるからすごく白々しい。
のだが、当事者の誰かがもう少し思慮深ければ起こらなかった、或いはそこまで酷くならなかった事態だったわけで、その点を考慮するとデュランは口をつぐむしかないわけだ。
後半のジンの答えは、大したことは言っていないのだが、まあ間違っていない。
そもそも、男女逆転させて性差を語るっていう発想は創作的観点からは面白い思うけれども、マジになって語ろうとすると安易というか。
身体的性差からくる、恋愛感やセックスなども含めた意識の違いというのは傾向として勿論あるのかもしれないが、そのほかの要素も加味して、総体的にかつ相対的に判断しないと、どこかで齟齬が生じるだろう。
しかも、ここに個の問題を含めて考えないといけないわけだから。
そもそも、たらればで地に足のついてない話で持論を担保するのって、結局は共感ゲームの延長線上にしかならないと思うし。
まあ、打ち切りですな。
まあ、まずは作風が読者の何割かを遠ざけたのは間違いない。
リョナとかトーチャーポルノとかは一般受けしないんだから、その他の要素で面白く描かないといけないわけだが、それも拙かった。
自分より体の小さい人間を盾にしたところで銃弾全て防げないだろ。
あんだけ規格外の握力とか腕力があるのに、普通に銃弾かれちゃうんだとか。
なーんか、ところどころ雑なところがあって、それが気になるせいでノりにくいんだよなあ。
人類は、ヒトに人権というものを認めてるわけだ。人権があるから簡単に殺しちゃいけないし、いじめちゃいけない。
一方で人類は動物にたいして厳しい。ウシやブタを殺して食べたりするし、熊がヒトに危害を加えたら裁判にもかけず殺してしまう。
野山や平原からサルやキリンなどをさらってきて、動物園で見世物にしてしまったりもする。
つまり人類はヒトに対してもろもろの権利を認めている一方、動物にはそれを認めていないわけだ。
さて、ヒトには認められている人権が、動物には認められない理由とはいったいなんだろうか?
そもそも人権とはいったい何物なのか、なぜヒトには人権というものが認められているのだろうか?
「ヒトはヒト(ホモ・サピエンス)であるがゆえに人権を有するのだ」などとトートロジーのようなことを言う者もいるだろうが、しかし私にはそうは思えなかった。
このサルは一見なんの変哲もないサルに見えるが、実は単なるサルではない。
人のように物を考えることができるとても賢いサルで、そのうえ、人の言葉を操ることができる「高知能サル」なのだ。この高知能サルはしっかりと自身の脳で物を考えて言葉を発するのであり、オウムのようなものではない。
このサルにはおよそ、ヒトの成人の平均程度の知能があると考えて欲しい。
はたして、この高知能サルを、通常のサルのように動物園などに閉じ込めてしまうことは許されるだろうか?
また、もし、この高知能サルが「私にもヒトのような権利を与えて欲しい!」と訴え出た場合、人類はこれを聞き入れるべきだろうか?
哲学的な話はともかく、私の個人的な感覚では、この高知能サルを動物のように扱うことは許されないと思った。
書 い て る 途 中 で 飽 き た
そろそろ落ち着いた感じですが。
今年の2月にマドンナの来日公演行ったんですよ、25000円。
自腹で払いました。めっちゃお財布に痛かったですがそれ以上の興奮を頂きました。
VIPというかそれ以上の席もあって、10万とかしてたんですよ。
安月給サラリーマンには払えるはずもなくて、席についてくるスペシャルプレゼントとか夢のまた夢ですよ。
まぁ、その席に座っている方々は私より一世代上なマドンナ直撃世代な人たちなわけで、
マドンナ様に対する思い入れも、年収も、何重にも上なわけで、ははーってひれ伏すしかないわけです。
5000円のチケットが、10万円になっても、それは市場が求めてるんだから仕方ない。
一方で、アーティスト(運営???興行主???)の、無駄に価格を釣り上げた転売を阻止して、一定の価格でサービスを提供したいというのもわからないでもない。
(いや、正確に言うとわかりづらい……もうちょっとクラス分けしてもいいものかなーって思う)
ものすごく入手しづらいアーティストで、正規で10万円のVIPシートゲットした人と、
転売で10万円になったA席(8000円)の人が、同じ『10万円』のサービスを受けられるかって言うとそれはない。
見る側が「10万円でも見れてよかったわ!!!」って思うかもしれないけれど、
本来10万円で売られているチケットの席の距離感とか、おまけ(パンフとかミーグリとか)はついてこない。
アーティストは一定のクオリティは担保するけれど、非合法でできたバッファの分の価値は担保できない。
だって、いくらで転売されてるなんて知らないし、それはルール上アウトってことになってるから見ない知らない(建前上)。
買うほうがいくら10倍、20倍の価値をつけたとしても、提供されるコンテンツは同じなのです。
ファンクラブで入手するチケットとかはすでにキャンセル対応、定額トレードの動きに入っています。
知らない人は検索してみてください。ファンクラブとかクローズな情報なので、知れ渡りにくいかもしれないです。
公式で10万円払って得られるサービスは、求められないんです。
公式が掲げるルール違反は、そのチケットにどれだけ払っていようとも排除される可能性がバリ高なんです。
そんなものを一掃してくれるような、ユーザビリティの良いサービスを望むのが一番かなーと
今年度内くらいになんとかしてくれ!!!
◆アフラック保険サービス株式会社/【1日選考会/9月27日(火)10:00~@大阪支社】 アフラック・コンサルタント
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◆アフラック保険サービス株式会社/【1日選考会/9月17日(土)10:00~@大阪支社】 アフラック・コンサルタント
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◆アフラック保険サービス株式会社/【1日選考会/9月24日(土)10:00~@大阪支社】 アフラック・コンサルタント
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◆アフラック保険サービス株式会社/【1日選考会/9月13日(火)10:00~@大阪支社】 アフラック・コンサルタント
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◆アフラック保険サービス株式会社/【1日選考会/9月20日(火)10:00~@大阪支社】 アフラック・コンサルタント
多くの方が心配される、生保営業にとって最も大切な見込客は、独自システムでバックアップするため、安心して営業を継続できる点が最大の特長です。
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ニコニコ動画はよく「つまらない」「つまらなくなった」といわれる、今回はその理由を考えてみた
よくニコニコ動画の質の低下を嘆く人々の間では「今の実況者は面白くない」「最近のニコニコはつまらない動画ばかりになった」などと言われるが、実はこれは間違いだ
「今のニコニコの動画」と「昔のニコニコの動画」を両方開いて見比べて欲しいのだが、動画内容自体に大きな変化はない
やってることもほとんど変わらなければ、トークの内容も大差はないようにみえる。つまり、動画そのものの質は(さほど)低下していない
ずばり、コメントの質だろう
今のニコニコでは「ワロタwwwwwwww」「8888888888」「おおおおおおおおおおお」「レトさんかわいい」などといった毒にも薬にもならない、はっきり言えばクソつまらないコメントばかりになった
みてのとおり、このようなコメント群を見ていても面白くもなんともない
(ぶっちゃけ)ニコニコの面白さはかなりの部分がコメントの面白さによって担保されているところがあったので、これは致命傷だ
上に記した通り、ニコニコがつまらなくなった理由はコメントがつまらなくなったからである
ここで考えるべきなのは、「なぜニコニコのコメントはつまらないのだろうか?」ということだ
答えは簡単で、今の視聴者には面白いコメントを書く気がまったくないからだ。
(少しでも面白いコメントを書くつもりがあるのであれば「wwwwww」「888888」などというコメントはできあがらないだろう)
面白いコメントを書く気がないのであれば、面白くないコメントばかりが量産されるのは当然だ
ここで更に、「なぜ面白いコメントを書く気がないのだろうか?」という問題が浮かび上がってくる
たとえば、TwitterやFacebookなどで面白い・ユニークな発言をするといいねが貰えたり、RTされたり、フォロワー数が増えたりする。承認欲求が満たされ気持ちがいい。
現在のニコニコ動画(のコメント)ではこのような仕組みが存在しない
頑張って面白いコメントを考えて書き込んでもなにもいいことがない、褒められるわけでもなければなにを貰えるわけでもない
せいぜい自身のコメントのあとに「←ワロタw」などと付く程度ですが、これも後で動画を見直さなければ気付くこともできない
面白いコメントをしても全く見返るところがない、これがニコニコのコメントがつまらなくなった原因ではないだろうか
「コメントを評価する仕組み」が今のニコニコ動画に必要だと私は考えます
そういえば昔ニコるっていうのがあったんですけどぉ……
考え方や価値観の相違というのはあるものだから、特にそのことに異を唱えるつもりはない。「反論」というほど論ではない。ただこちら側からは「考え方」でなく「想定」が異なるのではないだろうかという風に感じた。
一つ目。社会の成熟により、能力は明らかになりつつあるのでは、という意見については「『今のこの社会』ではね」としかいいようがない。あげられた能力のどの一つをとっても、全く的外れとは言わないが、定義があいまいな上に一元的に数値化もできなければそもそも測定できないし、三つの比較(たとえばコミュ力100%と論理的思考力100%ではどっちにどのくらいの価値・優位性があるのか?)も不明であり、結局、先に私が述べた通りそもそも人間に優劣を付けること自体が無理という結論には影響しないと思う。もし増田に「完全に人間の優劣を測定する基準とその方法」を示していただけるなら(※)まだ納得するのだが。どうも増田は「今の社会がそれほど大きく変わることはない」という素朴な想定に頼りすぎているように私には見える。たとえば人工知能の研究が一段階進んだだけで、社会で求められる「能力」なんてあっという間に大きく変わると私は思っているよ。
二つ目。増田が私の考えを「要は(現時点での)劣位者の飼い殺し」と捉えているのは、大変不思議に感じた。私が言いたいのは、たとえ社会的にさまざまなハンディを背負って生まれたとしても能力を十分に開花させられるような社会にしておくことが、特に転換期においては全体としての利益が大きいということだ。そういう社会であってこそ、万一何かあったときにそういう人があたかも突然登場してきたかのように前面に出てくることができる。そういう社会システムの整え方の話をしているのだが、それを「飼い殺し」と捉える増田の想定には、人材を「育成する」という観点がすっぽり欠落しているのではないか。さまざまな人間がそれぞれの完成を目指すことができ、それが認められる社会と、「最低限の金を与えて飼い殺し社会」とは、だいぶ違う。
http://anond.hatelabo.jp/20160821181828
※たとえば「コミュニケーション能力」という言葉などいかにも怪しい言葉である。友達がたくさんいる奴はその「能力」が高くて、少ないと低いのだろうか。いざというとき頼ろうとしたらそれは全然無理、みたいな連中と上手に付き合いつつつるむ能力、いわゆる「集団で浮かない能力」と、一人の人間に徹底的に信頼され、世界を敵に回しても一緒に戦ってやるぜ見たいになってもらう能力とは、能力の質も内容も結果する行動も全然違うと思うが、増田の定義ではどっちが「コミュニケーション能力」が高いのか。ディベートうまいやつはコミュニケーション能力が高いのか。入社試験には受かるかもしれないが、恋愛市場ではめちゃめちゃ敗北しそうだが、そこはどうなのか。いろんな異性をとっかえひっかえできる人の「コミュニケーション能力」は高いのか。一人の異性と添い遂げる人の「コミュニケーション能力」は低いのか? そういうことを、増田はきちんと定義できているのだろうか、と疑問に思う。これは単に一つの例に過ぎないが、まあそういうことだよ。
増田は「利己的」と書いていたが「功利的」と言うべきだろう。その上で「功利的である」ことには同意だが、その理由は異なる。その理由を少し述べる。
増田の論は、人間の能力というものが一元的に数値化できるという架空の仮定に基づいているが、これが根本的に的外れである。人間の能力というのは非常に複雑なもので、社会全体の生存を考える上ではその多様性を担保することがもっとも戦略的には正しい。たとえば日本社会で非常に高く評価される「空気読む」能力は、世界の中ではほとんど不要な能力であるが、狭い環境下で長期的に社会関係を維持しなくてはならない場合(たとえば長期にわたる宇宙船内での作業員等)では、非常に有効な能力である可能性がある(ただし、現代日本人が比較的不得意な「異文化の受容」に関わる問題をクリアできた上での話であるが)。
知能というのも残念ながらその測り方が日々検討されているような状態で、たとえば現下のセンター試験で測れるような「能力」が今後役に立たないとはよく言われているところであるが、しかしだからといってそこに全く正当性がないということもないし、また、「役に立たない」という人々が、それに代わる明確な測定方法を示しえているわけでもない。
江戸時代、「能力のある武士」をそれなりに取り立てるシステムも全く機能していなかったわけではないし、実際幕末の幕府高官が無能ぞろいだったわけではないが、明治維新を成し遂げ、またその後の新政府をそれなりに運用したのは下級武士…すなわち江戸幕府からは「能力が低い」とみなされていた人たちだった。変動期にどのような「能力」が重要なのか、社会が予測することは難しい。
だから、ある社会が持続可能であろうとするならば、さまざまな能力の可能性を排除すべきではない。いまのシステム下で測定できない「能力」をもつ人間は、この社会のあらゆる地域、年齢、階層の中に眠っている可能性があり、必要なときにそれが脚光を浴びることができるように多様性を担保しておくことは重要なのだ。これが、社会が貧困問題に適切に取り組むべき「功利的な」理由である。
今回は少年ジャンプ+
読切祭とかやっていたので、それに絞って感想書いてみた。
追記:漫画のタイトルが間違っているという指摘あったんで、修正しとく。
読切祭の一つ目。
ふむ、キャラクターや設定にリアリティや説得力が欠けるが、嫌いではない。
コマ割や構図がイマイチなのと、後半のアッサリ感はいかんともしがたいが。
あくまで謎ということで終わらせたいのだろうけれども、その上で描けることはあったと思うんだけどなあ。
時代劇で例えるなら殺陣シーンにあたるわけで、最も盛り上がる場面なわけだから。
読切祭の二つ目。
主人公である片山を、しっかり魅力的に描こうという意欲がみえるね。
主人公の信条が、言動の正当性を担保しているという構図はよろしいかと。
即物的ではあるが、これは実直かつ目に見えないものしか信じない主人公だからこそ言葉の重みが違うってことに、感想書いているときに気づいた。
ただ主人公のキャラをしっかり描きすぎた反動というか、幽霊キャラの設定はメタ的に見たときあまり必然性を感じなかったかな。
幽霊キャラのためにページ数割いているのがやや蛇足気味に思えた。
私の持論で「メインキャラは加算ではなく、乗算が理想」というのがあって、この幽霊はメインキャラとしては加算でしかないんだよね。
読切祭の三つ目。
「フリークス」とか知っている身からすれば、中々にセンセーショナルなテーマだ。
……の割に別段語りたいことが出てこないのは、テーマによって紡がれる話や構成、演出が大したことないからかな。
「フリークス」然り、同サイトの「ファイアパンチ」然り、それらの賞賛や批判が強くなるのは、作品やバックボーンにそれだけ影響力を持っているからだと思っていて、その点この作品は平易だ。
読切祭の四つ目。
設定、ストーリー、キャラクター、ギャグ、構成するネタの一つ一つが尊大ですらなくて、そのくせ唐突だから、ただただ首を傾げるんだよね。
コマ割をもう少し工夫してくれれば、印象も多少変わったかもしれないけどなあ。
まるで4コマ漫画として書いていたのを、無理やり繋げたみたいな構成だから、余計にそう思う。
奇抜というほどのアクもなく、正直なところ貶すほどのものでもないけれども、かといって褒める部分もほぼない。
「読切祭か、よし作品全部の感想を書いてやろう」という気持ちじゃなければ、感想を書こうとすら思えない内容だった。
読切祭の五つ目。
「マッチョ」という「グルメ」という組み合わせ、そして画力のインパクトはそれだけで面白いが、逆に言えば面白かったのは「それだけ」だったともいえる。
まあ、一発ネタですなあ。
読切祭の六つ目。
英雄の武具の扱いが難しいので、それを指導する仕事というコンセプトが面白いね。
ただ、面白そうな設定に対して、そこまで盛り上がらなかったかなあ。
結局、やらせてることがほとんど呪文の唱え方ってのがガッカリポイントというか。
あと、ちょっとノリで押し切って欲しくなかった部分があるのも残念。
読切祭の七つ目。
間違い電話から、それぞれの思惑が交錯し、誤解が生まれ、コメディになるっていうパターンはありふれているけれども、まあ面白かったかと。
ただ、終盤それら物語がしっかり集約されないのが不完全燃焼感あるなあ。
噛み合っていないものが噛み合っているように見えるから面白いのであって、それが噛み合わないままだと話としては中途半端。
例えば、誘拐犯は縁のない、あくまで身代金目的で動く人物として描いてみる。
更には父親も終始登場させる。
子供、誘拐犯、坊主、父親といった登場人物たちが、それぞれ違う目的で動く部分を掘り下げて描写する。
勘違いした坊主が、誘拐犯ではなく子供の父親に電話して~とかいう展開も挟み、誤解が更なる誤解を生むスパイラルを~、とかだったら面白くなると思うのだが、些か願望入りすぎだろうか。
経済には素人だが、生きている以上無関係ではいられないので、自己流の考えはある。それについて、増田で適当な事を言おう。
投資家と呼ばれる人がいる。自称かもしれない。まあ、中には素人もいる。ここでは、玄人の投資家について、適当なことを言う。素人は利益確定もしていないのに、株価が上がると儲かった気になり大喜びして、高い寿司を食べたり高級品を買ったりする。しかし、玄人は違う。利益を確定してからその利益の使いみちを考えるのだ。しかし、玄人は事業として投資をしているのである。必要な分だけは生活に回すが、それ以上の利益は事業拡大に回す。事業として投資をしている以上、それが当然の対応である。投資以外の事業であれば、規模拡大には限界とリスクがある。しかし、投資はそうではない。投資はほとんど無限に規模を拡大できる特殊な事業なのである。もちろん、リスクはある。しかし、それは投資そのもののリスクであって、規模拡大のリスクではない。むしろ、規模を拡大したほうが投資のリスクは減らせる。何を言いたいのかというと、株価が上がって投資家が利益を得ても、その利益は再投資に回されて余分な消費には回らない。
株価が上がると、企業は自社の株を持っているので、株を担保にして金融機関から借りられる金が増える。その金を研究開発や工場の建設などに回せば新製品を作れたり、生産量を増やす事ができる。しかし、日本は人口減少時代に入ったので生産量を増やしても買う人がいない。それに消費者が貧乏なので、新製品を作っても高く売れるのではなく、旧製品と同じ価格で高性能なもの、または同じ性能で安いものしか売れない。新製品を作れば、他社との競合では生き残れるが、利益が大幅に増えるというものでもない。開発失敗というリスクもあるので、ハイリスク・ローリターンである。現状の日本では、株価だけ上がっても企業はそれほど嬉しくはないのである。もちろん、利益を出した結果、株価が上がるということはある。ここで言っているのは、政府の株高誘導政策や投資家の活動によって株価が上がっても企業には大して利益はないということである。(ただし、経営者には利益がある。株を持っている創業者はもちろん、雇われ社長でも株主総会で給料を上げることが出来るかも知れない)
私は世界的ホメオパスの学校を卒業し、プロのホメオパスとなりました。ドヤァ
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/homeo.club/improvement-reaction-matome/
このように言われると、とてもすごいことのように思えるので、実際はどうなのか
少し調べてみました。
因みに、こうおっしゃった方は、日本のホメオパシーは間違っている、
そもそもホメオパシーが正しいのか、誤っているのか、
私は興味が無いのでそこら辺はなとろむ先生に聞いてください。
世界的ホメオパスの学校のカリキュラムがどうなっているのかを調査しました。
3学年あります。
1年目
受講時間:約75時間(但し、このうちの半分以上がビデオ受講)
1回3時間の講義を受けたとして、たった25日間でカリキュラムが
2年目、3年目
受講時間:約113時間(2年間の合計) + レポート + 最終試験 (半分以上がビデオ受講))
えっ、たったこれだけ?
因みに最終試験は、合格するまで何度でも受けることができるそうです。
対して、正規の医療従事者達はそれなりに難しい養成機関の入学試験に合格して、
難解な講義を受け定期試験や卒業試験をパスしたあと、国家試験に合格して
免許を取得するわけですね。
相当な努力と才能と適正と、そして教育と訓練を受けるための金銭的投資を
行なわなければなれない。その代わり、一定の職能は担保されると
言っていいでしょう。
責任ある職業に就くために必要な努力と投資を行なう、当たり前のことですよね。
大体、医師がブログで私は世界的な権威のある大学の医学部を卒業しました。
イオンド大学(笑)名誉博士号なんて書いてあったら、その先生はむしろ避けるべきです。
それだけではありません。
医師にしろ、看護師にしろ、理学療法士にしろ、他の職種にしろ、
激務の中、貴重な休みをさいて、何チャラ講習会やら、何とか学会の
集まりだのに自腹切って出かけていって、常に勉強している人が多いです。
http://anond.hatelabo.jp/20160729213257
>そんな気持ち全くわからないという人は、誰かが怒っている状況に出くわした時、どういう気持ちでいるのか参考にしたいので教えてほしい。
誰かの怒りを見ると、逆にワクワクする。
みたいな。
みたいな。
すこし気持ちが昂って、肌がざわざわする。臨戦態勢に入る。
戦って勝ったり負けたりするのが好きなのかな。あと、いざというときは走って逃げられると自分を信じられる程度には体が整っているとか、いざというときには会社やめても問題ない程度には蓄えがある、とか、「なんかこの人怒ってるけど私にとっては怒るようなことではないからそんなん知らんわ」という傲慢さとか、そんな(ややしょうもない)自分の感覚への自信?信頼?が心の平穏を担保している。