はてなキーワード: 悪夢とは
ディズニー映画に埋もれた名作などというものは存在せず、有名なやつは出来がよく、無名なやつは出来が悪い。
以下、備忘録をかねてウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ制作の長編アニメ映画史を概観したい。
『メイク・マイン・ミュージック』以外はディズニープラスで全部見れる。
おすすめの作品:『白雪姫』『ファンタジア』(ミッキーのやつだけ)『ダンボ』
ディズニー長編アニメの歴史はアニメ史に残る傑作『白雪姫』とともに幕を開ける。この作品はとにかく作画が凄まじく、戦後の日本人が衝撃を受けたという逸話も納得の出来である。著作権が切れているのでYoutube等でも見れるが、できるだけきれいな画質で見たほうがいい。7人の小人たちの非モテ自助コミュニティ描写もピカイチで、増田を見ているような人々は目を通しておいて損はないと思う。
ディズニー映画はこの頃から一貫して「教育的で」「社会的にただしいとされる」物語を描こうというはっきりとした意思を見て取ることができる。そのため、作品の背景には常に制作された時代の価値観が垣間見える。
例えば『白雪姫』の3年後に公開された『ピノキオ』では、主人公ピノキオを導く良心の象徴としてジミニー・クリケットという名前のコオロギが登場する。この「ジミニー・クリケット」という名前はジーザス・クライストの言い換え語らしく、つまりここでは創造主の似姿として作られた人形が様々な誘惑と戦いながらも最終的にはイエス・キリストに導かれ、ただしい人間性を獲得するという物語が展開されるわけだ。
『ピノキオ』自体は退屈な作品ではあるものの、歴史や時代背景を含めて見ていくと別の発見があり、それはそれで豊かな体験である。ちなみに当時のディズニー自身はむしろできるだけ宗教色を薄めたいと思っていたらしく、この辺は社会に要請されてやむなくという側面が強いのかもしれない。
ほか『ファンタジア』中の「魔法使いの弟子」と『ダンボ』は見ていて単純にたのしい良作。『ダンボ』のお母さんの健気さは泣ける。
『バンビ』のあと『シンデレラ』まで長編の物語映画はなく、とくにおもしろい作品はない。とはいえ日本人としては、バリバリに総力戦をやりながらアニメを量産していたアメリカの国力にむしろ驚くべきかもしれない。
この頃の作品群には「丁寧な植民地主義」とでも呼ぶべき傾向があり、具体的にはアメリカ開拓時代の美化とラテンアメリカへの観光的関心、キリスト教的な価値観が三位一体となった教育映画が制作されている。この辺はおそらく当時のアメリカの外交・安全保障戦略と密接に結びついており、いわばアメリカ流の国策映画だったのではないだろうか。
丁寧な植民地主義的な傾向はこの後も非常に根強く、形を変え品を変え、ディズニーらしさの1つの要素として受け継がれていくことになる。
『シンデレラ』は物語の大半を出来の悪いトムとジェリー風ドタバタ展開が占め、あまりおもしろくはないものの興行的には大成功を収め、低迷期の脱出に成功する。
『眠れる森の美女』は『白雪姫』以来の超絶作画であり、これ以降の作品と見比べてもダントツでクオリティが高い。一方で興行的には制作費の回収すらできず、総じて失敗作と見なされたようだ。ディズニー作品の作画技法は『眠れる森の美女』でひとつの頂点に達し、以降はべつの方法論を模索していくことになる。
ほか『ふしぎの国のアリス』のチェシャ猫や芋虫の悪夢的な描写は見たものに強いインパクトを与える。一方で登場人物にだれ1人としてまともに会話の通じるキャラがおらず、集中力の維持が非常にむずかしい作品でもある。
『ピーター・パン』では全能感と成熟の拒絶というYoutuberの原型のようなヒーロー像が描かれる。ピーター・パン症候群とはよく言ったもので、本家ピーター・パンも未成年淫行で炎上する未来を強く予感させるキャラクターだった。
『わんわん物語』では都市的自由を謳歌していた野良犬がペットとして不自由な幸福を手に入れて物語が終わる。ここで描かれるペットたちのむき出しの奴隷根性は、前述の植民地主義と無関係ではない。『ピーター・パン』『わんわん物語』ともにおもしろくはないが、それぞれ見どころのある作品となっている。
おすすめの作品:『101匹わんちゃん』『くまのプーさん 完全保存版』
『眠れる森の美女』のアーティスティックで洗練された描線から一転、『101匹わんちゃん』以降はえんぴつで描かれたかのようなラフな描線で作品が構成されていく。『眠れる森の美女』以上のものを作り出すことが現実的に不可能であり、見劣りを避けるという意図があるのか、あるいは端的に制作資金が枯渇しただけかもしれない。
技法的にはやはり『くまのプーさん 完全保存版』でひとつの完結を迎え、以降ディズニー映画は再び模索と低迷の季節を迎えることになる。
『おしゃれキャット』は金持ちのペットが使用人をブチのめす話で、一方『ロビン・フッド』は貧乏人が金持ちをブチ殺す話だ。この時期のディズニーは節操のなさがすごい。
この時期の作品群の特徴を一言で言い表すならば、「リアリティへの接近」ということばになるだろう。それは一方では作画技法への3DCGの導入というかたちで現れ、他方で物語上では善と悪の単純な二項対立の脱却が図られることになる。
前者は『コルドロン』の奥行きのある大胆なカメラワークや作画法、『オリビアちゃんの大冒険』『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』での部分的な3DCGの導入に見られる。後者は『きつねと猟犬』での人種対立のメタファーとして描かれた動物間の争いや、多人種が共生する複雑な現実を猫の姿を借りて描いた『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』に象徴的である。
『きつねと猟犬』はこれまでのディズニー作品に見られた家畜たちの奴隷根性を初めて批判的に描いた作品であり、『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』と合わせて「社会的にただしいとされる」物語像の変容を見て取ることができるだろう。ただしこの時期の作品群は総じて地味で魅力がない。どうやら創業者ウォルト・ディズニーの死や主要スタッフの大量離脱の影響があったようだ。『コルドロン』は興行的にも大コケし、ディズニーの低迷を象徴する作品となった。
シャーロック・ホームズの翻案である『オリビアちゃんの大冒険』がかろうじて見ていられるという程度で、単品の映画作品としておもしろいものは少ない。『オリビアちゃんの大冒険』では、冒頭からネズミ女児のパンチラという一体どこに需要があるのかわからない謎サービスカットがあり、視聴者の集中力が乱される。
おすすめの作品:『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』
この時期ディズニーは批評的評価・興行収入の両面で復活を遂げ、一般に「ディズニー・ルネサンス」と呼ばれているらしい。本稿でもその表現に従う。
たしかに作品のクオリティは過去10年とは比べものにならないほど高く、ルネサンスと呼ばれるのも納得の時期である。一方で技術革新や価値観の変容は停滞気味で、歴史の流れとしてはさほどおもしろくないというのが正直なところ。ルネサンスの言葉通り、ある種の保守回帰の時代に当たる。
おそらくこの時期、真に革新的だったのは、作品の表層に現れる技術やテーマ設定ではなく、安定して高品質な作品を量産する社内の体制や組織づくりの技術にあったのではないか。
個別の作品として語れる部分は非常に多く、『リトル・マーメイド』は作画がよく、『アラジン』は見ていてたのしい。
『美女と野獣』でははっきりと他者理解をテーマに打ち出し、また女性主人公が男性からの求婚を拒絶する主体性を獲得するなどプリンセスものとして出色の出来栄え。他者を尊重することを覚えた野獣が救われ、他者の存在を最後まで容認できなかった村のヤンキーは破滅する。主人公が読書好きでヤンキーと話が合わないインテリとして描かれる点も珍しい。ただしこの他者理解はプリンセス側に一方的な負担を強いるかたちとなっている側面が強くあり、なかなかむずかしい部分もある。
『ポカホンタス』は白人によるアメリカ侵略・植民地化を矮小化し美化するかなり最悪のお話で、案の定ネイティブアメリカンの民族系団体にかなり怒られたようだ。引き続き怒られてほしい。
『ターザン』もインディアンをゴリラに変えただけで『ポカホンタス』とほぼ同類型のお話ではあるが、最後に白人研究者たちがゴリラの部落に居残ることでギリギリのバランスを取っている。ここにはターザンとポカホンタスの男女差が絡んでおり、単純にターザンのほうがいいとも言いがたい。
『ノートルダムの鐘』は強引にハッピーエンド化されているという不満はあるものの、子供向けの大作映画で障害者の活躍を描いた点は積極的に評価されてよいだろう。そもそもディズニー作品には『ノートルダムの鐘』以外にも障害者がやたらとよく出てくる。アメリカ社会には障害者を積極的に受け入れる土壌があるからできるのだとは思うのだが、日本のコンテンツおよび社会全体でも頑張ってほしいポイントである。東京ディズニーランドでもべつに障害者見かけないし。
そのほか『ムーラン』『ターザン』ではそれぞれ3D技術の進歩を見て取ることができる。
みたび低迷期である。『ダイナソー』に代表されるように3D映画への本格的な移行が始まり、2D映画最後の全盛期に当たる。
作品としては『リロ・アンド・スティッチ』がずば抜けてすばらしい仕上がりで、商業的にも大成功を収めた。『リロ・アンド・スティッチ』は王子様に救われるというプリンセスものの物語類型とは異なる、弱者同士が助け合う疑似家族モデルを明確に示した重要な作品である。
自分の欲求をうまくコントロールできない少女リロと、破壊衝動を植え付けられ誕生した人工生命体スティッチが、貧困家庭のネグレクト問題とSFアクションを背景に成長していく姿が描かれる。キャラクターデザインはかわいらしく、作画から細かい小ネタに至るまで非常に丁寧に作られており、娯楽作品としてもすばらしい。リロの姉・ナニの恋人もいいヤツで好感が持てる。
残念ながらディズニー映画ではこのあと疑似家族的な想像力は発展せず、プリンセスものという旧来の枠組みのなかで無理やり「価値観のアップデート」を図ることになっていく。
『アトランティス 失われた帝国』はディズニー映画には珍しく人がバンバン死ぬ作品で、ふしぎの海のナディアや宮崎作品みたいなものをアメリカ人が真似して作るとこうなるのかといった印象。ガバガバ設定とご都合主義が目につき、リアル路線なのかファンタジー路線なのかどっちつかずの失敗作だった。ただし主人公にオタク青年が採用されている点は注目が必要で、これ以降ディズニー主人公はイケメン・マッチョではなく非モテ・オタクが主体となっていく。
『白雪姫』で人間扱いされていなかった非モテの小人たちが「社会的にただしいとされる」物語の主人公となる時代を迎え、しかもそれが日本のアニメの強い影響化で発生しているわけで、価値観の大きな変化を感じ取ることができる。ただし、『白雪姫』の王子様はあれはあれで人間味のかけらもない平板なキャラクターではあるので、モテ非モテという面ではそこまで単純明快な話ではない。
『ブラザー・ベア』は殺した相手の子を育てるというなかなか攻めたお話ではあるのだが、最終的にファンタジーに着地するせいでどうも軸がブレる。
続く
恫喝とパワハラで人を動かしてくれる冷徹漢の河野太郎は、全く同じタイプの菅首相に重宝されたが、さすがに党内には毛嫌いしている人や、一緒に仕事をしたくないと考えている人が多い。なので、国会議員票だけなら岸田にも目がある。
しかし地方全国の自民党員が何を考えているかというと、「自民党が安定して政権の座に居続けること」である。政策がネオリベだろうがなんだろうが、大して関心はない。河野太郎とはすれ違う機会すらほとんどないのだから、人間性などどうでもいい。そうすると自ずと、「選挙で勝てそうな顔」が絶対的な基準となる。つまり、河野>>高市>>>>>>>>>野田>>岸田である。
エゴサブロックを誹謗中傷でブロックしたという真っ赤な嘘を平然つくような河野太郎の人間性のひどさは、ネット民に知られているだけで、テレビしか見ない地方の中高年男性の自民党員は全く知らない。そしてテレビは既に、上述の真っ赤な嘘を突っ込むことすらしていないように、河野太郎に忖度しはじめている。これまでの言動から見ても、メディアに圧力をかけたり、政権に批判的な研究者をしばきあげることは、菅首相以上に熱心にやるだろう。正直日本から脱出したい気分。
6:30 出社
7:30 恫喝手数料会議「今日はどこでいくら予定してんだ!!募集物はいくら入るんだ!ぜってえにやれ!!」など朝から恐怖政治。
8:00 管理職が会議で15分だけマターリ幸せな時間を楽しむ。タバコ吸ったり新聞読む。予定がある場合は客に電話or訪問
8:15 管理職の会議が終わり、課長や支店長がご登場。早速叫び始める。
「ボーっとしてんじゃねえ!!電話しろ!!予定たてろ!!○○今日上がるぞ!!」などまくし立てられる。
8:50 前場スタート10分前テレコールスタート。支店長がふんずりかえってるのを横目に鬼テレコール。
9:00 前場スタート。キチガイ課長が「寄り付きいぃぃぃ!!!!」と叫ぶのを横目に電話かけて注文取る。
10:00 支店長&課長が「○○いいぞ!!!」と叫んでる中、同時に手数料報告。
それなりの数字が出てる場合 → 「株はもういいから客先行って投信決めてこい!!」
数字が出てない場合 → 「どうすんだ!!てめえは!!」と言われ必死に注文取る。
12:00 客から後場の注文を取る。自分は外回りに行くので客への電話報告を上司にお願いする。
12:30 外交のため支店からとりあえず脱出。どうすっかなぁ・・・、もう辞めたい・・・、など物思いにふけながら歩く。
13:00 とりあえずマックor喫茶店で休憩する。頭の中はどこで○○入れてどこどこ訪問しよう、などでいっぱい。
14:00 客先へGO。
~ 1時間に1回ペースで進捗状況の電話が入ってくる。「どうなってんだ!!いくら入るんだ!!
17:30 取れるまで絶対帰ってくんな!!!」など出るのも嫌になる内容。客先にいて電話に出れない場合「てめえ!!何で電話出ねえんだ!!」など波状攻撃を受ける。外を歩いていて悲しくなってくる。
18:00 帰社。速攻で外回りの成果報告。
支店長が進捗状況を逐一ホワイトボードに書き込んで煽りまくる。 「残り○○万だぞ!!!!!なくなっちゃうぞ!!早くやりやがれ!!」
支店長が仁王立ちで叫ぶ。
19:30 募集物の詰め状況を報告。「おまえらどっかねえんかよ!!!探してんのかよ!!」煽られ続けながら電話攻撃。
20:00 取りあえず全員での募集物詰め作業終了。手数料恫喝会議夜版スタート。
「てめえは給料いくらもらってんだ!!てめえの給料の10倍はやれ!!何でオレはやってるのにおまえらはやんねえんだ!!明日はどうすんだ!!」
20:30 「おう、てめえら明日まで何とかしとけよ!!」と捨てゼリフを残し支店長帰宅。
課長は個人的な客に電話で世間話&明日の注文を取る。営業マン無論電話で詰める。
21:30 とりあえず詰め終了。課長帰宅。営業マン同士でヤバイなぁ・・・、どうすっかなぁなど話しながらとりあえず客に電話。
22:00 顧客ファイル整理や伝票の整理などをやる。日誌を書く。
22:40 退社。
0:50 就寝 悪夢
政治家の失言は時に致命的なダメージを政権または政党そのものに与える。酷い時には、党そのものが消えてなくなりそうになるほど大きな傷跡を残してしまう。
そんな失言が致命傷となった政治家のうち、2000年~現在までで失言王ベスト5を選んでみたい。
後に詐欺とまで言われる大胆なマニフェストを掲げて政権交代を果たした民主党政権だったが、財源の疑問などは当初から囁かれており、政権担当能力に疑問を持つ人は、自民党支持者を中心に少なくはなかった。
そうした中で、米軍普天間飛行場の返還合意から14年目。民主党の鳩山由紀夫が発した「最低でも県外」の言葉をきっかけに、移設計画が問い直されることになった。
この一連の流れの中で、鳩山自身が同盟国であるアメリカから「ルーピー」と呼ばれてしまうなど、交渉は迷走を極めてしまい、政権担当能力の無さを日本の内外に喧伝する事となった。
その後に続く菅直人政権、野田政権も、東北震災時に失言などがあり、イメージを挽回するどころか悪化させてしまったのだが、民主党は駄目だという印象を決定づけた一言が「最低でも県外」であったと言える。
鳩山の場合は、現在の彼を見ても「最低でも県外」発言がなかったとしても、別のどこかで民主党政権を終わらせていたに違いないのだが、それにしてもだ。
失言の多い首相だった麻生なので、取り立ててこの発言が致命的な失言だったとは言わない。この言葉自体は、今から振り返ってみれば若者に向けるには常識的忠告であるようにも見える。
だが、2009年ころは、麻生おろしでメディアというメディアが騒いでいた時期だったから、あらゆる言葉が失言であるように扱われてきた。麻生の言葉尻を捉えてあらゆる批判が行われ、
挙句の果てには、ほっけの煮つけを食べたと言った(ほっけに煮つけ料理はないので庶民感覚が備わってないという批判)、カップラーメンの値段を知らない、ホテルで高級なカレーを食べた、と言った批判を受けるに至った。
国会では、漢字を読み間違う麻生に対する漢字クイズが繰り返され、異常ともいえる麻生おろしによって自民党は壊滅的なダメージを受け民主党政権が誕生したのだが、一連の流れの象徴として冒頭の失言を挙げたい。
狂想劇ともいえる麻生おろしによって誕生した民主党政権が後に悪夢と呼ばれるものであったことがトラウマとなり、メディアの民衆への影響力が大幅に小さくなる事にも繋がった。
後の安倍政権があれほどの攻撃を受けても、まったく揺るがなかった最大の理由には、メディアが自らの信頼を「麻生おろし」によって失っていたことが挙げられるだろう。
2017年の衆議院選挙を前にした9月25日に小池百合子は希望の党を結党した。結党当初、民主党への失望、長く続く安倍政権への批判の声を背景に、政権交代が実現するのでは?と言う勢いを示すことになる。
小沢一郎率いる自由党、民進党(民主党から名称変更)との連携や合流が囁かれると、民進党は希望の党との合流を決定し、事実上の解党を選択する等、巨大政党誕生の流れは着実に出来ていた。
もしも、民進党との合流を果たしていたら、政権交代は決して白昼夢ではなかった・・・だが、小池は民進党との合流を問われると「様々な観点から絞り込みをしていきたいと考えております。全員を受け入れるということはさらさらありません」と答える。
排除するのか?と問われ、排除いたします、とまで答えた。この発言が、排除の原理と呼ばれマスコミの強烈な批判を受けるに至って希望の党の勢いは大幅に失速し、排除される予定の議員たちが結党した立憲民主党にも獲得議席数で及ばずに衆議院選挙を終えた。
民主党への失望を背景にした発言だったのだが、「排除いたします」とまで言った小池の発言は、彼女の生涯における痛恨の失敗だろう。
民主党政権を打倒し、希望の党の危機をも跳ねのけて快勝し、株価を上昇させ、今日の外交・安保の基礎となる多くの重要法案を通し、大きな成果を挙げ得意絶頂にあった安倍晋三が、森友学園の土地売買に関与していたのでは?との疑惑を向けられた際に行った発言。
事実として、今日に至るまで首相夫妻が関与していた証拠は何一つなく、首相夫妻の関与を訴えて来た籠池夫妻が有罪となり「安倍犯罪がとか、私らも(安倍政権打倒勢力に)乗っかかって、そうやなぁと思ってました。」と答えるほどでもあり、
安倍本人には何もない事が分かっていたのかもしれない。だが、この発言によって野党側に火をつけることとなり、のちに続く加計学園問題、桜を見る会へと終わりのない追及の流れが続くことになる。
安倍を犯罪者のごとく扱おうとする野党やメディアの言動への対処の為に、安倍政権は予算委員会の質疑応答で多くの時間を浪費する事となり、世論が厳しさを増す中で以降の安倍政権は以前ほどの強さを見せられなくなった。
余計な一言を言わなければ、悲願だった改憲への道筋も立てられた可能性もある。それだけの成果を残した政権だった安倍政権だが、安倍の悪癖が出た一言によって改憲と言う100年先に残るレガシィを作ることは出来なかった。
無能も侮りすぎれば致命傷になる、という教訓が安倍には残ったかもしれない。
2000年以前には自民党と堂々と渡り合い、与党として政権をも担当した経験を持つ社会党が壊滅する切っ掛けとなった発言が 「拉致などない」だ。
北朝鮮と深いつながりを持っていた社会党は、ずっと以前より「拉致などない」という姿勢を貫いていたので、正確には2000年以降の発言ではないかもしれないが、社会党が壊滅したのは2000年代初頭なので、ここに挙げたい。
2002年小泉政権において、安倍晋三官房副長官の尽力によって、小泉首相の電撃的な訪朝が実現した。
この際、金正日総書記は首脳会談にて、横田めぐみさん、田口八重子さん、市川修一さん、増元るみ子さん、原敕晁さん、有本恵子さんと、松木薫さん、石岡亨さんの計8人の死亡を主張。
一方、地村保志さん、(浜本)富貴恵さん夫妻と、蓮池薫さん、奥土祐木子さんに加え、日本政府が把握していなかった曽我ひとみさんの計5人の生存を伝えた。これによって「拉致などない」と言ってきた社会党の立場は瓦解する事となった。
死亡した有本さん、石岡さんは生前、北朝鮮から家族に宛て手紙を出しており、その手紙を元に社会党を頼ったものの、土井たか子から冷たくあしらわれた事が知られている。そして、家族が手紙を受け取った二か月後に有本さん、石岡さんは亡くなってもいるという。
社会党は従来の態度を改めて謝罪したが、こうした事実が明らかになる中では無意味でしかなく、2005年に行われた選挙では党首である土井たか子すらも落選する程の大敗を喫し、社民党として名を変えた今日では、党として存続すら危うくなっている。
かつて2大政党を期待された社会党だったが、「拉致などない」と言い続けて来た一言によって、そのすべてを失った。土井たか子は、政治史にのこる女傑でもあるが、同時に最悪の裏切り者としても記憶される事となった。
印象深い失言を犯した人を並べてみても、その歴史において相互に関連があり、政治の歴史と言うのは面白いもんだなと感じさせられる。
仙谷官房長官の「暴力装置」、柳澤 伯夫の「産む機械」、松本龍の「知恵を出さないやつは助けない」など、味わい深い失言は多くあっても、ダメージの深さではどうかなと個人的には思っているのだが、
皆さんの中には、他に印象に残っている大きな損害を招いた失言はあるだろうか?
民主党寄りのメディア関係者たちも「鳩山総理は逆転ホームランになるような、何かアイデアがあるのではないか」と言っていた。
実際には、そんなものは無かった。
枝野幸男の支持者たちは、立憲民主党の情報発信について「小出しにしているだけで、良い政策のアイデアはこれから出してくる」と言う。
鳩山由紀夫の記憶を失っていない有権者は、枝野幸男も鳩山と同じではないかと疑っている。すなわち、ありもしない良いアイデアを持っているかのように偽っているだけだ、と。
自民党が言う「悪夢のような民主党政権」は、明らかに言い過ぎだろう。しかし、三味線を弾いて有権者を騙したことは総括が必要だろう。
自分たちは自民党と違うというならば、自分たちの過ちを振り返り、鳩山由紀夫が嘘をついたと素直に認めるところから再出発してはどうだろうか。どうせ一朝一夕で支持率が回復するわけではないのだから。
はてな村にお住まいの野党支持者・与党支持者の皆さん、こんにちは。今秋の衆院選と政権交代に向けて、いかがお過ごしでしょうか。おそらく衆院選で一票を投じるまでは、とくに何もしていない方々が大半だと思います。もちろん投票所へ足を運んで一票を投じれば、それで十分に有権者の務めを果たしているとは思います。
以下に長々と記すことは、仕事や育児にお忙しい皆さんには負担となるものです。私も仕事と育児に追われて日々忙しいのですが、ちょっと現状を放置するとまずいなと危機感があり、筆をとった次第です。
長くなるので3行にまとめると、こんな感じです。
さて、今月に入ってから毎日のように、はてな匿名ダイアリー(以下 増田)には、野党に批判的な投稿が続いています。
菅政権下では野党候補の勝利が続いていたことを考えると、この増田の傾向というのは必ずしも世論と連動している訳ではなく、一部の熱心な与党支持者による活動であると考えられます。「一部」と書くと、立憲の支持率のほうが一部だろ、などと瞬時にコメントする輩も現れるのですが、いったん無視しますね。
たとえば2017年頃には野党叩きの記事の量産依頼が、クラウドソーシングに載っていたと報道されたのは記憶に新しいところです。
https://buzzap.jp/news/20170922-anti-opposition-party-blog-movie-crowdworks/
今回の増田大量投下が、同様の組織的犯行かどうかは分かりません。一部の熱心な与党支持者が忙しい仕事の合間を縫って懸命に記事を書いているなら、ご苦労様と思いますし、あるいは今回もクラウドソーシング等による仕事なのであれば、やはりご苦労様ですと労いたい気持ちも少しはあります。決して公言できない仕事には誰もお疲れ様・ご苦労様と言ってくれないだろうからね。
しかし気をつけなければいけないのは、一見して無意味にも見える増田大量投下が、長期的には大きな影響力を持ってしまう可能性があることです。莫迦の一つ覚えのように安倍晋三が繰り返した「悪夢の民主党政権」が、サブリミナル効果のように人々の意識に刷り込まれ、震災や原発事故のマイナスイメージとも重なって、たしかに悪夢だったなと広く信じ込まれています。民主党政権の具体的な政策を一つ一つ検証したうえで批判するよりも、ひたすら「悪夢の民主党政権」と繰り返すことが効果的に働いています。
テレビで坂上忍なんかが「野党はだらしない」と連呼していたのも同様です。本来、与党・野党は固定的なものではなく、政権交代によっていつでも入れ替わるものですが、それを「野党はだらしない」「野党は政権を担えない」「野党は永久に野党」のように印象付けることで、政権交代なんて論外だと人々に刷り込むことに成功しています。
このような勢力に対抗して野党が支持を伸ばし、政権交代するには、どうすればいいか。
何の答えにもなっていないのですが、まずは政権交代することが必要です。野党を与党に、与党を野党に入れ替える。そうすれば自民党支持者たちが連呼していた「野党はだらしない」が封じられます。野党はだらしないから野党は無視していいとは言えなくなる。いつでも政権交代によって与野党が入れ替わることを前提に、建設的な議論が始められます。もしも野党の自民党が議論を拒否すれば、今後こそ「野党が国会をサボっている」のブーメランからは逃れられないでしょう。
そして今回の選挙で政権交代するために、たとえば、ひたすら念仏のように政権交代を唱えるのでもいい。ツイッターでも増田でも、政権交代が実現したらどんな社会になると思うか、どんな社会を実現したいかを大量に投下する。精緻なロジックを考えるよりも、まずは自分の願望を下手でもいいから文章にしてみる。2行や3行の短い文章でもいい。数が集まることで、政権交代の実現を願ってい大勢の人々の存在にようやく世間が気付く。言い換えれば、おとなしくしていると現状維持を望む人々の大きな声にかき消されてしまう。どんなに面倒でも声をあげなければならない。どんなに忙しくても、どんなに時間がなくても行動しなければならない。
文章を書く時間が本当にまったくとれない人は、ツイッターでいいねを押したり、増田をブクマして応援コメントをつけるのでもいい。少しでも注目されるように、自分のできることから始めてほしい。この記事に対しても応援コメントをお待ちしていますよ。
たとえ罵倒コメントが100個ついても、応援コメントが20個くらいあれば、なんとか心のバランスは取れるものです。かれこれ14年も増田を書き続けてきた私が言うのだから間違いない。いや、個人差はあると思うんで、もちろん応援コメントの比率が高いに越したことはない。
長くなったので3行にまとめますね。最初に書いたのと同じです。
衆院選は、与党支持者と野党支持者の戦いではありません。私は野党支持だけれど、与党を支持する友人は多くいるし、こんなことで対立するつもりはない。
しかし現在の与党による政治は、あまりにも野党支持者を切り捨てている。政権交代が実現したときには、自民党支持者が切り捨てられることは絶対にないと断言できます。なぜなら東日本大震災のとき、自民党の谷垣禎一へ副総理として入閣を要請したのは、当時の民主党です。あるいはコロナ禍の現在、臨時国会での議論を呼びかけているのが立憲民主党です。常に建設的な議論を呼びかけている民主党・立憲民主党と、それを拒否している自民党という構図があります。
自民じゃだめだで結論出てんなら立憲がいまいちそうに見えても立憲に入れるしかないよね?
自民はダメ、立憲はいまいちで立憲に入れずに自民に入れる奴は単なるバカなんよ
現在進行形で自民に期待を裏切られている最中なのに「ぼくちんの思ってた政策とちがう!」とか言って立憲を叩くのはまさにジャップならではの猿判断だとしか思えないね
やらせてみればいいじゃん。いい方に転がるかもよ。やらせてみればで民主党政権は悪夢だったとか言うアホおるけど、立憲が政権とったら総理は枝野だ。鳩山も管も野田も総理にならん。
一回の失敗でチャンス取り上げるのまさしくジャップしぐさだし(そもそも失敗だったの?)、一回失敗した安倍には二度目のチャンスあげたあたりダブスタジャップ猿極まってるよね
現状がクソであるなら「やらせてみればいい」に賭けるしかないのにぐだぐだ立憲叩いて憂さ晴らし。ゆでガエルになってくたばればいいのにね
今回の立憲はアレは、たしかに個人的にはいかがなものかと思うのだが、ここで安倍政権のことを考えてみる。
安倍政権は一般向けのメディアでは「ソフトな安倍さん」を演出して、アベノミクスなどの経済政策を重視していた。他方、いわばコアの支持者層に向けた情報発信も熱心にやっていた。WILLやHANADAみたいな雑誌、SNSなどを活用し、いかにもコア支持層に受けそうなことをガンガン言う。
そういう支持層は数としては限られていて、選挙という面からだけで考えると重要性は乏しい。では全く意味がないかというと、そういうわけでは決してない。極右雑誌やSNS、熱心なファン層は、「悪夢の民主党政権」「批判ばかりの野党」「国防に無関心なサヨク」等々のフレーズを繰り返し強調することで、人びとのものの見方に知らず知らずのうちに影響を与えていく。こういう積み重ねが、より党派性の薄いメディアや情報番組にも浸透し、「いろいろあっても、やっぱり頼りになる自民党」という認知につながる。
菅政権の場合、菅さん自身に熱心なファンがそれほどつかなかったことで、短命政権に終わったのだろうと思う。次に高市さんが首相になれば、本人がデンパを飛ばしすぎて有権者に愛想をつかされない限り、コアなファン層に支えられて意外と長期政権になるかもしれない。
立憲については、潜在的なコア支持層は、つねに共産党やれいわなどに流れる可能性があり、自民党よりも置かれている状況は厳しい。それでも、多様性の尊重、日本学術会議の任命や入管ビデオ公開、モリカケ調査などをアピールすることは、コア支持層向けには妥当だろうとは思う。でも、それをNHKなどのマス媒体でアピールするのはやはり感心しない。マス媒体向けには大多数の有権者の生活に直結する政策を掲げ、コア支持層向けには別のチャンネルで多様性等の方針をアピールするべきなんじゃないかとは思う。
ただ、もしかすると、選挙協力の関係で、他の党も同意してくれそうなこと(=現政権に対する批判)を前面に出さざるをえないのかもしれないと思うと、ちょっと同情的にはなる。
これを思ったきっかけは、この増田 https://anond.hatelabo.jp/20210913121840 で、アベノミクスの検証もいいんだけど、民主党が与党時代って結局総括したんかなぁー、って思った。
悪夢のような民主党政権って煽られた時に、その発言自体を非難している声はよくあったけど、これこれこうだから悪夢ではないって根拠を提示して否定している議論は全然されてない気がする。
自分は、その当時は生活が結構ギリギリ(最悪期は、来月の家賃が払う当てがない程度)で、おそらく政治方面を見る余裕が無かったので、ほとんど覚えてない。印象に残ってるのは、漁船が激突したビデオを隠ぺいして、それがyoutubeに流出したくらい?
一応先に表明しておくけど、自分はどちらかというと自民支持だけど、過去に自民以外の党に何度か投票したことがある程度の支持。
多分、工作員とか工作活動とか言われるかもしれんけど、文字を書いてお金貰えるんなら幾らでも工作するんで、是非その工作を募集してる所を教えてほしい。
・追記
悪夢だな。国の舵取りができる人にまともな人選が期待できるようになるように、身近な選挙でヘンテコな人が当選しないように頑張ろう。
コロナ禍以降、安倍も菅も左派クラスタからは「無能」「やる気がない」「ちゃんと話せ」という批判の大合唱だったけど、「有能」「やる気がある」「ちゃんと話している」感がある人基準で言うと、総裁選候補者の評価は以下のようになってしまう。
高市>>>>河野>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>野田>>岸田
一見して悪夢としか言いようがない。そこまで有能でなくてもやる気がなくてもいいから、法律や専門家を普通に尊重し、医療と社会保障を重視し、竹中平蔵や高橋洋一のような政商や詐欺師を寄せ付けないような、当たり前の人が総理になってほしい。「無能」「やる気がない」「ちゃんと話せ」なんていう批判はいい加減やめてほしい。
(追記)
「現首相は無能でやる気もない。ちゃんと話すべきだ」が「次期首相は有能でやる気があってちゃんと話しさえすればどんな思想信条の持ち主でもかまわない」に脳内翻訳される人ってどんな文章を読んできたんだろうか
https://b.hatena.ne.jp/entry/4707979859292663874/comment/B2igwzEE
左派がそういうことを言っているわけじゃない、ということはわかっている。言いたいのは次のこと。つまり、左派が現政権の指導者が「無能」「怠惰」であるというイメージを世論に広めるのに成功して、政権支持率が下がって崩壊したとして、その次の民意が求めるのは当然ながら「有能な」「やる気がある」人になる。そうなると、次の選挙で政治家が何に頑張るかと言えば、自らの「有能さ」「やる気」を演出するパフォーマンスの競争になってしまう。すると今の総裁選候補者では、相対的には極右高市かネオリベ河野になってしまう。少なくともイデオロギーに無関心な大多数の国民にとってはそうだ。
そもそも菅首相が何がダメかと言えば、法律や憲法すらちゃんと守らない、国民への説明が下手という以上にする姿勢がない、学者や専門家を露骨に軽視する一方で怪しげな政商や論壇ゴロからアドバイスをもらう、といったことのはずであって、こうしたことを決してしないのであれば、そこまで有能じゃなくても全く構わない。そもそも「有能な」「やる気がある」人などどこにもいない、という前提で政治を考えるべきだろう。有能な首相よりも、常識のある当たり前の政治のほうが圧倒的に重要。