はてなキーワード: 弊害とは
ゴルフのような繊細なスポーツでは、しばしば体が動かせないという症状が発生する。
これはプロゴルファー特有の症状で、アマチュアゴルファーには無縁である。
なぜプロゴルファーに発生するのか?
それは、プロとして一流になればなるほど大事な局面でミスをするという失敗体験が積み重ねられるためである。
ミスの蓄積が脳にインプットされ続けることによって、脳の信号にエラーが起こる。
すると正常な動きができなくなり、一流のプロゴルファーが素人のようなミスをする。
これは恋愛においても見受けられる。
俗にいう「こじらせ女子」「こじらせ男子」は医学的にはイップスの症状と合致する。
アメリカ・ミネソタ州の大病院メイヨー・クリニックの研究では、すべての競技ゴルファーのうち33 - 48%にイップスの経験があるという。
また、イップル発症ゴルファーの過半数以上が25年以上プレーしている熟練競技者であった。
偶然なのか、「こじらせ女子」「こじらせ男子」の恋愛経験も25年以上だという説が濃厚だ。
14才、中学二年生の時に初恋をしたと過程すると25年後には39才。
その間、数多くの出会いと別れを繰り返すことによって脳が恋愛に対して正常な信号を送れなくなる。
発症者は、周りの者から「こじらせ女子」「こじらせ男子」などと揶揄され、人間的に問題があると誤解を招くなどの弊害をきたす。
まさかの保守な女性保護を語る男性フェミニスト。日本のフェミニズムはお気持ちフェミニズムなので、女性の権利は大事だよね女性を庇わないと…だって女性はかわいそうな被害者なんだから保護して守ってあげないとみたいな耳障りのいい事をいう保守な男性が侵入するのを防げないんですよね。— 多摩湖♡7月3日多摩湖バー京都エデン (@tamako_han) 2017年9月1日
「女性を蔑視したり不当な待遇にすることは許さない。もちろん、そのかわり優遇してもらったり特別に配慮してもらう必要もない」。これがフェミニズムの男女平等理念だと思う。これに対し、いまTwitterにはびこっている「女性を優遇するべき。とくべつな配慮をするべき」、というのはフェミニズムと似て非なる何かだ。一種の男女差別であり、逆バックラッシュといってもいいのではないだろうか。 (いや、ただのポリコレ棒では)
しかし、現実差別が解消されていないいまの状況で「一次的に」「例外として」女性を優遇するべきということならわからなくもないかなーと。そういうことを考えている。いわゆるアファーマティブ・アクションの問題だよね。(いや、ただのポリコレ棒では)
『幸色のワンルーム』に関して、純粋にロジックで考えるなら放送中止はできないというぼくの考えは変わらない。でも、社会が成熟していないという現実に配慮してそのロジックを捨てるべきだ、それが成熟した態度だ、ということなら話はべつ。それなら理解できる。ただ、ぼくはそれでも理を通すべきだと思うけれど。なぜなら、理を捨てて現実の女性の問題に配慮を示してしまうとそれはそれで色々とねじ曲がるから。フェミニズムの思想とはそういうものでしょう。それが、あるいは弱者に寄り添うということなのかもしれないということはわかるけれど、それでも。フェミニズムは男女平等を主張する。(いや、ただのポリコレ棒では)
しかし、現実の社会はまだ男女平等に程遠い。だから、「現時点では」女性に対する配慮が必要だ、という理屈はわかる。しかし、そこで女性に対し特別な配慮を示してしまうと、社会の改革は進まない。男女平等という理念は浸透しない。これはたしかにむずかしい。ぼくは、やっぱり男女平等の理念を浸透させ、社会を前進させるためには女性を特別扱いするべきではないと思う。しかし、それはぼくがそう思うというだけであって、唯一の正解ではないだろう。じっさい、そのことによって犠牲者は出るわけだし。そのことはよくわかった。なので、「現時点では」女性に対する配慮は必要だ、そのためには理念を捨てるべきだ、という考え方は否定しない。(いや、ただのポリコレ棒では)
ただ、ぼくはそちら側には立たない、というだけだ。そういう考え方とは敬意をもって対立する。これ、ぼくが何をいっているのか理解してもらえるかな?女性は普遍的に特別扱いされるべきだ、という思想はアンチ・フェミニズムとかバックラッシュといっていいくらい退行的だろう。しかし、いまここにある問題に配慮して「一次的に」特別扱いされるべきだという理屈は、フェミニズムではなくても理解はできるものではある。そちらのほうが現実的なのかも。「一次的に」女性の問題に配慮し女性を特別扱いすることを認めたとして、社会が成熟して男女が真に平等になる日はそれではいつ来るのか、ということは気になる。(一次的ってなに?辞書で調べたら「まずもって」「第一に」「優先して」っていう意味らしいけど、じゃあ「まずは」って書けば良くない?なんで一次的なんていい方をするの?その表現する意味ある?馬鹿なの?)
一次的にでもフェミニズムの理念を曲げてしまったら、いつまでも社会は前進しないのではないか。(「一次的にでも」っておかしくない?第一にしたんだから妥協の産物みたいな表現として使うのはおかしくない?言葉にこだわってる演出をしておきながらなんか言葉の使い方おかしくない?それに社会の前進なんで望んでないのでは。というか私もそんなこと望んでない。社会の前進なんで曖昧としたものを望んでる人なんているの?)
男女差別社会において、男女平等を実践することによる弊害はたしかにあるだろう。それくらいなら女性の抱える問題に配慮して男女平等の理念はとりあえず捨てるという選択肢はありえる。ぼくはそちら側に立たないけれど、納得のいく話だ。「今日」を取るか「明日」を取るか、という話なのかなあ。(いやだからポリコレ棒では?今日も勝つ、明日も勝つ。すべて勝つ。気合だ根性だって世界でしょ。理念を捨てたりしないよ。だってポリコレは正しいんだから。正義なんだから。理屈なんてしゃらくせえ。黙ってろボケの世界だよ。無駄な抵抗だよ。今でも理が重視される世の中だといつから錯覚していた?)
「今日」ではなく「明日」を取る、というと良いようだけれど、それじゃ、その「明日」はいつになったら来るの、という問題はある。「今日」の問題から目を逸らしているだけじゃないの、と。それはそうかもしれない。だから、ほんとに正解がある問題じゃないんだよね。(正解はないと言いながら自分のほうが正しいと思ってるよね。理は自分の方にあるけど感情には配慮しますよくらいの立ち位置だけど本当にそうなの?あなたの正気は誰が保証してくれるの?)
ぼくはそれでも差別的な女性優遇に反対だけど。(そもそも差別的な女性優遇というこの人の評価は正しいの?ポリコレ棒の人たちの主張はもともと差別的な男性優遇を是正して平等に戻してるだけって言い分でしょ。これに対して反論できるの?女性が差別的に優遇されているとは思わない、といわれたらどう反論するの?そのあたり感覚で喋ってるだけで、自明のことのように語られてもなぁ)
たとえば、現実の女性のために一時的な配慮としてある種の表現を規制する。それが差別的な社会における一次的な配慮だというとして、いったいいつ差別がない成熟した社会は訪れるのか、という問題がある。だから、「女性の苦しみに寄り添う」ために表現を抑制することにも反対かな、と。ただ、そういう気持ちはよくわかるので、そういう立場に立つことが悪いとは思わない。それはたぶんフェミニズムでもなければ男女平等でもないけれど、ひとつの現実的な方策としてありえるとは思う。
(なんかさっきから気持ちはわかるけどフェミニズムや女性は馬鹿だなって見下すような目線入ってませんかねこの人。というか気持ちだってわかってないだろ。ただのポリコレ棒では)
1)「よその国では問題ない」じゃなくて、よその国でOKにしてたら問題が起きたから法律作るときにあらかじめそこを塞いだだけ。それで成り立たないのであれば、成り立たせてはいけない商売。
2)安全やら快適やら風紀の低下、それに伴う資産価値の下落などの損害を近隣住民に、その後始末を行政に押しつけて知らんぷりする事業は禁止されるべき。
3)就活のために上京する知人を1週間部屋に泊めた時に謝礼受け取るのと「業として行う」ことの差を「グレーゾーン」とか言って誤魔化すな。
4)泊めた知人が夜中まで騒いで近隣住人に迷惑掛けたら責任取るのは部屋主。それやってる民泊オーナーが大半ならこんなことになってない。近隣住民犠牲にして小遣いを稼ぐためにローン組んで分譲マンション買うような奴らをエアビーが排除できないんだから残当。
5)そもそも「大半の個人事業主」ってどこまでホントなの? 金持ちが安い物件を次々と民泊用に押さえて、低所得者が住む場所を失うような弊害が「よその国」では起きたが、日本の民泊もオーナー数はともかく実際の稼働率・利用率ではそっちが主流になるんじゃないの?
http://hissi.org/read.php/livejupiter/20180609/RTdobzJUMHRk.html
791 :風吹けば名無し[]:2018/06/09(土) 10:35:52.64 ID:E7ho2T0td
ハリルを追い出したら良くなったの鎖国?
それは無いわ
825 :風吹けば名無し[]:2018/06/09(土) 10:37:16.97 ID:E7ho2T0td
負傷交代の大迫「相手に走らされて、厳しかった。あのやり方だと誰でも30分で死ぬ」
【朗報】0-2スイス戦後のサッカー日本代表、練習予定を変更してオフを満喫
420 :風吹けば名無し[]:2018/06/09(土) 10:52:29.21 ID:E7ho2T0td
叩くべきはハリルでしょ?
【朗報】0-2スイス戦後のサッカー日本代表、練習予定を変更してオフを満喫
481 :風吹けば名無し[]:2018/06/09(土) 10:54:38.03 ID:E7ho2T0td
武藤がマッチしてなかったり、大迫にゴールへの意識が無いのはハリル体制を3年も敷いた弊害やぞ?
【朗報】0-2スイス戦後のサッカー日本代表、練習予定を変更してオフを満喫
502 :風吹けば名無し[]:2018/06/09(土) 10:55:08.40 ID:E7ho2T0td
ハリル時代よりは格段に良くなってた
チーム全体がね
それだけはほんと良かった
【朗報】0-2スイス戦後のサッカー日本代表、練習予定を変更してオフを満喫
539 :風吹けば名無し[]:2018/06/09(土) 10:56:40.40 ID:E7ho2T0td
ハリル時代に間延びしたフォーメーションを埋める為に壁役に徹していた弊害が出たね
大迫はハリルの一番の被害者
【朗報】0-2スイス戦後のサッカー日本代表、練習予定を変更してオフを満喫
566 :風吹けば名無し[]:2018/06/09(土) 10:57:51.04 ID:E7ho2T0td
ハリル時より縦に上手く繋がってたでしょ?
ハリルは闇雲に縦に縦にという意識だけだったよ?
【朗報】0-2スイス戦後のサッカー日本代表、練習予定を変更してオフを満喫
630 :風吹けば名無し[]:2018/06/09(土) 11:00:29.81 ID:E7ho2T0td
ハリルサッカーより組み立ても良かったぞ?
ハリルがやってたのはW杯に出れないやつばっかだし
唯一のブラジルやベルギー戦ではハリル戦術のせいで相手にボールを献上する仕様になってたの覚えてない?
【朗報】0-2スイス戦後のサッカー日本代表、練習予定を変更してオフを満喫
673 :風吹けば名無し[]:2018/06/09(土) 11:02:01.06 ID:E7ho2T0td
おまえよりサッカー見てるよ
【朗報】0-2スイス戦後のサッカー日本代表、練習予定を変更してオフを満喫
700 :風吹けば名無し[]:2018/06/09(土) 11:03:03.80 ID:E7ho2T0td
は?
おまえもしかしてチョン?
【朗報】0-2スイス戦後のサッカー日本代表、練習予定を変更してオフを満喫
730 :風吹けば名無し[]:2018/06/09(土) 11:04:01.38 ID:E7ho2T0td
確実に崩す方法忘れてるわ
【朗報】0-2スイス戦後のサッカー日本代表、練習予定を変更してオフを満喫
788 :風吹けば名無し[]:2018/06/09(土) 11:05:59.14 ID:E7ho2T0td
もしかしておまえ今日の試合がポゼッションサッカーだと思ってる?
さすがにそれは知能低すぎでしょーw
【朗報】0-2スイス戦後のサッカー日本代表、練習予定を変更してオフを満喫
828 :風吹けば名無し[]:2018/06/09(土) 11:07:23.92 ID:E7ho2T0td
ニヤニヤしながら見てるに決まってるわ
【朗報】0-2スイス戦後のサッカー日本代表、練習予定を変更してオフを満喫
873 :風吹けば名無し[]:2018/06/09(土) 11:09:05.12 ID:E7ho2T0td
は?
は?
は?
おまえハリル時代をビカし過ぎw脳ミソにカビ生えてんちゃうかw
【朗報】0-2スイス戦後のサッカー日本代表、練習予定を変更してオフを満喫
907 :風吹けば名無し[]:2018/06/09(土) 11:10:09.02 ID:E7ho2T0td
そ れ が ハ リ ル サ ッ カ ー
それよる100倍マシになってたが?
https://anond.hatelabo.jp/20180606170440
高い技術力、自己管理能力、イノベーションを生み出す能力、社会への影響力、生産性を高める組織力
全部やろうとするとすごいインプット量になる
その点出世だけの人は「会社内で高い地位を得る」だけに目標をフォーカスしているからやることが簡単。選択と集中。
この会社では成果は特に求められないんだろうし、むしろそういう会社をある程度選んで入ってしまえばあとはコネクションだけ
高いコミュニケーション能力も必要なく、ある程度ターゲットを絞ってその人向けのことをやり続ければいいだけ
本とかは読まないしとことん自分の意識は低く持つ。部下をけなすのも意識を低くもつには向いてる。そういう意味ではジャンプとか毎週欠かさず読むの意識高い。
意識を低く持ち続けるのはわりと大変ではなくて、本来人間は保守的に動きやすようにできているので難しくない
問題は他者の目や自分の正義感などあるが、程度成功した人がよくいう「他者の目はきにしない!自分がいいと思うことをする!」と同じことをすればいいだけ
自分の正義感や常識などは、狭い枠組みに入り込んでしまえば見るものは少ないし見えないようにすることも自分の意識の改変も簡単
会社がちゃんとしている限りこの簡単な作業だけで自分に利益がもたらされ続けるので賢いともいえるし、
もっと若い時にそういう成功体験を得たことある人なんだろうと思う
低いコストで最大限の利をもらう
ところで話は変わるが、人間が楽しいと思うことは自分で能動的に動いたことや考えたことや勉強することらしい
受動的にうけたものは消耗品として扱われるし、第三者が提供するものなので難しさがなくより刺激的なことを求めやすい
この出世の人は人生においてやることがかなりすくなく、多分暇だと思う。
しかし、自分を高めたりする意識の高いことをすると自分の価値向上作戦の弊害になるのでできない制約がある
意識を高めずに受動的にできることといえば、だれかの提供するソシャゲや決まりきった飲み会やパチンコなどに興じするしかなさそう
そういう点で自分で稼いだお金をかなり持っていかれるがある意味自分の意識を持ちづつける為の自己投資かもしれない
また、常識を改変するというのも実は楽しみを持つにはデメリットに働いていて、
自分の価値向上の為に改変した常識の中だけで生き、それに自問自答はしちゃだめなので、単純に犯罪の区別がつかなくなるリスクがある。
犯罪の区別がつかない上に誰かから与えられるものだけで楽しんでいるとより刺激を求めるので、単純に犯罪まがいのことをで楽しみを見出したり、
倫理も向上するとだめなので、誰かをいじめて楽しんだり、女性をないがしろにして楽しんだりするかもしれない
上の人のように潰せるほどのちからのある人とコネクションを作っておくというので回避できるが、コネクション相手との信頼が価値の要なので、世間体が下がることは自分の価値向上の為にはリスクであることには間違いない
自分の価値を自分の納得する複数の要素から得ようとしている人は、そもそもが他者からなにかを提供してもらうベースではなく自分で作り上げていくので人生そのものがクリエイティブになる
クリエイトは楽しいことであるので、生涯の人生の仕事に関わることすべてが楽しみになるので楽しいことを別に求めなくても構わなくなる
(エンジニアが息抜きにコードを書いているとか、絵かきが息抜きに絵を書いているような状態は、わりとクリエイティブに人生を生きている人はだれしもが近いことをしている)
組織内の出世のみを限定して目標にしている人は、他者(会社)から与えられるものを最大限にしようとする施策で基本受動的であり、楽しみにするには弱い。(そのために他の娯楽が必要になる)
結果、自分の価値を自分で創造する人はお金を少ししかもらわなかったとしても、
楽しみにお金をかければかけるほど自分に知見として蓄積され価値に反映していき、
もらうお金を自分の価値に変換する能力を持つこともできるので生涯的に浪費だけに使うお金は自然と少なくなる。
自分の価値を社内の出世と限定して最低限の手間で大量のお金をもらう人は、
楽しみを見出す為にはある程度浪費用のお金というものが必要になる上にそれは特に価値には影響しない(もしくはデメリット)ので
浪費の制限や、もともとの目標値を高く持てばお金に関してはある程度出費はおさえられるかもしれないが、
楽しみに制限があることは変わらない(自分で認識していなくても)
そうなると最終的にはさほどもらえるお金の差が飛び抜けて無いのであれば
のこりは、人生が楽しい人か、人生を楽しくするのに制限がある人かのどちらかということになって
わたしは前者がいいなぁって思った
2社ほどIT系のブラックな企業を渡り歩いて、今は普通の会社にいる・・・と言ってもどっちかと言うとホワイト寄りのグレーだが。
ふと日曜の朝に何となく考えて出した答えは「想定不可能なリスクが怖いから」だった。
新卒でブラックな会社(客先・社内開発問わず)に入るとそこの常識が新卒が考える業界の常識になり社会の常識になる、それに加えて
ブラックな会社は大抵いそがしいために不定期休があればまだましで24時間365日稼働だと1年を通して出社→通勤→退勤→帰宅→就寝になり新聞やテレビさえも見る余裕をなくす。
完全に社会から隔離された生活になり他の事が考えられない事態に陥る(自身も当時はPCとテレビに埃が被り寝るために家に帰るレベルで忙しかった)
そうなるともう他の事を考える余裕がない転職をする精神的な余裕もないし、ふと目に映る転職サイトの宣伝に誘われてスマホから転職サイトに登録しても
大したスキル(自社でしか通用しないスキル)しかなくネットで称賛されるような技能もない事に気が付き転職が想定不可能な高リスクな代物に見えてしまう。
最近のブラックな会社は開発・運用・サポートのメインな会社が多く場合によっては客先独自のカビの生えた不便で複雑なシステムを使うことにもなり知識が役に立たない事もある。
ブラック企業には真面目な人が本当に多い、そんな労働者を馬車馬の如く扱い動けなくなり次第追い込んで自己都合で追い出し追い出された人の悪評を社内に振りまく
この点はブラックな企業ならどこも同じ・・・・洗脳みたいな手法だ。真面目故に自分のせいでないのに自分のせいだと言って会社に謝罪する人もいる。
そんな真面目な人はブラック企業でも「会社に捨てられる事を極度に恐れる」
1回でも転職を経験すればそんな「恐れ」は抱かなくなるが、その1回目がなかなか難しい。
ネット社会でもありリスクが可視化されやすい弊害でもあるけれど、なぜブラック企業をやめられないのだろう?それはやはり
ブラック企業・ブラックな労働環境にいる人は皆「想定不可能なリスクが怖いから」現状維持を選び辞められないのだ。
「1億円あげるから転職しようぜ!」とかなら喜んで辞める人が多いけれど「特に身の保証は出来ないけど辞めた方が良いよ」では辞める人が少ない。
人材の流動性も辞めた人を支えるような福祉制度がなければ経営者と超人的な人が一方的に有利になり残りは不利に追いやられ高給層がエリートで固められその他大勢は低給層に追いやられるのは確実だ。
会社にも定員があるのだから優秀であれば誰でも何人でも入れるわけではないのに・・・・高度プロフェッショナルを賛成する人の意図が理解できない。
SNSに絵を投稿して人が見てくれる。さらにそのうえで友人が出来る場合もある。良い世の中だ。ただ弊害として絵を描く理由が他人に依存したり閲覧数やリツイートのような数値が絵の、または自分の価値だと考える人が増えてしまった。
上手に綺麗に描かれたオリジナルの作品より小学生が描いたのかと思うような二次創作の棒立ちの少女の方がSNSにおける評価が高いというのは良くある話。この評価というのは単純に上手下手を表すものではない。それは今の流行であったり交友関係の広さ、テーマとして使われた作品へ向けられた感情だったりと絵とは関係ない部分が多いのである。
そのため絵が上手いのに評価されないせいで絵に対して自虐的で自己評価の低い人が見受けられてしまうのだ。SNSの評価なんて幻だと気づいて欲しい。
いつしか「経済成長」は私たちにとって当たり前のものになっていた。だが、それは永遠のものなのだろうか。
アベノミクスの大黒柱である日本銀行の異次元緩和はお札をどんどん刷って国債を買い支えるという、かなり危うい政策である。にもかかわらず世論の支持が高いことが不思議だった。
思えば「成長よ再び」という威勢のいい掛け声と、「必ず物価は上がって経済は好循環になる」と自信満々の公約に、人々は希望を託したのかもしれない。
希望をくじいたのはくしくも日銀が放った新たな切り札「マイナス金利政策」だった。昨年1月に日銀が打ち出すや世論調査で6割超の人が「評価できない」と答えた。いわばお金を預けたら利息をとられる異常な政策によって、人々がお金を使うようせかす狙いだった。これには、そこまでする必要があるのか、と疑問を抱いた人が多かったのだろう。
政府も国民も高度成長やバブル経済を経て税収や給料が増えることに慣れ、それを前提に制度や人生を設計してきた。
だがこの25年間の名目成長率はほぼゼロ。ならばもう一度右肩上がり経済を取り戻そう、と政府が財政出動を繰り返してきた結果が世界一の借金大国である。
そこで疑問が浮かぶ。ゼロ成長はそれほど「悪」なのか。失われた20年と言われたその間も、私たちの豊かさへの歩みが止まっていたわけではない。
その間、日本のミシュラン三つ星店は世界最多になったし、宅配便のおかげで遠方の特産生鮮品が手軽に手に入るようになった。温水洗浄便座の急普及でトイレは格段に快適になった。
若者たちが当たり前に使う1台8万円の最新スマホが、25年前ならいくらの価値があったか想像してほしい。ずっと性能が劣るパソコンは30万円、テレビ20万円、固定電話7万円、カメラ3万円、世界大百科事典は全35巻で20万円超……。控えめに見積もったとしても、軽く80万円を超える。
スマホに備わるテレビ電話や会話する人工知能の機能となると、25年前ならSF映画の世界の話だった。
ただ、この便益の飛躍的な向上は国内総生産(GDP)というモノサシで測ったとたんに見えなくなる。80万円超の大型消費が、統計上はスマホの8万円だけに減ることさえあるのだ。
そこで見えなくなってしまう豊かさの向上を考慮せず、「どんな政策手段を使ってでもとにかくGDPを膨らませよ」というのがアベノミクスの思想である。
人間はそうまでして成長を追い求めるべきなのか。
実は、いまのような経済成長の歴史が始まったのは200年前にすぎない。長い人類史のなかでは、ほんの最近だ。GDP統計が初めて作られたのは、さらにずっとあとのこと。1930年代の大恐慌、第2次世界大戦がきっかけだった。
昨年夏、GDP統計をめぐるちょっとした論争があった。所管官庁の内閣府に日本銀行が「実態より過小評価されているのではないか」と問題提起したのだ。
きっかけは日銀の若手職員が発表した個人論文。ただ論争には日銀上層部の意向も働いていた。アベノミクスの主軸として史上空前の超金融緩和をしながらインフレ目標を実現できず、成長にも結びつかない。現実へのいらだちがあった。
数字ひとつで財政や金融政策を動かし、人々の景況感にも影響するGDP。その歴史は、長い人類史のなかでは意外と短い。
世界で初めて国の経済全体の大きさを測ろうとしたのは英国。17世紀の英蘭戦争のためにどれくらい戦費が調達できるか知ろうとしたのだ。そこから現在のようなGDPになったのは、さらにあと。1930年代に英国、米国で大恐慌の対策を探り、第2次世界大戦に向けた生産力の分析を進めるためだった。(『GDP』ダイアン・コイル)
一般的には1760年代の英国産業革命が成長の起点とされる。だが西暦1年~2000年代の世界の成長を人口や歴史資料から推定した経済学者アンガス・マディソンによると、1人当たりGDPがはっきり伸び始めた起点は60年ほど後の1820年ごろだった。
その理由を投資理論家で歴史研究家のウィリアム・バーンスタインが『「豊かさ」の誕生』で分析している。1820年ごろになると、ようやく私有財産制度や資本市場が整い、迅速で効率的な通信や輸送手段が発達。技術進歩や新しいアイデアを評価する文化や制度ができて、成長を後押しする基盤が整ったという。
社会思想家の佐伯啓思・京都大名誉教授によると、国家が成長を必要としたのはもともと冷戦期に資本主義陣営が社会主義陣営に勝つためだった。「それだけのことにすぎない。なぜ成長が必要なのかという根源的な問いに、経済理論には実は答えがないのです」
冷戦が終わったあとも成長への渇望だけが残った。むしろ成長の限界や弊害について、以前より語られなくなったのかもしれない。
1970年代初頭、世界の科学者や経済学者たちが集まる民間組織ローマクラブがまとめた報告書『成長の限界』は、経済成長を謳歌(おうか)する人類への警告だった。人口が増え、先進国経済が膨張しすぎると、資源の使いすぎや環境悪化などからいずれ限界が生じる、という問題提起だった。
いつしかその問題意識は薄れ、成長信仰だけがひとり歩きしはじめた。
佐伯氏は「ローマクラブが指摘した問題の重要性は今も変わらない。これから無理やり市場を膨張させ、成長させようとする試みは競争や格差を激しくして、人間にとってますます生きにくい社会にしてしまうのではないか」と話す。
紙幣を発行し、金融政策をつかさどる中央銀行。その「元祖」は英国のイングランド銀行とされる。もともと民間銀行の一つだったが1844年の制度改正で中央銀行に進化した。
つまり1820年ごろに始まる「成長」とともに誕生した機能だった。
いま世界経済の成長スピードが落ちている。2008年のリーマン・ショックでマイナス成長に陥った先進諸国は、危機から回復した後も以前のような成長軌道に戻れていない。
サマーズ元米財務長官は3年前、物質的に満たされた先進国は簡単に低成長から脱せないという「長期停滞論」を唱えた。
日米欧の中央銀行はまるで自分の存在意義を確かめるように、ゼロ金利政策、量的金融緩和、マイナス金利政策……と成長を取り戻すための異例の緩和策を次々と繰り出した。
「これは長い目でみれば中央銀行の終わりの始まりだ」と言うのは日銀出身で金融史にも詳しい岩村充・早稲田大大学院教授だ。
中央銀行が政府から独立する必要があるのは、たとえ政権が代わっても、お金の価値が変わらない金融政策を続けることが経済の安定には大事だからだ。岩村氏は「政府といっしょになって成長のために異常な金融緩和を進める。そんな今の中央銀行に独立性はない。存在意義がなくなってしまった」と指摘する。
経済史の泰斗である猪木武徳・大阪大名誉教授は、成長を謳歌したこの200年間を「経済史のなかではむしろ例外的な時期」と言う。そのうえで無理やり成長率を引き上げようとする最近の政策に異を唱える。
「低成長を受け入れる成熟こそ、いまの私たちに求められているのではないでしょうか」
成長の意義も認めてきた猪木氏が最近そう考えるのは、成長そのものの役割が変質してきたからだ。
「かつて経済成長には個人を豊かにし、格差を縮める大きなパワーがあった。最近は国家間の経済格差は縮まったものの、上っ面の成長ばかり追い求める風潮が広がり、各国の国内格差が広がってしまった」
主要国の成長戦略、金融政策は往々にして強く富めるものを、さらに強くさらに富ませる傾向がある。それがトリクルダウン(滴がしたたり落ちること)で中間層、低所得層に広がるという想定だ。現実にはそうなっていない。
19世紀の経済思想家ジョン・スチュアート・ミルはゼロ成長の「定常社会」を構想した。だが近代経済学は事実上、成長ぬきには語られなくなった。いつしかあらゆる経済理論が成長の持続を前提に組み立てられるようになったからだ。
むしろ現実社会に変化の兆しが出てきた。たとえば最近広がりつつある、買わずにモノを共有するシェアリングエコノミー。大量消費と一線を画す動きだ。
四半世紀にわたるゼロ成長期を過ごした日本人の意識に変化もうかがえる。
博報堂生活総合研究所の定点観測調査によると、「日本の現状はこの先も、とくに変化はない」と見る人は昨年54%で、9年前より22ポイントも増えた。さらに身の回りで「楽しいことが多い」人が増え、「いやなことが多い」人は減った。
同総研の石寺修三所長は「人々の意識が定常社会を前向きに受け止めつつある変化がはっきり示されている。いわば『常温』を楽しむ社会です」と話す。
いま世界が直面する低成長が「成長の限界」を示すものかどうかは、はっきりしない。ただマディソンの2千年の成長率推計を見れば、この200年の2~3%成長が、まるでバブルを示す急騰曲線のようだとわかる。
成長の鈍化はむしろ経済活動の「正常化」を意味しているのかもしれない。少なくとも成長は「永遠」だと思わないほうがいい。(編集委員・原真人)
元ページ(リンク切れ): http://www.asahi.com/articles/ASJDY5DR2JDYULZU005.html
ブコメ: http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/articles/ASJDY5DR2JDYULZU005.html
分かるんですよね、そういう悪意のある人がいるってことは
でも一つ言いたい
「ぶつかられる奴はヤル気が足りない」
なんで?って思うでしょ?でもね、そうなんですよ実際
ぶつかられるヤツはね、気が抜けてるんですよ
このような甘えた、失礼な言い方だけど甘えてる人たちが増えてるってことに危機感を感じます
やはり戦後の自虐史観や、昨今のゆとり教育の弊害なのかなって思うんですよね
「一歩外に出れば、7人の敵」
昔の人はそれが当たり前だったから、ぶつかってくる人がいるとかいちいち言わなかった
それが当たり前だったから
ぶつかられるってのは恥だし、むしろそこで闘志を燃やしたんですね
だからみんなに言いたいことは
部屋をふと掃除してて思いついたんだけどさ、
教育に金がかからなくなればいいのになって。老若男女教育を受ける、学ぶことには金がかからない、そして教育を受けている間の当人の最低限の生活費も支給される、思う存分学ぶことが出来る。ベーシックインカムよりもそうしたほうが有益のような気がする。そういうシステムによる弊害とか難しさとか問題とかどうのこうのっていうことは馬鹿だからわかんないけどさ、思う存分学びたい時に(老若男女)学べる仕組みがあればいいのになあ。ネットで(授業内容配信とか)無償で学べるみたいなのももっともっと増えればいいのに。日本じゃ教育に金がかかりすぎるんじゃないのかなあ。
国際卓球連盟(ITTF)は昔っから自らの競技の「政治利用」にわりと積極的な組織だ。
国際問題の調停を、競技を通して、かなり踏み込んだ立場でやろうとするとこがある。
ITTFは第一次大戦後、国際的融和ムードが支配的だった1920年代半ばに創設された。
初代会長はコスモポリタン的人物で、「スポーツを通して国の垣根を無くしたい」と公言。
40年以上にわたって在職し、組織の基底的な思想を決定づけた。
たとえば創設以来、世界選手権においては長年にわたって、表彰台での国旗掲揚・国歌演奏は行わないものとされていた
「紳士淑女の友好的遊戯」という競技的ルーツへの自負もまた、融和を尊ぶ姿勢を醸成した。
対日感情の極めて悪かった第二次大戦直後の1949年、いまだ占領下にあった日本の再加盟を、
国際競技団体としていち早く認めている。
「スポーツを通じて世界をつなぐ」積極的行動モデルとして結実させようとしたのが3代目会長の荻村伊智朗。
会長在任中は、91年世界大会に最初の統一コリアチームを実現させた他、
地球ユース選手権にてイスラエル・パレスチナ両国のジュニア選手に共同で宣誓させる等々、
末期がんによる死の一週間前にあってなお、病身を起こして会場に駆けつけた。
その後も国際的緊張の当事者同士を共に組ませて国際親善大会をしたりと言ったことを継続的にやっている。
またたとえ、国際的承認を十分に得られていない地域の協会であっても、
火中の栗を拾うことをあんま恐れない。
たとえばWikipediaの『コソボの国際競技連盟への加盟』の項を見れば、
2011年に当時の会長も「ピンポン外交は次の時代へ入った」とコメントしたように、
「競技の政治利用」すなわち「外交的融和を目指して自らの競技を積極的に活用してく」ことは、
ITTFにとっては継承されたレガシー、自覚的ミッションのおもむきすらある。
そこら辺を踏まえた上で、例の件について言うと、
まず先だって出された板門店宣言にスポーツの合同チームの結成が盛り込まれていた、という背景があり、
競技団体として、こういった特例を認めた場合の今後への弊害を考えることになるんだろうけど、
現実問題、ここまでの歴史的条件が揃って、大会開催期間とタイムリーに重なるということはそうそうあることではない。
前例化したとしてもそれを以ってなし崩しにはなりにくいと思われる。
そしてコソボ承認の件もそうだが、国際問題に先陣切ってコミットすることを恐れない連盟の体質。
むしろ今後に続くであろう統一チームの流れに先鞭をつける機会を、
わざわざこのような特例措置を用いてまで自分たちが最速で提供することに、
使命感とか陶酔とか覚えててもおかしくない。いやまあ偏見だけど。
選手たち当事者には、やっぱりアンフェアじゃないの、という権利は正当にあると思う。
しかし現時点で報じられる限りでは女子日本代表に動揺はないという。
日本卓球協会側も「スポーツを通した世界平和を目指している」「歓迎したい」とか受容的コメント。
本音は、とか言い出したらキリはないが、卓球界に長年育まれてきた感覚ではこんなものかもしれない。
卓球界では過去に複数回、統一コリアチームが結成された前例があり、心理的に受容の土壌もある。
それに実際、日本女子の実力から言えばことさら動揺する必要もない。
んなこと言ってると91年大会の中国みたいに足元すくわれるけどな!
今回の合同劇が卓球界の受け継いできた流れのひとつの結実だとするなら、
荻村の母国である日本が真向からそれを受けて立つのも、ある種の本望、度量の見せどころ--なんて言うのは