はてなキーワード: 大戦争とは
先日なんとなくSNSを眺めていたら、友人の投稿が目に留まった。
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「身内です。このアカウントの持ち主は A月B日に永眠いたしました。生前のご厚誼に感謝申し上げます。」
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彼女との出会いは、200X年だった。趣味関係で彼女のブログを見つけた俺は、彼女のブログにコメントをした。その後コメントを返してもらったり、mixiのアカウントを教えてもらったりして、コミュニケーションの頻度が上がっていった。連絡先を交換して電話もした。「おはよう」から「おやすみ」まで、ガラケーで連絡を取り合う感じになった。
お互いの写真も交換して、会ったこともなかったのに電話で告白をして付き合うようになった。お互い大学生で、相手は首都圏在住、俺は地方在住だった。遠距離のもどかしさがあったけど、俺は大学卒業後就職して首都圏に引っ越すつもりだった。
俺は大学4年になると、就活とか何かしらのタイミングで夜行バスや新幹線で首都圏へ行き、彼女に会った。最初会う時は、本当に不安でいっぱいだった。思ってた感じと違うと言われたらどうしようと。彼女は、俺のスーツにメガネの容姿を褒めた。それまで容姿を褒められた経験のなかった俺は、褒められたことを単純に受け入れる事ができず、嬉しさよりも恥ずかしさの方が優った。
彼女は、派手な感じのない小綺麗な人だった。背が俺より高くて175cmくらいあった。コンプレックスを感じる必要は全くないのに、「高いヒールを履きたいけど、自分の背が高いのが嫌なんだ」と言った。ネイルをしたり、コスプレをしたり、カメラマンの人に容姿を撮ってもらうことが好きみたいだった。
あまり俺の意見や話に対して自分の考えを述べたりせず、基本的に良く相槌を打ち、よく笑う人だった。いわゆる聞き上手な人のように見えた。家庭問題と学校問題等によって鬱病なんだと聞かされた時は、人に攻撃されないようにとか、嫌われないようにするための処世術?として聞き上手なのかもしれないと思った。
鬱病が本当に辛そうだった。体調のいい時に始めたバイトも、体調が悪くなると寝込んで欠勤が続き、辞めることになった。「パン屋のバイトに受かった、楽しみだ」と言っていたが、最終的にそれも辞めることになった。大学も然り、留年中退となった。「どうして、自分はこんなに他の人ができることができないのか」と悔しがった。
俺は大学4年生の夏頃までに就職の内定をもらった。でも、周りの友達はほとんど大学院に進学予定で、自分の就職選択が正しいのかどうかよくわからなくなっていた。そして、大学院に進学すると遠距離恋愛をさらに2年続けることになる。彼女に電話で悩みを打ち明けると「試験、頑張りなよ!」と応援してくれた。後2年待ってくれそうな気がした。大学の夏休みを院試の勉強に充てて、試験に合格をした俺は、彼女に結果を伝えた。喜んでくれた。内定していた会社には、内定辞退の謝罪をしに行った。
その年の暮れ、俺は年末年始を首都圏の親戚の家で過ごさせてもらえることになり、どこかに遊びに行こうと彼女を誘った。俺はインドア派でどこかに行きたいとかはなかったから、行きたいところはないかと彼女に聞いた。彼女は「109の正月セールに行きたい」と言った。初めて入った109は想像していたより狭かった上、外は大行列で中は大戦争だった。朝からセールにいき、昼に食事をしながら「正月セール、やべーw」と2人で笑い合った。
いつの頃からか、「(俺が学部を卒業して就職したら)もうすぐ頻繁に会えるようになるね」という話題もなくなり、二人の会話がトーンダウンし始めて、とうとう「別れよう」と言われた。院進学の判断をしたのは俺だったし、彼女は明確な意思を持って何かを話す時、結構頑なな人だったから、あまりとりつく島がなかった。そして別れることになった。
それからも俺は彼女と連絡をとった。2年間の博士前期課程を修了後、就職で首都圏へ引っ越した時も、一緒にどこかに遊びに行った帰りに「もう一度付き合わないか?」と聞いた。でも、断られた。それから、お互いに新しいパートナーができたりして、少し疎遠になった。ご飯を食べに行こうと何度か誘ったこともあったけど「行きたいんだけど、体調が悪くて」と断られた。「流石に空気読めよ」って話だったのかもしれないし、本当に体調が悪かったのかもしれない。今から思えば体調は悪化していたのかもしれない。でも、もうわからない。
彼女は、口数が多い方ではなかった。でも、話せば沢山考えていることがわかった。人を蔑んだりすることなく、性格は優しかった。笑顔は素朴で屈託がなかった。俺は彼女の書く文章も好きだった。memorizeとかを昔やっていて、ブログとかでは読みやすくて書き慣れた感じの文章を書いた。何よりこんな俺の稚拙な増田とは比較にならないくらい筆に勢いがあった。
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闘病生活お疲れ様。あの頃、俺は君に夢中だったし、手を繋いでデートできるのが本当に幸せだったよ。優しい笑顔と文章をありがとう。
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合掌
なろうアニメの「真の仲間じゃないと勇者のパーティーを追い出されたので、辺境でスローライフすることにしました」が好きだ
「真の仲間」で略されることが多い
追放ものの元祖だそうだ。チート付与魔術師みたいに隠れた実力がある系でなく、
本当に最前線の戦いには戦力不足でついていけないが、人の少ない田舎では無双でイキれるぐらいの(実際イキり倒す)実力の主人公が、
あまり有名ではない
同時期に高品質作画アニメは多数送り出されており、なろう系も幾つも放映されていた
ファンタジーなら無職転生や王様ランキングを見てた人が多いはず
ニコニコでもyoutubeでも関連動画はほとんどない。アニメ感想サイトを漁っても実況参加者は少ない
一方で海外ではそれなりに高評価だったようで、youtubeの主題歌動画には海外コメントがそこそこついている
アニメ二期も決定した
説明が長くなったが俺はこのアニメが大好きで、配信で繰り返し何度も見直している
円盤ももちろん買い、先週も何度目か忘れたが全13話を通しで視聴した
誰にも同意されないだろうが構成と演出が神がかっていて見直すたび考察してしまう
おでん屋台の回はファンタジー世界ならではの漆黒の闇と屋台の赤ちょうちんの図を見るたび
「この緊張と弛緩の混ざり合った演出をどうやったら作れるんだ。アニメ実作者でもアニメ評論家でも誰でもいい、金を払うから解説してくれ」と唸っている
先週も蜂蜜酒の回で新たな発見をして「ウテナか!」と唸ってしまった
本題に戻ると、先週、新しい発見があった
「ふらせら」という、20年前に出たギャルゲーのコミカライズ作品で
こちらも解説すると無限に長くなるので端折るが、両作品の共通点は
・主人公たちは戦争の前線で戦っていたが、慮外のトラブルで脱落
・戦争の気配など全く感じない、自然いっぱいの辺境でスローライフを満喫する
となる
「主人公は美少女とじゃれあっててスローライフを満喫している」一方で、「戦争は全く終わってない」点だと思う
戦えるけど戦わない
積極的ではない、結果としての形で前線逃亡したのだが、そんなことは気にせず田舎暮らしを最高に楽しんでいるのが大事なのだ
主人公の周囲では、使命感にかられて参戦を志すもの、主人公に戦線復帰を促すものがいて、戦争を忘れさせてくれない
現代はメディアによって地球の裏で起きていることを臨場感あふれる映像で知ることができる。というより半強制的に知らされさえする
同じ日本の中で起きている犯罪的な虐待や差別を知らなくても、ウクライナの戦争は知っている
なんなら日本社会の身近で起きていることから目を逸らされるために海外の虐殺や差別、戦争報道が溢れかえっているのかもしれない、とすら思える
しかも、その戦争や残酷なジェノサイドは自分たちに全く無関係というわけでもないと、なぜか知らされてしまう
ウイグル民族の弾圧とユニクロの衣服は結び付けられて日常の場に入り込んでくるし、
ウクライナ戦争は「核弾頭が厚木基地や横田基地に打ち込まれるかもしれない」という切実さと結びついて、
「俺たちの日常を維持したいからウクライナ人だけでロシアと戦ってくれ」というジクジクした地続き感を抱えながらニュースを眺める羽目になる
水木しげるが前線から半ば離脱して南の島の楽園暮らしに至ったときは、左腕を失う負傷があったし、
なにより日本のアメリカとの戦争は「お役所仕事でズルズルと開始してしまった、やらなくてもいい無駄な公共事業~太平洋戦争~」だった
だからサボタージュに正当性を見出しえたし、戦後の反戦が強く共感を得られたように、
徴兵で駆り出された者の南の島での戦線離脱に責任感云々を見出す必要もなかった
こんなジクジクした気分から解放されたくて日本国家と一体化したい人たちが出てきてしまうのは理解できる
残念ながら自分は国家と一体化して何かやってる精神状態にはなれない
遠くにある、手出しすることも出来なくはない(実際に行動している人たちも大勢いる)戦争を、まるきり無関係と切り捨てることもできないまま傍観し、
さておきと、自分の生活のために働いて、マンガとアニメとゲームと動画視聴で怠惰に時間を過ごし、
その怠惰さを時おり責められ、ヘラヘラとやり過ごし、改めて怠惰に身をうずめておきたい
https://anond.hatelabo.jp/20230407210512 これの追記。
書いたつもりがスポッと抜けていた「財産分与」について。あと「関係を良好にできない親の場合は…」についても少々。
ブコメにあった『財産が無い人ほど相続大戦争が勃発する』というのは、よく言われてる話なんだけど、因果をちょっと勘違いしていて、半分ぐらいしか合っていない。
自宅ぐらいしか財産が無い家で揉めたら、生きてる家族の人生にそこそこ大きな影響があるような相続大戦争になることもあるが、財産がたいしてなかろうが、家族仲・兄弟仲がいい、または家族がそれなりに常識的で合理的なご家庭の場合は揉めることはない。
揉める根本原因は「大した財産がないから」ではなく、家族兄弟間の仲が良くなかったり、家族兄弟の誰かがそれぞれの家庭に何らかの問題があって合理的判断ができなくなっているという点だ。
増田なので言葉を選ばずに言うが、お金があってもなくても、人間関係が悪いか、もしくは頭が悪いかの場合は、たいてい揉める。ただし、その先はリアリズムで、家族間で揉めてもお金があれば最終的には日常生活におけるクリティカルな悪影響は受けにくい。しかしお金がないとそうじゃない…(財産分与で揉めて調停になって時間とカネがかかって結果もらえた財産は雀の涙、みたいな)。
ただまぁお金持ちだって金銭・日常生活面での影響が相対的に小さいだけであって、「家族の仲が悪い」とか「相続で揉めて親兄弟と断絶」とかはお金で換算できないタイプの影響はあるよね。
話は戻るが、平成以降の貧富拡大社会では「親に金がある=子もある程度は余裕がある」そして「親に金がない=子供も結構カツカツ」だから、「貧乏人ほど相続で揉める」みたいな一見論理が通っていそうな俗説をつい言いたくなる。だがそれは論理が少し飛躍していている。カツカツの生活をしていると心の余裕がなくなりがちで、親子兄弟含め人間関係が薄く悪化しがちで、親が死んだタイミングで色んな物が噴き出しがち、なのだ。
本来の因果関係は、「親子ともに金がない」→「家族全員がカツカツ」→「それぞれの家庭に若干問題が(住宅ローン返済が大変とか諸々)」→「あわよくば」という悪い心→「醜い争い」という順番である。
兄「親父が死んだ後の自宅を売ろう」
妹「何言ってんのお母さんが住む家がなくなるでしょう」
兄「おふくろは一人になるんだからお前が引き取って面倒見ればいいだろう。母さんもそれが安心だよな?」
母「そうね…でも…」
妹「何言ってんの夫がいい顔するわけない。そもそもお兄ちゃん何でそんなお金が必要なの」
母(…無言)
兄「ローンとか教育費とか大変なんだよ…」
とか?こういう想像上の橋田寿賀子ドラマのような戦争はめったにない。まぁごくたまには見かけるけど…その場合は相続関係なく「もともと家族の仲が相当悪く&全員が相当金に困ってる」場合だと思う。多くの場合はどちらかの条件が満たされないので、例えば、家族仲が悪いけど、比較的羽振りの良い兄弟が面倒にかかわたくないからと引くんだよね…。
要するに、何が言いたいかと言えば、つまり、お金があまりない自覚があるなら、何よりもまず親兄弟との関係を良好にしておくことが大事。
そして、人間色々あるからね、仲良くするのは難しい場合でも、「親の財産と生活」に関することをできるだけ透明化する努力はしてもいい(本当に険悪な場合は放っておいても全然いいとも思う。後述)
実はこの「親の財産と生活の透明化」が、要するにエンディングノートの一番大きな役割。
またしてもリアリズムな話だが、親が死ぬ前に自分たちにいくらぐらい金が残りそうなのかを透明化できていれば、お金がない家なら邪な期待を持つこともなくなるし、お金がそれなりにある家ならそれなりの予定や計画が立てやすくなる。
そして、大事なポイントなのに前の増田にうっかり書き忘れたが、エンディングノートは必ず、利害関係者(配偶者や兄弟)に全員が見られるようにしとくこと。
「利害関係者の誰か1人だけが事前に情報を持っている」という状態は、下手すると比較的悪くもない人間関係を悪化させる危険もあるので、「エンディングノート書いてもらおうよ→そうだね→手伝ってね→出来たら読んでね」的なプロセスは必ず、必ず必要。親が勝手にやり始めてる場合でも、子供たちから「見せておくれよー」は言うようにしよう。
「透明化」について、テーマとは直接かかわりはないがもう一つ大事な所としては「介護の金と労力」について。
人間は老いてくると段々ゆっくりと自分のことを自分でできなくなる。介護段階に入った時に配偶者や子が(介護サービスを利用しつつ)老いた人の責任を負っていくことになるが、このお金と労力で、子供が負担をする場合は、ある程度は金銭的、労働力的な出納を透明化するのをお勧めする。完全平等分担なんてできないのでだいたいで良いのだが、透明化しておくことで負担配分が合理化されやすくなるし、トラブルや人間関係の悪化を事前に防ぎやすくなる。親の状態がおかしくなったら介護認定が付かないにしろ早めにケアワーカーに相談しておく方がおススメなのは、介護ケアは早い方が予後が良いとか悪化した時の介護認定がスムースだということが一番だが、家族の問題に第三者が入ることで透明性が高まるから、という効果も期待できるよ。ケアワーカーの選別ももちろん、利害関係者(兄弟)と相談して決めるの大事。報連相まじだいし。
お金については単純に使用した分を記し精算(理想は介護用さいふを共有してそこから拠出)、労力についても共同の分担スケジュールを作っておくといいよ、見える化することで手伝えない人にうっすらとした罪悪感を持ってもらえるし。
ちなみにだが、「亡くなった人の介護負担が大きかった家族へ、相続財産の配分をより大きくすることは可能か」について。
正解は「その介護により相続人の財産が大きく減った場合以外は、財産分与の比率にはほとんど影響しない」。ケアワーカーさんや施設の手配や色々なやり取り、送迎や見舞い、日々の生活のサポートやら、諸々けっこう日常を削られる「労働」だが、財産分与にはほぼ反映されない。一応「寄与分」という考えはあるんだけど、雀の涙なんだよね。この扱いはとても理不尽だと増田も思う(多分法律を考えた人が親の介護を自分でするなんて考えてないんだろうと思う)。極端な例で考えると理不尽さが増すので極端な例を出すが、「義母に尽くして看取った嫁に財産分与が可能か」の答えはNoである。法定相続は、「配偶者に半分」「残りの半分は子が等分」なので、子の妻には財産相続の権利がそもそもない。
なのでまぁ財産を多く貰おうと下心で面倒を見てもほとんど効果ないので、現代においては「透明化」によって親の老いに対する労力の等分化を目指そう。
まずは前提条件:親の残した財産をどう分けるかは、法律を守らなくても別に全然いい。
こう言うと語弊があるが、民法にある法定相続分はあくまでも民事訴訟が起きた時の基本的な解決線なので、別に民法に従って分けなくても、家族兄弟(相続人とか言いますね法律だと)が仲良く話し合って皆が納得すればその納得した方法で分ければいい。ちなみに、亡くなった人の銀行口座が凍結された場合はこれらの「相続人」たちの連名で書類を提出しないと口座解凍ができないのだが、要するに揉めてない証拠を出してくれという銀行の都合の書類ですね。だまして口座解約して逃げちゃう悪い兄弟がいるとも限らんし。
で、例えば財産を全部無職の弟に渡したって全然良いし、上に書いた「義母に尽くして看取ったけど財産をもらえなかった可哀想な嫁」も、その状態が透明化され家族間で共有されてて、そして家族仲が良ければ財産分与においては報われ得る。「お義姉さんがずっと面倒見ててくれたんだから、死亡保険金はお兄ちゃんが受け取って。それでお義姉さんに少しでも慰労になるといいけど」「そうだよな、本当にありがたかったなぁ…」というほのぼのストーリーにすることも可能。というか割と多くの「大きな問題がないご家庭」はこういう風にやっている。
次に自宅の相続:利用状況に準じるのが大原則。利用しないならすぐ換金
例えば父親が死んで母親がいる場合は当たり前だが母親がもらう。両親と兄弟の誰かが同居している場合でも生き残った方の親がもらうケースが一番順当(配偶者が取得する方が税金上の得が大きいので。ただし金持ちの場合はその限りにあらず。金持ちは金を払って税理士に過激な節税方法でも聞けばいい)。まぁ当たり前すぎる話。
親が死んで利用する人がいない自宅は、個人的なお勧めは「すぐに売っちゃえ、売って金で分けろ」である。それが一番穏当だと思う。住む人がいなくなった家は本当に笑うほどすぐ傷む。家の整理に数か月かけるもよし(思い出がいっぱい出てきて楽しいよ)、業者を入れれば2、3日(ある程度思い出を掘り出せたら人の手を借りちゃうとよい)。業者にごみの処分を頼んだってせいぜい数十万~百万ぐらい。売れば1千万ぐらいにはなったりするわけで。お金は良いよ、きっちり等分もできるし、好きなように傾斜も付けられる。
厄介なケースは下記。
不動産という財産の厄介さは「不動」なことと「財産としてデカい」ことで、あまり蓄財していない親御さんだった場合、「同居してた兄弟がそのまま自宅を相続する(そうじゃないと住むところがなくなっちゃうからね)と、財産分与がかなり不公平になってしまう」という問題が起こる。もちろん、等分じゃなくて全然いいよー!と他の兄弟が言うのであれば何の問題もない。兄は同居、妹はF1ドライバーと結婚して億万長者、とかなら言いそうな気もする。
だが庶民はやっぱり、自分も貰えるはずのものが貰えないとなると、内心穏やかではなくなることがほとんどだと思うので、その場合はまぁ、頑張って話し合いをしよう笑。
エンディングノートの効用はここにもあるが、こういう同居してる結果不均衡になりそうなご家庭の場合は、例えば、同居してない子に不公平感が出ないように、親の支払いで「非同居子」を受取人にした死亡保険に入っておくとかできます。これもエンディングノートを関係者全員で共有出来てれば可能。家族兄弟で話し合って決めるのが大事。
この「同居してた兄弟系の争い」で見たことある一番のバッドエンドはこんな感じ…。トホホ…。
ちなみに上の2を言い出したのは私の兄弟。配偶者の親が住みたいというかもしれないからと言われ、なんでそれで何千万の家がもらえると思うとんねん!とすごいデカい兄弟喧嘩をしたぜ…。親が片方死んだあとは残った家族は仲良くなりがちで、もう一人の親が死んだあとは兄弟の仲が悪くなりがちっていう俗説はガチだったんだなとしみじみした。
「家族」ってまぁ人一人の人生で複数持つことになるんだよね。愛人がいるとかではなく、結婚やらで所属する「家族クラスタ」が増えていく。結婚すれば別の家族ができる。自分の親による家族、自分と配偶者による家族、配偶者の親による家族。独身のままでも、家族ではないにせよ世帯が別になるからまぁ似たような感じだと思う。
戸籍が分かれても世帯が分かれても、生まれた時の「家族の枠」がなくなるわけでもなくて、親の介護やら相続やらで「産まれたり育ったりした家族の枠」のなかで行動したり考えたりする必要が出てくる。でも、その時に他の家族(自分の家族や配偶者の実家家族など)のこともつい考えてしまったりして、思ってたより多いしがらみの中で非合理的なことを言い出すこともある。それで何かね、親が一人もいなくなっちゃうと兄弟がむき出しの喧嘩になっちゃいやすいんだね。いやぁ、生まれてからほぼ初めてかつ最大の兄弟喧嘩だったよ…。ちゃんと仲直りはできましたが。
地主とか運用してる不動産があるとかの場合は、素直に税理士に聞いて言う通りにするのが吉。
田んぼや畑=地目が「農地」になっている場合は、耕作放棄地だろうが市民農園に貸してる畑だろうが、簡単に売れないので、地元の農協に相談だ!農地を持ってるということは100%親御さんは農協の組合員のはず。農地は地域の農業員会の許可がないと相続も売却も自由にできないらしいので、生きてる時からその辺は親御さんに聞いとくといいよ。
山を持ってるとか森を持ってる、みたいな人もたまにいると思うが、これも同様。エンディングノート作成に当たっては、自宅以外の土地を持ってると判明した場合、地目が「宅地」以外のもの(法務局で確認可能)があったら要注意。しかるべきところ(農協とか役所とか)に色々聞いとくといいと思う。
ただし、地目が「宅地」じゃない土地は、都市部ではまずあんまり見かけない。家庭菜園をやってるけど地目は「宅地」なんてことも普通にあり得るので、親に確認だー。
速やかに家財を引き上げないと、ずっと家賃を支払い続ける羽目になるので、業者を入れてでも引き上げしましょう。結構馬鹿にならんと思います。
色んな事情があるから、そういうことも普通にあると思う。関係が良くなければ、良くないままで、心を鬼にして「放置」が良いと思う。あとは物理的にどうにも無理だ!というときも「放置」するしかないよね…。
自分が何もしないままで親が死んだら相続はどうしたらいいのか。割と全然何とかなる。
誰も存在を知らない金融機関の口座は一定期間が過ぎればその金融機関の持ち物になるので心配しなくていい。株式なども同様。勝手に発行者が何とかしてくれるから大丈夫。
家については、一番簡単な方法は業者に頼んで売っちゃう。片付けとかもドライに割り切ってすべて金で解決。処分費用を相殺した残金があればラッキー、無くても(多少の持ち出しがあったとて)手間代だと思えば腹が立たないと思う。そこまで実家と関係が悪いなら。
親御さんが金持ちの場合は、誰かしら財産管理を手伝ってる人(銀行とか税理士とか)から必ず連絡があると思うので、その指示に淡々と従えばいい。
やらない方がいいかな、と思うのは以下
要するに、酷い言い方になるが、親子兄弟との関係が良くできない(あちらの理由もあろうし、こちらにも理由があろう)なら、何かを望まない、というのが大原則。そうすれば別に今以上悪くなるということはない。まぁ、そういうこともあるよね。
これもまぁ、そこまで関係が悪い家族関係なら、出来るだけ縁薄く接するのがいいと思う。お金で解決、第三者に委託(介護事業者)、同様に、感情も時間も手間も労力も金もかけない、その代わり何も文句も口出しもしない、というのがベストだと思う。
ちょっと前の増田に、親の介護のために仕事を捨てて田舎に戻るか、というのがあったが、あれブコメに多数指摘があった通りで、戻ったら最後、増田の人生が割と酷くなるだけなんだよね。介護する子がいる要介護者は施設入所の順番が後送りになり実質的には多分入所が不可能になる。仕事もなくなる収入も減る、介護はよりより厳しくなるだけなので戻らないのがリアリズムの正解なんだよね…。
リアリズム面を書き始めたら長くなりすぎたし、楽しい話が全然できなくなった。しょうがないよな…。家族も自分も老いも、逃げても逃げられない「生の頚」のようなものだな、と思うときもある。
いつも思うのだが、人生一度きりなのだからそれがたとえマイナスの事象であったとしても歴史上例のないような大災害とか大戦争が起こってほしいと思ってしまう。
ロシア対ウクライナなど本当に心が踊る。中国にもどんどん侵攻してほしい。南海トラフに富士山大噴火に関東大震災、とっとと起こってくれ。
そして核戦争、一度でいいからこのめで大国が核に沈む様がみてみたい。それによっておそらく自分自身も相当な苦労を背負うことになって
そんな事を考えていた自分を呪うこともあるのだろうが、それもまたおもしろい。人生一度きりなのだから、最悪な目にあって人生を呪うのも悪くない。
宗教が程よく思考停止をさせるのは、考えすぎて疲れるのを防止するためだろうし、権力者も国民の安寧を願ってのことだろう。
詐欺連中を蔓延させるためじゃない。そもそも詐欺連中こそがありもしない先祖の霊証やらでわざと疲れさせて詐欺連中に依存させる。
プロテスタントとカトリックの大戦争と科学の勃興の17世紀以前は詐欺連中は問答無用で異端として潰されとったわ。信教の自由は異端詐欺連中の蔓延という側面もある。
といっても、消費者問題として献金の全額返金や、消費者問題を起こす団体の勧誘・偽装の制限、政治家が献金や人材を受け入れず、またイベントにも参加せずの「法整備」が必要だな。
「世の中って思ったより面白いし色々ワンチャンあるじゃん……」
顔が思わずニヤつきそうになった。
流石に状況が状況なので表向きは抑えていたが、目だけは煌々爛々とするのを抑えきれなかった気がする。
戦争が始まろうが、流行病が蔓延しようが、結局世界は昨日までと大きく変わらずに動いていく中で、テレビが伝える情報は世界の壊れる音を聞かせてくれた。
世界は壊れる。
誰かが壊せる。
数年ぶりに心のエネルギーがポジティブの側へと傾くのを感じた。
このままもうこの人生終わってもいい頃合いじゃねえかな?
そう思ったのはファウストの最後、世界をよりよくせんと誰かが振るうツルハシの音を聞いたと勘違いしながら息を引き取る場面が脳裏をかすめたからだ。
俺にとっては、テレビが空砲と伝えた破裂音、鉄パイプをガムテープでグルグル巻きにしたガラクタのような何かから火薬が弾けた音が、希望のラッパみたいに聞こえたんだろうな。
クソったれのお偉いさんども賢しさ振りかざしのエリートども皆皆逃げ場のねえコロシアイの始まりだ。
沸騰しそうな頭の中でそんなサンダードームみてーな謳い文句を必死に考えてる自分がいた。
産まれた時から無能で貧乏で結局ソレをなにも変えられないまま偏差値50未満のアホの群れとして年収手取り300万の人生がずっと続いていく世界に本当にうんざりしているのが我ながらよくわかった。
ぶっちゃけ万人の闘争は既に始まっていて、だから優秀な人間は無能な人間に貧乏くじを押し付け続けられているわけだが、突然ルールが変われば、その勢いで誰にでもワンチャンが出る。
戦後の闇市がまさにそうだったわけだが、俺は大戦争までは望んでない。
ただ今椅子取りゲームの頂点にいる連中が、突然自分がぶっ殺される側になると怯えてくれるだけで満足なのだ。
万人が万人にとってのダモクレスの剣となり、誰もが誰もを本気出したら殺せる世界、そんな世界じゃなきゃ人権宣言なんて紙くず扱いだ。
俺はもういい加減強いやつが強いからという理由でハラスメントを繰り返して、それを告発しようとしても報復に怯えて皆で隠し合う社会にウンザリしてんだ。
調子こいたらぶっ殺される。
そのルールを下層だけが強要されて、上の人間が都合よくそのレベルを調整して、上を不快にさせたら調子こいてるのでぶっ殺していいって勝手決めちまうような社会がもう懲り懲りなんだ。
誰もが、誰もに対して不快を叫んで良くて、そして不快を叫ばれた奴が怯えるべきは追求ではなく銃弾であるって社会で良いんだ。
全米ライフル協会なんぞはどうせ権力で凝り固まった老害の組織だから信用してないが、銃によって赤ん坊が大人をぶっ殺せるという社会でなければ人間同士の相互監視は実現しないんじゃねえだろうか。
相互監視が実現しなければ、結局人権ってものの在り処さえその場その場の権力者が好きに決める社会になっちまうんじゃねえか。
人が人を自分より下層の雑魚だから何やってもいいと思いこむことそのものさえ恐れるような社会の誕生の鐘の音があの日聞こえた。
成り行きを見守りたいと思ったよ。
自分の人生も、好きなゲームの続きもとっくにどうでもよくなっちゃいるが、それでも何かもうちょっと観測できるんじゃねえかと生き長らえてきた。
結果を観測してから死んでおきたいものに一応出会えたわけだよ。
さあ、どうなる?
ノブリス・オブリージュのないゼニゲバの成金の2世3世が人間の人間扱いを放棄することで社会を回そうとし続けるのかい?
それともビビって表向きだけでも数だけは多い下層の人間どもに媚でもへつらうかい?
見せてくれよ。
俺はそれを見るために生きることにしたんだよ。
そもそも宗教は大昔に世の中はこうじゃないか?と洞察した人が考えたことをまとめただけにすぎない。
そして洞察した人が考えたことは正しいと思われた。しかし正しいと思われるものは、その名を騙って自分の利益にしようというやつは常に現れる。
宗教は権力と結びついた。そして、騙って自分の利益にしようというやつを権力の元潰していった。
そして、聖書が正しいか?(プロテスタント)聖職者が正しいか?(カトリック)で大戦争となり、信教の自由が生まれた。
しかし信教の自由は、宗教の名を騙って自分の利益にしようというやつを野放しにするという側面もある。宗教は宗教の名を語る詐欺師を止める手段を持たないのだよ。
オーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国が国境で接していたのが1908年。
前者の ハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフ皇帝は長期政権の在位60年目で、ドイツやイタリア、ロシアと同盟していたが、オスマン領のボスニアとヘルツェゴビナに侵攻、そして併合したので、欧州各国はいきり立った。
で翌年に皇太子が暗殺され、5年後に第一次世界大戦が勃発(1914年。国際連盟はまだなかった。ただ今は国際連合があっても侵攻問題では影が薄いな)。
このとき日本はイギリスに要求されてドイツ側に宣戦布告(ドイツ領のハイテク山東が欲しかったはず)。ロシアは汎スラブ主義だったのでこれもまたドイツ側に宣戦布告。
ところで日本の硫黄王・海上保険の広海二三郎は、1910年から1911年で、生産量を年間1000トンから1800トンに拡大している。硫黄といえば火薬の原料。きっと軍拡イギリス向けに輸出して利益を得たんだろうな。なおイギリスは1911年には法律で医療無料化をした。
113年後の今はプーチンがハプスブルクの立場で、イギリスはイギリス。何かのきっかけで大戦争化して更にインフレ起こすなどは控えていただきたい、と岸田などが言えばいいのに。
まず「女叩き」の空気はコミュニティ(板・スレ)によって差異が大きく、男オタク全体で共有されていた文化ではないというのが大前提である。
それは「決まった連載枠を巡ってサバイバルさせられる」ジャンプのアンケシステムが背景にあり、
そのなかでテニプリやリボーンなどの腐女子人気の高い(男にとってはつまらない)漫画が枠を専有していたので、
「ジャンプは腐女子に媚びてつまらなくなった」「こんな作品は打ち切って俺たち好みの漫画を載せろ」といった批判が渦巻いたことによる。
ただし、これについては「ジャンプには昔から腐女子がついていてそれがネットで可視化されただけ(当時の2chにはその歴史を知らない厨房が多かった)」という指摘が正しいだろう。
ニコニコ動画の腐女子叩きコメなどはこの流れを汲んでいると思われるが、
「一人でコメントを連投できる」+「画面がコメントで埋まると実際以上にインパクトがある」というニコニコの特性には注意が必要である。
もっと広範な「女叩き」で有名なものとしては2007年頃に流行った「スイーツ(笑)」があるが、
これは「揶揄」にとどまるものであって、腐女子叩きほど切実な反感があったわけではない。
「腐女子叩き」と「スイーツ叩き」を繋げて考えるべきではないし、
もちろん2010年代以降のオタ・フェミ対立の遠因とすべきでもないだろう。
はてなに絡めて言えば「無断リンク禁止問題」というものもあった。
「リンクを張られるとGoogleに見つかる」からやめてほしいという腐女子と
「リンクは自由に張るべきものだ」とするはてなーが対立した問題である。
懐かしい思い出だが、まあ局地的な小競り合いと言うべきだろう。
無断リンクに限らず、こうした「男オタと女オタの小競り合い」は、確かにあちこちで起こっていたと思われる。
そして女オタのコミュニティはひとつひとつが小さく閉鎖的であるが故に、男オタからすると「小競り合い程度の話」が、
女オタたちにとっては「我らの穏やかな村を守るために侵略者を撃退した大戦争」と認識されている可能性もある。
ただし学級会などは昔から女オタのあいだで行われていた儀式だろう。
男オタから叩かれなくてもカップリングでひたすら内ゲバを繰り広げているのが女オタである。
男オタと比べて女オタの「好きなものだけを読みたい」「不快なものは見たくない」という傾向は顕著である。
「男オタに叩かれたから」というのはあくまで一因でしか無かったはずだ。
総じて、2000年代に「男オタによる女叩きが定着していた」とするのは極めて限定的な物の見方であるか、
あるいはガラの悪い2ch文化に触れて「私が女だから叩かれたのだ」と勘違いしただけのナイーブな認識である。
現在の史上最悪レベルに深まったオタ・フェミ対立と比べれば、2000年代の「腐女子叩き」などお遊戯にすぎなかったと言える。
群盲象を撫でるような過大評価をすべきではない。
という思いを実は持っている。
これまで4回実施されているウクライナ・ロシアの停戦協議だけど、双方とも戦争を早く終わらせたいように見える。
予想される妥結点は、ロシア軍がウクライナ全土から撤退し、クリミア半島と東部2州の独立を承認する。
そしてウクライナは中立化、つまりNATO加入は見合わせることになる。
しかし、この停戦条件で停戦したとしてもウクライナがロシアと欧州の間にある「火薬庫」であり続けることは変わっていない。
ウクライナがロシアと欧州の「どちら側」のつくのか、この際だからはっきりさせたほうがいいのかもしれない。
これは遠く離れた場所に住んでいる日本人だから、対岸の火事だから言っているのではない。
それは75年ほど前に行われた朝鮮戦争の経験があるからである。
1950年6月から始まった朝鮮戦争は、朝鮮半島全土を焼け野原にして、アメリカやソ連、中国を巻き込んだ大戦争となって、3年後の1953年7月に停戦となった。
停戦当時は朝鮮の現地人や国連軍、中国義勇軍の犠牲がとんでもないことになっていて、当時の価値観であれば「即時停戦するべき」という空気だったのだろう。
しかし中途半端なところで停戦したことによって、今現在どうなっているだろうか。
北朝鮮はアメリカ全土を射程に収めるICBMを開発し、中国は台湾進出の野心を隠さないようになっている。
そしてもっと言うなら、今から10年くらい前の貧乏アイドルとかの娘が亡くなった時も初めて知った名前だった。
かと言ってネット中毒になっていたわけではない。
この頃、それすらも億劫になってきた。
今から2~3年前に川崎市のカリタス事件を起こして死んだ犯人の遺留品を調べてみたら、世の中との繋がりを殆ど持たないまま何十年も生き続けてしまった人種と判明したみたいだったが、それ以上に膨らませようのない話だったみたいでそこで完了事件になった。
今は久しぶりに大戦争が起こって地球規模では大変な事態みたいだが、自分個人にとっては自分の終わらせ方選びの前では、遠くのテキストにしか感じられない。