「儒教」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 儒教とは

2014-04-11

中高生向けアスペルガーTIPS

自分アスペルガーです。社会挫折して鬱になって自殺一歩手前までいったんだけど、何とか復活して生きているのでアスペルガーとして生きていくための中高生向けTIPSを書きます目的情報シェアーと備忘録です。

1.世の中は正義など存在せず、ちょっと悪い奴が勝つ。

世の中はテレビマンガ世界のように正義など存在しません。正義感を元に行動していると厄介者扱いされたり、つまはじき物になります。かといって悪い事ばかりすると犯罪者としてさばかれる事になります。世の中はちょっとだけ悪い奴がうまく行くように出来ています子供の頃に得た倫理観中学校で捨てましょう。

2.人間関係テクニックである事を知る。

人間関係物理数学と同じように、それなりの法則があります。色々試したり、考えたりしながら法則発見しましょう。陥りやすい失敗ですが人間関係の本を読んで学習しようとする事です。多くのアスペルガー人間関係重要さに気がついた時、本を読んで学習しようとします。これをしてしまうと人間関係の維持のために無理をしているような変な奴になってしまます。周りの人間関係が旨い奴を観察してまねていくのが一番です。人間関係が旨い奴が、どのように考えてどういった行動を取っているのかを観察するように心がけましょう。アスペルガーからといって人間関係が苦手だとは限りません、中には人間関係に興味を持ち人間関係が得意なアスペルガーもいます。多くのアスペルガー人間関係が苦手な理由の一つは若年時に置いてその重要性にきづかず、スキル取得を放棄するからです。

3.生きていく上では仮面を被る

社会と言うのは複雑です。ありのまま自分と言うものは絶対受け入れてもらえません。従って偽りの自分を演じるために仮面を作り、仮面を被りましょう。大人になれば誰もがする事です。迷う必要はありません。ただし、本当の自分と相性のいい仮面を作るように心がけましょう。あわない仮面負担になりますし、操りきれません。

4.人間関係の基本は自分コントロール

人は基本コントロールできません。コントロールできるのは自分です。ただし、心を無理にコントロールしようとすると鬱病になります。どこまでが制御可能な範囲かテストしましょう。ときどき自分の心を観察し、怒っているのか、悲しいのか、楽しいのかと言った自分感情の動きの観察を心がけましょう。人を無理にコントロールしようと思うのはいざこざの元です。距離の取り方を覚えてあわない人には近寄らないようにし、あまりにも近寄ってこられたら撃退するようにしましょう。

5.感情制御せずに行動を制御する。

また、非常にむかついたら「ぶっ殺すぞ」と思うのは健全です。怒りは自然感情です。無理に押さえると、感情制御は非常に負担がかかるケースもあります。出来るだけ自然感情制御せず行動を制御した方が楽です。従って心の中では怒りまくってもいいですが、安易復讐するような行動をとったりするのは止めましょう。あくまで冷静にどういった行動をとるのが自分利益につながるか考えましょう。

6.基本誰にでも礼儀正しくする。ただし、礼儀正しさを強要してはいけない。

基本礼儀正しくしましょう。なぜか?それは礼儀正しさを強要してくる奴がどこの組織にも数%はいからです。これらの人間は大抵人格的に問題があるので接触を避けるためにも礼儀正しくしましょう。ただし、他人に礼儀正しさを強要しても何の意味もありません。あまりに失礼な奴は他の場所で必ず報いを受けるのであなたがわざわざ相手にする必要もありません。

7.人間は3ランクに分ける。

世の中にはいろいろな人間がいます。世の中の人と旨く付き合っていくには人を3ランクぐらいに分けた方が良いです。1.通常の付き合いが出来る人 特に付き合う上で問題がない人です。ある程度素の自分を出しても問題ないでしょう。2.付き合いに注意を払った方が良い人 あまり失礼のない行動を心がけましょう。普通の人でも一度敵にまわすと厄介です。 3.出来るだけ付き合うべきでない人 基本は礼儀正しくすべきですが、下手に出ると付け上がります。しつこいようなら対決も考えるべきでしょう。

8.英語力を身につける。

基本アスペルガー文化的観点から日本での就業は向いていません。日本労働宗教活動的な意味が大きいからです。日本での労働自分の労務以外にも、会社行事への参加、複雑な言語規制、服装規制、行動規制等の儒教の流れを汲んだ宗教活動を強制されます。この宗教儀式意味のない物も多く、従わない物に対する罰則組織内で暗に認められているためアスペルガーとの相性は最低になります。また宗教儀式習得にかかる時間と維持にかかるコストを考えた場合英語を取得し海外就職する方がアスペルガーに取って簡単だと思われます

9.出来るだけ理系を専攻する。

海外においては理系就職率は高く、給与も高くなります特別な才能がない限りは理系を選択する事をお勧めします。

ちなみにアスペルガーを選別する一つの方法は中高時代運動系クラブに入ってみるのも一つです。いざこざを起こしたり、不快を感じて続かない場合アスペルガーの可能性がけっこう高いと思います

2014-01-24

保守」の意味

保守」っていうけど、それは、既成構造擁護革新をしないという意味なんだろう。決して、日本古来の文化伝統歴史を知っているわけではない。

例えば靖国神社というのも、国家のために国民戦争死ぬことを肯定するプロパガンダで、明治時代につくられて昭和時代に強調された思想にすぎない。これは決して、日本古来の文化思想ではない。日本史最近である明治時代以降のプロパガンダ

例えば自民党というのも、既成の社会構造を死守する政党

保守政党」というのは、明治時代以降の資本家中心の社会構造を維持しようとする政党

それと、日本農業は、敗戦までは大地主中心の農業で、旗本みたいな武士地主だし、民間地主というのもつまり資産家。戦後農地改革小作農原則としてなくしたから、戦後には農家地主だと思っていい。それで、この農家という地主も既成構造恩恵を受けてきたわけで、だから自民党の支持層。

戦前戦後も、日本の政治の特色として、こうした企業地主のような資産家を中心にした政策とその意思決定が進められてきたことがある。

いま、「ネトウヨ」だのといって、そのなかには自民党を支持するデマゴーグ連呼しているのもいる。けれど、かりにいま貧困なのだったら、それは既成の社会構造によって虐げられているのだから自民党を支持するのは論理的破綻している(損だ)。騙されている、釣られているのか。それとも、ただ気分的にスカッとして面白おかしければいいのか。たぶん後者

いまの政党政治団体には、おそらく、日本古来の文化伝統歴史を真にわかっているのは、ほぼ皆無だと思う。

理解するためには、いま流布されている「日本とはこういうもの」というステレオタイプ(=プロパガンダデマゴーグ)を捨てないといけない。全国各地で互いにとんでもなく相違している文化習俗言語や食や生活習慣や行事などなど)も知っているべきだし、神道日本仏教儒教という日本の三大宗教文化慣習にも造詣が深くなければならない。三大宗教文化慣習については、それが絶妙な形で社会統治構造封建社会)を実現してきたことも知らないといけない。言語や食など、明治時代以降に没個性化されたものであって、江戸時代以前には日本国の各地域物理的・文化的にかなり隔絶されていて、おそらく言葉も通じないことが多かっただろうし、料理もかなりの相違があって互いにびっくらこくレベルだったはずだ。

ところが、いまの政治家や、あるいは一般国民にしても、そうした本当の姿を知らないし、学校でも教えてくれないし、教科書にも載っていないと思う。

自分自身の(自国の)本当の姿を知らないままで、いまの自分自身を制御できるのかも疑わしいし、ましてや将来へ進むことができるのだろうか。昭和時代まではおそらく、欧米を(戦後特に米国を)追っかけるだけでよかったから、つまり真似するだけで済んだから自分自身を知らないままでもやってこられたのだろう。

2014-01-18

日本兵が命を捨ててでも戦った理由

欧米人は、日本人に、「武士道」だのなんだのと、オリエンタルものを、東洋神秘(苦笑)みたいなものを求めるらしい。太平洋戦争などで命懸けで戦闘をしたり特攻をしたり(つまり自爆だ、自爆攻撃)した理由も、武士道だだのなんだのと言う。切腹だの自決だのという面がやたらと強調されている。

しかし、日本兵が命を捨てた理由は、武士道なんかではなくてむしろ儒教なのだと思う。

例えば、「天皇国家の家父長なのだから天皇のために粉骨砕身、命を懸けるのは当然」という理屈が出てくる。また例えば、「男は妻子や父母・兄弟姉妹を護衛するものなのだから戦場に赴いて命を懸けて戦うのも当然」という理屈が出てくる。

欧米人(とりわけ英国人など)が「武士道」だとか言うときには、騎士道念頭にあるだろう。その騎士道というのは本質的には、主君騎士の間の契約でできていて、個人の論理である

それに対して儒教というのは、個人の論理ではなくて、家・血族の論理、個人ではなく全体の論理である儒教価値観というのは、時空を超越している。個人の観念も、現在観念も超越する。個人の観念から跳躍したところに価値観があるから、個人を捨てて尽くすのも不可解ではない。過去現在未来という時間の壁も跳躍してしまうので、自分ひとりの人生どころか、何十年後でも何万年後でも先の発想をする。(儒教というのはそもそも例えば、先祖から子孫の血族代々を通じることで不老不死になる(永遠の命を得る)という発想だ。)おそらく、国歌の「千代八千代に」のような時間感覚もその発想から来ているのだろう。

実際には、国家社会というのは、個人の集積でできている団体だ。家というのも、家族ひとりひとりの集積でできている。だから、全体のために個を捨てろというのを強調して偏向すると、結果的に全体も破綻する。自滅だ。

ただ、現行憲法ができるまでは、日本国主権者は天皇だった。民主主義国では主権国民であり国は国民で構成される団体なのだが、国民主権でなく天皇主権だった当時の日本では、極端に言えば、国民コマ鉄砲玉だということにまでなりかねない。だから実際に、多くの人が命を懸けて、そして、死んだ。我々は、同じ国家家族を、仲間を、死なせた、殺した。

2014-01-16

ポイ捨てをしないという民度

中国人などが時々、日本に来たらゴミポイ捨てが少なくてビックリした、などと記事に書いているのを見かける。私は中国に行ったことがないのでわからないが、中国の都会はそれほどまでにポイ捨てが多いのだろうか。日本では残念ながら近年は特にポイ捨てが増えており、そのために罰則が設けられている市町村が増えた。中国人に「日本人は昔は法令がなくたってポイ捨てはしなかったよ」なんて言ったら驚くだろうか。

日本人ポイ捨てが少ないのは、残念ながら、おそらくは、民度によるものではない。一部の外国人は、日本を訪れたときに気づくようだ。日本人ポイ捨てが少ないのは、道徳倫理ルール洗脳されてきたからだ。なぜ悪いのかということではなく、悪いと言われているから悪いのだと思っている。昔は、悪いものは悪いのだから人目がなくてもやらなかったが、いまは道徳倫理観ではなく法令順守と言うから、バレなければやるという人が増えたように思う。

近代西洋国家の「民度」というのはつまり民主主義国家から自分たちが決めたルールには遵う、という論理である。街も市民の共有物であるから自分のものを汚染しないのは当然だと考えている。ところがこの日本には、そうした民度はきわめて低く、ルールお上が決める、政治家官僚が決めるものだと思っている。

「徳」というのはもともと儒教から来ており、中国生まれだ。韓国日本も、中国科学を受容し、儒教道徳も輸入したのである日本人にとって、「道徳」とは少なからず、他人から教えられるものであって、自分で考えるものではないようだ。ついでに言えば、道徳先進国であったはずの中国からポイ捨てが多いのだとすれば残念なことだ。

さて、本来の倫理観というのは、他人から教えられるルールではない。地球暮らしているうえでの人としての責務である。例えばアボリジニでもイヌイットでもアイヌでもネイティブアメリカンでもなんでもいいが、彼らは自らを地球(という概念を彼らがもっているかは別として、そうした総体的感覚)の生態系の一部だと認識して暮らしており、だから他人のみならずあらゆるものに対して、汚染すまい傷つけまい努力する。ほどほどにとどめておくという意識が高い。ほどほどにとどめなければ、環境破壊でとっくに破滅していたはずだ。採り過ぎたら食糧はなくなる。

こうしたいわゆる先住民的な思想というのは、近代西洋人からはしばしば「野蛮だ」「未開だ」つまり「プリミティブだ」とも言われてきた。その近代西洋人たちは地球をことごとく破壊して生物を採り尽くしてきて、いまがある。

実は、日本人にしてももともとは先住民的な、「未開の」人たちで、国土と交じり合って暮らしてきた。だからいまでも農業漁業などの根本思想のなかには、採り過ぎてはいけない、ほどほどにしてつあいを保たなければならない、という発想がある。そうした「個人」や二分論のような理屈では割り切れない思想をもっていた日本人は、近代西洋人からするといわば「ぬえ」のような存在なのかもしれない。彼らからすると、日本人というのはいまでも、得体が知れない。

ポイ捨てをしないということを元来の日本思想でとらえればすなわち、国土を汚損しないように努めなければならないからである。それが本来の倫理観なのだ。こうした倫理観が欠如しているいまの日本人たちには、他人から教わるような成文法的道徳」だとか、あるいは「法令順守」だとかい理屈ばかりが出てきてしまう。言い換えれば、「思考停止」と言う。

2014-01-11

日本全体主義

保守」を名乗ったり、さらには「右翼」だとか「皇国主義者」だとかいわれたりする人たちをみていると、「本当に天皇を崇敬しているのか?」と思える人が少なくない。

天皇は、とても穏やかで柔和だ。

それに比べると、彼らの中には、攻撃的で高圧的、威圧的な人が少なくない。街宣車で大騒ぎしたりするのにしてもそうだし、官邸周辺でのデモ活動を「テロ」呼ばわりするのにしてもやはり、そうだ。

理屈の上ではきっと、彼らは、天皇陛下に代わって、天皇陛下を護衛する「親衛隊」のたぐいであるつもりなのだろう。だが、私からすると、例えば、師弟にしても親子にしてもそうだが、敬愛する方の性格に似ても似つかない子弟なんて不肖だと思える。

さて、日本の、少なくとも江戸時代以降の社会文化というのは、中国儒教の影響を受けた、国家大家族主義だ。家父長主義、「家制度」ともいわれる。そのため、「俺がなんとかしてやる」というパターナリズム父性主義)の傾向が強く、社会全体が共依存気質をもっている。それはいまでも、政治家にしても、妻子をもつ世帯主の男にしても、そういう傾向がある。彼らはしばしば悩みを抱え込んで死ぬことすら、少なくない。

例えば戦争をして多数の「家族」を死なせたのも、善いわけがない。家族を死なせるというのは、あきらかな悪だ。だから、本当の日本的・保守的な発想であれば、「死んでしまった者は還ってこないのだから、もうしかたがない。だが、仲間を死なせたのは悪いことだ」と、結果は受け入れざるをえないが、倫理道徳観は維持することになる。「確定した結果はしかたがない」という発想も、日本的特徴で、外国人からはしばしば不可解に思えるようだが。結果に対しても是が非でも許容しないという感情・意地がある人たちからすると不可解だろうし、行為であろうが結果であろうが固定実体的に善悪を下すひとたちからしても、不可解なのかもしれない。

家族を死なせてしまうのは、善いわけがない。戦争をして、殺しあいのために戦地に赴かせるのも(他人を殺させるのも、殺されるのも)善くないし、ましてや本土空襲で多数の家族死ぬのも、善いわけがない。あの太平洋戦争でたくさんの人が戦地に行ったのは、本土の家族を護衛するため、しかたがなかったからだ。

死んでしまったものはしかたがない。だが、いま生きているものを死なせるのは善くない。

例えば、安倍晋三君が靖國神社に参拝しつつも「不戦の誓い」などといういささか奇異な妥協をしようとし、ところが自民党内では「靖國は不戦の誓いをするような場所ではない」とケチがついて党の運動方針から撤回となったそうだ。はたして自民党のひとたちは、本当の「保守なのだろうか? おそらく、いまの自民党は、真のこころざしのある者たちが降板したから、結果的に「極右化」、エセ・まがいものの「保守化」をしてしまったのではないか。それなのに、既成事実として自民党が多数派で政権を担ってきた、その母体があるがゆえに、まがいものの「保守」が政権を握ってしまっているのだろう。

なんだか、皮肉なことに、例えば社民党だとか共産党だとかの人命を強調する人たちのほうが、私には「保守的」にみえて滑稽だ。いや、実のところはおそらく、合議・話しあいというのが本当の日本文化で、それは言い換えればときに「民主主義」ともいうし、「コミュニズム」ともいうのかもしれない。

いまの日本はいったい、なにが偉いのだろうか? 戦争にしても、原発にしても、自殺者が日常的に多数出ているのにしても、なぜなのだろうか。大切なものを見失っているのだと思う。カネと贅沢が偉いのだろうか。あるいは、世界投資家にいい顔をするのが重要なのだろうか。

私には、その理屈はみえても、共感はしえない。

2013-10-17

http://anond.hatelabo.jp/20131016210823

不倫の由来を調べると、儒教から来てるんだな。

五倫と呼ばれる5つの人として守るべき道徳の項目があった。

元々はそれらのいずれかを破ることを不倫と言ったそうだが、現代ではその中の「夫婦の別」だけが不倫として扱われるようになった。

その「夫婦の別」というのは何かというと、これまた貞操の概念というわけではなさそうだ。

男女の役割は違うのだから、きちんとそれをこなし、また互いを尊重しなさいよ、という意味らしい。

まり不倫というのは、昔の定義でいうと、

  • 男性は稼いできなさい
  • 女性は家を守りなさい

あたりを破ることが不倫なのだろうな。

このへんの定義から言っても、元々「貞操を破ること」は不倫とは言わない気がする。

2013-09-11

精神の自由と死

僕は結婚している。

妻はステレオタイプ的だ。

社会的にこうあれを僕に押し付け精神的に束縛してくる。

いわゆる「社畜」という考えこそが正義

御恩と奉公世界だ。

日本仏教儒教が入り混じった)を根強く信奉する家に育ったからかも)

その考えを押し付けられている。

何かあれば学生気分が抜けてない

いい年した大人が

っと言ってくる。

僕はそんな考え方は死んでいるのと同じだと思う。

人が人としてあるべく生きるというのは仕事だけじゃないはずだ。

よく妻は仕事に恵まれて良かったねという。

確かに有休希望通りに取れるし人間関係も良好。

仕事自体も成果を上げて上司の覚えは良い方だ。

だが、だからといって精神まで社畜になるつもりは無い。

私生活あっての仕事だと考えている。

なのに、趣味に没頭していると文句を言うし、

子どもが寝静まった後にインターネットしているとキレる。

独身者が羨ましく思えるくらい、僕の精神の自由は侵されている。

段々と”死んでいる”状態になっていく。


独身の人、結婚を考えている人は、結婚とは何かしらの自由を犠牲にするものだと考えた方がいいかもしれない。

2013-08-20

http://anond.hatelabo.jp/20130820021346

基本的にあなた意見は正しいと思います

補足的に説明すると、韓国茶道日本茶道を基に作られたかなり新しい概念です。

これは、1910年李氏朝鮮日本併合されるまで、喫茶という概念が無かったためです。

儒教に重きを置き、仏教弾圧した李氏朝鮮では酒が重んじられ茶は弾圧の対象だった)

もちろん歴史が短いか文化として劣っているという理由にはなりません。しかし、日本人は長く伝統を続いたものの方が貴重であると考えます

これは、日本が非常に長い間続いている天皇家を抱えているという部分に誇りを持つ人が多いからではないか、と考えます

(あわせて、隣国のうちアメリカ韓国北朝鮮に絶対的に勝てるのは歴史の長さがまずあげられるのではないか、と思っています

2013-07-31

これぞ韓国の誇る文化朝鮮儒教

日本人感覚だとさ、日本はさんざん韓国に対して便宜はかったり譲歩してきた、

それなのに韓国は未だに日本を悪くいうし、不利益しかもたらさない。とかって感じるだろ。

それらの思いが最近日本全体の嫌韓ムードにも繋がっていると思うんだけど。

ただ、韓国人価値観にしてみれば、こっちは兄の国で、日本は弟なんだから

無制限に日本韓国が望むものやったり、韓国の言うことに従うのは当たり前としか思ってない。

間違っても、日本さん、いろいろ韓国のためにしてくれてありがとうなんて発想は生まれない。

しろ最近慰安婦竹島のことを素直に認めなくて生意気くらいに思っている。

奴らの価値観の前では歴史的証拠とか価値はない。

目上の者がいうことを盲目的に信じて従うことが善。それを疑う時点で悪。

から韓国のいうことに矛盾があったり、嘘の証拠がでてきても、それでも韓国の言い分を信じないなら悪なの。

これぞ韓国の誇る文化朝鮮儒教

----------------

2chから転載

2013-07-27

正論を言う人間になったらおしまいだ!

これから社会渡り歩く上で、是非とも知っておきたいこととして、世の中始末に負えない乱痴気野郎は数有れど、正論人間ほどタチの悪い、人生の詰んでいる人間は居ない。これは知っておいても損はないだろう。

これから社会へ羽ばたき偉業を成し遂げんとする君たちも、薄々感づいてはいるはずだ。学級委員長生徒会長のような正論マンの不甲斐なさ、そして冬の碧空にも似た慟哭に。

世の中に蔓延正論をなんとかして駆逐せねばならぬ、とまで考える人もいるだろう。また、正論どや顔で言うような族(やから)にだけは俺様はならん!と固く誓っている人もいるだろう。

しかちょっと待ってほしい。ここで大切なのは感情論の排除である。何事も感情的になっては琴をし損じる。感情的と言ってもヤキモキしたキモチを適切な形でストレートに吐き出すのはむしろ良いことである

そうではなく本当の感情は棚にあげて都合のいい別の感情正当化しようと論をひねりだすのが駄目なのだ。結局それは言い訳であり捏造にすぎない。自分にも他人にも嘘をつき、感情的になればなるほどその嘘の対立構造エスカレーションする。

から冷静に思考しなければならないよ。学生時代にロクに人と向き合うことなく2chなどをやり過ぎてきた人は特に注意。面接で俺は友達いるしサークル入ってたしバイトもしてた、なんて人がよくいるけど、

そんなのも名札(title)にすぎないのだよ。中身が肝心。素直な気持ち・意見をどれだけ適応的にやりとり出来たかどうか。その意味正論を文字通り「正しい」と思えるような人は危ないと言ってよい。

結局のところ正論というのも名札にすぎない。正しいと名札がついたことを言えば、一応は一定の力をもつ。絶対無敵とまではいかないが、たいていの場面で有利な形勢に持っていくことが可能であるという意味おいて。

ところがね、第1にそもそもにおいて「勝つ」必要などないのだよ。狡黠な人間になんてなる必要ないとも言い換えられる。ずるい人間って世の中いるよね。それは一種の適応とも言えるが。

よく考えてほしいのは、適応というのは常に不適応の可能性をはらんでいるのだよ。ある方向に適応したということは、他の方向に適応できなかったからかもしれない。ズルいってのはそういうことなんだ。

あらゆるファクターがありうるので一面的に決めつけることはできないけどな。けれどもそれがもし不適応からきた果実だとしたらそんなに哀しい色の果実はない、そう思わないかいということなんだ。

第2に正論はあくまで論の正しさに過ぎない。論とは前提たる命題に推論規則を用いて演繹していくプロセスなのだがな。ともかく論の正しさはあくまで推論の正しさであり前提の正しさではないという中学校から教わってきた当たり前のことなんだ。

当たり前だがみんなすぐ忘れてしまうから常に確認しながら進んでいかないと行けないんだ論者たちは。でないと、、中学生が見てもバカじゃんこの大人たちはって言うようなことが頻発するのだ。

人間は多くの人間自身が考えているよりもスキが多い、不注意が多い、手抜かりが多い生き物なんだ。だから当たり前のことを当たり前にやれる大人になること、これが何よりも大切で、難しいことなんだ。

岡目八目と言ってハタからみて批判するのは簡単だけど実際にそういう立場になったとき自分自身しっかりやることが肝胆だよ。だから正論を畳みかけるように言われてもジト目で疑うことを怠たらない誠実さを忘れてはならない。

そういったことを抜かりなく積み重ねていく先に成長がある。正論を疑うにあたっては、繰り返すが感情的になってはいけない。感情を包み隠さず適切な形で表現するのは良いことではあるが、感情に論がくっつくと

途端に一気にタチの悪い一揆を巻き起こして塗炭の苦しみに見舞われてしまう、と述べたね。ここで1つ感情的にならないコツを教えよう。こと人間関係になると多くの負の感情は恐れからやって来る。

怒りも恐れ、恥ずかしさも恐れ、不安も恐れ、いろんなことが恐れから来ている。そしてそのことをみんな自認したがらない。だからビビり先輩ちーっすwな煽りが万国共通に通用すると。

から恐れを常に認めないといけない。認めるためには心の余裕が必要なの。心に空きスペースがないと駄目なの。ワーキングメモリが一杯になると他の事考えられなくなるでしょう。

実は人間は生きる心構え次第で必要な余裕が雲泥の差なんです。一般には精子いや生死をかけた闘いを日々繰り広げる人ほど沢山の余裕が必要と考えられている。しかし実際は彼らの95%は忙しいの字は心を亡くすと

書くとの格言どおり忙しさのあまり心が狭くなっていますから、それでもなんとかやっていけてるということは実は大して彼らのような生き方のためには別に特段余裕が必要なわけではないんですよ。

ただしそれは「毎日をなんとかやり過ごす上では」不必要ということであり、「日々をよりよく生きるためには」あるいは「今後の人生のためには」もっと余裕が必要ですよ。狭い心のままではいつかSAN値ピンチになります

そう、「よりよく生きるためには」もっともっと余裕が必要なんだよそこの君。倫理(ethics)とは本来は儒教的な処世術ではなく日々をよりよく生きる方法を追求する学問であった。

自分のことばっかり考えてガンガン心を狭めていては結局のところ苦しい境遇に追い込まれていくようにうまく世の中はできている。天網恢々疎にして漏らさずとは至言なり。

オデッセウスの鎖―適応プログラムとしての感情』の紹介文を見てごらんなさい。「感情はなぜ存在するのか。感情がその場限りの自己利益を越えてより合理的に行動を方向づける働きがあることに着目し、

今まで十分に理解されていなかった利他行動など、一見非合理的にも見える行動のメカニズムを鮮やかに解き明かす」。この問題意識と解決の試みに非常に高い知性を感じざるを得ません。

実は感情は我ら人間の誇る高級な機構であったという発見が続々と為されている。そういった感情を捨象してロボットのように正論を言ったり感情捏造して論理で塗り固めたりするのはもう今年で卒業しよう。

来年からはきっぱりケジメをつけて全く新しい人間に生まれ変わるつもりでいこう。ただしだイチローの「変わらなきゃも変わらなきゃ」の精神は忘れちゃならんぞ。必死に変わろうとする人間がよく陥る罠。

変わろうと歯を食いしばることは現状を強く否定することになるが、実は否定すればするほど暗に弥が上にも強く肯定してしまう結果になるのだから、決して無理に変わろうとしてはいけない。

これも人間関係と同じで根底には恐怖がある。忙しさを好む精神の奥底にはしばしば恐怖があるのだ。一般に強くコミットしようとする性向の背後には恐怖があるということ。

から強くコミットしようとするのではなく、ソフトアプローチ。これが大原なのだが、そのためには実はたくさんの余裕が必要なんです。だから言ったとおりでしょう心構え次第で雲泥の差。

余裕といってもロマンティック・アイロニーのやうな嘲笑や放蕩ではなく、きちんと自分の行い、思考を決める規律を自分で定めないといけない。

クラピカも制約を自ら誓約して力を手にしたのだからこの支配から卒業して賜杯を手にするには規律を自らに課すことが必要不可欠といっても過言ではなかろう。

ぱっと見なめし革のような硬質な立派さを漂わせてはいもののそれはあくまで虚構で、その内に秘めたる醜さは計り知れない。だから俺はブランドもののバッグが大嫌いなんだ。

ともあれ人の心にハリボテエレジーのような哀愁があり、それを我々は他者や社会との関係の中で再現しているに過ぎない。しあわせに小石をなげて。

その修正を試みるのがサイコドラマの主旨である。ともあれ正論という古い規律を捨てて感性的であろうとすると俺たちはいとも簡単に自己否定ワナにかかってしまう。だから新しいマイルール必要なのだ

マイルーラ見かけなくなったなと思ってたら2001年3月製造中止。 テレビCM大学文化祭宣伝しだしてから若者の間で非常に人気が出て世論の批判を浴びたことが原因とな。

2013-05-29

http://anond.hatelabo.jp/20130529141913

公務員」で辞書を引いてみなよ。その雑な定義がそのまま載ってるから

うん、だから雑な議論でいいんだね?

君がいいならいいんだよ。

俺が困るんじゃねえもの

そんなら雑な「武士道」の援用にキーキー異議申し立てる理屈も立たなくなるだけだよ。

どうして「薄給」という文字を無視するのかね。

「高給」と「無給」しか考えつかないわけじゃあるまい。

「食うわねど」「食えない」という文字を無視して頑張るのはやめなよ。

貧乏でもプライドを高く持つべし」と言われるのは武士からこそだよ。

江戸時代の庶民たちが「貧乏でもプライドを高く持つべし」なんて思っていたか

おお、武士について無知などころか江戸っ子の見栄の文化すら知らないと。

まあお前はそれでいいや。


じゃあもっと極端な例で忠臣蔵ってあるよな。

改易で無職になった浅野家の浪人達が死んだ主君の仇討ちを命懸けでやった。

見ようによっては全くナンセンスなあれは

武士からだけ賞賛されたわけではなく、庶民にも大人気になった。

武士けが「いい忠義だ」って言ってそれ以外の階級がしらけて「アホじゃね」と反応してきたわけじゃない。

江戸時代以降、武士道っていうのは既に武士以外の階級にもある程度知られてて

部分的に好ましく受け止められたり内面化されたりもしてたわけ。これに限らないよ。

武士道が狭い身分階層の限定的な道徳だったって言うお前の話の前提から間違い。

でも現代には、貧乏な庶民すなわち生活保護受給者に、「武士ならばプライドを高く持つべし」とか言うアホがいるわけだよな。

から生活保護政策の是非と無関係

お前は無知で間違ったたとえ話ばっかりするアホタレなわけだよな。

どこから「秘匿」とかい言葉が出てくるんだし。

武士道」を一子相伝の奥義かなにかと勘違いしてるのか。

お前がそういう方向の話をしてるんだよ。

実際には秘匿されたものでも限定されたものでもなく

明治以前には庶民にまで広まって内面化されていました。

儒教朱子学だって庶民でも習えるんだからよ。


戦国時代にはもっとハイテンションだったんだよ。

太平の世でそれでは困るから、「武士道」によって牙を抜いたんだよ。

そうですね。

で、「同じ公務員だ」と喚きながら江戸の世と平成の世を同一視したがる馬鹿にも何とか言ってください。



から軍国主義に「援用」した/できたことは否定してないってばよ。

軍国主義に援用するような人間は「武士道」の体現者ではない、というだけだよ。

意味がわかりません。

「論拠を添えてね」ってもう一回教えないと駄目か?

1回で覚えろよ。


江戸時代武士公務員というのは、別に俺のオリジナルの考えというわけでもなく、ごく一般的な見方なんだが。

意味がわかりません。

「論拠を添えてね」ってもう一回教えないと駄目か?

差異部分については色々と論じつけてあげたよね。

そこに異論があるならキリキリ反論しなさい。

反論に窮して「ボクの主張は定説です」とか言い出すのは単なる知能障害の発作です。

http://anond.hatelabo.jp/20130529105725

江戸時代武士は主君ひいては幕府から食い扶持を得て公務にあたっていたわけで、

現代的に言えば公務員以外の何者でもないよね。

「食い扶持を得て公務に当たってる」で現代日本公務員と同じにくくる程度の雑さでよいのなら

戦前日本を「武士道精神の発露だ」と総括する雑さを批判する資格はないよね。

どっちかにしようよ。

あとなんども言うけど食わないで高楊枝しなきゃいけないってことは

そいつは食い扶持を得てないっぽいんだけどな。

ここではその「高楊枝」を現代生活保護受給者に求めているんだから

現代公務員が高給だろうが薄給だろうが、

生活保護受給者に求めんな」ということにしかならないよね。

「高楊枝」の是非はどうでもいいんだけど

そもそも「高楊枝」が公務員心得の類には見えないよねえ。

どう公務員待遇と係ってるの?

しろ食い詰めもんの意地や誇りの話に見えるんだけど。

それこそ公務員待遇を失ってしまった改易浪人とかね。

(ついでにいやあ、本来の役人の心得的なもの別にあって藩によっては一部は残ってるよ。)

あとさあ

「高楊枝」みたいなのって武士の間で秘匿されてた心得ですらないんだよね。

江戸時代ですら既に町民が「武士道」的な美学の一部を取り入れたり語ったり(騙ったり?)している。

そういう意味でも君の「高楊枝」理解は現実より狭い。


太平の世に餓狼のような戦国の気風がそぐわないことから

儒教ベースに作り上げられたのが「武士道」だよね。

もう平和になったんだから戦国気分は捨て、大人しく主君に忠勤しろよ、ってなもんで。

名誉を損ねたら腹切って死ね

お家に一朝事ある時は槍を取り馬を駆って主君の馬前で死ね

というハイテンションな死生感がベースにあって

家臣としての格すら戦国の世の父祖の勲功で決まってたような価値観です。

からこそ300年の太平でだいぶ錆びた後ですら維新の斬った張ったが出来、

その後の近代軍の精神性のバックボーンにも(功罪ありつつ)なり得た訳です。


こんなんを現代公務員と比定するだけでも不見識と言うか、パーですな。

http://anond.hatelabo.jp/20130529091039

武士なんて現代で言えば公務員みたいなもんじゃねえか」というどっかのおばかさんのたとえに対して

現代日本に食うに困ってる公務員なんかいねーよ」と教えてあげました。

まさか増田が知らないはずもないと思うけど、

江戸時代武士は主君ひいては幕府から食い扶持を得て公務にあたっていたわけで、

現代的に言えば公務員以外の何者でもないよね。

それで、「高楊枝」の気構えを現代公務員に求めているという話なら、

現代公務員は高給だし」という反論もできなくはないけど、

ここではその「高楊枝」を現代生活保護受給者に求めているんだから

現代公務員が高給だろうが薄給だろうが、

生活保護受給者に求めんな」ということにしかならないよね。

「べき」と言うときは論拠を添えてください。

江戸時代武士戦国時代を見据えながら帯刀して生きた人達です。

まさか増田が知らないはずもないと思うけど、

太平の世に餓狼のような戦国の気風がそぐわないことから

儒教ベースに作り上げられたのが「武士道」だよね。

もう平和になったんだから戦国気分は捨て、大人しく主君に忠勤しろよ、ってなもんで。

お前が「噛み合ってない」「筋違いだ」みたいなことをほざくから

まさか増田誤読するなんてことはないと思うけど、

いわゆる「武士道」とは、平和時代に生きる武士の心得なので、「武士道」を戦時の心得として適用しようとする連中は基本的に似非。

もしかしてこれを「武士道戦時の心得と噛み合っていないか戦時には適用できない」と読解したの?

「噛み合おうが噛み合うまいが平時のもの戦時適用しようとする時点で似非」という話だって、もちろん分かってるよね?

2013-05-17

モンスターペアレント日本独自の概念

モンスターペアレントとは学校などに対して自己中心ともいえる理不尽な要求をする親を意味する。向山洋一の命名とされる。略してモンペともいう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%9A%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%88

モンスターペアレント(モンペ)とは「教師は偉い」「教師に従うのが当然」「親は口を出すな」という日本社会儒教精神体現された概念だと思う。子供のことで親が口をだすのは当たり前で、わざわざ名前をつけるのがおかしいではないか

英語ウィキペディアモンペ対応する記事は"ヘリコプターペアレント"という記事だが、「過保護な親」という意味であって「教師・学校に文句を言う親」というニュアンスは、ほぼ無い。しかも異常に充実した日本語モンペの記事と違い英語版「ヘリコプターペアレント」の記事は簡素であるウィキペディアが全てではないが、ヘリコプターアレンツは英語圏でそれほど問題視されていないと言えるのではなかろうか。

中国語ウィキペディアの「モンスターペアレント」の記事はほぼ日本語版を訳しただけ。他の言語版はまともな記事がない。

これらのことからモンペほぼ日本独自の概念だと思う。逆に言うと日本以外では「教師・学校に物を言う親」が普通ということでもある。

モンスターペアレントという言葉を生み出す土壌である儒教精神日本社会の悪い部分であると思うので、日本モンスターペアレントという「普通の親」が増えてくれると嬉しい。

2013-05-15

http://anond.hatelabo.jp/20130515081422

道徳」だけ見れば儒教国家である中国韓国の方が高いよ。ただ向こうは規範意識が低い。

反対に日本場合は、規範意識はめちゃくちゃ高いのに、道徳心は欠如しがち。

2013-05-14

http://anond.hatelabo.jp/20130514234419

『女大学』七去に従えば夫理由の不妊でも女は離縁できないじゃん。あり得ないっしょ。つーか儒教金科玉条に振りかざしてるテメーに言われたくねーよカス

文語体から読めないんだろ? だから具体的な内容にツッコんで来ないんだな。

2013-05-09

中国かぁ、昔はあこがれたもんだ。第2外国語中国語を選んだぐらいだし。

漢文時間が好きだったな。漢詩とか好きだった。

城破れて山河あり、だっけな。孔子とか儒教とか、仏教インドと言うより中国文化だと思っていた。

毛沢東とか中国共産党とか、国民軍とか蒋介石とか、よく知らなかった。本田勝一とか読んじゃったなぁ。

中国人アルバイトとか中国人ビジネスマンと付き合うと、悪い人じゃないんだけど自己中だと感じるね。大きな声で主張するだけで議論が積みあがらない。でも情で解るよってのは伝わるね。「国と国の話は止そうよ。中国って国は中国からさ。ビジネスはちゃんとやろうね。」って中国人がよく言ってたよ。まあ、日本に来ている中国人オーストラリア国籍も持ってるとかいってたし、3分の1ぐらいしか中国にいない人だったけどね。

中国の送金ルールが厳しくて、取引するのはしんどかった。日本で取引するにはいいけど、資本の回収を考えると日本から出資してビジネスする日本人ってすごいなぁ。

2013-05-06

高速道路の追い越し車線見たらクズばかりの国ということがわかるだろ

儒教なんて関係ない

臆病で人に意見できず強い者には逆らえないクズが多いだけのこと

から車という大きな力+個室という環境では強くなり他者を煽りまくる

SAで車から引きずり下ろすと臆病なクズに戻って喋ることすらできなくなる

鈴木邦男講演会「右から脱原発」に参加して

2013/5/5名古屋市教育館にて鈴木邦男氏の講演会が開催された。

新右翼一水会最高顧問でありながら、現在は思想的にはリベラルであると自他ともに認める鈴木氏。「右から脱原発」をテーマ講演会はこの日14時に始まった。

ゲスト地球上で唯一人封建主義者を自称する評論家、氏の過去の著作名の如く「危険思想家である呉智英氏だ。

彦摩呂似の司会者の合図で先ずは鈴木氏が登壇、呉氏がゲストという事で近著「真実名古屋論」、「吉本隆明という共同幻想」を紹介し話は呉氏との過去逸話や他の作家の話などを織り交ぜ、終盤思い出したかのように脱原発の話をして30分ほどで鈴木氏単独の公演は終了。公演は3部構成、2部は鈴木、呉両氏の対談形式で話が進められ、3部は質疑応答の時間参加者は30~40人程度といったところか。新右翼の代表的人物である鈴木氏の公演であり、過激な発言で知られる人気作家呉智英氏がゲストであれば会場は満員になっても何らおかしくはない。しかし、この公演に関してほとんど告知がなされていないせいか、最大収容人数200人の会場で二人はマイクを置いて地声で話していた。それほどに参加者の数は少なかった。

筆者がこの講演会を知ったきっかけは毎週欠かさずチェックしている鈴木氏のHP鈴木邦男をぶっとばせ!」の今週の主張という毎週月曜に更新される記事によってだった。しかもこの講演に関してはその長~い記事のそれこそ最後まで目を通さねばわからないほど下の方に告知が載っているだけ。筆者は知らないが鈴木氏はTwitterをやっている為、そこでは告知をしていたのかもしれないが…。他にも一水会HP、会場の名古屋市教育館のHPを覗いてみたが、特に告知らしきものは見当たらなかった。因みに筆者はイチ鈴木邦男ファンとして今年2月同じく名古屋日本キリスト教団名古屋教会で催された鈴木氏による講演「いま、“愛国”について考える−排外主義への異論−」に参加したがその時は会場は満員であった。あくまでその教会のいち催し物である為に信者ほとんどであったし、一概に比較出来ないが…。何より福島原発事故から2年以上経てそれは既に風化し、もはや「反原発」というスローガン訴求力がない事の証明であったように思う。20代参加者はおそらく筆者1人であったし周りを見渡すと皆頭に白いものが…、中には自ら朝鮮人を名乗る者もいたし、聴講者の多くが戦後民主主義人権主義思想に凝り固まった、言ってしまえば絶滅危惧種サヨクだったと見える。そうなると呉智英氏の天敵が集まったことになるが…。筆者は思想的には新右翼寄りと勝手に思っている者だが、少なくとも一般聴講者の中に右派保守系の人は見受けられなかった。新右翼の代表的論客鈴木氏の講演である題目は「右からの~」だし、呉氏が来るのだからてっきり右の人がたくさんいるのだろうと思っていたのに意表をつかれた形になった。

今回の講演会テーマ脱原発しかし、おそらく遅れて呉氏がゲストに決まったと思われる為、急遽テーマから脱線は止む無し、むしろ脱原発は公演の一要素に過ぎないといったところだった。2部の両氏による対談形式の講演は1部以上に話題は多岐に渡った。呉史は現在名古屋在住、名の売れた作家であるにも関わらず今は家賃7.9万のマンションに住んでいるとか、ライフワークである儒教についてや思想から政治、氏の私生活までその著作と違わぬ軽妙で鋭い語り口で会場を盛り上げていた。中でも印象的だったのは改憲についてだ。9条戦略的に活用せよというものメモを忘れた為うろ覚えだが、憲法9条が現行のままである限り安全保障は続くのであるから改憲せず、これまで日本がやって来なかった謀略戦に特化しお隣りの2つの国を戦争させて漁夫の利を得よといった内容だった。もちろん危険まりないラディカルな意見ではあるが、常々自衛隊国軍化は必要だと考える凡人右派思考の筆者はそんな考え方もあるのかぁと目からウロコだった。もちろん本旨の脱原発についても忘れていない。呉氏は反原発派でありながら既存脱原発デモを批判し独自の方法論を提示していた。封建主義者の面目躍如とばかりに鈴木氏の出る幕もないほど冗舌に語っていた。筆者にとって2部の二人の対談はとても勉強になったし何より刺激的でとても楽しく拝聴していた。

しかし次の質疑応答でそんな気分も吹っ飛ばされてしまった。

先に述べたとおり、参加者の多くは戦後民主主義人権主義思想に洗脳された方々である。そんな彼等との質疑応答はまぁ無意味で退屈で不快ものだった。二人の質問者が、呉氏が講演の中で何度も口をついた「支那」という言葉を取り上げて「中国を『支那』と呼ぶことは差別でないのか?、石原慎太郎の真似でないのか?」(およそ60代の女性)続いて男が大声で「『支那』は不快!相手が不快に思うのなら中国と言うべきではないのか?」といった質問をぶつけた。呉氏はこれまで民主主義を否定し続け、ソ連解体共産主義崩壊とともに民主主義終焉を迎えたと語る危険思想家である。併せて氏は30年余り「支那」と呼ぶべき理由を、その正当性を、論理的に、何度も何度も口酸っぱく唱えてきた男である石原なんかよりずっと前にだ!!その主張は呉氏の数々の著書に幾度も書かれている為詳細は省くが、中国を「支那」と呼ぶ事が差別であるかはともかく、氏は30年もそれを訴え続けているのである。何を今さら言うか!筆者は考える、参加者は今回の講演会に参加する限りは呉智英という男がどんな危険思想を持つ人間であるか少しでも知っておく、いや参加するには著書の2.3冊読んで予習しておく、それが無理ならさらっとウィキペディアでも覗いておく事が必要ではないのか?もちろんそれを強制するつもりはない。しか知識人である呉氏への無理解、自身の無知を醜くさらけだし、それに気づかずにヒステリックに喚き立てる姿は憐れですらあった。他にも40代と思しき男が「反原発デモで左右連帯というが、グローバリズムを旨とする左翼中国韓国を非難する右翼連帯するのは難しい、それについてどう思うか?」といった事を回りくどく長々と言い、鈴木・呉両氏を論破せんと意気込むも「じゃぁ別々にやれば良い」と冷ややかに返答されていた。当たり前だ。右翼反原発に取り組む動機は、現在進行形福島の大地が放射能に汚染され続けている現状を憂いての事であって最早ナショナリズムがどうとかそんな事は関係がない。サヨクの男は、今後中国韓国を巻き込んでの反原発運動がどうたらこうたら言って、今そこにある危機無視して下劣なイデオロギー次元に落とし込む事を考えている。全く恐ろしい…呆れてものも言えない。右翼を非難し自分論理を展開する事によって連帯意味を履き違えている事を露呈し、さらには逆説的に左右連帯が不可能である事を自らが明らかにしてしまった。右翼最初から反原発に限っては左右は関係ない、むしろ反原発の一点、そこだけ一致すればどんな思想の持ち主だって構わないという姿勢であるのに…。

そして最後質問者の老婆は鈴木氏に対し「ウヨクってなんですかー!?全ッ然わからないんですけどー!!今日来た意味ないです!払った千円返してください!」だって鈴木氏は最初はまともに返答しようとしたがとにかく態度と声のデカイ老婆の勢いに困ってしまい、封建主義者の呉氏がフォローを入れるという事態に。あぁそうそう、なんか8年前ぐらい前だっけ?騒音おばさんっていたじゃない、もうまさにあんな感じ…。両氏はもう顔を見合わせて苦笑い。そこでもう時間切れ、司会者が強引に中断して参加者一同二人に拍手。筆者はこれでもかってぐらい、もうババァ黙らせてやるって気持ちで拍手しまくってやった。それでも老婆は懲りずに怒声を発し続けていたけど。

今回講演会に参加して感じたことが幾つかある。先ずは主催者側の問題点を言いたい。やはり呉氏がゲストからといってテーマは「右から脱原発であるからには、あくまでそこを中心に講演するべきであったように思う。脱原発の講演を期待して来場した人がほとんどのはずだから、その点で考えると参加者ほとんどが満足のいく内容でなかったはずだ。それに告知、今のご時勢ネットを活用すればもっと集客できたに違いないし、単純に参加者もっと増えればより質の高い講演となったと思う。次に参加者について。まぁ誰が参加しても当然問題ないんだけど予備知識くらい入れてから来いよと言いたい。呉智英氏の事を少しでも知っていれば、氏が百万回くらい経験しているであろう不毛な「支那」問答に時間を取られる事も無く、参加者不快な思いをせずに済んだのになぁ…。呉氏の思想を知っていれば来なかった人もいただろうに。まぁ本当に残念な講演会だった。最後の質疑応答さえ無ければ笑顔で帰り道を歩けたのに、あんな事になっちゃって全て台無し参加者には文句言うまいという気持ちがあるにはあるが無知と無理解に無自覚なオソロシイ数人の人を前にして味わった事のない恐怖体験をしてしまたから、つい愚痴ひとつやふたつ言いたくなるよ。

2013-04-27

はてサ連呼厨の正体 id:yohataレイシズム、ヘイト、頭の悪いコメント

id:yohataブックマーク

http://b.hatena.ne.jp/yohata/

「チョン」検索

このレベル挨拶のよーなチョンに慣れちゃっているけど、USだとフツーに失言です/ふつーこの手の反日民主党議員だろう、日米共に。

チョンゲー会社出資するなんて日立もイイ度胸というか。

サムチョンロゴつきのモノを持ち歩きたくない、とゆー根本的なところは置いておいて


マスゴミ検索

本気でマスゴミ様の恐怖支配世界だな。

マスゴミもハテさも「陰謀論」って言葉に逃げ込むしかない感じが多いね

一番の問題は、こんなクズなことを恥じること無く公言出来る日本マスゴミ業界ってことだよね。

サヨク支配のマスゴミ様による「特亜様に抵抗するな、空気を読め」圧力は舐めちゃダメなんじゃないか

断ったら民主党マスゴミ左翼連合執拗嫌がらせを受けるだろうし


朝鮮検索

朝鮮マネー工作飛び交ってるんだろうな

自民民主朝鮮部落系と合同して膿を一カ所に集めてしまえば、もっといい。

ホント朝鮮禿と同レベルにまで落ちていくと思うぞ。

朝鮮進駐軍場所乗っ取って「時効から問題ない」とかほざいてる朝鮮学校や全国闇市パチンコ屋の土地とかも当然対象ですよね?ヒュンダイ様。

朝鮮金丸団塊左翼在日小沢と。特亜左翼に手を出した結果偉い目に遭う売国屑流派の末路なんだろうね

サヨクさん&在日達。寄生虫根性に恥の概念が無い


特亜検索

サヨク特亜人のやることって、いちいち浅ましい

特亜が都合の悪いとき、必ず脅迫事件が起こるよね

ホント特亜人は人肉食いが好きだよな

サヨク支配のマスゴミ様による「特亜様に抵抗するな、空気を読め」圧力は舐めちゃダメなんじゃないか

いわゆる「リベラル」の方が特亜の悪儒教的影響を強く受けている

マスゴミ様、特亜仲間は徹底して庇うの巻

特亜反日からむと、ブックマークも怪しい奴がきます


はてサ検索

はてサ様による差別連呼レッテル貼り、具体性のない罵倒

サベツが嫌いな筈のはてサの皆さん、これだけ露骨なサベツが横行していますが。どうお考えですかね?

はてサ在日さん。バイト代っていくらぐらい出るわけ?


レイシズムやヘイトも醜いが、この支離滅裂ぶりと歪んだ世界観

頭の中どうかしちゃってるとしか

id:yohataレイシズム、ヘイト、差別、頭の悪いコメント

id:yohataブックマーク

http://b.hatena.ne.jp/yohata/

「チョン」検索

このレベル挨拶のよーなチョンに慣れちゃっているけど、USだとフツーに失言です/ふつーこの手の反日民主党議員だろう、日米共に。

チョンゲー会社出資するなんて日立もイイ度胸というか。

サムチョンロゴつきのモノを持ち歩きたくない、とゆー根本的なところは置いておいて


マスゴミ検索

本気でマスゴミ様の恐怖支配世界だな。

マスゴミもハテさも「陰謀論」って言葉に逃げ込むしかない感じが多いね

一番の問題は、こんなクズなことを恥じること無く公言出来る日本マスゴミ業界ってことだよね。

サヨク支配のマスゴミ様による「特亜様に抵抗するな、空気を読め」圧力は舐めちゃダメなんじゃないか

断ったら民主党マスゴミ左翼連合執拗嫌がらせを受けるだろうし


朝鮮検索

朝鮮マネー工作飛び交ってるんだろうな

自民民主朝鮮部落系と合同して膿を一カ所に集めてしまえば、もっといい。

ホント朝鮮禿と同レベルにまで落ちていくと思うぞ。

朝鮮進駐軍場所乗っ取って「時効から問題ない」とかほざいてる朝鮮学校や全国闇市パチンコ屋の土地とかも当然対象ですよね?ヒュンダイ様。

朝鮮金丸団塊左翼在日小沢と。特亜左翼に手を出した結果偉い目に遭う売国屑流派の末路なんだろうね

サヨクさん&在日達。寄生虫根性に恥の概念が無い


特亜検索

サヨク特亜人のやることって、いちいち浅ましい

特亜が都合の悪いとき、必ず脅迫事件が起こるよね

ホント特亜人は人肉食いが好きだよな

サヨク支配のマスゴミ様による「特亜様に抵抗するな、空気を読め」圧力は舐めちゃダメなんじゃないか

いわゆる「リベラル」の方が特亜の悪儒教的影響を強く受けている

マスゴミ様、特亜仲間は徹底して庇うの巻

特亜反日からむと、ブックマークも怪しい奴がきます


はてサ検索

はてサ様による差別連呼レッテル貼り、具体性のない罵倒

サベツが嫌いな筈のはてサの皆さん、これだけ露骨なサベツが横行していますが。どうお考えですかね?

はてサ在日さん。バイト代っていくらぐらい出るわけ?


レイシズムやヘイトも醜いが、この支離滅裂ぶりとここまで歪んだ世界観はなんだろう。

頭の中どうかしちゃってるとしか

2013-04-17

ファーストリテイリング会長インタビュー記事をよんだ。

時代グローバル化だ、そうだ。そもそもグローバル化ってなんだろう。辞書的な意味は、国家なんかの垣根をこえて自由に経済しましょう、ということだろう。境界無視/自由という語感から、慣習からの脱却(年功序列、必ず問屋を通す?みたいな)と同一視されているかもしれない。昔にはやったデータマイニングちょっと前にはやったクラウド、そして旬なビッグデータと同じでバズワードじゃね、と個人的には思う。

意味定義もよく分からないが刺激的で万能薬みたいな効果がありそうな単語流行らせ、その単語を冠した商品を買わせよう、というやつだ。グローバル化も、そのグローバル化を声高に叫んでいるひとたちが得するわけで、その賛同者や感化されたひとが得するわけじゃない、構造ネズミ講と同じだと思っている。親とそのすぐ下の子ぐらいまでは儲けがあるじゃね、的な。

まあ、それは横道で。

年齢を問わずに実力でひとを評価しよう、と言っていた。うん、慣習からの脱却だね、年功序列の否定。でも、同じ口で、25ぐらいまでに基本的な考えをまとめて、努力を重ねて35ぐらいまでに執行役員・・・という。これと同じ言葉を知っている。「吾れ十五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず・・・孔子というひとの言葉だとすれば、15歳で学を志そう、と基本的な考えをまとめ、努力して30で学の分野で責任を取れるようになった、と。たぶん、そんな感じ。とてもファジー。や、すごいね旧弊だという儒教的な価値観のほうがそのひとの価値をバッサリと切り捨てる年の頃がずいぶん早い、ただ努力にかかる時間は長いよね。

親を敬え、という儒教的な価値観根付いた年功序列とかを破壊したいひとの口から儒教的な価値観に縛られた言葉がでてくる。それは、そもそもの話として慣習というのは弊害がありながらも価値があるということか、人間ていうのはどんなに聡明でも「信じたいものけが存在し、信じられないもの存在しない」という枠から完全に脱することはできないのか、どっちだろう。

最後

よく破壊なくして創造なし、とかいうけど、新しいもの創造したらそれに噛みあわない既存が壊されるだけであって、既存破壊の理由に創造を付けたら、それはただの破壊だよね、何も生まないし、だれも得しない。

2013-04-16

日本人は本当に「挨拶が苦手」なのか。

挨拶が苦手な「代表的日本人」としてのイケダハヤト

http://d.hatena.ne.jp/the-world-is-yours/20130416/p1

この記事に対する反論を書いてみる。

この記事が、「日本人挨拶ができない」という根拠にするのが、日経新聞の記事のこの記述

ところが、挨拶笑顔を出し惜しみする人は多いのです。仕事柄、飛行機の国際便を利用することが多いのですが、朝の便だと乗員が気持ちよく「おはようございます」と迎えてくれます。この時、挨拶を返す日本人は少ないのです。

この記述を根拠に、「日本人挨拶ができない」、したがって「挨拶ができないイケダハヤト氏は日本人である」と結論付ける。

しかし、前出の例が示すのは、「日本人自分より目下の相手には挨拶しない」ということだけである。そして、それは「目下の相手には自分に対する挨拶を求める」ということの裏返しでもある。

この飛行機の例の場合、乗員が挨拶しなかったらクレームの嵐だろう。

前に書いた記事(http://anond.hatelabo.jp/20130415083313)の反論でも、「店員が挨拶しなかったら店が潰れる」という類のものが多かった。

しかし、「店員が挨拶をする/しない」の話はするのに、「自分が店員に挨拶するかどうか」の話はしないのはなぜだろうか。

それは自分が店員に挨拶する必要を感じていないかである。それは店員が自分より目下の存在からだ。

日本において挨拶をする、されるというのはこういう上下関係の確認、という側面がある。

これは、「店員は挨拶をするが、客は挨拶をしない」場合と「客は挨拶をするが、店員は挨拶をしない」場合を考えてみたとき後者に非難が集中することからも明らかである

挨拶が本当に「対等なコミュニケーションの第一歩」であるなら、このような非対称性存在するのは、奇妙なことだ。(後者場合なんてありえん、と言っている人は日本から出たことがないんだと思う)

同じように「社員挨拶するのに、社長挨拶しない」状況は責められないのに、「社長挨拶するのに、社員挨拶しない」は「社会人として非常識」と非難される。

日本人が「自分挨拶するかどうか」よりも、「自分挨拶されるかどうか」に対して敏感なのは、それが、「相手が自分を上に見ているか、下に見ているか」という点を顕にすると考えるからである。とりわけ「対等だと思っていた相手に挨拶したのに、相手は挨拶をしなかった」という場合に、自らの社会的ポジションを揺るがす危機的状況をもたらし、多くの人はパニックに陥るのである

したがって「挨拶強要上から目線である」というテーゼは正しい。

挨拶もできないなんて」という物言い自分が引っかかりを感じた理由もこれだったんだと思う。対談の場で、ある種の一部の観衆がイケダハヤトにたいして、最後の礼を期待したとき、それはコミュニケーション入り口うんぬんの話ではなく、「ちゃんと俺たちが目上であることを、態度で示せ」という事だったんだと思う。そしてそういうある種の観客(いわゆる「おぢさん」©メイロマ的ななにか)の態度に対して、自分違和感を感じた。

その問題と、チャリティ対談を見に来てくれた人に対して、感謝の意を表明しない、ということは、もちろん全く別の問題であるし、その場合彼の評価が著しく低下することも自明だが、ただ、それも彼の選択なのでほっとくべき、ということも言いたかった。

「俺に挨拶しろ」っていう空気はやっぱりどこか異常だと思う。

もちろん日本の文化は複雑な敬語システムなどに見られるように、その社会的コミュニケーションの基盤をつねに「上下関係」においてきた。「上下関係」でない人間関係などほとんど存在しないかもしれない。その中で生きのびようとするなら、上下関係意識して行動することは重要だ。でもそれは、きわめて「日本的」なんだよという視点も、常に必要だと思う。(まあ、「儒教的」と言ってもいいけど)

おわり。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん