はてなキーワード: プレッシャーとは
友達の娘も同じパターンで、社会に出ることができないまま20代後半だけどニートになってる
完全に引きこもりってわけじゃなく挨拶したり出かけたりはできるものの、社会に適合できないらしい
学力が上がらないから、税金等の経済の仕組みもわからないままで自立できないって言ってた
友達の経緯を散々聞いた経験からアドバイスさせてもらうと、雑談でいいから会話量を増やして、その子を知ったほうがいい
ただ、学校や社会進出へのプレッシャーを与えると心が安らぐ場所がなくなって壊れるから雑談オンリー
世界は広くて学校のコミュニティなんて、どうでもいい場所ってことがわかれば開き直れる機会になる
勉強なんて、いくつになっても、どんなかたちでも始められるしフリーターでも社会に出られる
まずは会話して娘を知ったほうがいいし、経験を共有したほうがいいし、娘に1人の時間を与えたほうがいい
一番駄目なのは、時間が解決するだろうと放任することや、家でだらだらとなにもしない時間を作ってしまうこと
中一の娘が不登校気味で困っている。朝、気持ち悪い、頭が痛いなどと不快な症状を訴えて、なかなか学校(偏差値50くらいの私立女子中)に行きたがらない。無理矢理怒鳴りつけて行かせるのも良くないと思いつつも、将来が心配になってついくどくど言ってしまう。
行けない理由は語りたがらない。が、どうも課題の多さについて行けてなかったり、できてないことによる先生からの指導などが強烈なプレッシャーとなってきてるように感じる。
一方で、夜に僕が帰宅してみると、たいてい元気で、大きな声で色々話したり歌ったりしている。妻が、「新型うつかも」と困惑した表情でため息をついていた。
担任の先生に状況を報告して相談したり、小児科の専門医に自律神経関係を診てもらったりしたが、なかなか好転せず(自律神経は特に問題なかった)。今週は既に月曜から3日続けて休んでいる。
いじめも疑っているが、本人は否定している。もちろん鵜呑みには出来ないけど、そういう徴候も見受けられない。油断はできないが。ただ、友達は少なく、お昼も一人で食べているっぽい。
もともと要領よく片付けることが苦手な子で、そこに小学校時代と比べて激増した宿題に辟易しているのでは、と思う。要領が悪いのに愚直にやろうとするものだから、なかなかハードだとは思う。
内気で友達作りも苦手なのも大きいと思う。人間関係のストレス対策として評判の、「友だち幻想」(菅野仁/ちくまプリマー新書)を買って、カバーを付けてさりげなくリビングに置いたりしている。「読め」と言ったら絶対読まないので。
最近はあまりくどくど言うのはやめて、行けたら行こうね、という方向にシフトしているが、不安で仕方がない。義務教育の段階でフリースクールとかあるのか。そもそも最低限の学力すら身につかないのでは…
今日は早く仕事を切り上げて、妻とともに娘に気になっていること、引っかかっていることがあれば話すようにと語りかけた。今日話してくれたことについては、決して否定したり注意したりしないし、学校に乗り込んでって先生に物申しに言ったりもしない。ただ、現状が分からないことには前に進まない、どんなことでもいいから思いつくまま話してくれと。娘曰く「よくわかんない。こういうのが嫌だ。家まで嫌になる。」だと。…難易度高い。がっつき過ぎたのかも知れない。むしろ事態を悪化させたかと心配したが、夕食をしっかり食べて、テレビを見て笑ったりしている。どう解釈していいか分からない。
大学いくのに「面倒くさい」と言い出したり、中退する人を見かける。
そいつは、他の人が10社くらい面接を受け なんとか内定を貰っている中
1人だけ何もしなかった。やっと1社受けたと思ったら心折れて書類を出すことすらしなかった。
結局、就職プレッシャーに早々負け「院生になる!」とか言い出し、
1年後くらいに「やっぱ合なかったわw」といって中退。バカだろうか。
まぁ合ってるかどうかは知らないし大学行った意味1mmも無いけど頑張れ。
「親の金」で大学に行くやつに限って考え方が甘ちゃんで、中退することが多い。
お前が大学に行きたいといって使った金はいくらになると思ってるんだ?
中学受験シーズンが近づいてきた。今年子供が受けた経験から、反省も込めて今の時期の心の持ちようや準備できること等について書いておく。
中受でよく聞く「男の子は直前まで伸びる」っての、正直半信半疑で受け止めていたけど我が家については実際この通りだった。息子の学力は秋(11月頃)までサピックス偏差値で言うと50に行くかどうかという感じで、一方の第一志望校の偏差値は60で10くらい開きがあった。それが12月に入ってからようやく息子のエンジンがかかり、そこから目に見えて勉強の質と量が上がっていきそれと共に理解と知識が深まっていくのを感じた。この時期はもう模試は全て受け終わっていたので数字で示すのは難しいが、ざっくりした感覚で偏差値5くらいは上げたのではないかと思う。受験生全員がそうだと言うつもりはないが、子供目線、特に男の子の場合、入試本番が現実的な射程に入ってくるのは残り2ヶ月を切ったあたりからの気がするので、特にまだ100%本気で勉強に取り組んでいないなと感じるお子さんの場合は12月からでも十分学力が伸びる余地はあるので諦めないで欲しい。
更に言うと、我が家のような家庭は結構多いのではないかと思われ、したがって入試本番での受験生の学力は、それまでの模試等に表れるよりもずっとボーダーにぎゅっと集まっているのだと思う。だから(後述のとおり)入試本番である当日の、メンタルを含むコンディションが合否を左右する。
どの受験でも言えることだけど、どれだけたくさん模試を受けて試験慣れしているつもりでも、入試本番はやっぱり模試とは全くの別物だというのを子供の受験を通じて改めて痛感した。しかもそれに挑むのはまだ精神的にも発達途上の12歳の子供である事を考えると、本命校の受験に先だって「お試し」校を受けておくかどうかで経験値に大きな差がつく。
この点、実際に行くかどうか分からない学校を受験することの是非は色々言われているし、我が家も基本的に「行くつもりのない学校は受けない」という方針で臨んだけれど、それでも悩んだ末に2月の本命校の前にいわゆる1月校と呼ばれる学校の1つ(都内の中受界隈では有名な埼玉の某校)を受験することにした。気合いの入った受験生とその保護者達が放つ張り詰めた緊張感、そして激励に来ている多数の塾関係者から溢れる熱気、そこに有名校ともなればマスコミの取材も集まってきて、入試当日の現場は模試では体験したことのない異様な空気に包まれる。自分の子供は肝が据わっていると思っていても、大人ですら平常心でいられない独特の雰囲気に本命校の受験で初めて接して呑まれてしまい,実力を全く発揮できない可能性は大いにある。そうしたリスクを避ける意味でも本命校の前に1校は受験しておくとだいぶ違う。また,上記1.と関係するが、12月からの直前期の勉強で子供の学力は更に上がってくるので、どの程度仕上がってきているかを確認する上でも1月校の入試は有益だ。(2月の受験本番までまだ2週間あるので、最後の弱点補強や振り返りができる。繰り返しになるが子供の学力は本当に最後の最後まで伸びる。)
自分自身も中学受験経験者だが、今の中学受験が当時と大きく違うのは、①ネットによって前日まで出願が可能となり、合格発表までの期間も短くなっている(翌日又は当日の発表が多い)、②複数回受験が可能な学校が増えている、という点。これによって、入試本番に突入してからも受験結果に応じて柔軟に併願を再考・組み直すことができるというメリットが生じる一方で、受験生のメンタルには大きな影響を与える事態となっている。
知らぬが仏という言葉があるように、昔は初日に受けた学校の合否結果が出ないまま2日目校、3日目校と受験するのが常だったので、最初に受けた学校の合否を知るよしもなく(=心乱されることなく)、それなりに心の張りを維持して試験を受け続けることができた。今はそうはいかない。初日に受けた学校の合否が早ければその日の夜にはネットで分かる。仮にそこで不合格となっていた場合、子供は落ちたショックを引きずって翌日以降の試験を受ける羽目になる。中学受験は同じ面子で試験を受け直したら合格者の半分は入れ替わる言われるくらい拮抗した競争であり(前述のとおり、直前の追い込みで受験生の多くがボーダーに集中しているとすれば自然なことだ)、そこで合否を分ける一番の要素は子供のメンタルコンディションとなる。その意味で、2月1日からの受験の結果が不合格となった場合、子供達は最悪の精神状態で試験を受けることを強いられるのである。そうして2日目、3日目と不合格とメンタルが落ち込んでいく負のスパイラルに嵌まり込んでしまい、結果全落ちするケースも珍しくない。実際我が家は2月2日の押さえ校(当日夜に合格発表)でまさかの不合格をくらってしまい、翌3日に向けて子供のメンタルを立て直すのに非常に苦労した。こうした事態を防ぐ観点から、たとえ現時点では受けるつもりがなくても、子供の持ち偏差値から10~15くらい下で前日まで出願が可能な超安全校を2月の受験候補校として押さえておくべきだったなと反省している。
これから親御さんにとってはお子さんの受験準備に向けて精神的なプレッシャーが高まる日々かと思うけど、結果がどうあれ中学受験を親子で乗り切った経験は決して無駄にはならないので頑張って欲しい。
私は褒められることに向いてない、と思うようになった。
普通、誰だって褒められたら嬉しいし、褒められたいって思うだろう。
私もそうだ。褒められたい。他の人より私を褒めて欲しいと常に思っている。承認欲求は人並み、いや、確実にそれ以上ある。私を「お前はすごい!!お前はとんでもなくやべぇ奴だ!!!最っ高だ!!!」とはやし立てて欲しい。今すぐ。
それなのに。それなのに、だ。私は、褒められると変な気持ちになる。褒められることに向いてない、と考えるほどになるくらいに。
「変な気持ち」というのは、なんと言えばいいのか、ある1つの感情ではないような気がする。いくつもの感情がぐるぐるに混ざって、どうしようもなく泣きたくなるのだ。
まず、「嬉しい」という感情。喜びである。まあこれは当然だ。私は承認欲求が人並み以上あるから。褒められば舞い上がる。
しかしこれだけでは終わらない。同時に「怖い」という気持ちが湧いてくる。恐怖だ。褒められた途端、ひやりと冷たさが背筋を這い回る。
別に「相手がお世辞を言っている」と決めつけている訳では無い。「相手が皮肉で褒めている」とか、「嘘をついて内心嘲笑っている」だとかそんなこと思わない。じゃあなんでだ、と問われると説明が難しくて唸ってしまう。自分でもよく分かっていないのだ。
理由の1つとしては、「褒められたことによるプレッシャー」があるだろう。例えば、○○について褒められたとする。そうすると、「これからも○○に関しては『相手が褒めてくれたレベル』でやり続けないといけない」と考えてしまうのだ。○○を失敗しても責めることはない、と分かっている。しかし、身体中に重しを乗せられたかの様にしんどくなる。冷や汗が出る。プレッシャーで動けない。失望されたくないから動きたくない。そんな気持ちになる。
次に、「『自分はそんな大層な人間じゃない、立派な性格じゃない』などと心の中で叫んでしまうから」というのがある。「褒められる人間=なにかにおいて優れた人間」だ。私は自分をなにかにおいて優れている、などとは1度も思ったことは無い。そんなことは金輪際ありえない。(じゃあなんで「最高だ!」なんて言われたいのか、と言われたら「すまん、承認欲求が強いんだ」と答えるしかない。こればっかりはこの返答しかできない。全く別の感情だと思ってほしい)
で、そんな私が褒められると、頭の中で矛盾が発生する。「私は優れているところがないのに褒められている」という状況なのだ。そんな状況に耐えられるはずがない。「間違っている。私はなにも優れてなんかいない。相手はなにか勘違いを起こしているのだ。私の良さげな部分しか見えていなかったのだ。だから私のことを褒めてしまえるんだ」と大声で喚きたくなるのだ。
さらに、「大層な人間じゃない」と自分で思うのと同じくらい、「大層な人間だと思われたくない」という気持ちもある。これは前述した、「褒められるとプレッシャーになる」こととも関係する。
ある人が褒められれば、その人は優れた人間だと思われるだろう。優れた人間は、優れているのだから、優れた結果を出すものだ、と私は考えている。つまり、自分が褒められ、周りから優れた人間だと思われれば思われるほど、「私は優れた人間に見合った結果を出さなければいけなくなる」、と私は考えてしまうのだ。褒めてくれた人からのプレッシャーだけでなく、周り全てからプレッシャーを感じるようになる。「優れた人間」というものに押し潰される感覚に襲われる。自分はこれっぽっちも優れていないのに、「優れた人間」という皮を被らなければいけないような気持ちになる。でも、私は「優れた人間」ではないから、確実にその期待を裏切って失望されてしまうだろう。それなら最初から「大層な人間だと思われたくない」のだ。
ちなみに、プレッシャーについて2つ書いたが、どちらも自分が勝手に作り出した幻想だとは理解している。私がプレッシャーを感じる必要は全くないし、仮に私が誰かを褒めた際に、プレッシャーを与えようとしていることは絶対に無い。ただ、どうしてもこの思考から抜け出せなくなるだけだ。勝手に思考にハマって、自分で首を絞めているだけ。どうしようも出来ないから余計に怖いのだ。
「褒められると怖くなる」という感情の、他の理由を挙げるとするなら、「幸せすぎる」というのもある気がする。私は、「幸せなのが怖い」のだ。「人生の中の幸せと不幸せは半分半分だ」とどこかで聞いたことはあるのではないだろうか。私はそれと似たような考えを持っている。悪いことがあれば、その後は良いことが起こるだろうし、嬉しいことがあれば、その後は嫌なことが起こるだろう、と。だからプラスなことが起こる度に、「マイナスなことが起こる前兆だ」、「幸せの前借りだ」と怖くなる。これからどんな嫌なことが待っているのだろうと。幸せな感情のまま、不意に恐ろしくなってしまうのだ。
また、「幸せすぎるのが怖い」のは「幸せでなくなった時が怖い」からでもある。今はいいのだ。今は褒められて幸せだから。でも、その後は? 考えただけでゾッとする。ピークが終われば落ちるだけだ。現状維持なんて出来ない。褒めてくれた人もずっと私のことを褒めてくれるなんてことはない。私がなにかやらかして失望するかもしれないし、私に興味が無くなることもあるだろう。怖い。今幸せな分、失った時の恐怖で心臓がバクバクする。
他にも色々あるのかもしれない。褒められた際の、「喜び」と「恐怖」に焦点を当ててみたが、それ以外にも感情がある気がする。だけど、「変な気持ち」というのがぐちゃぐちゃ過ぎて私にも分からないのだ。心臓を鷲掴みにされたようなあの感覚を、なんと表わせばいいのか分からない。ただ「ありがとう」と顔では笑いながら、「ごめん、やめてくれ、もう褒めないでくれ」と泣きながら懇願したくなるのだ。
長々と書いてしまったが、まとめると、「褒められたいし、褒められれば嬉しいが、それ以上に、様々な理由で恐怖やら焦りやらプレッシャーやらに心が埋め尽くされてしんどくなるから、私って褒められるの向いてないんだなと思った」、だ。褒められたいのに、褒められるのに向いてないだなんて、なんて生きづらい性格なんだろうか。
借金があるのと無いの違いは、「家計上、負債があるか無いか」だけの違いでしょ?そんなの節約すりゃあいいじゃん。って考えてる人は三流以下だと言わざると得ない。
Twitterでも似たような奴がいたが、実に同じような考え方だった。
彼女がいるかいないかの違いが、SEX出来るか出来ないかの違いだけでしょ?オナニーすればいいじゃんと言ってるのとほぼ等しい。
借金を背負う事の最大のデメリットは、別に支払いで可処分所得が削られる事でも何でもなく、24時間借金の事を考えなければいけない状況に追い込まれる事である。
3か月先の事も想像出来ない。まずは今月の生活費でマイナスを出さない事が最優先であり、それ以外は二の次どころか五の次くらいになる。
毎月毎月Excelで家計簿を組んで、それ通りになるようにきっちりお金が動くようにしないと行けない。
当然ながら周囲の人間と話が合わなくなってくる。
飲み会なんてただの時間と金の無駄である。そんな金があるなら少しでもよいものを食べたい(外食という意味ではなく、おにぎり1個からお弁当とかそういう次元の話)
かといって「俺300万借金あるからさ。てへっ」という訳にもいかない。
買いたいものだって買えない。何も車が買いたいとかブランドものが買いたいとか言ってる訳じゃない。
人間誰しもストレスは溜まるが、それを発散する手段として「お金を使う」という選択肢が封じられる。一般人が街を楽しく歩いているとマジで呪いたくなるのは俺も経験してわかった。
ティッシュの買い替え一つもためらうようになる。
加えてどうやってこの負債の穴埋めをしていくかを考える必要がある
これは仕事でかかるプレッシャーの比じゃない。なんせ仕事は最悪逃げられる。病気と借金逃げられない(そんな自分は破産しました)
支出をどうやって減らすか、いらない物を売って今月のマイナスをどうしのぐか。Excelを使って生活費の見直し。
半年間休みなしで仕事。平日は9時~25時まで働きづくめで、感情はほぼ殺して生きていた。
お前ら飲み帰りか知らんが、楽しそうに談笑するな。死ね(って当時は本当に思ってた)
10年間の借金生活を振り返って思うのは、毎月1万だろうと3万だろうと、支払いがあっても1年後を考えられる精神的余裕があるのであればそれは本当の債務者とは言わない。
「今日もいろいろあったけど頑張ったー」「明日もがんばろう」とか言いながら眠りにつける奴は論外だ。
本当の借金漬け生活とは3か月後の事すら考えられない人の事を言う。借金で頭がいっぱいでいっぱいで先の事が考えられず、まずは今月の生活費をどうしようかと、もがいてる奴らが本当の債務者だと思う。
当時俺には2か月以降先の予定は存在しなかった。生き延びるか死ぬかのどっちかだった。
・・仕事帰りに同僚数人と意味もなく人生ゲームをやりながら、そんな事をちらっと考えてた。
自分のブログにでも書こうかなと思ったけど、だいたい https://www.metacritic.com/pictures/oscar-best-picture-contenders-for-2019?ref=hp からのパクリだしそんなに力いれて調べてないので増田に放流します。
本命は『スター誕生』、『BlacKkKlansman』、『グリーンブック』あたりか。ノミネーションだけなら『ファースト・マン』や『女王陛下のお気に入り』も。
今年のカンヌで『万引き家族』の次点でグランプリを獲得した、黒人映画永遠のトップランナーの最新作。
黒人なのにKKKにもぐりこんでしまった潜入捜査官の実話を描く。
スパイク・リー監督作のなかでは『ドゥ・ザ・ライトシング』や『マルコムX』をも凌ぐ評価を獲得している(そして興行的にもここ十年で自己最高)。
公開時期が夏季であることと、ややコメディよりのタッチがノミネーションに不利に働くかもしれないが、トランプ政権下において「ブラック・リブス・マター」運動はまだまだ意気軒昂。「黒人映画」枠競争を勝ち抜くポテンシャルは十分だ。
ブラックパンサー(ライアン・クーグラー監督)
解説は不要だろう。今年米国内で最高興収をあげた作品にして、マーベル映画史上でも最も支持された傑作ヒーロー映画。
アメリカ国内外の黒人問題や歴史的視点にめくばせしてオスカー好みの社会性もばっちり備えているものの、やはり「アメコミ映画」のレッテルがネック。
まだまだ白人・男性・おじいちゃんが大勢を占めるオスカー会員にあっては弱い。ギリギリノミネーションがあるかどうか、といったポジションだろう。
余談だが一時期新設されそうだった「ポピュラー映画賞」部門はブラックパンサーを受賞させるために作られるのだという噂だった。裏返せば、作品賞本選に選ばれる格ではない、と会員からみなされているのだろう。
Can You Ever Forgive Me?(マリエル・ヘラー監督)
落ち目のライターが有名人の手紙や文章を捏造して高値で売る詐欺に手を出し、それが嵩じて博物館から実物を盗みだそうと企む実録犯罪コメディ。
日本ではあまり知られていないけれど主演のメリッサ・マッカーシーはアメリカで今いちばんアツいコメディアンのひとり。
夫のポール・フェイグと組んで『ブライズメイズ』、『SPY』、『ゴースト・バスターズ(リメイク版)』などの陽性の笑いでヒット作を飛ばしてきた。
そんなマッカーシーが一転してシリアスでブラックなコメディに挑戦し、見事大成功。本年度の主演女優賞ノミネートが確実されている。
演出したヘラー監督の手腕も高く評価されており、初の監督賞ノミネート、さらには作品賞も夢ではない。
とある気難しい現代っ子少女の中学生活最後の一週間を描いた青春コメディ。
中学生版『レディ・バード』にもたとえられる(中二病的な意味で)痛々しくも切ない、みずみずしくもどんよりとしたフレッシュなローティーンライフの描写が広範な支持を集めている。
監督は若干28歳のコメディアンで、なんとユーチューバー出身。アメリカ映画界における新世代の台頭を予感させる一本。すでに数多くの映画祭や映画賞にピックアップされている
オスカーはコメディを敬遠する一方で、サプライズ的なインディー作品を好む傾向にあるが、はたしてこの作品の出目は吉とでるか凶と出るか。最悪でも脚本賞ノミネートは固いか。
『ロブスター』、『聖なる鹿殺し』と強烈かつキテレツな作風で知られるランティモス監督最新作にして初の時代劇。
アン女王を演じるオリヴィア・コールマンを巡る二人の家臣(レイチェル・ワイツとエマ・ストーン)のバトルを描く百合時代劇……たぶん百合だとおもう。
すでに巨匠の地位を確立したランティモス監督の過去作のなかでも群を抜いて評価が高く、今年のベネツィア国際映画祭でも第二位にあたる審査員賞を勝ち取った。オスカー前哨戦となる各種賞レースにももちろん名前を連ねている。
今年の本命作のひとつとも目されるが、ランティモス特有の変態さ加減が(今回は脚本までは書いてないとはいえ)どこまでお上品なオスカー会員たちに受け入れられるか……。
『ラ・ラ・ランド』で幻の作品賞受賞というなんともかわいそうな結果に終わった(それでも本人は史上最年少で監督賞を獲っているが)デイミアン・チャゼルとライアン・ゴズリング。
そんな彼らのリベンジマッチが実録宇宙開発物語『ファースト・マン』だ。人類で初めて月面に降り立ったニール・アームストロング船長にスポットライトを当て、彼の視点からドラマを描く。
企画段階から作品賞ノミネートは当然、という空気のなかでプレッシャーを跳ねのけて見事高評価を集めた。ノミネーションはほぼ確実といっていいのではないだろうか。反面、今度こそ受賞なるかというと、今ひとつパンチがきいてないようで不安が残る。
オスカー前哨戦の最も重要とされるトロント国際映画祭で観客賞に輝いた作品。ここ十年で同賞を得た作品でオスカー本選にノミネートされなかった例はたった一回しかないのだ。
黒人差別が法的に是認されていた時代のアメリカで、自分もちょっとレイシスト入っている用心棒の白人男が南部へコンサートを開きに来た黒人ピアニストを送迎する仕事を命じられる。最初は「黒人のくせに上等なスーツを着てお上品にピアノなんぞひきやがって……」と反感を抱く用心棒だったが、行く先々で差別待遇を受けるピアニストに対してだんだんシンパシーが湧いてきて……という内容。
ほろ苦くもユーモアとメッセージ性に満ちた内容はまさしくオスカー好み。「分断されたアメリカ」というテーマのタイムリーさもある。ちなみに監督は『メリーに首ったけ』などのロマコメで知られるファレリー兄弟の兄。このところは過去のヒットコメディのリメイクなどで仕事に恵まれなかったが、もともと潜在的に持っていた社会派なセンスが一挙に花開いた。
If Beale Street Could Talk(バリー・ジェンキンス監督)
『ムーンライト』で一昨年の作品賞を獲得したジェンキンスの最新長編。今度こそはチャゼルにかっさらわれた監督賞もいただいて完全制覇を目論む。
原作は今年日本でもドキュメンタリー映画『私はあなたのニグロではない』が公開された、黒人小説家ジェームズ・ボールドウィンによる短篇。濡れ衣をきせられて収監された夫を助け出すために奮闘する若き妊婦のお話。
テーマの重厚さも話題性も十分だが、公開が当初予定していた11月から12月にのびたことが若干きがかり。クリスマス狙いのブロックバスター大作のなかで埋もれてしまう恐れがある。
Mary Queen of Scots(ジョージィ・ルーク監督)
互いにイングランド王位をかけてあらそったスコットランド女王メアリーとイングランド女王エリザベス一世を、それぞれシアーシャ・ローナンとマーゴット・ロビーという旬な女優が演じる。
脚本を担当したのは『ハウス・オブ・カード』や『スーパー・チューズデー 〜正義を売った日〜』などの現代政治劇の名手、ボー・ウィリモン。
いずれもオスカーノミネーション歴を有した名前ぞろいでクオリティも保証されている。同じくイギリスを舞台にした時代劇である『女王陛下のお気に入り』がライバルか。
ROMA(アルフォンソ・キュアロン監督)
世界的に見れば今年最も評価の高い映画といっても過言ではない。ベネツィア国際映画祭の最高賞。
1970年のメキシコ・シティで家政婦として働く女性とその一家のドラマをモノクロで撮る。
評価の高さと『ゼロ・グラビティ』でオスカーを獲ったキュアロンの知名度があれば当然作品賞も……となりそうなものだが、障害は多い。
まずスペイン語映画であること。長いオスカーの歴史のなかでこれまで十作品の外国語映画が作品賞にノミネートされてきたが、受賞にいたったものは一つとしてない。
次に Netflix 映画であること。カンヌみたいに公に締め出すことはしないにしても、アカデミー会員のなかでも動画配信サービス勢に対する反感は根強い。一昨年の『最後の追跡』やドキュメンタリー作品を例外として、『ビースト・オブ・ノー・ネーション』『マッドバウンド』といった作品たちもその年最高クラスの称賛を受けながらもオスカーノミネートには至らなかった。
いちおうネトフリも『ROMA』については配信に先駆けて劇場公開を行うなどの「オスカー対策」をやっているが、はたしてどうなることやら。
ちなみに Netflix でも来月に配信される。驚くべき時代になったものだ。
アリ― スター誕生(ブラッドリー・クーパー監督)
ショービズ映画の古典のリメイク。この八十年で三回目の映画化です。
本年度大本命に数えられる一本。批評家・観客からの圧倒的な支持率もさることながら、商業面でも大ヒット(現時点で世界興収三億ドルを突破)を飛ばした。主演のブラッドリー・クーパーとレディ・ガガの演技もさることながら、これがイーストウッド降板を受けての初監督となったブラッドリー・クーパーの演出にも嬉しい驚きが満ちているとかなんとか。
だが、一昨年の『ラ・ラ・ランド』、昨年の『スリー・ビルボード』と「早すぎる大本命」はかならずバックラッシュに晒されるのがオスカーという場。12月以降に猛然と差してくるであろう後続期待作たちを振り切れるかどうか。
Widows(スティーブ・マックイーン監督)
2013年にアカデミー作品賞を獲得した『それでも夜はあける』のスティーブ・マックイーン最新作。オスカー獲得後の第一作でもある。
シカゴでヘマをやらかして死んでしまった強盗たちの四人の未亡人(ヴィオラ・デイヴィス、エリザベス・デビッキ、ミシェル・ロドリゲス、シンシア・エリヴォ)が亡夫の後を継ぎ女だけの強盗団を結成するちょっと変わった犯罪映画。
マックイーンとヴィオラ・デイヴィスというアカデミー賞受賞コンビで鉄板の出来。
そのパワーでジャンルムービーを嫌うオスカーでノミネーションを勝ち取れるかが見どころだ。
Boy Erased(ジョエル・エドガートン監督)
厳格なキリスト教である両親のもとで育ったゲイの少年(ルーカス・ヘッジス)が教会の同性愛矯正プログラム(いわゆるコンバージョン・セラピー)に放り込まれ、セラピストとバトルする青春ドラマ。
近年では『ダラス・バイヤーズ・クラブ』のジャレド・レトがそうだったように、LGBTものは俳優にとってオスカー像への近道だ(スカーレット・ヨハンソンみたいに非LGBTの俳優がLGBTの役を演じることに倫理的な非難が高まりつつあるにしても)。
批評家筋からの評価的には作品賞には届かないかもしれないが、演技賞ではノミネートが有望視されている。
トランプ政権下でLGBTに対する抑圧が増しつつあるだけに、時事性も捉えているかもしれない。
GWブッシュ政権下で「史上最悪の副大統領」とも呼ばれたディック・チェイニー元副大統領をクリスチャン・ベールが激太り(何度目だ)+ハゲという負の肉体改造で演じたブラックコメディ政治劇。
他にも妻リン・チェイニー役にエイミー・アダムス、ラムズフェルド国防長官役にスティーヴ・カレル、GWブッシュ役にサム・ロックウェルなどアカデミー賞級の芸達者がずらりと並んでいる。
題材としてはなかなかトリッキーだがマッケイ監督の前作『マネー・ショート』がそうだったように、ツボにはまれば一挙にアカデミー賞ノミネートまで行ける。
同じく政治ネタでライバルだった『フロント・ランナー』(ジェイソン・ライトマン監督)の評判がいまひとつ芳しくないのも本作にとっては好材料。
The Old Man and the Gun Now(デイヴィッド・ロウリー監督)
名優にして名監督ロバート・レッドフォードの引退作。15才で逮捕されたときから人生を通じて強盗を繰り返してきた70才の犯罪者(レッドフォード)と彼を追う刑事(ケイシー・アフレック)、そして彼に惹かれていく女性(シシー・スペイセク)を描く実話犯罪コメディ。
作品賞ノミネートは微妙なところだが、レッドフォードはまず間違いなく主演男優賞候補入りするだろう。
ちなみにデイヴィッド・ロウリーの前作であるゴースト・ラブストーリー『A GHOST STORY』は今日から封切り。観に行け。
一方で、実話犯罪・老人・名監督にして名俳優と共通する要素の多い作品としてクリント・イーストウッド監督の『The Mule』にも注目しておきたい。こちらは80才の麻薬の運び屋をイーストウッドが演じる。映画祭などでもまだ未公開なため、どう転ぶかはまだわからないが、近年のイーストウッド作品に対するアメリカ人の冷め方からすると賞レース的な意味での期待はあまりできなさそう。
その他有望そうな作品
『シカゴ』でアカデミー賞作品賞をさらったミュージカルの名手ロブ・マーシャルがディズニーの伝説的名作の続編を制作。
エミリー・ブラント、ベン・ウィショー、こりん・ファース、ジュリー・ウォルターズといった英国の名優たちでがっちり固めつつ、リン=マニュエル・ミランダやメリル・ストリープといったミュージカルで定評のある俳優陣をフィーチャーし、万全の Permalink | 記事への反応(3) | 16:07
「俺はオタクだ俺はコンテンツを愛している」と唱えながら、コンテンツ内容に一切触れずに
ネットに存在女性の書き込みだけ「お気持ち」と攻撃する自由の戦士(ソーシャルジャスティスウォーリアー)について無視している。
迷惑メールや痴漢とおなじでそういうことをする加害者はごく少数。
であったとしても「俺は加害していないし問題はない」と大勢が唱えることは被害者へのプレッシャーや二次被害にしかならない。
悪いやつが悪いんだし悪くないやつは悪くないということは常識以前でわかってるんで、ここで唱えなくてもよいことだ。
とりあえず「それは本当のオタクではないよね」との切断で真の加害者を居づらくするとか
見分けヒントとか教えてくれるならまだ書き込みとしての価値もあるんだが。
本当なら一緒に加勢して考えてほしいところなんだが絶対に本腰いれてくれないことはわかっている。
これは僕が中学生の頃の話なんだけど、なんか知らないけど母親がいきなり鳥を飼ってきたんだよね。
まぁテレビでも見て飼いたくなったんでしょうね。
種類は思い出せないけど、手のひらサイズで灰色の毛にオレンジの嘴が印象的な鳥だったな。
飼う飼わないはどうでもいいんだけど、高校受験を控えた僕の部屋の勉強机の隣に置くのよ。
四六時中ピーチクパーチク鳴く鳥を。動物園ほどじゃないけどいろいろ臭う鳥を。
文句言ってどかせばいいんだけど、当時は母親に苦情とか言えなかったな。
なんか文句言って機嫌を悪くすれば、家事を全部放り出すし、不機嫌全開で家の空気悪くするし。
しばらく我慢してたけど、高校受験も近づいてプレッシャーが積み重なっていくうちについに我慢できなくなった。
でも我慢できなくなっても何もできることが無いんだよな。鳥を黙らせることなんかできないし、別の場所に移動することもできない。
だから鳥が鳴くたびにスプレータイプの殺虫剤をかけていた。殺虫剤をかけると一時的だけど静かになるんだ。
そんなことを続けて3か月ぐらいかな、衰弱死した。
母親が先に気付いて、僕が学校から帰ってくると鳥かごの前にいて、散々僕をなじった。
なんかえらく泣いてたね。よっぽど鳥のことが大事だったんだろうね。
なんだか僕はその時どういう気持ちでいたのかあんまり覚えてないんだ。
母親になじられて叱られて、母親に申し訳ないと思ったのか、それとも鳥に対して申し訳ないと思ったのか。
あるいは僕の中学受験とかを軽視してただ自分の飼い鳥のことしか考えてない母親が憎かったのか。
ただ、鳥が死んで悲しかったのは確かだった。
それで、まぁ中学生のやることだからお馬鹿なんだけど、自分の口の中に殺虫剤をスプレーしまくってたんだよね。
この件、誰が悪いんだろう。
まぁ、断る事が出来ない。相手に強く言えない。口げんかが出来ない。いい人だとよく言われる。他人に褒められたり求められると嬉しくなってしまうなど、八方美人の素養が自分に大アリな事は重々承知している
。
学生時代長い事いじめられっ子(またはそれに近い状態)だった事もあって、尚更社会に出てからも長い事他人の顔を伺いながら生きてきた。
それは認める。
今俺は30代t前半。社員200人前後の会社で働いている社会人
昔と時代は変わり、ホリエモンの本やプロ奢ラレイヤー(最近話題の奢られて生きている人)、与沢翼などのtweetや本に代表?されるように、自分は自分。他人何か関係ねーよ
にしてもだ。
会社で通りすがる人通りすがる人に普通に挨拶をしているだけなのに(どうやら、そんな事やってるのは自分だけらしい。他の人はすれ違いざまに挨拶なんぞしていない。希少生物なのか?俺は)、それが結果的にコミュニケーションに繋がり、その人(男女問わず)とある程度のコミュニケーションが取れてしまうのが災い?しているのか、どの会社・どのコミュニティに行ってもある程度の浅い広い関係が築けてしまう。
まぁ、俺が狭く深い関係が好きじゃないってのもあるが
深い付き合いの友人はごく数人である
基本一匹狼でいたいタイプ(でもさみしがり屋)なんだが、結果いろんな所に知り合いが出来てしまう。
(余談だが、学生時代のいじめの経験があるからつるむという行為は本当に嫌い)
そんなこんなで、喫煙室では「常にだれかと話せてしまう(話す相手がいる)タイプ」。
それが面倒くさい。本当は一人でいたいし、仕事でわからなかった事に思いを巡らせたいし、休憩中は精神集中したいし。
ただ、一人でいたいのに話す相手から話しかけて無視するわけにもいかない。結果話してしまう。笑顔で答えてしまう。使いたくない時間を使ってしまう(時間を相手に捧げるという事)
そんな時他の知り合いが同じ場所に入ってくると、無視せざるを得ない。その人たちを巻き込んで話すのが出来ないから。
自分を介してその2人の仲を取り持てばいいだろうと思うだろうがそうもいかない。そんな技量は自分にはないし、何より自分は輪の中に入って話すのが苦手だ。
そこが自分の弱い所でもある。
疑問なのは、他の社員達だってコミュ障な訳じゃない。普通に各々コミュニケーションを取り、なんなら彼氏彼女も作って毎晩sexしてオナニーして(そりゃ俺もsexするけど)るにもかかわらず八方美人にならず(推測でしゃべってるから実際はどうかはわからん)、自分だけ?(かどうかは知らんが)が同じように?コミュニケーションを取っているにもかかわらず、このように八方美人なのか???と悩むのは何故なのだろう。
コミュニケーションの質が違うのだろうか
巨乳の人間がおっぽい揺れるのめんどくせえって悩むものと同じものなんだろうか
八方美人になりたくないから、挨拶をやめるとか意図的に無視するとかっていうのは違うと思うんだ。
知り合いが増えるのはいいんだけど、それを取りまとめてひとつの俺っていうコミュニティの代表になるプレッシャーに耐えられないからこういう悩みに行きついている気がする。 うーん。
この文章を書いてて思ったが、そんな仲を取り持てるように自分が輪の中に入ってしっかり話せるようになる事。
それから、普段はおとなしくていいから(普段からイケイケな性格とか面倒くさい)話をしっかり振れるようになる事。
しっかり主張できるようになる事。断れるようになること(今でも相当断ってるけどね・・)
これが出来れば自分が抱いている八方美人にはならないのではないか、とこの文章を書いていて思ってきた。
試してみようか。
ある程度考えが整理できてよかった。
八方美人は本当に面倒くさい
「公共の場にエロ(Aキズナアイ)は出すなと言うなら、街中で女がミニスカや胸の谷間を見せる格好(BまたはC?)するのも禁止な」
みたいなバカミソオスの意見への反論ツイートだと思うんだけど、
シスヘテロ男の性欲を喚起するために作られたエロ(A)が公共の場に出ることで何らかの作用で女性が生き辛くなるなら、シスヘテロ男の性欲を喚起するセクシーな服(BまたはC)着た女性が街中を歩いていることも何らかの作用で女性を生き辛くしない?
いやむしろ、実在の若い女の子からすれば、ネットのオタクに人気なだけのキズナアイなんてキンモー☆って一蹴できるけど、街中やファッション誌で目にするモテカワ服着た実在女性の方が「異性に好意を持たれるには、同性に認められるには、ああいう格好をしないといけない」というプレッシャーになってより悪影響与えない?
やはりキズナアイもファッション誌も街中の女性もみんなブルカを被るべきと言うバカミソオスが正しくない?
と思った。
同人活動を始めて10年が過ぎ、初めてサークル参加した時のことをふと1年ぶりくらいに思い出した。
同人イベントといっても、コミケのような大規模なものではなく、札幌つどーむで開催された小さなイベントだった。
生まれて初めて作った同人誌は、コンビニでいそいそと刷り上げたコピー本だった。
学生でお金も無くペンタブやイラスト制作ソフトは持っていなかったため、アナログで描き上げた拙い漫画本。
発行部数は10部、イベントで買ってくれた人は誰もいなかったが、1部だけ頒布できた。
隣の方は、私と同じ小さなジャンル内でも大手の方で、地方イベントにも関わらず多くの人がスペースに立ち寄っていた。
イベント当日まで、その方の隣だというプレッシャーでずっと腹が痛かった。
個人サイトが盛り上がっていた時代だったから、その方のサイトにも日参していたし、優しい人なのだろうとは思っていたけれど、とても年上の方だと知っていたし、学生としてはなんだか怖かった。
でも、その方は本当に優しい方だった。
おはようございます、と挨拶を交わした瞬間に、私の無駄な緊張はほどけていった。
よろしければどうぞ、とその方は新刊をくださった。表紙フルカラーのオフ本を。
なるほど、これが新刊交換の文化か、とサークル初参加の私は感慨深かったけれど、同時に、こちらが手渡せるコピー本がみすぼらしく見えて恥ずかしかった。
こんな本ですみませんが、と私はおずおずとそのコピー本をお渡しした。
その方は、ありがとうございます、と優しく笑って受け取ってくださった。
イベントも昼過ぎには閑散としており、隣の方はおもむろに私のコピー本を手に取って読み始めた。
私も、その方の御本を読んだ。素晴らしかった。手が震えたくらい、神本だった。
すぐに感想をお伝えしたいと思っても、自分コピー本のヘタレっぷりに恐れをなして、声を掛けても良いものか悩んだ。
すると、稚拙なコピー本を読み終えたその方が、明るく話しかけてくださった。
可愛らしくてほのぼのするお話でした、素敵な本を作ってくださってありがとう。その方は、そう言ってくださった。
涙が出そうだった。絵も話も線もへたくそなコピー本だけれど、一生懸命に描いたものだったから。その気持ちが報われた気がして、とても嬉しかった。
何度もお礼を言って、その方の御本の感想もお伝えした。幸せな時間だった。
私の本を買ってくれた人はいなかったけれど、1冊だけ受け取ってくれたその方の優しさに救われて、私のサークル初参加は良い思い出となった。
あれからその方は同人活動を引退され、私も活動ジャンルが数回変わった。
今はコミケや他の関東・関西のイベントにも参加し、毎回新刊を楽しみにしてくださっている読み手の方もついてくださっている。