はてなキーワード: 法学部とは
菅氏はその後、昼は築地市場の台車運び、夜は新宿の飲食店で皿洗いをしてアルバイトをしながら受験勉強を続け、通常より2年遅れで法政大学の法学部に入学。
1973年に卒業後、電気通信設備会社に就職して、一度はサラリーマンになるも、まもなく政治の道を志すことになる。
政界との繋がりがなかった彼が頼ったのは大学の就職課だった。菅氏の言葉を引こう。
「そこでなんとなく、世の中を動かしているのは政治じゃないかなと思い始めるんです。ただ、政治家になろうとは思わなかったけど、政治の世界に身を置いてみたいという気持ちがあった。かといって、政治の世界では、誰も知らない。そこで法政大の就職課に行って、先輩の政治家を紹介してくださいと頼みました。すぐ近くにOB会の事務局があって、その事務局長を紹介してもらいました。その人が、法政の先輩で自民党の政治家だった中村梅吉さんの秘書と知り合いだった。その秘書を紹介されて、田舎者で、何もわからないけれども、初めて政治の道につながりを持つことができたのです」
ニュースを見ていると、そんな疑問が浮かぶのだけれど、いくら空気を読まない私だって、それを口に出す勇気はなかった。これは、そんな私が一冊の新書によって、正義のために物を破壊するのにも、道徳的・理論的根拠があるのかもしれない、と知った経緯だ。
増田に入りびたっていると、世の中にはいろいろな立場があって、さまざまな正義があることがわかる。残念ながら、複数の正義の間でぶつかり合いがあることもまれではない。表現の自由と見たくないものを見ない権利で、レスバトルが毎日のように起きている。あるいは、外国人・移民の権利を尊重したら、女性の安全をないがしろにしてしまったケースもある。2015年のケルン大晦日集団性暴行事件なんかがその例だ。弱者をいたわろう、財産はみんなで公平に分けよう。そうした基本的な原理では同意できるのに、個別のケースでは意見の一致が見られることはめったにない。工学部出身の私としては、実験すればすぐに答えの出る理系の学問と勝手が違い、社会の複雑さに戸惑うばかりであった。
そうするうちに、結局のところ正義の根拠ってかなり曖昧でいい加減なんじゃないか、みたいなことを思うようになった。正義の論理的な根拠がわからなくなったのである。もともと正義についてはサンデル教授の本くらいしか読んだことがなく、哲学は専門外だ。
たとえば、大日本帝国が中国北東部に傀儡政権を作るのが悪だとすれば、アメリカがイラクやアフガニスタンを空爆したり、親米政権を樹立したりするのとどう違うのか。アメリカが中東に派兵するのならあまり気にならないが、ロシアがクリミアを占領・併合したときに動揺してしまったのはなぜなのか。本質的な違いはほとんどないのに。
日韓関係だってそうだ。たとえば、国家の間で解決済みであるはずの補償問題を、個人が請求することは可能なのだろうか。それとも、個人の権利が拡大する世界的な流れのなかでは、必ずしも不合理な話ではないのか。大統領が変われば民意が変わったことを意味するので、前政権の約束を反故にすることは許されるのか。
他にも、裁判員制度で、発達障害のある犯人に厳しい判決が下されたことがあるけれど、市民感覚は医学の最先端の知識と乖離していることも多い。専門家ではなく、偏見もある市民を本当に裁判に参加させていいのか、心配だ。
で、直近の例で特に印象的だったのが、冒頭に述べたように、BLMで無残に引き倒される銅像だった。革命直後に独裁者の像が倒されるのには全く違和感がなく、それどころかほとんど何も感じない。しかし、歴史上の偉人がこうして再評価されるのを見ると、これは正しいのかどうか、よくわからなくなった。現代の価値観からすれば、彼らの過ちは確かに明白だが、こうして公衆の面前で侮辱に近い目に合わせていいのか。法の不遡及の原則、という聞きかじった知識を思い出してしまう。
道徳的には、人種差別は絶対的な悪である。しかし、それに抗議する過程で必ずしも公共のものを壊す必要はないのではないか。撤去を求める署名運動を起こせば十分なのではないだろうか。銅像を破壊する意図は正しいが、間違いなく違法な行動だ。違法であるならば、BLM運動の正当性に傷がつくのではないか。結局、正しさには根拠などやはり存在せず、その場の大衆の熱狂しかないのではないか。そんな次々と浮かぶ懐疑に苦しめられた、反差別運動に対しての恐怖まで感じるようになってしまった。
そんな自分に困惑しつつ、久々にリアル書店に足を運ぶと、「あぶない法哲学」という新書を見つけた。法哲学の本らしい。つまり、どうして法律や道徳が正しいのかを理論的に分析する学問だ。
これだ! と私は膝を打った。私のもやもやはこれで解決するかもしれない。早速購入し、一気に読了した。著者はオタクらしく、ところどころ漫画やアニメのたとえが出てくるのでわかりやすい。しかし、レベルを下げたり読者に媚びたりするようなことはしていない。そして、実在の事例や過激な思考実験を見せることで、常識を疑ってかかることを、私に教えてくれた。
この本で学んだ重要な概念として、法実証主義と自然法論がある。
法実証主義というのは、ざっくりまとめると、法律が正当性を持つのは、定められた手続きに従っているからという理由しかなくて、そこに道徳的な価値判断は介在しない、というものだ。そして、どれほど内容がおかしな法律であっても、正当な手続きで撤廃されない限りは、それは守られるべきものだ、とする。
もう一つの自然法論は、大まかにいえば議会で定めた法律よりも優先すべきルールがある、というものだ。さっきと違って道徳がかかわってくる。もちろん、人間の良心や常識は、時代や地域で一貫したものではありえない。しかし、法律が追い付かないほど変化の激しい現代にあっては、法が整備されていない状態での一つの指針・根拠とすべきではないか、と著者は述べていた。
ここで大事なのは、法律を正当化するのは手続きのみであり、それが人道に則っているかどうかは、実は関係がない、という考え方が存在することだ。
ソクラテスの最期はよく知られている。アテナイの若者を堕落させたという不当な罪を着せられ、死刑となった。弟子たちはソクラテスに逃亡をすすめた。というか、当時は死刑判決を受けたらその都市国家から逃亡するのが当然だった。しかし、ソクラテスはあえてその判決に従った。悪法であろうともそれを守る義務がある。私はここで死ぬ。悪法を制定した市民はその結果を引き受けよ。ソクラテスは命を賭して法を制定した市民たちに、自分たちがどれほど愚かな法律を無自覚に作ってしまったか、を訴えたのである。
一方で、市民的不服従という考えもある。キング牧師はアラバマでの激しい抗議活動のゆえに逮捕された。彼の方法は、多くの人々の抗議の模範となった。つまり、自分が良心ゆえに受け入れることのできない法律は自覚的に破るが、国家を尊重しているという姿勢を示すために、甘んじて法の罰も受ける。これを繰り返すことで、逮捕している国のほうがおかしいのでは? と多くの人が考え、行動するようになる。確かに法律を破ってはいるが、法律に従って罰を受けることで、遵法とは別の手段で正義への敬意を示しているわけである。
道徳とは関係なく、法律を制定することは可能である。そして、不正な法律や、放置された不正義に抗議する手段として、法律を破るという方法が理論化されている。よって、違法な手段で正義を追求することは可能である。この結論は、良くも悪くも定められた手続きを重んじるタイプの私としては、非常に大きな驚きであった。
人種差別に抗議する方法として、銅像を引き倒すのは、確かに器物損壊罪だ。しかし、それが正しいと考える人々は、単純な感情で動いている暴徒とは限らない。正しいかどうかはともかく、彼らの立場をサポートする理論化された法哲学が、実際にあるのだ。
自分は、法学部の一年生が学ぶことを、この年齢になってやっと知ったのだろう。だが、こうして知識が増えたことで、自分の感じていた違和感を少しだけ言語化できた。今後は、何らかの形で国際法とその背景の思想について学び、先ほどの例に挙げた、大国の軍事行動の背後にある理論を理解したい。
本論では法律の有効性に対して一定の疑問を投げかけているが、積極的に法律を破ることを推奨する文章ではまったくない。また、法に関しては無知も同然なため、誤解があるかもしれない。ご指導ご鞭撻のほどを乞う。
改憲派の先鋒でありながら護憲の要石を地中深く打ち込んだ安倍総理が辞意を表明された。改憲に向けて日本がやってきた道のりをガキの泥遊びで全て台無しにした安倍閣下は護憲派にとって駐印イギリス軍にとっての牟田口に等しい。
ここにその輝かしい業績を記したい。
WWII以後も熱戦の時代は続き、世界は民族自決、植民地独立、冷戦下での大国介入に伴う戦争を経験してきたが、敗戦で武装解除された日本は関係のない話で、経済成長に邁進してきた。この路線を決めたのは吉田茂である(吉田ドクトリン)。
その冷戦下で9条の改正を目指すのが自民党、護憲が革新という図式が定着した。数で劣る革新だが思想的には優勢で、冷戦後期には自民党は改憲路線を表に出せなくなっていた。冷戦により国際政治的にも日本の専守路線が固定化されていた事と他国では熱戦が続いていて海の向こうでは若者の戦死が伝えられていた事もある。憲法学者と言ったらほぼ全てが革新で護憲派だった。
ところがここに「憲法フェティシズム」的な趣向が定着して行く。つまり現憲法は良いものだから朗読しましょう的な考えだ。反リアリズムである。
その為護憲=お花畑、空想平和主義という評価が出てくる。そして冷戦の終結により日本の立場は流動的となった。
そこに降って湧いたのが湾岸戦争で、ここで戦後初めて日本は戦争への協力を求められる事になり、世論は右往左往する事になった。秩序維持の為の戦争であるという大義名分もあるし、憲法9条が前提にしていたのは国連軍が結成されて国軍は縮小されるというカント的な世界観である。多国籍軍は国連軍とは違うが名分的には相似だから護憲派も一概に否定しにくい。
湾岸戦争を戦費拠出という形でお茶を濁した日本だったが、戦争に寄らず国際貢献をすべきとの議論が高まってPKO活動に自衛隊が参加するようになった。その第一弾はカンボジアの民主選挙の監視である。
また同時にそれまでタブー化されていた改憲の機運も上がり、護憲派ばかりだった憲法学者にも改憲派が現れ、メディアに出るようになってきた。その筆頭は小林節である。
先に書いた憲法フェティシズムのせいで、憲法学には「微妙」な空気が取り纏っていた。
憲法も法学なので法学部で扱う。だが法学一般は最終的に実学に接続しているのに憲法はそうではない。例えば国民主権の自由主義的な思想的意味が延々とこね回されたりする。
国民主権の主権は元は絶対王政の国家の正統性の為のフィクションであって、統治権、外交権、交戦権などを示すが、こういう肝心な事はスルーされて国民主権が思想的に称揚されるばかりだったりする。
例えば国際政治での人権の扱いなどが憲法学周囲から出て来ない。国際政治では人権は国家に対する対外的権力だ。
統治の問題は主権の壁によって外部から干渉できない。この前提が共有されないので人権がその壁を突破できる国際権力となっているという事が扱えない。特にコソボ紛争ではNATOの軍事介入の理由に人権が挙げられた。国民主権は扱うのにこっちに接続できない憲法論というのはリアルを欠いている。
コバセツはこんな左翼神学的な憲法学に割り込んで行って安楽椅子を蹴り飛ばして塗り替えたと言って良い。
改憲問題でエポック的な出来事があったので紹介しよう。2003年の朝ナマで西部邁がコバセツに追い返されたのである。
西部は改憲派のテーブルに座り「憲法9条や前文の精神が日本人に悪影響を」と長々語っていた。これはモロに憲法フェティシズムだ。憲法を唱える事で精神が浄化され理想的市民や国民が出来ると言う考えだ。
それでイライラMAXとなったコバセツは「そんなの相手にしなくていいから」と侮辱。衆前で面子を潰された西部は退出した。
これは左翼神学の単に裏返しで、コバセツはそういう神学的安楽椅子を蹴散らしてきたんだぜ。そんなを見たら撃てと訓練されたコバセツの前でそんな事言ったらバカ扱いされるに決まってる。
それでリアリズム的にもう9条一国平和主義は困難だし、ちゃんと改正しようという機運が高まっていたのだが、これに疑問符を付けたのがイラク戦争であった。
当初から戦争の理由は疑問視されていたのだが賛同者達は「アレは最初から予防戦争だった」等と誤魔化していた。だがISISが勢力伸長すると彼等も黙りこくるようになった。
これによって米国主導の国際秩序維持に付いて行くという路線を留保すべきという流れになるのは当然だ。しかも国連の影響を抑える為の政策を米国はしまくった。この為に国連路線を旨としていた日本の国際貢献もイマイチリアリズムを失ってしまった。国際貢献路線の空白である。
改憲の旗艦となった彼は新右翼の学生運動流れの学者を重用、党内の勉強会でコバセツは対立するようになった。
彼等の憲法観は嘗ての左翼神学の裏写しであった。コバセツが蹴散らした椅子に座りだして頭の悪い理想論を語るようになったのだから当然だ。
すると2007年にコバセツは自民党の憲法勉強会に呼ばれなくなった。パージである。
ここでリミッターが外れ、改憲論というのはお笑いでリアルと全く接続しない理想論を語るだけのものとなっていく。
例えば若者がチャラチャラして国家について考えないのは怪しからんので徴兵するなど。
日本会議の中枢に居るような新右翼の学生運動家には就職せずに大学に残った者も多い。また六本木にあった生長の家などで寮生活を送った者も多い。その集団的生活史が投影されている。
吉田茂は後に吉田ドクトリンは撤回して海軍力を増し海洋国家となるべきだと主張していた。これは日本の海岸線は長いので防衛力をそこに集中すべしという考えと、当時の日本が重厚長大産業国で造船がその筆頭だった事もある。
徴兵は海軍に向かず陸軍歩兵に向く。つまり海兵隊のような外地でのの占領などが多い事が前提になるが彼等にはそんな考えは無い。国家意識が希薄な若者は怪しからんから集団生活をさせろ、国を守るのは美しい行為だから戦争に従事させろというだけだ。
またいつのまにやら立憲主義は否定されて憲法は国民が守るべき事柄になっていった。
コバセツを追い出して何年も顔をつき合わせて「現憲法には国家を統制するような事ばかりかいてある、おかしい」とやっていたのである。
何年も何百時間も掛けてバカの思いつきを言い合って論議のつもりだったんである。機械ばらして直せなくなるガキかよ。
それに対する言い訳は「家族愛は良い事だ」などであった。良い事だから朗読しましょうというのが憲法だと思ってたんである。良い事を書くと良い国になると思ってるんである。
つまり彼等は憲法どころか毎日やっている立法の仕組みも判っていない。法律が肉付けされて権力を持つ仕組み=政令省令の事や閣法の提出過程も判っていない。
これは左翼神学的で実学に接続しないので憲法学者が微妙な扱いされていた20数年前の完全に裏焼きであろう。
そういえば日本会議の活動家たちが動いて成立させた国旗国家法や年号法などには政令が無い。普通の立法プロセスが付いていないのである。
こうして「改憲」は厨房タームとなり、現実に即した意見を言う人との評価が欲しい人は避けるようになってしまった。「南京虐殺は朝日新聞の捏造によるもの」とか「地政学的にナンタラ」と類似のコンテンツとなってしまった、
南スーダンの情勢が悪化し自衛隊がPKO活動をしている地域が危険に晒された。他国から派遣されている軍を置いて撤収していいのか?これは改憲上の一番重大な局面だ。
今回は撤収するにしろしないにしろ「国民の皆さん、憲法の枠内に納まるよう戦闘地域では活動しないという区切りでPKO活動をしてきましたが、コソボ以後のPKOは変化し、戦闘状況では積極的な介入により平定を維持するというポリシーになっています。今後もこのように情勢が悪化して危害射撃をする必要に至るでしょう。憲法とPKOポリシーを変える為の議論をする時です」というのが改憲派の筋である。そしてその時である。
なのにたかがその場の政局が荒れる事を忌避した聖帝閣下はそんな事に興味は無かった。日報を破棄させる圧力をかけたのである。現実に即した改憲に至る正統な道筋と思わなかった。改憲は既にガキ臭くて老害じみたルサンチマンを集合させる事でその手の固定票を集めるフワついた寝言であったから自衛隊と憲法の問題なんて気にも留めなかったんであるな。そしてその寝言化を成し遂げたのも聖帝閣下とお仲間の努力の賜物であった。牟田口閣下が前線から離れて芸者遊びを続けたような血の滲む努力の。
更にこの件では防衛大臣が辞任する運びとなった。
だが隠蔽の責任を率先して取ったのではない。後から無くなった筈の日報が出てきたのだ。
つまり自衛隊に後ろから刺されたのである。制服軍人をスーツの政治家が統制するのが文民統制であってこれが失われると国家は破滅に突き進む。そんな憲政上の大問題だ。
だがこの自衛隊が成した暴露は正当な行為である。やってはならぬ不正を成さしめそれを是正した事で文民統制上の問題となった。
しかも自衛隊の活動が蓄積された一部であって、改憲への正当な道筋ど真ん中の事を無きものにするという不正であって改憲派として正気の沙汰ではない。
だがこの時既にこの政権にまともな責任を取らせようという国民の意識は無くなっており、子供の間違いのように擁護されて忘却された。
ど真ん中改憲問題はこうして消え去り「家族は大事とか良い事が書いてある憲法を朗読しましょう」という流れは保護された。
アイドルのような還暦女性にポストを与えた防衛大臣が軍に後ろから刺されるという事態の深刻さにも晒されずに相変わらず神学徒達は安楽椅子でロリポップを舐め続けることができた。
だが集団的自衛権への移行に就いて憲法論議を国民に投げかける事はしなかった。
2013年に盛んに言っていたのが「戦後レジームからの脱却」だ。更に年末に靖国神社を参拝したところ、日米関係は戦後最大の冷え込みとなった。
太平洋地域の戦後レジームが米国のなした国際秩序という事に気が付かなかったんである。靖国参拝は英霊への感謝という言説に自家中毒になりA級戦犯合祀から問題化したという事を忘れていたんである。バカな…と思うがそれが聖帝閣下とその友達だ。
因みに日本会議中枢などの「新右翼」とは反米主義の右翼の事だ。戦後体制はYP(ヤルタ・ポツダム)密談による分割であるから打破するというのがその趣旨だ。
こうして2014年には聖帝はオバマに擦り寄るようになった。そんな中で米議会で発表されたのが集団的自衛権への転換である。
米議会であるのも理由がある。湾岸戦争以後、日本の憲法を改正させて米国の戦争をサポートさせるというのは共和民主問わず共同認識になっていたのだ。
集団的自衛権が必要なら当然改憲の重大な理由の一つになる。だが解釈変更という形で現憲法で合法としてしまったのだから改憲のカードは無くなった事になる。
PKOの歴史を知っていたらそのエポック性は無視できない。「日本が軍事的な国際貢献への一歩とした国であり憂慮している」ぐらいは言うべきだがそうはしていない。
尚、日本は民主選挙以前は外国に逃げたポルポト政権を承認していた。あの虐殺で国民の半分近くを殺しまくったポルポトを国家承認したままだったのだ。選挙監視にはそういう理由もある。
こういう風に改憲上の最大の障害は聖帝閣下とお友達なんであるが、この状態は方々に都合がよろしい。
護憲派は憲法9条が国際状況にそぐわなくなっている事を考えずに済む。あんだけのバカ草案を出したら改憲反対は当たり前であって、PKOポリシーの変化にどうするかなんて問いを考えなくて済む。コバセツ含む嘗ての改憲派の憲法学者も全て護憲派に寝返った。
一方、米国主導の軍事秩序賛同派はイラク戦争賛同の総括をせずに済む。ISIS支配地域にあの連中置いてくるべきだ、なんて意見に晒されずに済む。
そんな情況の空白地帯で先人の積み上げた蓄積の意味が判らんかった聖帝閣下は友達と泥遊びに明け暮れ、田んぼをぐちゃぐちゃにしてしまったが意味が判っていないからなんという事もない。お友達の稲田防衛大臣は制服に後ろから刺されたのににこやかに軍事パレードを行い、胸に手を当てて国家への忠誠を示したので上機嫌で去っていった。
はじめに軽く自己紹介。地方大M3(医学部3年)の20歳。人生崖っぷち。
表題を見て不快になった人は、この記事を読まないよう強くおすすめする。医学部事情を知らない方は特に。ますます不快になると思うので。
もともと文系学部志望で、就職するなら公務員か裁判官かな、とぼんやり考えていた。仕事をしながら趣味に興じる生活に憧れていた。
特定防止のためぼかすけれど、この趣味は小学校のころから熱を入れて取り組んでいる。今では生きがいだ。
収入は別に多くなくていい、ただ一人で生きていく分くらいは稼ぎたい。その上で、趣味の結果が出ればいいな。そんな感じ。
でも、親はそれを拒絶した。高一のとき、学校へ出発する前、私は軽い気持ちで「法学部ってかっこいいよなあ」と言った。
これがいけなかった。
「文系行くなら自分の金で行ってね」という投げやりな言葉から始まり、三日三晩(文字通り)怒鳴られた。
お前は欠陥品だから、就職できるわけがない。こういうことを平気で言われた。
私の親は差別用語をよく使う。「欠陥品」はまだ全然ましな方で、放送禁止用語を駆使して私の不器用さや容姿をなじる。兄(現役ストレートで医学部を卒業し、今は研修医をやっている)と比較して「一勝一敗」と嘲るのが最近ではお気に入りなようだ。
もっとも、被害にあっているのは私だけではない。母親が結婚して以来、ずうっとそういう調子だったらしい。典型的なモラルハラスメントだ。
我慢すればいい、と母親は言う。修行だと思って我慢すれば、社会に出ても耐性がつく。そう繰り返し教わってきた。この母親も私の文系学部進学には消極的で、「あんたを雇うような会社はどこにもない」が口癖だった。別に会社勤めを目指しているわけじゃないのに。
小さい頃からずっとそうだった。
なじられ、比較され、叱られる。
何かやらかせば「欠陥品」。
度重なる暴言からくる自己肯定感の欠如は、私の性格を決定づけた。
今では誰に褒められても、「ああ、社交辞令だな」としか思わない。それどころか「馬鹿にされているんじゃないか」といらいらしてくる。
男性に好意を向けられても、ぞっとする。付き合っても長く続かない。結婚したら、この人もモラハラするのかなあ。そんなことばかり考えてしまう。
凡人なりに頑張ったおかげで、通っていた高校(公立)の中では上の方の成績をとれた。
違う、と答えたかった。私は自分の居場所を得るために、学費を出してもらうために、進学するんです。こう言えたらどれだけ気が楽だったろう。
受験勉強がきつかった。頑張っているのに上がらない成績が恨めしかった。最後まで物理と数学で伸び悩んだ。結局第一志望(兄の出身大学でもある)のオープンでA判定はもらえず、今の大学に入学することになった。
後から知ったが、冠模試のオープンは判定が辛いらしい。現役生で安定してAを取れる人は限られている。
公立高校かつ塾なしの私は、そんなこと全然知らなかった。親はB判定とかC判定とかを見る度に、やっぱり馬鹿は治らないなあ、高齢出産がいけなかったのかな、というようなことを言ってきた。
今でも、もしあそこでチャレンジできていたら、と思う。多分私は、一生このことを後悔するのだろう。
でも、他にどうしようもなかった。浪人するくらいなら死んだほうがマシだ、こういうことを何度も何度も、親に吹き込まれていた。
浪人している同期を見ると、ぬるま湯に使ってるやつらはいいよな、と思う。
人より時間と金をかけてもらってるくせに、自分の努力(笑)で大学に受かった。
努力は必ず叶う。
どの口がきいてるんだよ、と思ってしまう。
志望を下げずにチャレンジした同期は、受かったり落ちたりした。自分より成績の低いやつが、自分よりいい大学を受け、合格した。
私は見事、医学部に現役合格した。しかし、もう兄には決定的に勝てない、一生格下として扱われるだろうということに参ってしまった。
大間違いだった。
医学部は人間関係をしくじると大変らしいと聞いていたから、周りに合わせてニコニコしていた。でも、駄目。中高みたいに腹を割って話せる友達は一人もいないし、異性はもちろん同性の集団にも馴染めない。
会話が怖い。
高校までと違い、癖の強い人がたくさんいる。
人を平気で馬鹿にしたり、傷つけるようなことを言ったり、仕事を全然しなかったり。
後輩を何人酒で潰したか、自慢げに話す人もいた。
どうかしている。
友達がいないわけではない。
でも、その人たちにとって私はn番目の友達で、せいぜいご飯を一緒に食べたり、授業を隣で受けたりする程度の間柄だ。
所属していたインカレサークルも、授業が忙しくてほとんど行けていない。
何より、授業がきつすぎる。
友達が少なく医学部部活にも入っていない私は、いつも特定の子に情報を流してもらっているけれど、もしその子に切られてしまったら、留年一直線だと思う。
欠陥品なのだと思う。
欠陥品は医学部では生きていけない。
噂が一瞬で広まるような村社会では生きられないのだ。
多分、他の学部でも生きづらいと思う。
でも、ここよりは絶対マシ。
公務員としてしっかり働きたかったし、法律にかかわる仕事にあこがれていた。
全部過去の話だ。
もう取り返しはつかない。
やめればいい、という人がいるかもしれない。
無理に決まってるじゃん。
退学したいなんて言おうものなら、家から追い出されて、野垂れ死ぬのがオチだ。
親にとって私は「アクセサリー」で、マウンティングの道具でしかないんだから。
というわけで毎日、心の中のガソリンをちびちび燃やしながら、なんとか生きている。
アフターコロナの世界が来たら、マジで生きていけない気がする。
そしたら、私みたいな欠陥品は真っ先に解雇されるだろう。
正直、全部めちゃくちゃになってしまえばいいと思っている。
地震でも戦争でもパンデミックでも何でもいい、頼むから全員不幸になってくれ。
全員苦しめばいい。
倫理的に欠如しているだろうか。
恨むなら私を大学にぶち込み、今もなおモラルハラスメントをしてくるうちの両親に言ってほしい。
十分恵まれている方だ、とのたまう人は、頼むから毒親のもとで育ち、理不尽で閉鎖的な学部で6年みっちり洗脳されてくれ。
画面に向き合っていると、CBTやOSCE、ポリクリなどの試練で頭がいっぱいになる。
乗り越えられる気がしない。
高いビルに登ったり(高所恐怖症で辛いけど)、ホーム柵のない私鉄を探したりしている。
私の家庭が損害賠償で懲りるなら、案外ありかもしれない。
万が一、残り3年半生き延びることができたとしたら、クソハイポ病院でセコセコ貯金して、バイト医になろうと思っている。
でも結局は、そんな度胸も生まれず、カスカスに使い捨てられてしまうのかな。
医学部なんて入るんじゃなかった。
絶対に逃げてください。
もし医学部に入りたいなら、できるだけ立地がよく、風通しのよい医学部を目指してください。
情報はインターネットでも手に入るし、身近に医学生がいるならなお良いと思います。
それを活かすも殺すもあなた次第です。
私も、せめて大阪万博までは生き延びれるよう、頑張りたいと思います。
毒親のアホー!
あるnote記事とその記事内のある言葉に対して粘着する一部の人たちを見て思ったけど、疑わしきは罰せずの原則で無実判定された人の潔白性ってそんなに高いと思えないんだが。
疑惑を出ないから無実ですってなった人って、白じゃねえだろ。どこまでいってもグレーの域を出てないよ。現代社会は白はもちろんだけど、グレーも無実判定する。でもそれはグレー=白って意味ではない。少なくとも俺の中では。有罪無罪は非対称なの。
そもそも事件の名称として疑惑をかけられた本人の名前を使っただけで名誉毀損?
まあ今の法制度はそれも成立するのかもしれないけど(法学部じゃないし詳しくはよく知らない)、潔白の証明もできてないのによくあんなに強気な態度で指摘できるな、と思った。
そもそもお前本人じゃねえだろ。言及されてる本人以外が「名誉毀損になるのでその言葉を修正してください」って言うの普通に気持ち悪くて笑っちゃった。こういう奴ほど自分は正義だって思ってんだろうな。
よくある意見に、「さすがに東大法学部と底辺理系なら、東大の方が上だろう」みたいなのがあるが、間違いだ。
もちろん「底辺」というのが「ボーダーフリー」の意味なら話は別だが、偏差値50前後の誰でも行ける大学という意味なら、
だ。
まず、日本の大学の文系と理系とでは、卒業に課せられる要件がまるで異なる
ほとんどの理系学部では、卒業するためには学位論文(学部なら卒業論文、大学院なら修士論文・博士論文)を書かねばならず、その前提として求められる専門知識も高度である。
一方、文系は遊んでいても単位は取れるし、卒業するための「提出物」も簡単に書ける。
一方、文系の卒業論文なんて、先生の指定した文献(素人でも読める。というか、卒業するだけなら読む必要すらない)を読んで、サーベイもどきの読書感想文を書くか、アンケートかなんか取って小学校レベルの算数でまとめるだけ。