はてなキーワード: 審美眼とは
点数は100点を満点とし点の内訳はフリーダム。個人的感想に客観的視点を考慮するとグチャグチャになるのでひたすら個人的に。
35点
鍵作品特有のノリが楽しめた事と、キャラが可愛かった事以外に褒める部分がないアニメ。篝ちゃんが可愛かったので点数をおまけしておいた。ルチアの「ロックオン」とかも良かったと思う。2期あるらしいけどストーリーに期待できなすぎるので見ないかも。
SHOW BY ROCK!! しょ~と!!
40点
(キャラ15点 ギャグ15点 見やすさ15点 安定感ー5点)
5分アニメだから空いた時間にちょろっと見れたのが便利だった。つまんない話もちょこちょこあるけど5分だからボーっと見てればすぐEDになる。元のキャラへの思い入れが強ければ全体を通してもっと楽しめた気がする。
15点
戦闘シーンの出来は55点~90点。それを補ってあまりあるほどに物語と台詞回しが微妙。潜入して脱走してルンピカルンピカうおおおおおって展開をひたすらループしすぎ。キャラや話の中身が全体的にスカスカ。戦闘も似たような空戦が多すぎて段々飽きてくる。メカのデザインとかワルキューレの設定は良かったんだがなあ。
25点
(設定10点 キャラ20点 18話ー5点)
1クール目だけなら55点ぐらい。2クール目が盛り上がる所少なくて本当にキツかった。18話まで我慢すれば面白くなるよーと言われて頑張って見続けたらそこで一番つまらない話がやってきて一気に萎えてそこからは完全にながら見。全体を通して台詞回しのテンポが悪いというか聞いてて心地よさがない。文字媒体で流し読みしていけば気にならないけど声に出されると厳しい文章って感じ。
45点
元々あった悪ノリが二期で加速したのが良かった。追加キャラだと協会様と専務が作品の方向性と噛み合っててグッドくされち○ぽ。
50点
(人形劇20点 武侠ドラマ15点 キャラ10点 オリエンタル感5点)
布袋劇を日本のアニメでやっているというネタが光る。流石に1クールも見ると目新しさが薄れてきたので点数はそこそこ。日本の作品群とはどこか空気の違う中国風の映像や物語にはエキゾチックな魅力があり○。
25点
流石に最後のあれは駄目でしょー。ああいう展開するならするで何らかのフォローや言い訳を用意しといてよ。せめて最終回のトリじゃなければなあ…。キャラは無理目な個性の付け方をされていたけど慣れてくれば可愛かった。でもダイヤは最後まで好きになれなかったよ。
25点
(御成25点)
色々いいたい事はあるんだけど面倒くさいから「御成面白かった」以外の感想を脳から消去することにしました。だからまあ色々引っくるめて25点なんですけど全部御成の総取りにします。
50点
(キャラ20点 ストーリー15点 雰囲気10点 鍵補正5点)
小粒だけど小さくまとまったいいアニメ。こういうアニメを毎クール1つ2つ見ておくと全体のバランスがよくなる。
レガリア
測定不能
75点
(キャラ30点 ストーリー25点 ロボ10点 空気感10点)
日常描写の多いP.A.流ロボットアニメというポジショニングが個性的で良かった。日常シーンでは侍がアマゾンで鍋を「ポチり」、戦闘シーンではYouTuberが戦闘風景を撮影してアクセス数を稼ぐ、こういった描写がシュールで面白いと同時にリアリティも感じられ一粒で二度美味しかった。殺し合いをしている手前どうしてもシリアスな場面ばかりで一本調子になりがちなロボットアニメというジャンルの中で、随所にコメディタッチな場面を散りばめることにより全体のバランスや緩急がエンタメとして調度良くなっていた。何より好き勝手に生きているキャラクター達が見ていて心地よく、ぐいぐいと感情移入してしまった。
ジョジョの奇妙な冒険 75点
アイカツスターズ 60点
魔法つかいプリキュア 30点
真田丸 70点
ヘボット 期待を込めて50点です
個人的にはジョジョとクロムクロで持っていたクール。マクロスΔとREゼロには本当にがっかりしたので来期は審美眼を高めていきたい。NEWGAMEやベルセルクも見る予定だったのだが最後までついていく自信が無かったので1話切り。それでも10本以上アニメを見てるんだから以外と見るものがあるもんだ。最近はAbemaもある事だし少し選別をキツくしてもいいのか知れない。
とりあえず来期はガンダムと3月のライオンと舟を編むの3つを柱と考えそこからメニューを構築していこう。流石に3本とも折れることはあるまい。
アマゾンのレビューとかでも一番評価が高いレビューが必ずしもイコール真実というわけじゃなくて
単に「共感されやすい」というだけで審美眼や知識が豊富にある人間のコメントってわけじゃないんだよなあ
シンゴジラも同じように「リアルすぎる」っていうのが共感されやすいというだけで
「リアル」か「リアルじゃないか」を見比べる力を増田やその他サイトでレビュー投稿してる人間すべてが持ち合わせてるわけじゃない
「どれだけ大多数の人間にリアルだと思い込ませるか」が重要になってきて
代わりに採用したのが庵野が得意とする見せかけ・演出のリアルっぽさ
そのトリックに適応性を示したもの、つまり教養も知識もないから進行形で疑問が入り込まずに庵野が仕掛けた罠に全部引っかかったやつほど絶賛する
藤島じゅん先生が『シン・ゴジラ』を白米に例えて、「みんな粟とか稗しか食べたことないの?」と『シン・ゴジラ』絶賛の空気に違和感を唱えて炎上した1ページ漫画、通称『粟と稗』。
『シン・ゴジラ』を白米に例えた上で、『いま、会いにゆきます』を酢飯の上に中トロが乗った握り寿司に例えるのはいかがなものかと思う以外は、単に「個人の感想です」としか言いようがなく、絶望的にセンスが合わなかったんだねとスルーして差し上げるべき案件なわけですが、悲しいかな今やハリウッド版を超えるヒット作としてマスコミ様にも認定された『シン・ゴジラ』を称えることは大正義となり、『シン・ゴジラ』を称えないものはヒャッハーされて輸血袋にされて当然と信じるウォー・ボーイズの皆さんによって血祭に挙げられてしまいましたとさ。本当に怖いのはゴジラでなく(以下略
というのは前置きで、その『粟と稗』へのアンサー漫画として発表された直江春巻氏の漫画(https://twitter.com/harumaki_naoe/status/767142043575422976)が、「すばらしい!」「これが読みたかった!」と大絶賛RTされまくってナウなヤングの間で話題になっているのは、正直どうよどうなのよ? 思わざるをえない。
この漫画、ネームの構成があまりにも雑というか稚拙すぎて、プロフィールに漫画家と描いてあるのを見るまでは素人の作品だとばかり思っていた。せいぜい漫画家にあこがれる小学5年生がじゆうちょうに描いた漫画くらいのレベルではなかろうか。いや、一線のプロで活躍する漫画家がその年代でノートに描いていた漫画はもっと上手いのだけど。表現力や構成力という点で比較すれば『粟と稗』の足元にも及ばないといえる。ぶっちゃけ作者が何を主張したいかが上手くまとまっているとは言いがたいので、編集者にネーム全ボツで描き直しを言い渡されてもおかしくない代物である。
正直、これを「漫画には漫画でアンサーを」といって出すのは黒歴史生産以外の何物でもないし、「すばらしい!」「よい作品!」と大絶賛している諸兄に置かれましては、本当に『シン・ゴジラ』の素晴らしさを評価できるだけの審美眼をお持ちなのかと問いたい。問い詰めたい。作品の好き嫌いなんて個人個人の嗜好に過ぎないことに熱くなって、同調圧力よろしく寄り集まってなんでもかんでも持ち上げていると傍目に恥ずかしいことになったり、刃とかはちまとかnetgeekとかに付け込まれて踊らされてアフィの餌になるんだよ。
自分が好きなものを他人が嫌いだったり、逆に自分が嫌いなものを他人が好きでいることを許せない人は、何がどうなればいいんだろう?
そこに誤読や解釈の取違いがあるのなら、それはまっとうに議論を交わせばよいだけの話ではないか。そうして初めて作品の理解が深まるというもので、議論とは相手を叩き潰すことだと勘違いしているブルーヒップなベイビー達は、3年ROMってろと言いたい。おっと勘違いするなよ? 稚拙な意見は口に出すなというわけではないからな。意見をぶつけたけっか、自分の考えが間違っていたと気づくこともまた議論だからな。SNSは自由なトーク・アベニュー、恐れずに発言するといい。ただし発言には責任が伴う。その責任の大きさはフォロワー数には関係ないことをよく肝に銘じておいてくれ。
最後になんでこんなフランクな文体になったのかよくわからないが、とりあえずいいたいことは、好きにすればいいじゃないってことだ。
いつも思うけどなんだかなあ
昔からVIP板にそういうガキがたくさんいてずっとレスポンチバトルしてるけどいつまでやるんだろうね
自分の審美眼を自慢するために(自分の中の)ランキングを発表する
もしくは画力が高いとされてる漫画家を貶すことによって自分が人とは違うアピール
→同じく自分は審美眼を持っていると思っている人間が好きな漫画を貶され
貶した側の好きな漫画を貶し返すの繰り返し
絵を描く側からしてみたら苦心して生み出したり勉強した絵柄や塗りやパースが
読者に賛否両論はあれどガキの強さ討論に使われてると思うとたまったもんじゃないな
画力とは絵の上手さを表す言葉である、が概念的に曖昧なものである。<<
例えば2chやまとめサイトなどのにおいて、特に絵や漫画に興味がある人は
まさにこれの通りだ
男性への関わり方として女性から嫌われる2大女というものがある
世に言ういわゆる「相談女」とは、
頃合いをみて
と体を摺り寄せてくる女のことである
ネット上には相談女に泣かされた人々による書き込みがいくつも見られ、
だがしかしここで声を大にして言いたいことがある
果たしてその相談女には異性を落とすだけの実力が本当に備わっていたのか?
否
むしろ相談女に成り下がっている事実が、その実力の無さを体現しているのである、と
一見、相談女は男性から見れば、悩み事を抱えた可哀想な女性に思えるだろう
しかし女性から見れば、おきまりの手口を使ってまた男を落としにかかってる、
そもそも悩み事があるのならば親しい同性の友達や身近な家族に相談すれば良いのに、
あえてパートナーのいるターゲットを選んで相談をもちかけるのだから、その不自然さたるや傍目には明らか
なのにも関わらず、だ
わざわざ同性から後ろ指を指されながら、可哀想な困ってる自分を演出し、
相談事を持ちかけるという面倒くさい手順を踏み、
挙句プライドのかけらもないかのようにいとも簡単に自分の体を差し出すのはなぜなのか
それはずばり
魅力も実力も自信も無い崖っぷち女がなりふり構わず選択する手段にほかならないからなのである
辛い思いに支配され、身動き取れなくなっている方もいるでしょう
消えない憎しみに精神を侵されている方もいるでしょう
しかし前述したように、
そんな女が実力では手に入れることができないものを手に入れるために、
こんなにも惨めで哀れなことがあろうか?
相談女の実態を知る事で、傷ついたみなさんの胸のうちが少しでも楽になればと、
今回書き記させてもらった次第である
さて、ここで今一度問いたい
話を聞いてと困り顔であなたに近づき、執拗に依存・執着してくる女と、
問題を自己解決しようと一人耐え忍びつつもそんなことはおくびにも出さず、
どちらが本当にいい女だと言えるだろうか?
聡いあなたならば既に答えは明白であろう
しかし実際、この相談女に引っかかる男性が多いこともまた事実なのである
あなたの目の前にいる悩みを抱えた女性は、果たして本当に"いい女"なのだろうか?
思い当たる節がある諸君におかれては、今一度己の審美眼を見直す時なのであろう
なおこの相談女だが、遊びたい独身男性にはうってつけの相手のように思えるだろうが、
前述したように相談女はパートナーのいる男性をターゲットにする傾向にあるのであまり期待できない旨お伝えしておく
それでも突撃する猛者の貴君にはこれをお伝えしておこう。
繰り返す、
身の破滅に注意されたし
御免
ぼくは灰原哀が誰だかは知らないが、落とせない女性などはいないと思っている、所謂恋愛強者だ。
一般的に強者が弱者の力になることで社会の停滞は終わりを告げるとされる。
社会の為にも、灰原哀を落としたいあなたの力になってあげるべきだとぼくは思った。
灰原哀をネット調べてみると、wikipediaに項目があった。
なに、有名人だとしても恐れることはない。
灰原哀のwikipediaを開くと予想以上にごちゃごちゃ書かれていた。
ぼくは長い文章が苦手だ。
長いwikipediaの記事を読んでいると眠たくなってくる。
・灰原哀の嗜好
このふたつのオブジェクトを並列に記す点から推理する限り、好きな女性雑誌とはananみたいな情報誌ではなく、VOGUEやHarper’s BAZAARあたりのモード系ファッション誌とみて間違いはないだろう。
VOGUE以外のファッション雑誌において「よく買う」はありうるが、「好む一面」と第三者に見られるような行動は取るような状況は一般的に考え難いからだ。
ならば簡単だ。
こまめにセンスの高いブランド物をプレゼントして、彼女の審美眼を、センスを褒め続ければいい。
……待てよ?
なにか引っかかりを感じた。
なにが引っかかっているのか。
すると、そいつは姿を現した。
ビンゴ! よーし良い子だ。
灰原哀はブランド物や女性雑誌が好きなのに、おしゃれではなかった。
それを示す画像が次々に表示された。
ブランド物と、女性雑誌を好むとする女性がなぜこんなにも女子アナみたいな(夏目三久を除く)コンサバティブなスタイルを採択しているのだろうか。
なにか理由があるに違いない。
なるほど、そうだったのか灰原哀。
わかったぞ灰原哀。
ぼくは思い出す。
彼女は言っていた。
「結局男ウケするにはコンサバなのよ」
そうなのだ。
つまり、灰原哀はこのお局さまと同じく、「本当はモードファッションでガン攻めたいけれども、男ウケを考えてコンサバに抑えている」。
従って灰原哀とはお局様同様、「彼氏募集中」だし、男に飢えている餓狼状態なのだ。
これは追い風。
いま、あなたはセンスを問われるブランド品のプレゼントを買う必要もなくなった。
なぜならば彼女は「いい男いねーかなー」よりもやや自信の低い「誰でも良いから付き合いてーなー」という状態だからだ。
ストーカーにならない距離感で、まめに存在をアピールしていれば、焦り始めるクリスマス前やバレンタイン前に落ちる。
逆に吉野家に連れて行くとかでも落ちる。
ちなみに、お局様はというと、今年のバレンタインの後、モードファッションに戻った。
バレンタインの夜は、ぼくと池袋でも一番安い「ホテル ショコラ」というラブホテルで過ごしたのだが、その後会社で会ってもLINEでもよそよそしくされている。
でもまあ、クリスマスごろにはきっと向こうからなんらかのアクションがあるだろう。そういうものだ。
ああ、いや、ぼくのことはいいんだ。
あなたが灰原哀を落として、社会の停滞に終わりを告げてくれることがいまのぼくにとっては楽しみだ。
頼んだぞ。
情報ジャンキーの立場から、あの互助会問題を語ろうではないか。
「キュレーター」と名乗ると、こそばゆいんだが、おそらく私はキュレーターである。はてなブックマーク自体は9年ちょい使っている。この前10周年だった事を考えると、はてブが始まって1年半くらいから始めたユーザという事になる。古参だなぁ、いやはや年取ったわ。
そして私は情報ジャンキーだ。暇を見つけて、いや無理にでも暇を作って、ブクマブクマブクマたまにコメント。FeedlyとDiggとInoReaderを常用してて、1日に読むフィード数はたぶん4000を越えてる。というか、数えた事がない、数え切れなくて。情報を心地よく読む為だけに、ディスプレイは6枚つかってる。
でだ。互助会。あれ、はやく対策しないと、はてブは死にますよ。
なぜなら私がブクマしたエントリが跳ねなくなった。流されるようになった。流れる事自体は自然の摂理だから問題はないんだが、そのスピードが昔に比べて速い。すなわち互助会ノイズに埋もれて消えてしまうのだ。
多くの人や特に互助会ブロガーは初速にこだわってるが、普通は文章力のあるブロガーとは、あるとき突然、日の目を見る。「3ブクマ集めるまでが勝負」とか言ってるやつは、そもそもブクマのキュレーションの力を勘違いしてる。
ヒットするブログが生まれるには、ネットサーフィンするキュレーターが見つけて、すくい上げる流れがある。じわっと1ブクマついた記事に、誰かが2ブクマ目……数週間たって、3ブクマ目がついた瞬間、たった数時間の短い間、はてブ新着エントリに浮上し、多くの観測者によって評価される。そして跳ねるのだ。
私がほぼ初期に1getして、その後浮上したブログは、コンビニ店長、ハックルベリー先生、ひきこもり女子のいろいろえっち等があるが、どれも自分が非公開ブクマした後、数週間して伸びる、じわっとパターンである。
コンビニ店長が水戸駅で貞操を奪われそうになった話や、ハックルベリー先生の語る面白コンテンツ創作術(無名時代版)をリアルタイムで読んでいた人は少なかろう。そして不思議な事に、リアルタイムでそれを読んでも、実は大抵の人には面白さが分からない。これは私も謎なのだが、コンテンツって誰かが解釈を照らさないと、普通の人には善し悪しが判断できないみたいだ。
名もなき情報ジャンキーブックマーカーが己の感性で“良いエントリ”拾い上げ、ブクマコメントとタグで“読み方”を補完してる。これがはてブで良質なブログが発掘される構図だ。
で、ここ半年くらい、伸びないんだよな。拾い上げたつもりのブロガーが。はてブのアルゴリズムが変わったとか、私の読みが甘くなったとか、色々要因は解釈できるのだが、やはり大きいのはノイズが増えたからじゃないかと考えられる。過去にもライフハック系記事とか2chまとめとか、特定カテゴリが異常に伸びる時期があった。しかしその時と大きく違うのは、新着の流れる速さである。速すぎるし、ノイズが増えた。これでは多くの人々が面白い内容を見つけるタイミングを失う。
すなわち3ブクマを獲得したものの、人目に触れずに消えてしまうのだ。
互助会は、過去の信頼と審美で培われた新着エントリ欄を、数の力で押し上げてる。仲良しごっこは好きにすれば?と思う面もあるんだが、ノイズで新着ランキングが埋もれるとなると、話は別だ。良い書き手が流される為である。
私から見れば彼らは明らかに情報の読み方が浅く、能力が足りない。お友達ブログだけ読んでる奴は、読み方がなってない。「面白いと感じたからブクマしました」と抜かしているその感性を疑うべきである。少なくともブクマした記事と同内容の事をぐぐるべし。そして関連書を図書館で予約してはどうか。今時ネット予約が出来るから、30秒で注文できる。色々読んだ上でコメントするのも良いだろう。もう少しブコメに厚みを持たせられないのか(いやまぁ、古参ユーザでも頭悪そうな人もいるんですけれどね……)。
仲間内ばかり見ても読む力はつかない。あらゆるものを読まない事には審美眼は育たないのだ。そういうセンスを持たない人が「アフィリエイトで稼ぐ」とか「サロンはじめました」と言っても、失笑モノだ。なんだ君は、はてブに焼き畑農業しにきたのかい?己の親兄弟や友人知人にブログを見せても、恥ずかしくない文章を書くことを薦める。
死んだ後も、ブログは残るぞ。
こういうフリーライダーが増えれば、はてブがつまらなくなるのは必定だ。互助会ネットワークはひとつのカテゴリを新設して押し込んではどうか。「アフィリエイトネットワーク」なんかどうだろうか。ははは。私のようなキュレーターは、面白いブログを見つければ、カテゴリに丁寧に分類するから、新設カテゴリに互助会を振り分けて貰う方が問題はないのだ。
はてなも上場したし、私も歳を取った。時代は変わるものだ。ランキングがノイズにまみれ、はてブキュレーションシステムが死ぬのも、時代の流れか。
私のような日陰ブックマーカーも、隠れた実力ブロガーも、雑踏にまみれて消えゆく存在なのかもしれない。
関連エントリ
-----
追記と一部ブコメの返信
id:zuiji_zuisho うーん、互助会の肩を持つつもりはないけど、この増田の話も眉唾だ。誰も見てないようなブログが、増田の非公開ブクマ(どこに露出することもない)、その後に火が付いて伸びるってほとんどオカルトじゃないか。
ごめん、ちょっと書き方が悪かったな。昔は公開ブクマだった(というより、公開ブクマしかなかった)。自分は数ヶ月毎にはてブを整理する上、ファン機能が嫌いなので、全文自動保存スクリプトを回した後、非公開にするという使い方をしてるというだけなんだ。なので実際はブックマーク時は公開ブクマである。
とはいえ、私と同じような動き方をしている人は何人かいる事は確かで、どこからともなくやってきて、ブクマして去って行く人を知っている。そして非公開ブクマをしても、3ブクマキュレーションは成立していると思える。おそらく私と同じようにRSSリーダー、キーワードRSS、Googleアンテナ、Tumbler、他サービスのタグRSS経由でやってくるのだろう。
ネットに公開されている以上、誰も見ていないはありえない。
すまないけど、結局「俺が思う『面白い』が絶対的に正しい」と言ってるようにしか見えない。ユーザー層の移り変わりもあるだろうし、自分の感性が多数派でなくなる時もあるだろう。数で勝つしかないのだ。
互助会批判を見てて、とある大手新聞社の人から聞いた「新聞生き残る理論」を思い出した。要するに、「新聞は情報の重要度によって扱いの大きさを変えて序列をつける役割を持っている。一般人には情報の優劣など判断できないため、新聞のその役割は必要なのだ」という話だった。
新聞が「少人数のプロの記者が情報の重要度を判断する」メディアだとしたら、はてブは「不特定多数のアマチュアブクマカーの投票数(ブクマ)によって情報の重要度」を扱い(ホテントリ入りか否か)が変わるメディアだ。
もとい、はてブは「不特定多数のブクマカーの投票数(ブクマ)」によって情報の扱い(ホテントリ入りか否か)が変わるメディアだ。
情報の価値判断の正当性はそのメディアのキモだ。新聞がそれを「プロの記者」が担保しているとすれば、はてブにおけるそれは「ブクマカーの投票数」になる。互助会批判は、言ってみれば、その正当性への疑議だ。
さっきブクマした「古参の自称敏腕ブクマカー増田」の言い分は、大手マスコミ側の理屈と似てる。両者に共通するのは「自分達の価値判断こそ正しく、大多数の一般人には情報の価値判断など出来ないのだ」と思っている点だ。
だが、はてブの「不特定多数のブクマカーの投票数によって情報の序列を決める」という仕組みでは、彼ら「敏腕ブクマカー」の投票活動は埋もれてしまうことがある。彼らが如何に敏腕であろうと、「一票の価値」は変わらないからだ。まぁお気に入りもあるからそうとも言い切れんが。
面倒になってきたのでまとめると、はてブはよくも悪くも「数」で決まるメディアなので、ある程度の「衆愚化」はしょうがない。嫌気が差してきたブクマカーの望むホテントリを「作る」には、さらなる精鋭を育て、暗愚を数で上回るしかない。
それが難しければ、もう少数精鋭のキュレーターが結託して新しいはてブに替わるメディアを作るしかないんじゃないだろうか。
ルールを厳格化したりすることで、多少の衆愚化は避けられるかもしれないけど、遅かれ早かれどこかでまた似たような問題が起こってくるような気がする。
はてブが特異なのは、集合知と集合愚のバランスである。そこが絶妙ゆえに、キュレーションメディアとして評価されていた。互助会問題によりそこが変わろうとしている。対策はarata2515氏が書くように、古参ブックマーカの移動の他にはないだろう。
玄人めいて書いたが、実は私自身も「本当に価値のある記事・伸びるブログ」は、リアルタイム……つまりブクマした瞬間は、よく分かっていない。たがしかし、何千と読んでいる中で、フッと違った感触を得る事がある。これは本当に不思議で、形容しがたいのだが。平原で四つ葉のクローバーを探すのに近い。あるいはSTGでいつのまにかレアキャラを撃ち倒していた感覚というべきか。つまり、実に些細なのだ。
はてブの利用者みなが、ブログを繊細に読めとは言わない。時代の変化もあろう。しかし、声の大きく粗暴なやつが、静かに価値を語る者をかき消すならば、残念に思える。
引越しかないかね、やっぱり。
言われてみれば売れてるアニメってどこか異質というか
これはっていうアニメのキャラデザは見た瞬間これは絶対売れる!イケそう!覇権だ!っていう
予想が付いちゃうと思う。
今期アニメはまだ全部見てないので詳しく言えないけど、キャラデザの時点で惹かれたアニメが3作ほどある。
前期は光るキャラデザが4本位あったけど、その4本共が大して売れてなかったのでもしかしたら勘違いかもしれない。
巷では審美眼って言うらしいけど、残念ながら俺にはないものだろう。
だから誰かしらがこれって言う絵柄を見た時点でこれは!ってなるのがあればやっぱりキャラデザで決まるのかなと思う。
まあ、キャラデザが良くても話がつまらないとされた天メソって例もあるので
一概にキャラデザで決まるでもないですけど、だからってそれで決まらないアニメもそんなにないと思ってる。
というか、何でも見た目重視ですよ。
多分これが基本なので、その後話も面白ければ・・・ってなるんじゃないですか?
分かりませんけど!
映画を月200本見てようがなんだろうが、人の薦める「名作」とはどこまで行っても
「いや、お前がどう思おうが世の中には名作と呼ばれるものがある」と言う人に聞きたい。
それは何故名作と呼ばれているのか?何か個々人の感性に依存しない客観的な指標があり、
それに沿って採点していった結果合計点が90点を超えたんで名作、ということか?
違うだろう。
その作品は恐らく、非常に多くの人が面白いと言った作品か、すごく影響力のある人が
面白いと言った作品のどちらかだ。多くの人が面白いという名作とはつまり「多くの人の
好みの最大公約数となるポイントをきっちり踏んでる作品」という事だ。だから無論好みが
その最大公約数から外れる人からしてみれば面白くないことだってある。後者については
何をかいわんや、世の中で言う「審美眼」なんて言葉や「評論家」とか「鑑定士」みたいな
仕事を俺は一切信用していない。いや、仕事として存在するからにはそれなりに世の中での
コンセンサスはあるんだろう。さっきの「好みの最大公約数」を毎回踏み外さずに的確に
語れるなら確かにそいつの言う「面白い」は多くの人にとっての「面白い」なんだろう。
だが何度も言うがそれが俺の「面白い」「美しい」と常に一致するという保証がどこにある?
この世で一番うまい飯がセブンイレブンのタコチャンジャに決定した世界で、その世界の
グルメを極めたGackt似のセレブ王が「この料理超オススメ!」と言って来たら多分それは
辛いだろう。そして多分足が8本ある海産品が使われている。ヤマザキのチーズ好きのための
チーズケーキでは多分ない。だが俺は何よりチーズケーキが好きだ。タコチャンジャより
好きなのだ。そしたら後は殺し合いだ。仕方ないのだ。そういうものなのだ。
話がそれた。
つまり何が言いたいって、人に何かを薦める時はお前の嗜好をまず教えろという事だ。
情報伝達の極意とは「目的を人に伝える事」ではなく「人を目的地まで運ぶ事」だという。
伝えたいAという事象があるとき、それをαという地点から眺めている自分とβという
地点から眺めている相手では、同じAを見ても受け取る理解が異なるということだ。
だから本当に自分の理解するAという事象を自分の理解通り相手に伝えようと思ったら、
まず相手のβという地点がどういうところかを理解した上で、αという自分の地点から
眺めた時と同じ理解になるよう工夫してAを説明する必要があるのだ。
そういう意味では不特定多数に何かを説明するプレゼンやレビューは受け取り手一人一人の
地点を細かく理解し、オンデマンドで説明の仕方を変えるのは不可能だ。だから自分のαという
地点をまず公開し、「ここからAを見るとこう見えますよー。それがいい景色なんですよー」と
説明するのだ。そうしてやっと初めてレビューというものは読み手にとって価値あるものになるのだ。
自分の性癖のパンツも下ろさず作品の概要やら手法やら監督の想い?みたいなもののみを語って
人にモノ薦めて価値観の殺し合いを無駄に誘発する、あと一人称にボクとか使うレビューサイトなど
結論。
もちろん値段なりにという意味で使われるが、
値段なりにというボーダーを引き下げる行為が発言者独自のものなので、
こちらとしては下げてはいけないボーダーであるポイントを平気で下げてくることがある。
例えばカメラにしては画質の値段がいくらだろうが許せないボーダーであったり、
ディスプレイでいえば画面のチラつき具合であったりとか、
いくら安くてもそのボーダーを超えたら使い物にならない、コンテンツを維持できないという内容であっても、
良くも悪くもない、という評価を下すやつが世の中にはいるのだ。
こちらとしてはボーダーは最低限ここまでは保証してくるだろうと思って、
他はどうでもいい悪くてもいいから買ってみたところ、
良いところは安いことしかなく他全部悪かったりしたら本当に金の無駄で失敗に終わってしまう。
後には悲しみと捨てる予定の新品だけが残る。
ここで反省になるが、要するに商品ジャンルにおいてその製品の役目として譲れないボーダーが存在する人間は、
他人の違う価値観によって付けられた「良くも悪くも」などという評価を信じて最安値を購入するべきではなかったのだ。
レビューを参考にするにしても何が悪くて何が良いのか、書いた人間の審美眼からまず評価しなければ満足のできる買い物ができない。
今回最安値の掃除機を買ってみたが吸引力は本当にひどいもので使い物にならなかった。
ゴミに出すにも金は掛かるし目的も達成できずに余計コストが掛かってしまった。
この性能で良くも悪くもみたいな評価を下せる人間がいることに、
「自分が思っているよりも世間には貧困の波が広がっているのではないか?」と日本経済の行く末を憂いながら、
結局、高級品が欲しいわけでもなく最低限の機能だけ保証してほしいという人間は、
最安値の商品ではなく少しランクを上げた中堅を買うのがコスト安で済んだな、と二度と使うことの無い掃除機を見ながら思っていた。
それは仕入れに工夫があったり他で確保できる収益がユーザーサイドで確認できたり
販売者自らPRしてる場合はある程度品質の保証はされるのであろうと考えている。
要するに性能を保証している商品にも関わらず安く売られてランキングが高い商品は、
どこかしらに安い理由が存在しているため、会社としてそのコストダウン戦略に自信があるならPRをしているだろうし、
案の定、新国立競技場の両案には「日本の伝統がー」「日本文化を意識したー」「日本のモノづくりパワーをー」というような文言があふれていた。
で、それに対して「A案のほうが日本の伝統を感じるな」「いやいやB案の方が」とかTwitterでドヤコメする奴らが続々登場中なわけだ。本当に日本国民てちょろいなと思う。後付けでも何でもいいから、とりあえずそういう文言を並べておけばなんとなく納得してくれるんだもんね。
建築の場合だったらとりあえず「木」を使って伝統感をアピールしておけば大体認めてもらえるし、そこに神社建築のうんちくやら日本の伝統色やら“うつろい”系のワードやらを絡めればもうほぼ完璧。一気に「文句言うやつは日本人じゃない」状態の完成なわけだ。
エンブレムの場合は「日の丸」「桜」「富士山」「絆」とかを絡めればOK。大体納得してくれるし、「反対する奴は非国民」と勝手に擁護すらしてもらえるヨ。
建築家とかデザイナーはよく、こういうベタなワードやモチーフを使わずに表現を行おうとするけど、残念ながら日本人にはそれを理解する知性も審美眼もないんだよねー。それどころか「これは日本人の感覚とは違う」とか言われネットであることないこと叩かれだす可能性が高いから、そういうチャレンジは控えたほうがいいと思う。
今回のオリンピック騒動でいい加減わかったでしょ?これからは「ちょろい国民」と割り切って、ベタベタなコンセプトで金を巻き上げていくのが建築家やデザイナーの生きる道。それが嫌なら国外脱出したほうがいいと思うヨ。
はじめに謝っておく。
すまなかった。
最強超絶面白マンガベスト100などといったものは最初から用意していない。
なぜなら、そんなものは今まで存在しえなかったし、これからも存在しえないからだ。
俺たちが作るベスト100リストはいつだって嘘にあふれていた。見栄があった。見識不足や視野狭窄の証明書だった。プリントアウトして医者までもってゆけば、相応のお薬と交換さえしてもらえることだろう。
マンガはその面白さ、あるいは偉大さを証明する固有の体系を持たない。だからマンガという分野の側からのアプローチは不可能に近い。よって、リスト製作者個人の主観に頼るしかなくなる。それが悲劇なんです。
多くの場合、そのようなリストに意味は無い。なぜなら、あなたはその人を知らない。会うのは初めてだ。たとえば、カフェでたまたま相席になった人が聞きもしないのにお勧めのエロ漫画を勧めてきたとする。そのときにわかるのは良いエロ漫画の存在ではない。見知らぬ誰かの性癖だ。スカトロ趣味、熟女マニア、LO読者、それらはあなたに関係ない。あなたは自分の所持している MacBook Air の USB ポートと毎晩ファックしている。
あなたは事前に「そのリストを作っている人物は誰か」を知っておく必要がある。
そうでない人の作るリストなど、単に自分の知っているタイトルとの一致を見つける冷たいゲームにすぎない。
また謝っておく。
すまない、実は嘘をついていた。
まだぼんやりとして形をなしていないかもしれないが、しかしそれは確実に存在する。
どうやって確認すればいい?
貯金箱をひっくりかえせ。
頭がどの方向に向いていようとかまわないが、両足はその一帯で最大の品揃えを誇る書店へと向けておけ。
あるいはブックオフでもいい。
書店に入ったら、これまで自分が培ってきた漫画に関する知識と審美眼と勘をフル動員させろ。
作者名にかかった実績と、うろおぼえの知識と、表紙絵だけで判断しろ。
テーブルに乗せる賭金は一冊につき、高くてもせいぜい千円程度だ。分の悪い賭じゃない。
おまえの頭を使え。おまえの眼を使え。おまえの金を使え。おまえの時間を投資しろ。
面白い漫画を教えてくれる人間などネットにいない。アフィ料目当てのクソどもか、バカの一つ覚えみたいに『寄生獣』を連呼するしか能のないねらーかしか棲息していない。
漫画ごときにそんな金も労力も使う余裕などないと言うのだったら、人生をあきらめろ。ただテレビの前で座ってるだけで何かに値するものを知らない誰かがお前の口に運んできてくれる時代は三十年前に終わった。気づいていたか? 気づいていないのなら幸せだ。おそらくお前の欲求は、毎月アフタヌーンを買うか、毎週モーニングを買うかのいずれかで満たされる。リストなど必要ない。
おまえの人生に、面白漫画ベスト100リストなど必要ないと気づいたのはいつだ?
いつからおまえはそんなに自分に対して上手に嘘がつけるようになった?
おまえは書店に行っても何も見つけられない。
それを取り戻したいのなら。それでもまだ人間でいたいのなら。
心を保て。
漫画、映画、小説、演劇、落語、その他ありとあらゆる人間的な生活。
そのとき、そこに載ってある一冊一作、すべてをおまえは思い出せる。
読んだという記憶を確かにできる。
生きているという証を立てることができる。
界隈がゴミすぎて見たくないからテキトーにしか観測してないけど、「あのデザインを評価したデザイナー」だけの名簿を作って流布して「コイツらにはデザインのセンスないです、日本にとって害悪でしまむら以下の連中です」って周知すべき。
連中は美大行ってないし行っててもデザインの基本の授業はサボって受けてないし、受けてても審美眼が絶望的に無い、客観的に美しいデザインというのが見てもわからない連中なんだと思う。うんことカレーの区別つかないんだろうな。
こいつらは、自分の作品見てここをこうすると黄金比から外れるけど安定するし見目が美しいなーとか感じないんだろうな。
そういうの抜きで、シンプルで単純に手抜きして作ったから思い込みでキレイ!とか言うんだろうなって思う。
「作業が複雑で煩雑ですごく大変で結果がシンプル」なのがプロのデザイナーの仕事。
佐野、佐藤可士和、及び擁護クソデザイナーは「作業をシンプル」にしてうんこ出して満足???してるうんこ集団なんだろうなってあいつらの出したウンコ見ると常に感じる。
フォトグラファーだけど、この考えには反対。
反対というよりは、理想論だけどもうそんなことを守ることが不可能な時代になってきていると思うということ。
デザインと同じく、相手に対して理解や勉強を求めるのは、それはお門違いな問題だと思うんだ。
広告全てが常にオープンに展開されていくわけではなく、実にクローズドな世界で実に即日的に消費されていくことのほうが多いわけだから、コスト激化の時代において利害関係が希薄なインターネットの向こう側の写真を使うことに躊躇しないデザイナーは多いと思う。
毎日のように投函される地元店舗のチラシを見てみればそれが日常だということがすぐに分かるはずだ。
それら全てをチェックして、それら全てに対してロイヤリティを請求するなんてできるわけがない。
例えば、一点もので展示会を開けるような写真芸術家であればその作品一つ一つに対してのコピーライトを守ることがイコール写真家の価値を守ることになるとは思う。
でも、自分レベルのフォトグラファーであれば、それよりも一つでも多くの作品が消費されて、より世の中に出て行くことのほうが重要だと思っている。
以前、本城直季の真似をしたミニチュア写真が世の中に溢れかえった時がある。
あのブームは、彼の写真をいいと賛同したからこそ、皆が模倣して色々な作品がさらに生み出された好例だと思うんだ。
模倣と盗作は当然異なるものではあるけど、それならあの時に全員が全員彼に対する敬意を持っていたかというとそれは別だ。
それによって彼が自分の作品が次々に蹂躙されている!と思ったかというと、それも別なはずだ。
おそらく彼はすでに次の作品を見据えていただろうし、ある意味ではブームの火付け役としての余裕もあったのかもしれない。
まだまだ一点ものの作品だけが評価されるようなレベルではな自分にとってみれば、生み出した作品の価値を頑なに守っていくことに縛られるくらいなら、さっさと価値を捨てて次の作品作りに突き進んでいくことのほうが重要だと思うんだ。
むしろお金を払ってでも、一人でも多くの人間の目に触れさせたいって思ってるくらいだ。
それでいつか技術も評価も実績も伴った時、その時代にあった考え方で自分のコピーライトを守ればいいんじゃないかな。
あなたがどれほどのフォトグラファーかもわからないし、あなたの考えを否定したいというわけではなくて、これからの時代の版権は自分くらいでは守られないことを前提に考えていかなくてはやっていけないということを言いたかっただけ。
佐野氏を擁護するわけではないけど、彼の審美眼とそれまでの作品を認めてきた世の中が確かなら、彼に選ばれた、彼の生み出したものと同等のコンセプトと完成度があったってことは自分の評価に置き換えていいと思うのだけどね。