はてなキーワード: 伊藤剛とは
小学校の先生がなかなか嫌な(婉曲表現)先生で、何かにつけて「男のくせに~~するな」「男なら~~しろ」というのが口癖だった。私はその先生が本当に嫌で、誇張や比喩ではなく学校が怖くて夜にはよく泣いていたし、割と慢性的に自殺を考えたりしていた。そんな経験があったので、私がジェンダー論や性差別に興味を持つのはごく自然な流れだった。「女性になりたい」と思ったことや、「私はもしかしたら"男性"ではないのかもしれない」と思ったこともある。今となってはそれはトラウマや思春期による揺らぎの一種であったと認識していて、性自認に関しては私はシス男性だと自認しているけれども。
私の初恋は、とある絵本のキャラクターだった。絵本や児童文学を読みながら、キャラクター同士の親密な関係(カップリング)や、窮地に陥ったキャラクター(ヒロピン)などに触れて、何かいけないものを見ている気分で、こっそり楽しんだ。同級生達の、「どの女の子がかわいい」とか、「誰とそれが付き合ってる」とか、そういう話は嫌いだった。その頃から私はフィクトセクシュアルだったと思う。
当時放送していたアニメと言えば、『幻想魔伝 最遊記』とか、『しあわせ荘のオコジョさん』とか。テレビゲームだと『テイルズシリーズ』とか。そういうのを見て育ったオタクなので、「オタクたるもの、男でもBLくらい嗜んでしかるべし!」くらいに思っていたし、今でも思ってる。ちょうどニコニコ動画が流行った世代でもあって、(今の倫理観では褒められたことではないにせよ、)「ホモネタ」でケラケラ笑うのも楽しかった。
先にオタクになったのは私よりも兄の方だった。当時の私は兄を「ホモソーシャル(という言葉は当時知らなかったが)に親和的な人」と見下していたが、兄は兄で色々と思うところがあったと今では思う。兄はあまり頭が良くないので、私のように細かく言語化したりはしないが、おそらく私たちの世代の平均的な「オタク」だと思う。美少女と美少年が好きで、百合とBLが好きで、口では「恋人欲しい」なんて言うけど、内心エロゲで満足してる。そういう人。『ガンダムSEED』が「腐女子向け」と叩かれていたのを兄も知らないはずはないが、兄はそんなSEEDに心からハマっていた。『テイルズシリーズ』については私よりも兄の方がハマっていたから、いのまたむつみの美少年絵は兄の琴線に強く触れたのだろうと思う。
兄が好んだ「ちょっとえっち」な漫画やゲームを、私は内心見下しながらも、それは常に身近にあった。エロ漫画について伊藤剛先生が『MANGAの自由 平成から令和へ』の中で、「あんまいいもんじゃないだろうという感じで、手に取ろうとはしなかった。」と語っているけど、私もそういう感じ。読まず嫌いだった。でも実際にはむしろその中にこそ多様なジェンダーとセクシュアリティが描かれていることに気付いた。セックスをパロディし、時に嘲笑うことが、セックスを相対化するのだと。
少なくとも私にとって、ジェンダーやセクシュアリティの呪いから逃げられる空間が、オタク文化だった。
2ちゃんねる(今は5ちゃんねる)というのは、今も昔も治安の悪い場所だった。大学院生から「無敵の人」まで、全く知識・知能・倫理観レベルの違う人々が同じ空間で同じ顔をして過ごしている。まともな精神じゃできない書き込みなんていくらでもあったが、それはほんのひと握りの底辺の書き込みでしかなかったのだろう。そしてそんな底辺の書き込みの一つは「女性蔑視」だった。当時の私はまだ子供で、ジェンダーとセクシュアリティの話題に興味のある子供だったから、それがどうしても許せなくて、「論破しなければいけない」ものだと思い込んでいた。今思えばそれは逆効果だったのかもしれない。私が来る日も来る日も女性蔑視的な書き込みを「論破」しても、その勢力が衰えることは無かった。昨日論破したばかりの同じような書き込みを、今日も明日も繰り返すような、そんな連中ばかりだった。
しかし、ネット空間というものが、誰もが使う表の空間に成り下がると同時に、そうしたネットの闇はあっさりと自然消滅していった。厳密に言うと消滅はしていないが、その権威はもはや見る影もなくなった。犯罪や誹謗中傷は取り締まられ、多くの暴言も各種サービスの規約によって削除されやすくなった。何よりも、そのような暴言を吐くのは、少数の異常者であることが露呈した。
私は安堵した。しかし、そんな時代になっても、「表現の自由」を掲げて「フェミ叩き」を頑張っている人達がいるらしい。私は呆れた。非実在児童ポルノ騒動の時、表に立って漫画を擁護してくれたフェミニストの人々のことを忘れたのかと。
私はほんの少し、Twitterのフェミニストの人々と繋がってみた。とても勉強になる話をたくさん聞いた。その話は納得できるものが多かった。しかし、次第に違和感を覚えてくるようになった。その違和感がなんなのか、すぐに言語化することは出来なかったが、どうも彼らは「フィクションを性的対象とする」というセクシュアリティについて、全くと言っていいほど無知で、配慮がないどころか、むしろ憎んでさえいるのだ。恥ずかしながら私自身、「エロ漫画」や「えっちな表現」というものを読まず嫌いしていた時期もあるから、他人のことは言えないのかもしれない。しかし、ジェンダー論や文学を研究している大学教授などが、そうしたセクシュアリティについて全くの無知で、研究など出来るのだろうかと心配になった。そして怖くなった。現代の「ジェンダー論」というものは、そのような前提の元に立脚しているのかと。そして「エロ漫画は女性蔑視」のような前時代に封印したはずのトンデモ言説が、再び亡霊のように復活しつつあることを。あの「非実在児童ポルノ騒動の時、表に立って漫画を擁護してくれたフェミニストの人々」ですら、彼らが味方する対象ではなかった。
結局私は苦しくなってTwitterもやめてしまった。トランプが大統領に当選した時、オバマは「国の歩みはジグザグだ」と言った。もしもわたしが第三者の立場であれば、昨今のフェミニズムの暴走も、「ミソジニーに対する反動」として呑み込む事が出来たと思う。「今はまだ無知でも、時間が解決してくれる」と、民衆の成長を待つことができたと思う。でも残念なことに私は当事者だった。私は、性差別を憎む二次元性愛者の一人だった。
とにかく怖くて仕方がない。苦しくて仕方がない。そして、憎い。ああ、これは、かつて2ちゃんねるで女性蔑視の書き込みを見た時と同じ感情だと思った。
今では私は子供ではないから、もう少しだけ冷静に論じたいと思う。でも、行動を多少抑えることは出来ても、感情それ自体を抑えることは難しい。悔しいとか情けないとか。無力感とか徒労感とか。
2ちゃんねるで女性蔑視を批判した日々は無駄だったのだろうか。実際、無駄だったのかもしれない。でも、せめて、それをした私自身のことは誇りたい。誇りに思えるだろうか。彼らをのさばらせた責任の一端は、私にもある。
https://blogos.com/article/420734/?p=2
—今国会での法案成立の見通しが難しくなっていることが伝えられています。
前回、昨年の通常国会は参議院選挙前だったため、政局含みになってしまい成立まで至りませんでした。内閣が提出する閣法と議員立法のうち、閣法の議論が先になり、議員立法はどうしても後回しになってしまう。結局、時間切れで出すことができなかったという経緯があります。
今回は途中まで順調に進んでいたものの、国会自体が「桜国会」のような状況になり、文科委員会も何度か飛んでしまいました。そもそも審議時間が短くなっているなかで、野党が11月14日に「記述試験中止法案」という法案を出したことが、メディア芸術ナショナルセンター法案の今国会での成立が厳しくなった背景にあります。
田中圭一の「カイジの目はピカソ的表現(キリッ」に「スバラシー!怠慢な美術関係者ども、彼らに学びたまえ!(伊藤剛氏見てる~?チラッチラッ」と松下哲也がすかさず媚びを売り、それに伊藤剛がホルホルして、東浩紀が「これこそ批評だよ!(迫真」、という地獄— SUKEBENINGEN (@sukebeningen) 2018年7月8日
こういう具体的な指摘もない揶揄が印象操作だけでマウントする古き良きオタクの悪習みたいなもんなので、なんとかなってほしいなーとボーッとして特に何もしていない。
あと話に出てる伊藤も東もTwitterではこういう書き込みをやっちゃい勝ちなんだよな。Twitterはタバコ部屋や給湯室の悪口を可視化する悪しき文明。
イケメンや幼女にバブバブしてるだけのアニメファンのTwitterアカは平和の象徴。鳩。酔っ払いの吐いたゲロとか食ってる土鳩。
「男らしくあれ」という規範によって抑圧され、傷つけられてきた男性主体には、少なからずオタクと呼ばれる人々がいる。そして「男らしさ」からの脱却において、フェミニズムは男性の味方でもあったはず。なので昨今の「オタクvs.フェミニズム」という構図には「どうしてこうなった」感が強い。— 伊藤 剛 (@GoITO) 2017年11月22日
いい年こいて見当外れの愚痴をこぼす伊藤剛のように、ネットにはさも「現実の○○に迫害された被害者だからオタクになりました」と言わんばかりの自己憐憫が溢れている。
もっと言えば「こんな可哀想な僕だからこれぐらい許されるよね?」と手前勝手な大義名分を振りかざした、見るに堪えない女叩きやネトウヨ的差別行為や淫夢厨の嫌がらせ行為等が蔓延っている。
更にもっと言えば上記オタクのミソジニー等の悪行を批判した人達にはオタクも少なからず含まれるが、「オタク=無辜の被害者で良い子ちゃん」でいたい男オタク達は彼の人たちに「フェミニスト」のレッテルを貼り、自分達オタクのカテゴリから引き剥がして被害者ぶりながら袋叩きにしてしまう。
フェミニスト 「男オタは日陰でコソコソしてればいいものを、やりたい放題するからカウンターで殴られるんだよ!」 - Togetter
何もかもがおかしいだろ。
オタクがオタクになったのは、ただただ単純にその作品にハマった以上の理由は無かったはずで、男らしさからの抑圧ガーとか傷つけられたー等は根本的に無関係だ。
その人が社会不適合のダメ男性である事とオタクである事は無関係だと、オタクの先人達はあれだけ声を大にして訴えてきたのに、今やどいつもこいつもオタクという属性にダメな男性性の受け入れ場所を投影する被害者ヅラ馬鹿ばかりじゃないか。
オタク評論家「オタクは男らしさの規範に傷ついてるのに何故フェミニズムは味方してくれないの?」→男オタクが女性蔑視で男らしさアピールするからだろ! : オレ的ゲーム速報@刃
こちらのまとめは@_98961427作成のものと違ってまともだが、「フェミニスト」として晒されたユーザーは元々「オタク=男と断じる男の思い上がりそのもの」「pixivで起きた男オタクによる腐女子への嫌がらせ」「女全体を見下すばかりか同属のはずの女オタクすら加害する男オタクのミソジニー」を批判しているのだ。
どれも事実であるし、これよりもっと酷い悪行は枚挙に暇がない。
「ホモソーシャル底辺の可哀想な被害者」を気取るオタク男達が泣きながらしてきたことがこれなのだから、フェミニズムが(と言うよりまともな人間が)彼らの味方なんかするはずないのに、いつからこんなことも解らない程オタクは被害者意識に支配されてしまったんだ。
とにかくオタクを名乗るなら、オタク属性を己のダメさの言い訳にするな。被害者意識でつるんで人様に加害すんな。ネット弁慶で暴れる馬鹿共を共感的にスルーするな。オタクなら○○に傷つけられたと晒して叩くより前にそういうクズオタク共を本気で止めろ。
このまとめ読んで思い出したけど、藤岡氏と町山氏は似ている。
QJ吉田豪氏による唐沢俊一氏へのインタビューを巡って藤岡真氏と伊藤剛氏のやりとり
https://togetter.com/li/102281
自分の中に狂おしいばかりの正義感だか義務感が存在して、それの奴隷になってしまう。「単体の行動として見ると、それは普通な言動じゃないですよ」ってレベルに入って制御が利かないで、「オレは正義の側なのに何で遠慮して、上品にやらなきゃいけないんだ!」みたいな熱に支配されてしまう。誰も完全に間違ってますよとは言ってないのに、ちょっとでも否定的な事を言われるとそう聞こえちゃうんだろう。
なんだか、投稿しても途中で切れてしまうので、追記部分だけをトラックバックでつなぐことにした。
すごい伸びていてびっくり。読んでいただいてありがとうございます。
はてブなどの反応を読ませてもらって、補足したいところとか言い訳したいところとかたくさんあるけれど、元々長いしキリがないので文章が飛躍してるところやタイポを中心にちょこちょこ直せるとこだけ直した。いらんとこだけ書き直したわりに、あんまり直ってないかもしれない。それ以外では、
御用wikiについてもいっぱい指摘があったので追記したかったけど、本題とずれるわりにくっそ長くなったのでやめた。3.11以後の動き、の項の一段落目にアエラ表紙とか青プリン先生とかとあわせて含まれていると察してください。
きくまこ先生否定ありきで見てる、みたいな意味合いの感想もちょこちょこ見たのだけど、確かにたまたま何回も名前を出すことになってしまったけど、別にそんなわけではない。他のおかしなニセ科学批判派含めた、ワンオブゼムとして批判の対象になるべきだと思っている。個人的な好き嫌いでいうのならば、きくまこ先生には同情するところも少しはあるし、感情レベルでむしろ一番不愉快なのは多層な批判層の(3)にあたるような人たちである。ただこの人たちは(2)と区別がつけにくかったり((2)だって大嫌いだが、不愉快度だと「通じるとこのある」分(3)のが高い)、ニセ科学批判者としても論客としてもいまいちなサイズの人が多かったりで、名前を挙げにくかったので特に具体名は挙げなかったのだ。「また人文系か」タグを振り回すのが好きだった某はてなブックマーカーあたりはここの例としてに限れば最適だったんだけど、ニセ科学批判とは関係ないし、ツイッターではさして存在感がないし。かといって、最近頭角()を現してきた大貫剛氏あたりを出すのも、さすがにかわいそうな気がするし。
追記も長くてごめんなさい。
ツイッター経由で、元記事について伊藤氏がこんなツイートをしているのを知った。
それですね。元増田のひとが、いわゆる左派をもう信じられなくなっているが、失われた信頼を想像的に回復するため、じぶんと近しい批判対象を必要としたという見立ては可能でしょう。
「それ」というのは埋め込みツイートされている別の人のツイートのことだがそれはともかく、いやマジで何を言ってるの。
俺がニセ科学批判者を批判するのは俺がもう左派が信じられなくなっているせい?どういうロジックよ。「ニセ科学批判への批判はサヨクのせい」ですか。
こんなん、10年くらい前なら「伊藤剛検証blog」とかブログが立った時に酷すぎる支離滅裂発言の例として取り上げられるレベル、20年くらい前なら山本弘に著書の中で太字で突っ込まれた上に小見出しのネタにされるレベルのおかしな物言いじゃないか(伊藤氏にはトンデモ本シリーズで取り上げるべき著書がない、とかそういう話はここでは関係ない)。
言葉を単純に置き換えればいいというものではないのかもしれないが、例えば、エア御用とか言ってた人が、「エア御用で放射脳批判をしている人は、実際はもう放射能安全派を信じられなくなっているが、失われた信頼を想像的に回復するため、じぶんと近しい批判対象を必要としているだけなのだ」とか言い出したら、それこそ伊藤氏含めたネット言論で袋叩きにされるんじゃないかね。
俺が左派論客を全面的に信じるなんてことは今も昔もあったことはない。そういう世代じゃないし。でもそんなのは左派相手に限らず当たり前の態度であるわけで、左派を「もう信じられなくなった?」と言われたらいやそんなことはありませんよ、と答えると思う。俺は別に家柄も収入もたいしたことない人間なので、左派不信になってトクする理由があんまりないし。それと左派のおかしな発言をする人について批判的なことを言ったり考えたりするのは別に矛盾しない。ニセ科学批判クラスタを批判してるからといって、ニセ科学批判の内容なんてもう信じられない、放射能のせいで鼻血が出る福島の子供やホメオパシーの治療効果や虐殺された江戸しぐさの伝道者も実在したんじゃないか、と主張したいわけではないのと同じである。
それは別に元の記事から読み取れることではないと思うので別に当てられなくてもいいんだけど、だからといって伊藤氏がどうやって上の推測にたどりついたのかはやっぱり謎である。どこかパラレルワールドには左派不信な「俺」がいて、伊藤氏と親しかったりするのだろうか。
あと、そういう「推測」が成り立つのなら、伊藤氏が「みんな左派が信用できないんだ」と思い込み、イデオロギーにとりつかれているのを勝手に俺に投影している、その傍証じゃないかという見方も出来るのではないか?と思えるのだが。少なくとも伊藤氏よりはロジックもアクロバティックじゃないと思うけど、どうなんだろうね。
もうこれ以上の追記はしないつもりだったが…… 被曝方面のニセ科学批判で目にする林智裕氏がこんな反応をしていたらしいという話を見た。
元増田では名前を出さなかったとはいえ、放射能デマ関係のニセ科学批判に熱心な人、こんなんばっか目立つの本当悲しくなるな、と思って見ていたアカウントの一つだ。
そして、一読してやっぱり悲しくなった。
左派のことばかり批判するな、と言われても、じゃあまずはこの件から謝ってみせて下さい、としか。左派政党の代表達が、放射能デマゴーグとべったり。総括も反省もしない。謝罪も無い。
俺はどっかの政党の党員じゃないので、左派政党の代表がだれと仲良くしてたとかについて謝ったり総括してみる義務も責任もないはずなのだが…… この人もどこかの平行世界ではそういう政党に所属している「俺」と知り合いだったりするのかな?謎だ。というか、党員であってもあんまり代表の不手際を謝ったり反省したりしないよね、左派政党に限らず。逆ならまだしも。
もっとも、そういう党を支持するだけでもけしからんという見方もあろう。俺は左派政党のそういうところは支持していないので関係ないともいってしまっても良いのかもしれないが、元増田で書いたRT論はそのような属人(党)的で判断する考え方に近いともいえるし。
ただそれならそれで、林氏が普段、どの政党を支持して票を投じているか、知りたいところだ。RTする相手はアカウントの数ほどあるが、政党はそんなにたくさんない。今の日本で非左派政党とみなされる政党というのは、ニセ科学やデマゴーグにまみれた主張や政策を推し進めているか、そういう政党の衛星政党としてしか機能していないか、その両方か、のいずれかしか心当たりがないのだが。あやまって、やくめでしょ。って言ってやりたくならないのだろうか。そうじゃない、あくまで無党派なんだ、というのかもしれないが、その割には随分左側のニセ科学だけが許せなさそうな様子のツイートだ。
特に、いま一番議席を持っている右派政党、代表から末端の組織までニセ科学やデマゴーグがあちこちに観測されるんですが…… その人たちやその支持者にこういう総括や反省や謝罪を求めたことがこの人にはどれほどあるのでしょうか。右派メディアで有名な産経新聞や「WILL」「正論」、それにあまたあるアフィブログやネットメディアもしかり。いや、総括や反省や謝罪を求めなくてもいいっちゃいいんだけど、そういう人にこんなこと言われたところで知るかとしかいいようがない。
あるいは(これはあまり想像したくないことなのだが)、放射能デマがらみ、あとたまに反医療デマがらみ?以外なら、デマでもニセ科学でも大歓迎!ということなのだろうか。
元増田でも触れたけど、ニセ科学の文脈であれそれ以外であれ、ニセ科学批判者には右派を(あるいは「も」)批判する人は(「ニセ科学批判批判クラスタ」が時に大げさに言うよりは)意外にいる。というか俺もリアルアカウントでニセ科学批判をするときはそういう人として見られていたはずだ。なのだが、「左派のことばかり批判するな、と言われても」というからには、この人は自分の属する「ニセ科学批判集団」が右派の批判をロクにしていないという自覚があるのだろうと思われるわけで、そのへんどう思っているのかというのも気にかかる。あいつらは頭のおかしいことをやっている、とでも思ってこちらの陣営を見ていたのかな。そんなニセ科学批判者、「放射脳」並みに御免である。
まあなんていうか…… この論法好きじゃないのだが、伊藤氏にしろ林氏にしろ、自分がゴリゴリの党派性を韜晦したつもりで普段「イデオロギーフリーなニセ科学批判」をしてるからこそのこういう反発じゃないのかな、とか言ってみたくなるんですがどうなんですか。アリバイ的に左派的な口ぶりをするだけなら、ダダでも出来るんだよね。
最近、ニセ科批判とネトウヨの結びつき、みたいなのについてツイッターでよく見るので、思うところを書いてみることにする。
先に、俺の立場について書いておくと、もともとニセ科学批判クラスタにいる(た)人間である。以下、いろいろと書き連ねたような事情もあって、最近はニセ科学批判クラスタを批判的に言及することが多くなってきたが、やっぱり世界は科学だろう、という思いは変らない。
余談だが、ニセ科学批判クラスタを批判する人、というのがニセ科学勢力とか、トンデモ勢力というのは意外に成り立たない。そういう連中を自分が積極的にフォローしてないというのもあるかもしれないが、その手合いはまず自分たちに批判的な人がいることについて詳しく言及すること自体が不都合なので、あんまり触れないのではないかとも思う。クラスタの言説に詳しく触れながら批判する人というのは、何だかんだいって「ニセ科学は嫌い」寄りの人間が多いようだ。
あらかじめ書いておくと、自分の見解は、「ニセ科学批判とネトウヨは本来、つながらない」である。しかし、そう言い出す人がけっこういる、というのも理解できないではない。まして、「またネトウヨ連呼厨ガァー!」などと言い出す気にはなれない。なので、どうしてそう思われるようになってしまったのか、といういくつかの自分の思っている理由について書いてみようと思う。
なお、あくまで自分の観測範囲ベースなので、それ以上のエビデンスや統計的な根拠はない。ほしかったら基盤Bでも持って出直してきたら調べてやらんでもない。
ニセ科学批判とウヨの親和性、という問題が語られるようになったのは、やっぱり3.11以後が決定的である。いちおう、3.11以降について、特に放射能デマをめぐる後始末についていうなら、ニセ科学批判派がおおむね正しかった(細かいとこで間違いや軽口があったのは否定しない)というのは間違いないので、これはどんどん認めていくべきである。そして、その上で、致命的なレッテルを引き寄せる結果となったことについてもそろそろ考えるべきだと思う。
3.11直後にデマ批判をする人が、今となってはかなり信じがたい形で「ウヨ」と手を結んでいたのは確かだ。これはひとえに、デマの流布をほっておくことが人権問題になりかねない状況だったことによる。一例としては、ゴリゴリの左派な左巻健男が石井孝明をRTしていたことがあるくらいである。それは、個人的にそこはRTしなくてよかったんじゃないかと思うツイートだったが(別にどうしてもしなきゃいけないRTでもなかった)、しかし当時はそれでも連帯できるところは連帯しないといけない事情だったのも確か。とはいえ、そのRTを見てニセ科学批判派の中にいる自分でも嫌悪感を覚えたので、その外にいて、かつ左派寄りの人がどうとらえたかは想像に難くない。
元々、デマ批判を発信していた人には政治的には左派が多く、その中には、事態が落ち着いた今は左派クラスタのなかへと帰っていった人も少なくない。今となっては、「福島差別」について関心が高いアカウントというのの少なからず割合がただのウヨアカウントであり、人権問題に危機感を抱いて近づいてきたというよりは単に「ダシにしにきた」ことも明らかになりつつあるのだから、この時期のことについては、ちゃんと後処理をしておくべきではないかと思う。一方で、安易にウヨレッテルを張った側も、そのレッテルについて再検討する必要がある。
ニセ科学批判というのは多層的に発信される。最初の発信者、つまり、積極的に資料をあたったり文献をあたって、情報を発信していた人はもちろんいるにしろ、その人たちの話がどう広まっていったかといえば、メディアが広めた場合ももちろんあろうが、ツイッターなどネットではそれを再発信する人によって広まったわけだ。この人たちの中にも濃度がいろいろあって、「なんとなくRTした人」「そういう話を見たら積極的にRTする人」「RTして、自分でもそれをベースに意見をいったりする人」「それがさらにバズって積極的にニセ科学情報を集める人」とまあ、いろいろだ。
こうなると、ニセ科学批判クラスタといっても、もともとの「ニセ科学批判派」の声は流通する情報の割合的にはごくわずかということになる。
俺がやばいと思う層は、じつはこの水増しされた部分である。デマ批判が機能したのはこの部分あってこそなので、水増しという言い方は語弊があるのかもしれないが、しかし、ネトウヨとニセ科学批判がむすびつけて論じられることに責任があるのはこの層ではないかとも思う。
この層、とひとくちにいっても、いくつかある。
まあこれは文字通りの「ウヨ」層だ。前述の石井孝明とか、池田信夫なんてのもそうだろう。この亜種(1A)としては、ウヨというよりは「左派が憎い」というイデオロギーをかぶせていくケースもある。佐々木俊尚とか、伊藤剛あたりがそうだろうか。そうそう、伊藤剛と昔仲良し今は犬猿の仲の唐沢俊一も忘れてはいけない。君たちお仲間だよおめでとう。あるいは、こうやって膨らんだ層を客層にあてこんだ「御用文化人」というケースも亜種(1B)の一つだろう。いちえふの作者なんてのはそうだと思う。最初はけっこうまじめな信念を持って作業員のルポを始めたんじゃないかなー、とは思うのだが。
言っちゃあ何だが、科学は正義である。しかも、ある程度実証が積み重なれば、相対化しようがない正義だ。本当は正義とか正しさなんて一ミリも興味はないのかもしれないが、とにかく人を叩く根拠がほしいならず者にとって、こんな都合のいいものはない。しかも、人権問題としての問題意識までくっついている。人権なんて一ミリも興味がないのかもしれないが、以下同文。
正義の暴走がデンデンという人はネットによく転がっているが、あまりこの点には言及しない、どころかこの正義だけは振りかざすのが大好きだったりもする。彼らの心情は、よくわからない。
一昔前のメディアに流れる文章には、理系に対する嘲笑や偏見がいりまじったものというのが結構あった。それを見た理系人が、お前ら哲学で作った飛行機に乗れるのかよ、というような反発を持つのは想像に難くない。俺も昔はそうだったし。それは仕方ないところもあると思う。
ところが、ネットは理系の研究者がどっぷりつかっていたり、エンジニアがどっぷりつかっていたりする場なので、そういう人が意外にマスをもてる世界である。それはいいことでもあるんだけど、結果、「理系カルト」のようなものが出来てしまうという面もある。その結果、「文系」をバカにするようなアカウントが出来上がる。昔、科学ネタやアニメ談義が話が合うという理由で高専生や理系大学生をけっこうフォローしていたのだが、どうもこういう方向に流れていく人が多く、非難がましいツイートが増えた結果リムられたりリムったりブロックされたりが増えた残念な記憶もある。
これらの人が、放射能デマ批判、さらにはより広いニセ科学批判に群がったわけだ。どれもこれもあまり近づきたくないタイプである。
しかし、本来の意味でのウヨはこの中では(1)か、せいぜい(1A)までに限られる。それが全体のうちどれくらいの割合を占めるかというと、あんまり高くないと思われる。おそらく、悪印象のかなりの部分は(2)(3)に起因しているのではないか。(2)と(3)は、本来的にはウヨ思想とは関係がない。しかし(2)はそもそもモラルを欠いている層で、ネットイナゴといわれる集団に近い。そういう人が、ネトウヨ思想に親和性を持つのはまあ時間の問題である。(3)は正直因果関係を断定しづらいのだが、確かに自分の観測範囲では重なる人が多い。理系でもウヨ色の薄い人は理系絶対主義みたいなところには陥らない、みたいな雑な印象がある。
そうすると、本来は関係のない「ウヨ」と「ニセ科学批判」がセットで観測されるということが大量発生する。しかも、(2)(3)は人間性として最悪の、できればブロックしておきたいタイプだ。どこをどういじっても、ニセ科学批判がいい印象を持たれる展開がない。しかも、こういうアカウントに限って、やけにRTされる数が多く、ダメな方向にネットへ広がっていく。
(この部分追記)「冷笑系」と呼ばれるような集団がともかなり重なっている、というのもいくつかの反応で見かけた。これはもっともだと思う。特に(1A)や(3)あたり。
後出しじゃんけん承知で言うと、推敲前は言及していたのだけど、定義にやかましい人の怒りが二乗になりそうなのと、話がとりとめもなくなったのでなんとなく端折ってしまった。けれど、ニセ科学批判との関係について考える場合には、「いわゆるネトウヨ」より重要なカテゴリーかもしれない。
ネトウヨの定義というのは曖昧である。むしろ、厳密に定義したところで境界線附近の人間が大手をふって歩き出すだけなので、ある程度曖昧でいいと思う。ライトノベルの定義みたいなものだ。物語シリーズはラノベかとか三毛猫ホームズはラノベかと言ってる分には意味もあろうが、そこにかこつけて「聖書はラノベでは」とか言い出す奴はつまみ出せばよい。
しかし、世の中には問題児がいる。自分たちはつまらない理由でネトウヨ扱いされた、だからネトウヨを名乗ってトンチキなことを言い募ってやる!と言わんばかりの連中である。いまどき子供でももう少ししつけられていると思うのだが、そんないい大人がネットにはたくさんいる。被害者意識をこじらせているとしかいいようがない。本人はネトウヨ認定したほうが悪いと思い込んでいるのかもしれないが、申し訳ないが狂人の真似だと言い張って東大路通を走る人間は京大生でなければ狂人である。京大生でも狂人かもしれない。
菊池誠氏があんなふうになったのは、一つのきっかけはここにあると思う。しかし、年齢的にも知性的にも社会的立場的にも、責任能力を逃れられる人ではなかろう。自分の不始末は自分でつけていただきたい。きっかけのもう一つの原因(と俺が思ってること)は、次の項で述べる。
ジャンルは違うけれど、所謂「キモくて金のないおっさん」を名乗りたがるネット住民、についても似たようなことが言える。
ツイッターにはRTとかふぁぼという機能がある。ふぁぼはまあいいとして(最近はこれもTLに流れてくるようになったが)、RTは誰が何をRTはしたかが、ある程度分かる。
RTの基準は人によっていろいろだろうが、まあ第ゼロ近似としては「それに共感するんですね」だろう。直後のツイートで批判的に言及でもしておかないと、そう思われないほうがおかしい、と思う。
ここでめんどくさいのは、「それに共感するんですね」の「それ」はツイートの文章そのものであるかツイートしてる本人であるか、である。直感的には、前者だろう。後者は雑な見方に映る。ただ、発言を属人的に見ない、というのはけっこうなことに見えるが、発言主と合わせて文意を判断しない、ただの無責任な態度となることもある。見てる側が、いつも「こいつはどうしようもない奴だな」と認識していれば、それをRTする方も同類とみなされることもある。そんなのおかしい、という人もいようが、そういうものだ。
さてここで上のニセ科学批判情報の発信の話になる。発信者する側も、自分が発信した情報を受けて賛同し、意見を述べたり非難したりするツイートを自分のRTという形で放流するということをよくやる。別に発信者じゃなくてもやると思うから、ニセ科学批判に集まった人も、さらにそれをやるわけだ。
ところが、その放流元が「札付き」であった場合、それを「ニセ科学批判に賛同してくれた」という文脈だけで読んでくれる人は、あんまりいない。ごくふつうのアカウントなら、はいはい賛同者だね、ということになる。ところがそうじゃない場合は問題だ。そりゃあ、ツイート単体ではいいことを言ってるように見えたりするかもしれない。でもそれを、みんな属人的に見ないでくれるだろうな、というのはおめでたい。
でもまあ、そういうことが一度や二度あった、というだけなら、まあどうということもないかもしれない。しかし、これを長く繰り返し続けていくとどうなるか。
「お前はそういうやつなのか」で離れる人というのは離れられる側にとっても、分かりやすいし素直だ。だが、「お前のRTうぜえわ」で離れる人も出てくる。離れられた側は、もしかしたらなんだか事故にあったつもりになるかもしれない。自分はただ「賛同できるツイートを流しただけなのに」、と。
それもそうかもしれない。でもそれが繰り返されるうちに、クラスタ自体が、濃縮されてだんだん汚染されていく。そして、やり取りをする相手というのは、本人も気づかないうちに影響を与えていく。フィードバックされちゃうのだ。
2012年か2013年くらいまでは、きくまこ先生もそこまで変ではなかったが、その後加速するようにヘンな発言が連発されていくのは、こんな感じだったのではないかと考えている。
ニセ科学批判そのものを凶器として振り回す層というのが出来た結果、その印象がネットイナゴ、あるいはネトウヨと非常に近いものになってしまう。あとは災害が広がるのみだ。子宮がんワクチン、水素水、EM菌。本来ならネトウヨと関連付けられる要素なんてないものも、そのスジのアカウントが言及してはバズる、という光景は、「そこ」がイニシアチブを握っている、と認識されることになる。そうなれば、ウヨに批判的な人は近寄りがたくなる。もちろん、もともと発信元として活動していたような人は、自分が左派であろうと発信を続けるだろう。でもそこまで中心にいない人は、距離を置くか、あるいはニセ科学批判派の語り口に疑問を持つようになる。
このような先鋭化の過程で、本来なら近しいところにいるはずの、歴史修正主義批判や、反知性主義批判(本来の意味も、日本で独自に派生した意味もどっちも含まれる)との溝が深まっていくことになる。めんどくさいことに、これらの集団は原発や巨大科学のようなものには批判的で、甚だしい場合は放射能デマに一定の親和性がある人もいたりするので、頭が痛い。
よく、ニセ科学批判クラスタはこれらのニセ社会科学・ニセ人文科学の問題には無関心だと言われる。発信する側については実際には必ずしもそうではないアカウントも多いのだが、群がっている層については確かに無関心…… どころか敵意を持っている人が少なくない。理系人が多いので馴染みが薄いし慎重な態度でいる…… というのはなくはないのだろうが、どうもそれだけで済まないところがある。歴史問題や法律あたりに目をつけて観察していると、「馴染みが薄いからかかわらない」ではなく嬉々としてトンデモさんを引っ張ってきて何かつぶやいている、という光景を目にして頭を抱えることになる。
「Aを批判しているのにBを批判しないのはなぜか」はほっといてくれというのは分からないでもない。ただ、それは本当にたまたまのこともあれば、党派性を後ろに秘めてみて見ぬふりをする場合もあるので、けっこう一概には言いにくい論点である。状況証拠次第によっては、判断材料として持ちたくなる疑問であるのは確かだ。また、別にこういう「疑問」はニセ科学批判クラスタだけが受けるものではなく、左派がいちゃもんのように昔から言い立てられてきたことでもあるので、やはり状況しだいでこう問いたくなるのも当然だろう。
こんなことが続いていくうちに、ニセ科学批判クラスタは「身内」に甘い、というような見方もされてくる。そんなことないよ、と言いたいところだが、最近たまにはてブあたりに上がってくるニセ科学批判批判へのブクマコメントなど見ると、妙にニセ科学批判サイドへの批判を矮小化しようとする「ニセ科学批判者」のコメントが見受けられたりして「ああこの人もかあ」という気分になってくる。
先日ツイッターで問題になっていたのは、これのようだ。mika_berry氏というツイッタラーがリフレとニセ科学批判とネトウヨのつながりについて言い始めてそれにニセ科学批判派やネトウヨの定義が気になるタイプが反発して少し炎上のようになったらしい。
経済には明るくないので、具体的なところには踏み込まない。が、ニセ科学批判クラスタ、あるいはもしかしたら理系クラスタまで枠を広げてもいいのかもしれないが、けっこうな割合がいわゆる「リフレ」に近づいたのは確かにそうだなと思う。
ただしここも距離の違いはけっこうあって、単に「反緊縮」に近づいた人もいれば、はっきり「リフレ」に近づいた人もいる。俺も反緊縮については多分同意すべきなんだろうな、と思う。
なぜこういう動きが起きたかは分からない。単に、時代的に緊縮はもういい、という風潮だったのかもしれない。反緊縮は数字を勘定してイメージしやすい「ロジカル」なものだからという、もっともらしい理由がつけられるのかもしれない。それはわからないのだが、しかしこの「リフレに近づいた側」の少なからぬ人が、その後決定的にウヨに近づいていくことになる。
これも理由は分からない。反緊縮には賛同する、という程度の人は、あまりそっちへ動かなかったからだ。アベノミクスなるものがあったからといって、他の論点がいっぱいあるのだから、ウヨに近づく理由にはならないのである。むしろ経済で結果を継続して出せるように安定させるためにこそ、おかしな動きは徹底的に批判すべき、と思うのだが、なぜかそうならない人というのがいた。ニセ科学批判クラスタの外にもそういう人がやはり「なぜか」いて、新たな集団を作るようになる。リフレで経済的に豊かになることを期待するクラスタ、というよりは「政権を応援しマスコミを憎み野党のアラ探しをする」クラスタとなる。経済には明るくないのでよくわからないのだが、アベノミクスのような政策はほっとくだけだと企業が潤うだけだと聞く。こういう人が「再分配を求めるべき」「企業は給料をあげよ」というような動きをしたという話を寡聞にして聞かない。本当に経済が大事だと思っていたのか、いまいちよくわからないところがある。
昔ながらのニセ科学批判は、党派性から距離を置いているつもりの人が多い。これは「左派が多い」という、上で書いた話とも別に矛盾しない。もちろん、ノンポリもいる。俺だって党派がかるのは大嫌いだ。
それはいいんだけど、そうありたいと思うこととか、自分たちはそうだと思い込むことは、あんまり何かを担保してくれることではない。
ここ10年くらいのインターネットの歴史は、ノンポリが政治的な層、特にウヨに振り回される歴史だった。
1970年ごろの学生運動家だって、多くは本質的にはノンポリだったという話はよく聞く。でも、左翼運動の迷走についての責任を問われないかといえば、そんなことはないだろう。
俺が思うのは要するにそういうことだ。ニセ科学批判=ネトウヨというくくりは、なるほど雑だ。だけど、それを一笑に付せる無邪気さは、ちょっと俺には持てない。
われているのだろうか?(タイトル入りきらなかった)
http://toshinoukyouko.hatenablog.com/entry/2013/02/05/013220
それにしても、と僕は思う。
日本には、アニメに関する批評が存在しない。批評家が存在しないだけでなく、批評の場そのものが存在しない。
(「庵野秀明はいかにして八十年代日本アニメを終わらせたか」東浩紀)
東浩紀が上のように記したのは1996年で、それから17年が経った今日におけるアニメ批評のややうんざりするくらいの百家争鳴、玉石混交を伴う興隆ぶりは周知の通りだが、然るに未だに日本には、アニメ作画に関する批評が存在しない、という一抹の事実には素朴に驚かされる。とはいうものの、作画について語るという文化自体が、せいぜいここ十年くらいの間に醸成されてきた、というこれまた意外に思われる史実と突き合わせてみれば、それほど驚くべきことでもないのかも知れない。
中略
ゼロ年代のアニメを含むサブカルチャー批評史と作画史は並行して進みつつも交わることはついになかった。大塚英志や斎藤環や東浩紀やその取り巻きはアニメ作画を完全に無視したし、作画オタクも東浩紀界隈を完全に、気持ちいいくらいに無視した。例えば伊藤剛は2005年に「テヅカ・イズ・デッド」を上梓して、漫画批評の側から手塚治虫神話の精算を図った。ところが一方で、アニメ作画の側ではほとんど同時期にウェブ系アニメーターを介して一種の手塚治虫への回帰が見られていた。
本当になんでだろうね。
作画系に強い氷川竜介ですら、作画マニア的な"紹介"に留めて批評の域には持って行こうとしない節がある。「20年目のザンボット3」でも、金田伊功だけで1章割いてかなり詳細にデータやら作画の個性やら文章を連ねても結局は「金田作画、たまんねえ」で終わる内容だったりする。それはそれで悪いことでは決して無いけど。
小黒祐一郎は?小黒は編集者であって評論家ではない、しかしアニメ制作者にその辺を積極的に語らせようとはしている。
旧アニメスタイル第1号のロングインタビュー「庵野秀明のアニメスタイル」はその結集だ。
アニメと作画の密集した関係性をあそこまで徹底的に語った記事は未だかつて存在しなかったしこれからも無いと思う。間違いなく論の域に達していた。
語ったのは庵野秀明本人だが、ここまで語らせたのは小黒祐一郎の手腕によるものだろう。これが竹熊健太郎とかその辺だったら絶対に聞き出せなかったと言い切ってもいい。
それでなくとも旧アニメスタイル1号、2号はアニメと作画の関係性をがっつり語ってみようぜ!!というエネルギーに満ちあふれていた本だった(アプローチには異論反論ある人もいるだろうけど)。
これは当時作画オタが絶滅しかかってた事を危惧して・・・というよりも、「昔みたいな作画おたくもいなくなっちゃったし、そろそろここらで語ってみるか!」みたいなノリだった、という気がするんだけど・・・。
今は当時より作画オタ(というかニワカ含めて俺も作画をかじってみたいよ的な奴)が増えた状況なので、リニューアル後のアニメスタイルは作画オタ啓蒙寄りな本になっちゃったと思うな。
なんつーか。作画オタなんて下らねえ→したがって作画を論じる事も下らねえ→作画語りは作画オタだけでやってろ、その辺で「たまんね」ってホザいてろカス。
という空気は形成されつつあると思う。
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黒執事事件!! 「飢えて死にます」――「黒執事」作者、ファンからの「海外動画サイトで見た」メールに苦言(IT media News)に対するツイートまとめ
「違法動画サイトで見てもいい、でもせめて作者に伝えないようにこっそり見ろ」「図書館で読んでいいが、金持ちの作者の知人が直接作者に伝えるのはノーマナーだろ」と大変おとなしいところにまとまりつつあるんだけどさあ。
作家の「重版童貞なのに図書館では予約待ちorz」「固定ファンだけでも買ってくれれば次回作書けるのに」みたいな愚痴を聞くんだよね。文芸の領域では。
純文学や評論、資料本なら、各地の図書館が1冊ずつ買ってくれる数や図書館で読み継がれる意義の方を高く評価できるということも、あるいはあるかもしれん。
だが文芸、エンタメと言われる領域では、図書館を聖域扱いせず攻撃する論があっていいんじゃないか。
エンタメをただで提供するのが図書館の役割と心得てるなら、これが作り手に与える打撃は違法動画サイトと何ら変わらないんだよ。
あるいは「図書館よ読ませるな」と。
新刊を買って大量に貸し出す図書館が批判されたのも昔の話で、今や当然だと思われているし、ついには予算がないと言って新刊の書名挙げて都民に寄贈を呼びかけてる図書館まで出てきた。これはもう完全な泥棒行為だし、作り手を殺しにかかっていると言っていいよね?
この時期になると大学生向けに読むべき100冊みたいなリストが出回る。
あんなリストを真に受ける人も少ないだろうが……はっきり言って悲しくなるくらいお粗末だ。
ずらっと並べられた古典名著。あまりに埃の被ったラインナップにがっかりする。
こういった学問には「原書病」とでも言うべき、くだらない風習が根強く残っている。
原典や本文を極度に重視するのは不健全だ。それ自体は面白いとしても、その後発展と整理を経て洗練されている。
歴史的興味以外であえて出発点に戻る価値はすごく小さい。そんなところに本当の「教養」は存在しない。
難解で時代遅れな文章と格闘したって、趣味以上のものにはならないし、考える力は湧いてこない。絶対誤読するし。
そこで本当に頭を強くしたい人が読むべき書籍リストというものを作った。
これは単なる学問という空気に浸ってみたい人が読むものじゃなくて、日常に根ざした本物の力を分けてくれるものだ。
この100冊さえ読めば考える素材に困らないだけでなく、コミュニケーションの強者にもなれる。
飲み会で古臭い古典の話をしたって煙たがれるだけだが、この100冊をネタにすればそんなことにはならないし、
黙考はずいぶんと深くなるし、ブログのネタに応用すれば必ず一目置かれる。
選んだのは現代的で網羅的、そして極めて平易なもの。どの分野にも精通できるように色んなジャンルのものを配置した。
この100冊を大学生活のうちに読み切れば、必ずや一生の財産になるだろう。
ここに挙げられた本が、現代最新型にアップデートされた真の「教養」だ!
『逃走論』 浅田彰
『アメリカン・コミックス大全』 小野耕世
『よいこの君主論』 架神恭介
『おまえが若者を語るな!』 後藤和智
『シミュレーショニズム』 椹木野衣
『箆棒な人々』 竹熊健太郎
『新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書』 西寺郷太
『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』 ばるぼら
BSマンガ夜話『よつばと!』の回にゲスト出演するはずでした。 - 伊藤剛のトカトントニズムを読んで、思った事をちらほらと
ところが、9月3日になり、NHKと制作会社・共同テレビジョンの担当者から、伊藤の出演は取りやめになった旨、説明と「謝罪」がありました。「岡田斗司夫氏より、『伊藤さんはちょっと違うんじゃないか』と言われた」ということでした。
これで憤慨するのはよく分かる、非常によく分かる。
ただ、その次がいけない。
1. 今回の番組出演は、岡田さんと落ち着いて話ができるよい機会だと思っていること。
2. 『国際おたく大学』の一件に関しては、岡田さんも唐沢の被害者であると認識していること
3. なんらかの形で岡田さんから謝罪があれば、一連のことを水に流してもよいこと
……えーと、これを受けたところで、岡田さんに何のメリットもないでしょう。
岡田さんが伊藤さんと落ち着いて話がしたいのであれば、そもそも出演を断らないよ。
それに、伊藤氏が「岡田さんは唐沢さんの被害者である」と認識していても何の意味もないよ
だいたいあの二人友人なんでしょ。友人を加害者扱いされて、怒らないわけがないよ。
いや、立場が逆だからといって何なんだって。
このエントリーを発表したことによって、岡田氏の「ハードル」は上がったかもしれない。でもそんなの、越えればいいだけの話です。越えていただきたいです。真の意味で「和解」を考えるのならば、その程度の試練はあってもいいんじゃないでしょうか。
ここまで読んでも、岡田さんが伊藤さんと和解するメリットがよく分からない。和解のメリットを提示出来てないのにかかわらず「その程度の試練はあってもいいんじゃないでしょうか」と主張出来る理由がよく分からない。
http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20080429/1209453336
http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20080501/1209609961
これを読んで思ったこと。鶴岡法斎の名前、全然見ないなあ。
当時は単著を出して大学の講師やってと勢いがあったのに、あの勢いは何で失速したんだろう?
しかし、当時馬鹿にされてた伊藤剛や東浩紀がフランスへ講演に行ったりしてて
当時支持されていた鶴岡がいつの間にかいなくなって、唐沢はパクリで自滅するし、
岡田はオタク・イズ・デッドでダイエットの人になっちゃった。この逆転現象は面白い。
思えば当時オタク界隈で人気があったライターって今全然みないな。山本弘も存在感ない(っていうか、と学会自体が・・・)。
阿部広樹も消えちゃったし、大塚ギチとかがっぷ何とかとか検索しても今どんな仕事してるのか出てこない。
おったきぃ佐々木なんてのもいたなぁ。不思議とみんないなくなった。
単純な世代交代か? じゃあ彼らの後釜って誰?って考えてみても名前が出てこない。
伊藤剛はただ当時消費されなかったから、ってだけだろうし・・・。
じゃあ、似たようなサブカル界隈はどうだろう?みうらじゅんは別格としても今も健在ってのはけっこういるような気がする。
どう思いますか?