はてなキーワード: 人形とは
こういうネタには毎度お返しに嫁さんのブランド物を端から捨ててやれみたいな意見を見かける。
しかしブランド物はきっちりした格好をしなければならない場で必要な実用品だ、大量にブランド物を持ってるような嫁の旦那も大量に持っていると思われるし別に女独特の持ち物でもない。
趣味の品への復讐なら、ハンクラ趣味の嫁さんなら道具などだし、ドール趣味の嫁さんなら人形でオタクならグッズ、趣味の物を捨てられるショックと高価で必要な実用品を捨てられるショックは全然別なんじゃないか。
番組に出ていた妻子は地味な身なりだったのに何で毎回リベンジで出てくるのはブランド物なんだろ、皆嫁や母親には趣味の品など無いと思ってるんだろうか。
俺妹という失敗作をベースに問題点を改善しようとしたがキャラの魅力は減退しストーリーはご都合主義、突っ込み所万歳、嘘大袈裟紛らわしい展開ばかりで見るに堪えない駄作。
最悪なのが妹の設定。義理の妹を出すために主人公の母親を殺し父親に再婚させ連れ子の兄弟にする。その後邪魔な両親は殺して退場させるという鬼畜の所業。さらに引きこもりにして外部との接触を断ち外野からとやかく言われないようにするという徹底ぶり。前作が結末で叩かれたのがとても応えたらしい。
紗霧アニメーターとわざわざエンドクレジットに載せるほど紗霧の可愛さに重点を置いているのは分かる。しかしそれって結局、今回も他のキャラは捨て駒ってことだろ。
メイン回のあったエルフやムラマサはともかく、最終回になって久しぶりに出てきた委員長や書店の子がどんなキャラクターか把握出来た人はどれだけいるかな?
せっかく物作りを題材にしているのにの作者達の創作物がどういう物かさっぱり伝わってこないのも痛い。それで売れた売れないと言われても説得力が無く、ラノベ天下一武闘会もなぜ勝てたかさっぱり分からない。
ラノベ作家と絵描きが主人公ということで1%でも業界物要素を期待しているなら無駄なのでバクマンでも読んだ方が100倍マシ。
この作者のストーリーに期待できないなんていうのは前作の時点でわかりきっていたが、可愛い可愛い紗霧ちゃんと愉快な捨て駒サブヒロインを愛でられればそれでOKという萌え豚なら面白いと思えるかもしれない。
パロディオマージュを通り越してパクリにしか思えないキャラクターの設定と展開に萎えた。レクリエイターズじゃなくてパクリエイターズに改名しろ。
とにかく頭も性格も悪いキャラが多く見ていて冷める。デスゲーム物ゆえにそういうキャラが中には居るっていうのは分かるが、それにしても創作キャラクターも政府の人間もアホばっかりというのは斬新。根拠0の世界崩壊仮説に専門家呼ぼうとか笑っちゃうわ。
そして視聴者が見たいのは創造キャラクター同士の戦いで、オフパコ超会議で出会った女がネットで叩かれて自殺したとか、それで悩んでましたとかすげーーーーどうでもいい。出番の多い主人公がウザいって本当無理。そんなのに二話も使うとかアホ。
絵だけは綺麗で金かかってんだなとしか思わなかった。ソシャゲ原作のアニメって時点で地雷でしかないのに一応全話見た自分を褒めたい。
今更二期感が強く旬は過ぎた。巨人中学校、総集編映画、くそつまらんOADやカバ何とかを作ってないでさっさとこっちを出せばよかったのに。
ストーリーは原作で巨人の正体を知っているため驚きもなく流し見で終わってしまった。さらにこの後しばらく巨人が出ず人間同士の足の引っ張り合いの話になるとさらにつまらなくなるのでシーンズ3も期待出来ない。
よくある絵だけは可愛いアニメだったがそんな物は世に溢れかえっており食傷気味。せっかくの演劇という題材も活かせたとは言えず1ヶ月後には忘れられてる。こなたが本を食いだした時がピーク。インクと化学薬品の塊を食ってよく腹を壊さないな。
くまみこの再来。9話の超展開からジェットコースターのように落ちていった。人類対異方の交渉が崩れた時点で終わっている。最後には半分戻って来たけど。
ザシュニナから魅力が無くなりただのヤンホモ小悪党になっていくのが虚しくも笑えた。人間性を得た結果がホモ化とはたまげたなぁ…。
ただただ胸くそ悪い話。巨人に食われたり魔法少女が斬殺されるアニメより残酷だった。
石鹸枠へのアンチテーゼ的作品なのかと期待したが結局いつもの石鹸枠を抜け出せなかった凡作。かっこいい先生がかっこいい所を見せて先生すげーってのならぬーべーの方がよっぽど面白い。
15年前の話を5年前レベルの3DCGで今更やる必要性が分からない。特に一期から3DCGが全く進歩していないのに驚いた。同時期にやっている作品に比べて大きく劣っていることに気がついていないのか?
狂戦士の甲冑も全く迫力が無くてがっかりした。これなら過去のアニメやゲーム作品の方がよっぽど良かった。
3Dでは再現できない原作の雰囲気を出したい時だけ絵になるがその絵でずっとやれ。ちなみに原作だとようやく妖精島にたどり着いてキャスカが戻りそう。
文句ばかりになってしまったが、ここで触れていないアニメはまだ見る価値のある物だった(もしくは特に語る所も無いか)
中でもsin 七つの大罪、覆面系ノイズ、僧侶と交わる色欲の夜に…は展開が全く読めず見ていると頭がぐっちゃぐちゃになり気持ちよかったのでオススメです。
今回ここで、「権利」概念が放ってしまう暴力性の起源について一人考えてみる
1週間もすれば3億人近いトンチンカンたちがまた祝うことになる、近代社会の幕開け=アメリカ独立宣言に遡ってみよう。250年くらい前のことだ。後にアメリカ人と呼ばれる極西の田舎者が黒人奴隷を足置きにしながらヨーロッパの政治哲学を読みふけっていた。そして、英国議会に「植民地のくせに生意気だぞ」と言われてしまったあの時、彼らのイギリスコンプは爆発し独立を宣言してしまう。この独立戦争とその後の歴史で彼らは「国家」を生み出しその中で「所有権」というものの不可侵性を「人権」として僭称したのだった。それまでもこの考え方は常にヤバい匂いを発してきたが「独立宣言」こそが全人類の脳みそに侵入し始めるウイルスになった。彼らはこう言う。「君たち、実はな、人間は生まれながらにして権利というものを持っていたのだよ」「君たち、これは自明の真理だよ」。誠に蒙が開かれるようである。実際に驚くほどたくさんの人が啓蒙されることになる。
ところで、ここで彼らが行なった欺瞞としてまずよく言われるのは足置きにしている「黒人奴隷」についてである。つまり黒人奴隷が人間の方にではなく所有物propertyの方に組み込まれてしまったことである。ところが、今回に限ってはそこは重要ではないと私は言いたいのだ。というよりも黒人奴隷の境遇があまりに深刻な問題であるから真の問題が後景化し見えなくなってしまっている。この深刻な問題をみたとき、我々、権利至上主義者の常識的な感覚からいって、100年後、200年後に黒人へ与えられたように、人間の権利、あるいは公民権で解決すべき(解決した)問題だと思わされてしまう。
でもこれは糞の上に城を立てただけなのだ。私たちの暮らす城の中はクソの匂いが充満している。「権利」などという考え方が、奴隷制的な、暴力的支配への渇望に支えられている。私たちはクソがあるなと思ったら「あっクソだ」と言わねばならない。「あれ?この部屋なんか、うんこの匂いしない?」は常に言いづらいセリフではあるが。
つまりどういうことか。権利を「持っている」、という発想自体にその欺瞞が現れている、と言いたいのだ。一般におそらくは「所有権を持つ」という表現すらあまり違和感をもたれないのである。独立宣言の下敷きになったヴァージニアで行なわれた会議の草案にもその矛盾を観れるかもしれない
That all men are by nature equally free and independent and have certain inherent rights, of which, when they enter into a state of society, they cannot, by any compact, deprive or divest their posterity; namely, the enjoyment of life and liberty, with the means of acquiring and possessing property, and pursuing and obtaining happiness and safety.
この2つ目の下線部は独立宣言では省かれるのだが「所有権を持つ」という循環した考え方を恐れたから、ではなく国家による税金の徴収を困難にするという理由であった。
何が言いたいかといえば、奴隷、武器、砂糖の三角貿易が成立して以降のヨーロッパ社会では、「権利」が「持つ」ものとして想定されねばならなかったのである。それは単純には、ある種の人々から「奪う」こと(あるいは「捨てる」こと)のできるものでなくてはならなかったからだ。つまり「所有権」が守るベーシックな価値は「権利」概念誕生の後に、「どんな種類の権利を作ろうかなー」と考えられて作られたものではなく同時に発生しているのである。そしてそのことは隠れたのだ。独立宣言に「自明の真実ではあるのだが我らは不可侵の権利を持っているのだと信じる」としれっと書き込むことで。じゃあ所有の意味を含む「権利」概念が発生した時に生まれていたものは何か。ここが今回の主張であるが、「支配欲求自体への承認」なのである。社会の一員として我々は「ある種の激烈な支配の形」を基盤にすることで社会を成立させている。それは「所有権」だけでなく「権利」全般の話である。
propertyに対しては当然そうだろう。犬猫などは黒人同様に解放が進みつつあるが根本的に我々は自分の所有する物をどれだけ傷つけても良いのである。対象物に対して欲求したことは特別に禁止されない限り全てぶつけることを許されている。私は自分の持っている熊の人形の腹を切り裂いてもいいしそこにペニスを突っ込んでも良い。それが所有権の意味するところである。ここで、人形はなんかかわいそうだし除外しようかというのもあまり意味がない。僕が言いたいのは、我々は所有権を「propertyに対して私が欲求することならなんでもしていい力」として想像していて、思考のスタート地点にそれをおいていることだ。この認識はもう一つ重要な感覚を孕んでいる。それは「私が支配するものに他者が介入することは許されない」ということだ。この二つの感覚両方が「権利」全般に流れ込んだのだ。そして実は我々の想像する「自由」のコアイメージでもある。自由にはこの欲望と支配の感覚が流れている。
しかしながらこの「自由」の感覚は「自由」を求める奴隷たちの反乱により一つの現実的妥協を産んだ。支配者はかつての奴隷たちと約束したのだ。我々はもはや君たちを支配しない。その代わりに我々は自分の体を支配するのだと。そして君たちもそうするのだと。人間なら誰もが己の体を支配できることにしよう。我々は平等に自由じゃないか。(現実として多くの旧黒人奴隷は扱いの悪い賃金労働者として己の体を「自由」に売買した。ほぼほぼ売るだけであったが。)
上記の経路は思考実験の一つでしかなく、実際は数百年前の「権利」概念の議論でも既に流れていただろう。しかし、ここで誕生したのは一風変わった、世界と人間に対する理解である。個人は他者からの介入=他者との人間的繋がりを切断できる独立した存在だという信仰なのだ。なぜなら自分の体を自由に支配し他者はこれに関与できないのだから。(工場で死にかけながら働く黒人労働者だって「自由」に辞められると考えることはできただろう。)「権利」や「自由」というものの概念自体にこれは染みついたのだ。
奴隷製の足置きで本を読む農園主の頭の中で作られた「近代国家・権利・自由」は、国家軍隊というとてつもない力に囲われながら、同じ発想の知的エリートを再生産し、根本思想の解体は迂回しながら様々なヴァリエーションを増やしてきた。その実践形は司法や行政の場から常に吐き出され、我々パンピーの脳みそにも影響を及ぼしてきた。
「権利」概念は、「権利」とは「持つ」ものだという支配欲求の肯定に支えられている、というのが基本的な今回の主張である。これが己の身体観や対人間観に影響を及ぼしてきた。実際皆が全く違和感なく自分の持つ時間と労働力を社長さんに売り払っている。基盤にある発想はまさに「権利」は「持つ」ものだから「捨てれる(売れる)」のである。あるいは私は他人の権利を「買える」のである。なぜなら私はその「権利」を「持っている」のだから。(一応断っておくが、これによって生まれる成果を否定するものではない。「支配/排除 と 欲望」を根幹にする原理が一度は平等性/対等性 になりながらも、次の段階で一人の人間があらゆる人の時間と行動の自由を支配し皆がそれに納得していることに注目したいのだ。この一人の人間も様々な人の投資で買われていてもう少し複雑だろうけれど。)
長々書いてるのに平板な話になってるだろうか。ここに資本の燃料をぶっ込めばいくらでも非人間的な方向に暴走できるのは想像にかたくないし、読んだことないけど共産主義とかポモとかもこういう認識の型への反発からスタートしてるのでしょ。現実に非人道的支配を読み取った人たちの反発から生まれた社会「権」などは対抗力として機能しただろう。ただそのことに対しても言えるのは「権利」「自由」の枠組みがそのまま利用されたということだ。近代国家という装置がこの世界にセットされた1776年の7月4日のあの日から全人類の脳みそはハックされた。今もなお屋台骨として社会を支え続けている我らが人権万歳!自由万歳!国家万歳!
いま苦しんでいるマイノリティも、「支配と欲望」の匂い漂う「権利と自由」概念を使って「国家よ行動しろ」と闘争せねばならない。あるいは彼らがそうでない社会活動を試みていても(例えば、他者との網の目を強化したり、国家ではなくコミュニティや人々の意識を変えるために動いていたとしても)、そのように立ち上がる姿をメディアでみた我々は、そこにまた「権利と自由」闘争の型を読み取っていないだろうか。「障害者が、また支配と欲望を前面に出してるのか。今度は何を要求するのか。」と。そして人間の、恥を知らない無意識は、何かを奪おうとしているマイノリティを見てこう訴えてくるのではないか。我々はこいつらを「支配」し「排除」しなければならない、我々の「権利」と「自由」のために。
たぶん胸糞悪くなる人が大半だと思うので、エログロ小説や性犯罪記事を読む心持で読んで欲しい
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まあ平たく言えばロ〇コン向けの本なんだけど
80年代に発行されただけあって、今手に入る二次元漫画雑誌なんか目じゃないぐらい倫理観ガバガバ
実在する学校名を堂々と載せて、校門前でスナップしたと思わしき素人女子中学生てんこもり(さすがに目線は入ってる)
どうすれば小さな女の子とお近づきになれるのか?親にばれずに一緒に遊ぶには?細かいところまでレクチャーします特集
極めつけは、上記の方法で数々の少女を襲ってきたと思われる人物が、実際に目をつけた女の子に公園で声をかけて、家に連れ込んで…以下略
上記の過程を全て撮影し、その写真と少女を抱く自分に酔ったポエミーちっくな手記まで付随していた
印象的だったのは、これらの記事の節々でコメントしている筆者ら(こういった方面での愛好家達)が、「今まで〇〇人ハントした」といった様に、少女に対し乱暴した人数をまるでコレクションか何かのように自慢げに語ったり
まるで無機物の人形を見るかのような上から目線で、道行く少女らを眺め、観察し、批評する
彼らが心から生と性を楽しんでいる様が、数十年だった今でも文章からにじみ出ていた事だ
悍ましいとか、気持ち悪いとか、憤りを覚えるとか、女の子が可哀想だとか
当たり前に出てくる感情はもちろんあったが
一方で、この本から流れてくる異常且つ意味不明ななパワーに圧倒された…
今ではとっくの昔に規制された幼い少女に対する性愛を、ここまであからさまに語り合う人々や場があったのか、与えられていたのかという驚きが強かった
余談だが、こういった類の本を閲覧する際は別室と呼ばれる小部屋へ案内され、その部屋以外への持ち込みは一切不可だ
うちの母親のことだ。
マザコンの多いネット上でこういう風に母親の事を言うと騒ぐマザコンもいるかもしれないが、実際そうなんだ。
母親「どうしたらいいと思う?」
ぼく「こうしたらいいんじゃない?」
母親「やっぱこうするわ」
ぼく「じゃあ聞くな」
このやり取りはぼくが生まれてきてこの方ずっとだ。バービー人形に話しかけるくらいのテンションで話しかけてきてるんだろう。許せん。
これが一ヶ月に数日だったらまだいい。
それどころじゃないんだ。一日に数回はある。イライラは昇華して呆れに変わり、まともに返答をするのがアホらしくなった。
すると飛んでくる罵声。
「ちゃんと話聞いてるの?」
聞いて欲しければ俺の話もちゃんと聞け。そういった文句は紳士のぼくは使わない。
そう来たらこう返すんだ。
「んぁぁぁァ…」
これはまともな精神上ではないというアピール。あと一言付け足したら何をするかわかないぞ、という反撃の姿勢。
俺は立ち行くうざあいんだもん。
そして今日をやり過ごせば
「ねえねえどっちにしたらいいかな」
ファック
最近マシになっていた男性嫌悪と日本社会への嫌悪の気持ちが出てきたので吐き出す。
ネトウヨは韓国を叩くけど日本も同じ。男尊女卑で年功序列(儒教のせい)で目で見てわかりやすいもの(学歴や収入や性別など)で差別して、その結果、両方とも自殺率が異様に高い病んだ国。
・見た目で判断することを当然と思っているところ
自分たち男が視覚に頼りすぎな生き物だからって、女もそうだと思うな。「ただしイケメンに限る」って、女はお前たち男みたいにそこまで見た目にこだわらねぇよ。
男尊女卑が強い国ほど見た目を気にする、日本でも美しくないダメという男の理想の女であるための呪いが日々垂れ流されてるし、韓国なんかもっとひどくて整形しないといけない。
なんで、男の欲望を満たすために女が綺麗でいなきゃいけないのか、学生は化粧するな、社会人は化粧しろっていうダブルバインドも、社会人になったら女として男の欲望を満たせと言われてるようなもの、気持ち悪い。
化粧するもしないも自由だろ、と。
男に消費されるために見た目を着飾ることが気持ち悪い。男ウケってなんだよ、オシャレは自分のためにするものだろ? なんで男に媚びなきゃいけないんだ。
これは、見た目を重視する男の価値観+劣悪な労働環境で大人が不自由だから、なのかもしれないけど、子供を美化しすぎる男が多すぎる、その結果がロリコン大国、気持ち悪い。
仮にも先進国なら、未成年への性的な欲求は良しとしない社会的コンセンサスがあるべき、なのに日本は、JKなる言葉を作って女子高校生をカテゴリとして消費するほど未成年への欲望が容認されている、気持ち悪い国。
消費する側がいるから、JKビジネスとやらが減らないんだろうが…
小中学生は犯罪だけど女子高校生への欲望ならそこまで隠さなくてよいという認識が気持ち悪い。
女子高校生をヒロインとした創作物が多すぎる、女子高校生と同年代の10代の少年をターゲットにした作品でそうなるのは仕方ないにしても、30代以上のおっさんをターゲットにした作品でも女子高校生のヒロインが出てくるの、病みすぎだろ。
良い年をしたおっさんでも若い子を選ぶのが当然という、若さ至上主義の価値観が気持ち悪い。
おっさんなら社会人や熟女に憧れろよ。熟女って言葉も差別的だけどな、なんだよ、熟女って。
ロリコンが多すぎるのは、実際に子供がターゲットにされる犯罪が増える危険性があるという社会的な損失もあるのに、未成年を性的な対象として見ることへのタブーがなさすぎる。
もっと、18歳未満をそういう対象で見る人間はクズと後ろ指さされるぐらいになればいい、これが容認されるのも、男の性欲が肯定されてるからか?
・男の性欲が肯定されすぎる
男の性欲が肯定されすぎた結果、レイプ被害者へのセカンドレイプや、痴漢被害に対する無責任な発言を目にする。
男は全員、義務教育段階で、20代・30代の屈強な男に組み伏せられる経験をすれば、力で敵わない相手に好き勝手される恐怖を理解できるようになるのか?
想像力がない男が多すぎる。
家事や育児って大変なことを全て女に任せてて、そのくせ、その差別は解消せずに、労働力が足りなくなったから女も男と同じように働いてくれと、家事や育児をやりながら仕事までやらせようとする。それが今の政府が目指す、女性の活躍する社会。ふざけるなよ、男と同じように働けというなら家事や育児や介護を男が女と同じようにやれ。
そんな、女ばかりに要求される社会だから子育てとかも無理、と少子化も進行。(少子化の原因には、過去の、主婦が非正規で夫が正社員でというモデルが原因の男の非正規化、それゆえの貧困化もある)
・女嫌いな男が多い
このような男女差別があるからこそ、男と女の分断は大きく、男嫌いな女と女嫌いな男が多い。
差別される側の女が男嫌いになるのは仕方ないにしても、既得権益を貪ってる側の男が女を叩いているのは理解できない。女に個人的に嫌な目にあった人間か、社会に出たことがないニートや学生が男尊女卑を実感せずにアファーマティブアクションだけを見て叩いているのか?
女優遇とかふざけんな、それだけ差別されてるからこその優遇措置だろうが。
こっちだってアファーマティブアクションがなくても問題ないような平等な社会が良いわ、それなのに、そこだけを見て女は優遇されてるとかぬかす奴、バカか…。
婚外子を認めれば(婚内子と同じ権利を与えれば)少子化だってマシになる可能性があるのに、女に自由を与えたくない社会では、婚外子を認めないという子供を産みにくい状況を作っておきながら、家事育児という仕事は女にやらせておいたままで、子供を産めという。無理だ。
そのくせ、少子化で労働力が足りないから、家事育児をしながら男と同じように働けという、更に無理だ。
政治家の男女比率が半分半分ぐらいになれば、こんな無茶な要求をしてくる政策じゃなくなるのか?
女の方が優秀だと言うつもりはないが、経営者や政治家という舵取りをする立場に男ばかりで、偏った考えで上手くいかないとは考えないのか?
それほどまでに男は優秀だと女は足手まといだと信じているのか? 理解に苦しむ。
女には男を立てて欲しいという気持ちがある男が多いから(これは男の生まれつきなのか、社会的な背景で男の方が偉いと思っているのか)、自己主張する女じゃなく、子供っぽい女が好かれる、フィクションの登場人物とか見てても。
見た目だけではなく、中身まで子供っぽい方が良しとされて、気持ち悪すぎる…。
男をターゲットにした作品で、内面的に自立した女性が好意的に描かれることは少ない。そもそも、男向け・女向けとターゲットがわかれていることが既に分断の現れなんだが。
男が好む女と女が好む女が違うゆえに、女に支持される女キャラと男に支持される女キャラが違う、だから作品はどちら向けか考えて描く必要がある、のだが、そもそもそれがおかしくないか?
女に支持される女キャラは自立した女、男に支持される女キャラは内面が幼稚な女キャラ、本来なら、男も女も自立した女キャラを支持するのが自然なのに(男キャラであれ女キャラであれ自立した人間の方が魅力的)男尊女卑ゆえに、男に支持される女キャラが幼稚な女ということでそれを支持できない女が自立した女キャラを支持する。
大体の男は、自分たちが既得権を持っていて女を下に見ていることに気付いていない。生まれた時からの環境で差別を当然のことだと思っている。
女をお人形扱いしたいやつ、可愛ければ良い、言うこと聞いてくれたらよいという意識、家事育児をしてくれたら良い、性欲処理してくれたら良い、などなど…下に見て対等な人間として見ていない男が多い、自分が差別していることに気付いていない人間も多いが。
気付いていない人間は、こういう主張を「女性目線すぎ」とかのたまう。
だったら普段私たちが目にしているものは全て男性目線すぎることになる、新聞もテレビも。ネットは作り手に男が多いかは知らないが、女でも発信することが可能なので、既存のマスメディアほど男性目線ではない、その分、男叩きや女叩きが多いが。
これも男叩きということになるのだろう、男嫌いの女が増えたと言う奴はわかっていない、昔から男に不満を抱く女は多かった、差別される側なのだから。ただ、その不満が可視化できるようになっただけ。
「LGBT以外はそのまま!その場に留まってて!動かないで!」とは言えない。
先進国のリベラルも今そこで議論している → http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/943345
「LGBTだけ解放します。ノンケとかロリコンとか動物性愛者だ人形性愛者、ロボット性愛者はそのまま!その場に留まっててください」
ということは言えないんだよ。
そういうことをどうしても言いたいのなら、あなた方は宗教的価値観や、家族文化を大切にしなきゃいけなかった。
ロリコンをぶっ叩けるのは「家族」しかいないんだよ。でもその家族を左派リベラルは嫌ってたじゃないか。
あ、ちょっと話は逸れるけど、まぁ家族に関係した話だけど、「そんな大して優秀でもない男性でも子孫を残せる」から民主主義社会が成立するわけで、
今のように女性のわがままに従って、ハイスペック男性の子しか残したくないだとか、形を変えた一夫多妻制でお茶を濁しますっていうのなら、そのうち王朝社会や貴族社会は復活するだろうね。
話は元に戻るけど、左派リベラルフェミが「家族」を解体したり、あるいはLGBTを認めたことによって、我々はロリ漫画や、これから出てくるであろうロリロボットを規制する手立てが無くなった。
左派リベラルフェミは自分で自分たちの首を絞めてるだけなんだよ。
(文:masudamaster)
https://anond.hatelabo.jp/20170615003042
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その1 http://anond.hatelabo.jp/20170602204654
「動物に意識はあるのか」という問いは出来ても、「人間に意識があるのか」と問うのは難しいだろう。自分に意識があるのは実感として分かる。しかし自分以外の人間は、知性あるように見せかけているだけの、分子機械人形であり、意識はなく、自分だけに特別に意識がある、と考えるのは、おこがましく、中二病的である。
同じように、知性があり、「思考している自分が存在する」という認識に達し、自分について考えているコンピュータを見た時に、「こいつは知性があり、自意識があるようにも見えるが、所詮見せかけである。意識があるのは人間だけであり、計算機ごときに意識はない」と断ずるのも、同様におこがましいように思う。計算機にも意識、自意識は生じうる。
これは特に根拠のある話ではなく、「おこがましくない考え方をするならば」ということに過ぎない。しかし、その1でやったように、意識を機能として定義するならば、存在することは疑う余地がないように思う。
そうでない定義を採用しようとするならば、ではそれは何なのかという問いが生じる。「AIに意識があるのか分からない」といった場合、意識がどういうものか分かっていないので、それが存在するか分からない、というのが大方のところではないだろうか。しかし、なんだかわからないものが、あるのかないのかわからないのは、ごく普通のことである。
意識がどういうものなのか理解できれば、意識の存在は自明となる。意識について詳述し、定義することで、人の脳は、意識という存在を納得し、受け入れるようになる。
存在を見たことがない、たとえばエルニーニョ現象とか、フェーン現象と同じように、意識という現象も、存在を詳述することで、実際に見たことはなくても、人は受け入れる。だから、その1で私は、意識について詳述し、物理現象として定義した。
そして意識の存在を納得したならば、物体から意識が生じるのを、受け入れることになるだろう。あなたは非宗教国家日本で、現代科学文明の一員として生きているので、物理現象に、魂のような、科学で説明できないものが介入することを拒むと思う。全ての物理現象が物体から生じている、と考える世界観から離脱する気がないならば、意識が物体から生じていることを、認めざるを得なくなる。
意識について考えている時、それに付随して出てくる問題として、感覚とはなんなのか、というのがある。物体に感覚が生じるのか、という問題である。
あなたが感じている感覚は、あなたが感じているのであるから、存在することは自明である。そして、「すべての現象は物体から生じる」という世界観に留まるならば、物体に感覚が生じていることを、受け入れるしかなくなる。
犬や猫のような動物が、感覚を感じていることは、見れば分かるだろう。しかし、たとえば石を蹴った時に、石には神経がなく、痛みを認識する脳も、「痛い」と言う口もないので、痛みを感じているようには見えない。
他者の感覚も意識と同じように、観測できないので、現代人が存在を納得して受け入れるには、物理現象として記述する必要がある。たとえば、感覚は、五感のような感覚発生器官からの刺激を、情報処理していく過程で発生するものだ、と考えるのが自然だろう。神経が刺激され、ある種の電気パルスが発生すれば、痛みを司る脳の部位に電気パルスが流れ、痛みを感じる、といった感じだ。
計算機には感覚が生じるだろうか。今行った定義から見れば、感覚は生じているはずである。今は感覚器官、カメラやマイクなどの入力に対して、適切なリアクションを返していないので、計算機には感覚があるようには見えない。しかし、刺激に対して機械的反応ではなく、計算機が判断を行い、人間レベルまでいかなくても、動物レベルの適切なリアクションを返すようになれば、計算機に感覚が生じているように見えるようになる。そうなれば、計算機に感覚が生じるのが納得できないという、今の人間が持っている違和感も、大部分が氷解するはずである。
現代人が存在を納得するためには、物理現象として記述し、それを受け入れることが必要である。そして、その描写が正しければ、判断や予測に使える。私は、私がその1で書いた意識の定義が、そんなに間違ってるとは思っていない。人の意識について考える時に、この定義を使えば有用だし、予測も出来るだろうと考えている。(たとえば、言葉を口に出さずに考え直すことが、知性の発達を助ける、とか、カラスがクルミを道路において、車に轢かせて、中身を取り出して食べるのは、論理的に思考した結果ではない、といったようなことだ。偶然落としたら食べられたので、また落とすようになったり、他のカラスが落としてるのを真似した、といった程度のことである)
唯物論世界から出る気がないならば、物理現象に絞って考えることで、思考を節約でき、また予測など出来て役に立つので、オススメである。
初節句に人形などを買い与える習慣は今もあるよなぁと思ってちょっと気になった。
買って、毎年飾れるのはそれなりに余裕がある人だけなんだろうけれど。
しばらく誰も住んでいない期間があったので、実家はかなり良くない空気に満ちていた。
人が住まない家には、恐らく何かよくないものが宿るんだろう。
一人で住むには広すぎる家の、不必要なものを捨てて行く事にした。
天袋の奥を開けると、見覚えのある日本人形と、ひな祭りの一式が出てきた。
節句の時にわざわざ両親が姉妹と自分の為に買ったものだ。かなり高かったと聞いた。
今ではそんな風習はないだろうに。
お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓
父も母も、自分たちを祝福し、明るい未来に胸がいっぱいだったはずだ。
自分たちの一挙手一投足に喜び、笑ったはずだ。
その未来が、この誰も住んでいない家だった。
六月。陽が紫陽花色の残滓を残し沈んだ直後、入れ替わりに空へ現れた低く大きな月と、
明滅する黄ばんだ街灯に照らされる薄暗がりの中、セーラー服を着た少女が廃品工場の敷地に積みあがった錆びたガラクタの山を睨み付けていた。
帰宅途中、自転車で通りかかってその様子を見つけ、なんとなく立ち止まって彼女を眺めている私に気付いたのか、
彼女は一度、背後に停めてある彼女の銀の自転車越しに私の方を振り向いたが、すぐに興味を失ったように視線をガラクタの山へと戻した。
肩までかかるまっすぐな黒髪と、やや度の強い眼鏡をかけた彼女について、名前はわからなかったが、私は自分が彼女の同級生だという事をなぜか知っていた。
私は、人気のない工場の入り口で自転車に跨ったまま、声をかけるでもなく、しばらく彼女の背を眺めていた。
「ねえ。」
不意に彼女が口を開いた。
その言葉が私に向けられたものなのか確かめる間もなく、聞いていようがいまいが関係ない一方的な様子で、彼女は続けた。
「ユキのこと、覚えてる?」
ユキという名前には聞き覚えがあった。タニムラユキ。緩くパーマのかかった、明るい栗色の髪が印象的な少女。
タニムラさんは、私と彼女の前年度の同級生で、明るく活発で誰にでも分け隔てなく接するタイプの、少し勉強が苦手な子だった。
成績が良く控えめな性格の目の前で背を向けている彼女とは好対照な性格ながら、傍から見ても二人は特に仲の良い友人関係だったように見受けられた。
タニムラさんは、五ヶ月前、ちょうど冬休みが明ける頃に亡くなった。
朝、ご家族が起こしに行くと自室で首を吊って亡くなっていたそうだ。
遺書のなかった彼女の死は、二年生への進級を控え、進路や勉強についての悩みが原因の突発的な自殺として片づけられた。
私も通夜に参列し、学校では命の大切さを説く授業が行われ、現在も一部の生徒にはカウンセラーによる面談が継続的に実施されているはずだ。
もちろん覚えている、と私が口を開きかけた途端、彼女が先に口を開いた。
「ユキ、自殺する前日に『明日先輩に告白する』って言ってたんだ。」
「先輩?」
間抜けな私が、今夜初めて声を発して聞き返した。タニムラさんの死は、実は失恋によるものだったのか。
聞き返されたことが不快だとでも言いたげに少しの間を置いて、彼女は続けた。
「……シュート先輩。サッカー部の。このことは多分……ユキのご両親も知らないと思う。」
シュート先輩について、名前を聞いても顔が思い浮かぶほどの接点はなかったが、
私はその名前が、スポーツがとても得意で容姿の整った、女子生徒から人気のある一学年上の男子生徒だという断片的な情報は持ち合わせていた。
「ユキが死んだ少し後、私、シュート先輩のところに話を聞きに行ったの。
少しでも、亡くなる前のユキの様子を聞きたくて。
そしたら、部室の中から『マワしたのがバレるかと思って焦った』『まさか死ぬとは』って……。アイツら、笑ってた。」
ごくありふれた、思春期の精神的な揺らぎに勢いが付きすぎて死んでしまったのだとばかり思っていたタニムラさんが、
彼女の気持ちを踏みにじる、俄かには信じがたいような乱暴を受けたことを苦にして亡くなっていた、ということか。
「許せないって思った。絶対に、絶対にこいつらに復讐して、ユキの仇を取ってやるんだって……。」
絞り出すようにそう言うと、彼女は手に持っていた、どこかのご当地ものらしいキャラクターのマスコットを、潰れるほど強く握りしめた。
マスコットを歪め、ガラクタの山の頂上を睨み付けたまま、彼女はさらに語る。
「その後、シュート先輩やサッカー部の事を調べたら、結構いろんな噂があった。
だから、アイツらに近づいて、油断させて、証拠をタップリ掴んで、
卒業まであと少しの……そう、ユキの一周忌に秘密を全部バラ撒いて、あいつらの人生をグッチャグチャにしてやろうと思った。」
「……そのために私は、都合のいい女になろうと思った。
無条件に愛して、尽くして、学校でも街でも家でも、いつでも呼び出せて、身体を使わせる、そんな女……。
男って面白いのね、最初は皆に使わせていたのに、何度も繰り返して、それでも私が離れないとわかると、
段々情がわいてきたみたいに、逆に独占したがって、優しくするようになるの。」
シュート先輩のその行為はとても認められるものではなかったが、その心情がどこか理解できるような気もしてしまった後ろめたさを、私は沈黙で隠した。
「それで、これからは、部活を引退して、私が勉強をサポートして、いい大学に入学を決めて……その後、その後全部台無しにしてやるつもりだったのに……!」
彼女の語気が強くなり、嗚咽が混じり始める。不意に振りかぶるように上げられた右手に握られたマスコットが、更に変形した。
「なのに……なんであっさり死ぬのよ!なによ、遠征帰りのバスが事故って!!」
「なんで、遠征先で私に、プレゼントなんか買ってんのよ……!!!」
事故?サッカー部のバスが?そんな話を、私はまだ聞いていなかった。
しかし言われてみれば、昼間救急車が妙にたくさん走っていて、学校の教師陣の様子が慌ただしかったような気がする。
驚き、展開を吞み込めないでいる私を置き去りにするように、彼女は続けた。
「夕方、病院で先輩のお母さんに会って渡されたの、この人形。『あの子が、あなたに。いつもありがとう。』って。」
「何よそれ!!ざまあみろ!自業自得だ!死んで当然だ!因果応報だって!
私が!ユキのために!言って……!笑って……!こんなもの、投げ捨ててやらなきゃいけないのに!!」
腕を振り上げたまま髪を振り乱す彼女の声は、最早完全に泣き叫んでいた。
「どうして、捨てられないのよ……!こんな……ものが……!!」
泣きじゃくり、肩を震わせながら、力なく彼女の右手が降ろされていく。歪んだマスコットを握りしめたまま。
「どうして……」
うなだれ、小刻みに震える彼女の背と、同年代の人物から発せられたあまりに強烈な感情を前にして、
己の幼稚さが急に恥ずかしくなり、かける言葉も見つけられずただただ見つめるばかりの私を、
先ほどよりも濃さを増した夜と、少し高くなった月が見降ろしていた。
昨日風邪をひいて20時間ぐらい寝ていたら色々な夢を見たのだけれど、その中でも印象に残っているものを文章におこしてみた。
でも頭の中の映像ではもっと迫力あったんだよなー。うーん。やはり夢の話はしょうもないか。