はてなキーワード: フェーズとは
http://mosa-siru.hatenablog.com/entry/2016/03/06/173930
正直炎上する内容ではないとは思うのだが、ブコメを見てなんかイライラしてしまったので思うことを書いておこうと思う。
まず、タイトルに対して過敏に反応しすぎだ。内容を読めば、テストなんか書かずにとっととリリースのためのコードを書け、ということを言いたいのではなく、自分のエゴのために本質的でないことに時間をかけてもしょうがないでしょ、ということを言いたい記事であることは明確であるし、別にこれはエンジニアリングだけに当てはまることではないと思う。例えば、洗濯を毎日しなくても、休日にまとめてすればよく、その空いた時間を他の大事なことに使おう、とかと同じようなことだと思う。要するに自己満足のための行動をするのではなく、本当に大切なものをきちんと見極めましょう、ということである。
また、この記事を書いた人は、直接面識はないが少し調べたらエリートというのがわかる。学歴、経歴が凄いからといって無条件に支持することにはならないが、少なくとも「テストなんか必要ない」という主張を書くようなエンジニアでないことは明らかだ。書いた人のバックグラウンドも理解せずに、タイトルだけで判断したり、内容を真っ向から否定するような人は、自分は条件反射で嚙みつくバカですよ、と自ら告白しているようなもので、そこに凄いイライラしたし呆れた。もうちょっと、人を判断する力をつけるべきだ。
そもそもテストを100%書こうとしたり、ドキュメントを綺麗に整えたり、無駄にコーディングスタイルに厳しかったりする人は非モテで童貞のオタクである可能性が高い。得てしてそういう人らは、理想だけが高く、自分の考えを曲げず、頑固だ。だからスタートアップ的、いわゆるリア充的な考え方を受け入れることができないのだ。柔軟性とも言って良い。今必要なことはこれだから、テストは別にいらないな、という考えをあるフェーズではもつことができ、違うフェーズに行けば、テストをしっかり書くモードに切り替えることも可能なのだ。そういう柔軟性を、過剰に反応している人たちは是非持って欲しいし、そうじゃないといつまでも非モテのままだ。
この記事に過敏に反応している人たちは、サラリーマンエンジニアとしては優秀かもしれないが、結局はいつまでもサラリーマンエンジニアだ。自分はエンジニアなのだから、技術のことだけを知っていればいい、コミュニケーションなんていらない、とかいうような人もこのタイプだ。当然、そのほうが楽だし楽しいとは思う。だが、さらに上に行こうとすると、この炎上記事を書いた人の思考にならざるをえないのだ。できれば、ほとんどコミュニケーションも取らず、企画も考えず、技術のことだけ勉強して金をもらいたいというのが本音だ。どうか、そのことを理解した上で、敬意を持つようにしてほしい。
http://mosa-siru.hatenablog.com/entry/2016/03/06/173930
正直炎上する内容ではないとは思うのだが、ブコメを見てなんかイライラしてしまったので思うことを書いておこうと思う。
まず、タイトルに対して過敏に反応しすぎだ。内容を読めば、テストなんか書かずにとっととリリースのためのコードを書け、ということを言いたいのではなく、自分のエゴのために本質的でないことに時間をかけてもしょうがないでしょ、ということを言いたい記事であることは明確であるし、別にこれはエンジニアリングだけに当てはまることではないと思う。例えば、洗濯を毎日しなくても、休日にまとめてすればよく、その空いた時間を他の大事なことに使おう、とかと同じようなことだと思う。要するに自己満足のための行動をするのではなく、本当に大切なものをきちんと見極めましょう、ということである。
また、この記事を書いた人は、直接面識はないが少し調べたらエリートというのがわかる。学歴、経歴が凄いからといって無条件に支持することにはならないが、少なくとも「テストなんか必要ない」という主張を書くようなエンジニアでないことは明らかだ。書いた人のバックグラウンドも理解せずに、タイトルだけで判断したり、内容を真っ向から否定するような人は、自分は条件反射で嚙みつくバカですよ、と自ら告白しているようなもので、そこに凄いイライラしたし呆れた。もうちょっと、人を判断する力をつけるべきだ。
そもそもテストを100%書こうとしたり、ドキュメントを綺麗に整えたり、無駄にコーディングスタイルに厳しかったりする人は非モテで童貞のオタクである可能性が高い。得てしてそういう人らは、理想だけが高く、自分の考えを曲げず、頑固だ。だからスタートアップ的、いわゆるリア充的な考え方を受け入れることができないのだ。柔軟性とも言って良い。今必要なことはこれだから、テストは別にいらないな、という考えをあるフェーズではもつことができ、違うフェーズに行けば、テストをしっかり書くモードに切り替えることも可能なのだ。そういう柔軟性を、過剰に反応している人たちは是非持って欲しいし、そうじゃないといつまでも非モテのままだ。
この記事に過敏に反応している人たちは、サラリーマンエンジニアとしては優秀かもしれないが、結局はいつまでもサラリーマンエンジニアだ。自分はエンジニアなのだから、技術のことだけを知っていればいい、コミュニケーションなんていらない、とかいうような人もこのタイプだ。当然、そのほうが楽だし楽しいとは思う。だが、さらに上に行こうとすると、この炎上記事を書いた人の思考にならざるをえないのだ。できれば、ほとんどコミュニケーションも取らず、企画も考えず、技術のことだけ勉強して金をもらいたいというのが本音だ。どうか、そのことを理解した上で、敬意を持つようにしてほしい。
落ち着いてきたので、備忘録がてらまとめた。実際は50冊くらい読んだ。
どうしても恋人とヨリを戻したいと考える人に「復縁は信じていればきっとできます」と
「復縁ってそんなにできるもんではないよ」を同時に言ってくれるタイプの本。
基本的には、「これを読んでる間は相手に余計なことをせずに済んで、そのうち落ち着く」という効能を持つ。
http://www.amazon.co.jp/dp/4804703691/
恋愛ユニバーシティ(http://u-rennai.jp/)を主宰するぐっどうぃる博士の著書。
まさか自分がこんなこっ恥ずかしいサイトと本を何度も読むことになるとは……。
失恋したてのころに友人3人にこの本をすすめられ、私の復縁本を巡る冒険が始まりました。
まあぶっちゃけ本当に復縁したい方は、これ一冊をえんえん読み続ければ十分だと思います。
他の本に書いてあることはこの本とあまり変わりません。
そのうえで、単に復縁にとどまらない「恋愛の基本」や「人生をうまく乗り切る思考法」、
「SNS時代の駆け引き」について書いてあるので、そもそも特に失恋していないうちに読むのがベストだと思います。
さっき復縁したい人はこれ一冊をえんえん読めばいいと書きましたが、それは別に復縁ができる、
という意味ではないのは、読めばわかる。
http://www.amazon.co.jp/dp/4804704086/
川越にある復縁で有名な占い館のおじさんの本。9年間休まず更新しているというブログ「恋愛日記」
(http://okikawa-blog.com/)が結構おもしろかったので購入。ぐっどうぃる博士ほど復縁に特化
した本ではないですが、そのぶん、失恋段階にいない人でも楽しんで読める。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4835628586/
ウェブのインタビュー記事(http://wotopi.jp/archives/32034)がおもしろかったので購入。
ぐっどうぃる博士の本などよりも、復縁をしたい女性それぞれの状況にあわせた復縁メソッドが細かく指南
されているので、ぐっどうぃる博士に飽きてもっと細かいテキストで気を紛らわせたい人におすすめかも。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00OC6THR0/
Drタツコ・マーティンという何やら仰々しい名前にひかれて購入。
読んだけどべつに嬉しい奇跡は起きなかった。さっきから言ってますが、ぐっどうぃる博士をえんえん読んでも
気が紛れなかった場合には一回読んでみるといいんじゃないかという感じです。
とくに復縁にはフォーカスせず、恋愛全般のノウハウや考えかたを指南している本。
そもそも今回の交際はどの時点で間違っていたのだろう、という「間違い探し後悔」
地獄におちいらせてくれますが、次の関係への糧にもなるはずです。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B013EVNKDK/
元ホストクラブオーナー男性が書く「だまされない」ための恋愛指南本。
著者の経歴上、ホストクラブで貢いだり、ヒモ男に積極的にカモられてしまったり、遊び人の男に
ひっかかてしまうパターンの女性に向けて書いているテイストだが、それ以外の男性、女性にも
十分当てはまる要素がもりだくさん。「自分の女友達にやらないことは彼氏にもするな」とか……。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B01463ZUKG/
「引き寄せの法則」とか出てくる結構スピリチュアルな本ですが、「バツ2経験アリ」
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00LUG174Q/
ご存知心屋仁之助さんが女性の恋愛にフォーカスして出している本。
「『すあし』な女がモテる」という理論はたしかに……と思わされました。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00INIGAR8/
アンチ復縁本ですね。さまざまな事例を取り上げつつ、ゴマブッ子さんが喝を入れてくれます。
復縁本を読み飽きて心が多少回復してきたころに読むと効果的かと思います。
精神論よりも何らかの科学的なアプローチで失恋の心の痛みを解決したいフェーズに入ると読みたくなるジャンル。
まあ、1)2)を飛ばしてここから読めるくらいのがいいと思います。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00Y07B7GU/
「私にはあの人しかいない……」「どうしてこんなに愛してるのに嫌われたんだろう」
「なんでダメ男ばかり好きになっちゃうんだろう?」などなどに当てはまる人にとてもおすすめです。
依存症と言われると、ごくごく一部の人のことに思って手にとりにくいと思うし、実際誰にでも多少はそういう傾向はあるわけで、
それをすべて「依存症」と断じるのはどうかと思いますが、自分のなかの「そういう傾向」を認識することは大事。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00SY8ZJYC/
妖怪男ウォッチのぱぷりこさんもすすめていた岡田尊司さんの本。おもしろいし読みやすいしとてもおすすめです。
失恋する前に読んでおきたかった本NO1ですね……。まあすべてパーソナリティのせいにするのもどうかと思うんですが(笑)、
そこらの占いや相性診断よりは全然理路整然としていて、一定のロジカルな裏付けがあり、人間関係に役立てやすいかと。
個人的には同じ著者の『愛着障害』(http://www.amazon.co.jp/dp/B009KZ435E/)の本に、
非常に身に覚えのある話が詰まっていて、そのなかでもさらに回避性の人たちにフォーカスを当てた
続編『回避性愛着障害』(http://www.amazon.co.jp/dp/B00HK6ZSL8/)とともに、何度も読み返しました。
http://www.amazon.co.jp/dp/4788914840
これもやはりぱぷりこさんもご紹介されていた越智啓太さんの本ですが、「外見の美しさ」
と恋愛における人々の心理にフォーカスした内容で、とてもおもしろかったです。
人間ってかなり「進化のため」にあらゆる認知を行っているんだなあと思うと、恋愛についても、
「じゃあしかたねえかなあ」という気持ちになることができます。まあそれをうまく利用して
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00RUVI7DO/
加藤諦三先生の本。「神経症八方美人」「愛情飢餓感」「心理的便秘」などの
失恋にかぎらず何かに行き詰まっている人、ストレスを感じてる人におすすめ。
最終的には文学に感情移入して登場人物の感情発散シーンを読むとめちゃくちゃ胸がすきますね……。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00A4BCLCU/
初恋のイチと自分に言い寄ってきてる二の間でゆれうごく主人公の心が細やかに描かれています。
そもそも20代まであんまり恋愛をしてこなかった人には、「失恋」とは別の「喪女」という角度で刺さりまくると思います。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B009GPM4PE/
山本文緒さんの小説。とある常軌を逸した女性の半生を描いた話なのですが、「うわ〜ありえないでしょ」と思いつつも、
誰でもやっちゃいそうというか、人間って結構簡単に常軌を逸しちゃうよなあという反面教師になります。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00WG4B30O/
ひさしぶりに読んでもおもしろい。それにしても映画ではコリン・ファースとヒュー・グラントに迫られるんだよな……最高だ。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00RT8YI1S/
コミックエッセイ。よりやばい状況の人が淡々と人間関係の崩壊のようすを描いているのは胸に迫るものがある。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4091919189/
「お前の恋愛がうまくいかないのは10代のころに芦原妃名子を読んでいないからだ」と友人に罵倒されて購入。
いや〜〜〜〜〜女のメンタルがヘラる瞬間みたいなのがいたるところで描かれていて死ぬ。
http://www.amazon.co.jp/dp/B015QPNP1O/
まあ、すべてのことは吉野朔実があらかじめ書いているな……と思いました。
俺36歳上場大手IT企業末端管理職兼プロマネ。専門は、炎上PJの火消し。
いつも通りクソ炎上案件にねじ込まれて、メンバー全員が新参者の俺を敵視する中、ようやく開発フェーズが動き出したとこ。
先日、若手のエンジニア達(直属の部下でもある)から急に二時間位突き上げられて。
やれ、PJのスケジュール遅延だの、管理がダメだの、手戻りが多いだの…。部下5人対俺1人。
上司である以上、傾聴とか理解とか目線合わせをするんだけど俺だって人間だ。ただのへっぽこ人間だ。
なんで俺が我慢せにゃならんのよ、と思うわけ。部下達にすりゃガス抜きなんだろうけどさ。
で、モヤモヤしてたら年齢が近い別の部下が、大丈夫っすか?って聞いてくれたんだけど、
こいつはこいつで、何故か俺よりも給料高いという謎。
一次元的欲求はそうそうに唾棄されれうべき、認知の放棄でしかなく、一次元的な欲求を満たした先にあるものはただの、一次元的な欲求への無限回廊だ。。一次元的な欲求を、その先の多次元的、超次元的な、。超常的な事物、認知、知、フェーズ、への我々の進歩は、それこそが我々、取るに足らない、つまらない人間を人間たらしめるために必要なことの本質的な事物なのである。源泉的な欲求、またはその先にあるであろう、根源的な、認知、真の知を求めるためには、一次元的な欲求、一次元的な知から、我々は脱却し、人間としての可能性に向き合うフェーズに我々は今こそ向き合わねばならないのだろうと、私は考えている。おそらくそれが真には実現されるべきなのだろう。
のかって分かりかねるよね。分かりかねるってのはアレだ。今俺が見ている景色がそれはそれはまったく何だ・・・非実在的な差・こkれをよみがえらせるのは、真の知っていうかでしかないわけで、結局人間は馬鹿なんだ、馬鹿だから場にぬなるだぶるすたんだーとって言葉を知ってるけれど、ソレに十雨中にしにして近いこごいn、、・・・・・あ。あ、わかりはじめた。今俺がいるアパートの一室、でもさ、それは結局この世に生を受ける、また人間の創りだす価値でしかこの世は判定さんでい出来ないわけで、オレの幼少期を思い返してみると。。。そうだな、オレが他人を省みているようで顧みなくなったきっかけは、やっぱり家庭環境なんだろうな。価値観、俺の家庭が持つ価値観。価値観もまた遺伝子のように伝承されるものの一つであり、それは俺も例外ではなく、そう価値観を育まれた。内向的だったなあ、幼少期の頃から、幼少期の頃から、人の顔色ばっかり伺っていた気がする。人の顔色を伺ってさ、両親の顔色、今日は喧嘩してないかな?とか?祖父母との軋轢はないだろうか?とかさ、子供の頃から気をつかっていたね。幼少期から育まれた性根なんだよ、。結局。三つ子の魂百までっていうけどまさにアレだ。俺ははみ出せなくなったんだよ。自分のカラから。何をやるにも、周りの顔がちらつく、両親や親類の顔がちらつく、。俺は俺が俺を俺たら占めていると思っていたけど、違うんだ。俺は結局、自分がないんのではないか・・・・・自分を足らしめるための自我が芽生えていないのではないかという気がしてならない。本当は実現したいこともあった。でもできなかった、ソレは俺の怠惰が産んだ結果かもしれないと同時に俺の心を縛る何かが、また。何かがあったんだ。俺の俺の心情には、幼少期から学生時代に成長して、思ったよ。俺は俺をさ、俺たら占めている、そんな気がして無かった。人の顔色が、社会の目が俺を狭くしているんだった。俺一人がこの社会にいられたら、どんなに楽だろうかと、何度となく考えた。それは馬鹿らしい考えだったけどだs。俺は、俺を俺であるために俺から俺を俺から開放する、そんな時分の中のアクションgあ必要だと、何度となく思ったよ。俺は俺を俺たらしめるものが何もない、てって、社会的にも精神的にも肉体的にもまたはそういう実存的な概念でもってしても、俺って一体俺なんだろうか。俺は俺であるから俺なのだろうか。俺は俺であるのは本当に俺が俺である証拠なのだろうか。俺が俺を俺たらしめる俺の部分は俺の中のどこのb俺を俺にしているのだろうか。俺が俺らしくらしくsらいく、俺がおれがgrで俺gであるための俺であるためにのおレレの俺rの己が己に打ち勝つための、でもソレは俺が俺であることが前提条件であり、俺が俺であるための俺でゃkぉ俺で俺は実に俺であるとのは誤認であって俺が実阿おrでhなく、俺が己を打ち勝つ俺は俺ではない、俺はが俺でなく俺であるための俺が俺を俺に俺たらしめる、俺たらしめるための俺が折れたら占めていなかった。結論的にはどうなんだろう、社会で生きていても、思う子男が多い、俺は何のために、こんなぼんやりと生きているんだろう、ぼんやりとぼんやり働いて、ぼんやりぼんやりと金を稼いて出ぼんやりぼんやりごぼんやりとぼんやり、何をするでもなく、何をするのでも、あk、何が必要なのだろう、承認欲求、承認欲求なのではなあk、て思ったこともあるが、そんな気がしない。社会的成功、社会的な欲求が満たされれば、俺はこんな気持ちにならないのかと言われれば、そうだと言えない、もっと根源的な、本能的な欲求が満たされれば俺はこんな気持にならないのかと言われればそうだと思わない。オレhのなかのもっと、、、人間の核の部分が満たされていないように感じる、そしてそれは人間社会では決して手に入るようなものではなさそうなのだ。非実在的な創作物からえられるものに、それは近いのかもしれない、、、もうすでに思考が、脳が、もうすでに、一元的な欲求では満たされなくなっていsル、気がする。3大欲求や、社会的な欲求、それではもう俺は満たされる気がしない。もっと根源的な、k,、というか、、次元を上げたものが必要だ。。宗教家の求めるソレに近いのかもしれない。宗教家が求めるものが、l超次元的な欲求を満たすものだとすれば、おあお俺が求めているもののに近いのもはそれだ。。超次元的な欲求というのは、、。ソレを言語化するすべは持ち合わせていないgあ、。、超次元的な欲求とは、まさに、現在認識されている次元を超越したものであり、超越するための、、その生きる方法がかるあお確率されていあない。ようにおもれえる。確率に必要な物は、、その、。ちょウ自然的な、もっと、脳髄を脳髄を根本的に揺るがすようあん、心、精神的ん欲求とは、ソレの角の部分を揺るがすような、そうういうも野にちかい。オレhがものも求めるものがもはやそこにしかないのだはないあk.。労働しても高リュうしても3大欲求を満たしても何をしても満たされることがない。。もっと欲求が湧いてくる根源、源泉がそこにはあるのではないか。。。姓名を維持すること、それによてって生じる姓名の根源、は一次的庵ものではあり、ソレを満たすには、また別のソレを満たさなければならない。それを満たすことはソレおwみたすことにつながり、まさに無限回廊そのものだl,満たすことが満たすものを呼び、満たすことがまた別の満たすおmのを呼ぶ、よって、人は、苦心してしまう。ではどうするべきなのかといえば、それはヒットつしかなく、その欲求が生じる、源泉を絶つ、欲求が湧いてくる源泉を満たせばよいのである。。。そしてソレを満たす方法を我々あh本来ならば探さなければならない。kもはや現代社会において、求められる命題はそれしかない。欲求が湧いてくる源泉あh、それは生命維持のための欲求や、社会的な、人間的な欲求とは確実に異なるものだ。欲求の源泉を、源泉が根源的に存在するのは何故か。それすら我々は理解できてイナイのだ。まだ。それが宗教家の言うような、超常的な存在、神や仏、、だと考える、当てはめっるlそういう認識に落とすことあh実に容易なことであるが、それは一種の逃避でしかない。超常的な存在によって、欲求や自身のまた雑然的な現象を説明させるノアh安易であり、もっと断罪されるべき施工方法なのだ。本来、これから、我々あh、原初にもどって、、考えなおさなければならないことは、人間的な、生物的な欲求、それの解消法ではなく、そんな全時代的な方法は唾棄されるべきだ。。我々がこれから求めるべきあ、欲求雨の源泉、精神的、と呼ばれるものに近いものの源泉を求め、そこを絶つべきなのだ。源泉が欲求を生み出しmその生み出した欲求がさらに欲求を生み出していく。源泉が生み出す欲求うは実に一元的なもので、一元的なものがもたらす欲求は欲求を解消されても、所詮一元的なものに、一元的な解消にとどまる、一元的な解消は一元的な解消でしかなく、多次元的な、根源的な、源泉をm,超時限的な源泉を解消するニアh所詮いたらない、。超時限的な源泉を解消するための、その方法は、人打つぃかなく、一つしか存在せず、根源的な、根源的な欲求を解消するための、夜急を解消するための、根源的、源泉的、超次元的、多次元的、超常的、超自然的な、その何かを解消するしか無い、のではある。一次元的な欲求をかいしょうするための現代のメソッド、法本論、それ自体すでに、前時代的、原初的な、人間の実態に沿うようなものではなくなってしまっている。一次元的欲求が社会、人間社会や事物ym出来事などによって実現されたとしても、それは所詮一次元的なものでしかなく、一次元的なものを一次元たら占めているにすぎない、。一次元的な欲求を愚かにも何百回、何千回、何万回とk気の遠くなるほどに実現させようとしている、人間社会、それ自体が誤りにすぎず、我々が目指すべき、自己実現、実現はまさに、一次元的なものを生じさせているものおの根源である。根源は源泉であり、一次元的欲求が生じる、その源泉を我々が、一次元的に解消してしまっていては、所詮、一次元的でしか無いことは明確。発送をかえるための、発想をかえる、それすなわち、欲求の源泉への対処法なのである。欲求の源泉といっても我々あh、未だかつて、それを言語化したり、ましてや認知したりすることはいまだかつて実現せしめたことはない。一次元的な自己実現が生み出す、一次元的ん自己実現あhは逆説的に一次元的な欲求をまた、同時に生み出すことも行っている。一次元的な欲求を解消し、一次元的な欲求を一次元的に解消せしめても、我々人間の構造的には、その一次元的な欲求を認知してしまうことにもつながってしまう。それを潜在的な意識下で我々あh一次元的案欲求のwパターンをmた、また認知してしまうことにもつながってしまう、。つまり、一次元的な欲求を煩雑にし、雑然にし、永久うに沸かし続ける源泉あh、根源的欲求のみならず、我々人間の構造的に、一次元的な欲求を認知し、解消することで、さらに一次元的な欲求のヴァリエーションを増やすことにもつながってしまうことで、一次元的な欲求が生じやすくなってしまっているために起きる、また一次元的な欲求の再生を我々は生きている間に繰り返すに至っている。一次元的よっキュうを我々が解消することがいかに愚かで、前時代的で、後進的な人間のための方法論なのか。。割れ和れはまだ完全に認知するに至っていない。。ソレは我々が現代社会に最適化された人間線を含有してしまっているからであり、人間性がまたは、一次元的な欲求を満たすために最適化されているための弊害、そしてソレは根源的ンは、間違いでしか無いのである。根源的に行って、一次元的な欲求を解消し続ける人間社会は変革が、根本的な土台から変革することが必要なのである。一次元的な欲求を解消し続けても一次元的な欲求は湧き続け、我々が頭を悩まし続けるに過ぎない。一次元的な欲求が生み出し続けリる一次元的な欲求の連鎖は一次元的な欲求を、解消してもまた一次元的な欲求を生み続けるにしか足り得ないことであり、そして自らが生み出す、一次元的な欲求を満たすべくして見たっす、一次元的な欲求はそれ自体が、我々に意味を附さず、一次元的な欲求は我々の認知の限界をたくみに利用した、いわゆる、無限切ろうてきにな、欲求の連鎖でしか無いため、一次元的な欲求を解消し続けいることの無為さが我々は十分に認知、しかしそれもまた、しかしそれおっもまた。、一次元的な認知でしか我々が認知できる一次元的なものでしかないkが、我々は一次元的んことへの唾棄、進歩性を持つべきフェーズに我々あは、ネクストフェーズに差し掛かっているのである。で、だがしかし、だsしがかし、そうはいっても、我々はまだ、全時限的、根源的ん欲求を解消するためのメソッドを持たない。根源的な欲求を解消するメソッドを持たない我々が出来ることは、そろそろ根源的な事象への認知を働かせることが必要なのである。根源的なよっキュうはそれ自体、本当に今現在、後進的な我々が認知できるかどうかは、我々はまだ分からない、根源的な欲求が生じる原因を突き止めることが出来るのは我々には不可能かもしれない。古代より、人間が、アミニズムであったり、様々な超常的な事象への畏怖から生じさせる、神であったり仏であったり、今日の宗教家が言うような、そのような超常的な存在は、我々はいまだかつて認知できていない、。そのような超常的な存在を認知し、逃げこむこと、ある種の逃避行動は容易であるが、我々は次のフェーズに来ている。次のステージは、フェーズあh、根源的な事象の解決だ。一次元的な欲求を解消して、そして、無限回廊に迷い込んでいる時代を捨て去れうべきkなのだ。根源的な、源泉的な欲求は、我々が認知できないだけで、それは、また、三大欲求や、つまらない、人間的、社会的な事物から生じる、一次元的な欲求ではない。一次元tねきな欲求が満たされたとこrであh、、我々が出来ることはただの堂々巡りでしかない。我々が真に、取り組むべきことは、源泉を、欲望の源泉を認知し、ソレを満たすことなのである。我々が必要であり、今後、必要である、そう、必要になる、もの、もの実物、出来事は、源泉を掌握し、我々を次のフェーズへ導くためのメソッドなのである。根源的、厳選的案事象は我々はソレを解消するに至っていない。根源的なよっキュ、う、それはまだ我々の認知科に及ぶに至ってはいないが、、しかいsk,、根源的にはソレをほっ知っている。割れ我が、欲望との闘争の歴史におおいて、必要であるノアh、根源的な欲求をいかに、認知するか。それにつきる。それを仮に、精神的、こころが我々の根源的な欲求の源泉であるとしようl.こころはまさに実態がない、我々の認知科に及んでいない。。こころを満たすものあh、今現在、流通している欲望では案あんあい、ない、先程述べた容易、に一次元的な欲望を満たすことは現代、人間社会で容易なことである。、それは3大欲求や社会的な、精神tねき充足に近いだろう。。そのようなつまらない、後進的で、憎むべき、唾棄すべき、事象はもうすでいnに我々あh手放すフェーズを迎えている。こころを満たすべき事象、こころを満たすべき事象は何に依るのだるか、だろうか。それは一時的な充足をすべて捨て去った。現代の宗教家が実行しているもののさきにあるといえるかもしれない。または、一時的な欲求を解消し続けた先に、いつかおとずれる、根源的な欲求を絶つフェーズへ我々あh訪れることができるのかもしれない。あるいは、もっとなにか、脳髄を揺さぶるような、脳幹をぶん殴るような、そんな衝撃が、精神的とも、身体的とも違う、そういうインパクトを我々あhどうにかして体験する必要があるのかそもしれない。そして、それは天啓に似た、それは気づき、根源的な、もっと、なにか、、。気づくことが必要なのかもしれない。。我々が持っている視点、認知では認知で起案い。。出来ない。認知を超える、あるいは認知を広げる、または認知の裏側にある、ソレを我々は認知することで、それこそ、根源的な、源泉的な、欲求、あるいはそれともまた違う、なにか、現代、現状、人間にhにはい。認知でないん、何かを認知するに至るのかもしれない。進歩的な、その知を我々が獲得するために派、現代を捨てる、執着を捨てる、そうsれは知のカタストロフィーである。それが、革命が必要なのだ。現代我々が、論じる、認知するっもの、知は、真の知へとは至っていない。としかいいようがない。。物量的観念的な充足、それはもう満たすことが可能なのであり、。それを我々はもう100年い所以上、、異常く、以上繰り返してしまっている。本来必要なのは、次のフェーズへ行くことダリ、次の知、知覚、認知は我々が1000年先の人類、10000年先の人類が獲得しているものを、我々h日進月歩で獲得しようとしている。真の知、というものは確実にそんな良い、、お、存在し、ソレは、現代社会、我々が、唾棄すべき、人間の一次元的なもの、そrは1000年後の人間にとてじゃは、非常に視野の狭いもおの、認知に至っていない、あらゆる観念が、我々あh100年後1000年ご10000年後「のために、認知に至るための準備をはじめなければならない。一次元的な欲求、認知は我々がすでに、うんざりするほど、まとわりついている一次元的な欲求は、早々に放棄するべきものである、それからまず、認知し、日進月歩的に個人個人が、一次元的な欲求を捨て、根源的な欲求、根源的な、源泉的な欲求をそうそうに突き止める必要がある。。。それは100年後、またh1000年後の人間にはアタリマエに認知されているもの、そう私が信じているものnにほかならにあない、人間なh、科学技術のみで進歩的、人間的な充足を得られるというのは、ある種の現代社会に蔓延する嘘でしかなく、本来我々が求めるものは、科学や産業、技術にはない。それらが我々に与えるもの、我々を救うものは、しょせん一次元的案欲求をでしかなく、それは今現在語られるつまらない愚かな、欲求のためのツールでしかない。我々が、本来求めるべきは、現代社会、に最適化されることではなく、現代社会に最適化された、欲求、身体的、精神的欲求ではなく、本来我々が求めるべきものは、それを超えた、ソレの下に埋まっている、またhあ、。ソレの裏側に潜む、または、それに内包されている、我々があいまだ認知下におくことができない、根源t気、源泉的な、欲求、または欲求とはまた何かの概念的な観念のを我々は更生のために、更生のために後世ために残すべきものであり、それは個人個人の意識ないから、進歩、進捗が行われるべきものにほかならない。一次元的な欲求は100年、1000年後の人間のコミュニティでは、それhあ、それはすでに実にチープな概念へと堕落していると私は確信を持って言いたい。。100年後1000年後、我々が途方も無い科学ギジュつを手に入れるか、それは、現代社会の病理のひとうつで一つである、一次元的な考え方であるが、我々が本来、欲するべきものは、必要とするべきものは、ほんr内は、本来は根源的な欲求、源泉的な内面、人間という存在が認知で規ていない、認知へ踏み出すことであり、それは100年後1000年後にはアタリマエになっている認知なのである、。我々あhまだ、それを見ることhおろあか、認知することができていない。それは我々の目の前にあるかもしれないし、考えもつかない、超次元的な認知下にあるものかもしれない、あるいは、常識、認知、知を混ぜっ返した裏に潜むような、今世では手に入れられない、真の知ともいえるだろう。宗教家が言うような概念の偶像化、は。教義化は我々の頭皮だ、逃避だ敗北なのだ。100年後、10000年後の人類、とも呼ぶべき我々の次のフェーズである存在が見れば、まさに嘲笑に附さずにはいられないような、後進的で全時代的な、そんな概念、我々が本来追い求めるべきものを放棄して、自ら目をそむけるような、そおようlそのような社会のあり方では、我々に待っているものあh破滅、あるいは、なにかもっと恐ろしい物がわれわれに待っているだろう。一次元的な欲求が我々に与えているものの本質は、破滅、破壊、終焉なのだ。。k我々が闘争するべきあh、経済的な、社会的な、政治的な、科学的な、技術的な、創造的な、文化的な、対人的な、そんな、ものではない。それらはすべて、現代社会をこうせいしている一次元的な事象でしかない、我々を惑わすものの一つでしか無い、100年後1000年後の人間がそのようなものには、おそらくkく、精神的な肉体的な充足を放棄しているだろう。超常的な存在、超自然的案存在、それらが存在するのかというう愚問、我々が、我々人類の中にこそ、認知の次のフェーズへの全身こそが、我々を真の人間、真の知へと導くものにほかならない。」l。人間との闘争、人間内の闘争を諦めることは非常に危険であり、我々が漸進的ことを及ぼす必要がある。。 Permalink | 記事への反応(1) | 01:45
仕事難しい。
何度も何度も同じミスを繰り返してその度に手順を見なおして項目数が1.5倍くらいになってる。それでもまたミスる。
手順書ちゃんと見てたはずなのになんで手順が抜けるのか…実施欄にチェックを入れているのに実施してないのはなんでなのか…自分でもわからない…。
かといって機械化することもできない。機械化したらその機械が正しく動いていることを確認するフェーズでまたミスるきがする。
あと、社内の根回しが苦手だ。
気を利かせたつもりが「なんであいつに知らせた」「俺に話を通さないとはどういうことだ」「あの人には知らせないとだめでしょ」等など言われる。
まなめさんがアメブロを根拠なくバカにするようなオマエがバカだよといいたくなる内容の残念な記事ブクマをつけていて非常に遺憾だったので書いた。その記事のブクマ数を超えたので満足である。今日私が適当に書いたものが3つともホッテントリしたことを考えても、今はてなブックマークでホッテントリしてる記事というのの大半はゴミみたいなものしかないということがわかる。わたし自身がゴミだと思う記事が安々とその席をとれるんだからな。つまりもはやはてなブックマークそのものの機能は互助会など差し置いて終わっている。今後は再びまなめはうすのようなニュースサイトを介してユーザーを育てていく、良い記事を読む楽しさを知らないユーザーがNAVERまとめみたいなゴミ記事ばかりではなくこういうのがいい記事なのだ、と体験させていくフェーズが必要になるだろう。それすら機能しないようならはてなそのものはハコモノサービスになる。
彼女とは相性がいい。一緒にいて楽。
セックスもなんでもやってくれる。たぶん同棲したら毎日フェラしてくれる。
顔もまあギリギリでブスではない。
欠点を挙げるとすれば、化粧下手。身だしなみをあまり気にしないところがある。色んな意味で女っぽくない。
女っぽくないから一緒にいて楽というのはあるのだが。
あと元風俗嬢。これを許容できるか。
彼女と結婚するには、自分自身の精神的な成長が不可欠であると思う。
人は誰しも欠点がある。それを許容できるかどうか。
俺には普通の可愛い女の子に好かれたことがないというコンプレックスがある。
いや、ないわけではない。何回かSEXできている。まあ可愛いと言える女の子と。
それでいいじゃないか。結局は相性。相手の好みにハマるかどうか。
一応ハマってくれた子がいるということは、誰にもハマらない人間ではないということ。
それでいいじゃん。コンプレックス解消なはず。
なぜ解消し切れないのか。そういう子と付き合ったことがないからか。
今の彼女は色んな意味でちょっと変わった子だ。普通の子と付き合えば解消するのか。普通の子なんているのか。みんな付き合えば、どこか変なのか。
いや、客観的に見て普通の子というのはいる。女っぽい性格の普通の女の子。
そんな女っぽい性格の女は、俺は嫌いだったはず。実際付き合っても続かないと思う。
しかし一度そういう子と付き合ってみたいという気持ちがある。恥ずかしい話だが。
そういう子と付き合えば、コンプレックスは解消されるのか。されるような気がする。
彼女は今年から仕事の都合でそこそこ遠くに引っ越し、現在は月に1~2回会う遠距離恋愛となっている。
これは非常にズルいのだが、彼女と離れている今がラストチャンスのように思う。
今から1年ぐらい、普通の子と普通に付き合って、別れる。で、彼女と結婚する。結婚したら、浮気はしない。
それで満足するのかは分からない。きっと浮気は永遠にしたくなるだろう。
性欲だけなのか。心の繋がりを求めてしまうのか。
彼女でいいだろ。おそらくこんなに深い関係を築くことはもうなかなかない。
そんなに深くないのかもしれないが。俺にとっては全てが初めてだし、全て新鮮だ。
今彼女に捨てられたら、俺はどうなるのか。俺が原因で別れることになって、立ち直れるのか。
失って初めて気付く系のやつだろこれ。やめた方がいい。少し未来を予測した行動を取るべきだ。
別れても生きてはいける。そのうちまた誰かと出会うことはあるだろう。
でも数年は引きずるはず。
彼女を手放さない方がいい。俺の未来にとってそれがいいとは思う。素直に思う。
じゃあ結婚か。申し込んでOKするのか。東京で働く気はあるのか。
なるようになるという気持ちでいないといざという時に立ち直れなくなりそうだから、変に煮詰めて考えるのも良くない気がする。
今この瞬間の最終的な結論としては、とりあえずこの性欲どうにかすべきということ。
http://blog.goo.ne.jp/toyodang/e/66fda06802e29f013e26f5d41f769b01
実験物理学を専攻している修士課程の学生の目から見て、考えたことを書いてみる。
日本国内における物質科学や物理学系の論文数が、先進諸国の傾向に反し減少傾向にある要因として、
冒頭に引用したブログの著者は、「大学の研究従事者数および研究時間が海外諸国に比べて少なく、かつ減少していること」と、
「財務的には大学への基盤的な公的研究資金の減少の影響が大きいこと」の二点を挙げている。
これは確かにその通りだが、特に物質科学・工学分野が苦境に立たされている理由は他にもある。
端的に言うとそれは、物理学系の研究室において、実験技術に特化し、もっぱら実験作業とその指導をおこなうテクニシャンが、
多くの場合不在だからである。修士課程の学生は、試料作製・測定系の立ち上げ・および測定と解析・
ディスカッション・学会や会議での発表・論文執筆を一通り経験するのが望ましいとされている。
研究において、そうしたすべてはどれひとつとして欠かすことができない大切なものであるし、なにより修士課程の目的は、
(少なくとも日本においては)研究成果を一つでも多く挙げることよりも、広汎な技術を身につけることにあるのだから、
それ自体に目くじらを立てる必要はない。問題は、しばしば博士課程の学生や教員でさえ、オールラウンダーとして、
ひとつの研究におけるすべてのフェーズを担当することが求められるために、研究活動における分業体制がいっさい確立していないことにある。
旧帝大などの研究型大学でさえ例外ではない。ひょっとしたら、これを美徳だと考えている研究室もあるかもしれない。
これは、学部生と修士課程の学生に対する教育指導に歩調を合わせて研究を遂行していく、国内大学の慣習とも深く関わっていると考えられる。
このことは決して悪いことではないのだが、研究成果を挙げる上では恐ろしく効率が悪い。
選挙カーで名前を連呼した方が、票が多く入るようになるらしい。
民衆はまだまだ愚かだから、有効な手段として使おう、というのはまだ判る。
安全保障関連法案に関して、国会前のデモを観たけど、煽り方が低レベルだった。
もはや、有効な手段にすらなっていない、内向きで、残念な煽り方だった。
別にお題目なんだから、判りやすくキャッチーな造語で良いと思う。
(内閣も「平和安全法制」って呼んでるし、まあ五十歩百歩だろう)
ただ、次がない。
スローガンとしてはアリだろう。つかみはオッケーだ。
最初は理解できていなくて当たり前だ。不安とか不満とか、漠然としたことでも行動するのは立派だ。
そこから、隣の国とどう揉めてて、誰と揉めてて、この法案は誰が後ろにいて、どういう法案なのか。
その理解を促すヒトが居ない。
公正中立とは言わなくても、ゴリゴリに偏向した洗脳するような教育ですら出来ていない。
次がない。単発。2chの大規模オフと同じ。せっかく集めて何もしない。夏休みの思い出レベル。
人が集まることには意味がある。
数が揃って不満の声を上げることはプレッシャーになるし、過去、デモは世界を変えてきた。
キング牧師のかの有名な演説、「I Have a Dream」は、人種差別撤廃を求めるデモでの出来事だ(ワシントン大行進)
失業率に抗議するデモから、政権への批判のデモ、数百人のデモが数千人となり、結果政権が転覆したことすらある(ジャスミン革命)
ただし、運動が盛り上がった結果人数が増えることに意味があるのであって、逆ではない。
成績が良い家庭に本がたくさんあるからといって、自宅の本の数を水増ししても賢くはならない。
ジャスミン革命と呼ばれる事になったチュニジアで起こったデモは、最初はごく少数の規模で始まった。
インターネットでゆるく連携しながら、着実に考え方を広げ、数百名のデモに警官隊が出る騒ぎになっている。
ワシントン記念塔広場を完全に埋め尽くしたワシントン大行進の記録映像は衝撃的だ。
そのテレビの放映は、公民権運動が、一部の黒人だけのものではないアメリカの問題だと雄弁に物語った。
アメリカ国民誰もが当事者であると突きつけたあの映像に残るデモには「20万人」以上が集まったと言われている。
3万人が集まった運動は、チュニジアの政府転覆に繋がるデモの、数十倍の規模だ。
だが、主催者発表の累計35万人という数字は、ワシントン大行進の映像を観た後では、ひどく滑稽だ。
60年安保の参加者だって居ただろう。岸打倒のデモで30万人(警察発表で13万人)だぞ。バカにされたとは思わんのか。
なぜ、わざわざ自らを貶めるような発表をするのか。誰も止めないのか。
最初に言っとくと、俺は安倍さんは嫌いだ。昔っから嫌いだった。
個人としての安倍さんはまだ嫌いだ。だが、安倍晋三内閣総理大臣は、失敗も多いが無難に外交をこなしてる。
安倍内閣も国民をバカ扱いしてるのかもしれんが、テレビや新聞のコントロールは現政権のほうが上だ。
海外の報道までコントロールできているかは判らんが、概ね好意的な声が大きい。
結果を出すのに嘘も方便でやるのであれば、現政権には勝てない。
だから、テレビや新聞に勝てるような煽り方をしないといけない。
所詮は意向に基づいたデータの取捨選択だ。陣営が違うだけで科学者ですらタマにはやってる。
情緒で煽った後に、データを並べて、理路を広げて、説得していくフェーズに移らないといけない。
いつまでもシュプレヒコールを上げるだけじゃ、バカ扱いされてるんじゃなくて単なる馬鹿だ。
憲法学者が反対しているのはなぜか。自衛隊にも反対しているのはなぜか。
軍隊を持たないことを理想とするのか、折衷案として自衛軍は許容するのか。
警察なら良いのか、災害派遣ならどうなのか、海上保安庁はどう扱うのか。
海外からどう言われてもどんな理由でも軍隊は国の外に出さないのか。
全てに答えを出せなくても良いが、せめて想定問答を議論する会合くらいは持てないのか。
キッカケや、最初の入口としては、良いと思う。
そのキッカケから、何を学ぶのか。どう動くのか。それが全く見えない。
情理を尽くせば外交でもうまくいくという主張も、一つの主張だとは思う。
安倍首相を説得するのの数百倍は、朴槿恵大統領を説得するの大変だぞ。
たぶん、オバマ大統領を説得するのは数千倍、アメリカ合衆国を説得するのは数億倍大変だ。
それに比べたら、日弁連と学者の会とSEALDsとミュージシャンに声かけて回って、Youtubeに講義を載せてCSに冠番組作って、次のニコニコ超会議を乗っ取るくらい大したことないだろう。
それが出来そうもないと感じるなら、たぶんもっとスタートラインを下げて、地道に始めるべきだと思う。
モンストのイベントですら、炎天下の中5万人以上集まったんだぞ。資金力でも動員数でも必死さでも負けている。
意義が違うというならその意義をスローガンから掘り下げて広げてくれ。
きのうはじめて1日3社回った
どの会社も説明会やって、そのあとは初めの1社は筆記試験、残りの2社はGDだった
1社目は一部工事中のビルで営業中であることをわからず、別のビルに入ってたら企業の方から電話が来てはじめて営業中であることを知り、慌てて入ったが遅刻した
筆記試験は√の問題やたすき掛けが必要な因数分解、角度の問題が出てきて轟沈した
2社目のGDは、発表者でないに関わらず、(発表者でなくても答えていいと言われたが)発表後の会社の人の質問に答え、会社の人を納得させられなかった
2社目の説明会の終了が20分くらい遅れて、使うつもりだった安い鉄道の経路を選択できず、速いが高いルートを選ばざるを得ず、損した
予定時間通りに終わらない会社が多すぎる、これでは残業もなくならないと思った
3社目の説明会の開催前に、会社の人に「この業界を中心に回っているのですか?」と聞かれ、そうですね、と答えた
会社の人が他の学生に同じ質問をしたら、他の学生は業界を絞った理由とか詳細に答えていて負けを感じた
3社目のGDは1グループでしか行わなかったが結論が出ず、選考に不安が残る結果となった
先週(お盆明け)と今週の2週間で19社回った(もちろん説明会だけの会社もある)が1社も選考フェーズが前に進まない
来週は11社回り6枚履歴書を書かないといけないがどれだけ残るか
職業柄、今回のオリンピックのロゴについて周囲から意見を聞かれる。
当然、トートバッグの件もワンセットで。
「デザイナー」なんてそんなもんでしょ、
そんなこと言ってたら、水野学なんてどーすりゃいいのよw
という話で、だいたいこの話題は切り上げられる。
めんどくさいよね、あの業界はスター選手を作り上げるのに必死だから。
こうなってくるのは仕方がないことだと思う。
問題の元凶であるデザイン業界とか代理店とか、巣食うメーカーの関係を問いただすために、
オリンピックのロゴが入った商品の不買運動すればいいんじゃないかと思ってる。
それで売上が落ちればオマエラの勝ちだし、もし影響が無ければ、
そもそもデザインが与える影響が小さかったということになる。
あとは、嫌儲民の大攻勢で不買運動を盛り上げるフェーズに入ってるんじゃないかな。
がんばれ、オマエラ。
「任務の遂行に必要な権限がメンバーに与えられていないか、重要な位置にいるダメなメンバーの早期排除に失敗すると、そのプロジェクトは破滅する」という事が判った。
・二回は、プロジェクトリーダーが、リスク回避やプロジェクトを終わらせるのに必要な知見を持ってなかった。
・一回は、エンドユーザーの窓口担当者が無力かつブレブレで、期限までにステークホルダーの意思統一をできなかった。
・一回は、クリティカルパスの一部を担当していた協力企業がありえないほど無責任で、すべてのフェーズで作業を遅延させた。
特に、設計フェーズの責任者がダメだと100%破滅したねハッキリ言って。
設計さえマトモならば被害は「設計通りに出来てない部分の修正」の繰り返しで片が付く。
設計がアホだと、「設計通り作ってるのにダメな部分」と「設計に抜け漏れがあったので、実装者が場当たり的に対応した部分」が混在し、
「後から考慮漏れに気づいて口頭で確認・修正したため設計書が古い」「そもそも設計書が足りない」という状態になって、
設計が不合理だと、メンバー毎の理解度の差がプログラムに反映されてしまってソースコードがグチャグチャになるし、
どんなに有能なプログラマーでも、「あるべき形が決まってないアプリ」は作れない。
新人に設計を担当させているウチの上司は死ねばいいのにと思いました。
君たちは今は残業1時間程度で帰れてるけど、4か月後には土日が無くなって、その時期が最低3か月は続くからね。
頑張ってね。