はてなキーワード: エッセイとは
https://togetter.com/search?q=%E4%BD%90%E5%80%89%E8%89%B2&t=q (参考)
一部でも話題になった色紙1600枚事件(そんな風に世間で呼ばれてるかどうかは知らない)の当事者である佐倉色氏の描いたエッセイ漫画を読んだ。
というのもたまたまトゥギャッターでねとらぼの反論記事に関するまとめを見て本分に何が描かれていたのか興味が出たから。
問題の記事だけだと何があったのかさっぱりだし、周囲の反応も漫画の方を読まずにあっちが悪いこっちが悪いと勝手な推論を言ってる人が多くてこりゃあ漫画の方も読まないと何がなんだかわからないぞぅということで即購入。本の内容自体も面白そう(笑える方面じゃなくて好奇心を刺激される感じで)だったので。
で、読んだ感想としてはまあ色々ある。編集者さんヤバイなとか。
ただそのあたりは正直一般的な感想として出尽くしているので、今回は場外乱闘的な部分であるねとらぼとのあれそれに絞って言う。ねとらぼという会社としてはともかく問題の記事を作成した個人の方とはあまり関わりあいになりたくないなあという結論。
問題の記事を「整然とした反論だ」と言っている人を見かけたけど、別に整然とはしてない。主張そのものは理解しやすいけど。
漫画家(兼業作家)の佐倉氏は、当時の担当であるボーノ氏(仮名)との間にトラブルがあり、精神的にかなり疲弊していた。(このトラブルの顛末をまとめたのがタイトルにも入れてるエッセイ漫画)
そして編集とのトラブルで疲弊していた時期に起きた「本来の問題とは直接的に関係があるわけではないけれど、関連して起こったプチ騒動」がねとらぼの件になる。
佐倉氏は度重なるストレスから自身のツイッターやブログで「色々あって疲れたので(今回問題にする部分とは関係ないので詳細は省く)商業から暫く距離を置くつもりでいる」という話をした。それを見たねとらぼ側が『「桜色フレンズ」の佐倉色先生が商業マンガ家引退を表明 月刊少年エース担当者とのいざこざが原因』というタイトルで記事にした。
佐倉氏は該当の記事に関して不満があり、直接電話で意見することになった結果、最終的に該当記事については削除されるに至った、というのがまあごく完結で客観的な事実と言えると思う。
今回エッセイ漫画の中で騒動中の一幕としてこのねとらぼの記事や実際のやり取りに関する話題も触れられており、ねとらぼ側はそれに対して「事実と違う」と反論記事を上げた、という流れ。
参考にできるものがリンクできるところにないため解説。これは実際の漫画を読んで自分なりに解釈した内容になるので、気になる人は一次資料になる漫画を読んでもらった方が早いとは思う。
そもそもとして佐倉氏がねとらぼの記事に気が付いたのはボーノ氏からの電話によってであり、彼と話をしながらサイトの記事を読んでいた状況であることが描写されている。ここは割と重要。
まず、佐倉氏自身は自分のブログでの発言について当時の心労や混乱、なるべく穏便に事を済ませたいといった様々な思惑から『「批判」と「フォロー」 「辞める」と「辞めない」が入り混じった不思議な文章を書綴っていた』としていて、本人自身が分かりにくい点のある文章だったと認めている。
その上で、言いたかったことは『商業を撤退。少なくとも当分はこりごり。もし縁があったら商業復帰したいけど当分は休みたい』であるとしている。
だが、ねとらぼの記事ではタイトルのインパクトの強さや記事の要約の仕方から、この記事では本意が伝わらないだろう、ブログを読めば分かってもらえるだろうが記事を見た人がわざわざブログまで確認することは少ないだろうと判断。
(補足:この時点で佐倉氏には「記者の人は本当に自分のブログを読み込んだのだろうか」「ざっと呼んだだけでセンセーショナルな話題だからと大雑把な纏め方をされたのではないか」といった不信感があったのでは?と思われる。)
また、ナイーブな話題であるのにブログの記事だけを元にされていて、発言の裏にどんな意図があったのか、ブログの記事は事実なのか、といった詳細を確認しなかった、佐倉氏とは直接コンタクトを取ろうとしなかった点について『本人に事実確認もせず記事にする』と認識している。(補足:出だしの時点でねとらぼに対してよい印象を持っていなかったことがわかる)
こうして記事に対して不満を抱えていたところに、ボーノ氏がブログに掲載していた画像を使っていたことについてほのめかし、著作権に明るくない佐倉氏の画像を使ってよいものなのかという疑問に対して『普通にナシですよ』と発言。
(補足:著作権的に引用の範囲であれば無断で画像を使っても問題ない。問題の画像が引用の範囲だと認められるかどうかはそれこそ権利に詳しくないと難しい、素人では判断ができないのではないかと思う。が、逆にそんなものを「普通にナシ」と軽々しく言ってしまえるあたりボーノ氏も著作権に明るくないと思われる。)
(さらに補足:この適当な説明のせいで佐倉氏はねとらぼに対して「人の真意を汲み取らずおざなりな要約記事を掲載した上に普通にナシである画像転載までしたのか」とマイナスの印象を強めたと思われる)
そんな中で佐倉氏はボーノ氏にお願いされた「画像の取り下げ」(本人としても下げて欲しかったとは思う)を依頼するために直接ねとらぼへ電話。
(補足:佐倉氏がまず気にしていたのは大げさなタイトルと記事だけでは氏の真意を汲み取れないことだったので、目的である画像取り下げとは別に個人の思惑として記事そのものについてもどうにかして欲しいという思いはあったと推測できる)
会話の内容については
という流れだったとしている。
なお、折り返しの連絡を待っている間の描写の中には明らかに焦点のおかしい自身の絵や、善意の気づかいの言葉すら悪意に取ってしまうほど追い詰められていた、と自身が正常ではなかったことの説明も含まれている。
(補足:つまりこの時点で、電話の時も作者が冷静ではなかったことが読者に伺えるつくりになっている)
折り返しの連絡は編集長から(最初に電話をした人とは別人)であり、「許可は取っていない。今回の記事は削除する。しかし記事タイトルは残す」という内容。
それに対して佐倉氏は漫画内で『私の希望は無断転載された画像の削除と事実と違うタイトルの変更です』としている。
(補足:最初の電話の部分ではタイトル変更を希望したということは描写されていない。タイトルを誇張だと認識していることは描写されている。)
しかしこちらの主張は聞いてもらえず「(記事は消すが)画像は無断転載ではない」ということを何度も言われ、『半ば怒鳴りつけるような強い口調』だったと描写されている。
画像の利用については佐倉氏の認識としてはお礼漫画(2ページ)全部を丸々掲載されたという状況で、これが無断転載でなければ何なんだろうと疑問に思っている。
また、記事の削除理由として佐倉氏から要請があったためと説明すると再三確認され、最終的に一方的に電話を切られた、という流れだったとしている。
(補足:佐倉氏は名前を出すことを再三確認されることの理由がわからず、もしかして脅されているのではと受け取った)
そして記事は削除されました、という流れでねとらぼに関する描写はだいたいこのくらいだと思う。
これは全文参照できるので直接見るのが早い。
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1706/10/news018.html
あえて重要と感じた部分を要約すれば
といったあたり。
これらを確認した上での個人的な推測を述べる(もしかしたらこういうことなのではないかという話でこれが真実だと言うつもりはもちろんない)。
まず、前提として確たる証拠が出ておらずどちらも当時の記憶を頼りに話しているのだろう、という判断しかできない以上、どちらの発言も「主観的事実に基づいたものであり、一定の事実性はあるけれど真実を語っているわけではない」と考える。
まず、佐倉氏はねとらぼに電話をした。主目的としてはもちろん依頼された「画像の取り下げ」である。
しかし、氏はねとらぼ編集部に対してかなりマイナス印象を持っており、個人的には画像の取り下げよりもこちらの意図が伝わらないと思われる記事の内容の方が問題だった。
そしてまず記事の作者と話をした。話の内容として恐らく
(2)佐倉氏は次のように主張しました。「1:自分に断りなく記事が掲載されている」「2:画像は無断転載である」「3:文章もブログからの無断転載である」
ここは間違っていないと思う。漫画での主張(会話の内容としてと言うよりは本人の認識部分)とも一致しているからだ。
そもそも漫画の会話内容は実際の会話の要約だと思われる(あんな短い会話で話が済んだわけがないと思うので)だろうから、全体としてまとめたらそういう話にはなるだろう。
ではその主張を元にどのような会話が繰り広げられたのか。
繰り返すが本人も認める通り佐倉氏は著作権に詳しくなく、編集部として直接取材はしていないことも画像の利用に許可を取っていないことも認めている。であれば「裏取りもせずに勝手に画像を使ったと認めるんですね。であればこちらに断りなく使用した画像を消去して下さい」と依頼して何の不思議もない。それが主目的だし。
ただ、ここで画像に絞って主張したかはかなり怪しい。繰り返すがボーノ氏の希望である画像の削除とは別に作者自身の希望として記事内容そのものに不満があったのだから。
というか二度目の電話の時にタイトルの修正が希望だと言っているので、一度目の電話の時に画像の削除と一緒にタイトル修正も主張したと考えた方が妥当。
で、無断利用したものを消して欲しい、という希望に対して、もし仮に「いやこれは著作権的にこれこれこういう理由で別に消さなくてもいいものなんですよー」とか「今回の記事は転載ではなくて引用の範囲なのでー」という話になったのであれば別だが、ねとらぼ側の主張を見るにそういった説明をしたという記述はない。あくまで「事実だから報道したまで」「転載はしていない」という主張である。
無断で利用したことを問題視しているのに、「そうですね無断です」と言えば「じゃあどうにかしろよ」と言われるのはある意味当然の流れでしかない。
ここで「無断ではあるが無断であることは問題にはならない」ということを説明できれば話は違ったかもしれない(佐倉氏が冷静ではなかったのでその説明に納得してもらえたかどうかは分からない)が、ねとらぼの主張ではそれを説明したようには見えない。こじれるのも残当である。(文面と漫画だけで判断するなら)
「無断で使ってるんだから消して下さい」(誤った著作権への認識と心労による疲弊による主張)→「事実を書いただけです。転載はしていません」(引用なので法的に問題はない)→「いや、さっき確認取ってないって言いましたよね?なんで消せないんですか?」(法的に問題ないことの詳しい説明がなされないため主張の意味が分からない)→「いやですから、転載をしたわけではないので……」(著作権には違反していない)
といったような堂々巡りがあったのではないだろうか。それならお互いに「話が通じない」という認識になるだろう。
あと、電話内容の(4)についてだが、「商業引退ではないのか」と聞いても作者は「いや距離を置くだけって書いてあるやん」としか思わなかったのではないだろうか。佐倉氏の言う真相とはもっとブログに書かれていない情報を引きだそうとする努力はないのか、編集者の行動が事実だったのかの確認はしないのか(漫画で「漫画家の一方的な主張を元に記事にするの?」という疑問を持っていた)という意味である可能性があるので、この部分は認識の違いのような気がする。
記事自体の削除云々については、佐倉氏自身は記事の内容そのものを問題視していた(事実とは異なる、誇張された表現だという認識)ので、その認識からくる発言は記事の削除を求めるものだと受け取れるものであった可能性は高いと思う。
疲弊してパニックを起こしている作者からの電凸である。口調も実際は漫画であるような冷静な口調と考えるよりは興奮してそれなりの語気だったと考える方が自然。なので編集部が「この人話が通じないな」とおざなりな対応になってしまったとしても仕方ないというか割と当然だし、間違った認識を元に問い合わせている作者に対してわざわざ間違いを訂正する必要もない。
よってねとらぼの対応は「間違ってはいない」し、仮に漫画の内容が正しくてもねとらぼ側に不利益な内容であれば当然反論する権利はある。
ただ、「漫画家と編集者の確執を取り扱った記事を裏取りせずに記事にした(電話取材は行ったが不在で話せなかったため漫画家のブログという片方の主張しか確認できない状況なのに記事を即公開した)」のに「当人が当時の精神状況は異常だったと再三繰り返しているエッセイ漫画での記述については事実関係が違うが裏取りはしたのかと反論する」のはなんともダブスタ構造だなぁと思った。(そして漫画家の発言を一次ソースとして掲載しました、編集者側の発言は取材できなかったけど事実の報道なので問題はないです、とするならそれこそ飛鳥新社の主張と何も違わないのでは?)
ひどすぎる。
しかし、残念ながら同じ業界で仕事をしている人間として、充分にありえるだろうなという感想である。
この作者が嘘をついてるとは思わないし、事実を誇張して書いているとも思えない。
(もちろん、そうでない編集さんの方が多い。と、信じたい。)
「俺が●●の編集長だとわかっていて物を言っているのか!」と恫喝に近いことを言われたこともある。
基本的に、編集と漫画家というのは一対一の関係であり、いわばそこは密室である。
もちろん編集者には同僚や上司がいるわけだが、漫画家とのやりとりは一対一になるので、
いちいち同僚がどんなやりとりをしているか共有しているわけではないのだ。
だから、編集が漫画家にパワハラをしていても、セクハラをしていても、
間違った常識を刷り込んでいても、周りは気がつかないのである。
同じ編集にはいい同僚でも、漫画家に対してどういう態度に出ているかはわからないはずだ。
漫画家の方が周囲に相談する等して、助けを求めなければ、事実は一生闇の中となる。
ではもっと漫画家が大声で被害を訴えればいいのではないか、という意見もあると思う。
それこそ潰されるのではないか、二度とどこからも声がかからないのではないか。
「そんなめんどくさい漫画家に二度と仕事は来ないかもしれない」という恐怖が、漫画家側にはある。
読者だってそのイメージが邪魔して作品を楽しめなくなるかもしれない。
だから、佐倉色さんがしたことは、とてもとても勇敢なことだと自分は思う。
しかし、1人の作家が、嘘をついてまであそこまで大きい会社にたてつくような真似をして、なんになるというのか。
あのエッセイを発表するのに、どれだけの勇気が必要だったろう。
「こんな編集ばかりではない」という声がある。
まともな人、仕事ができる人、優しい人、いい人、たくさんいると知っている。
しかし今回のようなことが数え切れないほど闇の中に葬られてきたというのも、また事実なのだ。
考えてみてほしい。
もしこれが、他の業界での不祥事であったなら、該当の会社はどうしただろうか。
今回の本の内容が事実であろうがなかろうが、角川は何かしらの声明を出すべきであろう。
事実を確認し、二度とこのようなことが起きないよう、改めて社内で徹底する。
事実でないなら、ねとらぼのようにはっきりと責任の所在を明らかにした上で抗議すべきだし、
ボーノ氏がまったくの無罪であるならそこはきちんとボーノ氏を擁護するべきだ。
事実なら、今後このようなことが起きないよう対策をとる旨を、たとえ方便でいいから発表するべきだ。
何の声明も出さないということは、今後もこういうことがあるかもしれない、
しかしそれに対しての対策は全く練らないと、暗に言っているようなものである。
それでは同じ会社に在籍する他のまともな編集者の仕事にだって差し障りがあるのではないだろうか。
「こんな編集ばかりではない」ということは、筆者である佐倉色さんや、他の漫画家ではなく、
一人暮らしなので比較はできないけど自分の作るメシが100%おいしい。
白身だけ部分と黄身だけ部分、各々を美味しく食べてこそ卵かけごはん。まずそこ。アツアツごはんに卵を割りいれ(直接主義、当然ごはんにはくぼみを付けそこに卵を割りいれる)、そっと醤油を回しかけ、黄身を潰さないようくにくにっと白身だけの卵かけごはんをしばしたんのうする。
え?白身だけかけごはんの美味しさ知らないの?東海林さだおのエッセイ読んでよ。白身こそ卵の味って書いてあるよ!
白身の味はたまごの味だなぁ、とずるずるほおばりながら、満を持してぷっつと黄身をつつく。どろっ、と流れる黄身。すかさず醤油を一滴二滴(この際本当にお願いなんですけどしぼりたて生醤油に代表される真空押し出し式の醤油を使ってください、使いやすいだけじゃない香りが違う)垂らして、すこし固まった黄身とごはんをゆるめに箸の先でいなして食べる。はー、フォアグラなんかいらねー黄身がさいこう黄身がすきー!ってなる。
思ったんだがそれまで色んな考えのある個々の人間と思っていたのに自分に好意を向けられた途端、ただもう人格もなにもなく男であるとしか思えなくなるのかもしれない。うまくいえんが個が埋没して私とセックスしたい相手になる(と、自分が勝手に思ってしまう)のがたまらなく嫌なのかもしれん。はじめからそうと認識してる相手とは平気なのはいっさい人格を認めていないからだ。人格を認めていたはずの人がそうなってしまうのが嫌なのかも。性的なものに嫌悪をかんじるのか?というとそんなこともない。むしろ逆だ。ただし非日常だ。日常と同じ場所に性的なものがあるのが嫌なのかもしれない。それはなぜなのか?なにか禁止されていたことがあるのか?過去にトラウマがあるのか?そんな覚えはない…。でもそれとイチャイチャするのが苦手というのもまた別の話のはずだ。イチャイチャは性的じゃない。じゃあやっぱり自分の女性性が見つめられるのが嫌なのか?話の流れ的にはそうとるのが自然だが、自分の女性性を否定したくなるようなエピソードは特に過去にない。覚えていないだけであるんだろうか。そういえば最近までスカートあんまりはかなかったな。好みのデザインのものがなかったというのもあるけど、ふわっとしたのが嫌いでたいとなのばかりだったな。ピンクとか着るのに抵抗あったな。これも似合ってないのもあるんだけど、いわゆるぶりぶりした女らしいものが嫌いだったな、馬鹿にしてたな。なんでなんだろう。母や身近な人がそういうものを否定してたわけじゃない。勝手に自分でこじらせてたのかな。昔から読んでた漫画やらエッセイやらの影響なんだろうか。なんでこんなにぶりっこ(という表現からも嫌悪がみてとれる)することに嫌悪感を抱いているのか理由が知りたい自分よ。
ような気がする。
なんか悪いことをする人間が大魔王のように描かれてて違和感がある。
最近の少年漫画なんかだと殺人鬼ですらバックボーンが描かれたりするのに。
なんかどっかでこの作風みたことあるなぁと思ったけど女性向けの商業向け漫画がだいたいこんな感じだ。
男性向けの漫画は女性向けの漫画に10年遅れてるとかそんなようなこといってる人いた。
でも、ぶっちゃけ女性向け漫画もジェンダー平等的な観点で見ると大差ないよな。
むしろ今まで評論の表舞台に上がってこなかった分中身はボロボロだ。
タラレバ娘とかヒモザイルなんかで炎上したみたいにこれからは女性向け漫画も厳しい批判にさらされるようになるのかもしれないな。
とふと思ったのであった。
この長さの怪文書を投稿することにためらいはあるけれども。
偶には、言いたい事を思い切り言ってもいいかなと思う。
まず自分のことを書くと、稀にしか更新しない覚え書きのようなブログをやっている。あと好きな文章を書く人は結構な頻度でチェックしているくらい。
自分も新参だけれど、新しいタイプのブロガーの人が使う、押しが強めの手法がじゃっかん苦手である。
新規にブログを始めた際、こちらのブログは全く読まずに(本人には割と分かるものです)、宣伝のためにスターを付けてくる人が一定数いる。まあ当然、興味を持たれる文章を書けないこちらに非があるわけですが、「貴方のことは気にならないけど私の書いた文章はぜひ読んでくれ」と受け取ることもできる。
露出を求めて「記事お題」を引用し、全く関係のないことを書く人も多い。例えば「雨の日グッズ」というお題を引用しておいて、いつもの調子で日記を書く。露出したいのは分かるけれども、そのばあい読者が読みたいのは傘や長靴の話であって、職場の愚痴とか趣味の紹介とかではない。
あと、リクルートの適職診断、またはリクナビNEXTのグッドポイント診断を薦めるエントリ。MIIDASの適正年収診断、dTVの紹介。日常会話みたいな感じでお勧めされるんだけれど、あれは紹介料が入るからやっているのだそうで。道理で数が多いと思った。…あれはステマにはあたらないのだろうか。「PR記事」とかの表記がない分、「選挙前にさりげなく電話をかけてくる友達」みたいな感じがして、個人的には警戒してしまう。
CGMは、そのコンテンツの持つ価値の判断が難しい、とは思う。それは人によって違うし、ネットでの人気には「親しみ」も大きな要素である。
ただ分かりやすい基準として、例えば、寄稿や出版の話が来る人にはそれだけの実力と、その人固有のブランドがあるわけで。
なので余計に、「とりあえず100記事書きましょう」「SEOを勉強しましょう」「PVを稼ぎましょう」と、クリックしてもらうことに血道を上げる風潮がどうもよくわからない。読み手に客観的な価値を提供できているのかな?と、不安になることはないんだろうか、と。(言うまでもないことだけど、価値がある/ない、という話ではない。「価値のものさしはどこにあるのか」という話)
はてなの人なら、自分なんかよりよほど熟知されていることと思うけれど。執筆され、編集の手が入り、校正されてデータが印刷所に渡り、取次を経て本屋に巡ってきたり電子書籍になる、それだけの手がかかった、色々な「出版物」は本当に凄いなと思う。
個人がもっている「有益な情報」には限界がある。取材して一次情報にあたるプロに、正確性や量で比肩するのは正直、むずかしいのではないだろうか。
比肩しなくてもいいけれど、そこから発生する「収益」は最大限にしたい、というなら、それはインターネットが役に立たなくなるわけだと思う。
媒体が紙でもネットでも同じことで、例えばキッコーマンのサイトを見ると、料理の基本から旬の料理から詳しく載っている。歯の健康について知りたいときは、クリニカ辺りのサイトが役に立つ。商品の紹介記事にしろエッセイにしろ、企業がやっている媒体に掲載されている文章をみると、何歳ぐらいのどんな経歴の人が書いているんだろうと思う。
コードや料理が商品になるように、文章もまた商品として存在することは確かだ。ただ、コードを個人がお金にするにはそれなりの手順が必要だと思うけれど、文章はなぜか、個人がネットに上げるだけでも「儲かる」。
他にも、ネットにアップするだけで儲かるものは色々あるけれど、合法かつ元手がかからず、特に技術の習得をしなくてもできる「稼ぎ方」として、「文章を書く」というのは確かに適しているのだろうとは思う。
ここまでを踏まえて。「商業のクオリティや情報量には敵わないが(※ケースバイケース)、読んだ人に満足を与えるような文章を書き、お小遣い程度の利益を得られる、Win-Winの取引(読者が読む時間によって「収益」を発生させるなら取引みたいなものではと思う)」を考えてみる。(ものすごく飛躍しているような気がするけど気にせず進めます)
商業ではなく、市井の個人が書くことに意味がある文章とは何か。
それは、「その人にしか書けない文章を書く」ということではないだろうか。
別に、個人情報を晒せということではない。出身地や職業、家族構成は確かに、その人を知る大事な情報だけれど、同じような属性を持った人が世の中にはごまんといる。
「他者から客観的に見た自分」と、「自分の演出したいキャラクター」には、往々にして懸隔がある場合が多いと思う。シニカルに渋く決めているかと思えば、愚痴や悪口を書いてしまったり。写真にお洒落な加工をしていても、背景がどうも決まっていなかったり。「本当の自分らしさ」は、他者からの反応や自省によって得られるもので、見たくもない自分を見せられることも多いし、自分の評価されたい項目と他者から評価される項目が違ったりもする。
それでも。「自分の良いところ、推せるところ」を見つけて、「それによって他の人を満足させ、楽しませる」ことが、「個人としてメディアをやること」の強みなのではと思う。
その人にしか言えない言葉、できない話。培ってきた価値観、文章のテンポや言い回し。自分なりの軸による知見や考察。人によってはイラストや作品。例えブログ名や使っているテーマを変えても、文章ならば増田に書いても、「ああ、あの人だ」と分かってもらえるかどうか。
「その人にしか書けないブログ」こそが、個人ブログの存在意義なんじゃないだろうか、と。
「商業に出来なくて個人ブログならできること」は多くある。言及合戦、ボールの打ち合いもそうだし、商業の連載や肩書を背負ったブログと違って、思ったことを好きなように、題材も自由に書ける。
日記を見ると、今日したこと、最近興味のあること、生活や感情の移り変わりを感じることができる。例えば料理や写真のブログであっても、書いている人のキャラクターが違えば、受ける印象は全く違う。
「その人らしさ」が感じられるなら、面白くないブログなんてひとつもない。どんな個性でも、ネットに上げれば一人くらい、それを楽しんで、好きになってくれる人がいる。それがCGMの良いところで、インターネットが普及した利点であると思う。
さらに言えば。有名ブロガーの人たちを見ていると、やっぱり「読者を楽しませること」にとても力を入れているなと感じる。
スタイルは人によって様々だけれど、重い段落がつづくとその人のやり方で空きを入れたり、ボケてみる。自分の愛されている分野以外のことはあまり書かない。反応がよかったらまた掘り下げる。とか。(まあ、こうやって分析されるのも嬉しくないのかもしれないけれども。)
当たり前に、お互いがWinWinになっている関係で。それは愛されるよなあ、と感心したりする。
「互助会」という言葉について書くにあたり、ブログをやっている人を便宜的にタイプに分けます。
A)古参。はてダ時代からやっているような人。総じて文章が上手い。更新頻度は低め。交流はあまりしない。
B)新参。好きなことを書いてあわよくば若干の収入を得たい感じ。更新頻度が高い。交流が好き。
C)アフィリエイター。以下のようなタイプがあるように見える。
・ガチのアフィの人。それなりの戦略があるタイプ。「かわいい猫画像!」とか「速報・芸能ニュース」とかそういうやつ。よくダッシュボードの右に載っている。他にも色々やっていると思われる。
・何を考えているのかよく分からないタイプ。ほぼ中身のない記事にひたすら広告を貼る。偏狭そうな人が多い。
・「ブロガーとして」明確に互助を目指し、ブクマ不正している、らしい。偶に増田で告発されているけど割とスルーされている印象(興味がないのでよく知らない)。
よく見かける「互助会」という言葉は、B)に向けて使われる。「お互いのブクマコメントでブクマ数を稼いでいるんだろう!」というやつ。
でも、実際のところ。「当たり障りのない敬語のコメント」は、「相手に好意をもっていて話しかけたいから」「交流が楽しくて」やっているのだと思う。
その証拠に、「スター・ブクマ・フォローしたけど返してくれなかった!PVが伸びない!」なんて愚痴を書いている人は誰もいない。(このクラスタは素直な人が多いので、そういう気持ちがあったらたぶん正直にそういう記事が書かれ、誰かの目に留まるのではないかと思う)
「ブクマしてほしい」という気持ちももちろん多分にあるだろうけれど、自分がリアクションするにあたっては、利益を期待してやっているんじゃない、と思う。
嘘だと思ったらそのへんの、自分が「互助会」と呼んでいるブロガーに聞いてみたらいい。相手に言葉をなげかけるのが楽しいから。相手のことが好きだから。たぶん、思うより多くの人が、そう答えるのではないだろうか。
そうはいっても、はてブ的には馴れ合いコメントは確かに鬱陶しいだろうと思う。では、コメント欄を使えば解決する話ではないのか、とも。
そう考える人はもちろんブログを書いている側にもいて、読者に向けて「ブクマでなくコメントで交流しませんか」という提案をするブロガーもいる。読者が何百人レベルになってくると、はてブ側に気を遣ってのことだと思われる。
Twitterとの連動など、利点はあるようだれど。言葉をかけたいだけなら、ブロガー本人が「互助会」と叩かれるリスクをとる必要もないのではないか。コメント欄をもっと気軽に使っても良いように思う。
もうひとつ。別にお互いに便宜を図っているわけでもないのに、「互助会」と呼ばれるのは何だかおかしい気がする。「交流会」「ひつじ会」とかのほうが実態を表しているのではないだろうか。(「ひよこ会」とかでもいい。何かかわいい名前がいい)
で、じゃあ「スター・ブクマ・フォローで利益を得ることを目的とした行為」はないのか!というと、うんざりするほどある。
C)のアフィリエイター系。これが本当にしつこい。見るからに書いていて楽しくなさそうな、NAVERまとめ的なブログからのリアクションがそこそこの頻度で来る。凄かったのは、同じ記事に2度3度つけてくる人。無言でそれをやられても、ただ気味が悪いだけで、何かを返したいとは思えないのだけれど。
相手の人格や思いを無視して、金銭のためにブクマをつけて何が楽しいのか、と。他人の顔が札束にしか見えていないような、うわべだけの文章を読みたいとは個人的には思わない。まして広告をクリックなんてしない。
これは自分に矛先が向くことを恐れているとか、好きな人を擁護したいとかでもなく、単純にクラスタの分類として。交流勢よりも、こういった「機械的な無言のリアクションによって、露出や返報を期待する」アフィリエイター勢のほうが、真に「互助会」と呼ばれるに相応しいのではと思うのだけど、どうだろうか。
ネット上で、文章で稼ぎたいのは勿論、悪いことではない。でも、個人的に読みたいのは、誰でも書ける情報のまとめとかではない。
アフィリエイトをやっている人であれば、どうしてそれを始めたかとか。情報収集はどうやってしているかとか。ライバルはいるかとか、作業するときにかけている音楽とか。その人にしか言えない言葉、面白い話。そういう文章が読んでみたい。
とはいえど。面白かったり為になる文章が無料で読みたい、というのもある意味、何というか難しい話だとは思う。
医学辞典なんて手元にないからネットでいいや、とか。先述のように、企業が宣伝のために作成しているページを利用する、とか。「ネット」と書いたけれど内訳は、キュレーションサイト・個人がアフィ目的で作ったサイト・質問投稿サイト・個人ブログのどれかが引っかかることが多いのではないだろうか。
それが確実な情報源でないことは、もちろん周知の事実である。それでも取り敢えず適当な情報がほしくて検索する人がいるから、それにあわせて少ない労力で情報を供給し、利益を得ようという流れが自然に出てくる。
「分かりやすく出所の確実な情報」ならば、上述のように、出版業界の商品に頼るのが却って近道ではないかと思うことが最近増えている。「集合知」は確かに無料だけれども、「文章」にクオリティを求めるならば、書籍を買うか図書館に行けばいい。紙が面倒ならデータの形で入手すればいい。
商業としての出版を信頼しているから、例えば某警察官やめたブログで暴露されていたように、CGMのふりをして売名する商業があるとしたら個人的には少し悲しい。プロとして作り上げたもの、プロモーションされたものに、正当な敬意を払いたい。
…ここまで書いてきて心配になったのだけれど、出版業界の回し者ではなく、ごく普通の読書好きのオタクが書いています。信じて欲しい、としか言えないけれども。
逆に言えば、ネットで、商業ではなく個人が発信するとき、それは受け取る側となんら変わらない、「普通の人」なわけで。文章を発信する側は全ての責任とリスクを負うべきで、受信側は何を言っても良い、ノーリスクハイリターンな立場である、とは自分には思えない。
ネットを使っている人であれば誰でも、ある程度の文章は書けると思う。たまには「発信側」になってみるのも、悪くはないんじゃないかと思ったりする。
同じ人間が一人としていないならば、誰にでも、「その人にしか書けない文章」があるはずで。私はそれが読みたい。
色々書いてきたけれども、これが正しい見方であるとは自分で思っていない。誤りや偏りの指摘も含めて、議論の一助になればと思う。
「絶対子供欲しい!!!!」みたいなポーズ取ってる人自体、あまり見ないけど…
現実で人と関わらな過ぎて、ただそういうエッセイ漫画の存在だけで判断しているの?
懺悔させてください。
快適すぎて、今までの自分は一体なんだったんだと思うほどです。
adblockというのは、インターネットのページ上の広告バナーをどういうわけか非表示にしてくれるふしぎな機能です。
存在は今までも知っていましたが、
『無料でサービスを利用させていただく以上、広告費で運営しているサイトの広告を非表示にするなんて私には出来ない!』というポリシーを貫いていました。
さっきまでは。
スマートフォンでページを閲覧していて、スクロールして次のページに飛ぶリンクをタップしようとした時に
急に半透明のバナーが降りてきてちょうどリンク位置に重なってタップしてしまい、
『あいつたまにウザいけど、本当はいいやつだからな…』と、まるで腐れ縁の友人を懐かしむようにそこまで腹を立てないようにしていました。
さっきまではな。
ある意味、意地になっていたのでしょう。
『個人的にどうしても受け入れられない内容の広告バナー』が表示されました。
『友人に恋人を取られた経験がある人間にNTR系エロ漫画の広告が』
『結婚相手の両親との折り合いが上手くいってない人間に真っ最中の人間に嫁VS姑イジメ漫画の広告が』
『バナーに映っている女が自分の家族にとても似ているアダルトサイトの広告が』
もう、絶対に許せない。
いやな事を思い出してしまった。
これから先ずっと、同じバナーがいつ出るかいつ出るかと怯えながらネットサーフィンをしなくてはならないのか?
自分で言うのもなんですが、堪忍袋の緒が切れた、というのはきっとこういうことをいうのでしょう。
ガラケー時代の漫画の広告バナーなんて台詞ちょっととキャラの目と鼻が写るくらいで大して気にならなかったのに、
昔はあのちっちゃい中に情報を収めるのにどれだけ苦労したことか。
それが今の広告バナーなんだあれ、ほとんど正方形に近いじゃん!
そして人の目を引きつけるためにエロ漫画なら最中、いじめ漫画ならいじめ現場のシーンを抜き出して見せ付けてくる。
苦手な人からしたら、心の準備なしに『グロ画像』を見せ付けられているようなものです。
(どうしようもなく苦手なものを『地雷』と表現する人たちも居るようですが)
それと同じです。
◇◇◇
色々と書きましたが、adblockを導入した今はびっくりするくらい快適です。
それでも、良心的な広告のみをこれからもずっと掲載し、広告費で運営しているサイトさんに申し訳ない気持ちはあります。
ただ『広告うぜ~~!!!見えないようにしてやろ!!』という気持ちではなく、
『精神的苦痛を与えられる心配がないのなら共存していきたいのに、残念だなあ』という気持ちがまだあるからです。
それでもこの現状が変わらない以上はadblockを解除する気にもなりません。
いきなり精神的苦痛を味わわされる恐れを考えたら当然と言えるでしょう。
広告自体が悪いのではなくこのシステムがまだ未熟なんだろうと思います。
しかし、
私は情弱なので詳しいことはわかりませんが、
明らかに検索ワードからそれにマッチするものを出してくるタイプの広告もありますよね?
結婚式場へのアクセスを調べただけでブライダル系の広告が出るようになったりした経験があります。
そういう事が出来るなら、
『エロ漫画バナーなら全然OK!ただイジメ漫画系は勘弁!』とか
『少女マンガやエッセイ漫画のバナーならどんどん表示して欲しい!でもBLはちょっと…』等、
閲覧側が最初から細かく設定できたらいいのに…と常々思っています。
(現在も広告についている×印を押すと報告できる、等のアレもありますがあれはほとんど気休め程度)
広告提供側はadblockをどうにかかいくぐるタイプの広告表示方法の開発じゃなく、
閲覧者にマッチした条件の広告のみを提供するようにするシステムを整えたほうが絶対に利益上がると思うんですよね。
私自身は広告を毛嫌いしているわけではなく、むしろ内容がマッチしていれば全然ウェルカム派なんです。
(大昔無料レンタルサーバーでホームページを自作する際にそういった『広告』との深い付き合いがあったこともあり……)
私が興味あるもののみの広告が表示されるようになればadblockも解除するしリンク先に積極的に飛んでみるようになるだろうと思っています。
どうにかならないのでしょうか。
私は…いや、私以外の他の多くの人もきっと共存を望んでいるはずなのに。
ああ、広告の神様ごめんなさい。私はadblockを導入してしまいました。どうかお許しください。
勘違いされているみたいだけど、自分の好きなことだけしているわけじゃない。
http://anond.hatelabo.jp/20160622100234
この記事を書いた者です。
年間アクセス7位になっているのに気付き、久しぶりに記事作成をしようかなと思い立ったのでこれを記しています。あとゴールデンウイークに突入し、暇なのもあります(笑)
本文、追記共に当時の自分の心の澱と人には中々主張出来なかった故の断定的かつ鬱屈した感情がみっしりと記されていて、書いた当人ですら読んでて疲れました。
ただ、この記事で自分の気持ちを発散したことで実に穏やかな気持ちになれたのは確かです。
この匿名ダイアリーという場で、多くの人に自分の実際に感じたこと、体験したことの一部を『わたし』という人間が見えない場所から発信し、意見を貰う。カウンセリングに行くよりもずっと効き目の高いセラピーになりました。
発信して初めてわかったことがありました。それは、私みたいな生き方をしている人間は思っているよりもいなかったことです。
自分が多数派だなんて考えは当然ありませんでしたが、「私と同じ悩みを抱えて、苦しんでいる人は多いのかもしれない。そういう人がいるんだよって発信したら、私みたいな人間は救われるのではないか」くらいのことは思っていました。
ただ、反応を見る限りだとそうではなかったみたいです。共感以上に、私や周囲の異常性、読み物としての感想が多く、もしかしたら私自身の考えや生きてきた人生というのは、自分が思ってた以上に異常なのかもしれないということにお恥ずかしながら初めて気付かされたのです。
もしかすると、普通は越えないような轍を何個も何個も越えてきてしまい、引っ込みすらつかないのが私の人生なのかもしれない。
そう考えると、ここに記した殆どのことは、実生活の私の「墓場まで持って行く秘密」にしないと、あまりにも受け入れがたい事実なのだなぁと感じました。その位、人には理解しがたい人生を歩んできてしまったのだと。
これはとてもさみしいことです。だからこそ、インターネットで発散できてよかった。もしそうでなければ、私はこの澱んだ感情をずっと抱えたまま死んでいかなければならなかった。誰も私を理解できないと、自分だけが思ったまま。
そんなことすら、人に認められないと自認できない。
承認欲求の底知れなさを思い知りました。そして、私は、そういうことと一生をかけて向き合うのかもしれないと。
そういう性質の性格なのだから、仕方ないですよね。今はそうやって自分と向き合えるようになりました。
同人活動なのですが、Twitter中心で細々と続けています。
エントリーに関するRTが流れてくるたびにドキドキしていましたが、誰もそれを書いたのが私だとは気づいていないみたいです。今では誰も話題にしていません。インターネットなんて、そんなものです。
二次創作を描けば1000を超えるRTを頂けることもありますが、そのことに関して前よりは落ち着いていられるようになりました。というよりも、RTされるネタの書き方みたいなものを感覚で掴みました。
完全に記事を脱線するので詳しくは書きませんが(そもそも感覚なので説明も難しい)、別に絵が上手いとか特別な技量がなくても伸びるときは延びるのだから、一喜一憂していたらキリがないなぁと。
即売会は、行く回数は減りましたが参加しています。ただ、もう新刊を作ることはないかもしれません。キャラクター愛やそれを人と共有したいという感情が前よりも薄れました。
創作が楽しくなくなったわけではないのですが(これに関しては後述します)、なんでしょう。これが年をとるということなのかな。自分の中で「思い出」になりつつあるんです。
好きなキャラやCPをきっかけにして、Twitterでつながったり、Skypeをしたり、自分で本を書き、人の書いた本を読み、萌えて転げて、アフターや日常でも仲間同士で集まって、そのキャラの話で花を咲かせて。
そういう光景を見かけると、楽しそうだなという感情にはなるのですが、参加したいなという気持ちにはならなくなってしまいました。
でも、気の合う子とのおしゃべりは今でもとても楽しいです。みんな会ったときは10代でしたが、今では大人になりました。結婚している人は多くないですが、会うとキャラの萌えを語るより、近況を話すことのほうが増えました。
そんな私をつまんない人だと感じる人は、どんなに仲良くしていたとしても離れていきます。でも、それでいいんだよなと。
今、一緒にいて楽しい人だけが「オタク友達」なんです、きっと。そこから先の「普通の友達」になるためには、それだけじゃ足りない何かが絶対必要になってくる。そしてそれは、誰とでも芽生えるものじゃない。だからこそ、オタクの友達はあまりにも即物的。でも真の友情が芽生える可能性もあるから、バカに出来ないなって思います。
Twitterのフォロワー数だって同じです。繋がるのに何の不自由もないからフォローされてるだけであって、共通項がなくなればそこで終わりです。だからこそ、数に拘るのは無意味なんだと思います。ずっと見てくれる人や、たまの落書きを何年も変わらずにいいねしてくれる人こそ、大切にしなきゃいけない人なんだと思います。相互片道関係なく。
ここまで書いてきて、また自分の「●●でなければいけない」癖が文章に反映されていて、苦笑しました。
誰かに伝える文章は、例えそれが自分に課している制限だろうと断定的に書くことで人を不快にさせるみたいです。それもここで知ったことです。
難しいですよね。でも「私はこう思うけど、あなたはどう考えても自由だよ」とその度に書くのはくどいと思うのでここで一回書いたことで許されようと思います。許して下さい(笑)
二次創作への情熱が薄れるかわりに、最近は一次創作が楽しいです。
まだ公表していません。それなのにこんなに楽しいことがあったのかとびっくりしています。
物語という形にすることで、自分の意志を表に出すことができる。そこには何の制限もありません。もちろん物語としての整合性を整えるのもひとつの楽しみですが、どうしても自分の主張したいことがあるなら、オリジナルのキャラクターにやらせる分には誰も文句は言えないのではないかと気付きました。
悪い部分もあってこその人間。仲のいい友人に見せると、とても生き生きと動くキャラクターだねと言われ、お世辞でも嬉しいです。
ここで数人が「実録としてエッセイマンガにしたらどうか」とコメントされてましたが、いまでもそれをする気はありません。やはり私は、事実をそのままマンガにするのは好きじゃないみたいで、だったら一次創作のキャラクターに、何らかの形で搭載したいです。
主人とは、つかず離れず上手くやっています。私も多少ちょろまかすという事を覚え、小遣い以外に稼いだ分から少し抜いた分で友達とランチへ行ったりしています。意外と気付かれません(笑)
私の場合、ささやかな幸せを幸せとも感じてなかったことがそもそもの間違いだったので、今はそこを目標に生活水準を下げています。意外となんとかなります。
一年経った今、自分のことを牙を抜かれてチワワになった狂犬みたいだなと思いますが、それでこのままチワワになれたらもうけもんです。
尖って尖って、非難されるような自分だったからこそ、なれるものがある。
それを誰かにバカにされたり情けないだなんて言われる権利なんてきっとない。
他人の人生を私が生きることが出来ないように、私の人生は私にしか生きることができなかった。
それがどんなに汚い生き方でも、一般的には努力の足りない人生でも、誇りに思っていいことだ。
そんな風に、思います。
そう思えるようになったきっかけは、間違いなくあのエントリー。
なんてステマ臭の強い記事なんだろうと思うけど、本当にステマじゃないです。最後まで読んでくれてありがとうございました!面白みがなくてごめんなさい!相変わらず長い!ただの感謝の気持ちです!
息子がディスレクシアだという漫画家が描いたエッセイ漫画が話題だけど。
字が読めない、書けない人たちの障害のリアルが描かれていて、とてもわかりやすい。
幼少期から日本語のみで過ごしてきた人にとっては英単語のほうがより覚えづらく、漢字についてはそれぞれの部位を別の単語なり意味のある言葉で関連づけたら覚えやすいという。この描写で気づいたことがある。
ディスレクシアでない人だって、画数がものすごく多い漢字や難易度の高い英単語を覚える際、何かに関連づけて覚えたりする。
つまり彼らは「字を書くこと、読むことが苦手である」というより、障害がない人たちが年齢と共に成長するはずの部分が成長していないわけだ。何らかの理由で。
成長・発達していない。できていない。差別に繋がるからオブラートに包んだ言い方をしているだけ。
発達障害にも言える。
決して「苦手」なんじゃない。「成長できてない」のだ。だからその部分に関しては人に劣っているわけだけど、そういう言い方はしない。たまに「だからこそ他の部分が突出している」なんて言われたりもする。全員がそうではないのに(特にアスペルガー)。全ての能力の平均が皆一緒であるわけがない。平均が低い人もいれば、高い人もいる。
日曜日、朝刊におまけのように付いてくる日曜版に掲載されていた「あたしンち」を読むのが好きだった。
あたしンちは、どこにでも在るような父母と姉弟の何気ない家族の話しだ。
どこにでも、というには立花家のお母さんの性格が個性的だけれど、「両親と2人の子供」という家庭は、ごくありふれたものだろう。ありふれたものだと、世間知らずの子供だった私はそう思っていた。
あれから20年近くが経ったけれど、私にはまだ子供がいない。将来的にもいないままな気がする。結婚したら、子供は産まれて母親になるものだと思っていたけれど、そういうものでもなかったらしい。
今になって思えば、何故「結婚したら子供が産まれて母親になる」と思い込んでいたのだろうと首を傾げてしまうのだが、確かに「あたしンち」を読んでいた頃の私はそう思っていたのだ。
養子という手もあるけれど、健康的な理由で子供が育てられないのだから養子を育てるのも難しい。
それを悲しいと思うことはあまりないのだけれど、時折、言い表しようもない虚無感に襲われることがある。
友人や知人が子供の話をするのを聞くのは好きだ。
育っていく子供たちが健やかなのは嬉しい。予想もしないような言動も、聞いていて楽しい。苦労を分かち合うことは出来ないけらど、話を聞くのは好きだから、どんどん話して欲しいとは思う。
けれど、やはりどこか他人事だ。育児エッセイを読んでるようなそんな気分。
ああ、私はあたしンちの娘のまま、あたしンちのお母さんになれなかったんだなと、「あたしンち」の漫画を久しぶりに読んで思ったのであった。