はてなキーワード: 矮小化とは
https://anond.hatelabo.jp/20200729000859
規模の小さなスタートアップにおいては規制は緩やかな方がいいと思います。
ではたとえば株式会社メルカリの決算/売上/経常利益を調べ、IR情報を徹底調査 - 起業ログを見ると売上330億で大幅な赤字。
売上規模は小売業ならヴィレッジヴァンガードと同じくらいかやや上くらいでしょうか。実売ではなく手数料なのでこの比較は市場への影響力という意味では矮小化ですね。(グラフ有▷ヴィレッジヴァンガードコーポレーションの売上高と業績推移 財務諸表の内訳を分析)
市場規模としてはどうでしょうか。メルカリの流通総額は5307億円、日本事業は4902億円【2019年6月期まとめ】 | ネットショップ担当者フォーラムには5,000億規模とあります。業績ランキング - 小売業 - 売上高順 1~20位 | Ullet(ユーレット)を参考にすると良品計画やファミリーマートと同規模でしょうか。
市場の規模、市場への影響力という意味では最低でも古物競りあっせん業並は必要です。(おそらく)メルカリはすでにそれを自主的に行っています。(上記の警察庁サイトのPDFで言及あり) であるならばそれは逆説的に少なくともメルカリ規模であれば法規制の内に入れるべきです。
大いに意味変わってくるじゃろがい!自分の主張したい事のために恣意的に事実を捻じ曲げた発言をしてるんだから。
「作中で他のヒロインが皆夢を叶えてるのに1人だけ夢を叶えられない不幸なヒロインにそんな発言をさせた!」
ヒデーじゃん!最低じゃん!スッゲー悪く聞こえるじゃん!でも嘘じゃん。
言い直したら「他ヒロインは将来達成するの明らか(文脈による推察)なのに、将来的にも達成出来ないから幸せになれないヒロイン(文脈による推察…あれこの作品そういう文脈の話だっけ?)にそんな発言させた!」じゃん。思考のお偏りが明らかになってくるじゃん?丁寧に丁寧に言い直し前の文がそれっぽく聞こえるように論理展開しおってからに。趣旨変わらんしと白々しく言ってるけど作者への否定感情を扇動するのがこのお気持ち長文の趣旨じゃろがい。どうやらその目論見も一部成功したようで何よりです。ホント吐き気を催す邪悪さよのぉ。
悪意が無いってんならよく考えてみ?うるかが最初に好きだったものは何よ。成幸じゃなくて水泳だったでしょ。負ける事が悔し過ぎるくらい大事な物だった訳でしょ。水希との過去で成幸の事好きじゃない時だって勝つためにあれだけ努力してたシーンが描かれてる訳でしょ。じゃあそんなうるかが幸せになる未来って何よ?環境も設備も整って早くから海外に馴染める水泳の本場に身をおくことが不幸な訳ないじゃん。そんでそこに辿りつけたのは成幸に恋したお陰じゃん。いや勉強嫌いのまま適当な大学に行っても良いけどその選択(成幸に教わらない)した時点で人生のクオリティ落ちるのも恋も叶わない事も確定するじゃん(文脈による推察)。
うるかは生まれた時から成幸に恋してた訳じゃないでしょ。水泳に必死だったうるかが成幸に恋したんでしょ。この構図は他ヒロインとなんら変わりないじゃん。そんで恋したからうるかは更に高みに登る事が出来る訳じゃん。それを「不幸じゃない」って言わせんなってどんな了見よ。うるかちゃんを失恋ごときで不幸にしてるのは作者じゃないよ紛れも無くお前だよ。間違いなくうるかの物語の意義に恋しか見いださずに武元うるかという存在を矮小化してるお前みたいなヤツに向けて言われた言葉だよ。突き刺さったよーで何よりだよ。恋したうるかちゃんは輝いてたけど、実際はお前が見てた物だけじゃなく別方面でも輝いてたって意味だよ矮小化という言葉を曲解するんじゃないよ!
こっちからしたらこの辺を曖昧にした理珠編の方が読み味大分苦いんだけど(あれ告白してないでしょ)。うるかだけフラれても前向きで強くある姿が描かれない方がおかしいでしょ。他のヒロインはお前の大っ嫌いなうるかルート最終回で一緒くたにされたけど一応は描かれてんのに。まぁ書いてて気づけたけどうるかにフォーカスあたる話でこれやらないと描いても弱いわな。そらどうしても話に絡む必然性のある文乃の話でするわ。お前のお気持ちのお陰でこの辺が理解出来たし、ついでに筒井大志がうるかをちゃんと考えてる事も愛してる事もまた確信を持てたよありがとな。
(そんなところに目を通すようなら人気投票の結果発表センターカラーで大々的に誤植してんのスルーする訳ないでしょ。お前からしたらそれすら悪意に見えるかもしれないけど一般的な感性してればそこで作家の仕事の範囲を推察できるもんなのよ。)
こんな作者を乏しめたいがためにうるかの話を全力否定しやがる輩にファン面して欲しくないわというお気持ちが先だってしまったけど、誤植や特集ページの思いやりのないあのワードチョイスやうるかルート最終ページに関してはこちとら甚だしく不愉快な気持ちになってるのでそこは誤解の無きように。
実行力や経験値から、実際の政権運営を任せるには頼りなく思うが、
れいわや山本太郎現象の盛り上がりが、日本の反緊縮を象徴していることは確かだ
日本は右から左まで、既存の有力政党は軒並み経済政策がダメダメで、
明らかな富裕層優遇や財政再建至上主義という狂気、あるいは無関心という、それはそれはひどい状態だった
どんな屁理屈をくっつけようが、日本の経済政策がダメだったことは、失われた20年が実証している
山本太郎とれいわ新撰組は、これら状況に対する有力なカウンターとなる可能性を持っているのだが、
今回の大西つねきの除名処分にはつくづくがっかりしたり不安を感じさせられた
しかし大西がれいわ新撰組における有力な経済政策論者であったことは間違いない
れいわの反緊縮傾向をよく思わない敵対勢力、利害の相反する代議士や財務省に、
その2chの頃から今のSNSに至るまで腐女子をはじめとする女性全般を性器呼びしてクソリプしたり殺害計画スレ立てたりして加害し続けてるのがゲイだけどね。現在進行形で。
女性器呼びの発祥自体が同性愛板だと指摘してる増田もある。これはこの増田一人の思いつきではなく腐女子叩きに反対する層ではよく知られた話。
女をまんこ呼びするのは
ちなみに2020/07/15現在の同性愛板のスレ一覧から抜粋。
【なりすまし】ノンケに片想い【マンコ限定】part19 [無断転載禁止]©2ch.net
ゲイの人、女が憎くないですか?
2chに出入りしてて同性愛板の腐叩きがどれほど苛烈なのか知らないはずないよね?
でもゲイが腐女子にやられた被害体験を語る時、ゲイによる腐女子への現在も続く加害は一切触れられない。マジで誰も一言も触れない。
ちなみに801板にゲイ叩きスレは立ったことすらない。芸能人などではない現実の一般人ゲイに萌えるスレもない。(そもそも同性愛板=ほぼゲイ専用板にされてること自体おかしいんだけど、そういう視点もないよね)
ゲイが開発した腐女子の蔑称(腐+女性器)で検索すればこの言葉がもはやゲイだけでなく女叩き男性全般に広まっているのが分かる。
掲示板に書かれた自称だけで「おそらくは〜」と妄想の害悪腐女子を語るわりに、SNSでゲイ丸出しにしながら腐女子叩きしてるお仲間には一切触れないんだねえ。
801板はほとんどが二次元ジャンルのスレで三次元イケる腐女子は珍しい部類、それもイケメンですらない一般人ゲイにそこまで絡みたがる腐女子が大量にいるって思えるところが逞しいというか。
当時でそんな状況ならもっと気軽に絡めるツイッターなんかじゃゲイのアカウントに大量の腐女子が群がっていそうだけど聞いたことないなあ。
まあ腐女子に上から目線でああしろこうしろと難癖つけてくるゲイは昔から少なくない。
ゲイの権利を尊重すべきと言えばポルノの題材にしてるくせに理解者ぶるなと言い、じゃあBLはリアルなゲイとは違うからファンタジーだということにしてたらBLはゲイへの偏見を助長するからもっとリアルに描けと言い。
腐女子の大多数はゲイを性的に搾取している自覚があるのでそのたびに大学級会を開き大人しく従った。BL研究の書籍でもゲイとの論争(栗本御大による往復書簡など)はよく言及される。
もちろんBLがゲイへの性搾取であり偏見を広める一旦を担っていることを否定する気は無い。
でももうさ、はっきり言われずとも分かってるんだよ。ゲイはおかずとしてBLを消費してるくせにミソジニーだから腐女子は殺したいほど嫌いなんだと。
俺たちゲイ様のために抜けるおかずを供給しろ、でもゲイの権利がどうだの偉そうな口は叩くな、私たちは恥ずかしいポルノ好きの女ですと縮こまって土下座してろと、そう言いたいわけだよね。
BLに救われた、BLが大好きだと語るゲイは珍しくないが、同じゲイ仲間がネットの各所で腐女子叩きしてる現実はスルーする。たぶんゲイの間ではBLを読むのはいいが腐女子の味方する奴は村八分なのかもね。腐女子なんか擁護したら抑圧者であり性の対象でもあるヘテロ男性に殴られるかもしれないしね。
腐女子叩きする有害なゲイはごく一部だ、そのとおりだろう。その同じ論理を腐女子には適用しないのは偏見という名の差別心があるからだ。ゲイを苦しめ続けているそれそのものだ。
私だってつらかった論法でゲイの苦しみを矮小化する気はない。が、増田の文章に見られるいろんな部分があまりにも「ゲイを装って腐女子叩きしたいヘテロ男性」にそっくりなんでね。
これだけ(過去の)被害体験を語っていながらそれとなく主張するのは要は増田から腐女子は出てけってことらしく、こういうとにかく俺の視界から消えろ系の主張は腐女子叩きに共通する特徴。社会から疎外されてきた苦しみを語る文章の締めにそんな内容もってくるかね。
ちなみにこういう腐女子叩きヘテロ男性は各所で腐女子を名乗って害悪を撒き散らしてもいる。さて、増田が苦しめられた腐女子投稿者とやらは本当に腐女子だったのかな。
自称腐女子すらほとんどおらずゲイが腐女子を性器呼びで愚弄するスレばかり立ってるのがここ15年ほどの同性愛板の現状なんで、もし一連の腐女子増田に疲れたならそっち見て癒されてきたらいいんじゃないかな。
生き残ったがゆえに「死を選ぶほどの辛さではなかったんでしょ」という目で見られる
確かに自分は今生きているけど、死を選んだ人よりラクな人生だった訳じゃない
でもそんなこと言ったら死を選んだ人たちの苦しみを自分の苦しみと天秤にかけて軽んじている気がして…
(話の流れで過去をカミングアウトした結果言い広められ、酷いことを言う人達に届いてしまった)
そうでなくても同じようなことを言われ辛い目に遭っている人はいるのではないだろうか
今生きていることを理由に過去の苦しみを矮小化されたらどうすればいい?
気にするなと言われるかもしれないけど、気にしないために、どんな風に考えて心を守ればいい?
本当はビシッと言い返せたら格好良いのだろうけど、あえて刺激するようなことはしたくない。
誰か教えてほしい
腐女子。
一番好きな男同士の関係は恋愛関係になく、お互い、または片方に配偶者がおりそことも仲良くしている。お互いに最も信頼しており、ない部分を補間しあい、尊敬しあう。結婚式のスピーチ真っ先に頼む。そんな関係。
原作見ろと思っただろう。原作よりもうちょっと踏み込んでほしいという邪な気持ち、後ただ単に量が足りねえ!原作は二時間しかない!!
ということで二次創作の海にやってきたんだ! しかし、あるのは恋愛、性行為の嵐
二人の関係を恋愛に矮小化しやがって!!! そんな「恋愛」が好きか!!と怒った。
何故多くの二次創作者は男同士の関係を描くとき、恋愛の枠に落とし込んでしまうのか。
何故キャラを性欲の獣に描いてしまうのか。好きだから描いてるんじゃないの?
↑を書いた後、予想以上の量のコメントを貰ってびっくりした。量も驚いたが、内容も、人によって結構違う内容や態度だったりで、何故か、その事に少し救われた(妙な話だが、敵対的な態度の人も居る事が、むしろ嬉しかった)
で、増田でたまに見るブコメ等への返事の追記をやるべきかどうか悩んでいる内に日が過ぎてしまった、ひとまずここに書いておこうと思う。
まず、「SNSをやめたほうがいい」「フェミニズムから一旦離れた方が良い」という意見が有ったが、離れるつもりは無い。
何故なのか?と言うのは自分でも良く分からない。単純に意地になって居るのかもしれない。
ただ、一つ思うのは、「終わったものボックス」に入れられるのは嫌だな、という事だ。
私が例えばSNSから離れたり、カウンセリングを受けたりしたら、私の懊悩は「じゃあ解決したね、よかったよかった」になってしまう、そうはなりたくない。(そもそも、カウンセリングはそんなに万能ではないとも思う。どちらかと言うと、他人の問題を「お終い」にしてしまう為の道具として、便利に使われている印象がある)
それに、基本的に私はリベラルもフェミニズムも正しいと思っている。
いくつか疑問に思う部分が有ったとしても、やはり離れる訳にはいかない。
また、離れても無駄だとも思う。既に私はフェミニズム的な視点や捉え方や規範を他者から学び、内面化している。
SNSから離れようが、既にそのコピーのフェミニストは自分の中にいて、その声からは逃れることは出来ないし、すべきでも無い。
「人をカテゴリで捉えるな」というコメントも多かった。それから、「リベラル派じゃなくてリベラリズムに従えよ」という文章を書いてくれた増田もあった。
正しいとは思う。ただ、実際に遣るとなると、難しい、というか、無理な気がしている。
社会問題を扱う限り、会った事も無い人の被害や加害を考えなければならない(そうでなければ、それは「社会」に対する思考ではない)、会った事の無い人について考える時に、「女性」や「男性」や「フェミニスト」や「リベラル」のようなカテゴリは非常に有用だし、それ無しで考えるのは不可能じゃないかと思う。
また、現実の話もある。例えばある女性やフェミニストの方の主張に疑問を感じたり、リベラリズムに反すると思った場合、それを男性の私が指摘したり疑問を言葉にするのは、正直言って、難しい。
この雰囲気をどう伝えれば良いのか分からない、兎に角、難しい。それによって私がセクシストであり、差別主義者だと言われてしまうのでは無いかという恐れが常に有る。
これは私に限った事ではなく、私の周囲の人も、女性に限らず、社会的弱者や当事者の方の言う事に疑問を呈す場合は、かなり慎重に行う。社会の非対称性を考えれば当然の事だとも思う。例え多少おかしな部分があったとしても、それを強者である男性が、当事者の口を塞ぐというのは、有ってはならない、と思う。
それから、リベラリズムについては、説明がし辛い。昔は自分も所謂「自由を貴ぶ」という意味でのリベラリストのつもりだったが、今は、(大雑把な表現だが)「弱者を守る」という意味でのリベラルである。今の日本でリベラルと名乗る人の大半は後者だと思う。
ただ、彼の言う事は本質を突いている気がする。恐らく、自分は今後者のつもりだが、後者に成り切れておらず、前者の部分が残ってしまっているのだ。
前者の意味でのリベラルは、現在の日本ではむしろ所謂「ネトウヨ」や「ミソジニー男性」(と、後者のリベラルが見做している人達)と相性が良い。
気付いた人は多分居ると思うが、前回の増田で私が書いたフェミニズムへの疑問(ゾーニングの公の範囲や、BL等の免罪等)は、上記の様な、リベラル、フェミニズムの敵対者が良く主張している事に非常に似ている。そのもののものもある。
恐らく、つまり、私はリベラルを自認しているが、私の中にはネトウヨ的な部分や、ミソジニーも有るのだと思う。
だから私は、恐らく正確には、前者と後者、両方のリベラルであり、だから、その矛盾に引き裂かれているんだと思う。
「ネトウヨ」や「ミソジニー男性」といった言葉の選択には怒る人も居るかもしれない、ただ、これは便宜的な呼称だと思って欲しい。
少なくとも現在の日本では、後者の意味でのリベラルやフェミニズムの問題点を指摘できるのは、彼らだけだろう、といより、問題点を指摘すれば「ネトウヨ」「ミソジニー」と呼ばれる事に成る。
だから、私のフェミニズムへの疑問は、「ネトウヨ」「ミソジニー」という事に成らざるを得ない。
ここでまた、「またカテゴリで考えている」と言われるだろう、でも、現実にそうなのだ。そりゃ、リベラル自身がリベラルの問題点に言及できるようになればいい、それが理想だ、でも現実は違う、そんな事は出来ない、そんな事をすれば利敵行為すなわち「ネトウヨ」と言う事に成るからだ。
リベラルやフェミニズムへの疑問や矛盾に悩む私に「SNSから離れた方が良い」と言葉を掛けてくれる人は一杯居た。けれども、「そのような矛盾をこれから解消しよう」と言ってくれる人は一人も居なかった。
(いや、こう言う言い方は不当かもしれない。そもそも、リベラル側の人は、そのような矛盾が有るとは思っていないのだろう。だからその解消を求める事自体がお門違いなのだ)
これまで書いた事について、正直な所、後ろめたさというか、これでいいのだろうか、という迷いが有る。
リベラルやフェミニズムに矛盾や問題点がある、なんて事を書いて、いいのか・・・分からない、それ自体間違っている気もするし、「間違っている」と言われる気もする。
ただ、まぁいい、もうこうなったらいっそ、(滅茶苦茶長くなるだろうが)思った事全部書いてしまおう。
「リベラルならラディカルフェミニズムじゃなくリベラルフェミニズムの方に向くべきでは?」というコメントに対する返答も先程とほぼ同様、
リベラルフェミニズムは前者のリベラル(つまり自由を優先する方)と相性が良く、後者のリベラル(弱者を優先する方)はラディカルフェミニズムと相性が良い(相性がと言うより、仲が良い、と言った方が正確かもしれない)
自分は後者が主軸なので、ラディカルフェミニズムと協調する事に成る、そうすると必然的に表現の自由等より、弱者を守る事を優先する事に成り、女性を消費するようなコンテンツを肯定できない→オタクである自分自身と不調をきたす、という事に成る。
まぁ、日本ではラディカルフェミニズムが支配的で、リベラルフェミニズムはあまり広まっていないという事情も有るとは思う。(アカデミズムでリベラルフェミニストの有名な人って例えば誰が居るんだろうか)
訂正と謝罪をするべき事が有る。
増田で↓のように書いた。
学生時代の苦しみは、一体何だったんだろうか?あの時の加害者の中には女性もいる。彼女は弱者で、自分は強者である。
キラキラした人、美しい女性、充実した人生を送ってそうな人がフェミニストとして、男性を糾弾する。
俺は一体何なんだろうか?
これについて、「キラキラしてない、パッとしない女性もいると思い出してほしい」「美人の苦しみを矮小化している」という批判があった。宇野ゆうか氏の下記のページもそれに当たるだろう。
https://yuhka-uno.hatenablog.com/entry/2020/06/28/134939
これについては謝罪すべきだと思うのだが、うまく出来る自信が無い、何故かと言うと、↑の部分は指摘された様な意図で書いた訳ではないのだが、
「そういうつもりでは無かった」「誤解を与えてしまった」という謝罪は、正しい謝罪では無い、と言うのは常識になっている。では、他のどのような謝り方が正しいのか、考えてみたが、上手く答えが出なかった。
ただ、それも難しい。この部分は、正直に言うと、自分でも何が言いたいのか分からない、「俺は一体何なんだろうか?」という漠然とした疑問が主題だからだ。
ただ、いくつか明言できることは有る。まず一つは、「キラキラしてない、パッとしない女性もいる」という事は、自分も勿論分かっている。この文は「女性やフェミニストはみんな、キラキラした人、美しい女性、充実した人生を送ってそうな人である」という意味では無いし、そう意図しても居ない(ただ、そう読み取れる余地を残してしまった事はやはり自分の落ち度だと思う)
女性の中に、「キラキラした人、美しい女性、充実した人生を送ってそうな人」が居る、と言う事を念頭に置いて書いていた。(「女性はみんな~である」と「女性の中に~な人も居る」の違い)
また、「キラキラした人、美しい女性はみんな、充実した人生を送っている」という意味でも書いていない。キラキラした、美しい人にもそれぞれ固有の苦しみは有るし、そもそも女性差別は制度的な差別を含むから、社会的な美醜に関わらず多くの場合被害は受ける。外見からその人の人生を推し量ることはできない(だから、宇野ゆうか氏の書いた事は正しいと思う(正しいとか、何目線で言ってるんだという話だけど・・・・))
従って、「キラキラした、美しい、充実した人生を送る人が男性を糾弾するのは間違っている」と言いたい訳でも無い。そういった人も女性差別には遭うのだから、糾弾するのは正当な権利だ。
ただ、分からない、この感じをどう表現すれば良いのか、この「何なんだろうか?」と言う、分からない感じ、分からないと言う事を、どういう言葉で表現すれば伝わるのか。
ミクロに、カテゴリに頼らず個人個人で幸福度を比べれば、私より幸福な人生を送っている女性は居る、それは確かだと思う、けれど、それで女性差別の糾弾をしなくていい事には当然ならないし、私は糾弾を続ける。ただ・・・ダメだ、分からない、どう言えば良いのか、つまり、名前が無い、と言えば良いのだろうか、女性が人生で被る苦しみの一部は女性差別に起因する、では、私の苦しみは?男性差別?それも違う、分からない、どう言えば良いのか、言葉にできない・・・・・
ただ、そんな私の言語化能力の拙さとは関係無く、訂正と謝罪はするべきだろう。
件の文章は「キラキラしていない、パッとしない女性は居ない」と言う意味や、「キラキラした人、美しい女性は苦しみを抱えていない」という意味では無く、書いた時の事を思い出す限り、「キラキラした、美しい女性」の中でも特に幸せな人を念頭に置いて書いた(だから、美人であり、かつ苦しんでいる人はここでは対象に含めて居ないので、安心して欲しい(安心して欲しい、というのも変か・・・・・))、しかし、にも拘らず、そのような解釈の余地を残してしまう拙い書き方でした。申し訳ございません。
これで上手く出来ているのか、分からない。もっと適切な謝り方が有るんだと思う。
色々書いたけど、(まだ、思っている事は全然書き切れて居ない気がするけど)改めて言っておく、疑問を感じることはあるけど、それでも、自分は「リベラル男性」を続ける。
リベラルやフェミニズムに疑問を感じた事を表に出すことは出来ないし、だから、なるべく考えない様にする。納得してなくても、納得してるふりをする、でも、リベラルである事は続ける。
自由を何より優先するという意味では無く、弱者を守る事を優先するという意味で、リベラルである事を続ける。
それに開き直るつもりは無い、「弱者を守る事を優先する」という事は、他の何かと衝突した時、そちらの優先度を下げるという事に成る。それは時には不当な加害になる事も、暴力性を持つ事も、自由の制限に繋がる事も、他者を抑圧する事も傷付ける事も、どれもあり得る。それに、そもそも自分の中の「弱者」の基準が正しい保証は無い。「弱者を守っている」つもりで、別の弱者を気付かずに足蹴にしている事も当然あり得る。
だから、私は、正しいとはとても言えない。むしろ、客観的に見れば悪である可能性も有る。
でも、兎も角、自分の見える範囲を見て、考えられる範囲を考えた結果、やっぱり自分はリベラルである事を選ぶ。ただ、それが正しいと盲信する事だけは絶対にしない様にしたい。
長く書いた。流石にこれは読まれないと思うけど、まぁ、構わない、謝罪部分だけは然るべき人に届けばと思うが、それも望む事しか出来ない。
最後に、この文章を前回の増田と分けた理由は、単純に馬鹿な程長くなってしまったと言うのも有るけど、それだけじゃなく、「本当に元の増田が書いたか分からない」ようにするのも良いのではないか、と思ったからだ。
この文章はもしかしたら、元の増田とは別人が、彼を装って書いただけかもしれない、そうだった場合、読んだ人の感想は変わるだろうか?
まぁ、そもそも、こんな長い文章読む人は居ないと思うけど、もし居たら、なるべくどちらとも決め付けずに読んで欲しい。本物か、偽物か、平等に考えてどちらか判断できる根拠をあなたは持っていないはずだ、だから本物でも、偽物でも、どちらでもあり得るように読み、考えて欲しい。
(最後に、前回の増田の様に沢山のコメントを貰えたのは初めてだったので、痛々しいと思いつつ、ブコメを見るだけじゃなく、ツイッターでも検索してしまった。
そしたら(もしかしたら検索の仕方とか過去ログの有効期限のせいかもしれないけど)最初にこの増田の事をツイートしたのが、おねロリキメセク天皇で笑った。ちょっと、嬉しかった)
あの記事は正直よくわからんかったけど、両立するということ自体は私も声を大にして言いたい。
ただ、いわゆる「フェミ」の動きには反対。
「男は女を性的に消費するな」じゃなくて「女にも性的消費をさせろ」って思う。
日本はその点なかなかいい国で、男性アイドルや腐女子文化もあれば、エロ漫画を描いたり読んだりする女性も多い。女性による性的コンテンツ消費はかなり盛んな方だ。あと、オタク文化の話じゃないけど女性向けAVやアダルトグッズがどんどん増えてきているのも大賛成。あえて言うなら、女性による/女性のためのそういうコンテンツがもっともっと増えるといいなって思う。
もちろん、実在の人物に対し同意なく手を出すことは犯罪だ。「女だから」「男なのに」といったハラスメントも許さない。女性のさらなる社会進出を望んでいて、たとえば政治家や企業トップに女性が少ないことへの抗議意思がある。
同時に、オタクコンテンツを男性のためだけのものにするな、性的消費を男性の特権にするな、と思う。
これはフェミニズムだと思うけど、どうなの?
(そもそも豊かで幅広いオタク文化を性的なものに矮小化するつもりはないんだけど、そういう一面が問題視されているという文脈でこんな書き方になった。文書がへたなのはすまん)
痴漢扱いはむかつく、のは全然分かってますよ。あと、両立しないなんて言ってないですよ。なんで勝手に読み間違えるんだろう。
そもそも、痴漢扱いなんてほとんどの人がしてないと思うんですよね(全員とは言わないけど。過激派の人はまぁそういう感じになっちゃう人もいる)。
ただ、「ほかの犯罪と比べて、冤罪の件を持ち出す順序が速すぎないか?」、「ほかの悪事と比べて、何らかの留保(まぜっかえし)が出てくるのが多すぎないか」と指摘しています。そして、それらはセカンドレイプにとても似ているので、私にとっては不快な言葉だし、使うにしても配慮して言ってほしいと思っています。痴漢扱いするな、と同じ程度には、セカンドレイプみたいなこと言わないでよ、ということです。
私もそうですが、ほとんどの「元被害者の人たち」は、「何もしない男たち」を痴漢扱いはしてないんですよ。痴漢系のブコメをなるべくフラットに読み返してみたらいいと思います。過激な人はそれほど多くないですよ。
どっかのブコメにも書いたんですが、私は高校生の時に電車でストーキング痴漢に1か月近く付け回されてたんですが、それを助けてくれたのも同級生の男友達ですし、全然知らない通りすがりの男性に助けてもらったこともあります。そして、そもそも、周りにいた大勢の男性が「助けてくれなかった…」なんて思う余裕もありません、痴漢されてて怖くて仕方がないから。ただただ怖くて記憶があやふやな時もありますし、逃げようとしてもぞもぞして、押し返しされたりもしますが、その人の性別なんて覚えてないくらい怖いしつらいしイヤで仕方がない絶望の真っただ中で、そんな余裕ないっす。
「あいつら痴漢的な何かなんじゃね?」と思うのは、むしろ電車の中ではないです。「信じられないな俺は見てないから」とか「嘘だろBBA乙」とか、そういう言葉を吐き散らかしている人に対しては、セカンドレイプだぞそれ、と怒りが沸き、まるで痴漢のメンタリティだよね…と思ったりします。
冤罪が怖いのはとても同意しますし、そういう悪い女がいるだろうことも想像がつき腹が立ちます。
が、例えば増田さんの言葉が、多くの「美人局ではない本当の被害者」を矮小化する(冤罪の方がもっと怖いわ!とかね)ような言葉だったとしたら、やっぱり私はそれはセカンドレイプに近い何かでしょ?と怒ります。俺は痴漢じゃねえわ!と怒るのと同じことです。
まぁそうですよね。じゃあ、黙ってればいいんじゃない?と思います。何も言わずにいることは、なぜできないんでしょう?
冤罪は我が身だから言いたい、というのは分かりますが、それであれば、痴漢の被害にあっている側の怒りも我慢して聞くのが筋でしょう?だって私たちの殆どは冤罪加害者ではないからです。男性の殆どが痴漢じゃないのと同じように。
例えば、増田さんの配偶者や娘さんが痴漢の被害にあったら、と想像してみてほしいです。真っ青な顔で汚れた制服で帰ってきた娘に「それ冤罪じゃないんだろうな」というお父さんは、それこそ死んでしまえばいいと思うわけで。
冤罪は一発で死ぬ、というのも、性犯罪である痴漢被害を矮小化しようという感じがして、正直、割と胸糞が悪いなぁと思っています。
なので、死なずに済んだ冤罪被害者の方もいるでしょとか、痴漢が一生のトラウマになった人もいるんじゃないの?とか、品性最低の不毛なことを言い返したくなりますね。
それとこれの「重さ」を比べて何がしたいんでしょうか。
回避性パーソナリティ障害は、自己否定が強く、失敗や批判を極端に恐れ、対人関係や社会活動において臆病になってしまう障害だ
診断を受けたのは回避性パーソナリティ障害と気分変調性障害
長いことうつ症状と付き合っている
過干渉の母親とネグレクト父親のもとに育ち、小学校・中学校・高校では理不尽な難癖をつけてくる教師達に勉学と道徳を説かれた
当時、容姿が悪く性格も捻くれた私にとって勉強は唯一誇れるステータスだった
特に決定打となる具体的なきっかけは無かったが、明らかに肉体的にも精神的にもエネルギーが枯渇していた
徐々に学校にも通えなくなっていき、しまいには実家の自室に籠りっぱなしになっていた
毎朝自室に起こしに来る母親に対して「胃が痛い」「頭が痛い」「動けない」と言い続けるのは苦痛だった
「気のせいだから学校に行きなさい」とまくし立てる母親に対して、口が裂けても「死にたい」だなんて言えなかった
高校は、当時の担任(私が唯一感謝している先生)が尽力してくださったおかげで不登校ながらもなんとか卒業できた
最初の数カ月こそ解放感にハイになっていたものの、すぐにまた引きこもりに戻ってしまった
親に金を出して貰ってまで一人暮らしの引きこもりをやっていること、
自分より遥かに成績の悪かった連中がAOや指定校推薦で難関大や医学部に行き、未成年飲酒の様子をSNSに垂れ放蕩の限りを尽くしていること、
心が進学を望んでいるのに体が言うことを聞かないこと、
全てが酷だった
それでも進学を諦めたくなかったので一人暮らしで浪人生活を続けていたが、翌年遂に進学を放棄し、引きこもりニートが完成した
ずっとバイトを探しているが、ここで回避性パーソナリティ障害が真価を発揮している
まず、一番求人件数の多い接客業であるが、厄介な客1人にでも出会おうものならすぐに辞表を叩きつけるであろうことが目に見えている
10代にして大人達の醜さに触れ、理不尽さへの耐性が異常に無くなってしまっている
コロナ禍においてマスクの欠品が相次いだ時、マスクが無いからと店員にキレる客が社会問題となっていたが、もし私が店員だったらすぐにでも自死していただろうと思う
接客がダメなら事務系か?とも思ったが、求人サイトで事務系として募集している仕事内容にはだいたい電話応対が含まれている
それを省いたとしても残る求人件数は数少なく、社名を検索すれば悪評が湧き出てくるようなものがほとんどだ
私は某求人サイトでヒットした事務系の求人の社名を全て検索し、ああでもないこうでもないと虱潰しに探していったら全てダメだった経験がある
頭のどこかには「やってみたらなんとかなることもあるだろう」という考えはあるのだが、それよりも「失敗が怖い」という感情が遥かに上回ってしまう
あらゆる職種に就こうと思えず、かといって今更進学を目指す気持ちにもなれない今、本当に行き場を失い、詰んでいる
誰だって失敗は嫌だ、ただ逃げているだけだ、甘えだ、そう思われるかもしれないが、
私にとってこの問題はそんな言葉で片付けられるほどのものではないのだ
人の感情を矮小化する行為ほど無礼なものは無いと私は思っている
10代にして人への信頼、新たなことに目を向けるエネルギー、ここぞという時に踏ん張る力、自己肯定感、
あらゆる人生の楽しみを失ってしまった私は、これから先どうすればよいのか
私はもう疲れてしまった
「署によると、女子生徒は友人2人とコンビニの前にいた。通り掛かった容疑者が「家に来ないか」と声を掛け、女子生徒らが「きもい」などと答えたため立腹。追い掛けて逃げ切れなかった女子生徒に暴行した。50代男性は悲鳴を聞いて駆け付け、容疑者に「警察に聞いてもらわんか」と声を掛けたところ、被害に遭ったという」
女子高校生に「きもい」言われ立腹 傷害容疑で県立中央病院職員を逮捕|事件・事故|徳島ニュース|徳島新聞
これは酷い、という事件であるが、ある人が「暴行はもちろん駄目だが、キモいというと相手を怒らせることがあるからやっぱり使わないほうがいい言葉だ」のようなことを言ったら、抗議が殺到したらしい。
何故そんな事を言ったかというと、この人は非モテ研究家だからである。
KKOなんかその代表例だし、オタクとかもそうだし、インセルなんてのもそうだろう。
ともあれ、そういう人たちを対象の日々「キモッ」という言葉をぶつけてくるわけである。
でも、キモい自体は、もっと広範囲に使われている。たとえばLGBTだってそうである。ゲイキモっ、ホモキモっ、なんて日常茶飯事だ。
仁藤夢乃なんかはもっと大胆で「キモいおじさん」解説までやってる。
https://www.youtube.com/watch?v=ltu5e6rNKzM
はっきり言えば、ずっと前からそれを言うのをやめろという空気はあったが、この動画がきっかけになって反発を生んでいた矢先に上の事件が起こったのである。
やっぱそれって言っていい言葉ではないぞ、と。事件で女子高生が言ってしまったのは仕方ない。それは全く悪いことではない。
ただ、この事件から見えてくるのは、その言葉を使うと相手を傷つけることになる、という意味であんまり使うべき言葉ではないんじゃないか、と。
事件を矮小化するとか、女子高生を責めるとか、そんなの誰も言っていないのである。
ただただ、使うと怒らせることもあるから、よろしくないのでは? という意図で議論できたらなぁと思ったら・・・
それはセカンドレイプだ!
女子高生が悪いとでも言うのか!
とまぁ呆れたくらいにやり返されるのである。
どーしても奪われたくないらしい。
だけど、「キモい」って言葉は相手を傷付けることがある、くらい認めようよ、って話なのに。
でもよく考えてよ、この事件、下手したら女子高生死んでたかも知れないんだよ?
その意味では注意すべきではないの?
わしゃ世の中どうなってんだかさっぱりわからん。
それとも仁藤を批判されたら困るのか?
何なんだ一体?
人種平等の志は素晴らしいが、「いじめ」を差別の同類にしてほしくない。
違うよね?
ブサメンだからいじめられるだとか、コミュ力が無いからいじめられないだとか、いじめってのはそういう問題じゃあないんだ。被害者の属性がいじめを引き起こしているなんて話じゃあない。「いじめられるやつにも欠点はある」なんて話じゃあ全然解決に近づかないんだよ。
人種が○○だからいじめられたんだ、という理解は、差別撤廃を意識しているようで、いじめの原因を被害者側の属性に求めているという点で全然違うと俺は強調したい。どんな人でも偶然の行方や場の流れによって対象になりえるのがいじめっていう社会現象で、いじめ対策はそういう認識に立って進めねばならないんだよ。
「小児性愛のカジュアル化」に問題があると考えるのは、対人性愛優位を自明視した認知の歪みでしかない。問題があるとしたら、「性愛のカジュアル化」にある。セクシャルマジョリティが主導して守ってきた性の規範を、マイノリティが拒絶することにより、「性愛のカジュアル化」が現象として起こっているという事実はあると思う。しかしそれ自体がセクシャルマイノリティの「政治活動」としての側面があり、一方的に断罪することはマジョリティの傲慢である。「批判するな」とは言わないが、慎重になるべきだし、そうした政治性に注目することなく「批判」に終始するなら「ただのポジショントークだ」との誹りは免れないだろう。
批判者が「小児性愛のカジュアル化」と呼ぶものの一つに次の事例がある。
「娘の成長を見てくれ」と言って筐体で遊ぶ小さい娘さんの写真を2枚貼ったツイートにも、リプ欄で「えっちです」ってのがあったんだけど、こういうコメントを気軽に送れちゃうのも社会で小児性愛がカジュアルになりすぎた結果だと思うんだけど— E (@nice_comp_net) May 29, 2020
しかし、これは所謂「キャットコール」と呼ばれるセクハラの一種であり、「対象が児童だから」問題なわけではない。批判者も、「対象がもし成人ならば何も問題はない」とは言わないだろう。このような事例は「性愛のカジュアル化」によって支えられる悪しき文化であり、批判すべきは「性愛」であり「小児性愛」ではない。これを以って小児性愛を批判するのは無理があるし、「小児性愛は悪だから悪なのである」というトートロジーに陥ってるようにも見える。では、なぜ彼らは小児性愛を殊更に敵視するのか? 以下は既存の議論焼き回しである。
小児性愛と成人性愛の本質的な違いはただ一つ、「児童との合意は(少なくとも現代の倫理規定では)成立することがあり得ない」という点である。児童との間に「合意のようなもの」がいくら存在したとしても、それらは全て「合意」とは見なされないし、見なすべきでない。(「合意」の定義と児童保護について慎重に議論を重ねた未来では何らかの変化があるかもしれないが、それについて議論するにはあまりにも論点がずれているし、ここでは触れない。)しかし、「故に小児性愛は許されない」と主張するには論理の飛躍がある。ここまでの前提の下で自明と言えるのは、「児童との性的接触は許されない」という一点である。
「児童との性的接触は許されない」と「小児性愛は許されない」はもちろん同値な命題ではない。彼らがこれを同値と見なすのは何故か?それは彼らが、「性的欲望とは常に性的接触によってのみ満足するものであり、それ以外の性的行為は全てその為の準備に過ぎない」という偏見を抱えているからであろう。今回、多くの人形性愛者、フィクトセクシャル、さらにはアセクシャルを自認する人々からも批判が殺到した理由はそこにある。
「(実在児童を対象としない、無機物を対象とした)児童ポルノは、児童との性的接触を実行するトリガーとなる」と主張する人々は、「成人と性的接触を行うことは、児童との性的接触を実行するトリガーとなる」とは言わない。なぜなら、彼らにとって「性的接触」はそのまま「性的満足」とイコールであり、それが「ゴール」であると無根拠にも信じているからである。
前節では、問題の本質は「小児性愛のカジュアル化」ではなく、「性愛のカジュアル化」であると言った。では「性愛のカジュアル化」は本当に問題なのか? 結論としては、確かに問題であると私は思う。うぐいすリボンの荻野さんも以下のように言っている。
逆に、実質、ポルノとしてマーケティングするものであるのなら、18禁でなくとも、広告だけでなく、表紙の陳列やらまで含めて、賢明にどんどんゾーニングして頂くというのが、多分最適解なんだけどねぇ。— 荻野幸太郎 / OGINO, Kotaro (@ogi_fuji_npo) November 13, 2019
その理由としては例えば、①性的プライバシーの問題、②依存性の問題、などが挙げられる。あるいは、「そのような問題を内包する言動」こそを「性愛のカジュアル化」と呼ぶべきである、という定義づけも可能だろう。
①を語る言葉として「性的自己決定権」「私の身体は私のもの」などがある。余談だが、これは、ラブドールのような性的表象、および自慰を愛好する人々にとっても重要な概念である。実際、他人の自慰を制限しようという試み自体が「性的自己決定権」の侵害であり、セクハラだという批判もあり得る。(参考↓)
「男女を問わず、自慰は最も内密の行為である。誰の権利も侵害せず、自分の性的趣向と欲望を満足させる行為であり、性的自己決定権の領域に入っている。女性を卑下するという理由で自慰道具を禁ずるとしたら、女性を卑下せずに可能な自慰行為とは何なのか?」 pic.twitter.com/3lyXymSaF0— NPOうぐいすリボン / Uguisu Ribbon Campaign (@jfsribbon) May 29, 2020
話を戻そう。性とはそれ自体が深くプライベートなものである。故に、他人の性的領域に、物理的にも精神的にも安易に踏み込むことは許されない。「性愛のカジュアル化」には、その越えてはいけないハードルを下げてしまう効果があるのではないか。自らのプライバシーを切り売りしている限りは「下ネタ」であっても、他人のプライバシーを暴いたり、そこに土足で踏み入るような言動は「セクハラ」になる。(「下ネタ」を話題にすること自体が話題への参加を強要し得る文脈において、それらの区別は曖昧だが、それを語り尽くす労力は私には残っていない。)お互いのパーソナルスペースを尊重する文化を守るためには、適切なゾーニングを守り、強行的な「性愛のカジュアル化」を防ぐことも大切だと私は思う。
②の問題は意外にも語られることが少ない。これは、「ポルノにはなぜ年齢制限が設けられるか?」の問いに対する答えでもある。逆に言えば、「未成年にポルノを見せるべきでない」理由として、「正しい性教育」的なものを挙げるのは、性のスティグマ化に資するのみで未成年に良い影響を与えはしないだろう。
ここまで、「性愛のカジュアル化」は問題であることを述べた。一方で、それらを安易に断罪することもできない事情もある。それは次節で述べよう。
荻野さんは次のようなことも言っている。
いわゆる2次元系の性表現が、本当に純粋に「ポルノ消費」されてるだけなら、こんなには揉めてないんだよね、というところを、表象を批判する側だけでなく、擁護する側もなかなか自覚できないというのが、この話の味噌なんじゃないかねぇ。— 荻野幸太郎 / OGINO, Kotaro (@ogi_fuji_npo) October 22, 2019
ここで、各国のゲイ・パレード、プライド・パレード(LGBTパレード)の様子を見てみよう。
https://www.huffingtonpost.jp/letibee-life/taiwan-lgbt_b_8448268.html
https://lifevancouver.jp/pride_parade_vancouver
https://rocketnews24.com/2012/06/30/224561/
https://www.youtube.com/watch?v=MWiZwUFWs5E
やはり、非常に過激でセクシーなファッションに身を包む参加者のことが目に留まるだろう。しかしだからと言って、彼らに向かって「ゾーニングを守れ!」と叫ぶことがどれだけ暴力的か、理解していただけるだろうか?
彼らがこのような「性」を明け透けに表現しているのは、それ自体が政治的意味合いを持っているのである。それ自体が政治的表現なのである。そして我々の「性」の表現にもまた、そのような側面があることは決して無視できない。対人性愛的なものに背を向け、「オタク」的な性表現をオシャレなものとして、隠語的なコミュニケーションのために消費する文化がウケた理由は、人々がそのような政治性を間違いなく見出したからである。それは単なる「ポルノ」ではなく、「我々の性のあり方」をありのままに表現した、アイデンティティそのものなのだ。
とはいえ、我々の消費する全てがそのような政治性を帯びているわけでもないし、また全てがポルノ的でないわけでもない。実際のところ、単なるポルノが悪ふざけで表に出てくることもあるだろう。しかし、それらの区別は決して容易ではない。物理的には全く同じインクの配列であるものが、文脈や作者の意図次第で、時にポルノであったり、時に政治的であったりする。それらは私やあなたが独善的な基準で決めつけていいものではない。「法的規制に反対する」という言葉は、私刑を推奨する標語であってはいけない。表現の正しい用法用量というのは、表現者と受け取り手一人一人の良心に委ねられるべきなのである。
さらに言えば、政治性とポルノ的であることが、多くの場合両立してしまっているところにこそ問題の複雑さがある。その区別について「語るべきでない」とは言わないが、本質的に「区別は不可能である」ことを前提に、慎重に語る必要がある。そのような必要な慎重さを欠いた言説こそが、「差別だ」と糾弾される所以なのである。
誤謬を見出して批判することは容易である。しかし、否定することが目的化した人々で集まって、こちらの政治性を矮小化するような言説ばかりぶつけられては、議論にならない。「我々が言いたいこと」は、この文章を通しても伝わるはずであると信じている。