はてなキーワード: 矮小化とは
ペラペラと口が回るずる賢いインテリの箕輪より論破しやすそうだし
手軽に叩いて大きなリターンが見込めそうだからあそこまで苛烈に叩いたんだろ?
岡村は「かわいそうさん」ではないが、
岡村への叩きがやたらパフォーマティブで執拗なことは事実だろうよ。
岡村をこれ以上叩くなというわけではなく、
叩きの手法が罪の軽重と本当に見合っているのか、を問うている。
テレビの降板じゃなく本業である出版界での失職を求める署名運動なり
石川優実氏がやってたようにYouTubeに岡村批判の動画上げるなり
「箕輪だって前から炎上してるし俺のTLでは叩かれてる!」とかどうでもいい。
前から炎上してるのに岡村のように本業を潰される流れになってないって証明じゃねえか。
ブコメの「みんな忙しいんだよ」は最悪で、
暇だからという理由があれば本業を潰す署名運動するのを容認するのかって話になる。
「岡村のほうが知名度あるから」も嘘だよな、ボビーも知名度では負けてない。
「「実際に犯行に及んだ犯人」よりも「その行為は女性が我慢し受け入れるべきこと」という「概念」の方が脅威になりうる」
セクハラやパワハラというそれ自体では立件が難しい悪事を矮小化する思想。
特に今回の箕輪&見城の件は伊藤詩織さんのように公に訴えられない事情があるからこそ
文春リークというある種の私刑を誘発する手法を採ったわけだよな。
(さすがにA子さんのこうした事情を読み取れてない奴はいないよな?)
あとは当事者間でやってね、で済む話ならA子さんはリークなんてしてないんだよ。
それこそ箕輪や見城はA子さんのこうした後ろ暗い事情を知ってるからこそ、
どうせ声を上げないとタカをくくってああいう扱いをしたんだろ。
自分が大麻パーティに参加したという瑕疵を明かしてまで世論に問うた意図を汲めよ。
これこそ盛大にパフォーマティブに、MeTooのような活動をもって追い詰めるべき所業だろう。
箕輪のような口のうまい権力者に無理に言い寄られることを「女性が我慢し受け入れるべき」と思ってるんじゃないならな。
叩きやすい奴を叩くのは人間の常だが、それを追認していいわけがない。
そもそも岡村の件、チビで弱そうで詰めたらすぐ潰せそうだからという理由のほかにも
派手にやれば注目されて自分たちの得になるって考えは確実にあっただろ。
出発点はアレな発言だとはいえ、その発言の根底にあるものを断罪されて、じゃあなんでその話が出てきたんだろうみたいな話を
ずっとしてるのってたとえコンビ間の問題に矮小化した、としても、俺には反省にしか聞こえないんだけど、謝罪だ降板だ表舞台から
消え失せろだ言ってる方面の人達の批判ってどこからきてるんだろう。
少なくとも当事者ではないように見える人々が、あたかも自分たちは正当な代弁者です、みたいな顔をして、当事者が望んでいるか
望んでいないかはよくわからない、代弁者自身の望みを「謝罪」や「反省」に組み込ませようとする姿は「ゆすり」「たかり」の類に見えて
ドン引きしている。
謝罪を受けるべき人々っていうのがそもそも誰かよくわからないし、この件に接して不快になった人々のその理由も各々様々な感じ方が
あるからそれぞれに対して必要十分な謝罪というのは現実的ではないと感じる。
だから「反省」を公開説教や根本を糾すことで示すのは一つのやり方だと思うし、根本を糾すこと自体も相方が「どうかしている」と思うことを
掘り下げる形で進めていくというアプローチを用いたのもよかったと思う。
浮き彫りにされた「どうかしてる」立ち振舞いが詳らかになっていく上で、ヘビーリスナーも野次馬も、さらなる断罪に繋げようとしている人々も
内包される問題をそれぞれの感じ方や揚げ足のとり方として受け止めたはずだ。
特定の相手がいない、人としてどうかしてる発言に対する真摯な謝罪や、反省をする機会があるのならば、どうしてその発言をしてしまったか
というところに立ち返るのは割と自然な流れだと思う。
炎上した事によって貼り付けられた「人としてどうかしてる」というレッテルを剥がすためではなく、何が問題だったかをゆっくりとでいいから
確実に理解していくためだ。だから、ゆっくりと様々なことを語っていく中でたどり着いた、「結婚のすすめ」も理解できるものだった。
「結婚」することの副産物として、「他者への感謝がない」「社会的責任感の欠如」「逃げ癖」等の機会点の改善につながるのでは?
との提案は、自分自身が結婚を契機に自身の変化を感じた経験からくる発言だろうと想像がつくし、本気で結婚する決断に至るまでの思考
や行動は相手を慮ることも含め、避けて来たことに正面から取り組むことになるだろう、との考えからだろう。
普段から聖人君主をキメている人たちの中では「コンビ間の話に矮小化した」という批判を見かけたけれど、今回の話で、自分に言われているか
のような思いをして身につまされる思いをしている人がいるのは象徴的な話なのだと思う。
「反省してるなら金を出せ」「死ぬまで謝罪しろ」って言ってる弱者の味方勢(は自分の罵声さえ鳴り響けば反省しようがしまいが見えないふり
するしどうでもいいと思っていると思うけど)が思っているよりも大きな規模で、今回のことがどれだけのことだったか、自分の性根を見直そう
また、発言した張本人が何が問題かわかってないと評されてるのも尤もな話で、おっしゃるとおり何もわかってないと思う。
これから知るのかもしれないし、一生わからないのかもしれない。こっちもわかってるつもりでわかってないかもしれないし、とにかくわからんのだけど
逆に実はちゃんとわかってたら本当にヤバいやつじゃん、サイコパスじゃんって思ったりはする。
そう考えたら俺はなんか、許せてしまった。サイコパスに騙されてるのかもしれないけど。
怒る人はこれからも怒ればいいし、署名集めて失職させて芸能界から追放したいと思って行動するならそれもありだし、この件を利用して
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/miyearnzzlabo.com/archives/64032
アメリカが褒め称えられてるけど疑問点が。
・給付金小切手で配ってるというけど換金どうすんの?オンラインで出来るの?出来るとしてもオンラインバンキングの環境ない人もいるよね?
でも銀行行かないとならないとしたら大行列だよね?そもそも銀行空いてるの?
・託児所全部閉鎖で子供家にいても親が休みだからOKというけど、休みじゃない親もいるよね?
子供連れていけない職場だってあるよね?例えば医療なんかは連れて行けるわけないよね?どうなってんの?子供だけ家に放置は違法だろ?
・オンライン授業も出来ない家庭(回線や技術や親の余裕がない)あるよね?そういう家庭の子は教育受けられず放置?それで後で授業再開したら教育格差広がりまくってるよね?
・夫婦仲が悪くなるって、そういうレベルの話ではなくDV激増してるって話だけど?問題矮小化しすぎじゃない?児童虐待なんかも絶対激増してるよね?
「古典は本当に必要なのか」と今訊かれたら、どう答えるだろうか。(この問いを「高校で必修科目にするべきか」に矮小化して競うのはズルいなあ)
例えば、今『幸福な監視国家・中国』を読んでいるが、これを読むとどうも中国政府が作ろうとしているのは、ある意味で儒教の理想社会なのではないかと思う(明天子としての国家主席)。
社会信用システム、個人の信用を数値化し、数値が低いと各種サービスが受けられなくなる。法と刑罰で縛るのではなく緩やかな制裁、不便さ生きづらさを与えることで自発的な服従を引き出す(馴致)。「修身斉家治国平天下」をIT技術の力を駆使して実現しようとしている、ように俺には見える。
儒教とは民主主義とは異質な、いわば統治者の統治者による統治者のための政治哲学。人には身分があるという前提の上で、礼儀正しく他人に優しくしましょうねという思想。現在の中国政府が目指す路線もそれで読み解ける部分が大きいのではないか(少なくとも内政に関しては)。
すなわち、支配する中国共産党と支配される中国国民という大前提の上で、高い教養と徳を兼ね備えた選ばれた君子ならぬ党執行部が、民草ならぬ国民を善導し仁政を施す、こういうイメージ。「天網恢恢疎にして漏らさず」というが、その天網を技術の力で人為的に構築しようとしている。その結果生まれた(生まれつつある)「監視国家」では、人々の暮らしは便利になりマナーも向上し犯罪も減ってきた。そもそもの大前提に疑問を感じないのであれば、それなりに暮らしやすい社会なのかもしれない。
「自由で平等な個人からなる市民社会」を唯一絶対の価値とする西洋近代から見れば、今の中国社会はディストピアにしか見えないだろう。だから人権とか環境とか、相手にとって響かない言葉を批判材料に持ち出してしまう。全く噛み合ってないのだ。
しかし、「君子が民草を善導する儒教社会」を念頭に置いて見るなら、(好悪は別として)それなりに理解できる。したがって噛み合った対話が可能となるし、上手な付き合い方も見つけられるのではないか。
以上のような推論が正しいのかは措くとしても、こういう考察ができるのは俺が漢文を読めるからだ。
勿論四書五経を精読した訳ではないが、要点はかいつまんで把握していて、必要があれば誰かに訳してもらわずとも自分で読めるからだ。
もしある人が中国や中国経済に関心を持っていても(あるいはビジネス上持たざるを得なくなっても)、彼が漢文を全く読めなければどうか。影響力のある著名人が「修身斉家治国平天下を連想させる」と指摘するまでそれに気づくことはできないだろう。また、仮にそれを聞いても出典である『大学』を読めなければ指摘の真意を理解できず、したがってその当否も自分では判断できないことになる。
つまり漢文の素養がある人は、ない人に比べてより早く、より多くの可能性を想定することができる。したがって対象への理解の程度もより深くなる可能性が高い。その知見をビジネスに生かすこともできるだろう。
要するに古典というのは、今起きていること、起こりつつあることを理解するうえで役立つ枠組みを我々に提供しているのではないか。
というより話は逆で、理解の枠組みとして多く参照された作品が結果古典として残っているのではないか。たくさん引用された論文がそれだけ権威を持つように。
「高校の授業が古文漢文の真価を学生に伝えられているか」は大いに疑問だし、厳しく問い直されるべきだと思う。が「古典は本当に必要なのか」と問われれば、俺は躊躇なく是と答える。
現在、そしてこの先しばらく国際社会に大きな影響を与える中国という巨大な異文化と対峙した時、日本には他国にない大きなアドバンテージがある。漢字の読み書きができる、そして中国文化を受容し改変してきた伝統がある。このアドバンテージをむざむざ捨ててしまうのは愚かしいと言わざるを得ない。
この主張だと「では日本の古典は勉強しなくていいのか?」という反論が想定されるが、それについてはまた機会を改めて考えよう。