はてなキーワード: 学術とは
お賽銭の額が御利益に左右するなんてハナシ聞いたことないんだが。
以下の↓
いますぐ別れよ! 女子を不幸にする男子の特徴「初詣でお賽銭を小銭で入れる男子」 - バズプラスニュース Buzz+
この部分、
どこ情報でしかも常識だと論じてるからには何らかの根拠があるんだろう。
これに関する学術論文や研究雑誌を一度も読んだ事ないし、置いてあるのを見た事がないのだけれど、
誰かこの記事にある「お賽銭は1000円以上が常識」について根拠立て出来る人はいますかね?
これはどう考えてもおかしい。
アイディアを生み出すための想像力は「鋭い観察眼と知識」によって培われるものだと西谷は言うが、こうした知識に対する態度は他の多くの作家にも多く見受けられる。例えばクーンツは何かを調べる際、それについての参考書一冊を読んで満足するのではなく、2冊から3冊は確認しなければならないとするし、五代/榊も知識を増やす労を惜しむようでは作家になるのは無理だとする。
知識の広げ方という点では、例えば榎本はネットは有用だとして、わからない単語が出てきたら放置せずその場で調べる、新書、辞典、専門書を読むことなどを推奨している。またキングはテレビを否定し、読書が重要だとしている。
重要なのは何かを盲信しないことである。五代/榊は単純に何かを鵜呑みにしたり、逆に根拠なく切り捨てることは思考停止であり、これは「極めて危険」だと明確に述べる。クーンツの複数の文献を確認することへの指摘も同じことだろう。
一方、情報収集なぞ必要ないという主張も存在する。水島はラノベを書きたいならラノベだけ読んでいればそれでいいのであり、ラノベに限らず幅広い文献に目を通すべきだという意見は作家の見栄に過ぎないと言う。
ラノベ作家を目指すのならばラノベを読んでおくべきだ、という指摘は至極もっともだが、しかしラノベ以外の知識は不要だ、というのはいささか乱暴な主張と言わざるを得ない。もちろんそれでラノベを書くことはできるだろう。しかしラノベしか知識がないのだとすれば、そこで描かれる内容は他のラノベで既に描かれたものの域を出ない。もちろん、大塚の主張するような抽象化と具体化による工夫は可能だが、そこで具体化するための材料もまたラノベから引っ張ってくるという引き出しの無さは、相当の才能が無い限りすぐに限界を迎えるだろう。
知識という点で、飯田は作家がオタクであることを求める。しかし飯田がいう「オタク」とは流行のラノベを楽しみ、流行のアニメを楽しみ、ニコニコ動画で流行している動画を楽しむ人のことである。
一方で五代/榊は「新しく入ってきてる人達は、オタクと呼べるほど濃くない」とそれをオタクではないと断じる。共に作家が「オタク」であることを求めるが、両者の言うものは似て非なるものに思われる。とはいえオタクとは何か、オタクの濃さとは何か、という問題に本稿で踏み込むつもりはない。
最後に、知識の無さはワナビが創造する登場人物の幅にも影響することは理解されておくべきだろう。プロアマ問わずラノベにはよく「天才」が登場する。問題はこの「天才」が知っている知識は作家本人の知識を限界とし、その発想力や考え方もまた作家本人の能力に制約される、という現実である。
天才を出したいのならば、作家本人が天才の知識と思考を模倣できなければならない。幸い、作中の天才と異なり作家には十分な時間をかけてあらゆる文献を調査する時間的猶予があるのである。
何度となく推敲され書き上げられたものは珍しくない。にもかかわらず全く面白くないそのラノベの問題点を、例えば登場人物に魅力が無い、物語にリアリティがないとあげつらうことは容易である。それが欠点であることは間違いないだろう。しかし仮にそれが解決されれば、つまり偏差値30が50になれば、それは面白いラノベなのか。
五代/榊はワナビを「自分が知らない事は考えたくない、考えたくないところは考えないですましている」と批判するが、ワナビはそもそも「面白さ」について、とりわけ学術的に考えることを避ける傾向があると筆者は思っている。先行研究の調査は思考の基礎であるが、ネット上で飛び交う様々な「面白さ」についての議論がそれらに言及することは残念ながら稀である。
練習は嘘をつかないって言葉があるけど、頭を使って練習しないと普通に嘘つくよ。
faridyu
本稿の整理が的を射ているとは限らない。しかし「面白さ」を構成する要素について、先行研究の重要性を幾ばくか示すことができたのではないかと考えている。それが本稿をここまで読んだ時間がワナビにとって価値あるものだったかはわからないが、しかしせめて、なにかの気づきに役立つことができればと願っている。
ほとんどの場合、ラノベにヒロインは必要不可欠であると水島や飯田は主張する。反例はもちろんあるが、ヒロインを据えたラノベがそうでないラノベよりも圧倒的に多いことは事実である。
このヒロインについて、水島は「フラッグシップヒロイン」という独自の単語を用いて説明している。フラッグシップヒロインとは、その出会いによって、主人公は平凡な日常から非日常へと放り込まれる、という点で特徴を持つヒロインである。水島はこのフラッグシップヒロインは一人であるべきで、また傍若無人タイプが好ましいと言う。日常が非日常へと変わるのは多くの物語で最初の1度であり、従ってそういった存在は必然的に一人であらざるをえないと言えること、前述の人物間のギャップを想定する場合、ヒロインが傍若無人であるならば主人公は面倒見のいい親切な人物となり、このような人格は読者の倫理観を満足させやすく、ゆえに感情移入させやすい、という点で効率的である。ゆえにこの水島の指摘はこれまでの内容とも矛盾しない。
一部の例外を除いて、ヒロインは主人公に惚れなければならない。榎本はヒロインが主人公に惚れる理由はしっかりと、読者に分かる形で描写するべきだという。一目惚れの場合は「外見に惚れ、次に魂に惚れなおす」という形で段階を分けるべきだとする。
突如登場したこの「魂」についての説明は一切ないが、筆者が理解する限り、この「惚れる理由」や「魂」とは主人公の「行為」であり、精神的な何かではない。
クーンツは登場人物の個性とは「行為」によって示されるべきだと言う。これは例えばヒロインは優しい性格の持ち主だ、と説明することよりも、読者がヒロインを優しい性格だと感じる行為を描写することの方が好ましい、という指摘である。
作中の人物はテレパシー能力が無い限り他人の思考を読み取ることはできず、その人物設定の書かれた地の文を読むこともできない。ゆえにその行為によってのみ、どういう人物であるかを理解していくことになる。もちろんクーンツや榎本が指摘するように、それらの行為には動機が必要である。現実と異なり、なんとなくで登場人物が行動していくことは読者は作家の思考放棄であり、ご都合主義だとみなす。
従って主人公はヒロインが惚れるに足る行為をなさねばならず、それは作中で明示的に描写されなければならない。
さらに、この指摘は主人公がヒロインに惚れることについてもまったく同じである。美少女である、ツンデレであるといった属性があるから主人公が惚れるのではなく、当該人物の行為によって主人公は惚れる必要があるのであり、さらにその行為が読者にとっても惚れうるものであればこそ、魅力的なヒロインとして意識づけられるものだろう。
水島は登場人物にオリジナリティなど不要であり、パクればいいとする。一方で五代/榊はそれを「チグハグで安っぽいもの」と批判する。両者の主張は実のところ特に対立するものではない。
西谷は次のような指摘をしている。
ライトノベル作家を目指している人の原稿を読むと、大ヒットした小説に登場したキャラクターの名前だけを変えて自分の小説に登場させ、自分ではそれに気がついていないことが多いのです
五代/榊が批判しているのはまさにこうした模倣だと筆者は考えている。水島は意識的に模倣しており、さらにそれはバレないようにするべきだ、と言う。バレない模倣とは一体なにかについて水島は特に踏み込まないが、この点で大塚は既存のキャラクターを抽象化し、別の値で具体化することが正しい模倣だという。例えばオッドアイという属性を「左右で異なる目を持つ」と捉え、そこから「左右で見える世界が違う」と具体化する。
確かにこれは既製品の加工、変形に過ぎない。ゆえに大塚はオリジナリティとは「パターンの組み合わせ」「パターンの再発見」なのだとする。この2つは、クーンツの「われわれは古い物語の要素を新しく配列し直しているだけなのだ」という指摘、また榎本の「オリジナリティとは「全く新しいもの」ではなく「読者たちが知らないもの、見たことのないもの」の呼び名だ」という指摘を端的に表していると言えるだろう。
一方、様々な属性をランダムに組み合わせ、新たなパターンの組み合わせを発見しようというワナビは珍しいものではない。スクール水着と巫女の組み合わせはこれまでにない!オリジナリティだ!といったそれに対し、大塚は「設定の上だけで奇をてらった個性やオリジナリティを追求しても意味がない」と指摘する。
繰り返しになるが、大塚はそれが「主題」と深く結びついていることが必要不可欠であるとする。主題と関係性を持たせられず、物語上の必然性もない「オリジナルな属性」に価値は無いと言っていいだろう。
プロットについての学術的定義としては例えばフォースターが有名であるが、それらを踏まえてプロットの定義を明確化した文献はフィールドぐらいしか確認できなかった。
よって本稿においては各説の最大公約数的に機能する定義として、「世界」や「登場人物」の変化を「出来事」とした上で、プロットとは「出来事の配列」と定義することとした。
さてこの「プロット」について論じるにあたっては、当然ながらプロット不要論と向き合わねばならない。
プロットに重きを置かない理由はふたつある。第一に、そもそも人生に筋書きなどないから。第二に、プロットを練るのと、ストーリーが自然と生まれ出るのは、相矛盾することだから。
このキングの著作を高く評価し、手本としても例に挙げているクーンツはプロットに関して次のように述べている。
作家にとって望ましいのは、ただひたすら登場人物たちの進んでいく方向に、ストーリーを方向づけていくことであるというのだ。どこやらあいまいなこの方法に従えば、より「自然」なプロットが得られるというのだ。ばかげた話である。
ただしクーンツもごく一部の天才であればプロットを練らずとも名作を書きうるだろうとしていることは事実である。よってキングをその例外であるとすれば上記の見解の相違は回避可能となる。
ところが同様にプロットなど考えたりしないという主張は、例えば宮部みゆきや五代によっても主張されている。彼女らがクーンツより文才溢れる天才であり、キングと同格なのだとすることはさすがに暴論であろう。
しかしここでもこれは単なる手順上の相違に過ぎないと筆者は考えている。
まずキングは「原稿を寝かせる」ことを非常に重視している。書き終えた原稿をキングは6週間寝かせるが、それは「プロットやキャラクターの穴がよく見えるようになる」からだという。こうしてプロットの欠陥を認識し、書き直し、そしてまた6週間寝かせる。キングは欠陥を認識しなくなるまでこれを繰り返す。
確かにキングはプロットを事前に練っていないが、これは推敲における徹底したプロットの練り直しに他ならない。もちろんキングが筆の赴くままに書いてもそれなりの内容を書くことができる、という前提はあるだろう。しかしキングもまたプロットを最終的に納得いくまで練り込んでいるという事実は、単純にプロットなど不要だとする主張とは明らかに一線を画している。
宮部もまた、書き終えた後での推敲段階で物語の全面改稿を含む大幅な変更がありうること、よって発表後の現行を改訂できない連載小説などは「よく失敗」すると自嘲し、従って自分のやり方は非効率であるから真似するべきではない、と述べている。
このように彼らの意見をまとめると、プロットを先に練って書くことは確かに必須ではないが、それはプロットを練らないことを意味するものではなく、推敲段階で徹底して練り直さねばならない、ということと理解できる。先にプロットを練ることの効果は後で練るより執筆量の少ない段階で修正できることにあり、効率が良いという点に集約できるだろう。
以上のように整理したところで、ではプロットを練ればそれだけで自動的に良いプロットになるのか、といえばそうではない。重要なのは魅力的なプロットを作り上げることで、練るという行為それ自体ではない。
練り方という点でラノベ作家陣は様々な「プロットの作り方」を提案している。その内容には「どのように作るか」という手順と「どのようなプロットであるべきか」という構造についての両方の側面があり、極端に言えば前者についてはどうでもよく、明確に意識するべきは後者であると筆者は考える。
従って手順について詳細に踏み込む必要は無いと考えているが、似て非なる様々な内容が提案されている点を簡単に紹介したい。
キング同様、西谷は「最初のシーンから順に次のシーンへと書いていく」というシンプルなプロット作成手順を提案しており、そのメリットはスケールの大きい物語ができること、デメリットは時間がかかることだとしている。
他方、西谷は「主題をもとにして最初のシーンを考え、次にクライマックスとなるシーンを考え、その両者をつなぐシーンを考えていく」という手順も提案している。こちらは前者より物語の構造を決めやすく、早く書き上げられる手順だという((この指摘はプロット不要に関する筆者の解釈とも合致するところである))。
水島の提案はこの西谷の後者の説に類似しているが、「ヒロインと出会う事で主人公の平凡な日常がどのように変化するのか」「クライマックスで何をするのか」「ラストはどのように終わるのか」を最初に決め、次にその間を繋ぐ出来事を作っていくとするものである。
榎本は「(人物)が(行動)をして、(結果)になる」を最小プロットとして位置づける。その上で登場人物たちの目的、遭遇する事件、葛藤、対立、成長といった要素を盛り込みつつ、まず200字で作成するという。200字で納得のいくものが作れたら次に400字、800字と同様に徐々に増やしていく。これによって効率的にプロットが作成できるとしている。
大塚は上記とは全く異なり、下記の項目それぞれについて、暗示的な意味を付したカード(オリジナルでもタロットのような既製品でも問題ない)をランダムに割り振ることでプロットが作成できるとする。
割り振られたカードの暗示から想像を膨らませることで具体化するという。また、これとは別にグレマスの行為者モデル(主体、援助者、敵対者、送り手、対象、受け手の6種の役割をもつ人や物によって物語は構造化できるとする説)によってもプロットは作れるとしている。
これ以外ではさらに物理的な手順への言及もあり、例えば榎本は単語帳やExcelで各アイディアをカード化してこれらを並べ替えながら考えるのだとしていたり、大塚も場面単位で時刻、場所、人物、行動をカードに書き、それを時間軸に沿って並べて考えるのだ、としている。最後に1972年初版であるクーンツの指摘を挙げて本項を終わる。
プロット・カードとかストーリー構成リストとかの奇妙な発明品は、どれもかつて、作家がアイディアを得るための手助けをすると称して売られたものであり、この手のものは現在もなお売られている。が、実際のところ、そんなものはまともな作家にとって、まったく無価値に等しい。
ラノベ作家陣によるプロットの構造に対する言及は曖昧なものが多く、またまとまった説明になっていないものが少なくない。
いくつか断片的にこの点について言及している部分を拾い上げると、例えば西谷は「キャラクターに新鮮みがあること」「魅力的なストーリーであること」「類似作品と差別化できていること」といった要件を上げており、「魅力的なストーリー」とは何かという点については「主人公に苦労させる」「強い悪役を出す」「魅力的な仲間を出す」「新しい場所を訪ねる」としている。作中でそれぞれの出来事の起こる順番への言及は特にない。
水島は順序について言及しているが、「タイトルも含めて最初に読者をツカむ」「ラストシーン一歩手前で盛り上がる」「ラストは短くだらだらせず、良い読後感を与える」「それ以外は読者が飽きないよう時々盛り上がるようにする」というもので、具体性に乏しいと言わざるを得ない。
あえて言えば「どんでん返し」と「天丼」への言及があり、「どんでん返し」はクライマックスの決着、直前、ラストシーンの最後のいずれかに位置することで効果的に機能するが、当たれば評価を大きく上げるが外れると大きく下げる点に注意が必要だとしている。「天丼」は意外性があり、重要なことを最初は大袈裟に、二回目は間を空けた上でぼそっということで効果的に機能するとしている。
確かにこれらの要素は盛り上げるための1つの技術ではあるだろうが、プロット構造における要素とは言い難い。
さて、榎本は次のような構造をプロットが持つことが望ましいとする。
クーンツもまた、古典的プロットの成功パターンとして以下のようなプロットの構造を推奨する。
念のため触れておくとクーンツはミステリにはまた注意すべきプロット上の必須要素があるとして、それを15項目に別にまとめている。つまり上記だけであらゆるジャンルのプロットの必要十分条件であるとしているわけではなく、様々なジャンルの必要十分条件の最大公約数として機能するのだ、という指摘であると筆者は解釈している。
大塚はプロットの構造については後述するヒックスのそれが参考になるとして作中で丸ごと引用している。しかし同時にプロットの本質的構造はアラン・ダンデスを参考に「主人公の欠落が明かされる」「主人公は欠落の回復を目的とする」「主人公は欠落を回復する」の三段階であるとしており、これは榎本やクーンツの主張をさらに抽象化したものだと言いうるだろう。
ところでクーンツの主張するプロットの構造は「三幕構成」と呼ばれるものである((三幕構成とは序破急であるという言説はラノベ作家の本でもよく見かけるのだが、あれは世阿弥の風姿花伝における序破急の概念を正確に理解した上でそう言っているのだろうか。まさか読んだこと無いけど字面的にたぶん同じだろといった糞みたいな思考で「教科書」と自称するものを書いているはずはないので、風姿花伝の解説書、待ってます))。榎本は「起承転結」を用いて説明するが、上記のように両者はそれほど乖離したものではない。この三幕構成はとりわけハリウッド映画脚本の原則として確立されており、その端緒ともいうべきフィールド、そして大塚や乙一などが参照するヒックスについて本稿では整理する。
フィールドはプロットの理想的な構造を三幕構成によって説明する。三幕構成とはあらゆる物語はAct1, Act2, Act3の3つに分割可能だとする考え方である(その意味でいえばクーンツもまた「クーンツの三幕構成」というべき独自の三幕構成を定義しているというべきである)。これはパラダイムであり、ゆえに三幕構成は史上最高傑作にもメアリー・スーにも等しく存在する。
フィールドはこの三幕構成を下敷きに、次のような役割を持つ出来事が順に配列されることが望ましいとしている。
PlotPoint1と2はそれぞれ各Actの最後に、次のActへの橋渡しとなる機能が求められている。またMidPointはConfrontationの真ん中で起こることが望ましいされている。さらにはそれぞれのActはいずれも小さな三幕構成で出来ており、すなわちフラクタル構造であることが望ましいという(フラクタル構造への言及は榎本なども指摘するところである)。
映画脚本における理論であることから、フィールドはMidPointが上映時間のちょうど中央で起きることが望ましい、としている。
クーンツがあげる「ついに最悪の事態に陥る」はMidPointのようにも思われるが、クライマックスのようにも思われ、それが作中の後ろにあるのか中央にあるのか言及がないため、判断しかねるところである。これに対してフィールドは明確にそれを作品中央で発生するべきだ、としている点で、クーンツのそれをもう一歩先に進めたものだと言いうるだろう。
なお、MidPointは必ずしも派手なものである必要は無い。例えば映画「マトリックス」におけるMidPointはネオが救世主ではないとオラクルに告げられる場面である。争いの無い静かな場面であり、生命の危機に直面しているわけではない。しかし物語をこれまで動かしてきた大前提が崩壊した瞬間である。MidPointはこのようにもはや後戻りができず、先の絶望的状況の回避方法が読者に容易に想像できない出来事であることが期待されているものであり、派手な出来事 Permalink | 記事への反応(1) | 20:47
新しいWebサービスを立ち上げました。
「気のあう仲間を見つけて、語りあい、まとめてコンテンツにするサイト」
「『穏やかに話しをしましょう』と了解した人だけで議論を進める掲示板」
といった感じのサイトです。
ブログのように「しっかりした記事を書いて情報発信をしたい」とか
twitterのように「ちょっと感じたことを吐き出したい」とか
ではありません。
1.完璧と言えるような考えではないけど、それなりには考えたので、ちょっと言ってみたい。
2.他の人からの感想、他の人の考えも聞きたい。(リアクションを大いに期待している)
3.でも、「ちょっと言ってみる」ということを躊躇させるような、攻撃的なリアクションは避けたい。
4.他の人との議論を通して、最終的には、質の高いコンテンツにしたい。
「そこそこの意見を表明すると、他の人のリアクションがあって、最後にはいいコンテンツに育つ」
これを実現します。
詳しい解説はこちらから
http://talkinsalon.com/users/guide
大雑把には、
3.コンテンツにまとめる
という流れです。
などです。
個人的にいいなと思うのは、
「自分より詳しい人がメンバーなってくれて、議論を通して、自分が向上できるようなサロン」です。
例としては、
1.サッカーに興味はあるけど、サッカーの戦術とか詳しくない人が、サッカーのサロンを開設
3.互いにリスペクトを保ちつつ、率直に議論(上から目線、慇懃無礼などはない)
5.メンバーは自分の見識を遺憾なく披露できると同時に、初心者の考え方、感じ方を知ることができる
さらに将来的には、サロンに広告を載せて、広告収入などがあった場合には、サロン主だけではなく、メンバーにも収入が分配されるようにします。
サロンを運営せずに、いろいろなサロンでメンバーとして語ることで収入を得られるようになります。
議論をするためのサービスというジャンルはこれまでいろいろありました。
今、圧倒的に有力な議論サイトはないと思います。だから「もしかしたらSalonも行けるかも」と淡い期待をしています。
ただ「Twitterで気の合う人とフォローしあうことで、Salonと同じようなことが既にできてるんじゃないか?」という疑念もあります。
これはなんとも言えないのですが、
Twitterで、あまりうまく行かなかった人、イヤな思いをした人、別のサービスに切り替えたいと感じている人、がいるんじゃないかなと思っています。
殺伐としたネットの議論を愛する人達から見れば、「『穏やかに話しをしましょう』と了解した人だけで議論を進める」というSalonのコンセプトは「甘い」と感じられるかもしれません。
でも、そういう合意した者同士での議論からこそ、よいコンテンツが生まれ、参加者にとっても有意義な時間を過ごせるものになるのではと思っています。
「つい熱くなって議論したけど、あとから振り返って『不毛な時間だった』」とならないサービスを目指しています。
サービスを開始するにあたり、"さくら"というか、知り合いを動員して、盛り上がりを演出する必要があるのですが、頼める人がいません。
そもそも記事を1つ2つ書いてもらえばいいという訳でもなく、継続的に議論をしてもらいたいので、頼み込んで参加してもらうのはちょっと違うなと思ってます。
とりあえず、自分のサンプルサロンを作り、更新を続け、あとは自然とユーザが集まるのを期待しています。
少しでも興味を感じましたら、ぜひ使ってみてください。
議論とか好きそうで、なおかつそれなりに質の高い議論をしてくれる人達ははてな周辺にいそうなので、増田で告知することにしました。
そのほかの告知はおいおい考えようと思っています。
理想は、ある程度利用者が集まって盛り上がった状態で、いろいろなメディアに告知するのがいいかなと思っています。
下手に告知して、ユーザが来ても、全く盛り上がっていなかったら直帰されてしまうでしょうし(昔、kawangoさんがそのようなことを指摘していました)
増田では「文系がはじめてサービスを作りました」というのりでアピールするのが定番のようですが、もう飽きられている気がするので止めました。
バグ/セキュリティホール/ご意見などがありましたら、トラバ、はてブなどで教えて下さい。
よろしくおねがいします。
村長が片岡Kおよびアスペクト幻冬舎あたりの脱法出版について言及しておられたけども
出版業界って、一部の超大手や学術書しかやりませんねんみたいなお堅いところ以外の、中小零細後発隊はほとんどのとこが
「ひと山あてたらんかーい!」的、山師スピリットあふれる胡散臭い業界だよなぁと改めて思う
原稿料ばっくれて雑誌作ってる社長もこないだ話題になりましたけど
とはいえ出版は、多少は資金も集めなきゃならないし人手も必要だから、こりゃひどいというのは「得られる果実もそれなり」だったりもする
・スタートだけなら少人数、なんなら一人でも始められちゃう。社会的信用も不要
違法行為への認識って、ある程度いろいろ経験すると法知識がなくても「あ、ここはまずい」という嗅覚が働くけど、彼らにはそれがない
そもそも、社会生活上で毀損されるようなものが何もなかった輩だったりする
だから、違法行為が炎上して信用がなくなってもなんとも思わないんだろう。全能の人ってやつだ
メンタルとしてはアイスケースに入って記念写真撮る子と根っこは変わらないんだろうなというか
もともと友達がいなかったし、面倒なこと言う友達はいない方がむしろ楽、また別の友達探すから、という感覚だろうか。よー分からんけど
ばれなきゃいんだよ、ばれたら消しゃいいよ。という感じはあると思う。
そんなのでも、労力比ではそこそこは稼げたりするんだろうから、馬鹿のフォロアーが絶えなかったり
・そういうのをちやほやする「お仲間webメディア()」で信用ロンダリング
先に大いに燃えて名を上げた先輩が持ち上げるパターンもよく見る。
名前をよく見るようになれば、悪名だろうが成功というのが「炎上商法」のベースだろうと思うんだけど
同じような屑同士で「あいつ悪くねーよ」「話題の○○に会ってみた」とか、ねぇ…
「リアルの信用力は多少あるけど、基本がうっかりしてる佐々木先輩」みたいなのもいるし油断できない
webメディアで飯食ってる人は業界全体である程度質とか遵法製とか考えていかないと、そろそろメディア自体が頭打ちになると思うよ
橋下徹と桜井誠の約7分にわたる「意見交換」へと感想はさまざまあるが、どれもしっくりこない。
【言論の自由】「橋下vs桜井」意見交換会を見て[桜H26/10/22]https://www.youtube.com/watch?v=vu0fpCZikIk&list=UU_39VhpzPZyOVrXUeWv04Zg
まずは「論外」という反応から見ていく。
この動画で言ってることは結局「橋下は桜井誠の「在日特権」についての主張を聞かなかった」ということにまとめられる。そもそも問題となっているのは「ヘイトスピーチ」についてである。在日韓国人・朝鮮人を侮辱して、憎悪を煽る言動についての意見交換なのであって、「在日特権」について意見交換をする場ではなかったということを確認する必要がある。よって、私はこの種の意見を「論外」であると評価している。
てか、もともとチャンネル桜は、桜井誠を世に出したメディアでもあるんだから(途中で喧嘩別れにしたにせよ)、その辺をちゃんと清算すべきだよね。水島総氏は「ヘイトスピーチは情報謀略戦において不利に働く」と様々なところで、さかしらに言っているけれども、ようは「保守がみんな在特会みたく見えるようにつくられてしまうからやめろ」って言ってるだけである。水島氏のこうした発言はヘイトスピーチへの本質的批判には程遠い。「自分に不利になるからやめろ」と言ってるだけだから。
あと、「在特会とアンチ在特会を平等に規制する法律をつくらなければアンフェア」だと動画で述べているが、この点に関しても詭弁があることを述べ添えておく。問題となっているのは「ヘイトスピーチ」である。「ヘイトスピーチ」とは、特定の人種・国籍に対して差別を煽るような憎悪表現である。アンチ在特会にそのような発言は、明示的には存在しないはずだ。(アンチ在特会も「ヘイト」だ、という意見をよく聞くけれども、ヘイトスピーチについての基本的知識がないのだな、とそのたびに私は思っている)
中道左派に多い意見だと思う。おそらく国民の多くは、桜井氏の下品さに嫌悪感をもよおし、橋下氏の「公人」としての振る舞いに疑問点を抱いたことだろう。
橋下氏の発言には、たしかに同意できない部分がある。例えば「本当に政治的主張を行いたいなら選挙に出ろ」といった類のことだ。これは彼が昔から言ってたことだが意味不明。デモ活動は立派な政治的活動であり、直接に法整備を行うわけではないにせよ、国民意識を変えていくことで、ひいては国会にも影響を与えうるものであるから、立派な政治的活動である。こんなことは、グラムシのヘゲモニー論を引用するまでもなく常識で考えれば分かることだ。
こうした疑問点は様々あるにせよ、今回の橋下の綿密な行動に私は驚嘆した、というのが感想であった。橋下氏自身も述べていることではあるが、彼の行動はきわめて計画的であったとリアルタイムで見ていて感じた。彼はなかなか感情的には流されない人間であり、冷徹な人間性を見せる。そもそも桜井氏の今回の言動くらいで激昂して理性をなくしてしまう男ではない。「帰れ帰れ」という言葉もおそらくはじめから用意したものであっただろう。というのも、在特会が常々言っていた「朝鮮人は半島に帰れ」という言葉を模倣して、桜井氏個人に突きつけるという手法を橋下氏はとっているのだと私は理解しているからである。それから、より政治的に言えば、「ヘイトスピーチ」を行う人間を公人が思いっきり面罵した、という点も評価できる。ヘイトスピーチを行うものはこのように扱われても仕方がない、と世に流布した功績は大きい。
他方、桜井氏の行動について。彼の「激昂」も半分以上は作為的・演技的であっただろう。そもそも彼の「激昂」それ自体が演技的であるのだから、当然と言えば当然なのだから仕方あるまい(この点については「ネットと愛国」における西村修平と桜井誠の出会いについての記述を参照いただきたい)。しかし、彼の「激昂」は、残念ながら、その容姿・恰好からしても、多くの国民の賛同を得られるものではない。クレーマーそのものである。多くの国民は彼の言動に不愉快を覚えたことだろう。
桜井は自著がAmazonで一位になったことを喜んでいるが、それはあくまで一過性のものだと私は考えている。動物園にいるチンパンジーを見たがる好奇心以上のものではない。二三年の視点から見れば、この会談が自分に大きな打撃を与えるだろうことから目を背けているに過ぎない。
なお、こうした人物評にまどわされずに、あの場にいて、どちらかに組せねばならぬ、という当事者視点から見れば、100人中99人は橋下につくのではないかと思う。第三者的視点だけではなく、こうした当事者意識を持ってみることは様々なコンフリクトを見つめてみる上ではきわめて重要なことだろう。
したがって、「どっちもどっち論」に対して私は違和感を覚えている。
外山恒一はツイッターで「やっぱり私は桜井誠より橋下徹の方がはるかに嫌いだ。」と述べている。
https://twitter.com/toyamakoichi/status/524541443637919745
https://twitter.com/toyamakoichi/status/524558184594173954
https://twitter.com/toyamakoichi/status/524577760044277760
言葉数が少ないのでその真意は測りかねるが、外山氏らしい発言だと私は受け取った。外山氏は、世の中でヘイトスピーチに批判的になってきたのを見計うかのように、反ヘイトスピーチを大上段から罵る「パフォーマンス」をおこなう橋下氏の「したたかさ」に不愉快を覚えるのだろう。私は全力で同意をしたいと思った。それにしても、「橋下徹か、桜井誠か」という二者択一を迫られるような事案が出てくるとは、やはり悲しい出来事であるだろう。
法的にヘイトスピーチについて見てみたい。まだ日本にはヘイトスピーチを規制する法律はなく、日本国憲法第21条における「表現の自由」に抵触しないかどうかという慎重論も上がっている。しかしながら、これは国内法だけではなく国際法にも目を向ける必要がある。日本も批准している人種差別撤廃条約だ。この条約は、「京都朝鮮学校公園占用抗議事件」の民事訴訟においても注目されたことで記憶に新しい。京都地裁は「我が国の裁判所に対し、人種差別撤廃条約2条1項及び6条から、同条約の定めに適合する法の解釈適用が義務づけられる」と述べ、大阪高裁も支持している。司法によって国際法の直接適応を受けるのには、立法府のだらしなさを私は思う所である。同条約4条1項では「人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供も、法律で除伐すべき犯罪であることを宣言すること」を締約国に求めている。しかしながら、日本は1996年に正式に批准してからもう20年近く経とうとしているのに、いまだに「表現の自由」を盾にして足踏みしているのは情けない。憲法98条2項に基づき、早く法整備を行うべきである。
日本国において日本人以上に「特権」をもっている人は存在しない、というのが私の意見である。もし日本人以上の特権を在日の人が持っているのだとすれば、具体的に教えていただきたい。
なお、私的には、むしろ「竹田特権」を告発したい。竹田恒泰のことである。彼は慶應大学で憲法学の講師をしていたというが、通常ではありえない「特権」がなければ、とても彼は講師になれる人間ではない。彼は修士号も持っていないし、学部時代に憲法学をおさめていたわけでもない。学術論文も一つもない。なぜそのような人間が大学で「憲法」の講師をすることができたのだろうか。これは「特権」以外の何ものでもないだろう。「特権」という言葉はこのように使うのである。
とりあえず修士には行きたいと考えている現3年生向けに、
研究者としてまともな人の方が後で痛い目は見ないよ~ということで
国公立のコンピュータサイエンス系を前提としており、他で使えるかはよくわかりません。
その分野においてどのような位置づけなのかもわかりますが、
とりあえず科研と業績を調べれば本当に危ない人は避けられるということで。
青色LED訴訟の「真実」 問われる相当対価「604億円」の根拠
http://techon.nikkeibp.co.jp/NEWS/nakamura/mono200406_1.html
http://www.nichia.co.jp/specification/about_nichia/ip/zuisou.pdf
いまの愚行権の話題ってさ
國府田マリ子のすばらしさを語って「國府田マリ子を称えるBeeメイツになろう!」ってシメて
「Beeメイツはそうじゃねえだろ」って総ツッコミ食らってるように見えるんだよね。
分かり難いか。
まずね、id:netcraftさんは謝った方が良い。
「愚行権」という単語で定義される概念は、ジョン・スチュアート・ミルの「自由論(1859年)」にあって、
それなりに一般的な学術用語として、その歴史的な経緯を踏まえて定義付けがなされている。
だから、いかにキャッチーであろうとも、自分の表現したいことを「愚行権」とラベリングした時点で、
「オマエの言う愚行権は、ミルの定義とは違うし無知乙」と言われるのがオチで、学術的にも混乱を招くので良くない。
原則の第一は、個々人は、その行動が自分自身以外のだれの利害とも関わらないかぎり、自分の行動について社会にたいし責任がないということです。他の人たちが自分の利益のためには必要と考えてなす、忠告、指図、説得、忌避は、社会が彼の行為にたいする嫌悪や非難を正当に表現できる唯一の手段なのです。第二には、他人の利害を侵害するような行為については、個人に責任があり、もし社会がその防衛のためには社会的処罰や法的処罰が必要だという見解をもつなら、そのどちらかの処罰に服すだろうということです。
他人が、忠告、指図、説得、忌避をするのは、嫌悪や非難を正当に表現できる唯一の手段としてる。
(ミルは結構過激で、飲酒が原因での暴行前科があれば、飲酒に対しての予防的な制限は適法とまで書いてる)
だから、netcraftさんが主張したいコトのために「愚行権」という単語を使うのは、全くもって間違っている。
netcraftさんが主張したいことって、ダイバーシティ・マネジメントの概念に近いことなんじゃないの?
Twitterがバカ発見器と言われるように、私達はソーシャルメディアを通じて毎日全国や全世界の馬鹿を発見しては、イナゴのように食い散らかして消費する。
このエントリで言わんとしていることは、「愚かなことを表現しても、他人から、忠告、指図、説得、忌避、嫌悪や非難の表現をされないこと」じゃないの?
このままでは混乱を招くので、ここでは仮に「愚表権」とするな。
この場合、1番目まではアグリーな人間であっても、2番目はノーセンキューだったりするだろう。
そりゃそうだろう。今だって認められてる。
他人に害を及ぼさない限り、例え「他人から見て」愚かでも、現在だって自由に行える。
(その人が子供だったり、錯乱していたり、興奮したり上の空で、よく思案する能力が十分使えないというのでなければ)危険の警告を受ければ十分で、危険に身を曝すことを無理矢理防ぐ必要はないと思います。
ミルは少なくともそう言っているし、現状でも限りなくそれに近いことになっている。
ただ、ミルは自己責任で、自分が犠牲になっても良しとせよと言っているけど、実際には警察や消防等のリソース(つまり税金)が投入されてる。
だから、「自分自身以外のだれの利害とも関わらない」については、ある程度予想できることについては予防的に禁止されてる。
この線引きに文句を言いたいわけじゃなかろう。
netcraftさんが主張したいことってこっちじゃないの?
たぶん一番近い表現は、the right to diversityだけど、より広い概念だと思うんだよ。
肌の色、国籍、宗教、性別、趣味で差別されるべきでない、許容すべきだって言うのは、その通りで、ダイバーシティーなんて単語が使われてる。
例えば、「私はキリスト教徒です」というだけで、会社での昇進が遅れたり排除されるのは、正義ではない、と今の社会はされている。
「オマエはアイヌであることを止めないんだから、自己責任の基、ネットイナゴや政治家からのヘイトも受容すべきだ」とはならないだろう?
(それがアグリーな社会もあり得るが、現代日本ではそれは政治的には正しくない態度とされている)
この、「趣味」の部分に、極端な性癖であるとか、「刑事罰に至らないような行為」を入れて欲しいって事じゃないのかい?
俺が愚行権の話を読んで真っ先に思い出したのは、NHKの「ドキュメント72時間、トランクルーム もうひとつの秘密の部屋」なんだよね。
取材されていた人達は、それが他人には理解されないと痛々しいほどに理解していた。ただ、そっとしておいて欲しいと願いながら。
趣味嗜好で、バレたら後ろ指をさされながら生きていかなきゃいけないって、やっぱり間違ってると思うんだよね。
今までは、勝ち取ってこないと権利は得られなかった。
レインボーフラッグ振って、主張して主張してやっと、「居て良い」レベル。
アナと雪の女王だって、どうみてもカミングアウト後の家族との和解の物語だろ。
他人から、誰に迷惑をかけるわけでもない趣味に対して、忠告、指図、説得、忌避、嫌悪や非難の表現をされる。
ある程度以上定義付けがなされた単語を使うときは、注意しよう。
「刑事罰に至らないような行為」を許容して欲しいという主張は判る。が、それを愚行権とは呼ばない。
ネット上での愚かな行為を、ムスリムを見つけては過激なメンション飛ばさないのと同じで、尊重しようっていう主張は判る。
netcraftさんの主張とは違うが、放置権みたいな「叩くのではなく、そっ閉じ」される権利は、確立されて欲しいと思う。
---
John Stuart Mill : On Liberty (4th ed.1869 [Originally published in 1859])の日本語訳である
自由について、ジョン・スチュアート・ミル:著、永江良一:訳 http://page.freett.com/rionag/mill_js/lib.html より行った
明らかに子どもが相手ならいくらでも優しく対応するけどさ。議論の中身を見て子ども並の人間なのか子どもなのか判断して優しくしろ、というのは難しいなあ…。冷たい対応してるはてなー民の方が、実は中学生だったりするかもしれないじゃんか。そういう人には優しくしなくていいのか。
ちなみに、機会の平等/結果の平等という話は、今は高校くらいで習うだろうから、特に高度な学術的知識というほどのことはない。自分は文系だが、そりゃ学者同士が議論してるようなことをふっと疑問に思って書き込みしたのに対して、「それは○○とか○○とかが既にいついつの論文で言ってる話で今更だ、低脳」とか言われたら、そりゃ「そんなの知るかよヴォケっ!」と思うだろうけど、高校程度の理系知識がなくて書き込みしたときに、理系の人から「それはこれこれの本を見れば全部書いてあるよ」と言ってもらえれば、それはとてもありがたいと思うけどなあ。
コミュニケーション能力ってなんでそんなに大事なんですか? - 考えたことについて書いていくにて、コミュニケーション不足がいじめに発展する件が載ってました。やりきれない内容ではありますが、基本的には人間の習性なので、こりゃ仕方ないねーと思ってますので、自分の思うメカニズムを記載。誰か学術的に解明して、改善(BUG-FIXか、Workaround)してくれ。
人間は特権を持つと、その特権を行使したがる習性があります。これは、脳みそに刻まれたBIOSみたいなもんですので、いわば人間の仕様です。
コミュニケーションが未達だと、まわりと効率的に情報を伝達できない、あるいは、集団として有利な地位を手に入れることが難しくなります。そもそも情報戦って、力や武力を越える程の実行力を持てると考えています。このような状態になると、コミュニケーション未達の人は情報収拾/活用において大変なハンディを背負うことになり、コミュニケーション優位な人はますますコミュニケーション未達な人に比べて圧倒的に優位に立てます。これが、コミュニケーション未達な人に対して、コミュニケーション優位な人が特権を持つ状況を生みます。
(最悪なのは、コミュニケーション未達な方は、状況を変える為に必要な情報すらも得られなくなってしまう場合があります。こうなると、不利な状況から逃げ出す事もできなくなります。これはコミュニケーション優位な人に圧倒的な特権を与える事につながります)
で、ここで、人間の習性であるところの、特権を行使したがるという人間の仕様が発動し、コミュニケーション優位な方は、道徳などの規律を越え、本能で特権を行使します。これがいじめなどの形で現れると考えています。
道徳は理性で悪い事を抑制する考え方ですが、そもそも本能(BIOS)に抗うことを損得抜きに自分に強いる事になるので、実行力に疑問があります。もっと他の規則(ゲームのルール、社会のルール)などを活用して、今回のケースでうっかり特権を行使すると、行使した当人に明確に不利益になる仕組みを作り上げ、本能による作用を抑制することが必要かと思ってます。
まあ、これがパワハラとか、セクハラに関する法律とかの社会的仕組みの1つなんだろうけどね。もうちょっと、法律以外に、しくみで解決できんのかなーと思った。