はてなキーワード: 先進とは
https://anond.hatelabo.jp/20170713125746
クルマキチガイカス=自動車 を減らして自転車を増やせば増やすほど渋滞も公害も事故も不健康も減るので各国の特に都市部は積極的に自動車抑制と自転車活用推進に取り組んでいるほど。
http://mainichi.jp/articles/20160726/ddl/k02/040/014000c
http://www.sankei.com/life/news/160528/lif1605280018-n1.html
日本政府も進める環境政策、脱クルマへ。自転車活用「推進法」成立 社会的な交通手段としての自転車の役割拡大
自転車活用:国の責務…脱クルマへ「推進法」成立 - 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20161216/k00/00m/040/103000c
イギリス 自転車の街へ変貌するロンドン。15年間でクルマは半減、自転車=サイクリストは3倍に
http://www.gizmodo.jp/2016/02/bikeinlondon.html
ノルウェーの首都オスロ 公害対策、重大事故対策、渋滞対策の為、一般車両(自家用自動車=マイカー)を禁止して、自転車と公共交通優遇へ。
http://getnews.jp/archives/1589546
オスロは「電動自転車」の街へ。購入者に最高約7万円プレゼントするほどに自転車活用拡大推進に本気腰。
http://www.huffingtonpost.jp/asaki-abumi/oslo-bicycle_b_8848840.html
【医学】自動車依存者は最も健康寿命が短く長期間の苦痛を伴う癌にかかりやすい。
更に、壊疽や失明、心臓病、脳梗塞、免疫不全等の合併症に苦しんで死亡する率が高く実際に短命。
いつもおもうんたけど、なぜ芸に秀でた人、才能がある人が一般常識を持った人格者でないといけないのだろうか?
開発者ならアウトプットがよければ、人格などどうでもいいてはないか
1人殺したら殺人者だが万人を殺したら英雄だし、英雄色を好むし、普通の人の物差しではかれるわけがない
そう普通でないのだ
普通でない物にたいして、普通にしろってのは何を言ってるのか理解できない
ここで気付いたけど、こんな問題が起こる時点で既にそのコミュニティーは普通の人が入り込んだ普通のコミュニティーになっているんたろう
先進的な技術だと思われているものが普通の人にも普及されてきたんだね
おめでとう
一がん患者として書く。
費用については、加入している健康保険組合による。手厚いところなら還付やらなんやらで月25,000円とかで済む。
最悪でも高額療養費の制度で上限が設けられて、高額所得者でなければ、月10万円はなかなか超えない。
https://www.kyoukaikenpo.or.jp/g3/cat310/sb3030/r150
がん治療では多くの場合でこの上限をオーバーするので、医者はかかる費用についてあまり気にしないで、1回10万円の点滴や1回3万円の皮下注射(それぞれ3割負担で)やらを、平気でバンバン打つ。もちろん健康保険が適用される範囲内の話だ。
もっとも入院すると差額ベッド代やら何やら別途かかる。これは病院による。
なお歯医者の詰め物と違って、がん治療では医者が保険適用外の治療を勧めることはないようである。
とはいえ、保険適用外の新しい方法のほうが功を奏しそうな場合はあるだろう。そういうときは治験が勧められることもあるようだ。やはり国立がん研究センターの情報が有用。
http://ganjoho.jp/public/dia_tre/clinical_trial/
募集中の治験とマッチすれば、「先進的な治療」もしくは「標準治療」が受けられる。
新しい方法と標準治療との比較が目的なので、標準治療のグループに割り当てられる場合はあるが、いずれにしろ治験に参加する場合は医療機関に費用を持ってもらえるのは大きい。
一般のがん治療(標準治療)の効果諸々については国立がん研究センターのWebページを見ればよい。
http://ganjoho.jp/public/cancer/index.html
「一般のがん治療」を行おうとする医者は、基本、このページに書いてあることと同じことしか言わない(はずである)。
「治療成績」を見れば、ステージ毎の5年生存率が書いてある。もちろんこれは統計的な話だし、そもそも確定診断が出た後の話なので、最初にヤブ医者にかかってモタモタしてしまうと、手遅れになる場合はある。
また実際問題として、期待されるほど標準治療の生存率はあまり高くはない。6割超えてたら「治る種類のがんだった、ラッキー」と思うくらいでちょうどいいと思う。
その割に副作用は大きい。さらに、まともな医者ほどそこの説明をきちんとするので、否が応でも患者の不安は増す。
このへんが標準治療、というか現在のがん治療の限界で、「がんが消滅した!」とか「抗がん剤は寿命を縮めるだけ!」の類の代替医療をのさばらせる原因になっているように思う。
どうしても副作用が怖いならば、医者にそう伝えるのが良いと思う。最近は緩和ケアの概念が変わってきて、手遅れの患者にモルヒネを打つだけの話ではなくなってきたそうである。
……と、長々と書いたが、以上のようなことは実際にがんを患うと病院で教えてもらえることである。
だから、
なんてことはない。
もちろん上で書いたように、医者は費用についてあまり気にかけない傾向はあるので、高額療養費制度は把握しておく必要があるだろう。それでも100万とかかかる下手な代替医療に比べたら激安である。
また以上のようなことを教えてくれる人は、医師だったり看護師だったり薬剤師だったりソーシャルワーカーだったり、基本バラバラなので自分で整理は必要だ。
それに実際にがんを患うとノイズのような情報もついつい取り入れてしまう。その峻別が冷静にできる精神状態ではないので、迷走するのが普通だろう。
また患者の混乱を避けるためとは思うが、医者は目の前の患者の状態と直接関係ないことは言わない傾向があるので、情報が出し惜しみされていると感じることもある。聞けばよいことなのだが、コミュニケーションが取りづらい医者もいるだろう。最初にかかった病院が「ハズレ」だった場合も転院はしづらいし、そもそも当たり外れの判定が難しい。
といった諸々の問題はあるものの、とにかく費用について不安なら、自分が加入している健康保険組合の制度(特に還付金)について調べておくとよいと思う。
大麻の野生種は栽培に手間がかからないからといって、栽培品種の商品価値がなくなるわけではない。日本ならタケノコ(孟宗竹)がいい例。
そして野生種と品種改良を繰り返された現行の栽培品種とでは、特性が大きく違っている。販売店(消費者ニーズ)では有効成分を多く含む品種改良された大麻が主流。野生種の大麻は有効成分の割合が低いため、わざわざお金を出して買う人はいない。これは生産性や生産量の問題ではない。付加価値が低いからだ。現在の先進的な大麻栽培では、屋内で大規模に人工照明を用いて行われているため、莫大な初期投資と運用コストが必要。それも価格に転嫁されるので無料にはならない。
しかし大麻ビジネスに投資家や起業家の参入が相次ぎ、競争が激化し栽培量が増えた結果、価格は今のところ下落傾向にあるらしい。コモディティ化されつつあると表現されていた。コモディティ化するってことと、ビジネスにならない、税収にならない、市場が崩壊するってことはイコールではない。コモディティ化した商品なんていくらでもある。そしてコモディティ化した商品をわざわざ違法組織が扱うメリットはない。
別の視点からもう一つ。大麻合法化の問題は、対違法組織、対ギャング、治安、健康だけの問題ではない。大麻を吸うことは個人の幸福追求、愚行権、人権に関わってくる問題なのである。
なので大麻が合法化へ向かってる国・州は、治安が悪い、麻薬がはびこってる地域とは限らない。リベラルな国や州ほど合法化に積極的なのである。だから左翼の間でトピックにあがりやすい。違法組織や麻薬犯罪が多そうな中南米、東南アジア、中東はそれほど大麻解放路線をとってない。先進国でこそ大麻解放が進められている。
ポルノ、酒タバコ、ギャンブル、同性愛、安楽死と同列に語られる個人の権利。大麻が健康に悪かろうと、個人の選択の問題であって、国家が介入し犯罪者として取り締まる理由にはならない。
健康に悪いことは犯罪?気持ちがよくなることは犯罪?取り締まる法的な根拠がそもそも存在しない。違法組織が絡みだしたのは違法になってから。人の作ったシステムが悲劇を生んでいる。
例えばこんなところ。
電車内とか、公共の場で平然と化粧。周りはとても不快だが御構いなし。マナーという言葉すら知らん。
なんかこれに対してダサいよねって広告があった気がするんだけど、それに対して一部なのかしらんけど女性側から批判あったでしょ。
もうキチガイ。恥ずかしいって感情すらないんだね。痴漢とかの犯罪の話を持ち出す非論理的なバカも多数いたけど、犯罪はまったく別物。ダメに決まってるだろ。
マナーについて説いているのだよ。マナーに。それが欠落している常識のないやつが反論とか、ふざけてる。
30過ぎて女子とか言っているやつは本当に痛い。
自分が大学に入学した時は、2,3上の先輩すらおばさんに見えたぞ。同世代同士だと気づかないかもしれないが、本当の若者から見たら、もう完全に「おばさん」だ。
そのおばさんが自分のことを女子だと思っているのは滑稽でもあり、気持ち悪い。
デートでも食事でも男が出すのが当たり前だと思ってるやつ。これも時代遅れ。先進的な社会を持つ国では男女平等の思想が行き渡ってるから、もうこんな古臭い考えは時代遅れとされている。まあ日本は超因襲的で、その辺の社会が未成熟だから、女性だけのせいではないので、これは我慢できる。
でもさあ、一人の人間として敬意を払えるかというと、そういった依存体質で自立心のない人間には払えないよね。
男は年収1000万以上で〜なんていっている、かつ30過ぎのおばさん。
もうお前に何の価値もない。生物学的に若い女性を求めるのは自然なことだし、見向きもされなくなることもまた自然なのだ。
にもかかわらず、年収1000万だと?日本にどれだけの人間がその条件を満たせると思ってるんだ?さらに独身という条件付きで。
もはや奇行だと思うのだが、悲しくも日本ではそっちがマジョリティーであって、マイノリティーではないのでつらい。
他にもいろいろあるけど、全部当てはまる人っているんだろうなあ。
http://anond.hatelabo.jp/20170611183038
これのつづき。今回も文字数制限にひっかかったので、分割します。
一方、インドの僧菩提、林邑(ベトナム中部)の仏哲、唐僧鑑真らの外国人も、遣唐使船に便乗して来朝し、インド・西域・東南アジアの文化を伝えた。
遣唐使船は日本人が唐へ往来するためだけではなく、外国人を日本に招くためにも使われていたのです。「遣唐使」「鑑真」というのは中学生レベルの用語です。しかし、この2つを結びつけて説明できる人は案外少ないんじゃないでしょうか?
ちなみに、山川の『日本史B用語集』によると、菩提僊那、仏哲という用語を載せている教科書は、唯一これだけみたいです。しかも桐原書店は彼らの業績を説明するための註を設けている徹底ぶりです。入試問題になったら難問だと思いますが、大切なのはこういう人名を丸暗記することじゃなくて、東大寺の大仏開眼供養会はインドやベトナム出身の僧侶たちも参加していた国際色のあるイベントだった、それは遣唐使船がもたらしてくれたものだということでしょう。
「日本がしばしば新羅を従属国として扱おうとしたため、両国の関係はしばしば緊張した。しかし、日本の遣唐使が唐において新羅人に助けられることもあった。」
これもこの教科書に独特の記述です。遣唐使が新羅人に助けられたというのは、円仁の著作『入唐求法巡礼行記』のことを念頭に置いているんでしょうか?
また、上掲の講談社『日本の歴史』シリーズから引用すると、次のような話もあります。
遣唐使の派遣が間遠になり、日本の船が唐まで行かないなか、それでも求法の念止みがたいとなれば、来航する新羅船を利用するしかない。そしてまた新羅の商人たちは、概して好意的に彼らを助けたのであった(坂上早魚『九世紀の日唐交通と新羅人』)。こうして入唐と研鑽を果たした天台・真言の平安仏教の旗手たちが、仏教の使命は鎮護国家にあるとする考えに則り、護国の修法による新羅調伏を担うことになったのは、実に皮肉なことであった。
このころ唐では、みずからを世界の中心とみなす中華思想が強まり、周辺の国々を夷狄として見下す考えが生まれていた。この考え方は日本にも影響をあたえ、朝廷は新羅や、朝廷に服属しない東北や九州南部の人びとを蝦夷や隼人とよんで夷狄として蔑視しはじめた。
朝廷が東北地方や九州南部に進出した経緯を説明する際、そこには中華思想の影響があったことを説明しています。それに絡めて新羅との関係にもちょこっと触れているので、先にとりあげた東大入試の問題を解くときのヒントになるでしょう。
もっとも、この点はやはり、山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B018)の方が優れています。私が先に引用した箇所のすぐうしろ([後略]とした部分)では、朝廷が「東北地方の蝦夷、九州南部の隼人を異民族(夷狄)として服従させ」たことを説明し、「律令国家が蛮夷を服属させる帝国であることを内外に示した」と結んでいるのです。
それに比べると、三省堂の教科書は、遣唐使と中華思想という2つのものを関連付けて理解することが不可能です。
実教出版にも「奈良時代に遣唐使は6度派遣され」たとありますが、東京出版は9世紀のことも記述していてグッド。
遣唐使は894年、菅原道真の建議で廃止されました。ですから、9世紀末まで遣唐使を派遣する制度は残っていたはずなんですが、8世紀と比べるとその回数がめちゃくちゃ減っていることが分かるでしょう。
理由は、日本がもはや唐から学ぶべき必要・意欲がなくなってきたこと、唐が政治的混乱に陥って衰退したことによる国威の低下、商船の往来が活発になったことで日本が唐に朝貢をしなくても舶来品を入手できるようになったこと、などです。
これがさっき桐原書店のところで述べた話にもつながっています。時代が9世紀(すでに平安時代)になっても、仏教では唐に確固たる先進性がありました。だから日本の僧侶たちは唐に留学することを熱望したのです。しかし朝廷は遣唐使の派遣に積極的ではなく、彼らは新羅商人の助力を得なければ、渡航が困難という状況だったのです。
[引用者注:702年の遣唐使派遣の再開について] その目的のなかには、「日本」という国号を認めさせることも含まれていたと考えられる。
東京書籍の教科書にだけある、この一文。「日本」がはじめて国際社会に登場したのがこの時点だったと言っているんです。
これ、すごいことを言っていますよ? 「日本」が太古の昔から存在したという皇国史観に対する強烈な一撃です。
ちなみに、このとき「天皇」は国際デビューしていません。倭国はなんとかして「日本」への国号変更を唐に認めさせることはできても、皇帝にあたる「天皇」という称号を用いて唐と対等外交をする力がなかったのです。唐では天皇のことを「日本国王主明楽美御徳」(日本国王スメラミコト)と呼んでいたようです。もしかしたら当時の日本の朝廷内では、「スメラミコトは唐の皇帝に臣従したが、天皇は臣従していないから日本国王ではなく、したがって日本は唐の朝貢国ではない」という回りくどい官僚的答弁があったかもしれませんが、その点は不明です。このような高度に政治的な問題は、国史編纂のときに巧妙な隠蔽がおこなわれるからです。(上掲の講談社「日本の歴史」シリーズや青木和夫著の中央公論社『日本の歴史3巻 奈良の都』を参照せよ)
さて、これは東京書籍にかぎらず、多くの教科書でそうなのですが、古代史において「天皇」「日本」という表記を用いるときには慎重になっている様子がうかがえます。例えば白村江の戦いでは、唐・新羅と戦った国が「日本」ではなく、「倭」「倭国」「朝廷」等の表記になっています。
なぜ教科書がこんな表記になっているかというと、「天皇」「日本」という称号・国号は、ある時期の特定の政治状況のもと、人為的に作られたものだからです。具体的には天武朝(673年~686年)のころ、大王とその国を神格化する目的で、初めてこれらの称号・国号の使用が開始されました。ですから、もし神と同一であるところのその「天皇」、その神のおさめる国である「日本」が、天武朝より遥か昔から存在していたかのように記述するならば、それは皇国史観に他なりません。
無論、教科書では便宜的に仁徳天皇、推古天皇というような表記が使われていますけど、古代史における「天皇」「日本」という表記の取り扱いについては一応注記が設けられていたりします。例えば『詳説日本史』は壬申の乱ののち、天武天皇が「強力な権力を手にし」て、「中央集権的国家体制の形成を進」めていく過程で、そのころに「大王にかわって「天皇」という称号が用いられる」ようになったと書いています。同社の参考書『詳説日本史研究』はそこがもっとクリティカルです。「大王から天皇へ」というコラムで、「天皇」という称号が天武朝に始まることの歴史学的な検証を載せ、唐の皇帝が一時「天皇」と称していたのを知った日本側が模倣したという説を紹介しています。
またまた瑞浪市陶磁資料館に行ってきたので少しだけ書きますわ。
加藤孝造氏の常設展示室に場所をとられていてスペースが控えめですわ。
染め付け磁器を実例に説明したもので、絵付け道具も一緒に陳列されています。
MADE IN JAPANの刻印が逆さまになっている製品がおもしろかったですわ。
これはミステリーで死亡時期ずらしのアリバイトリックを崩すネタに使えそうと思いましたの。
絵付けの方法は手描きからから始まって、いろいろあるのですけど、
先進的に思える銅板転写よりも、どこか子供の工作らしいゴム判の方が
結局、明治にはじまった銅版転写の技術はいまだに生き残っており、
大正からのゴム判の技術は1970年頃に衰退してしまっているそうですわ。
説明文は配付資料にまかせて、展示そのものからは文字を排する展示方法も
興味深かったですわ。
説明文があると、つい物よりも文字に時間を取られてしまいますものね。
前回ですわ
これの筆者です。
id:netcraft3さんに「このままシリーズ化してほしい」と言われたんですが、そのつもりはないです。歴史学に対してろくな知識もないから恥をかきそうだし、人気の増田(国会ウォッチャー)みたいに注目をあびるのは恐ろしいです。
なので今回で最後になるかもしれませんが、ひとまず「遣唐使」について見ていきましょう。
山川出版社『詳説日本史』の「遣唐使」という項は、次のように書かれています。全文引用します。
618年、隋にかわって中国を統一した唐は、東アジアに大帝国をきずき、広大な領地を支配して周辺諸国に大きな影響をあたえた。西アジアとの交流もさかんになり、都の長安(現、西安)は世界的な都市として国際文化が花ひらいた。
東アジア諸国も唐と通交するようになり、日本からの遣唐使は8世紀にはほぼ20年に1度の割合で派遣された。大使をはじめとする遣唐使には留学生・留学僧なども加わり、多い時には約500人の人びとが、4隻の船にのって渡海した。しかし、造船や航海の技術はまだ未熟であったため、海上での遭難も多かった。遣唐使たちは、唐から先進的な政治制度や国際的な文化をもたらし、日本に大きな影響をあたえた。とくに帰国した吉備真備や玄昉は、のち聖武天皇に重用されて政界でも進出した。
朝鮮半島を統一した新羅とも多くの使節が往来したが、日本は国力を充実させた新羅を従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた。8世紀末になると遣新羅使の派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった。一方、靺鞨族や旧高句麗人を中心に中国東北部に建国された渤海とは緊密な使節の往来がおこなわれた。渤海は、唐・新羅との対抗関係から727(神亀4)年に日本に使節を派遣して国交を求め、日本も新羅との対抗関係から渤海と友好的に通交した。
これはひどい。遣唐使の派遣再開が何年だったかという記述がありません。
そもそもこの派遣が再開であるという基礎知識すら、この教科書では把握できません。ページを戻って第2章「1,飛鳥の朝廷」の「東アジアの動向とヤマト政権の発展」という項では、「倭は630年の犬上御田鍬をはじめとして引き続き遣唐使を派遣し」たとあるのですけど、その後にしばらく派遣を中断した時期があることは記載なし。
一時期は中断していたからこそ、702年の派遣再開に歴史的意義があります。第1回の遣唐使派遣が630年ですから、何と、まだ大化の改新をやっていない時代ですよ? それくらい古い時代から派遣していたにもかかわらず、多くの教科書が8世紀初頭の出来事として遣唐使のことを説明するのはなぜでしょうか。それは再開というターニングポイントを重視しているからです。本書もそれに従って、「3,平城京の時代」という単元に「遣唐使」の項を配置しています。それならば、中断・再開の経緯について説明を載せるべきです。
ちなみに、他の教科書では、遣唐使の派遣再開についての説明が次のようになっています。
「7世紀前半にはじまった遣唐使は、天武・持統天皇の時代にはしばらく中断されていたが、702年久しぶりに難波津を出発した。」
「白村江の戦いののち、30年あまりとだえていた唐との国交が、701(大宝元)年の遣唐使任命によって再開され、以後、遣唐使がたびたび派遣された。それまで、半島からの渡来人や新羅などに学びながら、ある程度の国家体制を整えてきたが、この年の大宝律令とともに、唐との直接交通を始めたのである。」
「律令制度を整えた朝廷も、702(大宝2)年に遣唐使を復活させ、唐の文物や制度の摂取につとめた。[中略]
こうしたなか、朝廷は新都の造営や貨幣の鋳造、国史の編纂などを次々に実行して、中央集権体制にふさわしい国家づくりに励んだ。」
[引用者注:教科書のページを戻って「白村江の戦いと国内体制の整備」の項では、白村江の戦いののち、遣唐使が「669年を最後に中断した」という記述あり。]
遣唐使が中断していた理由もわかるし、大宝律令の制定と遣唐使の再開という2つの出来事を結びつけて理解することができます。
三省堂の記述もおもしろいです。私は前回、この教科書について、「時代の流れがよくわかる」「時系列にしたがった記述が多い」というようなことを書きましたけど、ここでもその特徴が出ています。
大宝律令の制定、平城京への遷都、貨幣の鋳造、国史編纂というのは国内政治です。一方、遣唐使、新羅・渤海との関係は、外交政策です。普通の教科書はこれを別項に分けますが、三省堂はこれを同じ項にまとめて一つの時代の様相として語っているのがすごい。
東京書籍、実教出版も、中断・再開に触れています。その点は『詳説日本史』より絶対にマシです。
山川出版社『高校日本史 改訂版』(日B 017)は、教科書のページ数が少なくて、内容もぺらぺらに薄いです。『詳説日本史』と同様、これでは大雑把に奈良時代の初め頃だったということしか分かりません。(しかも正確には702年に派遣再開されたので、これを奈良時代の出来事と把握すると誤りになります)
東大入試(2003年)は、遣唐使の本質にせまる問題を出しています。
次の(1)~(4)の8世紀の日本の外交についての文章を読んで、下記の設問に答えなさい。
(1) 律令法を導入した日本では、中国と同じように、外国を「外蕃」「蕃国」と呼んだ。ただし唐を他と区別して、「隣国」と称することもあった。
(2) 遣唐使大伴古麻呂は、唐の玄宗皇帝の元日朝賀(臣下から祝賀をうける儀式)に参列した時、日本と新羅とが席次を争ったことを報告している。8世紀には、日本は唐に20年に1度朝貢する約束を結んでいたと考えられる。
(3) 743年、新羅使は、それまでの「調」という貢進物の名称を「土毛」(土地の物産)に改めたので、日本の朝廷は受けとりを拒否した。このように両国関係は緊張することもあった。
(4) 8世紀を通じて新羅使は20回ほど来日している。長屋王は、新羅使の帰国にあたって私邸で饗宴をもよおし、使節と漢詩をよみかわしたことが知られる。また、752年の新羅使は700人あまりの大人数で、アジア各地のさまざまな品物をもたらし、貴族たちが競って購入したことが知られる。
設問:この時代の日本にとって、唐との関係と新羅との関係のもつ意味にはどのような違いがあるか。たて前と実際の差に注目しながら、6行以内で説明しなさい。
山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B018)です。これ以外は、どの教科書も上記引用した『詳説日本史』と似たり寄ったりの内容ですから、いくら熟読をしても答案を書くことが難しいと思います。(三省堂をのぞく。後述)
8世紀に入ると、日本は20年に1度の回数で大規模な遣唐使を派遣した。日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢であり、使者は正月の朝賀に参列し、皇帝を祝賀した。[中略]
一方、日本の律令国家内では天皇が皇帝であり、日本が中華となる唐と同様の帝国構造を持った。日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけており、従属国として扱おうとした。
白村江の戦いののち、朝鮮半島を統一した新羅は、唐を牽制するために日本とのあいだにひんぱんに使節を往来させ、8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった。やがて対等外交を主張したが、朝廷はこれを認めず、藤原仲麻呂は新羅への征討戦争を準備した。一方で、新羅は民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きくなった。現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には、新羅商人が仲介したものが多いと考えられる。[後略]
以上に準拠しながら、私なりに要点をまとめておくと、次のとおりです。
(1)は、日本が唐から律令を学び、その中華思想の影響を受けたことを言っています。つまり、日本はみずからが「中華となる」という「帝国構造」を作ろうとしたのです。「日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけ」て、彼らを野蛮だと侮蔑し、従属国として扱おうとしました。ですが、唐だけは別格です。あのような大国を敵にまわすと、恐ろしいことになりかねません。そういう遠慮があって、唐のことだけは尊重して隣国と呼びました。
(2)は、「日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢」をしていたということです。唐の臣下となって朝貢する国々の中にも、その立場にはランクがありました。日本と新羅はともに唐の臣下だったのですけど、日本は新羅より格上の臣下になろうとしたのです。
(3)は、日本と新羅の関係悪化について述べています。新羅が「8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった」ので、その間は関係がうまくいっていました。しかし、新羅が「やがて対等外交を主張」するようになったから、両国関係はこじれてしまったのです。それが最終的には藤原仲麻呂が「新羅への征討戦争を準備」するくらいにエスカレートします。
(4)は、日本と新羅が政治的には対立しつつも、経済的には交流が盛んだったという内容です。「新羅は民間交易に力を入れ」ました。「新羅商人が仲介し」、日本へ「唐や南方の宝物」をもたらしたのです。それは貴族たちが競って購入したがる垂涎の的でした。現在「正倉院に所蔵され」ている宝物も、そういうルートで輸入したものが多いのです。
教科書の読み比べをすることの目的は、なにも入試に対応するためだけではありません。
例えば『詳説日本史』には、最初に引用したとおり、「日本は国力を充実させた新羅を従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた」とか、「8世紀末になると遣新羅使の派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった」という記述があります。この短い記述が伝えようとしていることの本当の意味は、『新日本史B 改訂版』(日B018)のような他の教科書と併読することにより、はじめて正確に把握できるのです。
ところで、この教科書の著者は、東大の先生が3人、京大の先生が1人です。本書だけに載っているネタを使って入試問題がつくられたのは、そのへんの事情もあるのかなと勘ぐってしまいます。
もしくは、これは2003年の入試問題ということだから、ちょうど講談社の『日本の歴史』シリーズ(2000年~2003年)が発行されていた時期ですし、そちらの内容を意識しているのかもしれないですね。一応、そっちのシリーズからも引用しておきましょう。
国内及び新羅などの諸国に対する時と、唐に対する時とで天皇の顔を使い分けるという、まことにすっきりしない状況でもあった。このような努力・苦心を払って日本が手に入れようとしたのは、東アジアの有力国としては新羅より格が上、という地位の確認であり、また初期の遣唐使が唐の高宗に蝦夷を見せたことに示されているように(『日本書紀』斉明五年七月三日条)、日本は隼人や蝦夷などの異民族をも支配下にいれた大国かつ君子国であるという評価であった。いわば唐を盟主とする諸国の中での相対的に高い地位を求めるとともに、自らの小帝国であることを唐に認めさせようとしたのである。(石母田正『天皇と諸蕃』)
さきにもふれたように、「日本国」は唐帝国との公的な外交関係では「天皇」の称号を用いることができず、実際には二十年に一度の使い――遣唐使――を送る唐の朝貢国に位置づけられていたと考えられるが(東野治之「遣唐使船」朝日新聞社、一九九九年)、国号を「倭」から「日本」に変え、「天」をつけた王の称号を定めたのは、唐帝国に対し、小なりとも自ら帝国として立とうとする意志であったことも間違いない。
実際、「日本国」は「蛮夷」を服属させる「中華」として自らを位置づけ、「文明」的と自任するその国制を、周囲の「未開」な「夷狄」におし及ぼし、国家の領域を拡げようとする強烈な意欲を、その発足当初は持っていたのである。
[中略]
このように、朝鮮半島に対しても圧力を加えて、朝貢を強要する姿勢を示す一方、「日本海」をこえてたびたび使者を送って交易を求めてきた渤海については朝貢国として扱うなど、「日本国」は自らを「中華」とし、帝国として四方に臨もうとしていた。しかし東北侵略を止めた9世紀に入ると、こうした「帝国主義」的な姿勢、列島外の世界に対する積極的な動きはしだいに退き、十世紀になれば、ほとんどそれは表に現れなくなっていく。
日本が置かれている立場としては、唐への朝貢という屈辱外交をやめるためには、遣唐使の派遣を中止するしかないわけです。しかし、日本は唐と断交して敵対的にのぞむ国力も、その覚悟もありませんでした。
いっぽう、遣唐使は唐の皇帝から賜った国書(日本国王へ勅す)を持ち帰るわけにはいきません。日本が唐に朝貢していると認めることは、天皇の威信を傷つけることになるからです。
こうなると、実際には日本が唐に朝貢していることが明らかなのに、国内での建前としてはそれを否定してみせる必要が出てきます。要するに、「遣唐使の派遣は朝貢ではない。天皇が唐に臣従しているという批判は当たらない」という建前をでっちあげ、国内的にはそれをゴリ押しすることで、この矛盾を乗り越えようとしたのです。
私がこのエントリの題名に「白紙に戻せぬ遣唐使」と付けた由来は、多分みなさんもご存知の、894年に遣唐使が廃止されたことを指す語呂合わせ「白紙に戻そう遣唐使」です。しかし、日本がほんとうに、この"遣唐使"的なるものを白紙に戻せたかというと、それは甚だ疑問です。為政者が国内と国外で異なる顔を見せたり、外交姿勢の実態と建前を使い分けているというのは、室町時代に明に朝貢して「日本国王」となった足利義満に、ほとんどそのまま適用できる視点だと思います。
それに、このことは現代の外交問題についても、重要な示唆を与えてくれます。例えば政府が国内に向けて愛国心やナショナリズムを煽っておきながら、それと同時に国外に向けて国際協調のアピールをするというチグハグな状況は、まさにこの延長にあるんじゃないでしょうか。
あるいは唐側の視点で見ると、日唐関係はこんな見方もできるかもしれません。唐は日本がおとなしく朝貢するかぎり、細かいことに目くじらを立てなかった。唐としては蕃国をヘタに刺激して事を荒立てるより、多少その尊大なふるまいを黙認しておく方がメリットがあった。すなわち唐は日本と妥協しあって、朝貢関係があるとも無いとも、どちらとも言える状況を作りあげた。――こういう分析がどれだけ妥当か分かりませんけど、2国間に争いがあるとき玉虫色の決着をつけ、両国政府がそれぞれ自国民の耳に心地よい解釈で説明をしているというのは、これまた現代によく見かける話でしょう。
遣唐使についての解説が長くなりすぎましたが、じゃあここから、各社の教科書の読み比べをしていきます。
おもしろい特色がありません。
無理に良い所探しをするなら、「よつのふね」という文学的な呼び方を紹介し、その規模がいかに大きかったかを強調していることです。
華々しく飾り立てた大使節団というのは、それを送りだす側も、それを受け入れる側も、両国にとって国威発揚のイベントになったと推測できます。もっとも、沈没や行方不明になることも多々あったので、華々しさとはかけ離れたのが実態だったかもしれませんし、どうなのでしょう?
つづきを書きました→ http://anond.hatelabo.jp/20170611234459
日本国憲法には犯罪者である刑事被告人の権利については大量に書かれているが犯罪被害者については一切かかれていない。
犯罪者に人権を蹂躙された被害者はどうやって権利を回復すればよいのだ!
現在の憲法は国家権力と個人の対立でのみで考えられている19世紀の時代遅れの憲法なのだ。フランス人権宣言の啓蒙主義のまま進化していない!
先進諸国の憲法が細かく改正されているのは個人と個人の問題にも憲法で規定しているからなのだ1
日本も21世紀にふさわしい日本国憲法に変えるべき時に来ているのだ!
安倍首相や現政府の動向、またそれに対する社会の反応を見ても、日本の右傾化は否定のしようも無いものと言える。20−30年前なら安倍首相や稲田大臣の数々の放言は毎回政権をひっくり返してもおかしくなかったようなものだが、今は保守化した社会とそれにともなう高い支持率のおかげでまったく安泰である。
こういった日本社会の右傾化の原因を探る記事は多々あるが、多くは日本の社会構造の変化、国民の気質の変化にその原因を探っている。控えめに言っても、的はずれとしか言いようがない。なぜなら右傾化・保守化・国家主義化・排他化は全世界の先進国で並列に同時に起こっているからだ。イギリスのブレクジット、アメリカのトランプ、今回当選はかなわなかったがフランスのルペンの台頭。その他の国でも国民は保守化しており、あきらかに世界的な流れである。その世界的な状況を無視して国内だけの事情を説明できたとしても、単に場当たり的な後付理論以外にはなりえない。
それではこれらの国を同時に襲った共通の事情とはなにかといえば、2008年以降の経済の停滞である。リーマンショックによる一時的とはいえ壊滅的な被害を受けた後、どの先進国も2000年前後のような高成長率に戻ることは叶っていない。一人一人が保守化する原因は多種多様だが、国民全体が一度に保守化するのは大概において経済的な行き詰まりが原因である。第二次大戦前にドイツやイタリアがファシストの台頭を許したのも、本邦が軍国主義化したのも、経済的な苦境という背景が大きな役割を追っている。70年台に不況に入ったアメリカは保守化しジャパン・バッシングを始めとする排他主義に陥ったのは日本人ならば記憶に遠くないところであろう。今回の低成長もそこまでとはいかずとも世界的な保守化を引き起こしているのだ。
したがって、先進国がなぜ軒並み保守化しているのか?という問いは、なぜ先進国が低成長に陥っているのかという問に還元されるべきである。
そしてこの問への解はシンプルだ。世界の成長余力が新興国に移っているのだ。この十年も世界経済の成長率は極端に落ちたわけではないが、先進国の寄与度は明らかに減っている。たとえば、こちらのページに世界成長率への各国の寄与度のグラフが載せられている。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4505.html
これを見れば先進国の寄与度が落ち続けており、特にこの10年ほどは先進国全体で中国一国にさえ遅れをとっていることがわかる。
ここまで読んで、「なんだなんだ。なんでも中国のせいだというのか。まるで風が吹けば桶屋が儲かるという類の与太話ではないか。」と呆れられた方もいるかと思うが、中国は単に今もっとも目立っている国ということで出てきただけであり、経済力の先進西側諸国から新興国への移動は全世界的な潮流で、たとえ中国をなんらかの理由で止めたとしても全体の方向性が変わるわけではない。例えばインドの名目GDPは今のところ約10年前の中国の水準でありしかも成長率は7%前後を維持している。中国の成長が止まれば、インドや他の新興国が経済成長の中心となり、旧先進国は常に蚊帳の外である。
では今後我々はどうすれば良いのか。どうすれば経済を安定成長に戻し、極端な排他主義のさらなる台頭を防ぐことができるのか、というのが次の問になる。
方法はない。
我々は甘んじて低成長を受け入れねばならず、民族主義の広がりを黙って見つめ、あるいは自分もその中に身を投じていくことになる。
この経済力のシフトは単に経済のグローバル化に伴い隠れていた成長余力が表に出てきているだけであり、経済のグローバル化は有史以来、いやそれ以前から続いてきた不可逆な流れであり、それを止めるにはローマ帝国の崩壊、中国王朝の崩壊、といった歴史的転換点に近いカタストロフィレベルのイベントが必要になる。しかもそれさえも流れを一時的に止めるだけであり、しばらく後にはグローバル化はまた進みだす。一国、又は狭い地域でグローバル化を無理やり止めれば自由経済主義の国々に遅れをとり、状況はさらに悪化する。その中で自分の身を守るためにさらなる排斥主義が広がり、先進国からは寛容性はなくなっていく。
しかしそれは終わりではない。それは、これまでの先進国が後進国化し、これまでの発展途上国のなかから次の先進国が生まれる、というだけの話である。その時現ヨーロッパ、アメリカや日本は、偏狭で旧来の古臭い価値観をもつプライドばかり高いが文化的に劣った国々と見られるようになっていることだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20170504175315
これを読んで、自分も動かなきゃなって感じた。
大学の時、構内で見かけた男の子に一目惚れして友達伝いに知り合って4年経った今も片思いし続けてる。
電車の増田と違って相手に彼女はいないんだけど、だからこそ「まだ告白しなくても、今のままの関係でいいかな」なんて考えちゃう。
向こうからしたら私はただの友達(もしかしたら友達の友達くらいかもしれない)だし、複数人で遊んだことしかないし、LINEも私からしか送らないしそれも話す内容が無いから続かないし。
この先進展も後退も無いだろうからそろそろけじめをつける意味でも告白して玉砕したほうがいいんだろうけど、行動力が無い。
行動力があれば2人で遊ぶ誘いだってできたしもっと連絡もとれたし、もっと早く告白してたんだよな。
どうすれば動けるんだろう。