はてなキーワード: センス・オブ・ワンダーとは
スタートレック(現在の正式名はスター・トレック)は50年の歴史があるうえに、1話完結のエピソードが多い。シリーズの入門ガイドの意味もこめてやってみた。
はてな界隈でスタートレック全話追っかけてる人は少ないだろうし、シリアスなファンははてななんて見てないだろうから、自分の価値基準で好き勝手書かせてもらう。
すごく偏ってると思う人もいるだろう。私もそう思う。海外のこの手のランキングでは常連のエピソードも入ってない。思うところがあれば、ぜひ書いてほしい。
なお、全938話は2024年9月末時点での話で、10月から『ローワー・デッキ』の新シーズンが始まったので話数はまた増えている。
スタートレックがSFドラマとして最も輝きを放つのは、銀河に存在する人間以外の存在を通じて、人間とは何かを描くときだ。それはあらゆるSF作品の共通の魅力でもあるが。
本作は人間に造られたアンドロイド、データが、自らの子孫を造ろうとする物語。AIの子供との「ファーストコンタクト」を通じて、子供を持つということが、個人にとって、種にとってどういうことなのかが描かれる。
本作には、派手なアクションシーンもSFXもない。しかし、その物語は喜びとユーモア、発見に満ち溢れ、重い悲劇として幕を閉じる。それは家族を描くキャラクター劇であり、SFであり、力強い人間ドラマだ。
スタートレック立ち上げ最初の年に、スタートレックらしさというものを決定づけた重要な一篇。怪生物の住む惑星に不時着したクルーが脱出するために取る行動を描く。
スタートレックの原型は西部劇(幌馬車劇)と言われるが、これはまさにインディアンに囲まれた幌馬車の設定を宇宙にしたもの。
しかしポイントは、主役がミスタースポックであるという点。感情がなく論理で動くヴァルカン人(と地球人のダブル)である彼は、助かるために論理に従うか、あるいは……。
本作は異星人の視点で人間の感情と理性の葛藤を描き、このモチーフは以降繰り返されることとなる。また作品にシャトルのセットを導入し、物語の舞台を増やした一作でもある。
宇宙大作戦の打ち切り後、少々品質を落としたアニメで継続となった本シリーズだが、名作はいくつかあった。しかし本エピソードはちょっと違う視点で選出している。
これ、実はラリィ・ニーヴンというSF小説家が書いた『ノウン・スペース』というSF小説群のにある短編の一つを、そのまんま映像化しているのだ。出てくる異星人も借りてきたもの。
ニーヴンを知る人も少なくなっただろうが、アシモフやハインラインの後の世代で、ハードな科学設定とエンタメとしての面白さを融合した作品を書き、SF界の潮流を作った人と言える。
本作は、スタートレックの世界観が他作品をまるごと呑み込んでも成立しうる、緩く、包容力のあるものだと示した。ローワーデッキのハチャメチャコメディスタイルが可能になったのも、ある意味この作品のおかげ。
宇宙大作戦にはTV史上初めて白人と黒人とのキスシーンを描いた『キロナイドの魔力』という記念碑的作品があるが、人種問題を深く描いた作品というと、こちらを推したい。
黒人の天才科学者が自らの知能と感情を転写し開発した自動航行AI。それに船を委ね、演習に参加したエンタープライズだが、AIは次第に狂いだす。
本作のAIは自らの判断に絶対の自信を持ち、誤りを認めようとしない。博士もAIを擁護し、次第に我を失っていく……と言うプロット。
AIの恐怖を描いた先進性はともかく、本作が人種問題の作品であることは、日本に生きる我々には少々理解が難しい。
この物語が暗喩するのは、飛び抜けた能力で社会から評価を受け、地位を得たマイノリティの苦しみだ。常に完璧を求められ、ひとつの失敗で社会から振り落とされてしまう、隠れた差別を描いている。
この複雑な問題を1968年のTVドラマに持ち込んだことこそ、評価されるべきだと思う。
「タイムループもの」といえば誰もが1作ぐらい頭に浮かぶだろう。映画『恋はデ・ジャ・ヴ』など様々な傑作がある。
しかし、それらの作品の多くは、「なぜ」タイムループが起きるのかを説明しない。なぜか寝て起きるとループしてたり、なぜか恋が成就するとループを抜けたり……。
スタトレ世界でタイムループを描いた本作が優れているのは、その「なぜ」が明確に定義されており、それを解決することが物語の目的になっている点だ。
突如として起こる反物質爆発で時空ループが生成されると、キャラ達は過去に戻される(都合よく前のループの記憶を保持したりしない)。
そこから毎回、艦のクルーたちは僅かな違和感から少しずつ状況を理解し、「なぜ」かを探り、回避するための答えに近づいていく。
ご都合主義的な「ふしぎな現象」はなく、戦うべき悪役もいない。ハードSF的な状況で、知力に頼ってロジカルに物語を進めていく。しかしこれが最高に面白いのだ!
舞台は艦のセットのみ、登場人物もレギュラーのみというミニマルな作品だが、スタートレックのSF性、センス・オブ・ワンダーを代表する1作だと思う。
スタートレックのフランチャイズ化は、TNGによるリバイバルを経て実質このDS9から始まった。いままでと違ったスタトレを作ろうという意欲に富んでおり、非常に作家性の強いシリーズだ。
未知の世界を訪れる宇宙船でなく、未知の存在が訪れる宇宙ステーションを舞台とし、全7シーズンの後半では巨大な宇宙戦争を連作として描いた。最近の『ディスカバリー』などのシリーズも、本シリーズがなければ成立しなかった。
その総決算と言うべきこのシリーズ最終話は、単体で観るとなると評価が難しいが、173話の積み重ねの末の1話としてみると、ずっしりとしたものが心に残る。
DS9はシリーズで初めて黒人俳優を主役とし、戦争犯罪や植民地主義のもたらす被害をストレートに描き、舞台となる異星の宗教と重ね合わせることで人間の信仰心をも題材にした。
更には、「これは一人の狂った黒人の観た夢なのではないか……」というメタレベルの視点すら取り入れ、多様な視点と重層的な葛藤、その先にある善とは何かを描こうとした。
シリーズに長く付き合うことでもたらさせる重い感動を体験してほしい。
ヴォイジャーはハードSF的な物語よりも、キャラクターの成長やモラルに焦点を当てた傑作が多いが、敢えてSF的なセンス・オブ・ワンダーに満ちた本作を推す。
ネタバレしてしまうが、これは「恐竜人類」の物語であり、「ガリレオ・ガリレイ」の物語だ。
遥か昔に宇宙に出て進化したある種の恐竜と、銀河の反対で出会ってしまった宇宙船ヴォイジャー。それを、なんと恐竜人類側の視点で描く。
故郷の星に、自分たちとは異なる知的種族がいたという事実を知った科学者の知的興奮と、その発見を社会から拒絶され、迫害される恐怖。
SFの根幹である科学そのものを主題にし、人間と科学の関係性に向き合った、ひとつの到達点。深い感動をもたらしてくれる傑作だと思う。
『スタートレック:エンタープライズ』以降停止したTVシリーズを、配信に適した連続劇フォーマットで復活させ、『ピカード』などのシリーズの端緒になった『ディスカバリー』の最終話。
連続劇で見せるスタトレにはまだ課題が多く、特にディスカバリーのシーズン4,5、ピカードのシーズン2などは間延びして物語の行先がわかりづらいという批判があった。
しかし、それらの連続劇も、最終話に来ると、そこまで迷走していたテーマが急にシャンと鮮明になり、ああ、なるほどこういうことだったのか、という感動をもたらす。
特に本エピソードはディスカバリーのグランドフィナーレとなるだけあって、描かれるものも壮大だ。銀河の知的生命の発祥の謎を求めて行われるトレック(旅)である。
しかしその結末、謎は解明されることはない。その代わりに提示されるのは、「真実を求めるトレック」とは何なのか、という命題だ。
スター・ウォーズやマーヴェル作品、ガンダムのような複数作品がひとつの歴史を形作るシリーズの楽しみは、クロスオーバー、そして「設定の穴が埋まる瞬間」だろう。
子供向けのCGIアニメシリーズとして作られた最新作であるプロディジーは、この設定の穴埋めを、他のどんな作品よりも見事にやって見せた。
新スタートレック、ヴォイジャー、ディスカバリー、ピカードなどの実写作品の設定を少しずつ掬い上げ、時に大胆にプロットに取り込んで、独立して楽しめる作品になっている。
その頂点がこのエピソードだ。シリーズを通じてのマクガフィンであったヴォイジャーのキャラクター、チャコテイの姿が見えた時は、その絵だけで感涙してしまった。
実にオタク的な楽しみだが、フランチャイズ作品に長く付き合ってきたものだけが味わえる、究極の悦楽がここにある。
プロディジーの日本語版は、2024年10月時点では製作されていない。英語版だけならNetflixで子アカウントを作り、基本言語を「English」」に設定することで観られる。
はっきり言ってシナリオの全体的な完成度は高いとは言えない。その質についても、表現手法についても注文の付く作品である。しかしどうしても外すことができない一篇がこれ。
1960年代、宇宙大作戦で人種や性別による差別のない理想世界を描いたスタートレックは、1990年代になりその理想のほころびを正直に描くように変化した。
本作で暗喩されるのは、性的マイノリティの直面する差別であり、同時に女性の権利でもある。
物語では、両性具有の種族の星に生まれた「女性」が、女性であると言うだけで罪とされ、矯正を施されようとする。
それは90年代に入るまで見過ごされてきた同性愛者への差別と、「治療」という名の暴力の告発である。
矯正の場へと連れていかれる彼女が最後に、法廷の場で叫ぶ。「私は女だ!」と。
自らの性を自らの物として誇れない、自由に語ることもできない、あらゆる属性の、抑圧された人々の叫びが、そこに込められている。
新スタートレックの日本語吹き替えは名優揃いで品質が高いが、これだけは英語版で観てほしい。その叫びは、魂の演技だ。
今回入れていないランキング定番としては、タイムトラベルの古典的傑作『危険な過去への旅』(TOS)や、エミー賞にノミネートされた世界でもっとも儚いロケットの打ち上げシーンが見られる傑作『超時空惑星カターン』(TNG)がある。
SFらしさが感じられるエピソード中心なので、人気の高いボーグのような強大な敵との対決とか、クルー同士のファミリー劇的な人情エピソードはあまり入らなくなってしまった。
また、『エンタープライズ』(ENT)、『ローワーデッキ』(LD)、『ストレンジ・ニュー・ワールド』(SNW)の作品も入らなかったが、もちろん傑作、快作はいくつもある。
ENTはバルカン人の設定を完成させた『バルカンの夜明け』3部作、LDはアニメならではの手法で連邦、バルカン、クリンゴンの若者たちの生活を描き交錯させた『wej Duj』、SNWは過去作の設定を活かしつつ現実の21世紀の社会情勢を24世紀の世界へと繋いで見せた第1話『ストレンジ・ニュー・ワールド』や、アースラ・ル・グインの小説『オメラスから歩み去る人々』のオマージュである『苦しみの届かなぬ高さまで』を推す。
ベタと言われるだろうけど、俺のオススメ百合SFはやっぱり、うえお久光『紫色のクオリア』(電撃文庫、2009年)。
これは本当にすごい。人間がロボットにしか見えない少女という題材からクオリアの問題を扱うほのぼの百合なのでぜひ読んでみてください(にっこり)。古今東西のSFへのオマージュが詰まりまくっていて(クライマックス直前のシーンはまんまグレッグ・イーガンの『万物理論』やんけ! ってなった)、その上にこう友情以上恋人未満の絶妙な百合が描かれていて最高なんですよ(語彙力)。「1/1,000,000,000のキス」、いいよね……あとできれば原作に忠実なコミック版(全3巻)も買ってゆかりからの手紙も読んでほしい~~~~~~~~。
次点が、小川一水『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』(ハヤカワ文庫JA、2020年~)。宇宙で泥をこねあげて漁をするというセンス・オブ・ワンダーあふれる設定から叩きつけられる体格差百合。2巻ではヤンデレな昔の女も登場してきて、ゴリゴリ異性愛主義の権化みたいな作家だった小川一水がついに百合に目覚めたんだなぁという謎の感慨が湧いてくる。
あと、小説じゃなくてアニメだけど、『プリンセス・プリンシパル』(2017年~)は百合スチームパンクの傑作だから見て。壁で分断された煙の街ロンドンで繰り広げられるスパイ&アクションが最高なのよ。メインはスパイなんだけど、ちゃんとスチームパンクもしているのでぜひ。
百合スチームパンクだと、エリザベス・ベア『スチーム・ガール』(創元SF文庫、2017年)も面白かった。都市伝説を扱ったやつだと、宮澤伊織『裏世界ピクニック』(ハヤカワ文庫JA、2017年~)も割と面白い。
非モテ独身友人付き合いなしの限界アラフィフおじさんだが、独り身なので金だけは余ってる
とある夜ひとりでお酒を嗜んでいる際にふと、そんなことを思った
「あれ?俺って生きてる意味なくね?」
子供は勿論のこと、振り返ると自分の人生は何も残していない糞して寝るだけの物だった。
他人に誇れるような事はSF趣味ぐらいで、学生の頃からSFを熟読してきた。
10代で既に生粋のSFオタクだった俺はセンス・オブ・ワンダーの世界に妄想を膨らませてきたものだ。
自分に出来るのは、この素晴らしい世界をより広めることかもしれない。
本来であれば酔っ払いの妄言に過ぎないが、幸いにも一緒に飲みに行く友人はおらず、翌日でも妄想を覚えていた。
実行に移すしかないとSFの神はそう俺に告げている。そう捉える事にした。
俺は自分が好きだったSF小説、影響を受けたSF小説、名作であると思っているSF小説をAmazonで次々に購入し、週末に近場で行われるフリーマーケットに申し込んだ。
フリーマーケットを見に行ったことは当然あるものの出店側となるのは記憶に乏しい。
緊張し、前日の夜などはドキドキしてなかなか眠れないほどだった。
当日は幸いにも晴天で、俺は用意した思い出のSF小説たちを売りに出した。
どの小説も一冊200円で、中には価値を知る人が見れば驚愕するような作品も混じっている。
俺は、良いSFをただ多くの人に読んでほしい、知ってほしいと思い、出店しているのだから。
思いの外よく売れた。
自分にとって思い入れの深い作品が売れると非常に嬉しく、小学生ほどの男の子が「幼年期の終わり」を興味を示し、買っていったときには感慨深い思いになった。
あのワクワクしている表情、子供の頃の自分を見ているような、そんな気がしたのかもしれない。
その日の晩酌は、いつもと少し違って感じられた。気づけば自然と笑っているような。
そんな心地の良い酩酊感があった。
HoYoFairチャンネルだから外部アーティストによる公式コラボ的な感じのもんだが一本の動画として洒脱な作りで、予算…いや気合が違うわ
5組の中で2組日本からH ZETTRIOと大橋トリオが参加してたのも偉いわね
いやーこんなこともあろうかといいイヤホン買っておいてよかった
中価格機からは低域中域高域どれも抜かりなく解像度や響きが一定水準あるようになる
最近は平面駆動が流行ってたし骨伝導ユニット入ハイブリットも流行の兆しがあるけど
やっぱ1DD+4BAが鉄板の隙のなさだわ
それはさておき、このイベントページにあるカクテルレシピに添えられたフレーバーテキスト
https://act.hoyoverse.com/puzzle/hkrpg/pz_0cLNSIl80j/index.html
まあ、「はるか昔に滅びた星トワッテイ」だからおふざけとも言えるが
しかも英文では"an ancient and long-forgotten planet named Tavyet"だから滅びたとは言ってない
それからレンがロビンの本名だとしたら…いや明らかにロビンの意匠に満ちたカクテルになってるが…初出情報だろう
あの公式SNS上でのホタルの実装発表のフレーバーテキストで初出の設定が明かされたのと同じように
ほのめかしという意味では、原神のレムリアのオルガン風建築の意匠や
夢による統合・支配をフィーチャーした内容も明らかにピノコニーを意識させる作りだったし
もしかしたらこの先の展開をレムリア世界任務によって示唆している側面もあるのかもしれない
というか崩壊3rdも、千織の実装に同じくして裁錦・裁断要素のあるセルマの深堀りイベをかぶせてきたり
セラペウムが図書館という夢の中に人々を「結合」させる様子を示してきたり
これはあれの示唆なのか?それともそっちなのか?全部が繋がっているのか?と
作品やメディアの境界を超えてセンス・オブ・ワンダーを感じさせに来てる感じがする
とにかく、レムリア世界任務の水路で演奏するシーンはめちゃくちゃよかった
美しすぎてなんか謎の部位が極まるようなへんな感動した
話を戻すとスタレの考察については
一介のナナシビトもとい名無し増田にすぎん自分は体系立てて語れるほどの能力はないが
今日みつけたネタを元にググってたら、サンデー大好きっぽい人による鋭い考察をみつけたので貼っておく
https://note.com/ashino_open/n/n97d91b350e70
https://note.com/ashino_open/n/n499ddac2e1fa
こんだけ考えて楽しめる作りになってるシナリオ作り、どう考えてもアツすぎる
これだから3Dオブジェクトのコピペゲーをなんとも思わず消費するSteamユーザーは嫌いなんだ
ゲームってのはパン作りのように粉からこねて自分で作ってこそクリエイターの思想が反映されるってもんだ
それすらこだわる気がないのに、見栄えのするゲームを手抜きで量産していくことに、意味はあるのか!
それは最終的に、人がゲームから受けるセンス・オブ・ワンダーを損ね、薄味なゲーム文化体験を推進してしまうことになる
ゲームにおけるQoLが下がればゲームという産業それ自体がパチンコのようなものに成り下がってしまうおそれがある!
事実、買い切りだからという紛い物の安心感のために、クリエイターたちの血と汗が数百円で安売りセールされる地獄がそこにあるだろ!
そういう環境を作ってるのはあんたらだ! そうなれば作り手もいかに手抜きしつつ一発当てるかしか考えなくなる! ソシャゲと同じだろ!!
同じ2Dスプライトやドットキャラ、聞いたことあるBGMを使いまわすようなRPGツクールゲーばかりになった世の中を想像してみろ!
それはDLsiteでは現実になってるが、同人だからこそ許されてるもんだろ
オメェいつまで古戦場に囚われてんだよ!
荒瀧一斗と虫相撲しようぜ!
脱走兵が多発するその古戦場、そこで得られる体験にセンス・オブ・ワンダーはあるのか?!
ゲームが苦行じゃいけないんだよ!
同じようなことをやってたらどうしたって人間は飽きる!
それは自然の摂理!
あの手この手でおもてなししてくれる、常に新鮮な遊びがある、そう感じる運営のところへと逃げるのは間違っちゃいねえ!
いいか、3年だ!
どんな運営型ゲームも3年続けると飽きがくるが、3年を越えてもなお新鮮さと魅力的なコンテンツが追加されつづける作品であれば、続けて良い!
しかし、全部が全部魅力的じゃない、そういうこともあるな?
魅力的じゃない苦行部分にかける時間の割合が、作品から得られるセンス・オブ・ワンダーに浸っていられる時間を越えたら、辞め時だ!
これが20年間、月額ネトゲ時代からあらゆる運営型ゲームをやりつづけてきた俺の、ファイナルアンサーだ!
胸に手を当てて……よく考えてみるといい!
宮崎駿の最新作『君たちはどう生きるか』を見てきたんで、ある程度ネタバレありで感想書きなぐっておこう。
正直、観る前に想像してたより悪くなかった。
作画が徹底的に心象風景に寄っているのも、職人芸の趣があった。
火災とか草原の描き方なんて、ゴッホともセザンヌともなんだか判らんけどとにかく印象派的に歪みまくっていて、主人公の高熱に魘された夢のような心が伝わってくる。
田舎の家も、当初は主人公の内心の萎縮ぶりを示すかのように何もかも巨大で、玄関なんてどこの古刹の大伽藍かと見紛う巨大さであり、今に残ってたら家ごと国宝になりそうだ。
心象風景として東大寺大仏殿並の巨大建築に見えているだけである。
敢えて心象風景とわかるように表現している事で、主人公が実際には父の後妻を嫌っていない事も想像がついた。
なぜならすんごく清潔感のある優し気な美女として描かれているからである。嫌っているなら心象風景でそうはならない。
でまあ、作品は途中から塔の中パートと、塔の外パートという二輪構成で進んでいくのだが、
まず塔の中パートだが、なんというか、とにかく意味があり過ぎる。
これは褒めてない。
宮崎駿はもののけ姫辺りから、やたらと意味のあるものを描こうとするようになってしまってるように思える。
1シーン毎に意味があり、多分本人に質問すれば「このシーンはこういう意味がある」と全部答えてくるだろう。
つまり、寓話的で哲学的で記号的で、イソップ童話とか不思議の国のアリスとか、そういう感じの、「意味の塊」として作品を作ってしまっているのが塔の中パートだ。
ムスカがラピュタの雷をぶっぱなしたシーンに意味なんてないだろ。王蟲がペジテのドーム食い破ったのも意味なんてないだろ。
「どうやお前らこんな凄えの見た事ないだろ。俺も見た事ないから作ってやったぞ。見て驚け。」
妄想を爆発させるためにそこには当然無理がある。歪みがある。そのシーンを効果的に描くために、他のシーンで入念に爆発物を積んでいる。
その無理、その歪みが、ある人には滑り、ある人には刺さるのだ。
本人が見せたいのは爆発の部分だが、関係なく歪んだ部分が受けたりする。それが創作の快感である。
ところが、この作品含めて後期宮崎はその「見た事ないだろ」をやらない。庵野もだけど。
なぜなら、名前が売れて裁量が大きくなった事で、作りたいものを作れるようになったからだ。作りたいものは作ってしまい、もはや「こんなの見た事ないだろ」が無い。
庵野はその無理のなさを、その歪みの無さを、オタク知識で埋めてシン・ウルトラマンやシン・仮面ライダーを作った。
そこにはTV版エヴァのような溜めに溜めた便秘大解放のような妄想の爆発は無く、無い物を何とか絞り出した感のある細長いウンコでしかない。
一方、宮崎駿はそれを哲学と記号で埋めてこの作品の塔の中パートを作ったのだ。これは最早宮崎駿のバランス感覚のみで構成された世界だから、やたらとデジャヴがある。
もののけ姫と変わらずに「鎮まりたまえ~鎮まりたまえ~」とやってるし、千と千尋と変わらずに仕事やらされたり禁忌に触れて怒られたりしている。
でてくるのもやたら思わせぶりな妖怪連中である。思わせぶりなだけで、記号であるために特に伏線とかない。どういう存在か説明されてフェードアウトする。
エンタメに徹するなら、塔の中はクトゥルーばりの別の星・異星文明でも良かったはずだ。せっかく宇宙から飛来した謎物体的な設定があるんだから、一気にスターウォーズの世界になっても良かったのだ。
そこから進めて、「現代日本を主人公の迷い込む異世界として描く」まで手が伸びても良かったはずだ。
ところが、そういうエンタメに走らず、やたら寓話的な見たような話で埋めてしまうのが今の宮崎駿である。
ブチ切れるセンス・オブ・ワンダーではなく、賽の河原の石積みみたいなひじょーに心象的なもので埋めてしまうのが今の宮崎駿のマイブームである。
そういう「意味」だけで構成されたパートだから、ストーリーなんてあって無きがごとしである。断片的な寓話を職人芸でつなぎ合わせた取り留めのないタペストリーである。
一方、塔の外パートは違う。庵野と同じく、オタク知識で埋めている。
人力車の描写一つ、言葉遣い一つ、看板一つ、食事のお膳一つから、「当時はこうだったんだぞ」という聞いてもないのに披露されるオタク知識臭がする。
多分、キャノピーも実在のナントカ式とかそういう裏打ちされた設定があるんだろう。田舎がどこの県のどこの地方かも絶対決まってるねありゃ。
っつーことで塔の中パートより終わってる感のある塔の外パートだが、そこで主人公の父親が妙な存在感出してるおかげでかなり良くなっている。
というのも、この父親はある意味で主人公と後妻という二人の問題の元凶と言える一人であり(まあ、亡くなった実母の方がより存在感は大きいが)、更に経営者であり金持ちで何でも自分で決めてしまうタイプ、
こういうタイプは、通常は出て来ても悪役なのだが、この作品ではそれを悪役として描かない。塔の外の部外者として描く。(大叔父と血のつながりもないし)
そんなわけで、このキャラについては宮崎駿の才能の爆発が感じられるのである。
経営者であり第一線でもある、という後期宮崎駿が手にした立場が意図せずに作り上げた鬱屈が爆薬になってこのキャラに込められているのだろう。そのせいで、後半になって妙に生き生きしている。
主人公の心象にだけフォーカスするなら、後半の塔の外パートは要らなかったはずだ。少なくとも、もっと小さくなり、警察とかが来て事務的に進むのがセオリーだったはずだ。
しかし、おそらく宮崎駿はこの父親を描くことに創作の快感を感じたのではないかと思う。
なんかもう藤井聡太ばりに全く失着を犯さず最善手を打ち続ける主人公の代わりに、
この父親は勝手にやらかすし勝手に決断するし部外者でありながらガンガン行くしで、
前半には明らかに狂言回しだったこのキャラだけが、後半に「キャラが勝手に動いた」を感じさせるのである。作中で唯一、記号を感じさせないのがこの父親である。
そんなわけで、ち密に意味を積み上げて作り上げたであろう全体の印象を、後半の父親がぶっ壊して変になっているが、その父親がぶっ壊した所こそが個人的には最も見ごたえがあった、という何とも評しがたい作品である。
まあ、悪くなかったよ。
そうか、SFってのはセックス・フレンドの略じゃなくてセンス・オブ・ワンダーの略だったのか… (え?
上岡麻美さんが、すべてお菓子で作り込んだ世界を写真に収めた「おかしなおかしなおはなしえほん」が、新刊ながら「kodomoe」の昨年11月号に結構大きく掲載されて、とってもうれしかった。
私の経験上、作家にとって初の著作が、こうして絵本専門誌に紙面の写真とともに(書影だけではない!)、しかも新刊のタイミングで紹介されることは、あんまりない。これはとてもうれしく、興奮した。
掲載情報を全社メールするときに、「絵本新刊でkodomoe載るのは結構凄い……」と一文つけたしてしまった。
キモかったと思う、また一人で騒いでしまった、恥ずかしい。恥ずかしいけど、会社に行く私。大人だから、がんばる。
kodomoe掲載誌を上岡さんにお送りしたら、すごく喜んでいた。そのとき、ふと、この企画の立案当初を思い出した。
中垣ゆたかさんに『ハロウィンゴーゴー!』というゆかいな絵本を描いていただいたとき。
そのなかには、大きなかぼちゃのパンプキンパイがでてくる。そのレシピ制作を上岡さんにお願いした。
絵本に出てくるお菓子を実際につくれたら素敵なので、絵本にレシピをのせようということになったのだ。
上岡さんに初めてお会いした日。上岡さんがおもむろに取り出したもの。
それは1冊の絵本だった。クラウドファウンディングで資金を集めて自作したという絵本。
「お菓子でこんなことができるの⁉」※いや、言葉にしているじゃん。
『不思議の国のアリス』の世界を上岡さんなりに翻案し、すべてお菓子でつくりこみ、それを写真にとったシーンの数々が収められていた。
絶句した。
まさか、打合せでこんな絵本を見せられるとは思っていないのだから。
上岡さんは照れくさそうに、でも、とてもしっかりとした目で、「こういう絵本の企画って、どうですか?」と言う。
もちろん、「言葉を失う」という言葉しか出てこないいほど、わたし、今、魅了されている! 実現したいに決まっている!
……でも当時、私は自信がなかった。今ももちろん自信はない。しかし、当時はもっとひどかった。
「素敵ですね! もちろんやりたいです! ……でも、社内で検討してみます!」
……そう言って、打合せが終わり、二人で喫茶店を出た。
恥ずかしかった。素晴らしいものを前に、「でも……」と口ごもる自分が。
2人してエスカレーターにのって、駅の改札に向かう。そのとき後ろから、上岡さんにかけられた言葉は、今も忘れられない。
(※出版社が会社である以上、そこに所属する会社員である以上、社として決まっていない企画を「検討してみます」と伝えるのは当たりまえです。
ここで私が言いたいのは、会社のみんなに納得してもらって、納得のクオリティでつくり、そしてそれを全力で世の中に届けるために奔走するのだという覚悟が、自分にその瞬間なかったということです)
「黒田さんの夢ってなんですか?」
不意を打たれた。
(私の夢?)
私の夢ってなんだろう。
中学生のころは死なずに生きるのに必死であんまりおぼえていません。
高校生の頃はロックミュージシャンになりたかったです。バンドもやっていました。
新卒で入った会社で子どもとかかわる仕事をして、子どものための仕事に目がむき、児童書の編プロへ。
本をつくることは、もうこうして毎日夢中になってしまっているほどに、楽しい。
辛いことももちろんめちゃくちゃあったけど、編プロで本づくりを教えてもらったらもうやめられなくて、もっといろいろな本を作りたいと思って、今の職場にやってきました。
でも、そんな私の「夢」って、なんだろう。
社会人になったら夢とか言ってらんないよと思っていた。
とはいえ、聞かれたことにはなんとか答えねばと思い、「夢は……一人出版社ですかね……?」と苦し紛れに答えた
(が、特にそういった思い入れはなく、私は組織のなかで色んな人の考えや意見を知りながらもみくちゃになりながら働くのが好きっぽい……。めちゃくちゃ協調性なく迷惑をかけるけど……。)
その答えを聞いた上岡さんが、「そうなんですね!」と曇りのない笑顔で言った後、こう言った。
シビれた。
未だに忘れない。
あのエスカレーター。振り返ったて上岡さんの目を見て、上岡さんも私をみて、そう言ったんです。
上岡さんの作品をSNSでは見ていたし、さっき自作の絵本まで見て言葉を失うほどの素晴らしさだったから、それはまったく無謀な夢とは思えなかった。
世界中の人々を魅了できる世界を形づくっている確信をもちながら、妥協なく表現をつきつめる。それができる人の言葉だった。
私は、「でも……」と口ごもっている場合だろうか?
上岡さんに自作の絵本を手渡され、それを開いた時。これはどう見てもすごいと、私は本心で思った。
でも、「売れるか」とか「うまくバズらせられるか」とか、そういった絵本の魅力そのものではなく、周辺の、私なんかにはコントロールが難しい事象にばかり考えを巡らせてしまった。
見た瞬間センス・オブ・ワンダー。心にどストレートに届く。それを大切にしなければいけないと、気が付かされた。
それから、私がやらねば誰がやる、とキャシャーンの気持ちが沸き起こって、社内で企画を通すに至る。
長い時間をかけて、カメラマンの林ユバさんも加わり、じっくりつくりあげました。
たくさんの人に届けたい。
上岡さんの作品に出合い、絵本の撮影に18回立ち会ってわかったのは、私はこういう、言葉ではうまく説明できないようなセンス・オブ・ワンダーな表現をこの世界に残したいということ。自分は、だからこの仕事をやめられないんだということ。
私の夢ってなんだろう。
SFを語るなら センス・オブ・ワンダーぐらい知っとけよw
モンちゃんの衣装にびっくりした。あんなにハイセンスな衣装を着こなしてるなんて流石だと思った。
彼女は育ちが良いので食べこぼしもないし、ちょっとコンビニへ出かけるときもおすましすることができる。
僕には無理だ。
モンちゃんはまちなかですれ違うたびに振り向かれる。彼女は紛れもなくいい女であって、僕のようなものには釣り合わない。それに、彼女と名前を交換したいと思うことがある。僕の名前はさくらで、彼女の名前はモンだ。まるであべこべじゃあないか。僕はまるで女の子で彼女は男の子だ。それもとびきりキリッとしていてハンサムなんだ。彼女が衣装を着替えるたびに僕の中でハッと気づくものがある。立ち姿はモデルのようだ。これじゃだめだと自責の念に駆られる。だってまるで僕は素っ裸だ。彼女に見せる衣装だってないんだから。先日も主人がくれた骨を一日中我を忘れてしゃぶってしまった。これは違うと思った。彼女と決定的な違いだ。彼女はそんなに卑しくはない。まさにセンス・オブ・わんだーなのだ。
SFはアイデアの新奇性、センス・オブ・ワンダーが重要なのであって、今さらヴェルヌやウェルズを読んだところで、価値はない(ギブスンやディックも同様)。
こういう主観を常識みたいに語る奴がいるから面倒くさいんだよな。
一般人からしたらな、作品は触れてみてどうだったか?でいいんだよ。
おっさんだけどセンス・オブ・ワンダーということばをさいしょにしったのはレイチェル・カーソンの本でしたわ
まあタイトルだけで読んだことはないのですけれど
【センス・オブ・ワンダー】という表現について:増田の使っている、新奇性とは少し違う
アイデア以外にも、表現やイメージによる「異化作用で生じる感覚」というのが、SF書評での使い方のようだhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC
また、時代がSFに追いついたあとではトキメキが薄れる、未来予測系SFもある(クラークがそんな感じ?)が
到来しなかった別の未来・別の世界を訪れることも、SFの醍醐味だ
増田にとってのSFは、アイデアの新鮮さが重要なのだろうが、コナン・ドイルや江戸川乱歩を古い!の一言で片付けるわけにもいくまい
探査が進んだ月や海底には、魅了される異世界は残ってないのかもしれないが
酸性雨が降りしきるサンフランシスコや、TV色した空が広がるチバ・シティには、発表後数十年経った今の読者をも魅了する、新鮮なワンダーだか何だかが待っている、はず