はてなキーワード: 面白い本とは
子供が一緒にアニメ見て!とか言ってくるし、本買ったら読み聞かせしなきゃならないし。
しかも幼児って同じものを何回も何回も見るので親が嫌いなものだとかなり苦痛。
嫌いな本、つまらない本を何十回も読み聞かせさせられるのは最早拷問。
「子供が好きな本を自分が嫌いだからと言って捨てる親」は毒親扱いだろうけど、そうしたい気持ちはよーーくわかる。
だから絵本なんかも「親が子供のころ読んでいて好きだった本(つまり昔からの古典名作)」や「大人が読んでも面白い本」ばかり売れるんだよ。
まあ学生が信用も資金もゼロの状態からはじめるなら副業的な内容になるのは仕方ないのではないだろうか。
俺も学生の頃に「本屋やりたい」って動機で古本屋で本買ってきてアマゾンマーケットプレイスとかヤフオクで売ってた。
「せどり」やね
一気に20万使って買った大量の本が1ヶ月経っても3冊しか売れないのは泣きそうになったけど。
一冊一冊目利きして「コレはこういう趣味の人に売れる」「マニアックだけど面白い本だ」と考えながら出品するのは楽しかった。
半年くらいあとに月15万くらいは利益になるようになったけど、売れる本は俺の好きなマニアックだとか希少本とかじゃなくて「万人受けする薄い内容のヤツ」ばかりだったり
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
---|---|---|---|---|
00 | 45 | 11134 | 247.4 | 37 |
01 | 27 | 5537 | 205.1 | 99 |
02 | 33 | 2961 | 89.7 | 29 |
03 | 20 | 6772 | 338.6 | 118 |
04 | 21 | 4125 | 196.4 | 43 |
05 | 4 | 1882 | 470.5 | 349 |
06 | 22 | 1895 | 86.1 | 47.5 |
07 | 38 | 3367 | 88.6 | 30.5 |
08 | 71 | 4867 | 68.5 | 37 |
09 | 134 | 7930 | 59.2 | 31 |
10 | 268 | 12186 | 45.5 | 29 |
11 | 180 | 17147 | 95.3 | 34 |
12 | 192 | 15434 | 80.4 | 29 |
13 | 137 | 6078 | 44.4 | 24 |
14 | 94 | 5764 | 61.3 | 37.5 |
15 | 160 | 9684 | 60.5 | 38 |
16 | 178 | 10832 | 60.9 | 32 |
17 | 132 | 9616 | 72.8 | 44 |
18 | 97 | 8494 | 87.6 | 35 |
19 | 66 | 7323 | 111.0 | 36 |
20 | 116 | 13628 | 117.5 | 37 |
21 | 109 | 14381 | 131.9 | 52 |
22 | 87 | 13104 | 150.6 | 54 |
23 | 115 | 10865 | 94.5 | 33 |
1日 | 2346 | 205006 | 87.4 | 34 |
首長竜(8), ネス湖(32), ネッシー(54), UMA(12), チャゲ(9), たき火(3), 鎖鎌(3), 運転士(3), ペルー(3), 具体例(3), 守護霊(3), 個体(14), 青葉(13), トヨタ(7), 徴用工(6), 一律(7), 本質(25), フェミニスト(37), me(6), ゾンビ(6), 未(13), 辛さ(8), フェミニズム(17), 学費(9), 消滅(9), 謝る(6), 水準(6), 生物(12), スタッフ(11), 資産(10), 韓国人(10), メディア(15), 概念(17), 寿司(12)
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別にうんこを漏らさない方法とか、僕が今現在うんこを漏らしていて、それをどうやって処理すればいいか?とかそういった話ではない。きっとこのエントリーからはうんこの匂いは全くしないはずだ。それどころか、最近はデオコをつかっているからこのエントリーからは女子高生の匂いがするはずだ。そう。このエントリーを書いているのはうんこを漏らしていない女子高生だと思ってもらって構わない。その点を踏まえて読んでくれればと幸いだ。そうすればきっと温かいコメントで埋め尽くされることだろう。
ここに書いているのは僕の純粋な悩みだ。単純明快。「自分が作ったWebサービスに人が来ない」というものだ。
もともとサービスを作った理由は自分が使いたいからだ。僕は本を読むのが好きで、Twitterやはてぶで流れてきた面白そうな本をメモしたり、本屋巡りをして目についた本のあらすじで買ってみたり、帯で面白そうだからと買ったりしているのだが、気に入る本に当たる確率が非常に低い。これは読んで良かったと思える本に出会える確率は1割にも満たない。本を読んでいる途中で投げ出したくなる本と出会うことも多々あるわけだけど、「最後に驚愕のどんでん返しが!」という帯があると帯を書いた人間の策略通り最後まで読まざるえなくなるわけだ。そして僕には「驚愕」と感じられないオチを見て、「なるほどね」と落胆をしてまた次の本を探し出すことになる。これを繰り返していると、新しく本を探しに行くのがどんどん億劫になっていくのだよ。
そこで、僕はひらめいたんだ。「欲しい物を書いておけば勝手に誰かがおすすめしてくれるサービスがあればすべて解決するんじゃないか?」と。
僕なんて本当に本を読む人から比べたら鼻くそぐらいの量の本しか読んだことがないのだし、めっちゃ読んでる人が気まぐれにでも「これ面白いよ」って軽い気持ちでも教えてくれるサービスが存在すれば、僕は日々本屋を回りながら面白そうな本を探すということをせずとも勝手に面白い本がガンガン集まってくるんじゃないかと思ったわけだ。Twitterバイラル的なサービスも流行っているのでこれに乗っかって、自分が欲しい物をTwitter上で公開すれば自分のことをなんとなく知っているTwitterのフォロワーから好きな本を教えてくれるサービスがあれば便利だなと思ったわけ。いろんなサービスが機械的におすすめメールを送ってきてくれたりするけどそんな冷たいものではなく、もっとぬくもりを感じられるゆるくつながって教えたり教えられたりするサービスができたらきっと素晴らしいだろうと思うんだよ。
そんなゆるーくつながるサービスをイメージして「積んでけ」ってサービス名も考えたわけ。「積ん読」をモジッてだれかが適当な置き場を作ったら、そこを通りがかった人が知ってるやつを気軽にポーンと積んでいってってほしいなという願いを込めてつけたわけ。ひらめいたときは我ながらダサかっこいいところを攻めたいい名前をひらめいたと思ったもんだよ。いいと思わないか?気軽に目に止まった置き場に自分が知っているやつを積んでって、それを見た人がありがとうって言ってくれる世界って。それが面白かったんだったら、こっちも面白いと思うぞってなってほしいし、じゃあ私からもなんか教えよっかなって思ったりするじゃんか。アフィリエイトもできるようにしてるから、ブログで紹介するなら1冊に付き1回までしかかけないかもしれないけど、面白かった1つの本を沢山の人間におすすめすることができるんだぞ!これも画期的だと思ったわけだよ。
で、頑張って作ったわけだけどまーーーーったく人が来ないわけだ。
それとも誰の目にもとまっていないから使われていないだけなのか?
それともデザインがしょぼすぎて使う気にならないのか?
まーったく判断がつかない。このサービスの特性上、人が集まらなければ面白くないサービスなので、最初は面白くないサービスに人を呼び込んでくる必要があるわけだ。そんなアクロバティックなことをどうやればいいのかと考えても全く案が浮かんでこない。Amazonギフト券を配って書いてもらおうかとも考えたが、そもそも「サービスを使ってくれたらAmazonギフト券がもらえる」ということをみんなに知らせる手段が存在しない。人がいないところに人を呼び込む最初は一体みんなどうやっているんだ・・・?試しに1万円ほどTwitter広告を出向してみたが全く無風だ。こうなることがわかっていたなら、1万円分の本を買えばその中にあたりの1冊ぐらい混じっていたのではないかという自分の本末転倒ぶりに呆れたりもしたもんだ。全くどうすればいいのかわからん。
だれか、僕にサービスの広め方を教えてくれ!
おい、そこのお前!あさま山荘事件が大好きすぎてカップヌードル食う度に機動隊の気持ちになっているお前!なおかつ伊勢×戸田か戸田×伊勢かで議論したいが相手がいないお前!お前だ!お前に向かって俺は今書いてる!
『三体』だ!『三体』を買って読め!せめてKindleで無料サンプルは落とせ!BGMはRHYMESTERのThe X-Dayを無限リピートだ!
よし、Kindleの無料サンプルは読んだか?読んでないよな。面倒くさいもんな。あんくらいWeb上で読めるようにしといてほしいよな。まあいい、せめてSpotifyでRHYMESTERのThe X-Dayをリピート状態にして以下の文章を読め!
『三体』は最高だ!一般的なあらすじは「文革で物理学者の父を失った娘が云々」などとぬかしているが、無料サンプルで読めるその描写が最高であることはまったく紹介されていない。引用するぞ。
シュプレヒコールがおさまるのを待って壇上に立つ男の紅衛兵の片方が批判対象をふりかえって言った。
「葉哲泰、おまえは力学の専門家だ。自分がどれほど大きな合力に抵抗しているか、わかっているだろう。そうやって頑なな態度をとり続ければ、命を落とすだけだぞ! きょうは、前回の大会のつづきだ。くだらない話はもういい。次の質問に真面目に答えろ。六二年度から六五年度の基礎科目に、おまえは独断で相対性理論を入れたな?」
「相対性理論は物理学の古典理論だ。基礎科目でとりあげないわけにはいかないだろう」と葉哲泰。
「嘘をつけ!」そばにいた女の紅衛兵のひとりが荒々しい声で叫んだ。「アインシュタインは反動的学術権威だ。欲が深く、倫理に欠ける。アメリカ帝国主義のために原子爆弾をつくった男だ! 革命を起こす科学を築くためには、相対性理論に代表される資産階級理論の黒旗(反動の象徴)を打倒しなければならない!」
(中略)
「葉哲泰、これは言い逃れできないはずよ! あなたは何度も学生に反動的なコペンハーゲン解釈を撒き散らした!」
「それが実験結果にもっとも符合する解釈であることは厳然たる事実だ」これだけ厳しい攻撃にさらされても、葉哲泰の口調は落ち着き払っていた。紹琳はそれに驚き、畏れを抱いた。
「この解釈は、外部の観察者によって波動関数の収縮が引き起こされるというもの。これもまた、反動的唯心論の表れであって、その中でも、じっさいもっとも厚顔無恥な表現よ!」
「思想が実験を導くべきか、それとも実験が思想を導くべきか?」葉哲泰がたずねた。突然の反撃に、批判者たちは一瞬、言葉をなくした。
「正しいマルクス主義思想が科学実験を導くのが当然だ!」男の紅衛兵のひとりが言った。
「それは、正しい思想が天から降ってきたと言うに等しい。真理は実験によって見出されるという原理を否定し、マルクス主義思想がどのようにして自然界を理解するかという原則に反している」
紹琳とふたりの大学生の紅衛兵は、無言で同意するほかなかった。中学生や労働者出身の紅衛兵とは違って、彼らは論理を否定することができなかった。しかし、附属中学の若き闘士たち四人は、反動分子を確実に攻め落とすための革命手段を実行した。
最高かよ!!! 時はあさま山荘事件の数年前だが、アカの本場中国でも似たようなどうしようもないことが起こっていたのだ!引用の最後の部分で作者がたくみなカメラワークを用いて批判者側の「論理の欠如」を指摘しているのがまた光り輝いている。そうなのだ。この手の議論には論理というものがまったく存在しない。あるのは連想ゲームだけなのだ(「物理学者のお前は自分がどれほど大きな合力に~」「アインシュタイン=核兵器=帝国主義=敵」)。あさま山荘事件でもそうであった。無色のリップクリームを塗ったことと、彼女が死ななければならないということの間にまったく論理的な関係は存在しない(そもそも何かと誰かが死ぬということの間に論理的関係が成り立ちうるのかという問題は置いておくとして)。そこにあるのは、「革命」や「自己批判」といったマジックワードを挟んだアクロバティックな地滑り的連想ゲームだけである。
しかし、しかしである。われわれはそうした連想ゲームに時として身を委ねてしまう。どころかしばしば喜んでその中に身を投じさえする。あさま山荘の彼らが目指した「革命戦士」という存在にどうしてもワクワクしてしまうのは、そこからこれまでわれわれが目にした「革命」や「戦士」についての輝かしい言説やビジュアルがまさしく連想ゲーム的に引きずり出される快感にわれわれが抗えないからである。
「ベネディクト・アンダーソンは国民国家を『想像の共同体』と呼んだ」と言われるとき、たいていアンダーソンが主張したかったことは無視されている。アンダーソンはこうも書いている。「国民国家は『想像の共同体』であるからこそ強いのだ」と。どういうことか。例えばご近所たちは想像の共同体ではない。そこに想像力が働く余地はないからだ。近くてよく見えるがゆえに嫌いなところがよく見えてしまう。しかし国民国家は想像の共同体であるから、そうしたデメリットを回避することができる。逆の意味で、人類もまた想像の共同体ではない。そこにもまた想像力は働かない。あまりに大きな対象であるがゆえに、想像することができないからである(それを想像できるように「地球市民」とかいろいろなレトリックが開発されては頓挫した歴史があるわけだ)。つまり国民国家は想像するのに小さすぎも大きすぎもしないがゆえに、人間の持つ最も偉大な能力=想像力/創造力を刺激する存在であるがゆえに、これほど大きな存在になり得たのだ。世界大戦を二度経験して、戦後もエコやらなんちゃらがあってメイクアメリカグレートアゲインな今、人類は人類を想像力の対象にすべきであると誰も[誰?]がわかっているはずであるが、そうした方法は未だ見つかっていない。めっちゃナウい想像力を持ってそうなイスラム国ですら国を名乗る時代である。
そうした状況にある人類に対して、「地球市民」としての自覚=想像力を持たせるために一番手っ取り早い方法は、宇宙人に攻めてきてもらうことである。映画『インディペンデンス・デイ』があれだけ面白いのは、その「俺たち感」を徹底して純粋なものとして描けているからだ(もちろん「俺たち」と書いたようにそこからは女性が排除されているのだが、それもまた「俺たち」の盛り上がりを純化させるように働いている)。しかし、この方法には大きな問題がある。それはわれわれの知る限り宇宙人が当分の間攻めてきそうにないという点である。したがって二番目の方法が取られることになる。それが科学教育である。ひとりの神様とか王様の下で人類みんなが仲良くするのは無理だとわかったので、次は科学様の下で人類全員集合しましょう、というわけだ。まあ、承知のようにこの方法にもいろいろ問題はあるのだが、他に良さそうな方法もないので多くの人々からのんべんだらりと支持されているといってよい。
科学の持つ大きな問題として真っ先に挙げられるのが、それが神様よりも信頼可能か?というものだ。科学教の信者はそうだとなんの疑問も持たずに答え、異教徒たちはおらが村の神様の方が偉いと主張する。そこを調停するのが科学哲学者の役割のひとつであったが、どっちつかずとして双方の陣営から攻撃されるため調停役に名乗りを上げる科学哲学者はほぼ絶滅している。
(注:ネタバレ防止のため人名や固有名をアルファベットに置換している)
「Aくん、きみは仕事の範囲を逸脱しかけている」Bが首を振りながら言った。「研究は理論的なものだけに絞るべきだ。こんなに手間をかける必要が本当にあるのか?」
「Bさん、この実験は、大きな発見につながる可能性があるんです」とAは懇願した。「実験は絶対に必要です、とにかく、一回だけやらせてください。おねがいします」
「B、一度だけやらせてみたらどうかな?」Cが言った。「オペレーションはそれほど大きな手間でもなさそうだし。送信後、エコーが帰ってくるのに要する時間は――」
「十分、十五分だろう」Bが言った。
「だったらXシステムを送信モードから受信モードに切り替える時間もちょうどある」
Bがまた首を振った。「技術的にもオペレーション的にも造作ないことはわかっている。しかし、C、きみはどうも……、この手のことには鈍感みたいだな。赤い太陽に向かって超強力な電波を送信するんだぞ。こういう実験が政治的にどう解釈されるか、考えてみたことは?」
AとCは、どちらも茫然としたが、Bの反対理由が荒唐無稽だとは思わなかった。逆に、自分たちがその可能性を考えもしなかったことにぞっとしたのである。
この時代、すべてのものに政治的な意味を見出す風潮は、不合理なレベルまで達していた。紅衛兵は、隊列を組んで歩く際は左折のみ許され、右折は禁止された。信号機は、赤が進めで、青が止まれでなければならないと提案されたこともある(周恩来首相に却下されたが)。
(中略)
そういう風潮に鑑み、これまでAが研究報告を提出する際は、Bが必ず綿密な査読を行っていた。とくに、太陽に関する記述は、専門用語であっても、くりかえし吟味し、政治的危険がないように修正した。たとえば、“太陽黒点”という言葉は使用が禁じられた。太陽に向かって強力な電波を送信するという実験については、もちろん、千通りのポジティブな解釈が可能だが、たったひとつのネガティブな解釈がなされるだけで、関係者全員が政治的な災難に見舞われるにじゅうぶんだった。Bが実験の要請を拒絶する理由は、たしかに反駁のしようがなかった。
イアン・ハッキングがイヤンと言いそうなくらいむき出しの「科学の社会的構成」である!ここでも論理が連想ゲームに膝を屈している。このことを中国に特殊なものだと考えるのは科学教の信者である。似たようなことはどこの国でも多かれ少なかれ起こっている(また国家がくくりとして出てきてしまった!)。STAP細胞は論理を飛び越えればどんなものまでが「発見」されてしまいうるか、という好例であろう。それでも科学教の信者は言うだろう。「STAP細胞は誤りであることがわかった!これこそが科学の勝利ではないか!」と。残念ながら科学はそんな単純なものではない。たとえばケプラーの理論はそれ以前の理論よりシンプルでもなければ正確でもなかった。そのあたりのことはスティーブン・ワインバーグ『科学の発見』に詳しく書いてある。「それでもわれわれは今はケプラーの理論が正しいということを知っている!これが科学の進歩だ!」という主張は残念ながらワインバーグとは仲良くなれるが歴史学者からは異端扱いされるだろう。このワインバーグの本は、「ノーベル賞物理学者が科学の歴史について論じたら歴史学者から総攻撃を食らった」というそれじたいSFにガジェットとして出てきそうなシロモノなのだが、けしてトンデモ本でなくワインバーグは確信犯的にその地雷を踏んでいる。非常に面白い本なので『三体』を読んだあとにはぜひこの本を読んでほしい。『三体』に出てくる宇宙物理学の理解の助けにもなるし。
話がそれた。『三体』である。まあ、歴史学者から異端扱いされようが科学者は科学者でやっているのである。……本当に?「科学をする」とはどういうことか説明できるひとは今のところ地球上に存在しない。どころか説明できるひとが今後現れる可能性もまた科学哲学者によってほとんど否定されていると言ってよい。では科学者は何をやっているのか?われわれのような皮肉屋に言わせれば「教義の精緻化とその確認作業」とでも言い捨てられるだろうが、『三体』はそこに真摯に向き合っている。どころか、その先までをも作品の中に織り込んでいる。ネタバレになるので詳しくは話せないが、科学を「打倒する」ことを本気で考えてみた人はいるだろうか?いないだろう。『三体』はそれを本気で考えている。誰がなんのためにそんなことをし、さらにそれに抗うには何をするべきかを描いている。そしてその描き方がまた最高なのである。作中、ある「組織」が出てくるのだが、それがまたなんとも、「アカい」のである。もちろんそれは最初の引用で出てきたような無知蒙昧なアカさではない。連想ゲームではなく論理によって貫かれた「アカさ」というものがあるとしたら、こういうものだろうという迫力がある。
作中にこういうセリフがある。「中国では、どんなにすばらしい超越的な思想もぽとりと地に落ちてしまう。現実という重力場が強すぎるんだ」と。これはおそらく作者の嘆きでもあろう。その重力場から逃れるために、作者はこれを書いたのだと思う。中国の現実の重みは、隣にいるわれわれも知るところだろう。この作品は、その中国の現実の重みを、実に力強く脱出していると思う。それがこの文章で伝わったかどうかは甚だ心もとないが、一人でも多くの、未だ北田暁大先生のTwitterの件に心の整理がつけられていない人々が、『三体』を手にとってくれるよう望む。
そこでの生活は学校ほどかしこまってはいないが、俺たちにとっては監獄も同然だった。
だが、俺たちは悪いことをしたからそんな場所にいるわけじゃない。
さしあたっての問題は、退屈をどう紛らわすかであった。
現代の娯楽に慣れ親しんだ子供にとって、学童所の空間は何とも味気ない。
いつからあるかは分からないが、どの玩具も使い込まれており、修理された箇所があった。
「へえ、マスダ、糸なしでできるんだ」
あまり興味はわかなかったが、何もしないよりはマシだった。
「すごいなマスダ、もうコマを指のせできたのか」
「ああ、つなわたりも出来るぜ」
学童所内には、それらの技表が壁に貼られており、難易度が設定されている。
誰がどういう基準で設けたのか知らない。
だが、とりあえず挑戦心はくすぐられたし、退屈しのぎとしては十分なスパイスだった。
「そういえば、弟くんはどこで何してるの?」
「ふ~ん、まさか缶ぽっくりで?」
特に缶で作った下駄、通称「缶ぽっくり」は足の一部のように動かせる程だ。
その他だと、少ないが本棚もあった。
「ん~? なんでこのキャラ死んでんだ?」
漫画もあるにはあったが巻数が揃っておらずバラバラで、読んでも話が分からない。
「あのなあ、お前そういうのでハシャぐのやめ……なんでそいつ両方あるんだ?」
そもそも俺たち子供が読むことすら想定していない、ビミョーな内容のものも多くあった。
破れていたり、落書きされていてマトモに読めないものもあったので、あそこは放置に近い状態だったんだろう。
そんな感じで、退屈な環境ではあったが、そうならないようにする余地は多かった。
近くには小さいけれど公園があったし、自由に動ける範囲内には川原やら遊べる場所はたくさんあった。
やれることは、当時の目線から見ても前時代的な遊びばかりだったが、それでも子供たちが昔から親しんでいたモノだ。
俺たちが楽しめない道理はない。
それでも、いよいよ手持ち無沙汰になったら、最終手段。
手持ち式の数取器を、ひたすらカチカチやる。
「兄貴ぃ、いまどれ位?」
「623……4だな」
「少なっ、こっちはもう1000いったよ」
「と言いつつ、いま横のツマミ回しただろ!」
そうして数取器のカチカチ音を聞いていれば、「何か別のことをやりたい」という意欲が湧いてくる。
9の数字が並んだことも一度や二度じゃない。
その頃の名残で、俺の親指は今でも歪な形をしている。
ルポなんだけど、ヘビーな事象を軽い文体で貫いてあり、大いに笑えた。
筆者の目の前で起こっている事は決して笑い事じゃないんだけど、高い文章能力とドライな視線が笑いを誘う。
その上、哀しみや、ギュッと心臓を掴まれるような場面もあり、大傑作だなと思いながら読み終えたのだけど、残念ながらこの本のタイトルを他人にいえないのだ。
え、そんな本を喜々として読むって人間としてどうなの?
もっと言えば、いつか書く小説にその本に書いてあることをネタに使おうと決めてしまっているのもある。
というわけで、同じ筆者の本を全部買う予定なのだけど、あまりヒットされて、そのネタをいろんな人が使うのもまずい。
だから、筆者に対しては感謝しながら、あまり売れてくれるなと念じるし、作品を公の場でおすすめも出来ない。
ああ、超面白いんだけどな。
皆に読んで欲しい。僕が作家じゃなかったらね。
今小学三年生の甥っ子の誕生日プレゼントなにがいいか教えてくれ。自分理系の30代。滅多に会わないけど甥っ子とはとても仲いい。
甥っ子は昔から薬とか化学が大好きで、分子構造の模型とか元素表とか好き。あとは図工も好き。
自分の世代なら空想科学読本とか大好きな感じの子供なんだと思う。
女ばかりの家系で男が少ないから理系のおじさんとしてなんか世界を広げるようなものをあげたいんだけど、なにかいいのないかね。
面白い本とか、おもちゃとかだと思うけど、いいのが浮かばない。世界で一番美しい分子の本も候補ではある。すでに持ってるかもしれなくて、最悪図書券かなとは思ってるけど。。
面白かったよね、蜃気楼的なのもそうでないのも。今のラノベというとハーレムもののイメージがある(私が今持っている・またはそういう文脈で使うことが多い)けど、私にとってラノベはコバルトとかホワイトハートとかだった。女の子向けエロ。母に「こんなマンガみたいな本!」と全部まとめて捨てられてた本。中学生ながらこっそり作家のサイン会に行って、サインしてもらった本も含まれてたんだけどな……所詮子供が大事にしたい気持ちなんか大人には関係ない。捨てさせられながら呆然とライトノベルとそうじゃない本の線引きを理解した気がした。……いや待て、なら長野まゆみやら宮部みゆきやらはなんなんだ。あと小野不由美。というか母としては表紙がマンガ絵だからアウト判定してただけで中身がマンガみたいだったかどうから知らないと思う。であれば十二国記はセーフなはず……ってコバルト関係なかった。
閑話休題。
引き込まれるとか読みやすいとか、文章が上手いのは圧倒的にコバルト文庫だった。他の文庫や、テキストサイトを巡ってきても、やっぱり安定して面白い安心感ある文章なのはコバルトだった。オーラバとか『作家の人間性がー』みたいな話を同人誌だかペーパーだかで読みつつ、でも話は面白いから作家の別作品も追ったりしてた。音楽のやつが好き。ちょーシリーズもとても好きだった。ちょーも好きなんだけど、なんだっけ、黒魔法も白魔法も「魔法に善悪はない」ってずっと言ってたのは。コバルト文庫の何かだっけ? ……ちょーシリーズの子世代編の気もしてきた。あれはとても私の価値観に影響した。魔法じゃなくても、道具そのものに善悪はない。うん。あの人の、全体的にしっかり考えてるのにあっけらかんとした口調で気楽に読ませてしまうの本当にすごいと思うんだ。好き。あ、マリ見ては嗜む程度、多分1冊もちゃんと読んだ(借りた)ことないと思う。アニメイト方向からの知識だけで構築されてる気がする。姉妹と書いてスールと読むんだよね。あと破妖? 途中から読めなくなってしまったけど。
ああでも、こんな懐古に浸って、あの頃読んでた何も今読んでない。新しいシリーズなら尚更。コバルト文庫はコミュニティで読んでいた。布教文化というか、教え教えられ前提で読んでいた。くるりんFAXで盛り上がったりとか。高校卒業してからは面白い本をその場で貸して翌日返ってくるなどというやりとりはなくなったし、自分の気になるものしか読まないから自ら新シリーズの開拓とかしなくなった。友達に勧められないとマンガしか読まない人間だったんだ、私は。今コバルト文庫を読んでない。かなり長い間読んでない。読みたいな。読もう。
17年間腐女子をやってきて、四桁に近い同人誌を集めてきた。私は買い専です。プロでもない個人が作る同人誌の大半はハズレであることを嫌になるほど学んだ。
先日久しぶりに同人誌即売会に行ってきた。事前に自ジャンルのサークルをチェックして、自分で厳しい基準を考えて、とにかく購入する同人誌を厳選しまくった。
すると、買った同人誌は全て当たりだった。イベントに参加して本当に良かったと思った。こんなことは初めてだったので自分でもビックリした。
ほくほくした気持ちになると同時に売れない同人誌の在庫を抱えるサークルさんの気持ちを考えると悲しくなってしまった。自ジャンルはアニメも終わってしまって旬の人気ジャンルに移動する人も多い。だから、ずっと自ジャンルで活動して、ジャンルを盛り上げているサークルさんは感謝するべき対象だ。でも、私はその人達の同人誌を買って応援することができない。一生懸命作った同人誌が売れないのってどんな気持ちなのだろう。周りが完売していく中、既刊の在庫をたくさん抱えて撤収するときはどんな気持ちなのだろう。同人活動って本当に楽しいのかな?イベントで同人誌を売るサークルのほとんどが赤字。赤字でも趣味なんだから楽しいのかな。同人誌って描くだけじゃなく買うものでもあるし、イベントに出て面白い本がたくさん買えれば楽しいのかな。
ずーっと在庫を抱えて活動するくらいなら、いっそ人気の旬のジャンルに移ってしまったほうが楽しいのかもしれない。そう考えると旬のジャンルに次々と移動する人達の気持ちも理解できる気がする。
※非常に気色悪い内容だと思います。読まれる方は承知の上でお願いします。
ついにこの日が来てしまった。
数年前にフリーで予約して出会い、それ以降指名してきた女の子。徐々に人気が上昇して店舗ランキングに載るようになり、予約も取りにくくなっていった。最後に会ったのが7月。以降は何度電話しても予約が取れず、では10月の出勤状況は、と店舗のWebサイトを確認すると。
「退店しました」
血が凍るとはまさにこの感覚。いろいろ情報を当たると、どうも9月末での退店は本人の意向だったようだ。出勤頻度が多かったのはそのためだったのか。
そもそも自分のような、子供の頃から周囲に薄気味悪がられ、女の子にまともに相手をされることのないまま40年以上の人生を送ってきた男にとって、風俗店というのは女の子と触れ合える貴重な場所のひとつである。支払う対価の前には、イケメンもブサイクも、自分のようなハゲデブメガネのおっさんでも提供されるサービスは平等である(少なくとも建前は。もちろんそうでない店舗もあるだろう)。一方で、サービス以上の要求をしてくる客の話は、風俗嬢のエッセイやツイートでは定番のネタだ。自分は非モテの自覚があるつもりなので、せめて仕事でサービスをしてくれる女性に不快感を与えてはなるまいと、ルールを守って遊ぶことを心がけてきた。当然のマナーだと思っていたのだが、そうでない客も多いと知って驚いたものだが。
相手が仕事である以上、本気で入れあげるのは遊び方として非常に格好悪いという認識もあるつもりだった。そういうことを理解していてもなお、このテンションの下がり具合はどうだ。
スタイルが自分好みなのはともかく、本来の目的以上にお話が楽しかった。
あるとき、お出迎えを受けたときに、待合室に持ち込んだ本を手にしたままだったことがきっかけで本の話題になった。「なにか面白い本があったら教えて」との言葉に、その街が舞台になったミステリ小説を渡したら、次に会ったときに「面白かった」と言ってくれた。イギリスの歴史に興味があると聞いて何か本を渡そうと考えたが、ガチの歴史の本をいきなり渡してもちょっとアレかなと思い、学者から転向した作家のエッセイ本を渡したら、それも面白いと言ってくれた。
もしかしたら、興味の対象とズレれていたかもしれない。気持ちを無碍にしないよう、お愛想で「面白かった」と言ってくれただけかもしれない。それでも、感想を伝えられる程度には目を通してくれたのだろう。嬉しかったし、人にプレゼントする本を考える体験はとても新鮮で楽しかった。
事情により日射しが体に良くない、と聴いたときは、本人の意向を確認した上で日傘をプレゼントした。だが事前に好みのデザインを聞くのを忘れたので、デパートの店員に選んでもらった。喜んでくれたようだが、これが本当に言葉通りかは甚だ自信がない。
「自分が気に入った子はなぜかすぐ辞めちゃうんだよね。2回目に会えたことがあまりない」
「そうなの? 大丈夫、やめないよ」
という会話を交わしていた。あれから数年経つ。本人の中でも心境の変化があったのか限界を感じたのか、それはわからない。いずれにしても仕方がないし、むしろ当然のことだ。だが、心のどこかで「(予約さえ取れれば)いつでも会える」「いつまでも店に在籍してくれる」という願望や幻想が根付いていたのだろうか。
交際したいとか一緒に人生を歩みたいとか、大それたことを考えていたわけではない。いや、我知らず「あわよくば」という思いはあったかもしれないが、それが実現し得ないことは他ならぬ自分がよく認識している。
面倒な仕事とストレスだらけの人生の合間にちょっとした癒やしをくれる彼女の存在が嬉しかった。
美味しいと評判のケーキ屋を教えてもらった。甘い物好きと言っていたので、差し入れたら喜んでくれただろうか。
彼女の好きなものについてもっともっと聞きたかった。好きなものの話をする彼女の顔は生き生きとしていた。
提供される「サービス」の思い出以上に、そんな些細な思いが浮かんでは弾ける。彼女の技巧も夢心地だったが、出口へ案内される際につないだ手のひんやりした指の感触のほうが忘れられない。
これではまるで失恋ではないか。自分にとっての彼女はそこまでかけがえのない存在になっていたのだろうか。彼女にとっての自分は大勢の「お客様」の一人、one of themに過ぎないのに。
自分でも説明することの難しい気持ちを整理し立ち直るまでには、まだしばらく時間がかかることだろう。せめて会ってお別れが言えたら良かったとも思うが、それも叶わぬことだ。
ここを見ることはないだろう彼女に伝えたい。
M子さん、今まで楽しい夢を見せてくれてありがとう。そして、貴方のこれからの人生が幸せなものでありますように。
※追記を書きました。
親の本棚が子供の読書に影響うんぬんという話が盛り上がっている。
それとはあまり関係ないが、人間の本の趣味というのは大きく変わってくるんだなぁという話。そして再度交われるんだなぁというお話。
自分の父親は歴史ものとかノンフィクションであれば政治、国際情勢の本を昔から読んでいた。
大学に入ると、自分が理工系に進んだこともあり、あまり本の趣味が合わなくなってきた。
たまに実家に帰ったときに父親が「この本面白かったぞ」と紹介してくれるのだが、政治家のルポだったり、アメリカ情勢だったりで読み始めても数分で本を閉じてしまう。
自分は専門分野だけでなく、どちらかというとサイエンス寄りの本を読むことが増えていた。
もちろん一般書で、例を挙げればHONZのサイエンスで紹介されるような本。
昔は父親が勧めてくれた本を面白く感じてたが、いろいろ知ると父とは好みがずれてくるんだなぁ、感慨深いなぁなどと思ってた。
それから10年以上経ち、自分は博士課程まで進んでしまい、その後しばらく働いていると父が倒れた。
入院中で元気をなくしている父にお見舞いする際に、読書が好きだから、なんか本を持って行ってあげようと思った。
父の好きそうな本を持って行ってあげたいが、もう好みはわからない。
仕方ないから自分の手持ちの本の中から、がんばって父にも読みやすそうな本を3冊くらい見繕ってもっていった。
自分が帰った後、母の話によると父は食い入るように本を読んでいたそうだ。
無事手術が終わり、父と話したら、そのときに持って行った菌世界紀行という本が大層お気に入りだったようで、
岩波科学ライブラリーって面白い本いっぱいあるんだなぁ、岩波新書くらいしか読んでなかったよ。退院した後にいっぱい買ったよと笑っていた。
この春から編集者になった あんまり大きな声では言えない業界の
まだ何か成果出したわけでもないんだけど他社の面白い本とか読んでると
俺もそのうちやってやろうという気持ちになる
一年後に鬱になっていないことを祈る
それほどまでに私は疲れてる。疲れきってる。
明日締め切りのESを半分書いたところで手が止まってしまった。
質問に対して自分の正直な考えと、就活本に書いてあるセオリーとを照らし合わせて、正解の文章を考えようとしても、何も浮かばなくなってしまった。
考えれば考えるほどこの企業の志望度は高くなっていき、同時に書けなくなっていく。
私には夢があった。
夢を叶えたくて就活を頑張った。
正確には頑張りたい、と思った。
でも次々と志望業界の企業が落ちていく中で、根本的に自分は向いていないのだと気づいた。
それどころか、1mmの努力も出来ない自分がいたことに気づいた。
夢破れた私を横目に、友人たちは次々に内定を獲得していく。
私はコミュニケーションに難があるわけではない。
バイトで接客業もやってて評判いいし、大人からも可愛がられるタイプだ。
どうして夢もないあの子は適当な企業に内定もらって、どうして夢のある私はこうもうまく行かないのかと、自問を続けた。
出した答えは、私は自分が思うよりはるかに「何者」でもなかったのだ。
就活について生々しく描かれた本で、2年前くらいに私も買い、読んだ。
怖くなった。
こんな怖いことを乗り越えられるのだろうか。
面白い本だけど読むと不安になるから就活が終わるまで読まないておこうと思ったのだ。
だが今思うと不安になる一番の理由は、登場人物の拓人が私と似ていたから。
そして今まさに、私は拓人と同じ状況に置かれている。
この記事を書いている横に本棚から引っ張り出した『何者』を置いてある。
ごちゃごちゃしてしまったがプライドを失い、どん底にいる今でも言いたいことがある。
「企業は合う、合わないがあるから、落ちた企業は合わなかったんだよ」
というか、どのサイトもどんなキャリアアドバイザーも言う台詞。
私はこの言葉を信頼していない。
何故なら合う、合わないなんてどうでもいいからだ。
やりたい、やりたくない、なんじゃないの?
合わなくても、やりたい仕事ならそんなの乗り越えられるんじゃないの?
やりたい、やりたくないにしろ、合わなかったら辞めればいいと思うけど、やりたい仕事から転職したほうが経験値になるんじゃないの?
こんなことを未だ言ってるから就活の波に乗れずうだうだ海底に沈んでいるんだろう。
もちろん留学する気もだ。
「何者」かになりたかったのに、こんなにも「普通」の考え方をしてしまうのは、本当に我ながら笑える。
正直辞めたいし、しにたい。
でも私はこの世にすがりつくものがあるし、親にもお礼したいと思ってる。
就活のメソッドには中途半端にしか従えないし、プライドは絶妙に高い、そして「何者」でもない。
でも雇ってくれればちゃんと働くし、周りへのご機嫌取りだってするから。
こんだけ書いといて結局何が言いたいのか分からない文章にも嫌気が差してくる。
ES書けない。
就活つらい。