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2023-04-02

非武装中立をぶん殴る1968年日本共産党

以下、非武装中立をぶん殴る、日本共産党: 「1970年の焦点 : 日米安保条約をめぐる30問」 (1968)

23 社会党非武装中立

社会党非武装中立とはどういうものですか。

社会党の「非武装中立」論は、日本中立化すれば、外部から侵略危険はなくなるという希望的・主観的判断を前提に、中立日本安全保障問題について、真剣な追求を事実上放棄しているのが特徴です。そのことは、安保条約を破棄した独立民主日本において、外国からの圧迫や干渉中立侵害さらには侵略危険などからどうして国の主権独立中立を守るかという問題にたいして、説得力のある具体的な解答をもちえないでいることにしめされており、そしてまた、そこに社会党の「非武装中立」論の最大の決定的な弱点があります。現に、一九六八年の参議院選挙にさいして、NTVテレビと『読売新聞」が共同でおこなった立候補者アンケートでも、「非武装中立で万一日本侵略を受けたとしたら、あなたは、次にあげる態度のうちどれをとりますか」という質問にたいして、社会党候補者の回答は、「非力でも抵抗する」十四人、「国連、又は第三国の援助を要請する」十三人、「抵抗しないで連命を甘受する」三人、「その他」十一人、「わからない」四人、「無回答」八人と、まったくばらばらで、社会党中立日本安全保障問題について統一したまとまった見解をもっていないことを、あらためて暴露しました。

ところで、社会党はどのような論拠をもってこの「非武装中立」論を主張しているのでしょうか。

社会党は、同党中央機関紙社会新報」六八年七月三日付に、「事実を歪め、国民欺瞞するな、日本共産党非難に答える」というMなる署名の長論文を発表しましたが、そこでのべられている主張は、さいきんの成田委員長発言や同党の方針のなかでもくりかえされています。それは、第一に、「日本が断固として非武装政策をとることによって」「いかな国も非武装日本攻撃する口実をもてなくなり、日本侵略される危険がなくなる」と主張しています。これはきわめて無責任議論です。

だいたい、「侵略がなくなる」というこの断定自体、なんの根拠もないものであり、日本安保条約を廃棄して中立の道をふみだしたからといって、なお帝国主義が存続する以上、アメリカを先頭とする帝国主義陣営が、そのアジア侵略政策のいっそうの破綻のなかで、日本をもう一度アメリカ盟主とする軍事同盟にひきこもうとして不当な圧迫や干渉をくわだてたり、侵略の挙に出たりする危険は、依然としてのこっています日本非武装政策をとれば、どんな国も日本攻撃する口実がなくなるから、「侵略される危険はなくなる」などというのは、帝国主義侵略性、凶暴性に目をふさいだ、まったくの主観的希望的な観測にすぎません。

したがって、帝国主義者の干渉や圧迫、侵略危険などをどのような手段で防止し、日本独立中立を守るかという問題は、日本平和中立化の政策真剣に追求するものにとって、けっしてゆるがせにすることのできないきわめて重大な問題です。まさにこの問題で、「侵略危険はなくなる」などと勝手にきめこみ、なんら現実的考慮はらおうとしない社会党の態度が、独立中立日本の前途に真剣責任をおう態度でないこと、さらに、将来にわたって「非武装中立」などを固定的な原則として宣言し、あらかじめ自衛の手をしばってしまうことが、真に日本主権中立をあらゆる情勢のなかで守りぬく正しい態度でないことは、まったく明白です。

なお、ここでとくに指摘しなければならないのは、社会党の「非武装中立」論が、日米関係についての同党の根本的な誤りと結びついたものであるということです。いうまでもなく、一国の中立政策問題にするばあい、その国がどんな外国支配から解放され、真の独立を確保していることが、その前提です。このことは、第二次世界大戦後の日本のように、アメリカ帝国主義占領あるいは半占領下におかれている国では、アメリカ帝国主義の対日支配を打破し、真の独立を達成することをぬきにしては、ほんとうの意味で国の中立化や中立政策を語ることはできない、ということを意味しています。ところが、社会党は、「日本アメリカ本質的従属関係にあるものとみることはできない」(「旧本における社会主義への道」、一九六六年一月第二十七回党大会)として、日本対米従属関係本質的否認する態度を公式にとっているのです。帝国主義の存続と侵略性に目をつむるだけでなく、現実アメリカ帝国主義対日侵略否認する立場からは、もちろん、日本の真の独立の達成という課題が提起されることはなく、けっきょく、この課題を軽視あるいは回避する社会党立場が、真の日本平和中立化をめざす態度と両立しえないことは、あきらかだといわなければなりません。

社会党の「非武装中立」論のもうーつの論拠、問題点は、自衛権をめぐる問題です。

結論的にいえば、日本人民主権者となった独立中立日本安全保障問題において、周囲にアメリカ帝国主義のような侵略勢力があるなかでの「非武装中立」という主張は、けっきょくのところ、いっさいの自衛権の発動の手段をみずから否定して手をしばるものである、ということです。さきにあげた『社会新報』のM署名論文は、独立中立日本自衛権についての日本共産党の主張を攻撃して、つぎのようにいっています

日本共産党は、……プルジョア国家間規範である国際法上の自衛権をもちだしている。これを根拠にして自衛軍隊を主張するなら、一国がプルジョア政府であろうと、民主連合政府であろうと、軍隊もつことができるのであって、主観的にはどうあれ、自民党が進めようとしている自主防衛論、憲法改悪と核武器をふくむ軍備強化積極的に手を貸すものといわざるを得ない」

まったく乱暴で、おどろくべき議論ですが、独立中立日本自衛権を主張した日本共産党安全保障政策批判しようとした『社会新報』は、問題自衛権そのものを、「プルジョア国家間規範」だという説でどこかにふっとばしてしまっていますしかし、自衛権とは、国家あるいは民族が、外国の圧迫や侵略から自国主権独立を守る正当防衛権利のことです。これはすべての民族がもっている国際法上も広く認められた固有の権利であり、「プルジョア国家」だけにかぎられるものでは、もちろんありません。にもかかわらず、それが『社会新報』がいうように「プルジョア国家規範」だとするならば、独立中立日本には自衛権はないことになり、けっきょく、さきに引用したNTVテレビと『読売新聞』のアンケートへの社会党候補者の回答にあるように、「抵抗しないで運命に甘受」しなければならないというようなことになってしまます

なお『社会新報』はここで、自衛権についての日本共産党の主張を「自衛軍隊の創設」の問題と同一視し、最近になっても、「共産党は……外交政策における自衛権の主張は武装自衛の方向をとっている」(「一九七〇年安保廃棄をめざす闘争方針案」、六八年十一月社会党中央執行委員会決定)などといっていますが、これは、日本共産党の主張をきわめて一面的ねじまげたものです。自衛権は日本民族が一貫してもっている固有の権利ですが、これを行使する形態は、内外情勢や憲法上の制約などによってちがいます日本共産党が、現憲法下では、たとえ真の自衛のためであっても国が軍隊もつことを明確に否定していることは、ここでくりかえすまでもなく、「日本共産党安全保障政策」および「日本中立化と安全保障についての日本共産党の構想」にあきらかです。

自衛権をめぐる問題最後にいっておかなければならないことは、さいきんの成田発言でもくりかえされている、日本共産党自衛権を問題にすることは自民党の「自主防衛」論に手を貸すものだという議論が、ぎゃくに自民党の「自主防衛」、調をたすけてやる結果になっているということです。

日本共産党が、自民党政府の「自主防衛」論や自衛隊増強に反対しているのは、一般に国を守ることそのものに反対だからではなく、自民党の「自主防衛」論が、日本主権独立を守るどころか、反対に、アメリカの指揮下にアジア侵略の「日米共同作戦」態勢を強化することをめざしたものであり、自衛隊が憲法違反の対米従属人民弾圧軍隊であるからです。自民党のこの「自主防衛」論を粉砕するために必要なのは、「自主防衛」の名による日米軍同盟強化、自衛隊増強の危険実態を具体的に暴露するとともに、アメリカ帝国主義対日侵略主権侵略を許している日米安保条約のもとでは、一具の自主防衛はありえず、日米安保条約を廃棄し、日本の真の独立をかちとり主権回復してはじめて、ほんとうの意味で、日本自衛安全保障問題にすることができるという根本道理を、広範な国民あいだで明確にすることです。この意味では、日本主権侵害し、領土侵略しているアメリカ帝国主義日本から追いはらうことこそ、日本民族の正当な自衛権の発動なのです。

これにたいして、もしわれわれが成田氏らの主張のように、自民党の「自主防衛」論に反対しようとして、日本民族自衛権そのもの外国侵略から主権独立を守る権利のもの否認する立場にたつならば、それは、日米安保条約をなくす民族的な権利あいまいなものにするだけでなく、かえってわれわれの立場道理のないものにし、自民党が「自主防衛」論を欺まん的にふりまわして日米軍同盟強化の方針をおしすすめるのをたすけてやる結果になることは明白です。このことは、六八年の参議院選挙中、テレビラジオ政党討論会などで、自民党中立政策に打撃をあたえようとして、自衛問題無視している社会党の「非武装中立」論の弱点に攻撃を集中する作戦をとり、社会党がこれに明確な反撃をおこなえないできたことにも、はっきりとあらわれています。このように、社会党の「非武装中立」論は、自民党との対決という点でもかれらに乗じられる決定的な弱点をもっています

2023-01-21

松竹伸幸『シン・日本共産党宣言』の感想

専守防衛自衛隊合憲と認め、自公政権下でも、よりまし政府民主連合政府の段階でも自衛隊を存続させ活用するという提案には同意

綱領上の位置づけや憲法解釈問題についても納得できる整理がされている。

付け加えるなら、自衛隊の反国民的・反民主的部門廃止改革も取り上げたい。


一方、米帝評価核抑止抜き日米安保についてはなかなか難しい。

松竹氏は本書で「日本周辺で平和と安定の環境がつくられ、国民多数も他の野党も『アメリカ通常兵器にも頼る必要がなくなった』と考えるようになれば、『日米安保抜きの専守防衛』の段階に進む」と述べる。


しかし、次の疑問が出る。

安保条約がある下で「日本周辺で平和と安定の環境がつく」ることが可能なのか?すなわち、安保条約を廃棄してこそアジア平和環境をつくることができるのではないか

核抑止抜きの日米安保といっても結局は軍事同盟にほかならない。軍事同盟必要悪として認めるのか?暫定政権構想で日米安保一時的にタナ上げする、というのなら理解できるが。欧州左翼党グループNATOから離脱基本方針としているようだし、非同盟スローガンは掲げたいところ。

核抑止抜き日米安保になったとしても、中国北朝鮮在日米軍基地ミサイル標的にするのをやめないのではないか台湾有事の際に中国からミサイル攻撃を受けないようにするには在日米軍撤退してもらうしかないのではないか

④氏は在日米軍合憲位置付けていると思われる。憲法で許容される軍事力専守防衛必要必要最小限度ということであれば、在日米軍はその限度を超えていると思うのだが、そのあたりどう整理するのか?

⑤氏が核抜き安保を主張する理由は、それが今よりましだからなのか、それとも核抜きであってもやはり日米安保必要ものからなのか、どちらなのか?言い換えれば、自公改憲志向政権を打破して野党連立政権を目指すためのやむを得ない譲歩なのか、それとも、現在台湾情勢や中国情勢などから導きだされる必然的選択なのか?

⑥従来話法で端的に言えば、アメリカ帝国主義の侵略性にたいする過小評価にならないか


いずれにしろ、本書が提案する、安保防衛政策に関する全党員ブレーンストーミング必須だろう。


マスコミ報道では「党首公選」が大きくクローズアップされているが、それはあくまで党内における安保防衛政策(それ以外の政策も含めてもよいが)についてのブレストのための一手段と考えるべきだ。政策論争や基本路線論争なしの党首公選意味がないからだ。実際に党内討論が活発に行われているのであれば「党首公選」などしなくてよいのである党大会代議員による選挙でもよいくらいだ。


しかし、日本共産党は61年綱領確定後数十年にわたり党内で路線論争や政策論争をしてこなかったものから、党内討論のやり方・おさめ方が未経験で不慣れであり、中央中間指導機関積極的に討論する気風を醸成してこなかった。大会決議案はいつも大会3~4か月前に発表され、支部総会→地区会議都道府県会議大会という「全党討議」のプロセスを経るが、実際のところは「決議案を"学習"して"全面実践"しよう」という見出し赤旗に堂々と見られる程度の"全党討論"なのだ


この慣行を打破するには、「党首公選」というやり方が一番効き目があるのは確かである。末端の党員でも議論に参加しやすいからだ。たとえば「○○の政策を掲げている池内米沢投票したい」とか「私は、神谷坂井推し理由は△△だ」とか人物評をきっかけにして政策討論を起こしやすいし、投票という自分の行動を決めるものからその分討論も真剣になる。


なので、氏の提案する党首公選等にもおおむね同意だ。

ただ私見だが、党首公選実施するなら党員候補制の復活をお勧めする。入党して6か月間は党員候補党首公選選挙権はない、6か月ちゃん活動したら党員と認められ党首公選選挙権を持つことができる、という制度設計にしないと、党首選挙のためだけに一時的に入党する十条党員が増えてしまい、支部活動に支障をきたすからだ。

2022-03-21

ロシアウクライナ侵攻を正当化するロジックは、北朝鮮朝鮮戦争正当化するロジックと同じものである

https://anond.hatelabo.jp/20220321014214

これがロシアウクライナ侵攻前だったら、まーたネトウヨ妄想かよで済ましてたと思うんだが、

例の琉球新報の「ロシア悪魔視をやめよ」を書いた人が、一昨年の北朝鮮訪問について話した講演録を読んで、

ネトウヨ妄想にそのまま合致するような人が実在することに愕然としてる。

講演録「わたしの目で見た朝鮮 -日本植民地主義を問う-」

http://chikyuza.net/archives/113658

この講演録に二点ほど、筆者の乗松氏が今回ロシア擁護せざるを得ない伏線があった。

一つは核廃絶運動に参加しておきながら北朝鮮の核開発には一切触れない点、

もう一つは北朝鮮朝鮮戦争を「祖国解放戦争」と呼ぶことに何の疑問も抱かない点の二点だ。

この人は信じがたいことに、金日成日本帝国主義とアメリカ帝国主義を倒した英雄であるという100%フィクションを受け入れているのだ。

特に後者だが、朝鮮戦争はほぼソ連傀儡であった北朝鮮韓国に突然侵攻する形で始まったことは今では広く知られている。

朝鮮戦争祖国解放戦争だという見方は、

ロシアウクライナ侵攻を正当化している時に用いる、

分断されたスラヴ民族西側傀儡政権を倒すことで統一するというロジックと瓜二つだ。

もうとっくに滅びたと思っていた親北ユートピア左派がしっかり生き残っているだけでなく、

マスメディアにまで登場しているということ。

立憲民主党大臣経験のある政治家DS陰謀論に嵌っていることと併せて、大きな驚きだった。

2019-07-20

新左翼科学哲学好きな人に『三体』を全力でオススメする

おい、そこのお前!あさま山荘事件が大好きすぎてカップヌードル食う度に機動隊気持ちになっているお前!なおかつ伊勢×戸田戸田×伊勢かで議論したい相手がいないお前!お前だ!お前に向かって俺は今書いてる!

『三体』だ!『三体』を買って読め!せめてKindle無料サンプルは落とせ!BGMRHYMESTERのThe X-Day無限リピートだ!

よし、Kindle無料サンプルは読んだか?読んでないよな。面倒くさいもんな。あんくらいWeb上で読めるようにしといてほしいよな。まあいい、せめてSpotifyRHYMESTERのThe X-Dayリピート状態にして以下の文章を読め!

『三体』は最高だ!一般的なあらすじは「文革物理学者の父を失った娘が云々」などとぬかしているが、無料サンプルで読めるその描写が最高であることはまったく紹介されていない。引用するぞ。

 シュプレヒコールがおさまるのを待って壇上に立つ男の紅衛兵の片方が批判対象をふりかえって言った。

「葉哲泰、おまえは力学専門家だ。自分がどれほど大きな合力に抵抗しているか、わかっているだろう。そうやって頑なな態度をとり続ければ、命を落とすだけだぞ! きょうは、前回の大会のつづきだ。くだらない話はもういい。次の質問に真面目に答えろ。六二年度から六五年度の基礎科目に、おまえは独断相対性理論を入れたな?」

相対性理論物理学古典理論だ。基礎科目でとりあげないわけにはいかないだろう」と葉哲泰。

「嘘をつけ!」そばにいた女の紅衛兵のひとりが荒々しい声で叫んだ。「アインシュタイン反動的学術権威だ。欲が深く、倫理に欠ける。アメリカ帝国主義のために原子爆弾をつくった男だ! 革命を起こす科学を築くためには、相対性理論代表される資産階級理論の黒旗(反動象徴)を打倒しなければならない!」

(中略)

「葉哲泰、これは言い逃れできないはずよ! あなたは何度も学生反動的コペンハーゲン解釈を撒き散らした!」

「それが実験結果もっとも符合する解釈であることは厳然たる事実だ」これだけ厳しい攻撃さらされても、葉哲泰の口調は落ち着き払っていた。紹琳はそれに驚き、畏れを抱いた。

「この解釈は、外部の観察者によって波動関数の収縮が引き起こされるというもの。これもまた、反動的唯心論の表れであって、その中でも、じっさいもっと厚顔無恥表現よ!」

思想実験を導くべきか、それとも実験思想を導くべきか?」葉哲泰がたずねた。突然の反撃に、批判者たちは一瞬、言葉をなくした。

「正しいマルクス主義思想科学実験を導くのが当然だ!」男の紅衛兵のひとりが言った。

「それは、正しい思想が天から降ってきたと言うに等しい。真理は実験によって見出されるという原理否定し、マルクス主義思想がどのようにして自然界を理解するかという原則に反している」

 紹琳とふたり大学生紅衛兵は、無言で同意するほかなかった。中学生労働者出身紅衛兵とは違って、彼らは論理否定することができなかった。しかし、附属中学の若き闘士たち四人は、反動分子を確実に攻め落とすための革命手段を実行した。

最高かよ!!! 時はあさま山荘事件の数年前だが、アカの本場中国でも似たようなどうしようもないことが起こっていたのだ!引用最後の部分で作者がたくみカメラワークを用いて批判者側の「論理の欠如」を指摘しているのがまた光り輝いている。そうなのだ。この手の議論には論理というものがまったく存在しない。あるのは連想ゲームだけなのだ(「物理学者のお前は自分がどれほど大きな合力に~」「アインシュタイン核兵器帝国主義=敵」)。あさま山荘事件でもそうであった。無色のリップクリームを塗ったことと、彼女が死ななければならないということの間にまったく論理的な関係存在しない(そもそも何かと誰かが死ぬということの間に論理関係が成り立ちうるのかという問題は置いておくとして)。そこにあるのは、「革命」や「自己批判」といったマジックワードを挟んだアクロバティックな地滑り連想ゲームだけである

しかし、しかである。われわれはそうした連想ゲームに時として身を委ねてしまう。どころかしばしば喜んでその中に身を投じさえする。あさま山荘の彼らが目指した「革命戦士」という存在にどうしてもワクワクしてしまうのは、そこからこれまでわれわれが目にした「革命」や「戦士」についての輝かしい言説やビジュアルがまさしく連想ゲーム的に引きずり出される快感にわれわれが抗えないかである

ベネディクト・アンダーソン国民国家を『想像の共同体』と呼んだ」と言われるとき、たいていアンダーソンが主張したかたことは無視されている。アンダーソンはこうも書いている。「国民国家は『想像の共同体であるからこそ強いのだ」と。どういうことか。例えばご近所たちは想像の共同体ではない。そこに想像力が働く余地はないからだ。近くてよく見えるがゆえに嫌いなところがよく見えてしまう。しか国民国家想像の共同体であるから、そうしたデメリット回避することができる。逆の意味で、人類もまた想像の共同体ではない。そこにもまた想像力は働かない。あまりに大きな対象であるがゆえに、想像することができないかである(それを想像できるように「地球市民」とかいろいろなレトリックが開発されては頓挫した歴史があるわけだ)。つまり国民国家想像するのに小さすぎも大きすぎもしないがゆえに、人間の持つ最も偉大な能力想像力創造力を刺激する存在であるがゆえに、これほど大きな存在になり得たのだ。世界大戦を二度経験して、戦後エコやらなんちゃらがあってメイクアメリカグレートアゲインな今、人類人類想像力対象にすべきであると誰も[誰?]がわかっているはずであるが、そうした方法は未だ見つかっていない。めっちゃナウい想像力を持ってそうなイスラム国ですら国を名乗る時代である

そうした状況にある人類に対して、「地球市民」としての自覚想像力を持たせるために一番手っ取り早い方法は、宇宙人に攻めてきてもらうことである映画インディペンデンス・デイ』があれだけ面白いのは、その「俺たち感」を徹底して純粋ものとして描けているからだ(もちろん「俺たち」と書いたようにそこから女性排除されているのだが、それもまた「俺たち」の盛り上がりを純化させるように働いている)。しかし、この方法には大きな問題がある。それはわれわれの知る限り宇宙人が当分の間攻めてきそうにないという点である。したがって二番目の方法が取られることになる。それが科学教育である。ひとりの神様とか王様の下で人類みんなが仲良くするのは無理だとわかったので、次は科学様の下で人類全員集合しましょう、というわけだ。まあ、承知のようにこの方法にもいろいろ問題はあるのだが、他に良さそうな方法もないので多くの人々からのんべんだらりと支持されているといってよい。

科学の持つ大きな問題として真っ先に挙げられるのが、それが神様よりも信頼可能か?というものだ。科学教の信者はそうだとなんの疑問も持たずに答え、異教徒たちはおらが村の神様の方が偉いと主張する。そこを調停するのが科学哲学者の役割ひとつであったが、どっちつかずとして双方の陣営から攻撃されるため調停役に名乗りを上げる科学哲学者はほぼ絶滅している。

(注:ネタバレ防止のため人名固有名アルファベットに置換している)

「Aくん、きみは仕事範囲を逸脱しかけている」Bが首を振りながら言った。「研究理論的なものだけに絞るべきだ。こんなに手間をかける必要が本当にあるのか?」

「Bさん、この実験は、大きな発見につながる可能性があるんです」とAは懇願した。「実験絶対必要です、とにかく、一回だけやらせてください。おねがいします」

「B、一度だけやらせてみたらどうかな?」Cが言った。「オペレーションはそれほど大きな手間でもなさそうだし。送信後、エコーが帰ってくるのに要する時間は――」

「十分、十五分だろう」Bが言った。

「だったらXシステム送信モードから受信モードに切り替える時間もちょうどある」

 Bがまた首を振った。「技術的にもオペレーション的にも造作ないことはわかっている。しかし、C、きみはどうも……、この手のことには鈍感みたいだな。赤い太陽に向かって超強力な電波送信するんだぞ。こういう実験政治的にどう解釈されるか、考えてみたことは?」

AとCは、どちらも茫然としたが、Bの反対理由荒唐無稽だとは思わなかった。逆に、自分たちがその可能性を考えもしなかったことにぞっとしたのである

 この時代、すべてのもの政治的意味を見出す風潮は、不合理なレベルまで達していた。紅衛兵は、隊列を組んで歩く際は左折のみ許され、右折は禁止された。信号機は、赤が進めで、青が止まれでなければならないと提案されたこともある(周恩来首相却下されたが)。

(中略)

そういう風潮に鑑み、これまでAが研究報告を提出する際は、Bが必ず綿密な査読を行っていた。とくに、太陽に関する記述は、専門用語であっても、くりかえし吟味し、政治的危険がないように修正した。たとえば、“太陽黒点”という言葉使用が禁じられた。太陽に向かって強力な電波送信するという実験については、もちろん、千通りのポジティブ解釈可能だが、たったひとつネガティブ解釈がなされるだけで、関係者全員が政治的な災難に見舞われるにじゅうぶんだった。Bが実験要請を拒絶する理由は、たしか反駁のしようがなかった。

イアン・ハッキングがイヤンと言いそうなくらいむき出しの「科学社会的構成である!ここでも論理連想ゲームに膝を屈している。このことを中国特殊ものだと考えるのは科学教の信者である。似たようなことはどこの国でも多かれ少なかれ起こっている(また国家がくくりとして出てきてしまった!)。STAP細胞論理を飛び越えればどんなものまでが「発見」されてしまうるか、という好例であろう。それでも科学教の信者は言うだろう。「STAP細胞は誤りであることがわかった!これこそが科学勝利ではないか!」と。残念ながら科学はそんな単純なものではない。たとえばケプラー理論はそれ以前の理論よりシンプルでもなければ正確でもなかった。そのあたりのことはスティーブン・ワインバーグ『科学の発見』に詳しく書いてある。「それでもわれわれは今はケプラー理論が正しいということを知っている!これが科学進歩だ!」という主張は残念ながらワインバーグとは仲良くなれるが歴史学者から異端扱いされるだろう。このワインバーグの本は、「ノーベル賞物理学者科学歴史について論じたら歴史学者から攻撃を食らった」というそれじたいSFガジェットとして出てきそうなシロモノなのだが、けしてトンデモ本でなくワインバーグ確信犯的にその地雷を踏んでいる。非常に面白い本なので『三体』を読んだあとにはぜひこの本を読んでほしい。『三体』に出てくる宇宙物理学理解の助けにもなるし。

話がそれた。『三体』である。まあ、歴史学者から異端扱いされようが科学者は科学者でやっているのである。……本当に?「科学をする」とはどういうことか説明できるひとは今のところ地球上に存在しない。どころか説明できるひとが今後現れる可能性もまた科学哲学者によってほとんど否定されていると言ってよい。では科学者は何をやっているのか?われわれのような皮肉屋に言わせれば「教義精緻化とその確認作業」とでも言い捨てられるだろうが、『三体』はそこに真摯に向き合っている。どころか、その先までをも作品の中に織り込んでいる。ネタバレになるので詳しくは話せないが、科学を「打倒する」ことを本気で考えてみた人はいるだろうか?いないだろう。『三体』はそれを本気で考えている。誰がなんのためにそんなことをし、さらにそれに抗うには何をするべきかを描いている。そしてその描き方がまた最高なのである。作中、ある「組織」が出てくるのだが、それがまたなんとも、「アカい」のである。もちろんそれは最初引用で出てきたような無知蒙昧なアカさではない。連想ゲームではなく論理によって貫かれた「アカさ」というものがあるとしたら、こういうものだろうという迫力がある。

作中にこういうセリフがある。「中国では、どんなにすばらしい超越的な思想もぽとりと地に落ちてしまう。現実という重力場が強すぎるんだ」と。これはおそらく作者の嘆きでもあろう。その重力場から逃れるために、作者はこれを書いたのだと思う。中国現実の重みは、隣にいるわれわれも知るところだろう。この作品は、その中国現実の重みを、実に力強く脱出していると思う。それがこの文章で伝わったかどうかは甚だ心もとないが、一人でも多くの、未だ北田暁大先生Twitterの件に心の整理がつけられていない人々が、『三体』を手にとってくれるよう望む。

2018-11-19

無辜の人々など本当に存在したのでしょうか?」という問いは正しい

そりゃ、当時の大日本帝国にあっては、直接的に皇軍に加わりアジア諸国侵略したわけじゃなくとも、多かれ少なかれ悪事に加担はしていただろう。

工場勤務の青年は、他国侵略する兵器を作っていたかもしれない。銃後の婦女子であっても、息子や夫を戦地に送り出して侵略片棒を担いでいたかもしれない。軍人とは縁遠い教師が、軍国主義子供たちに吹き込んでいたかもしれない。

あるいは生まれたばかりの赤子であっても、その子に乳を含ませた母親は、植民地から収奪してきたコメを食べていたかもしれない。とすればその赤子の幸福もまた、植民地の人びとの血と汗の上に成り立っていたことになる。

この世界の片隅に』で主人公が泣き崩れるシーンを想起されたい。あのシーンは、自分たちの「平穏日常」が植民地から収奪の上に成り立った「暴力であると気づくシーンであり、主人公自覚していなかった「責任」を突きつけるシーンだった。

そういう意味で「無辜の人々など本当に存在したのでしょうか?」という問い自体は正しい。が、同時に、その問いを「この文脈で」持ち出すのは間違っている。

第一に。なるほどそういう意味で「責任」はあろう。だが、それは核の炎で焼かれても仕方ないほどの「罪」なのか。

ホロコースト計画・実行した連中だって、生きたまま焼かれはしなかった。ニュルンベルク裁判死刑宣告を受けた死刑囚たちは、どれだけ残虐なナチであろうと絞首台に吊るされる程度で済んだ。

それなのに、戦争犯罪侵略命令したわけでも実行したわけでもない、せいぜい「喝采を叫んだ」「止めなかった」「のうのうと暮らしていた」程度の人たちが、あんな殺され方をしていいのか。

罪には軽重というものがあり、罰はそれに応じたものであるべきだろう。

被抑圧者の膏血を絞って暮らしいたことに対して、下の世代から糾弾され反省を迫られる程度のことは受け入れるべきだ。でも、原爆で焼き殺されてもいいなんてとても思えない。

第二に。その論理敷衍していくとヘイト野郎テロリストどもにお墨付きを与える結果になるだろうが、それでもいいのか。

たとえば現在中華人民共和国による少数民族への迫害に、中国人民は責任を負っている。外国観光旅行に出かけるような都市部の裕福な人びとの暮らしを支える資源の一部はチベットから収奪してきたものだし、彼らの享受するテクノロジー新疆ウイグル人監視することによって発展してきた側面もあるし、彼らの抱くチベット人やウイグル人への偏見政府による民族弾圧を側面からアシストしている。

では、彼らには迫害弾圧への責任があるから秋葉原で楽しく観光しようとしたときヘイトスピーチを浴びても仕方ないと、暴力的なデモによって威圧されても仕方ないと、そういえるのだろうか。あるいは、だからテロで殺されても仕方ないといえるのだろうか。

アメリカは悪の帝国から、その経済的中枢にあるニューヨークの人びとがビルに突っ込んだ飛行機に殺されても正当性があることになるのか。イスラエルパレスチナ侵略しているから、イスラエル空港で銃を乱射して民間人虐殺しても正しいといえるのか。

世界貿易センタービルにいた人びとは、アメリカ帝国主義による他国への侵略経済的収奪責任の一端を負っていた。ロッド国際空港にいたイスラエル市民は、イスラエル植民地主義に加担していた。だから彼らは崩れ落ちるビルに巻き込まれても仕方なかったのか。だから彼らは自動小銃で撃ち殺されても仕方なかったのか。

無辜の人々など存在しない。現に私たちは今も外国技能実習生の汗と涙で育った安いレタスを食べ、ブラック企業にすり潰された人々の血で染まったシャツを着て、過疎地押し付け発電所から電気供給されて暮らしている。現代日本で豊かな生活を送る私たちには責任がある。だがそれは、私たちが惨たらしく殺されてもよいことを、決して意味しはしないのだ。

2009-10-05

http://anond.hatelabo.jp/20090927182900

Twitterはてブは印象を投影するには便利なメディアだけど、議論するには不向きだから仕方ない。

百数十文字では説明し切れないことなんか世の中いくらでもある。現実世界は善悪二元論みたいなシンプルなものではないからだ。

特にTwitterは同じテーマに対して複数投稿できるため一見長文の議論も可能なように思えるものの、標準的なインタフェースではつぶやき間の相互関係を判断することは非常に難しく、単一のつぶやきで完結していない発言はその可読解性は著しく低くなるのが現実だ。

例を挙げてみよう。

写真の空に星がない、真空なのに旗がはためく、影の方向がバラバラ、背中にワイヤーが見える、岩に大道具の証拠の文字がある、月の石は地球の石と同じだなど、アポロの月着陸が捏造だったことを示す証拠は山ほどある。工作員が月に行った証拠を何一つ出せないのが何よりの証拠。」(140文字)

今でこそアポロ捏造説はFAQとして整備され、そこへのポインタを示せば大体おわる話だが、同程度の難易度の新規の問題だとしてみよう。この発言に対する反論を、この陰謀論者本人は別として、大多数に納得できる形で提示することができるだろうか。

blogなら相手の言う「証拠」をひとつひとつ検証して、ソースとなるURLを複数出して、必要なら図で説明して、客観的に納得できるレベルのものを提示できる。だがTwitterはてブではこれは不可能といっていい。

諸兄はアポロ陰謀説ならまだアメリカ帝国主義者(?)が恥をかくだけで済むから無視すれば良いと言うかもしれないが、では個人攻撃をしてくる輩がいたらどうすればよいのか。(炎上するから無視しろというのは一見識だがここではおいといて。)blogの真面目な文章に対してはてブTwitterレッテル貼って一方的に決めつけた内容で個人の人格まで攻撃してくる輩なんか掃いて捨てるほどいる。印象で攻撃するなら短い文章で楽勝だが、真面目に客観的に反論すればするほど文章は長くならざるを得ない。それを常に140文字で反論し釈明し誤解をとかねばならないとか言うのであればあまりに一方的だ。

むしろ、短いつぶやきでなんでも解決できるなんて世界を過剰に簡単に考えてたり、一方的で野放図なつぶやきを不可侵で免罪されたものにしようとしたりする言論統制的な発想のほうが問題あるんじゃないか。

 
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